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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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【法話】しあわせってなんですか?――人間は誰だって、幸福になる仕組みで生まれている[ダイジェスト版](スマナサーラ長老)
 





日本テーラワーダ仏教協会

【法話】しあわせってなんですか?――人間は誰だって、幸福になる仕組みで生まれている[ダイジェスト版](スマナサーラ長老)


https://www.youtube.com/watch?v=u_ffDwH8uK4&feature=share




登録済み 311
2018年12月7日にココテラス湘南で開かれた「ハッピー・ファミリー・マインドフルネス」(主催:湘南ダンマサークル)でのスマナサーラ長老ご法話をダイジェスト版でお届けします。








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ひとり言 | 16:27:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
藤本 晃  日本仏教学界の縁起理解に見られる諸問題――宮崎哲弥『仏教論争――「縁起」から本質を問う』を読んで
 




長いけどシャープですっきり明快な論考。必読です。






藤本 晃 
日本仏教学界の縁起理解に見られる諸問題――宮崎哲弥『仏教論争――「縁起」から本質を問う』を読んで
2018年11月22日

うわっ!これ見落としてた。
長いけどシャープですっきり明快な論考。必読です。

samgha.co.jp
ホーム > ウェブサンガ > 藤本 晃 > …








ひとり言 | 16:26:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「悪の親玉」~鋭い観察が無明を破る~ #仏教
 







#jtba「悪の親玉」~鋭い観察が無明を破る~ #仏教 #Buddhism #スマナサーラ長老 #無明 #観察 #渇愛 #存在 #無智

 Avijjā(アヴィッジャー)は「無明」と訳されます。「明りがないから暗い」という意味ではありません。ありのままに現実を発見していない状況が無明なのです。ありのままの状況とは、真理です。真理を知らないことが、無明です。ですから、無明を「無智」と訳すこともできます。細胞たちは生きていきたいがために必死です。暇はありません。

 ありのままの状況はどうなっているのかと調べるのではなく、心に入るデータをフィルターにかけて、存在欲を支えてくれるか、存在欲を邪魔するか、という二つに振り分けます。言葉を換えれば、心は二種類の色眼鏡を通して世界を知ろうとしているのです。これは、ありのままに観察することではありません。すべての生命がこのように生きているから、「すべての生命に無明がある」と言わなくてはいけないのです。

 人間は知識なしに生きていられない存在です。しかし知識があるからと言って、無明がないと自慢することはできません。超がつくほどの知識人も、無明に覆われているのです。ありのままに世界を観察すると、「すべての現象は無常である」と発見します。その発見によってのみ、存在欲が成り立たないとわかる。それで渇愛が消えるのです。

 ものごとをありのままに観察しないことが無明です。生命が「生きる」という終わりなき戦いを少々やめて、ものごとを客観的に観察しない限り、無明を破ることはできません。知識を得ても、その結果、無明が強くなるのです。知識がない場合も、無明が強くなります。ブッダが語る真理を知識で学ぶならば、生命には無明があると発見することができます。その無明をなくすためには、ありのままに観察することに励まなくてはいけません。無明があるから、三種類の渇愛(五欲・存在欲・破壊欲〔非存在欲〕)が現れるのです。

Photo by Maria Badasian on Unsplash
▼参考テキスト
新書「ブッダの瞑想と脳科学」
https://goo.gl/i7zWeY
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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日本テーラワーダ仏教協会








ひとり言 | 16:17:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
「豊かさ」がテーマです。
 




協会の記事
ではありません。
吉水 秀樹  安養寺住職 のfbより紹介です。







  スマナサーラ長老と面談しました。 

 20年ぶりに東京へ出かけたのは、スマナサーラ長老にお会いするためでした。実は私は二作目になる著書を間もなく出版します。その帯に長老からのお言葉を頂きました。直接長老と対面してそのお礼をするための上京でした。12月6日夕刻にサンガクラブでの講話があり、そこでお礼を伝えることができました。学んだことをレポートします。

  「豊かさ」がテーマです。

「豊かさ」とは何でしょうか? これは大問題です。最初に考えてほしいです。あなたにとって「豊かさ」とは何ですか? このことを自問することが肝心です。

★「物質的な豊かさ」と「精神的な豊かさ」、この両面がそろってこそ豊か?  これは本当でしょうか?

★現在の日本はたいへん豊かな国である。それに比べたらスリランカやミャンマーなどの東南アジアの国々は、同じ仏教国なのに発展途上で、豊かさに陰りがある? 
これは本当でしょうか?

★12月に入って、カニやフグを食べる機会がありました。清潔な料亭で美味しいものを食べて満足し、豊かでした?

★デパ地下で買い物をしました。クリスマス飾りと賑やかなBGM、色とりどりの食材、華やかな衣装の売り子さん、多くの人でごったがえしでした。ふだんは1500円もあれば十分な夕食の用意ができるのに、一万円ちかい買い物をして大満足、豊かでした。

 私は長老の講話を聞いていて、「豊かさ」とは何かが、ほんとうにわからなくなりました。それはいいことです。

 長老は、一つの例を語られました。

 スリランカで暮らす一家がありました。そこに日本人の客が来ました。粗末な食材で簡単にカレーを作ってみんなで食べ、ゴザをひいて客も土間で家族と一緒に寝て、一夜を過ごしました。

 日本の家庭にスリランカ人が遊びに来ました。ごちそうを食べ食事は一緒に済ましましたが、彼が泊まる部屋がありません。さあたいへんです。困りました。

 さて、どちらが豊かでしょうか? 
 豊かさは何処にあるのでしょうか?

 豊かさは眼に見えるものではないと私は思います。「物心共に豊か」などと言いますが、あやふやな表現です。長老の講話を聞きながら、私が感じている豊かさの薄っぺらさに嫌悪感さえ覚えました。

 講話の最後に質疑の時間があったので、私は長老に「今後、豊かさを見間違いしないように、仏教で説く【豊かさ】のガイドライン、定義を説いてください」と質問しました。
時間がなかったので、長老は簡単に説かれました。私の理解した要約です。

 仏教で説く「豊かさ」とは、「知足」のことです。「小欲知足」という仏教用語がありますね。「足ることを知る」が、「豊かさ」のキイワードです。

 そこにあるもので満足する。瞬間瞬間で事象は変化しますが、いつでもそこにあるもので満足する。それが「豊かさ」のように見えてきました。
 先の例で考えても、わざわざ何かを探さなくても、「そこにあるものでみんなが満足する」こと。それに「どんなときでも、困らないこと」。少欲と知足のもたらす、福楽が「豊かさ」なのだとあらためて知りました。
 
 そこに至るには、こころに戒め、つまり道徳を持つことや、慈しみのこころを育てること。こころの静けさを知り、固定した考えや決めつけを捨てて、いつでもどこでも周囲と調和できる柔軟さが不可欠だと思い知りました。
 
 長老の言葉を側で聞くのは久しぶりです。その空間に居るだけでこころが落ち着いて禅定にいるようでした。まことに有り難い時を生きることができました。

 物質にあふれた東京の街からは、何ひとつ豊かさを感じなくなりました。あふれる物質のために、こころの豊かさが見えなくなっている私がありました。

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ひとり言 | 10:10:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
 智慧について 仏教には。「〇〇智慧」という言葉がいくつかあります。
 




協会の記事
ではありません。
吉水 秀樹  安養寺住職 のfbより紹介です。




  智慧について
 仏教には。「〇〇智慧」という言葉がいくつかあります。「名色分離智慧」「無分別智慧」がその代表です。そもそも、「智慧」とは言葉で説明のできないものです。知識や記憶とは次元が異います。
 スマナサーラ長老が、正見=「見解のないこと」とサラリ説かれているのは流石だと思います。「見解がない」とは、「見解をもたない」=「分別しない」ということと理解できます。けっきょく、正見 =「無分別智慧」とも言えそうです。
 
 また、ややこしい仏教用語が増えたと思わないで欲しいです。「無分別智慧」もこころが穏やかで健康正常なとき日常にあらわれていますが、気づかないだけだと思います。

 以前の車の運転の例で言うと、「前にのろい車がある」「前の車は邪魔」というのは見解で、分別思考です。無分別とは、そのような思考が浮かばない状態です。
 ご存知のように、私たち人間は貪瞋痴のエネルギーで生きています。「欲」は一番わかりやすいです。「~したい」と私たちが行動するときには、必ず欲があります。
 目的地を決めてそこに行こうとすることは、「欲」ですが、欲をずっと持ち続ける必要はありません。目的地を決めたら、あとは「今ここ」に住して、安全運転に徹し、プロの送迎運転手のように淡々と運転すればよいだけです。前の車がおそければ、追い越しできる場所で安全にそうすればよいし、条件が揃わなければ静かに後ろをついて進めばよいと思います。余分な感情を作らなくても、どのみち状況は刻々と変わります。
 見解がないときは、正常健康なので実感はありません。ただ楽です。力まなくても、日常で楽に過ごしているときには、こころが無分別の状態に近いこともあると思います。一生がそのようであるなら、それは覚者や聖者と呼ばれるのでしょう。

 「知識」と「智慧」は似て非なるものです。知識は説明することも学んで貯えることもできる、物質的なものですが、智慧は言葉の世界を超えたものです。それを踏まえたうえ否定形などを使って言葉で説明されています。
 
・智慧とは無智がない、無明がない状態
・知識は氷で、智慧は水のようなもの
・知識は記憶や過去、言葉の世界にあり、
 智慧はそこにはない
・どんなに冥想しても、智慧は蓄えられない 
 瞬時にあらわれては消えるもの
・形も色も香りもないもの

 もし、来世に持ち越せるものがあるとしたら、今生で修した「徳」と「智慧」だけとも私は聞きましたが、この点はよくわかりません。「業」と関係がありそうです。

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ひとり言 | 11:15:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
こころについて
 





協会の記事
ではありません。
吉水 秀樹  安養寺住職 のfbより紹介です。




  こころについて
 この頃、こころについてつくづく思うことがあります。若い頃私は、本来こころは美しく清らかなものだろうと思っていました。これは日本仏教で当たり前のように言われていることの影響か、実際に検べたこともないのに仏性などという言葉もそのような意味だと理解していました。ところが、初期仏教のブッダの冥想に出会って、自分のこころを直接毎日観察するようになって、私のこころに対する考えは、根本的に変化しました。

 今、私はこころとは、美しいとか浄らかとは、ほど遠い扱い難い厄介なものだと思っています。こころは物質ではありませんが、身体の深奥のどこかにあって、それは繊細で壊れやすいガラス細工のようなものにたとえられます。そして、こころの本質は「我儘」です。融通がききにくく、聞きわけもなく、まんまに自己中心的です。

 話はかわりますが、Facebookなどで、私たちが自分の意見を日記に書きます。「いいね!」とあれば何でもないのですが、ときどき反対意見や違った見解を書いてくる人がいます。いろいろな意見があって当たり前と、理性ではもちろんそう考えるのですが、やはりこころはそのように思っていません。そのようなときに、自尊心が傷つきます。面白くない気に喰わないのです。これはガラス細工にヒビが入って、神経を傷つけている感じです。
「どうってことない!」と強がっても結構なダメージを肉体に受けています。これが重なって、それらと戦い、また我慢し続けていると本当に肉体から病んでいくと思います。若者でも年配の人でもFacebookから消えて行く人の心理には、そのような自尊心が少なからず影響していると思います。

 私は思うのですが、実際に面と向かって反対意見を言う人に対して、私はそれほど反応しません。それはその人の言葉、眼や表情からその人のこころの実際を感じ取ることができるので、もはや恐怖ではなくなるのです。しかし、ネット上の言葉は悪霊に取りつかれたかのように、正体の見えない不安や恐怖を持ちやすいです。

 このことに気づいていますか? ですから、Facebookなどのブログ日記もこころの未熟な人には大変なストレスになる要素があります。

 冥想でこころを育てるということは、こころの本質を変容させることのように思います。ガラス細工やガラス繊維のような神経細胞に、実際の感受や感情を走らせるのは危険です。そこで、そのガラス細工のようなこころを無味無臭の形をもたない柔らかな受容体に変容させます。感受は感受のままで、繊細な神経細胞を通過しないので漏電も発火もしません。そのときこころは、それらの感受のままで私というフィルターがありません。ありのままとか、放っておく、何もしないとはこのような実際で、けっして無智ではないと思います。

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ひとり言 | 11:28:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
『セデック・バレ』と『戦士経』―― 「首狩り宗教」から魂を解き放つ
 





パーリ三蔵読破への道 連載第十三回       佐藤哲朗




『セデック・バレ』と『戦士経』―― 「首狩り宗教」から魂を解き放つ

nāgita

2017/08/13 18:56

パーリ三蔵読破への道 連載第十三回
佐藤哲朗

●セデック・バレ(真の人)の条件

先日、『セデック・バレ』(ウェイ・ダーション監督)という台湾映画を観ました。日本統治下にあった一九三〇年の台湾で、高地先住民族であるセデック族の戦士と日本軍が衝突した霧社事件をテーマにした歴史長編です。第一部「太陽旗」、第二部「虹の橋」あわせて四時間半もの作品の中では、勇猛な首狩り族として恐れられたセデック族の文化や宗教について詳細に紹介されています。

(映画の中では)セデック族の男にとって、部族の狩り場を防衛し、または獲得するために、敵部族を殺しその首を狩ることは「真の人(セデック・バレ)」となるための条件とされていました。みごと敵を殺して首を狩った男は、顔にその証となる刺青を入れられます。この通過儀礼を経ずに死んだセデック族の男は、「虹の橋」の向こうにある先祖の住まう永遠の狩り場に渡ることができず、暗い谷底をさまようことになるのです。

日本統治下では、当然のことながらセデック族の首狩り習慣は禁止されました。時が経つにつれ、刺青のある「真の人」はほとんど消え去ってしまう。この事態は民族に深刻なアイデンティティの危機をもたらします。セデック族の若者が「真の人」になれないままで死んだら、虹の橋の向こうの永遠の狩り場にいけない。一般的な言い方をするならば、天国の門をくぐるための条件を満たせないのです。

日本統治下での当局との摩擦や対立など、霧社事件には様々な原因があったにせよ、セデック族の宗教的な危機感もその一つにあったのだと理解しました。本作の主人公、セデックの頭目モーナ・ルダオは、こう叫んで日本人に対する蜂起を呼びかけるのです。「よく聞け、セデックの男たちよ! 敵の首を狩れ。魂を血で洗い清め、虹を渡り、永遠の狩り場へ行こう!」

