法輪


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冥想会などで唱える礼拝・三帰依・慈悲の冥想について

皆さまが冥想会や講演会に参加されると、冥想や講演が始まる前に、先ず講師の方と一緒にパーリ語で、「仏陀を礼拝いたします」という意の礼拝、「仏陀・仏陀の教え(真理)・仏陀の道を伝える者である僧(僧団)、の“三つの宝”に帰依いたします」という意の三帰依と、日本語で、慈悲の心を育む慈悲の冥想を唱えます。初めて参加される方々の中には、何となく抵抗感があったり、多少の戸惑いがある方もいらっしゃるかも知れません。なぜ、このような礼拝・三帰依・慈悲の冥想を唱えるのでしょうか。スマナサーラ長老は、講演の中で以下のように説明されています。
協会の今年のスローガンです。
「こころを清らかにする人が幸せである。」
私たちは、アルボムッレ・スマナサーラ長老のご指導の下、釈迦牟尼仏陀の教えを社会に伝え広め、法を学び、修行できる環境を提供することを目的に活動しています。
自主冥想会:TEL:090-6331-1934 MAIL:takesumi9696@ezweb.ne.jp(森山)
① サークル運営手伝い
② 録音---作業内容---自分の録音機で録音----担当者に渡す。
可能かどうか内容確認でもいいので、お問い合わせください。
サジ宛にメールください。 sajipura@lake.ocn.ne.jp
よろしくお願いします。
#jtba【新年ご挨拶】<2018年>明けましておめでとうございます。今年もお釈迦さまの教えのもと、皆様にとって心明るく健康で、幸福な年となりますように!
Namo Tassa Bhagavato Arahato Sammā Sambuddhassa.
阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼したてまつる。
「日々是好日」経(Bhaddekaratta sutta)
過去を追いゆくことなく また未来を願いゆくことなし
過去はすでに過ぎ去りしもの 未来は未だ来ぬものゆえに
現に存在している現象を その場その場で観察し
揺らぐことなく動じることなく 智者はそを修するがよい
今日こそ努め励むべきなり 誰が明日の死を知ろう
されば死の大軍に 我ら煩うことなし
昼夜怠ることなく かように住み、励む
こはまさに「日々是好日」と 寂静者なる牟尼は説く
▼祈願文
苦しんで悩む生命が苦しみなく
恐れて悩む生命が恐れなく
悲しんで悩む生命が悲しみなく
一切の生命が安穏でありますように
三宝(仏法僧)の祝福がありますように!
あまねく一切の衆生が福徳に満たされますように
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会のfbより紹介です。
癌の宣告を受けた - ととろたん

何で私がという気持ちは全くありません。60歳を過ぎたら、いつ癌を宣告されても不思議ではないと常に心にありました。だから診断されたときも、そんなに驚くこともなく、冷静に受け止めました。毎日、10分~15分くらいですが、瞑想をしています。欲(煩悩)を捨てるほど、気持ちは楽になると思っています。
今後、制癌剤を使った、多分つらい治療が始まります。今後、どのような気持ちを維持すればよいのでしょうか。 私は定年後なので、子供はもう大人ですので、その点は扶養しなけらばならないという心配がないのが救いです。妻も年金と私の残した預金で何とか生きていけるだろうと思っています。
私は生きたいという気持ちは強く持つべきでしょうか? 欲を捨てる方が気持ちが平静であるような気もします。スマナサーラ長老、どういう姿勢で過ごすべきか教えて下さい。
以下、スマナサーラ長老の回答を代理投稿します。
******************
肉体が病気に罹るか罹らないかは、真剣に考える必要はありません。すべての細胞に「病」という本質があるのです。それが無ければ、細胞は壊れることも、代わりに新たな細胞が生まれることも無いのです。「生・老・病・死」は細胞の本性です。その三つの働きが正常であるならば、一般人は悩むことはしません。生老病死の機能は、頻繁に故障して乱れることもあります。俗に癌という病気は、生老病死の生が乱れている、ということになります。正常に戻すことができればよいのですが、それほど簡単なことでもありません。生老病死の一つが異常になると、その影響は残りの三つにも入ります。肉体に執着している人間が病に罹ったら、必死になって治療しますが、これは決して勝てないモグラたたきのゲームのようなものです。
人間は細胞組織のために苦労を惜しまず生きるべきではないと思います。人間が解決するべき課題は、執着を捨てることです。執着を捨てることに成功すれば、解脱に達します。ですから、生きたいという気持ちを強く持つということは、正しいアプローチではありません。生きるか、生きられるか、死ぬか、などは我々の管轄外の問題です。細胞たちは本質である生老病死の流れで変化して、自分勝手に壊れて死を迎えるでしょう。正しいアプローチは、細胞たちは自分勝手な行動をするので、自分はこころを清らかにする、人格を向上するプログラムを実行することです。
現代人は、癌を発見するとひどく落ち込みます。癌に治療方法はないにも関わらず、ありとあらゆる手を打ちます。初期の癌なら攻撃して壊すことはできますが、年齢によって治療が間に合わない場合もあります。不自然な出来事が起きたわけでも、あってはならないことが起きたわけでもありません。生老病死を本質にしている細胞組織に、期待を抱いた私たちのアプローチが間違っていたのです。