●パーリ経典『戦士経』

民族のテリトリーを守り拡張するために、勇ましく戦って敵を殺し首を狩る。その行為がある種の「宗教的救済」にも直結している。このように戦闘と救済を結びつけた信仰の形は、じつは人間社会に現れた「宗教」に普遍的に認められるのではないかと思います。

映画『セデック・バレ』を、私は一編の「宗教映画」として鑑賞したのでした。文明と野蛮の対立というよりは、人類普遍の「宗教をめぐる悲劇」として。そしてそこに描かれたセデック族の宗教観から、相応部経典に記録された次のエピソードを思い出しました。戦士経(Yodhājīvasuttaṃ)。約二千六百年前の古代インドで、武士(戦士)の長がお釈迦様を尋ねた時の対話を記録した短い経典です。スマナサーラ長老の訳を引いて、内容をご紹介します。

あるとき、武士の長(おさ)がお釈迦さまを訪ねて来ました。  

お釈迦さまのそばに座った武士の長は、世尊にこう尋ねました。

「偉大なる先生、拙者は歴代の将軍であった指導者たちからこのように教わったことがあります。曰く、『およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘した武士が、敵に撃ち殺されたならば、彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サランジタ天(という天界)に生まれ変わるのだ』と。偉大なる先生にあられましては、この教えについてどうお考えですか」と。

お釈迦さまは、「長よ、止めなさい。そういうことを私に問うものではない」と言って答えませんでした。  

それでも調子にのった武士の長は、再び、お釈迦さまに同じことを尋ねました。お釈迦さまはまたその問いを退けました。武士集落の長は、それでも三たび、お釈迦さまに尋ねました。

「偉大なる先生、拙者は歴代の将軍であった指導者たちからこのように教わったことがあります。曰く、『およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘した武士が、敵に撃ち殺されたならば、彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サランジタ天に生まれ変わるのだ』と。偉大なる先生にあられましては、この教えについてどうお考えですか」と。

お釈迦さまは仰いました。「長よ、私は『止めなさい。そういうことを私に問うものではない』と言ってそなたの質問を退けた。しかし、そなたはやめてくれない。だから、問いに答えよう」と。

「長よ、およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘する武士のこころは抜き難い悪意に捉われている。『これら(敵)の者どもは武器で討たれてしまえ、縛られてしまえ、切られてしまえ、亡きものとされてしまえ、跡形もなく滅ぼされてしまえ』という怖ろしい心理状態でいる。そのような武士が戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘し、敵に撃ち殺されたならばどうなるか。彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サラージタという名の地獄に堕ちる。

もし汝らが『およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘した武士たちが、敵に撃ち殺されたならば、彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サランジタ天という天界に生まれ変わるのだ』という教えを信じているなら、これは邪見である。武士の長よ、邪見をもつ人の来世にはふたとおりある。それは地獄、または畜生であると、私は説いている」と。

このようにお釈迦さまがおっしゃったとき、武士の長は、号泣しました。 

「私は『長よ、止めなさい。そういうことを私に問うものではない』と言ってそなたの質問を(二度も)退けたのだよ」と、お釈迦さまがおっしゃると、泣いていた長はこう述べました。

「偉大なる先生、拙者は世尊がそのようにおっしゃったことを悲しんで泣いたのではありません。されど偉大なる先生、拙者は歴代の将軍であった指導者たちのために、『およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘した武士が、敵に撃ち殺されたならば、彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サランジタ天に生まれ変わるのだ』と長いあいだ騙され、欺かれ、たぶらかされていた、そのことを思って泣いたのです」と。

(S42-3,相応部六処編第八聚落主相応三戦士。訳文はスマナサーラ『死後はどうなるの?』角川文庫、142-154p)

この後、武士の長は釈尊に帰依して在家仏教徒になるのです。

●「首狩り宗教」の普遍性

セデック族と同じく、この経典に出てくる武士の宗教も、勇ましく敵と闘い敵を殺すことが宗教的な救済と結び付けられています。インド文化ということでいえばヒンドゥー教の聖典である『バガヴァッド・ギーター』を連想させます。マハトマ・ガンディーも愛読したギーターは、実は戦争による救済を説いた宗教書です。古代インドを二分する大戦争のさなか、親族との不毛な戦争に疑問をいだいたアルジュナ王子に対して、クリシュナ=ヴィシュヌ神の化身は、和平ではなく、なんと戦争を続けるように説得を試みます。宗教叙事詩『マハー・バーラタ』に収められたその対話が『バガヴァッド・ギーター』として独立の聖典のように扱われるようになったのです。ギーターのなかで、クリシュナは、自我を捨て武士として生まれ持った義務(ダルマ)を遂行することこそが救済であると説き、アルジュナを再び親族との戦争に駆り立てるのです。その主張はお釈迦様と反対です。

もちろんこの構造はインドの宗教だけに限りません。ジハードに出征し殉教することで天国に迎えられると説くイスラム教、十字軍に代表される聖戦を引き起こし世界中で侵略と虐殺を繰り返したキリスト教など、セデック族よりももっと洗練された世界規模の「首狩り宗教」に洗脳されていない人類を探すほうが難しいかもしれません。

宗教に無関心といわれる日本人も例外ではありません。霧社事件ではセデック族を弾圧する側に回った近代日本でも、天皇に身を捧げ戦争に出征して死んだものを護国の神として靖国神社に祀る、別の種類の「首狩り宗教」が広く信仰されていたのです。第二次世界大戦当時は、日本の仏教者たちも「首狩り宗教」の宣伝と正当化に明け暮れていました。いわゆる戦時教学です。浄土真宗で「阿弥陀如来と天皇は同体であり天皇のために戦死すれば極楽往生できる」と門徒に吹き込んでいたことは、比較的よく知られています。

ですので、「首狩り救済論」というのは、人類が発明した「宗教」というシステムに通底するのではないかと思います。現在ある世界宗教もまた「首狩り宗教」の末裔であり、その特徴を濃厚に引き継いでいるのです。

●悪業と邪見

『戦士経』を読む際に注意していただきたいのは、

(1) 「長よ、およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘する武士のこころは抜き難い悪意に捉われている。『これら(敵)の者どもは武器で討たれてしまえ、縛られてしまえ、切られてしまえ、亡きものとされてしまえ、跡形もなく滅ぼされてしまえ』という怖ろしい心理状態でいる。そのような武士が戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘し、敵に撃ち殺されたならばどうなるか。彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サラージタという名の地獄に堕ちる。

(2) もし汝らが『およそ戦に臨み、死に物狂いに戦場で力を振るい奮闘した武士たちが、敵に撃ち殺されたならば、彼のもののふは、身体が壊れ命が尽きたのち、サランジタ天という天界に生まれ変わるのだ』という教えを信じているなら、これは邪見である。武士の長よ、邪見をもつ人の来世にはふたとおりある。それは地獄、または畜生であると、私は説いている」

というくだりの解釈です。

(1) は輪廻する場合、亡くなる直前の心の状態が重要である、という仏教の業の教えから説かれています。私たちが悪行為をする。それで不幸になることは自業自得です。行為の結果がいつ現れるか、ということには複雑な理論がありますが、もし悪意に覆われたこころで死んでしまったならば、その直後に生まれ変わるのですから、当然、悪趣に結生してしまう、というのはわかりやすい話です。

(2) は邪見の問題です。宗教的な理由があれば、悪行為をしても結果として天国にいけるという教えを信じることは、因果法則を撥無する極端な邪見です。私たちの人生にとって、本当に問題なのは個々の善悪行為よりも、その背後にある邪見なのです。人類が連綿と受け継いできた「首狩り宗教」は、もっともらしい理屈をつけて邪見を強化します。神のために、魂の浄化のために、民族のために、部族のために、勇ましく戦って死ねば天国に、先祖の待つ永遠の狩り場にいけると信じることは、地獄・畜生(悪趣)への片道切符を握りしめることと同じなのです。決して聖者ではない私たちは、しばしば罪を犯してしまいます。巡りあわせで人を殺めることだって、あり得ないとは言えないでしょう。しかし、「殺人などの悪行為をしても善い結果になる、神に祝福される、天国に誘われる」といった邪見、宗教的な刷り込み・洗脳による善悪基準の撹乱に引っかかったら、もう取り返しがつきません。死後までも不幸が確定してしまいます。ですから、その他の罪よりも、邪見には、より一層気をつけなくてはいけないのです。

●救済への疑問とタブー

聖戦を讃え、戦死者に死後の救済を約束する宗教の教えは、決して福音ではなく、人類を苦しみの悪循環に縛り付ける「呪い」そのもののように思えます。しかし、その呪いこそが、様々なエスニック集団が過酷な生存競争を勝ち抜くための原動力になったのです。

お釈迦様は人類が「首狩り宗教」の虜になっているシビアな現実をよくご存知だったのでしょう。(もしかすると、武装農耕民だった釈迦族にも、戦士の死を聖化するような信仰があったかもしれません。)

「首狩り宗教」は共同体メンバーの団結を高め、共同体への最大限の献身を引き出すために便利な観念ツールです。赤ん坊としてその共同体に生まれ落ちた瞬間から、あらゆる文化的な装置を用いて徹底的に刷り込まれていきます。戦士たる男だけではなく、全員が共犯関係にされます。セデック族の宗教でいえば、首狩りをして一人前になった男に刺青を入れるのは女の仕事です。火を守り機を織る女達の仕事は、戦にでかける男達の仕事と一対になっていて、それ自体にも死後の救済を約束する宗教的な意義づけがされている。すべては共同体の維持と繁栄=成員個々の幸福と死後の安寧のために最適化されたシステムなのです。それに疑問を抱く人は、稀であるはずです。「首狩り宗教」に疑問を持つひとが増えれば、そのシステム自体が崩壊してしまいますから。

武士の長はお釈迦様に向かって、空気も読まずに三回も、自分たちの宗教の救済論について質問しました。おそらく彼は、伝統宗教の「呪い」に違和感を抱いていた数少ない一人だったのでしょう。自分がうすうすと感じていた「首狩り宗教」への疑念。お釈迦様にはっきりと邪見であると教えられて、彼はその場で泣き崩れたのです。文学的な表現をするならば、その時「彼の魂は解き放たれた」のです。

しかし「共同体の維持と繁栄=成員個々の幸福と死後の安寧のために最適化されたシステム」である首狩り宗教に疑念を抱くことは、共同体に依存して生きる人々にとっては大きなタブーです。外部の人間をそれを行えば、感情的な反発や憎悪を呼びかねません。お釈迦様のように社会的に尊敬される聖者の口から、「首狩り宗教は邪見であり、死後は地獄か畜生」と断言されたら、アノミー状態に陥って発狂してしまう可能性もあるでしょう。ですから釈尊も、三度問われてようやく答えたのです。

この『戦士経』は個人的にはとても重要な経典だと思うのですが、日本では知名度が高いとは言えません。『南伝大蔵経』(一六巻上)に入っている他は前述のスマナサーラ長老の著作以外では現代語訳が見当たらず、最近復刊された増谷文雄『阿含経典』全三巻(ちくま学芸文庫)でも採録から漏れています。管見では中村元『仏典のことば―現代に呼びかける知慧』(岩波現代文庫)で紹介されている程度かと思います。靖国神社問題に代表されるように、大日本帝国が築き上げた「首狩り宗教」の遺産を持て余したまま立ちすくむ、日本の微妙な空気を反映しているのかもしれません。

●附論・集団業としての戦争

ここまでの議論で明白ですが、パーリ経典では、「戦争で勇敢に戦って敵を殺せば天国にいける」というような教えを「邪見」と断じています。戦争で英雄になって天国に逝くことはありえないにせよ、戦争という集団による大量殺戮・殺生の罪は、業論的にどう考えるべきなのでしょうか? 戦場においては全員が敵を殺すわけではありません。全員が鉄砲を持っていたとしても、射撃が下手で当たらない人もいれば、敵を目前にすると恐ろしくて引き金を引けなくなる人も多いでしょう。大集団で遂行される戦争において、個々の役割・ふるまいは千差万別です。

自分の能力の範囲でパーリ聖典を調べてみたのですが、釈迦族の滅亡に関するいくつかのジャータカ物語を除けば、戦争における集団の業について論じた文献はみつかりませんでした。そのかわり、偶然読んだ『阿毘達磨倶舎論』で、戦争など集団による殺生の罪について論じられた箇所を発見しました。世親により編纂された『阿毘達磨倶舎論(倶舎論)』は、北伝仏教で仏教の基礎学の教科書として重用されています。パーリ経典の伝統とは異なる部派の文献ですし、この連載の趣旨とは外れますが、この問題を「通仏教的」に考える材料にしたいので例外として取り上げたいと思います。

若【も】し多人有り。集りて軍衆【ぐんしゅ】を為し、怨敵を殺さんと欲し、或は獣を猟する等は、中に於いて、随って一【ひと】りの殺生すること有らん時、何人【なんびと】か殺生の業道を成ずることを得るや。

頌に曰く、

軍等の若し事を同じくするは、皆成ずること作者【さしゃ】の如し。
論じて曰く、軍等の中に於いて、若し随って一り殺生事を作【なさ】んこと有らば、自ら作す者の如く、一切皆殺生の業道を成ず。彼は、同じく許して一事を為すに由るが故なり。一事を為すに展転して相教ふるが如し。故に一り殺生するときは、餘も皆罪を得。

若し他の力の、逼【せま】りて此中【このなか】に入ること有らんときも、因りて即ち同心せば、亦【また】殺罪を成ず。

唯【ただ】若し誓【ちかい】を立てて、自ら要して自【おのれ】の命を救ふ縁にも亦殺を行ぜざるもの有るをば、除く。他の力に由りて逼【せま】られて、此中に在りと雖【いえど】も、而も殺心無きが故に殺罪無ければなり。

(阿毘達磨倶舎論巻第十六 分別業品第四之四 読み下しは国訳大蔵経に拠った。)

意訳すると次のようになるでしょうか?

人々が集団(軍隊)を作って、敵を殺そうとしたり、獣を撃ち取ろうとしたりして、集団の誰か一人が殺生した場合、誰が殺生の業を得るのでしょうか? 

 結論はこうです。

「軍隊で軍事行動を行った場合、全員が加害者です。」

以下、説明します。軍隊のなかで誰か一人が殺人をしたとしても、それは構成員の集団的な意志で合意ずく行った殺人であって、殺すに至る過程は連係プレーで相手を追い込んでいるわけです。だから、殺した本人だけじゃなくて軍隊全員に殺生の罪があることになります。

たとえ徴兵されたりして、無理やり軍隊に入れられた場合でも、軍隊で洗脳されて「敵を殺す」という意思を共有していたら、やはり殺生の罪になります。

ただし例外もあります。「たとえ自分の命を守るためであっても絶対に人を殺さないぞ」と、固く誓いを立てている場合です。それなら無理やり徴兵されて軍隊に入れられたとしても、殺そうという気持ちはさらさらないのだから、殺生の罪は被りません。

戦争協力や徴兵への対処という、現代の仏教徒でも悩んでしまいそうな問題に、『倶舎論』はそれなりの答えを出していると思います。あるいは実際に徴兵されて戦場に赴く在家信者さんから相談を受けたお坊さんが、一生懸命真摯に考えた答えかもしれません。

最近は日本仏教の宗派でも過去の戦争協力への「反省」が定着しつつあります。しかしそれも戦後の平和主義という主流思想に寄り添った結果ということもできます。戦争中は鬼畜米英を叫び、戦争が終わると平和と民主主義を叫ぶ、というのは仏教者に限らず大部分の日本の知識人のあり方でした。今後、尖閣諸島問題などがエスカレートし、対中強硬派がさらに力を得て戦時体制に移行したら、またぞろ「(不殺生など)声聞の持戒は菩薩の破戒」とか「殺すべき時は殺すのが大乗の不殺生戒」とか「一殺多生」とかデタラメなことを言い出す輩が必ず出てくるとは思います。

一応、『阿毘達磨倶舎論(倶舎論)』は大乗でも仏教の基礎学になっているテキストです。そこで明確に、戦争参加・戦争協力すれば、たとえ本人が直接手を下していなくても殺生の業になると説かれているのです。宗派を問わず、仏教徒であれば「戦争に加担してはいけない」と主張するための理論的な背骨になりうると思ったので、あえて紹介しました。ここには強いられて戦場に送られたとしても、自らは罪を犯さないための手段も書かれています。たとえ抗いきれない歴史の波に翻弄されようと、集団の業に巻き込まれることなく、仏祖の教えを汚さない生き方も、やりようによっては可能なのです。「心を守る」というたった一つの戒めによって。

●「首狩り宗教」への回帰

近い将来、日本がまた戦時体制に回帰したら、首狩り宗教の影響力・洗脳力がまた増す可能性があります。かつてのような黒塗りや焚書は不可能であるにしても、『戦士経』のような法門は、初期仏教の「反日」ぶりを象徴する教えとして、靖国の英霊を侮辱する夷狄の妄言として、権力者や大衆の憎悪の対象になるかもしれません。日本で第二の廃仏毀釈が起きるとすれば、その標的となるのは間違いなくパーリ三蔵に記録されたお釈迦様ご自身の教えでしょう。そうならないことを願いますが、先のことはわかりません。

世の中は無常で因縁により変化します。自分のこころも無常で因縁により変化します。いま初期仏教に惹かれている人々の心も変化して、敵を殺して救済を得ようとする「首狩り宗教」の熱烈な信者に豹変する可能性はあります。私も、あなたも、です。ですから、言論の自由があり、まだ社会が完全に狂気に覆い尽くされていないうちに、お釈迦様の教えを深く学んで、よく理解して、もう二度と首狩り宗教の網に絡め取られないように、後戻りしない聖なる智慧を開発することが肝心だと思います。余力のある人は、平和の終焉を一瞬でも先送りにするための努力に、加わってみるのも悪くないでしょう。

Sabbapāpassa akaraṇaṃ
Kusalassa upasampadā
Sacittapariyodapanaṃ
Etaṃ buddhāna sāsanaṃ.
(Dhp.183)

 一切の悪行為をしないこと。
善に至ること。
自らの心を清めること。
これが諸仏の教誡です。
(法句経一八三偈)

(初出:サンガジャパン Vol.14(2013 Summer),サンガ,2013/7/1









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仏教を知るキーワード【22】梵網経/沙門果経/大念処経(番外編)
 









仏教を知るキーワード【22】梵網経/沙門果経/大念処経(番外編)

nāgita

2018/11/16 14:52

番外編として、『上座仏教事典』に寄稿したパーリ経典(長部経典)の解説記事を掲載します。

梵網経 ぼんもうきょう
パーリ語 Brahmajālasutta

長部の第1経。梵網(聖なる網)とは、腕利きの漁師が目の細かい網を小さな池に投じるように、世にある見解(宗教哲学)を一網打尽にするブッダの智慧を言う。ある外道の師弟が仏法僧の三宝を非難または賞賛して争論したことに因み、アンバラッティカー園林で説かれた。ブッダは比丘らに、三宝への非難や賞賛を聞いても怒ったり歓喜したりせず、正常な判断力を持って根拠なき非難を否定し、正しい賞賛を認めよと諭す。凡夫はごく些細な戒を見て如来を賞賛する。しかし甚深微妙で賢者が知る真理によってこそ、人々は如来を正しく賞賛できる。経の後半は、沙門・バラモンが説く諸々の見解(六十二見)の分析を通して、仏教の特質=因縁の法が明らかにされる。過去の考察を根拠に「我(魂)と世界のありよう」を説く18の見解、未来の考察を根拠に「死後のありよう」を説く44の見解がある。如来はそれぞれの見解により赴く境地を知り、もっと勝れた状態を知り、しかもそれに執着しない。また、過去と未来を考察して見解を起こす者は、皆この62見解によるしかないと言明される。世にある見解とは、因縁の法を「知らぬまま見ぬままに感受したことであり、渇愛に囚われた者たちの煩悶・動揺」に過ぎない。真理を知らぬ人々は、感官への接触を縁として汚れた見解を起こし、網中の魚の如く輪廻に浮沈し続ける。如来は、感受を知悉して執着せず、見解を寂滅し、輪廻を解脱している。「一切勝者」たるブッダがこの法門を説いた時、十の千世界が震動したという。[佐藤哲朗]

沙門果経 しゃもんかきょう
パーリ語 Sāmaññaphalasutta

長部の第2経。沙門(出家者)であることの果報を示す。王舎城近郊のジーヴァカのマンゴー林で、マガダ国アジャータサットゥ(阿闍世)王に説かれた。ある満月の布薩日、侍医ジーヴァカの勧めでブッダと面会したアジャータサットゥ王は問いかける。俗人はおのおの、目に見える技能の報酬で自らを幸福にし、母父や妻子、友人や仲間を幸福にし、沙門バラモンに対して天界(幸福な死後)に資する布施を確立している。沙門についても、同じく現世における目に見える果報を示せるのかと。ブッダは(1)奴隷身分の者、あるいは(2)農夫身分の者が沙門となれば、王者の尊敬をも受けることを示す。さらに優れた果報は(3)在家者がブッダ(如来)のもと出家し、戒を守り、感官を護り、正念正知を備え、衣食に満足し、五(ご)蓋(がい)を除去し初禅に達すること。さらに(4)二禅。(5)三禅。(6)四禅。(7)観智。(8)意から成る身体の創造。(9)さまざまな神通。(10)天耳通。(11)他心智。(12)宿命智。(13)天眼智を挙げ、最上の沙門果は(14)漏尽智(解脱)と結論する。アジャータサットゥ王は三宝に帰依し、父王ビンビサーラを殺した罪を告白した。本経はいわゆる「王舎城の悲劇」の後日談でもある。アジャータサットゥ王が六師外道の所説を語る前半部は古代インドにおける沙門思想の概説となっている。[佐藤哲朗]

大念処経 だいねんじょきょう
パーリ語 Mahāsatipaṭṭhānasuttanta

長部の第22経。クル国カンマーサダンマで比丘サンガに説かれた。長部で唯一、修道法を主題とした経であり、四念処の実践に関するさまざまな経説を網羅している。四念処とは身体(身)、感覚(受)、心、覚りに関わる真理(法)という4つの側面から念処(satipaṭṭhāna)即ち「気づきの確立」に至る修道であり、「涅槃を見るための一道」とされる。本経の総説にあたるフレーズ「ここに比丘は、身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。諸々の受において……。諸々の心において……。諸々の法において……。」は、相応部大篇念処相応はじめ念処を説いた多数の経に共通する。身念処は出息・入息、威儀、正知、厭逆(不浄)、要素(四大)観察、九墓地(死体)。受念処は苦、楽、非苦非楽など9種の感覚。心念処は貪りのある心、怒りのある心、愚痴のある心など14種類の心。法念処は五(ご)蓋(がい)、 五蘊(ごうん)、十二処、 七覚支、 四諦に分けて説かれる。ブッダは結論として、四念処を熱心に7年ないし7日修習すれば現世で完全智(阿羅漢果)または不還果(ふげんか)に至ると説く。中部の第10経、大念処経(Mahāsatipaṭṭhānasutta)とほぼ同内容だが、長部では法念処の「四諦」の解説がより詳しい。中部の第118出入息念経、第119身至念経も関連が深い。[佐藤哲朗]

(初出:パーリ学仏教文化学会 上座仏教事典編集委員会・編『上座仏教事典』めこん,2016










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テーラワーダ仏教と日本――『瀕死』日本仏教に活力与える
 



佐藤哲朗(日本テーラワーダ仏教協会 編集局長)



テーラワーダ仏教と日本――『瀕死』日本仏教に活力与える

nāgita

2018/11/16 12:25

【写真】オルコット日本出発式の記念写真。仏教世界が一体化した近代を象徴している。明治22年(1889)1月コロンボで撮影。出典:the BUDDHIST and the Theosophical Movement 1873-1992(the Maha Bodhi Society of India)

佐藤哲朗(日本テーラワーダ仏教協会 編集局長)

先日、拙著『大アジア思想活劇―仏教が結んだ、もうひとつの近代史』(二〇〇八、サンガ)を電子書籍化しました。同書は明治維新に伴う廃仏毀釈で大きな打撃を受けた仏教界が復興を模索する過程で、それまで「小乗仏教」と観念的に軽侮してきた南伝上座仏教(テーラワーダ仏教)を奉じるスリランカの仏教復興運動と邂逅した歴史の細い糸を辿ったものです。電書版の編集過程で、改めて近代史における仏教国際交流の意義について考えさせられました。以下、いくつかのキーワードに沿って論じたいと思います。

アジアからの風、アメリカという権威

拙著では、二人の海外仏教者に焦点を当てました。一人はアメリカ出身のヘンリー・スティール・オルコット(1832-1907)、もう一人はスリランカ出身のアナガーリカ・ダルマパーラ(1864-1933)です。前者は神智学協会の創始者で、南アジアに渡ってスリランカ仏教の復興及び近代化を指導しました。後者はそのオルコットに見出された仏教活動家です。

明治20年代初頭、白人の仏教指導者であるオルコットを日本に招聘する運動が京都仏教徒グループで盛り上がりました。仏教が欧米のキリスト教に劣らぬ宗教であることを証明するために。明治22年(1889)に実現したオルコット来日は一時的な仏教ブームを巻き起こします。

随行のダルマパーラは高楠順次郎(1866-1945)らと友情を結び、生涯で四回来日して仏教徒の連帯と反植民地主義を訴え続けました。「瀕死」の日本仏教に新たな活力を与えたのは、アメリカ人オルコットとその従者たるアジアの仏教者であり、彼らを触媒として南北に離散した仏教世界は一つに結びつけられたのです。

それから50有余年のち、第二次世界大戦で米国を盟主とする連合国に大敗した日本はアメリカの下流域国家として国際秩序に組み込まれ、米国は物心両面で権威の源泉となりました。

近年の日本では、テーラワーダ仏教圏の修道体系がアメリカ経由の「マインドフルネス瞑想」として権威づけられ広く受容されています。これは明治22年、京都の知恩院でパーリ語の三帰依五戒文を唱えて仏教界に衝撃を与えたオルコット来日から、仏教史の大きな流れで繋がっているように思えます。

マインドフルネスと「念」解釈の変容

戦後の1950年代、ミャンマーで瞑想の大家として名高いマハーシ長老(1904-1982)のもとに日本曹洞宗の青年僧侶たちが参じ、ヴィパッサナー瞑想を学びました。しかし、彼らが日本でその教えを紹介することはありませんでした。当時、日本の仏教者はテーラワーダ仏教を「戒律仏教」と見なす認知バイアスに囚われており、瞑想実践への関心は皆無に等しかったのです。

日本でいわゆるヴィパッサナー瞑想(観の実践)が広まったのは、主に一九九〇年代です。指導者はスリランカやミャンマー出身の僧侶、あるいは当該国で修行を積んだ在家者でした。それが二十一世紀になってから、アメリカのマインドフルネス瞑想ブームにのって一般化したのです。

前述のように、戦後日本はアメリカの下流域国家であり、スピリチュアルな権威もまた米国のお墨付きがものを言います。その米国仏教には、1893年のシカゴ宗教大会以来、本格的に進出した日本の禅仏教関係者も大きな影響を与えました。

なお、マインドフルネスは仏教用語「念(サティ)」の英訳ですが、このマインドフルネス及びアウェアネスからの重訳語である「気づき」が、伝統的な「念」解釈にも影響を与えています。従来、八正道の正念は「正しい記憶」「正しい思念」など、具体的な実践と結びつき難い単語に訳されていました。テーラワーダ仏教のサティ概念が(英語経由で)移入されたことで、仏道実践の要諦たる「正念」の実践が、「気づき」なる日常語とともに一気に普及したのです。

仏教とナショナリズム

ダルマパーラは全世界の仏教徒にインド・ブッダガヤ大菩提寺の奪還闘争(この運動は日本からインドに帰化した佐々井秀嶺師に継承され、一定の成果をあげた)を呼びかけた汎仏教主義者であるとともに、仏教徒が多数派をしめるシンハラ民族に依拠したシンハラ仏教ナショナリズムの祖でもあります。

2009年に終結したスリランカ内戦は、仏教徒シンハラ民族とヒンドゥー教徒タミル民族の対立として報じられました。最近では、ミャンマー仏教徒によるイスラム教徒ロヒンギャ民族の迫害を告発する報道も頻繁に目にします。

現在、仏教とナショナリズムの問題がテーラワーダ仏教圏で頻発しているのは事実です。三宝帰依を天皇制国家への絶対的献身へとすり替えた黒歴史は日本仏教に大きな傷を残しましたが、スリランカにせよミャンマーにせよ仏教徒(および仏教を奉じる民族)は多数派であっても全体ではあり得ません。宗教的ナショナリズムを貫徹すれば、その他の少数派グループは論理的帰結として排除・殲滅に追い込まれるのです。