これから正しいアプローチを説明します。「身体が病で壊れても、こころを健康に保つ」という理論で行います。癌に対する治療は、医者に任せてあげてください。自分自身で責任を持つ必要はありません。治療中は医者のアドバイスも看護師のアドバイスもよく聞いて、わがままな振舞いをやめます。医者と看護師たちは、肉体という機械のメンテナンスをするプロであると理解する。そのプロたちに、こころのメンテナンスはできないので、それは自分でやる。人の努力は成功したり失敗したりします。希望通りにならないこともあります。それは肉体のメンテナンスの場合も、こころのメンテナンスの場合も同じ現実なので、落ち着いて精進しましょう。必ず成功しなくてはいけない、という人間のすごい執着心から生まれる、妄想概念にとらわれないようにしましょう。
「肉体は自分のものではない」という観察を実行しましょう。身体に起こるさまざまな感覚、さまざまな変化、変動する体調などを言葉で確認することにしましょう。「私に痛みがある」というのは、間違った観察です。「この肉体に、いま痛みが起きている」というのが、正しい観察です。体力があるうち、歩く冥想を実践する。坐る冥想の実践もやったほうがよいと思います。10分、20分程度では、足らないかもしれません。時間を徐々に伸ばすか、回数を増やすか、どちらかにしなくてはいけないのです。身体の調子が悪化して、ベッドで過ごすことになったとしても、実践はやめるべきではありません。その時も、「この肉体は、私のものではありません。私の希望どおりに動くものでもありません。私に幸福を与えるものでもありません。悩み苦しみを経験させる機械なのです。身体は瞬間瞬間、変化してゆく。感覚も瞬間瞬間変化してゆく。どんどん楽になる流れではなく、どんどん悪化して、死で終わる流れなのです。」このようなアプローチで、身体の変化を言葉で確認する作業を行ってほしいのです。このプログラムは、誰でも必ず迎える死が起こる前に、解脱に達する方法です。
身体とこころを観察するヴィパッサナー実践がうまくできない時もあります。その時は、こころを慈悲の気持ちで満たすように、慈悲の実践を行ってみてください。ヴィパッサナー冥想とは、形式的な冥想ではありません。身体の変化と感覚の変化を観察するプログラムが、ヴィパッサナーです。「病気に罹ったおかげで、真理を発見して、真理に達することができました」と、歓喜することができるようになると思います。
三宝のご加護がありますように。
スマナサーラ
****************2017年05月25日 (木) 22時12分 No.3712
協会のホームページからの紹介です。
(8)仏教と仏教の違い
私たちはいま現在二十世紀の最後の部分を生きているわけですが、考えてみるとこれは実は大変な時代なのです。というのも、十年前、いや五年前にく らべても情報網の驚異的な発展でいまはニューメディアと呼ばれる時代で、世界中の情報が一瞬のうちに入ってきて、まるでそれは地球上の排泄物がぜんぶ流れ こんでくるような様相を呈している有り様です。さまざまな情報がお茶の間で手にとるように分かることは一見大変便利で、いい時代のように錯覚しますが、実 は情報公害とでも言えばいいのか、私たち人間には入ってくる情報のどれが正しくてどれが間違っているものなのかの判断がなかなかつかないで困っているとい う事態もまた多く出てきているのです。
特に日本はマスコミが非常に発達していますから、世界中の出来事がリアルタイムにテレビなどで報道されます。ニュースや事件ならまだありがたいの ですが、例えば、今は心の時代だからとかなんとか理屈をつけて、チベットの山のなかで修行僧を映し出しては、これが密教であるとやられる。違うチャンネル では、中国の深山幽谷で悟りを開いたとかいう僧を紹介して真の仏教はこれだなどと特集番組を組む。見せられる人たちはもちろん専門家ではないので、一知半 解な頭のなかへ次々といろいろな情報が詰めこまれ、いったいどれが本当なのか、どれを信じていいのか、自分だけの判断では情報の交通整理が出来なくなって しまうのです。物はあるけれど、いったいその物の実体は何なのか分からなくなってしまい、極端に言えば頭のなかはパニック状態なのです。
いちばん大切なことは、我々は何を信じて、どう生きるべきかということであり、何のために生きるのかの回答を得るために情報を求めているのに、こ れではますます混乱してしまいます。しかも、間違った選択によって社会問題までひき起こす結果も生まれてきてさえいるのですから、こうなると我々はマスコ ミのおもちゃという由々しき立場に追いやられているということもできるでしょう。これからの我々は、何とかして情報を自分で判断する能力を身につけなけれ ば、目の前に来ている二十一世紀を生き抜くことが出来ないのではないかとさえ思います。ただ発展していくことを凄いと思うのではなくて、情報過多の時代性 に危険を感じるべきなのです。
なぜこういうことを申し上げたかというと、仏教とブッダの教えに対してもいまこの日本で、また世界のあちらこちらで、さまざまな情報が飛びかい、 これから謙虚にブッダの教えを学ぼうとしている多くの人々の頭を混乱させているからに他なりません。正しい仏教とは-、正しいブッダの教えとは-、情報過 多が真実を歪めている現状のなかで、私たちが心して正しい道へと嚮導していかなくてはいけないとしみじみその責任の重要さを思うのです。
どんな宗教もそうでしょうが、もし仏教を信仰してその教えを実践しているならば、どういう方法が自分にふさわしいのかを判断するということは極めて大切なことです。