上座仏教圏の宗教ナショナリズムは、仏教を含む諸宗教が天皇制カルトへの同化を強いられた日本の前例とは異なる毒性を胚胎しています。一切衆生の幸福を願う世界の仏教者は、誰もが脛に傷を持つ自覚のもと、宗教ナショナリズムの克服に向けて尽力すべきでしょう。

日本人の仏教となったテーラワーダ仏教

いわゆる近代仏教史の範疇では、日本におけるテーラワーダ仏教移植の試みはいったん潰えています。真言宗の釈興然(1849-1924)は、明治23年(1890)に留学先のスリランカで具足戒を受けて比丘となり、帰国後は外護者を得て日本人留学僧をスリランカに送り出して日本人比丘サンガ設立を期したが挫折しました。

興然の挫折からほぼ100年を経た現代、数十名規模のテーラワーダ仏教比丘が日本に滞在しています。居留民コミュニティに依拠する外国人僧侶、海外で出家後に帰国した日本人比丘が大多数ですが、日本国内に設定された戒壇で受戒した日本人比丘もいます。実質上、日本にもテーラワーダ仏教サンガが成立していると言えるでしょう。

彼らを支える裾野として、テーラワーダ仏教に帰依あるいは強いシンパシーを持つ日本人も万単位で存在すると思われます。テーラワーダ比丘による法話やパーリ仏典に関する日本語の出版やネット情報も、既成仏教を凌駕する勢いです。この潮流が逆転することは、もうないでしょう。

日本でテーラワーダ仏教が受容された遠因に、増谷文雄、中村元などの書籍を通じて普及した「原始仏教」ブランドに合致したことが挙げられるでしょう。近代的「原始仏教」イメージに由来する合理性の強調と、アメリカとアジアの合作であるマインドフルネス実践のセットは、テーラワーダ仏教をスマートな非宗教的な実践体系として日本人に受容させました。

とはいえ伝統的な宗学で再生産された「小乗仏教」への偏見も根強く、日本におけるテーラワーダ仏教の受容には、常にプラスとマイナスの鬩ぎあいがありました。明治の開国以来かなりの時間を要しましたが、ここ十年ほどで、テーラワーダ仏教は移民コミュニティの仏教から「日本人の仏教」に成長したと言えるでしょう。

その一方で、東南アジアやスリランカの仏教に触れた人々の中には、仏教徒の大多数が瞑想に関心を持たず、祭礼や布施儀式を中心としている実態に困惑する向きもあります。これは、アメリカやヨーロッパで禅堂に通い、いざ「仏教国日本」を訪ねて激しいギャップに驚く欧米人の感覚に近いかもしれません。

これから日本におけるテーラワーダ仏教の変容を参与観察する上で、近代仏教史研究の成果への目配せは欠かせないと痛感しています。皆さまも動態としての仏教世界を見通す一つの視座として、「テーラワーダ仏教と日本」の行く末に注目してほしいと願っています。

(初出:『中外日報』2017年6月30日号,中外日報社,論「近代日本の宗教」11)








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 十夜法要レポート 『有漏と無漏』 
 






協会の記事
ではありません。
吉水 秀樹  安養寺住職 のfbより紹介です。






 十夜法要レポート 『有漏と無漏』 
        2018年11月11日 於:安養寺

 仏道修行、冥想、こころを育てるとは、「自分を知ること」に違いありません。自分を知るというとありきたりな言葉ですが、自分を知ることを完成させたら、それが覚者であり、仏教の最終目的の涅槃に至ることとも言えると思います。
 日常の自分のありのままを知るのに「有漏」という言葉が役に立ちます。「漏」「漏れ」とは、こころの汚れ、煩悩のことで「感情」と理解するのが実践的です。お釈迦さまの時代から使われていた言葉で、パーリ語のāsavaアーサヴァが「漏」と漢訳されました。
喧嘩や言い争いは、「漏れ」を通りこした、「ただ漏れ」「たれ流し」なので、感情が漏れはじめたときに速やかに気づいて漏れを止めることが大切です。
最初に私たちは「漏れ」のある自分を認めることからはじめます。世間の人々も漏れがあります。立派な大人ですが、みんなオムツをして生きていると見てください。さて、「漏れ」を認めたら、何処から、煩悩(感情)が漏れているのでしょうか?
 お釈迦さまは、六根から漏れ出ていると説かれました。六根とは、眼耳鼻舌身意です。他者に対して悪感情をもって「睨む」とき、眼から漏れています。世間話、噂話をしている内に、ある人の悪口を言いたくなったら口から漏れます。無慈悲で自己中心的な行動は身体と行為から漏れています。こう考えると確かに、全身から煩悩が漏れていることが理解されます。漏れの大元は、六番目の「意」、こころに違いありません。

 悪感情・悪口・嫉妬・妬み・貪欲・怒り・執…などが、漏れと思いがちですが、私は最初に生まれる「欲」の感情が漏れのはじまりだと思います。「欲」は、人間社会生活で必要不可欠なものです。仏教を学びたい、法話会や冥想会に行きたい、家族を幸せにしたい、美味しいものを食べたい。すべてはじまりは「欲」です。その欲を放っておくと、何が何でも、我先に、人を押し退けてでもと、「欲」が危険な「貪欲」に変化するのですが、「漏れ」と言われているのは、「貪欲」のことではなくて、はじめの「欲」に気づくことだと私は理解しています。

 仏教の冥想会に行きたいといった善行為であっても、その「欲」や「意志」を野放しにしておくと、それがそのまま執着になってしまいます。「欲」には理性がありません。この具体例は以前にお話したので省略しまが、「欲」を捨てて、淡々とするべきことをすればよいと思います。

 「有漏法」という言葉があります。その意味は俗世間、私たちの生きているこの娑婆世界のことです。私たちが生きている世界は、「欲」があってこその世界です。四諦でいう、「これありて、かれあり」苦・集の世界です。欲があって、社会は成り立っています。これに対して、「無漏法」とは、彼岸のことであり、四諦でいう、「これなければ、かれなし」滅・道の世界。無智と欲が消えれば、悩みも苦しみもありません。

さて、日常生活では、「言葉」と「眼差し」に注意するということで、法話をしめくくりました。

★言葉とは、「何か言いたい」「一言言いたい」とする衝動に気をつけること。一旦停止して、その衝動が消えてから話すこと。間違っても、悪口は言わないこと。噂話・無駄話・世間話には気をつけて、可能な限り離れること。そこに居ない人の話は妄語と理解して要注意! ブッダは口には二枚の刃があると説かれました。

★眼差しとは、何かの行為をするより、慈しみのこころを育てて、慈しみのこころで世界を見ることです。学校や会社で虐げられている人がいたら、自分は何もできなくても優しい眼で見ることならできます。実際に何かの行動をするより、慈しみのこころで見る、眼差しにこそ世界を変える底知れない力があります。世間では、儲けよう、勝とうとせめぎ合い、「睨み合い」がまかり通っています。仏教者である私たちは、慈しみのこころを育てて、ブッダの眼差しで世界を見るように努めるとです。何かをするのでなく、見るだけなので、誰でもいつでもその場で実践できます。

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ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味 1-4全部のまとめ
 







WEBサイト「DANAnet」より編集です。

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味

1-4全部のまとめ 

日本テーラワーダ仏教協会(渋谷区 宗教法人)の編集局長として、仏教や瞑想に関する情報発信を長年続けてきた佐藤哲朗さんに、ヴィパッサナー瞑想法のあらましと、実践にあたって理解すべきポイント、また初心者が陥りやすい誤解などについて伺いました。4回にわたって連載します。

日本テーラワーダ仏教協会:アルボムッレ・スマナサーラ長老の指導のもと、お釈迦さまの教え(初期仏教)を社会に紹介し、人々が法を学び修行できる環境を整え、生きとし生けるものが幸福に達するためのお手伝いをする目的で活動している。

Q1   こちらの協会では、ヴィパッサナー瞑想を指導しているそうですが、なぜ、今、注目されているのですか。

ヴィパッサナー瞑想は、観察瞑想とも言われます。経典に使われるパーリ語から説明しますと、「ヴィ」というのは「よく・詳細に」、「パッサナー」は「観る」という意味になります。つまり、「よく観察すること」という意味になります。

現代的なヴィパッサナー瞑想は、ブッダの時代から連綿と実践されてきた、「四念処」、身・受・心・法の四つのアプローチで現象を観察する修行法に基づいてアレンジされています。四念処の「念」の原語は「サティ」で、現代日本語では「気づき」と訳されていますね。ですから、ヴィパッサナー瞑想を親しみやすく「気づきの瞑想法」と呼ぶこともあります。

これまでの日本社会で行われてきた「瞑想」というと、何か特定の対象をこころにイメージして精神集中するとか、ひたすらマントラ(真言)を唱え続けるとか、そういう宗教的・神秘的な「行」という印象が強かったと思います。あるいは「禅問答」という言葉にあらわれているように、何か不条理な世界に自分を追い込んでいくような感じもありましたよね。

それに対して、ヴィパッサナー瞑想では神秘的なシンボルや呪文、こころが作り出すイメージまでも一切排除して、科学的にものごとを観察するというアプローチを取ります。客観的に自分(と呼ばれている現象)を観察するということで、これは宗教というよりは「心の科学」(スマナサーラ長老)なのだと、現代人にも受け入れやすかった、フィットしたということではないでしょうか。「観察=瞑想」という合理性が、宗教よりは科学を信頼する現代人のマインドにも合致したということですね。長い歴史を持つ仏教国である日本の人々にとっても、ヴィパッサナー瞑想は新鮮な驚きをもたらしたのです。

  • 四念処……「気づき(サティ)」を備えて、身(身体の要素や動き)・受(身心の感覚)・心(こころの状態)・法(解脱に資する諸々の概念)という四つのチャンネルを観察し、「一切のものごとは執着に値しない」と発見して解脱に達する修行法。絶えず生滅変化する「身・受・心・法」の状態・あり方に不断に気づき、注意し続ける「気づきの実践」を通して、現象へのとらわれ・執着を離れ出世間の智慧を開発する実践である。

――ブッダの瞑想もヴィパッサナー瞑想と考えてよろしいでしょうか。

ヴィパッサナーという単語自体は、パーリ経典の中にそんなに頻繁には出てこないのですが、サティパッターナ(念処)、いわゆる気づきの瞑想といわれる四念処の実践はいたるところで言及されていますし、中村元博士の翻訳で日本人に親しまれている『スッタニパータ』の中でも、“サティ”(気づき)という言葉はたくさん出てきます。いわゆる『スッタニパータ』の一番古層の部分にも、サティという言葉が出てきます。気づきを絶やさない、ということですね。

そのサティの実践が教学的に整理されていった時、ヴィパッサナーという単語で表されるようになったのです。まあ、細かいところでは異論も成り立つかと思いますけれど、一応、テーラワーダ仏教の伝統の中では、サティの実践・観察の実践が即ち、ブッダの瞑想法ということになります。

なぜ、そう言い切っちゃうかといえば、いわゆる精神集中的な瞑想ならば他のどんな宗教でも教えていますが、サティの実践・観察の実践ということは、お釈迦さま以外の誰も発見しなかったからです。サティの実践・観察の実践を発見したからこそ、お釈迦さまは覚りを開いてブッダになったのだと、仏教徒は確信しているわけです。

Q2   マインドフルネスは、日本語に訳すと何と言いますか。

「気づき」という訳になりますね。さっきもちょっと触れましたけど、マインドフルネス(mindfulness)は、仏教経典に出てくるサティ(sati, サンスクリット:smṛti)の英訳なんです。他によく使われている英訳にアウェアネス(awareness)があって、スマナサーラ長老はこっちのほうが正確な訳だと仰っています。

経典をひも解いてみるとサティという単語は、①瞬間瞬間の気づき・注意・不放逸、②特定の(瞑想)対象・法に心をかける、③単なる記憶作用、といった意味で用いられてきました。

中国に仏教が伝来した時、サティ(sati, smṛti)には「念」という訳語が当てられました。歴史的経緯を見ていくとややこしいところがあるんですけれど、シルクロードを経由して中国にわたった北伝仏教の教学では、念というキーワードが、記憶するとか、思念するとか、一つの対象を考え続ける、というふうに――いわゆる念仏の念ですよね、阿弥陀仏だったら阿弥陀仏を念じ続ける――対象を想起し続ける、というかたちで解釈されてきました。

要するに、日本も含めて北伝の仏教では、サティを解釈する時に②と③の意味が強まって、①「瞬間瞬間の気づき(つまり不放逸)」という実践的意味が抜け落ちてしまったんですね。とはいっても、日本語で「正念場」とか「念には念を入れよ」という時の「念」には、①の意味も残っていますよね。面白いなと思います。

現代のテーラワーダ仏教に至る南伝仏教の文脈では、「瞬間瞬間の気づき(つまり不放逸)」という実践的な意味が保存されてきたんですね。サティはアウェアネス、マインドフルネスなどと英訳され、そこからさらに日本語に重訳して「気づき」とされたのです。

「気づき」というキーワードは仏教的な文脈だけではなく、スピリチュアル系の本なんかによく出てくるため、敬遠する人もいます。でも従来の仏教文献では、八正道の正念は「正しい記憶」「正しい思念」など、具体的な実践と結びつかない単語に訳されていたんですね。訳した人も、意味が分かってなかったかもしれません。そこにテーラワーダ仏教で保存されてきたサティの概念が「マインドフルネス」あるいは「アウェアネス」という英語経由で移入されたことで、仏教の基本中の基本である「正念」が日本人にもストンと理解できたんですね。瞬間瞬間、変化生滅し続ける現象のあり方(無常)に「気づく」ということが、ブッダの説かれた「正念」の実践方法でした。しかしそれが、これまでの日本語の仏教の文脈の中では見失われがちだった、ということなのです。

20世紀末から今世紀にかけて、テーラワーダ仏教という新しい流れが日本にどっと入ってきたことによって、これまでの日本の仏教の中で空白になっていたミッシングピースが、「正念とは、正しい気づきなのだ」という具合にバチっと嵌ったんでしょうね

Q3   気づきの状態とは、どういうものですか。

瞬間瞬間、自分という身心に起きている現象に、先ほどお話しした四念処、つまり身体、感覚、心、法(ダルマ)のチャンネルで気づいている状態のことを言います。具体的にいうと、身体の観察(身隨観)では、身体の要素・日常の動作や呼吸など身体の機能を観察します。身体の機能は必ず感覚を伴って起こりますから、その感覚にフォーカスすると感覚の観察(受随観)になります。四つのチャンネルと言っても密接につながっているものです。