まず、仏教は釈迦牟尼仏陀が説いた教えであるということです。当たり前のことのように思われるかもしれませんがこれが基本です。そして、仏教には この釈迦尊の教えと世の中で仏教と呼んでいる二つに分けて定義するべきです。なぜ二つに分けるのでしょう。それはこの世の中のいろいろな場所で信仰されて いる仏教をみると、あきらかに釈迦尊の教えとは思われない、つまりそれぞれのリーダーと目される人が自分なりの解釈や編集や訂正を加えて、独自の宗教とし て作っている。
それを私はべつに悪いことであるとは思いませんが、リーダーが作ったその宗教を信奉する現代人は自分に情報処理能力がない故にそれもまた仏教であると信じ こんでいる、これは違うと知るべきだと思うのです。先程仏教は釈迦尊の説いた教えという認識が基本であると言いましたが、この基本の情報さえきちんと認識 していれば、どんな宗教を信仰したとしても、つねにこの基本を判断のメルクマール(物差し)としていれば、判断を誤ることは決してないのです。自分の信仰 している仏教団体の根本真理はすぐ分かるでしょうから、それに釈迦尊の教えを照らしあわせてみる。釈迦尊の教えを知っている人であれば、仏教に似ている教 えを見抜く目は必ずあるはずです。また、他の宗教であろうとも、釈迦尊の教えを知っていれば、その宗教が自分にとってどういう必要があるかどうかを判断す る恰好の目安になるはずです。そういう意味においても、正しい情報処理能力というものが現代人にとって必要不可欠であるかとがお分かりでしょう。
とくに現代は、精神世界への勧誘が一種のブームになっているようですが、精神世界を追い求めていくと、たいていは超能力という世界に魅せられて いってしまうのです。超能力の世界は一歩間違うとそれこそ取り返しのつかない大変危険な状態になる可能性がありますから、その意味から言ってもきちんと何 でも区別して判断できる能力を身につけなければなりません。そこで、ブッダの教えを考えてほしいのです。遠い昔にこの世に現れたブッダが何を教えたかった のか、この根本的な、かつ最重要の問題にいまの仏教はきちんと答えていないのです。
2500年以上経っていても、もし暇のある方が丁寧に釈迦尊の語った言葉を忠実に写し取ったとしてそれを読むとしたら恐らく光輝く現代的な鼓動が 聞こえてくるに違いありません。釈迦尊は、堅苦しいルールなど一切言ってはいません。葬式はこうせよとか、祈り方の方法とか、法要の必要などそんな信仰の システムなど全くの無視です。もしそういうことが釈迦尊の教えの根本と考えている人がいたらそこからもう間違っています。そういうシステムは、後世の宗教 関係者が勝手に作ったものです。釈迦尊の教えは、まさに自由そのものでした。だれでも自由に勉強したり、批判したり較べたり、何でも出来なければならない というのが釈迦尊の考え方の基本になっているのです。
釈迦尊はこう仰言られる。「自分の話していることは決して時代に左右されるものではない。時代によって古くはならない、普遍的な教えである」どんな時代を迎えようと、どんな人間であろうともいつでもだれにでも理解が出来、実践できる教えであることを強調されるのです。
どういうことか、もう少し詳しく考えてみましょう。釈迦尊は、自分はただ真理を語っているだけだと言っているのです。真理そのものはだれが語って も、いつの時代でも変わるはずがないというものです。真理を語る場合、また真理を知る場合に絶対的な法則が出てきます。例えば、ある宗教団体が「我々の宗 教団体に人らなければ尊い教えを得ることは出来ませんよ」と言ったとしましょう。しかし、真理が絶対である以上、そんな制限はニセものであるということに なります。なぜならば、科学上の真理が人の目から隠すことが出来ないように、仏教の真理、というか人間の心の真理もまた隠すことは不可能なのです。真理 は、だれがどんな角度でどんな立場から見ても必ず一つ見つかるはずです。ですから、真理の前には何の怖がることも、恐れることもないのです。A なるひとが見いだした真理と、B な る人間が掴んだ真理とが違ったり、矛盾があってはそれは真理とは言えないのです。ですから、自分のところの宗教の教える真理は他の宗教とは違うのだという のでは、信仰する側は困ってしまうわけです。しかも、批判も、比較もすべて自由である! こんなことをいう仏教が現在あるでしょうか。どこの宗教をとって も、「どうぞ私のところの宗教を勉強して思う存分批判してください。哲学や倫理学、道徳などともどうぞ比較して検分してください」などと言う宗教が存在し ますか? どちらかと言えば、現代の宗教というと入信した信者だけを優遇する秘密主義的なところがあり、そういう意味では閉鎖的で、宗教本来の存在理由か ら離反していると言わねばなりますまい。
仏教の有名な言葉に、Ehipassikaという表現があります。「来てください、見てください、自由に」と いった意味で、束縛をしないということですね。いまの宗教は、信者として束縛をしているでしょう。私のところの宗教はこういうことをしなければいけないと か、こういうことは絶対にやってはいけないとか、いろいろな制約を設定していますね。その代償? として、幸せな生き方が出来ます、みんなが仲良く生きら れます、心の安寧と平安が得られます、というのはまだいいとしても、果ては病気が治りますか、お金持ちになれますとか、もっともっと偉い人間になれますな どという個人の利益をちらつかせ、また信者のほうも仏教を信奉すれば、そういう自分の人生における得(徳ではなく)が身につくと、誤った情報によって踊ら されているというところが現状でしょう。こういうのはまともではないということを、釈迦尊は言われているのです。真理を知りたければ、まず自分でものごと の真贋を見抜き、解釈し、判断できる能力をもったまともな人間になることである、と。
とくにここで私が言いたいことは、もし釈迦尊の教えを仏教と定義するなら、日本をはじめ中国などで仏教と呼んでいるものは仏教でないということで す。最澄の興した天台宗、空海の真言宗、法然の説く浄土宗、親鸞の説く浄土真宗、日蓮の説いた日蓮宗など、ふつうのひとはみんなこれを仏教と思っています がそれはとんでもない大間違いだということです。これは当時の新興宗教であって、分かりやすく言えば最澄宗、空海宗、法然宗、親鸞宗、と解釈すべきなので す。仏教は読んで字の如くブッダの教えです。釈迦以外にはだれも説けない教えなのです。マスコミもこういう正しい情報は提供してくれません。しかも、現代 ではすべてが受け売り文化です。自分で勉強しなくても、わざわざ修行など苦しい思いをしなくともチャンネルをひねれば情報が飛び込んでくる時代です。この 受け身の文化が実は、ものごとの本質を見抜くことを出来なくする元凶だったのです。
釈迦尊の言われる、まともな人間であるためのもっとも大切なことは、この体験ということなのです。真理を知りたければ、釈迦尊の説かれることを自 ら実践する以外方法がないのです。釈迦尊の教えは、頭で聞くだけの観念的な教えではないのです。実践して自分で、「ああ、そういうことなのか。なるほど、 よく分かった」と実感できるものこそ真理であるというのです。しかも、真理は時代の変化に動かされることもないし、人間の違いによって左右されるものでも ない、絶対のものであるからこそ、2500年以上経過した今でも、だれもが釈迦尊の教えを不変なものとして学ぶことができるのです。ですからあなたもぜひ 釈迦尊の教えをご自分の体験として確認してほしいのです。あなた自身がまともな人間であるためにも。
(スマナサーラ師講演録から構成しました)
協会のホームページからの紹介です。
パティパダー連載 『根本仏教講義』 A.スマナサーラ述 | |
1.釈尊の根本的教え | |
(1)四聖諦 | (2)四聖諦(続き) |
(3)八正道 | (4)心のカウンセリング |
(5)慈悲喜捨の冥想 | (6)冥想法の基本 |
(7)真理を知る慈と愛の心 | (8)仏教と仏教の違い |
(9)心はこんなに汚れている | ― |
東海ダンマサークルも発会から8年が経ちました。また、諸先輩たちの助言を得て数々の行事開催を実施することができました。これも、長老のご指導や皆様との善き仏縁があってこそのことです。
この稀な仏縁のもと、この地域の皆様が仏道を成就させるための場として、また、どなたでも自由に参加できる場としてあるようにと、日々努力していく所存です。
それには、いくつかの提案があります。この地域では、関東や関西に及ぶほどの仏縁を希求する人々が多くいるにもかかわらず拠点となる場がないこと。また、最近は、活動が停滞気味という雰囲気も感じざるをえない状況であること。それは、新しい人の参加や定着が以前ほど活発でないということでもあります。
これらの提案を踏まえ、下記の要領でお話を聞かせていただく機会を設けたいと思います。初めて参加される方も大歓迎で、今までは参加したいけど、恥ずかしさや億劫で参加できなかった方も遠慮することなく参加ください。個性的なご意見で構いません。忌憚ないご意見を話す場としたいと思います。
記
議題
1. 東海ダンマサークルの今後の活動全般について
2. ・・先生講師のダンマ勉強会開催について
3. 東海DC10年目(2017年)を機に行う行事計画について
日時
11月1日(日)10:00 開場
10:30~12:00
(この後、13:30~名古屋初期仏教デー)
場所
日本ガイシフォーラム和室
以上。多くの方の参加をお待ちしております。
東海ダンマサークル
日本テーラワーダ仏教協会の 一部 紹介です。
- スマナサーラ長老
- Patipada(道)巻頭法話
- パーリ仏典を読む
- ジャータカ 仏教社会学
- 根本仏教講義
- ブッダの智慧で答えます(Q&A)
- Dhammabooks
施本文庫(PDF)
- Dhammacast
法話音声配信(Podcast)
- Dhammastream
法話動画配信(Ustream)
日本テーラワーダ仏教協会の 一部 紹介です。
- はじめにお読み下さい
- 三宝への礼拝のことば
音声ファイルあり
- パー リ語日常読誦経典
音声ファイルあり
- 慈悲(いつくしみ)の冥想
音声ファイルあり
- ヴィパッサナー瞑想
- 心を育てるキーワード
- 初期仏教研究(翻訳と学習資料)
名古屋初期仏教デー
15:30前後-------休憩15分程度
15:45-----------初心者冥想指導<途中休憩無し>
各自冥想実践
19:00
~19:30----------後半経典読誦(7ページ)+
祝福のお経授受
終了予定 (都合によります)。
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協会のfbより紹介です。
ダンマサークル活動のガイドライン(概要版)
仏紀2558年(西暦2014年)12月26日 掲載
ダンマサークル活動のガイドラインの発行にあたって
宗教法人日本テーラワーダ仏教協会は、釈迦牟尼仏陀の教えを社会に伝え広め、法を学び、修行できる環境を提供することを目的とする団体です。
そしてその活動は、お坊様方の法話や冥想指導会などにおいて会場でご喜捨いただくお布施と、当協会へ直接いただくお布施などにより賄われています。
協会で行う、“法話と冥想実践会”・“講演会”・“合宿”などの企画運営から、機関誌パティパダーの制作に至るまで、その活動は多くのボランティアの皆様に支えられています。
また、各地方で開催されているダンマサークルもその一環であり、主催者の皆様のご協力によって成り立っており、未だお釈迦様の教えが届いていない地域への布教活動の礎となっています。