ただ、やりやすいのは身体の動きの観察ですよね。立っている状態だったら、立つまでの動き、立っている時の身体の状態を観察する。呼吸するたびに身体が膨らんだり縮んだりする動きを観察する。あと、日常の動作ですね。歩いている場合は歩いている状態を観察する。それと、身体にはいつでも感覚があるでしょう。いつでも不快・快・中立(苦・楽・不苦不楽)の感覚が現れては消え、現れては消えしていますから、それを淡々と観察する。

たとえば、いわゆるマハーシ式だと、お腹の膨み縮みを観ます。膨らんでいる時と縮んでいる時の感覚は、瞬間瞬間違っていて、変化しています。感覚の変化を、瞬間瞬間、観察していくと、そこにすごいダイナミズムがあると分かるんです。心の観察(心随観)の場合は、心の変化です。心が大きくなったり小さくなったり、暗くなったり明るくなったり、そういう心の変化を観察してゆく。それから、現象を成り立たせている様々な真理、現象世界から離れていくための様々な真理を観察してゆく。身・受・心・法という四念処、その四つの角度・アプローチで観察していく、ということになります。

身体の要素観察には、三十二分身の観察というのがありますね。身体の表面から髪の毛、体毛、皮膚、爪、歯、皮膚の中にあるもの、大便、小便、体液、胃液とか、あとは肺や肝臓や腎臓、脳みそなどの内臓とか骨とか。私たちが大事に手入れしている身体も、ひとつひとつの部品を取り出してみればすごく気持ちの悪い、不浄なものでしかない。それを確認してゆく、いわゆる解剖学的な瞑想ですね。

日本では実践できないと思いますが、死体が徐々に腐って朽ち果てていく様を実際に観察するやり方もあります。昔のお坊さんたちは、墓場や死体捨て場に行って、身体が壊れていく様子を観察していた。それも身念処、一つの身随観です。日本でなかなかできないことです。でも、スーパーに行って、生鮮食料品売り場を覗いてみて下さい。魚の切り身と言ったって、それは「死体」の一部ですからね。豚肉も鶏肉も神戸牛の霜降りも、肉は死体ですから。それも観察になります。「美味しそう」どころではなくなりますから、日常生活の中でそこまでやる人はなかなかいないでしょうけれど――。

Q4   気づきの状態を得る方法として、坐ってする瞑想と歩行瞑想があります。その違いと、観察の対象を教えてください。

立つ瞑想、歩く瞑想という場合、観察の対象は、四念処の“身(身体)”と“受(感覚)”の二つです。この身体と感覚の2つの観察という要素が大きいんですけれど、あと、やっていくうちに心の観察にも入っていきますね。すべてサティの実践は、瞬間瞬間に何が起こっているか、その時々の瞬間瞬間を観察してゆくということなので、四つのチャンネルと言っても、実践する場合は一本道なんです。その瞬間にサティを入れているチャンネルがどこか、その瞬間、何に気づいているのか、という差でしかないのです。瞬間瞬間起きている現象に傾注して、気づいていること、気づきを絶やさないこと。立っていようが、歩いていようが、坐っていようが、それだけのことです。

――それを日常生活の中に取り入れることはできますか。マインドフルな毎日を送るにはどんな工夫が必要ですか。

「瞑想とは実況中継である」とスマナサーラ長老も仰っていますが、日常生活の中でも、実況中継しながら気づきを絶やさないことは、各人の工夫によって可能です。一人でいる時は文字通りの実況中継もできますが、自動車の運転など、複雑なことをしている時には難しいでしょうね。そういう時でも、自分がいま何をしているのか、ということを承知(正知)していることはできるでしょう。

あるいは、日常生活の中で心の変化が起きた時に、なんか引っかかっているなということで、自分は執着しているんだな、と気づく。「あ、執着」とラベリングする。そうやって、真理の角度でものごとを見て「あ、自分はいまこうなんだ」と気づくことはできるでしょうね。その角度に感情を入れて、「執着してる自分はダメだ」とか評価を始めたら、瞑想どころかただの妄想ですが。要するに、いつも「観察モード」でいるということです。生活の中で、ひたすら観察してデータを集め続けるんです。でも、余計な評価は一切しない。それができれば、マインドフルな毎日を送れるということになるのではないかと思います。

掃除をしている時には、掃除機「押します、引きます」とか、皿洗いする時には、「回します、回します」とか、手を「伸ばします、戻します」など、そういう単純な動詞で実況するんです。なるべく単純な動詞を使うことで、現象世界の見せかけの複雑さに捉われることなく、いま・ここの自分の行為を実況中継することはできます。一人の時だったらね。やれる時にはやればいいし、やれない時にも観察モードを忘れないで、自己観察してゆくことはできるはずです。

たとえばかっと怒りそうになった時には、「怒りが出てきたな」と気づければ、それ以上、炎は燃え広がらないでしょう。マインドフルじゃない場合は、怒りが炎上して延焼まで起こして、たいへんなことになってしまったりします。欲にしても怒りにしても、気づきがあるのと無いのとでは、結果が大きく違います

――それだけ我々は気づいていられないということですか

基本的に私たちは、観察モードは嫌ですよね。オートモードで、ぼんやりしていたい。ボーっとしていたい。貪瞋痴(欲・怒り・無知)のままにしていたい。観察モードの生き方は、貪瞋痴の反対ですから。惰性で生きていたい、なるべく寝ていたい自分を無理にでも切り替えて、つねに観察モードでいるというふうにすれば、日常生活のトラブルもかなり軽減されるんじゃないでしょうか。

たとえば、「瞬間瞬間、言葉で実況中継なんかできない。やってられない。そんな必要ないんじゃないか」と思ってしまうのは、ある意味、あたりまえの話なんです。私たちは覚ってないんだから、観察モードなんて嫌なんです。瞑想がんばってるという人にしたって、ホンネのところは瞑想してるふりだけして、ボケっとしていたいんです。たまさか真剣に実況中継しても、嫌で嫌で仕方がなくて、タイマーが鳴った瞬間に拷問から解放された気分になる場合もあります。それがケシカラン、という話じゃなくて、それがありのままの人間なのです。

お釈迦さまは、仏道を歩む人が最初の解脱(預流果)で無くなる煩悩(結)が三つあると仰っています。①「有身見【うしんけん】」……「わたし・我」が存在するという思い込み。②「戒禁取【かいごんじゅ】」……戒律や修行にたいする見当違いのこだわり。③「疑【ぎ】」……真理に対する疑い・疑心暗鬼。煩悩というと、欲とか怒りをイメージしがちなんですが、瞑想する人が実際に戦わなくてはいけないのは、「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という固定観念とそのお仲間なんですね。

あとでも話しますが、私たちは何か見るたび、聞くたび、感じるたび、考えるたび、「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という錯覚を作り出しているんです。仏教の「気づきの瞑想」というのは、この「わたし」が無いもののように観察モードで生きることですから、「わたし」の立場からしたら、嫌がらせみたいな行為なんですね。当然、「わたし」を大切にしたい人情からすれば認めたくないですし(有身見)、なるべく見当違いのことをしてやりたくなりますし(戒禁取)、こんなんおかしいだろという疑心暗鬼にもなります(疑)。ですから、「気づきなんかやってられるか」というホンネをまず認める素直さがないと、修行はキツイんじゃないかなと思います。

――それは、瞑想を実践しようとする人が突きあたる壁のようなものですか、そうだとしたら、その乗り越え方を教えてください。

人それぞれでしょうけど、預流果の解脱に達しない限り、有身見・戒禁取・疑はつきまとうわけで、あまり気にしないで淡々と続けることでは? いつでも「観察モード」でいる、という実践のエッセンスをつかんでおくこと。それから、修行とは自分の欠点に気づく営みなんですから、「うまく行かない」と感じるのがあたりまえなんです。瞑想するたびに自分のダメさが見えてくるということは、素直で正直である証拠なので、良い傾向として喜んだほうがいいんじゃないでしょうか?

ヴィパッサナーの芯をつかまないで、枝葉末節のところにぶら下がってしまうと、疑心暗鬼に捉われてぐらぐらしてしまう。そうではなくて、基本的に瞑想というのは観察モードなんだ、と太い柱を立ててみる。細かく観察するためには、ちゃんと坐る、歩く瞑想を集中するということも当然、必要です。しかし日常生活の中でも、観察モードを忘れなければ、それは瞑想して生きているのと同じなんだと。このように芯をつかんでいれば、スランプということも起きないと思います。だいたい、うまく行かないことをスランプと解釈すること自体、「完璧な自分」がどこかにいるはずという邪見ですからね。

よく「人としゃべる時に、実況中継できないじゃないですか」とか聞かれるんですけど、それはちょっと気づきの瞑想を形式的にとらえ過ぎです。そういう時は、相手の話によく注意(サティ)して、自分が話す時もきちんと注意(サティ)することが、すなわち気づきです。そうやって、ちゃんと芯をつかむこと、ということで解決するのではないかと思います。(次回に続く)

2-Q1   瞑想したら、怒らなくなりますか。

残念なことですが、いくら瞑想してたって、怒るときは怒っちゃいますよ。怒りという煩悩(結)が消えるのは、第三の解脱(覚り)である「不還果」という段階です。ほとんど最終的な覚りに近いところです。そこまでいかない限り、まったく怒らなくなる、ということはあり得ません。われわれにできるのは、怒ったときには、「怒っているな、怒り始めているな」と気づいて炎上させないこと。欲や怒りに飲み込まれない、ということです。そうすれば、怒りに我を忘れて衝動的に人をぶん殴るというような危険は少なくなります。

基本的に、「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という自我の錯覚が、他の煩悩を燃やす燃料になっているのです。たとえば、「わたしのもの(It’s mine)」という衝動は、対象を自分に引き寄せようとするエネルギーです。それが人間の執着心を燃え上がらせる燃料となります。

つまり、こういうことです。「わたし」「わたしの」といっても、それはただ単に瞬間瞬間に起きる現象だし、“わたし”という確固たるものがあるわけでもない。そう納得できれば、そんなに怒らなくても、人と喧嘩するほどのことでもないだろう、というところで落ち着くんです。「なにも、そこまで怒らなくても……」ということになるのです。

気づきの実践をつづけて、「わたし」という実体はないんだ、という真理に納得したならば、感情があったとしても、理性のほうが勝った人になっています。つねに自分(という現象)を客観視できるから、怒りに我を忘れるというようなことはなくなるのです。

2-Q2   気づきの実践のポイントはなんですか。また、坐ってする瞑想と歩行瞑想の違いを教えてください。

身体は常に伸び縮みしています。呼吸によっても、膨らんだり縮んだりしてますし、呼吸のほかにも、血液や体液を循環させるために膨張、収縮を繰り返しています。分子レベルでみても、常に震えているのです。気づきの実践のポイントの一つは、そうやって、ずっと動き続けている身体のありよう(身体に起こる感覚のありよう、心のありようなど)を観察し続けることなのです。

その変化も同じことが再現しているわけではなくて、瞬間瞬間、新たな現象が生じては滅して、生じては滅してという、一回性のものです。すべての現象は一期一会で、瞬間瞬間、変化消滅しているということを、身をもって体験するということが気づきの実践です。そのために坐ってやるのか、立ってやるのか、寝てやるのか、あるいは歩いてやるのか、あとは日常の作務をしてやるのかは、基本的には、姿勢の違いだけです。

ただもちろん、能動的に歩いているときと、受動的にただ坐っているときでは、感じるものの性質が違ってきます。受け身の時は、無意識下で起こっている、人間が意識で制御していないいろいろな現象も観察できます。あるいは逆に能動的に歩いているときには、どんなことをするにも自分の意思(意欲)が絡んでいることが観察できるのです。つまり、見方を変える、チャンネルを変える、状況を変えるというだけなんですが、観察モードでいるということに変わりはありません。

だらだらと歩くのではなくて自分の意思で、意識して気づきを入れながら歩くという訓練をすることで、観察能力も上がってくるので、初心者の方には歩く瞑想をちゃんとやったほうがいいんじゃないですか、と勧めています。しかし、修行というと坐禅というイメージが強いものですから、「いいえ、私は坐ります」と言って、実際には、坐禅にならず、そのまま寝てしまう人も少なくありません。目覚めたこころの状態を習慣づけるためには、歩く瞑想をたくさんしたほうがいい。とにかく、観察モードでいることが大切です。

2-Q3   日本テーラワーダ仏教協会のヴィパッサナー瞑想と、マインドフルネス瞑想法との違いはありますか。

協会の、というよりブッダの瞑想との違いですね。マインドフルネス瞑想に取り組む人の姿勢によって、近似したものにもなるし、縁遠いものにもなると思います。

マインドフルネス瞑想法は、基本的にカウンセリングや医療、自己啓発的なものとして実践されているようです。当協会のヴィパッサナー瞑想法と言えば、ブッダの説いた、念処(サティパッターナ)、サティの実践ですよね。それが、2600年前のお釈迦さまの時代から現代に至るまで連綿と受け継がれている。いま行われているマインドフルネス瞑想法も基本は同じです。両者は、観察モードになるという点では同じものです。

――医療の分野や、企業の社員教育に使われることについて、どのように思われますか。それは、どのような効果を生むのでしょうか。

仏教の文脈で言えば、「苦の滅尽」ということが説かれています。解脱・涅槃とも言いますが。苦の滅尽という究極のゴールに達する方法を説く『大念処経』のイントロダクションにはこうあります。

比丘たちよ、この道はもろもろの生けるものが清まり、憂いと悲しみを乗り越え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を目の当たりにみるための一道である。すなわちそれが四念処である。

要するに、涅槃を目の当たりに体験するための実践であると言っているので、一部を取り入れてやってもよい結果を得られると思います。

とくに医療の場合は、純粋に人助けの世界ですから、大いに取り入れてほしいと思います。問題があるとすれば、キャリアアップのためにとか、仕事の効率を上げるためにとか、世俗的な目的で行われる場合です。それはそれなりの結果しか得られないと思いますよ、欲の世界の話なので。欲の結果を得たいがために、欲を抑えるということですよね。

これも逆説的なことですけれど、欲の対象を得るためには欲を抑えなければならないんですよね。これは仏教心理学でいう面白いポイントなんですけど、欲望のまま突っ走ったら欲望の対象は得られない。欲望のために欲望を抑えなくちゃいけない。

それと同じで、マインドフルネスも、キャリアアップとか、能率アップとか、スキルアップとか、自我を満足させる目的の為に自我を抑えて、観察モードでやってみましょうということです。それなりに結果は得られるでしょうけど、それで終わりです。ちょっともったいないという感じはしますよね、仏教的な立場から見ると。

――坐禅(只管打坐)とマインドフルネス瞑想法の違いは何ですか。

スマナサーラ長老の受け売りなんですが、只管打坐になったら修行の完成です。でも只管打坐になれないから苦労しているのであって、「ゴールはここだ」と言われても、どうやって行ったらいいかわからない。だから、マインドフルネス瞑想法を実践したら結果としては只管打坐になります。修行は完成しますよ。

2-Q4   瞑想をする上でよく聞く「ラベリング」とは何ですか。また、ラベリングを使う流派と使わない流派があるのですか。

ラベリングとは、いま起きている現象に相応しい簡潔な言葉で中継することで、妄想が入り込まないようにする工夫です。「わたし」という主語を廃した形で動詞を使うことで、自我を強化する認識の働きを中和します。

たとえば、お皿を洗っているときに手を「動かします」、お皿「持ちます」と、このようにラベリングします。今、起きている現象にふさわしい簡潔な動詞で中継することで、妄想が入り込まないようにするためです。人間を含むあらゆる生命はいつでも、六根(眼耳鼻舌身意)を通じて情報を取り入れる過程で妄想しているからです。

ある眼科医の先生が仰っていたんですが、人間が「眼で見る」と言っても、実際に眼から入った情報は4%しかなくて、残りの96%は頭の中にあるいろいろなデータベースから、合成して認識しているんだそうです。だから、眼から直接入った情報(ルーパ)をそのまま見ているのではなく、頭の中にもともとあるいろいろな観念・概念を組み合わせて、ある映像を合成して見ている。「眼で見る」と言いながら、実際には脳、仏教的に言い直せば「意(こころ)」で見ているということなんです。

生命のこころにある固定観念・諸々の概念には、それぞれ煩悩が付着しているんです。たとえば、「お金」と言った場合、お金という単なる言葉ですけど、それにどうしても欲が絡まってしまう。「犬」とか「猫」とか「花」とか「生ゴミ」とか、私たちが日常で用いる言葉には、ただの言葉だよといったって、そこにはいつも微妙な感情が付着している。言葉にならない概念でも、ちょっとした音とか香とか味とか感触とか、そういうものを感じるたびに、こころに煩悩が生まれるんです。

私たちがなにかの対象を見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったりしている段階で、いつでも煩悩が生まれて、その認識が汚れてしまう。認識が汚れているということは、きちんと認識していないということですよね。それがなるべく起こらないように、簡潔な動詞で、価値が入らないように、ただそこに起こっていることがらを観察していく。それによって認識課程で起こってくるいろいろな妄想、煩悩が付着したさまざまな想念、思考の渦巻きのようなものが起こらないように抑えていくのです。それが完成したら、禅の言葉でいうところの「莫妄想」の状態になります。つまり、ラベリング=実況中継で「莫妄想」の状態を作るということです。

たとえば「今日は暑いよね」と言ったとき、すでに主観が入っています。しかし、暑さ、寒さ、それは私が感じていることですが、“暑さ”“寒さ”と言うときはデータですよね。データを受け取ったときのような状態です。暑さ寒さと言った場合には、私が入らない、あくまでデータの状態なのです。あるいは、それは単に「熱」と言ってもよいでしょう。

只管打坐というのは、言ってみれば、解脱・涅槃と同じことですから、只、坐る。なんの執着もなしに、只、ある “just being” という状態に達する。マインドフルネス瞑想でそこに達するのではないかと思います。テーラワーダ仏教的に言えば、只管打坐になったら本物なんで、マインドフルネス瞑想法すれば只管打坐に達しますよ、という説明になります

「暑い」「寒い」と言うとそこで主観が入ってイライラしたりとか、焦ったりとか、「暑いの嫌だな」「寒いの嫌だな」など、あるいは「ちょうど涼しいね」などと言うとき、主観と価値判断とそれに付随する感情が入ってくるじゃないですか。そうではなくて、身体に何か触れたら、それは「硬さ」、「熱」というふうに、あるいは動詞で「感じている」「感じている」というふうに実況中継するのです。

あるいは何かを眼で見ているときに、仏教では、眼に触れるものは色と形(パーリ語ではひと言でルーパと言います)でとらえますが、単純にルーパとして、対象を認識するのはなかなか難しいので、「見えている、見えている」というふうに実況する。そうするとただ見えているだけで、――そこから現れてくる膨大な価値判断の世界からちょっと離れることができるのです。

皿を洗うと言っても、それはいくつかの動作の組み合わせでしかなくて、それをひっくるめて「洗う」と言っているまでです。そこはもっと細かく分けて、ただ手を「動かします」とか「回します」とか、日常動作の場合は、あまり分解すると、逆にややこしくなって難しいのですが、なるべく主観が入らないように、価値に絡めとられないようにシンプルな動詞で実況してゆく。

それによって何が起こるでしょうか。われわれは常に「わたし」が何かをやっていると認識しています。価値という名の煩悩に彩られた、さまざまな概念で合成されたカラクリの世界で、「わたし」が何かやって生きているんだと。そういう自我の錯覚を中心とした認識過程がオートモードで回転している働きを中和させるというか、そこから離れてみる。そういうカラクリを含めて観察する、観察モードに入るのです。

観察モードに入ると、これまで必死になって演じてきた「わたし」劇場の舞台裏がぜんぶ見えてしまって、「なんだこれは」と、とことん呆れちゃうんですね。価値の世界がきれいさっぱり消えてしまう。それで解脱に達します。ただし、「どこまで本気で呆れられるか」というレベルに応じて、解脱の段階論(四沙門果)も成り立つわけですが。ラベリングとか、実況中継とかいうことが強調されている裏には、そういう修行完成に至る実践的な意味があるのです。

ラベリングを使わず、他のやり方をしている指導者にも、自我意識を解体する工夫、妄想に飲み込まれないための工夫はあるはずですが、それはそれぞれの指導者に訊かないとわからないことでしょう。

3-Q1 瞑想をして到るところは、具体的には、どんな境地なんでしょうか。

仏教の専門用語では「解脱」とか「涅槃」と言われる境地ですが、要するに「無執着」、一切の執着がない状態です。われわれのこの苦しみというもの、何かが不安とか、不満とか、なんか変だな、と思うような違和感とか、そういうものから完全に解放された、という世界ですね。

つまり、欲とか怒りとか無知に引きずり回されて生きているような状態から、完全に解放されてホッとしている境地と言えるのではないでしょうか。ホッとすると言っても、一時的にホッとするんじゃなくて、本当にとことん落ち着いていて、別段、それ以上何かしなければ、ということもない。やるべきことはやりおえた、という終了宣言。それが仏教の瞑想で達すべきところですね。

解脱・涅槃の同義語はいろいろあります。私が個人的に気に入っているのは「アナーラヤ(anālaya)」という言葉で、これも「無執着・無愛着」と訳されている。ほかには、恐れがない(無畏)、怒りがない(無瞋)、欲を離れた(離貪)、老いることがない(不老)、死ぬことがない(不死)、こころの汚れがない(無漏)、現象世界を離れている(無為)、真理、幸福、彼岸、未曾有、そういった言葉でも表現されていますね。そうやって、最終的な究極のゴールは様々な単語で語られています。

――老いることがない、死ぬことがない、というのは?

最終的な究極のゴールは様々な単語で語られているのですが、お釈迦さまはこれらを列挙した経典のなかで、単語はいろいろあっても意味するものは同じく、「貪瞋痴(欲・怒り・無知)の滅尽」なのだと明言されています。ですから、老いることがない、死ぬことがない、とは、「一切の煩悩がない」という意味なのです。

でも、不老・不死というのは、ちょっと挑戦的な表現ですよね。老いたり死んだりするっていうのは、自然法則じゃないですか。でも人間なにが問題かというと、老いたり死んだりすることにおびえたり、それを嫌悪して、なんとか遠ざけようとしたりすることです。そこで、また別な苦しみ、余計な苦しみが生まれることになるのです。それは、あえて作った精神的な苦です。しかし、この苦しみにもまた実体はない。

肉体が壊れていくこと自体は別に普通のことなので、それ自体は存在苦と言いますか、存在そのものとセットになっている苦なので、ある意味どうしょうもないことです。腕をつねったら痛いのは当たり前でしょう、くらいの話ですよね。しかし、その当たり前の真理としっかり向き合うことを生命はだれもが避けている。「不老」「不死」とは、その矛盾を突いた言葉なんです。

お釈迦さまは要するに、老いること、死ぬことをまったく恐れない、特別視して怯えない境地を「不老」「不死」という単語で表現しているのです。これは人間に限らず、ふつうに生きている生命体にはあり得ないことです。老いも、死も、恐怖とセットであって、恐怖を欠いた老いも死も存在しない。そういう意味で、仏道を完成して無執着に達したならば、もう老いることからも、死ぬことからも、解放されているのです。

――そういう境地に達している人は現代社会にいるのでしょうか?

いるでしょうね。じゃぁ、どのくらいいるのかと訊かれても、それはわからないですけれども、スマナサーラ長老に伺ってみると、「瞑想をして結果を出してる人は割といますよ」などとさらっと仰っていますが……。

ただ、われわれにそのような人たちのことがあまり見聞できないのは、結局、解脱に達した、煩悩が無くなった人というのは、自我意識がないからです。基本的に自己主張がない。

「おれが、私が、覚った」っていうことは、私という実感がない人にとって、文章として成り立ちませんよね。私が覚ったっていうのもおかしいじゃないですか。違和感がありすぎて、そんなこと言えないですよ。「あなた、覚ったの?」と訊かれても、「えっ?」としか答えようがない。

だからそういう意味では、「ハイ。私、覚りました」っていう人はいないんじゃないでしょうか? 解脱・涅槃に達したといっても、普通にニコニコして生きているし。他の人と変わらないで生活しますからね。見た目ではわからないと思いますよ。

――それはインドの言葉でいうとどういう? たとえば阿羅漢とかという呼称もありますが。

阿羅漢というのは究極的な覚りに達した聖者のことです。お釈迦さまと同じく、輪廻から完全に解放された方ですね。阿羅漢がどれだけいるかというのもよくわかりませんけど。
繰り返しになりますが、仏教の考え方に慣れると、そういう問いの立て方自体、なんかちょっと変だなと思ってしまうんです。

もちろん、瞑想してその人が心の安らぎを得ることもなく、なんの結果もないっていうのは、おかしな話です。結果はあるんですけど、その結果というのは、肩書きが増えるとか、勲章をつけるとか、そういうことじゃない。覚ったら、いきなり頭から角が生えてくるっていう話ではないのです。自我の幻覚に苦しむことなく、ただ普通に生きている。それでいて、生きることに執着がない、葛藤がないという境地の話なので、なかなか一般の人には良くわからないかもしれないですね。

――第三者に検証してもらうというようなこともないのですか?

基本的に自分で自分の心をチェックすれば、わかることなのではないでしょうか。

初期仏教の場合、自分の煩悩というか、心の汚れということが基準になっています。このインタビューの第一回目でもお話したように、初期仏教の四段階の解脱論で、第一段階の覚りである預流果(よるか)では、①有身見(うしんけん)、②疑(ぎ)、③戒禁取(かいごんじゅ)という煩悩がなくなります。

有身見が消えるとは、要するに「わたし・我」が存在するという強固な思い込みが消えることです。有身見が無い人には、当然、②疑もありません。「わたし・我」を前提とした世の中にある様々な宗教や思想・哲学と、そういう前提を突き破った仏教とを比較して、天秤にかけようという発想自体が消えているのです。有身見と疑が無い人には、当然、③戒禁取もありません。誰でも最初は、一種の期待や信仰、怯えや思い込みと混ぜこぜで仏道を歩んでいるものです。そういうバイアスが晴れることで、仏道を歩むことになんの心理的な葛藤もなくなるのです。

――なるほど。でも有身見と疑と戒禁取の関係性はまだちょっとピンとこないですね。もう少し詳しく説明してもらえないでしょうか?

前にも触れましたが、仏道を歩むとは、「わたし」を前提に成り立っているはずの世界で、その「わたし」が無いもののように観察モードで生きることです。これは錯覚の世界を強引に壊す営みですから、必ず葛藤が生じます。その葛藤が、仏教の本筋を外れて、なんとか「わたし」を前提とした世界に捻じ曲げようという煩悩の形を取って現れるのです。その煩悩を三つの角度から説明したものが、有身見と疑と戒禁取です。

たとえば、瞑想する人のなかでも、超能力だとか、神秘体験だとかをやたらに求める人たちがいますよね? 彼らのことをよくよく観察してみると、どこかで「無我」を認めたくない、「わたし」というものを肯定したいという葛藤(→疑)がチラつくんですね。無常・苦・無我・因果法則という真理を素直に認めたくないから、何か神秘的に「わたし」を美化したような珍妙な観念を捏造してしまう(→有身見)。彼らは、無我を発見するための仏道修行を、自我の幻覚を美化して強化するものに捻じ曲げてしまう(→戒禁取)。

そういうわけで、ものすごく熱心に瞑想して、瞑想の達人のように見えても、有身見と疑と戒禁取にがっちりしがみついているケースはよく見られます。そういう人々は、そのうち仏教を捨てて新しい宗教を始めてくれるので、放っておけばよいとも言えますが……。この世界がそもそも「わたし」という幻覚を前提にして動いているのですから、そういう修行の落とし穴を完全に塞ぐのも難しいですよね。

とにかく、有身見と疑と戒禁取という三つのチェックポイントを頭に入れて、真摯に自己観察すれば、最低レベルの覚りに相応しいかどうかくらいは、おのずとわかるはずです。それって、第三者に認定してもらう必要はないですよね。

――「わたし」という幻覚を守る三つの煩悩の有無をセルフチェックするのだと。覚った人の心境を理解するためのモノサシみたいなものは他にもあるんでしょうか?