活動が盛んになる一方で、ダンマサークルの運営方法がわからない、講師を呼んで講演会をしたいが適切な選出方法がわからない、主催者だけでは大きな講演会を実行するだけの資金が賄えない等、様々なご質問を協会事務局へお寄せいただくようになりました。
そ こで今回、ダンマサークル活動の円滑・活発な運営が行えるよう、「ダンマサークル活動のガイドライン」としてまとめました。この中では、ダンマサークルの 運営、講演会の実施、お釈迦様の本来の教えを教えていただくことのできる講師の選び方などについて、現在の当協会の考え方を盛り込みました。
ダンマサークル活動のガイドライン発行にあたり、その内容の概要をご紹介させていただきます。今後ダンマサークル活動を行いたいという皆さんはご参考にしていただければと存じます。なお、詳細な内容は事務局にお問い合わせください。
お互いを慈しむ心を育て、仏道の実践、布教活動を行っていけるよう、一緒に協力して参りましょう。
(宗)日本テーラワーダ仏教協会
■■■ ダンマサークル活動のガイドライン(概要版) ■■■
1. ダンマサークルの定義
・ダンマサークルは宗教法人日本テーラワーダ仏教協会の会員有志を中心とした自主的な仏教サークル活動です。
2. ダンマサークルの運営と担当者について
・ダンマサークルの担当者(世話人、会計、協会機関誌へのスケジュール情報連絡担当、月次活動報告担当など)は、協会の現役会員が担当することとします。
・ダンマサークルの運営は各々のダンマサークルで担当者が主体となり行います。
・ダンマサークルの開催にあたり、勉強方法や資料、イベントの開催など不明な点やアドバイスの必要がございましたら、随時協会事務局にご相談ください。
・ダンマサークルの運営に関する会議を開く場合は、必ず2/3以上の参加者が協会の現役会員となるように調整してください。
3. 活動報告
・毎月の活動報告を必ず行うようお願いいたします。
4. 法話と冥想実践会、講演会、合宿などの開催について
・ 各ダンマサークルで講師を招いての“法話と冥想実践会”・“講演会”・“合宿”などを企画する場合は事前に協会事務局へご連絡ください。
・講師を招かない小規模な勉強会や冥想会は各ダンマサークルで適宜行ってください。
5. 講師について
・各ダンマサークルで講師を招いての勉強会などを企画する場合、日本テーラワーダ仏教協会より講師派遣や講師紹介をすることができます。ぜひお問い合わせください。
・各地のダンマサークルが独自にゲスト講師(テーラワーダの出家者、在家の研究者等)を招いて勉強会などを行う場合は、講師候補のプロフィールを添えて協会事務局に届け出てください。
・ 日本テーラワーダ仏教協会では冥想実践をされる皆様に、協会の長老方が指導されているヴィパッサナー実践を推奨しています。協会会員を中心とした活動であ ることに鑑み、その他のさまざまな冥想法を紹介する講師の冥想指導の会をダンマサークルで主催することはお控えください。
以上
協会のfbより紹介です。
●パティパダー巻頭法話 No.215 (2013年01月)
「優勝を決める方法」~世論と仏教の対立~What is best?
http://www.j-theravada.net/howa/howa215.html
photo:岸良一郎
▼法話抜粋
すべての与える行為に勝つ、「与え」は何なのか? 答える前に、与えるとはどういうことかと理解しなくてはいけないのです。二種類あります。①何かの見 返りを期待して与えること、②見返りを期待しないで与えること、です。見返りを期待する場合は、互いに得するのです。与えるものより、よりたくさんのもの を見返りとして頂いた場合は、「勝ち」だと見えることでしょう。見返りが少ない場合は、損したことに、負けたことになったように感じるでしょう。僅かなも のを与えて無数のものを見返りとして頂けるならば、「与えて勝った」と言えるかもしれませんが、このような行為は、与える行為だと言えないのです。悪徳商 法に似ているのです。
問題になるのは、見返りを期待せず与える二番目の行為です。見返りを期待しないかもしれませんが、結果を期待するのです。学費を払うことができず、教育 を受けられない若者に、学費を援助したとしましょう。その若者は与える側に何もあげなくても結構です。しかし与える側が「よく勉強してほしい」という結果 を期待しているのです。
貧困に陥っている国々の子供たちが、飢えや伝染病などで死んでゆくのです。さまざまな組織が援助活動をしているのです。その子供たちから何の見返りも期 待していないのです。しかし、健康でふつうの子供たちと同じく成長して生きてほしい、という結果を期待するのです。ですから、見返りと結果は、同じもので はありません。
見返りだけではなく、結果も期待しないで与えたほうが優れているのではないかと思ってしまう可能性もあります。しかしこれは成り立ちません。臨死状態に いる人に高価なスケート靴をあげても、結果が無いのは当然でしょう。しかしそれは、何か与えたことになるのでしょうか。 目が見えない人には、美しい絵を プレゼントするより、音楽のCDアルバムをプレゼントしたほうがよいのです。ですから与える時は、結果を期待して与えるべきなのです。それこそが与える行 為になるのです。
期待する結果から考えると、どんな「与え」が優れているのかと分からなくなります。脱水状態で命も危険に晒されている人には、水分を与えるべきです。そ の人の命は助かります。しかしそれで、最高の「与え」をしたのだ、ということはできないのです。それからもその人に、さまざまなものが必要になっていくの です。「すべての与えに勝つ与え」とは何かと、ほんとうに分かりにくいのです。