在家向けにお釈迦さまが預流果(第一の解脱)について説明した経典もたくさんあります。煩悩論だと専門的でちょっと難しいので、誰でもわかりやすいキーワードに落とし込んだんですね。そこで語られているのは、仏(ブッダ)・法(ブッダの教え)・僧(法を実践して解脱・涅槃に達した人々)という三宝への信頼(信)が確立していること、それとブッダの示した道徳的生き方(戒)が確立していることです。

仏教でいう信とはいわゆる宗教的な信仰ではなくて、理性的に納得して信頼しているということです。「自分が拠りどころにするのは仏法僧です」と、こころになんの無理も躊躇も強ばりも欺瞞もなく、堂々と言えることですね。

道徳的生き方(戒)が確立しているとは、他の生命を傷つけない、自分の心を汚さないという戒律の「こころ」がしっかり身についているということ。たとえば、目の前に蚊が飛んできた時、われわれは反射的に、バンと叩いて殺してしまったりします。さらに、自分に都合の悪いことは、とっさにごまかそうとしがちです。それで、普通の仏教徒だったら後で後悔して、「やっぱり、まずかったなぁ」などと思うものです。

道徳的生き方が確立している人は、身構えて歯を食いしばって「殺さないぞ」と思うまでもなく、他の生命をまず「殺せない」し、あえて「正直に生きるぞ!」と力まなくても自然体で「嘘をつけない」んです。自分をごまかせないんですね。

心理学的に分析すれば、嘘というのは「わたし」が現実の中でまずい状況に陥った時にその場をごまかして「わたし」を守ろうというこころの働きです。ですから、確固たる「わたし」があると思っている人にとっては、嘘をついてでも「わたし」を守ることが当然、優先されるのです。それが当たり前なんですね。でも、「わたし」とはその都度こころに現れる幻覚に過ぎないと知っている人にとっては、わざわざ嘘をついてまで自分を守ろうというモチベーションがないんですね。

――第一の解脱といっても、なかなかすごい心境ですね。

もちろん、預流果に覚ったといっても、まだまだ修行中で完璧なウルトラマンではないから、様々な判断ミスをしたり、失敗したり、ということはあります。『宝経』という経典には、預流果に覚ったら「それから修行をさぼっても七回しか生まれ変わらない」とか、「六重罪(親殺しやブッダを傷つけることなど)を犯すことはない」と説かれています。

覚ってもダラけたら七回は生まれ変わっちゃうなんて完全な解脱から程遠いですし、六重罪というのはトンデモナイ重罪ですから、「覚ったのにたったそれだけなの?」と拍子抜けしちゃうところもあります。でも、裏返してみれば、われわれは預流果にでも覚らない限り、何をしでかすかわからない二本足の核爆弾のような存在であり続けているのだ、という戒めでしょうね。

もう一つ、預流果に覚った人の特質として『宝経』に説かれている言葉が面白いんですけど、「かれが、身体・言葉・こころでほんの僅かでも罪(十悪)を犯したならば、かれはそれを隠すことができない」というんですね。

ふだんの生活を振り返ってみても、われわれはしょっちゅう失敗や過ちを犯しますよ。それはいいんだけど、仏教的に問題なのは、その過ちや失敗を隠そうとすることですね。自分を善い人間に見せようとする煩悩、カッコつけようとする自意識が、自分自身と正直に直面することを妨げているんです。

禅宗では「悟後の修行」ということが言われます。先ほど述べた有身見と疑と戒禁取を破って、自分に正直に直面できる、理性的な仏教徒(預流者)になって初めて、欲や怒りなど他の煩悩にも挑戦状を出せるのです。自意識の錯覚を見破って、自分を飾らなくなったからこそ、己の汚さにも直面できる。そこから始まるのが、ほんものの修行ともいえるかもしれません。だから、お釈迦さまの仏教では、悟後の修行どころか、「悟後が修行」なのです。

ダラダラとお話してきましたが、覚りに達した人が、「私はもう覚りましたから」などとアピールすることはちょっと想像できません。基本的にそういうことに関して自己主張するという気持ちは起こらないと思います。

さらにもう一つ覚りのチェックポイントをダメ押しで挙げるなら……経典を紐解いてみると、ブッダの指導を受けてなにか精神的な境地を体得した人、お釈迦さまに心服して在家仏教徒になると宣言した人々は、一様にお釈迦さまのことを褒めまくるんですね。こころの解放へと導いてくれた釈尊に感謝しまくるんです。

お釈迦さまが、自分など幻覚に過ぎないと知らしめてくれたんです。そして、それこそが究極の安らぎ・生命が達するべきゴールであることを教えてくれたんです。だから、覚ったというなら、ブッダへの称賛と感謝の気持ちが全身からこみ上げてこないとおかしいわけです。お釈迦さまは目の前にいないから、ダイレクトに「お釈迦さま、ありがとう!」とはならなくても、ブッダの教え(法)やその人に仏教を教えてくれた師匠(僧)へのリスペクトが先に立たないとね。

有身見など三つの煩悩が完全に消えたこと、仏法僧への信頼と道徳的生活の確立、自分の過ちを隠せない素直さ・正直さ、お釈迦さまへの感謝とリスペクト。「おれ、覚ったんじゃないかな?」という気持ちになったら、そんなところをチェックしてみたらいいのではないかと思います。

――もう一度確認しますけど、自我がないということは、「私」という見方が自分に対してできないわけですか。

確固たる自我なんて元々ないのです。認識過程で無理矢理作っている幻覚なわけですから。幻覚を作って、それが自分だと思っているんですから。幻覚を自分だと思うその条件反射がなくなることで、「そんなに(ありもしない)我を突っ張らなくてもいいんじゃないか」というふうに、自然とこころも変わりますよ。もちろん、日常生活は普通にこなしますし、日常的な会話もするでしょうけど、そこには特別な「わたし」の計らいがない。

――そうすると、自分の状態を言葉にできなくなるのではないですか。

もちろん、覚った聖者でも、日常会話では「わたし」という単語を使います。お釈迦さまだって日常的な会話を成り立たせるレベルでは「わたし」と仰っている。それは現象世界の「お約束」ですから。でも、解脱・涅槃について語るときに、「私が覚った」っていうことはちょっと成り立たないんです。「私が」っていうと、どうしても違和感が出ちゃって、言えないんですよ。私という幻覚が消えているんだから。「どうやって、私が覚るの?」って聞き返したくなっちゃうんです。

余談ですけど、みうらじゅんさんが「自分探し」じゃなくて「自分なくし」をしよう、みたいなことを仰ってましたよね。みうらさんは仏教をすごく勉強されていて、「自分なんか無いほうがいいんだ」とか、「自分をなくすほうが楽しいんだ」とか。あれ、仏教の本質を突いているのです。ある意味で、修行というのは「自分なくし」を実践することなのですから。そのほうが楽なんだなと、しみじみわかることです。

3-Q2 ところで、悩み・苦しみの原因とはいったい何でしょうか。

ここまでの説明から、「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という自我の錯覚こそが、悩み・苦しみの原因だと言うことができます。以上、終わり……なんですが、せっかくですので、お釈迦さまのもう一つの説明も紹介しましょう。われわれのこころにある渇愛(渇き)が悩み・苦しみの原因である、という話です。

お釈迦さまが初めて体系的に教えを発表した「初転法輪」では、苦集滅道という四つの真理が語られました。①苦聖諦は「悩み・苦しみ」とは何かという真理。②苦集聖諦は「悩み・苦しみの原因」とは何かという真理。③苦滅聖諦は「悩み・苦しみが無くなった境地」とは何かという真理。④苦滅道聖諦は「悩み・苦しみを無くすための方法」とは何かという真理。

について、お釈迦さまは生・老・病・死などを並べたうえで、「要するに五取蘊が苦である」と仰っています。取(ウパーダーナ)とは、仏教用語で執着のことです。五蘊すなわち身体とこころに執着している状態が、悩み・苦しみなんです。

それで、苦を作り出している原因は何かっていうと、渇愛・渇望(パーリ語:タンハー、サンスクリット語:トゥリシュナー)だと言うのです。渇愛の意味は、そのまんま「渇き」なんですね。この渇きが、生命を輪廻させてしまう。喜びと欲望で絡み合って、世の中のものごとに喜怒哀楽を起こして執着させてしまう。渇愛は、われわれの心に生まれる超強烈な衝動です。

この渇きには三種類あります。①視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という感覚的刺激への渇き(欲愛)、②存在への渇き(有愛)、③虚無への渇き(無有愛)です。

――なるほど。そういえば、四諦八正道って倫理の教科書に載っていたような気がします。できれば、もう少しわかりやすく教えてもらえませんか。

そうですね。①欲愛は、わかりやすいと思います。われわれが目で見て、耳で聞いて、鼻で匂いを嗅いで、舌で味わって、体で何かに触れるっていう感覚への依存ですね。よく私たち、「食べ過ぎちゃう」って言うじゃないですか? まぁ、皆さん誰もが悩むことだと思うんですけど……。

「食べ過ぎちゃう」って。考えてみたら変ですよ。だって人間の身体には食べるべき適正な量があるんですから。その分だけ、摂取すればいいだけじゃないですか。それなのに美味しいものを見ると目がない状態になって食べちゃいますよね。お酒とかも、なんか別に呑まなくても良いのに、ガバガバ呑んじゃいますよね。

「食べ過ぎちゃう」のは変なことなのに、なぜ「食べ過ぎちゃう」かというと、結局、感覚の刺激を求めているからなんですよ。食べることによって、栄養を取るんじゃなくて、感覚の刺激を求めちゃうんですね。感覚は胃袋のリミットを超えても「もっと刺激をくれ、もっと、もっと」と渇きを満たそうと騒ぐから、ついつい食べ過ぎちゃって後でたいへんなことになるんです。

感覚の刺激を求めて、その元々の「食べる」という目的がどっかに行っちゃう。食べること自体が感覚の刺激を求めることとセットになっちゃっているのです。それが、わかり易い①欲愛ですよ。頭でわかっていても、渇愛だから、これは止められない。

それともう一つ、生命にはさらに基本的な②存在への渇き(有愛)――生きていきたいという衝動があるんですよ。われわれ人類がこんな文明社会を作り上げていったのも、すべて“生きていきたい”という衝動のなせる業であって、そのために、いろんな複雑なシステムを作り上げたんです。人類の文明も文化も科学技術の発展も、煎じ詰めれば全部、生きるためにやっているってことになりますよね。生きるためにいろんなことを、バカなことも含めていろんなことをやっているのですが、これも渇愛ですから、どうしようもない衝動なのです。

虚無への渇き(無有愛)――これはいろんな説明がされているんだけど、わかりやすく言っちゃえば破壊衝動です。自分が存立している世界を、もう全てを破壊したくなっちゃう衝動。テロリストの行動原理みたいなものですね。そういうものも世の中に満ちあふれています。友敵理論じゃないですけど、敵と味方がいて、気に入らない敵は殲滅(せんめつ)すればよいのだ、みたいな。そういう渇愛があって、これも止められないですよね。

もう一つの説明としては、虐待などで心に深い傷を負った人々が口にするフレーズだそうですが、「(この世界から)消えたい」という衝動も、虚無への渇きと言っていいと思います。人間同士が愛着でつながった親密な世界から切り離されて、宇宙にたった一人放り出されたような気持ちでいる。そうすると、「自分」という実感そのものがナイフのように自分自身を切り裂くんです。そこで、「消えてしまいたい」という虚無への渇きが顔を出す。

そういうわけで、わかりやすい①欲愛から、何かのきっかけで顔を出す②有愛③無有愛まで、三種類の渇愛があるのです。

――一切の悩み・苦しみの原因はこの三種類の渇き(渇愛)であると。では、この渇きは何を原因にして起こるんでしょうか。

仏教ではすごくシンプルに説明しています。なんか拍子抜けするぐらいシンプルなんですが、つぎのように教えるのです。

生命には、眼・耳・鼻・舌・身(身体)・意(こころ)という六つの感覚器官があります。仏教では、「意(こころ)」も感覚器官に数えるんですね。つまりあれこれ考えることも感覚の一種に含めている。そこで、眼に色(色・形)という対象が触れます。耳には声(音)が、鼻には香(匂い)が、舌には味が、身には触(熱と固さ)が、意には法(もろもろの概念・アイデア)が触れます。触れると、それぞれの場所で感覚が生じます。感覚が生じたところから、さまざまな渇愛が、ワーっと竜巻のように生まれてくるんだって言うのです。

感覚という原因から渇愛が生まれてくる。要するに、眼に色・形が触れると、瞬時にパッと眼の感覚が起きて、そこからもう、すごい勢いで欲や怒り(渇愛)が生まれると説いているのです。

たとえば異性が好きな男性だったら、自分がキレイだと思っている、好みの女性の髪がサーッと風になびいている光景がふと眼に入ると、その瞬間に、もう妄想・欲望の渦巻きが生まれてくるわけです。ほんとは、眼という感覚器官に触れるのは「色(ルーパ)」という情報に過ぎないのですが、そこで視覚が生まれて、視覚からオートマティックに渇愛が生じる。第二回目のインタビュー記事で言いましたが、人間が「眼で見る」と言っても、実際に眼から入った情報は4%しかなくて、残りの96%は頭の中にあるいろいろなデータベースから、合成して認識しているそうです。そのデータベースがそもそも煩悩まみれなのですから、眼で見たら、瞬時に渇愛というアウトプットが起きてしまうんです。

これは①欲愛の起こり方の例ですが、②存在への渇き(有愛)の場合は、どういうふうに生まれるんでしょうね。例えば、「あなた癌ですよ、余命三ヶ月だから覚悟してください」って言われたら、その瞬間に、もうものすごい、居ても立ってもいられないような焦りと恐怖感が湧き上がってくると思うんですね。だけど、自分の知らない人が癌宣告を受けたと聞いても、あるいは死んだと聞いても、ただの情報ですよ。それが自分ごとになった途端、ものすごい勢いで、「生きていきたい」っていう有愛の衝動が湧き上がってくるんですよね。

われわれの年代だと、定期健診を受けてお医者さんから「〇〇の数値が悪い」と言われると、しばらくは真面目に栄養士さんの指示に従って節制したりしますよね。あれも、欲愛のままに生きたツケが回って、生存が脅かされそうになったところで、一時的に有愛が主導権を握ったということになります。

あとは③虚無への渇き(無有愛)にしても、感覚から起こることには変わりありません。ヘイトスピーチ(差別扇動)のような危険なアイデア(法)が意(こころ)に触れ続けることで、「異教徒は根絶やしにしなくてはいけない」「〇〇国の連中は滅ぼさなくてはいけない」というような衝動が掻き立てられてしまう。あるいは、精神的な病で感覚器官に幕がかかったような、砂をかむような辛い感覚を受け続けることで、「消えたい」という、虚無への渇望が生じてきたりする。