貧困の人々に金・衣服・食料・薬などを与えるのは、よいことです。その中でも、死にかけている人を助けることには、より価値があると思えます。その場合 も、死にかかっている原因によって、与えることの内容が変わります。病気で死にかかっている場合は、治療を施さなくてはいけないのです。その施しは、専門 家にしかできないのです。命を与えることは、他の与えることに勝ちますと、仮に設定しても、疑問が生じます。それは皆にいつでもできる行為ではないので す。偶然、そのチャンスに遭遇するだけです。
それから、「命を与える」ということは、成り立たないのです。いくら命を助けてあげても、生命は必ず死ぬのです。人にできることは、命を与えることでは なく、命を支えてあげることなのです。命を与えることは、母にさえできません。母という存在は、子供を産んで、必死で命がけで育てるのです。母が子に与え るものは、数えられないほどなのです。母も見返りを期待してないのですが、結果を期待しているのです。人が世の中から多大な恵みを頂いて、幸福に生きてい られると言ったとしましょう。しかしその人が母から頂いたものは、何よりも最大なのです。
さまざまな与えのなかで、母が子に与えるものは最大になりますが、それがすべての与えに勝つ与えだとは言えないのです。それは母と子の関係だけに限られ ます。母にならない人々に、その与えは不可能です。母と子の関係は、一般的に「いのちを与える」という言葉で表現します。しかし、母に命を与えることはで きません。母は子の命を支えるだけです。
生命のいのちは脆いものです。少々の失敗で死んでしまうのです。頑丈ないのちは誰にもありません。どんな生命も、支えられて生きているのです。生命はま わりからいのちを支えて頂いているので、「施し」を頂いていない生命は存在しないのです。「与える・いただく」という関係は、いのちをつなぐために欠かせ ないものです。いのちを支えてもらうために、無数の「与え」を頂いているのです。しかしその中で、どんな与えが他の与えに勝ちますかと問うてみると、答え が成り立たないことは明確です。
この問いは、正覚者の管轄なのです。お釈迦さまはいたって簡単に答えるのです。「Sabbadânam dhammadânam jinâti 法を与えること(法施)はすべての施しに勝ちます」このフレーズだけでは、深い意味は分からないと思います。
法とは真理のことです。真理とは「生きるとは何か」と理解することです。生きることを精密に分析してみると、苦であると分かります。いのちを支えること 自体が、苦を支えることになります。いのちをあげる、ということは成り立ちません。生命は無明と渇愛という原因で、輪廻転生するのです。輪廻転生させるエ ネルギーは、業というのです。業とは、行為とその行為によって現れる結果なのです。ですから生命は、「自分は生きているのであって、生かされているのでは ない」というべきなのです。自分は生きているのですが、支えがないと生きていられないのです。
生きることを支えるのは、結局は苦を支えることです。ひとのことを心配するものなら、最大の価値あるものを与えたいと思うならば、輪廻を脱出する方法・ 苦を乗り越える方法を教えてあげるべきです。したがって、法施より優れた「与え」は無いのです。この答えは、真理を知り尽くした、苦しみを脱出した正覚者 にしか分からないのです。仏教の世界では、法施はもっとも優れた施しだとよく言われてますが、それは自分たちで発見して言うのではなく、お釈迦さまが説か れた真理を受け売りしているだけのことです。
説法する人々がたくさんいます。誰の説法でも、法施になるのでしょうか? それにもお釈迦さまが答えているのです。たとえブッダの教えを他人に教えて も、その人が何かを見返りとして期待しているならば、説法師ではないのです。法を聴く人々が、煩悩を無くしたい、心を清らかにしたい、解脱を目指したい、 という気持ちにならなくてはいけないのです。修行する意欲を説法によって引き出さなくてはいけないのです。誰かの説法を聴いて、誰かが解脱を目指して修行 することに決めたならば、その説法が法施なのです。
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

協会のホームページから紹介です。
Q: 冥想中、体がすごく重く感じられるのですが。
ちょっと動かしてみるのですが、重いのです。重く感じ始めたら、軽くなる方法を考えて動かしてもいいでしょうか。
A:
そういう風に考えるから、その現象が残ってしまうのです。重く感じ始めたとき、重いということをサティ(気づき)はしているのだけれど、それを、「嫌だ」と思う感情もあるのです。
「嫌なもの」と「好きなもの」というのは、どちらも自分の執着があるもの、捕われのあるものなのです。我々は好きなものに捕われていると思っていますが、嫌なものにも捕われているのです。
「あの人が嫌い」という場合は、その人と何か関わりがあるのです。全く無関係ならば、好きでも嫌いでも何でもないのです。
ヴイパッサナー冥想中には、色々な現象が現れてきます。その現象は2つに分類できます。嫌いな現象とすごく気持ちのいい現象の2つです。どちらに も決して捕われてはいけません。ごく冷静な心で確認しておくようにするのです。かたくなろうが、重くなろうが、軽くなろうが、勝手になれと、自分が完全に 客親的になって観察すると、冥想が進むはずです。
Q: ですが、座っていて重い、かたいと感じるようなら「終了します」と言って歩く冥想に変えてもかまわないでしょうか。
A:
それでもいいのですが、少々我慢してみてください。嫌だからといってすぐやめて努力しないようでは、そのまま進まないということもあります。自分に好ま しくない現象の方が、強く捕われることがないわけですから、まだいいのです。好きな現象ばかり出てくると、徹底的に捕われてしまって、それでストップして しまうことになります。嫌な現象が現れても同じですが、努力して、ぎりぎりまでがんばってみることで乗り越えられるのです。
Q: なるほど。いやだいやだと思うより、「なあんだ」と思えば良かったのかもしれませんね。でも座る度に重くなって、何か人形の首がぐーつと下に落ちていくみたいな首が短くなるような感じで、びっくりしたんです。
A:
びっくりというより、面白いと思った方がいいですね。冥想中に現れる現象というのは、大体決まっています。
いずれも、気にしないようにした方がいいのです。体を「軽い」と感じる、「かたい、重い」と感じる、「清い」と感じる、「気持ちいい」と感じる、そうでない場合は「ただ普通に」感じている、その5つしかないのです。どんな人間であろうと、他の生命であろうと同じです。
すべての哲学も思想も宗教も、その5つの情報に基づいて作っている「思索」でしかないのです。からだと心の2つに分けてみると、からだでは大体その5つ しか感じないのです。それを色々に解釈するのです。からだが硬いと、悪い霊にとりつかれているのではないかとか、そのように解釈し始め、宗教になったりす るのです。かたいのならかたいで、清いなら清いでいい、それ以上追いかけないことです。
Q: 私は、仏教の知識などは全くな く、勉強もしていません。ただ、ヴィパッサナー冥想は本当に好きですし、信号を待っているときも、「立ってます」とかサティするのが好きなんです。階段も 「左」「右」「左」「右」と上ったら苦しくないということがわかりまして、また着物を縫うときも「糸を引きます」「針を通します」と全部やっています。し かし、仏教の法則や知識については無頓着でわかりにくいのです。ですが、生活がいきいきしているならば、もうこれ以上何も考えずに、このままいこうと思う のですが、頭を使わなくていいでしょうか。
A:
どんな人にもそれなりにふさわしい教えというものはありますのですべてを知る必要はないと思います。たとえば知らないことで何か問題を作っているなら、勉強しなさいと言うかもしれません。
しかし世の中にあるすべてのものをすべての人が知らなければならないわけではありません。何もかも知ろうと思うことはばかばかしいことです。
お釈迦様の弟子の目連尊者は、神通力がありました。しかし、お釈迦様の一番弟子は、神通力などないサーリプッタ尊者だったのです。人それぞれに能 力は違う。天眼を持っていたお坊さまもありがたいし、智慧だけ持っていたサーリプッタ尊者もありがたい。人の能力に上下はありません。
Q: 冥想をしていると、からだの外から自分を見ているような感じがしてくるのですが…
A:
それでかまいません。続けてください。
Q: 座り冥想を始めると、自然な深い呼吸ができず、「膨らむ、縮む」という言葉にあわせて呼吸をしてしまうことがあります。
A:
その場合は、サティの方法に心が入っていないのです。実は嫌で義理でやっているのだと思います。
どういうことかというと、サティというのはからだの今の状態を確認することですが、そうではなくて言葉を頭の中で作って体をそれに強引に合わせるということをやっているわけです。
ヴイパッサナーはからだに言葉を合わせることです。ご飯を食べるためにお茶を入れようというのとお茶を飲みたいからご飯を買ってこようというのとでは結 果がずいぶん違いますよね。ご飯を食べたいからお茶を入れるのであれば問題はありませんが、お茶を飲みたいからと言ってご飯を買ってきたのでは随分損をし ます。余計なものを食べてしまうわけですから。からだの行動をご飯にたとえて、言葉をお茶にたとえて考えてみてください。見た目は同じなのですが内容はか なり違います。
心が落ち着いていないと呼吸が乱れます。するとからだと言葉の行動が合わなくなります。その場合はからだと心の乱れる状態を確認してください。あるいは歩く冥想をしてみてください。
冥想が上達すると、心が統一されてきて、今度は意識で心を動かしていることが見えてきます。
普通は、心もからだも自分のコントロールと関係なく動いているものと思っていますが、仏教で言うのは自分の意識で動かしているということなのです。心が統 一してくるとその状態が見えてきます。膨らみ、縮みであろうと、瞼を閉じることであろうと、膨らませたい、閉じたいという意識があってその行動を起こすと いうことに気づきます。実践者が落ち着いていないときは、言葉に従って呼吸もしているように感じますが、心が落ち着いてくると、呼吸やからだの動きに言葉 を合わせることができるようになります。そしてもっと落ち着いて集中力がついてくると、最初のときと似たように、意識でコントロールして呼吸も行っている ということが見えてきます。膨らむという意識があって、膨らむ行為が始まる。縮むという意識があって縮む行為が始まる、ということがわかります。それは集 中力の結果です。
意識ですべて動かしていることを知るのは、ヴイパッサナー冥想から体験するべきひとつの智慧なのです。
これらをふまえ、質問にもう一度お答えすると、冥想を進めるためには、意識が別にあるということをきちんと確認してみてください。
(みなさんからのご質問等をスマナサーラ長老にお聞きし、PATIPADÂ 編集部でまとめました。)
協会のfbより紹介です。
日本テーラワーダ仏教協会さんがリンクをシェアしました。
本日、東京:ゴータミー精舎で行われましたスマナサーラ長老指導の「法話と実践会」の法話をUstreamでアップしました。どうぞ、ご覧になってみてください!
http://www.ustream.tv/recorded/53538268
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

【ご案内】スマナサーラ長老『名古屋初期仏教デー』(愛知 日本ガイシフォーラム)
21日(日)


初めて冥想会へ参加される方へのご案内-
★「茶話会(親睦会)」のお知らせ
午前10時から、法友のみなさんの集いがあります。
※自由参加、昼食は各自ご用意ください。
名古屋で行われるスマナサーラ長老指導の「法話と冥想」の会です。午後1時半から始まります。法話・質疑応答ののち、ヴィパッサナー冥想の初心者指導が ございます。「仏教って一体なに?」「怒るのは悪いことって本当?」「どうすれば幸せになれるの?」などなど、どんな疑問・質問でもぶつけてみてくださ い。お釈迦さまの教えに触れ、自分自身で納得し、悩み苦しみのない、心の落ち着きを築いてみてください。※予約不要、どなたでも参加していただけます。
日時:13:30~19:30
会場:日本ガイシフォーラム 和室
(〒457-0833 愛知県名古屋市南区東又兵ヱ町5-1-16)
参加費:ご喜捨(参加当日、受付にお渡し下さい)
▼スケジュール
13:00 受付開始
13:30 お経・法話・質疑応答
15:30 休憩(15分程度)
15:45 初心者冥想指導
各自冥想実践
19:00 お経・祝福
19:30 終了予定
●交通アクセス
http://www.nespa.or.jp/shisetsu/bunka/access.html
★「茶話会(親睦会)」のお知らせ
午前10時から、法友のみなさんの集いがあります。
※自由参加、昼食は各自ご用意ください。
●東海ダンマサークル
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会のホームページより紹介です。
9/7ヤサ先生の法話予定?です。
Kiritaramaya寺院の仏塔 (スリランカ) |
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慈 経(メッタ スッタン) |
ご注意! ○終わりには祝福のお経があり、最後までお聞きになれば、護経となります。 |
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1.カラニーヤ マッタ クサレーナ ヤン タン サン タン パダン アビサメッチャ サッコー ウジュー チャ スージュー チャ スワチョー チャッサ ムドゥ アナティマーニー [解脱という] 目的をよくわきまえた人が、 静かな場所に行ってなすべきことは [以下の通りである。] 何事にもすぐれ、しっかりして、まっすぐでしなやかで、 人の言葉をよく聞き、柔和で、高慢でない人になるように。 | |
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2.サントゥッサコー チャ スバロー チャ アッパ キッチョー チャ サッラフカ ヴッティ サンティンドゥリョー チャ ニパコー チャ アッパ ガッボー クレース アナヌギッドー 足ることを知り、手が掛からず、 雑務少なく、簡素に暮らし、 諸々の感覚器官が落ち着いていて、賢明で、 裏表がなく、在家に執着しないように。 | |
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3.ナ チャ クッダン サマーチャレー キンチ イェーナ ウィンニュー パレ- ウパワディッユン スキノー ワー ケーミノー ホントゥー サッベー サッター バワントゥ スキタッター [智慧ある] 識者達が批判するような、 どんな小さな過ちも犯さないように。 幸福で平安でありますように。 生きとし生けるものが幸せでありますように。 | |
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4.イェー ケーチ パーナ ブータッティ タサー ワー ターワラー ワー アナワセーサー ディーガー ワー イェー マハンター ワー マッジマー ラッサカーヌカ トゥーラー いかなる生命であろうともことごとく、 動き回っているものでも、動き回らないものでも、 長いものでも、大きなものでも、 中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、巨大なものでも、 | |
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5.ディッター ワー イェー ワ アッディッター イェー チャ デゥーレー ワサンティ アヴィデゥーレー ブーター ワー サンバウェースィー ワー サッベー サッター バワントゥ スキタッター 見たことがあるものもないものも、 遠くに住むものでも、近くに住むものでも、 既に生まれているものも、[卵など、これから] 生まれようとしているものも、 生きとし生けるものが幸せでありますように。 | |
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6.ナ パロー パラン ニクッベーター ナーティ マンニェータ カッタチナン カンチ ビャーローサナー パティガ サンニャー ナーンニャマンニャッサ ドゥッカ ミッチェッヤ どんな場合でも、ひとを欺いたり、 軽んじたりしてはいけません。 怒鳴ったり、腹を立てたり、 お互いにひとの苦しみを望んではいけません。 | |
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7.マーター ヤターニヤン プッタン アーユサー エーカ プッタマヌラッケー エーワンピ サッバ ブーテース マーナサン バーワイェー アパリマーナン あたかも母が、たった一人の我が子を、 命がけで守るように、 そのように全ての生命に対しても、 無量の [慈しみの] 心を育てることです。 | |
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8.メッタン チャ サッバ ローカスミン マーナサン バーワイェー アパリマーナン ウッダン アドー チャ ティリヤン チャ アサンバーダン アベーラン アサパッタン 慈しみの心を、一切世間(すべての生命)に対して 限りなく育てることです。 上に、下に、横(周り)に[棲む如何なる生命に対して] も、 わだかまりのない、怨みのない、敵意のない心を育てることです。 | |
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9.ティッタン チャラン ニスィンノー ワー サヤーノー ワー ヤーワタッサ ヴィガタミッドー エータン サティン アディッテェッヤ ブラフマメータン ヴィハーラン イダマーフ 立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、 あるいは横になっていても眠っていない限り、 この [慈悲の] 念をしっかり保つものである。 これが梵天 (崇高なもの) の生き方であると言われています。 | |
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10.ディッティン チャ アヌパガンマ スィーラワー ダッサネーナ サンパンノー カーメース ヴィネッヤゲーダン ナヒジャートゥ ガッバ セッヤン プナレーティー ティ [このように実践する人は] 邪見を乗り越え、常に戒を保ち、 正見を得て、 諸々の欲望に対する執着をなくし、 もう二度と母体に宿る(輪廻を繰り返す)ことはありません。 <日本語訳:日本テーラワーダ仏教協会> | |
エーテーナ サッチャ ワッジェーナ パートゥ トヮン ラタナッタ ヤム(3回) この真理の言葉によってあなた(がた)は、三宝に守られますように。 | |
「慈経」の由来 或る年の雨安居が近づいた時、舎衛城に住された釈尊のもとで冥想法を学んだ比丘達のうち五百人ほどの或る一団が、好適な安居の地を求めて次第にヒマラヤの麓にわけ入り、或る静かな森林を見つけ、その樹々のもとで日夜精進することになった。 ところが、比丘達の浄戒の威光によって自分達の威光をそがれた樹神達は、子供連れで森を出てさまよい、一日も早く立ち退いてほしいと、修行の妨げとなる ような怪異、悪臭、叫声等で悩ませ、たまりかねた比丘達が再び舎衛城の釈尊にまみえて指導を仰ぐと、釈尊は 「他に適当な安居の地はないから、もとの処にもどり、この「護経」を学んで日夜慈心を修しなさい。これはあなた方にとって身を護る「護呪」 (Paritta)であり「業処」(kamma-tthâna)である」と、諭され、引返した比丘達はその後は安らかに修行をつづけ、安居の明ける頃には 五百人が阿羅漢となって居た。その「護経」こそ「慈経」であると伝えられる。 (パティパダー2002年4月号より) | |
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