こういう三種類の渇き(渇愛)は、すべて感覚から生まれてくる――そう仏教は説くのです。一見、非常にシンプルな考え方ですよね。

そこで最初に戻るのですが、三種類の渇きの前提になっているのも、やっぱり「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という自我の錯覚なんですね。五欲を追い求めて「わたしのもの」にしたがる衝動(欲愛)、「わたし」という存在をなんとかして生かそうとする衝動(有愛)、それから、「わたし」に敵対する世界を破壊したい、あるいは世界から疎外された「わたし」を消し去りたいという衝動(無有愛)すら、結局は「わたし」という自我の錯覚が前提になっているんです。ですから、どんな渇愛であれ、「わたし」を再生産しようとする輪廻転生のエネルギーになってしまう。

――なんだか、深刻な話に思えてきました。そういうことになると、感覚から自我の錯覚と渇愛が生じるのは必然というか、何をしても止められないような気がするのですが……。

止められますよ。ヴィパッサナー瞑想というのは、そのためにある修行法なんです。要するに「感覚のところで止める」っていう訓練なんですね。気づき(sati)を駆使して、「感じて、放っておく」。感じて、そこから普通なら「自我の錯覚」と「渇愛」を作るんですよ、われわれは。

そこで敢えて、感じて、そこに気づきを入れて、それで終わり。「放っておく」ということをすることによって、自動的に起こってしまう制御不能な煩悩・渇愛(ほとんど同義語なので煩悩と言ったり、渇愛と言ったりしますけど)のパターンを止めてみるんですね。敢えて、観察モードで生きることで、感覚から渇愛が生じる生命の認識のオートモードを邪魔するんです。

もっとも、渇愛とは感じたら瞬時に沸き起こるものなので、感覚のところで完全にガードするのは難しいです。でもそこで挫けることなく、渇愛がどのように起きて、どのように消えていくのか、ということにも、すかさず気づき(sati)を入れるんです。

そうやって感覚から渇愛に進まない、感覚のところでストップする訓練を続けていくことで、渇愛が生じるプロセス、生じた渇愛が滅するプロセス、渇愛が生じては滅するプロセス、そういった因果関係を、ありありと発見するんです。それは各自で発見しなくてはいけないんです。

感覚という縁から渇愛が生じる、というのは十二支縁起の説明ですが、実際にはもっと微細なプロセスがそこにあるんですね。例えば、『密玉経』という経典で、阿羅漢のマハーカッチャーナ尊者は感覚から煩悩の渦巻きが生まれるプロセスをこう解説されています。

「友らよ、眼と色を縁として、眼識が生じます。三者の結合によって接触(触)が生じます。触を縁として感覚(受)が生じます。感受するもの(所縁)を概念化します。概念化した所縁を思考します。思考した所縁を捏造(パパンチャ)します。それより捏造する人に、過去・現在・未来の眼に知られるもろもろの色について、さまざまな捏造された妄想が起こります。」

さすがに大阿羅漢の言葉だけあって、認識から膨大な幻覚の世界を作り出す、「わたし」劇場の舞台裏が見事に説明されていると思います。このように細かく説明しようと思えばいくらでも詳細にできますが、大切なポイントは、そこに原因があるから、結果がある、ということなんです。「これが有るゆえに、かれが有る。これが無ければ、かれが無い。これ生ずるがゆえに、かれ生ず。これ滅するがゆえに、かれ滅す」という、お釈迦さまが説かれた一番シンプルな因果法則の公式があります。観察を通して、自分自身でその因果法則を発見して、なるほどと納得するんです。

気づき(sati)の実践を続けることで、一切の悩み・苦しみは渇愛という原因によって生まれ、その原因がなくなれば悩み・苦しみも消えるのだとわかる。お釈迦さまの教えはそのとおりだな、と腑に落ちる。誰もが四六時中やっている認識というプロセスを気づき(sati)で観察して、因果法則の中にすべてがあって、一切の現象は因縁の流れでしかない、という真理を発見して、納得する。その納得の深まり度合いによって、「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という自我の錯覚が壊れていって、自我の錯覚を前提とした渇愛も滅していって、四段階で修行が完成する、ということなのです。

最近読んだある仏教書の受け売りですが、自分といわれる存在は、自己イメージの再生産をずーっと続けているのです。だから、これまでのいろんな宗教は、自己という実体が、魂というべき存在がずーっと続いているのだ、と考えてきた。ところがお釈迦さまだけは、「生命というのは、やみくもに燃料を投入しつづけて、ずーっと燃え続けているだけの存在なのだ」と発見した。ということは、その燃料(渇愛)がなくなったら、自己という現象も幻のように消えてしまうだけだ、と輪廻のカラクリを見破ったのです。

ですから、渇愛で生きているという状態、悩み・苦しみの中で煩悶してずーっと燃え続けている自己のありようというものは、その燃料を止めてしまえば、消えてしまう。もちろん、身体はそのまま残っているから、肉体が壊れるまでは淡々と生きているわけですが。これは表現を変えれば、仏道のゴールに達して「生まれ変わったのだ」とも言えます。渇愛から悩み・苦しみを作り続けていた自分がいったん死んで、渇愛の代わりに、智慧と慈悲で生きる新たな自分として生き返ったのだと。

渇愛・煩悩の代わりに智慧と慈悲で生きる自分に生まれ変わること。それがブッダの瞑想をして到る境地、目指すべきところだと言うことができるでしょう。ブッダとは智慧と慈悲の存在です。ブッダは、智慧と慈悲で人類を導いているのです。智慧と慈悲へと、人類を導いているのです。

4-Q1自分に合った瞑想法と出会うためにはどうすればいいのでしょうか。いろいろな瞑想会に出席してみることは構わないでしょうか。

仏教は基本的に師を変えることに関して、一切禁止してはいないので、自分に合う指導者なり道場を選べばいいのではないかと思います。ただ自分の好みは、結局、自分の煩悩ですから、自分の好みでやって上手くいかないこともありますね。その辺は微妙です。

最悪なのは、あちこちのやり方を嘗めてまわって、一つもものにしないまま事情通ぶっちゃうことですね。まともな指導者は、そういう人を相手にしないと思います。道を求めるというよりは「消費者」みたいなマインドで道場ミシュランを始めちゃうと、一生を台無しにしかねないので、気をつけたほうがいいと思います。

そのような点に注意すれば、いろいろ調べて納得がいくまで、あちこち回るというのはあながち悪いことではありません。疑り深いことは、それが理性的な疑いならば悪い資質ではないので、納得が行くまで調べたうえで、これと決めた指導者のところで修行するのがいいでしょう。

もうひとつ助言するなら、仏教の瞑想に取り組む際に、ある程度、仏教の教えに関する勉強を一緒にやって欲しいということです。もちろん難しい経典を勉強して、パーリ語の勉強もして、阿毘達磨(アビダルマ)の勉強もして、頭を経典の知識でいっぱいにして……などという必要はありません。しかし基本的なことは押さえておきたいですね。

無執着、執着をなくす、という仏教の基本的な芯の部分を、ちゃんと掴んでおいた方がいい。ヴィパッサナー瞑想法に関する本は、今、たくさん出版されています。そういうものに加えて、スマナサーラ長老の著作も含めて、仏教の基本的な教えを解説した本にも親しんで、ある程度は勉強した方がいいのではないかと思います。

4-Q2 いわゆる「ブッダの瞑想法」と呼ばれる修行法には、ヴィパッサナー瞑想の他には、どんな種類があるのでしょうか。

テーラワーダ仏教では、サマタ瞑想(集中瞑想)に分類される、ヴィパッサナーの観察瞑想以外の瞑想(カンマッターナ 業処)は、38とか40種類あります。基本的には、瞑想を知っている先生が、生徒の資質を見て、「あなたは、これをやりなさい」と指示を出してやらせるものです。自分の好き勝手にやることは、通常、あり得ません。

瞑想会を訪ねてくる人の中には、「私に『不浄の瞑想』を教えて下さい」とか「何々の瞑想法を教えてください」などという人もいますが、本来それは指導者が決めることです。実際、自分で決めた瞑想法がその人にあっているかどうかは、指導者がよく吟味しないとわからないのです。「これをやりたい」というのは、自我意識や見栄がそう言わせている可能性もありますからね。そもそも、サマタ瞑想など、特別なことをやる必要があるかどうかもわかりません。また瞑想によっては、隔離された環境でないとできないものもありますから。

ただ、そういった38とか40種類ある瞑想の中で、総合的に誰でも実践すべきものがあります。それがすべての生命への友情の気持ち(メッター、慈)を育てる「慈悲の瞑想」(慈随念)なのです。経典では慈・悲・喜・捨の四無量心(しむりょうしん)の修習と呼ばれている瞑想にあたります。それと「死の瞑想」(死随念)。加えて「不浄観」という「不浄の瞑想」(不浄随念)が入る場合もあります。

「不浄の瞑想」とは、要するに、身体を汚いものとしてみる瞑想です。私たちは身体に対する執着がものすごいので、常に、身体のことで頭がいっぱいの状態です。それは、身体に非常に高い価値を置いていることに他なりません。その価値を相対化してみようという実践ですね。

「不浄」と言うとき一般的には、きれい、汚いという二極から見てしまいがちですが、「不浄の瞑想」の狙いは、私たちが身体に入れている価値そのものを落としていくことなのです。身体に対する過剰な思い入れから解放されることですね。価値があると思っているから執着するのであって、価値などないと思えば執着しないで済みます。

ただ、指導者なしに一人で実践し易いのは、「慈悲の瞑想」なんです。「不浄の瞑想」だと、やはり自分の中で妄想を膨らませて、不浄だ、身体は汚い、などと強く妄想し始めるとノイローゼになる危険も完全には否定できませんね。

――瞑想を実践して、ノイローゼになる危険性もあるのですか。怖いですね。

まぁ、そんなに怖がる必要はないと思いますけど。これは裏話的なお話ですが、仏典にはお釈迦様が若い比丘たちに「不浄の瞑想」を教えたときのエピソードが伝えられています。

お釈迦様は「不浄の瞑想」を教えおわると、比丘たちに引き続き実習するように指示して、半月間、森で禅定に入りました。残された比丘たちは、不浄の瞑想を修し過ぎて、生きることに悲観的になってしまいました。彼らは自分の身体を厭い、恥じ、嫌悪して、ついには自ら命を絶ち、また互いに殺し合ったりという、惨事を招いてしまったのです。お釈迦様が禅定から戻って来られると、多くの比丘は死に絶え、道場は閑散となっていました。アーナンダ尊者から事情をお聞きになり、他の瞑想法の指導を乞われたお釈迦様は、呼吸観察の瞑想を指導したと伝えられています。一応、相応部経典や律蔵に記録されているので、本当にあった話だろうと思います。

これはあまりにも極端な話ですが、独習しても100%大丈夫なものとなると、やはり、「慈悲の瞑想」をお薦めしたいと思います。お釈迦さまも、仏教徒ではないバラモンたちや他の在家の人達と対話をして、教えをプレゼンテーションする時は、大体、「慈悲の瞑想」を薦めているのです。宗教や思想信条に関わりなく、人間であるならばぜひ慈悲の瞑想をしてください、というお気持ちだったのだと思います。

この瞑想は、自分で自分を大切に思う気持ちを確認するところから始めて――ある意味で、自己肯定ですね――周りの人々や生命に親愛の気持ちを拡げて、さらに知らない人々や生命、あとは自分の嫌いな人々や生命、自分を嫌っている人々や生命、そういったあらゆる対象に対して、「生命であるならば幸せであってほしい。生命であるならば私の友達なのだ」という気持ちを育てていくんです。

そういう気持ちをどんどん、無限の拡がりを持った心にまで育てていく。始まりは「自分は、自分を好きです。私は幸せになりたいと願っています」という原点から実践していくのですが、幸せを願う対象(生命)をどこまでも拡げていくと、結局、「一切衆生」というスケールまで友情の気持ちが拡がっていくのです。これを無量心と言います。すると、自分が消えてしまう。「自我」という枠、卵の殻のようなものが破れて、自他の境目がなくなってしまう。そこで「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という自我の幻覚が醒めて、「無我」という真理に達するのですね。

ただし、そこまで達するのは、仏教の無常・苦・無我というアイデアがしっかり頭に入っている仏教徒だけともされていますが。仏教に興味ない人が慈悲の瞑想をしたら、すべての生命との一体感、宇宙との合一といったところで終わります。それでも、我他彼此(がたぴし)といがみ合う俗世間のレベルと比べれば、素晴らしい境地ですけど。

――慈悲の瞑想が進んで自我の錯覚が消えていくと、どんなことが起こるのでしょうか。

そうですね。お釈迦様は増支部経典のなかで「慈悲の瞑想」の功徳として、11項目を挙げておられます。

1.安眠できます。
2.気持ちよく目覚められます。
3.悪い夢を見ません。
4.人々に愛されます。
5.人間以外の生命に愛されます。
6.神々によって守られます。
7.火災、中毒、武器などの被害を蒙りません。
8.すぐに心が落ち着いて集中できるようになります。
9.顔色が明るくなります。
10
.こころ乱れずに死ぬことができます。
11
.この世で阿羅漢になれなくとも、死後は梵天に生まれます。

「慈悲の瞑想」をすると、安眠できて、気持ちよく目覚められる、あと、悪い夢を見ない。周りの人たちに愛される。それどころか、人間以外の生命や神々からも愛されます。火災や災害など、あるいは毒とか武器などの被害を受けないとも言われています。ちょっと神秘的にも感じますけど、これは「精神的なダメージを受けない」という意味に取ってもよいでしょう。例えば、津波で家が流されたとしても、慈悲の瞑想をやって、無量心を育てている人は、精神的なダメージをそんなに受けない、ということですね。

また、今すぐに心が落ち着いて集中できるようになる。禅定に入りやすくなる、とも説かれています。これは、まあ、当たり前と言えば、当たり前の話です。自我意識なしに一切の生命に友情の気持ちを抱いているわけですから、心はとことん落ち着いてきますよね。すぐにパニックになったりしないで、いつも心が落ち着いて精神集中もできるようになる。それから顔色が明るくなる。周りの人からも魅力的な感じの、顔色が明るい人間になれる。

それから心乱れずに死ぬ事ができます。日本のお寺でも「ぼけ封じ」のお守りを売っているところは多いですが、そんなものに頼るよりはよっぽど効き目があると思いますよ。で、最後は、この世で阿羅漢になれなくても、死後は「梵天」、ブラフマンという、インドでいう最高神の境地に生まれ変われますよ、と。ですから、仏教の解脱の境地なんか興味ない、という人でもやってみて損はない瞑想です。

これは、お釈迦様が仰っている「慈悲の瞑想」の功徳、御利益です。こんなふうに御利益を強調されることは、他の瞑想法に関してはそんなにはありません。ですから、お釈迦様はこころから、「慈悲の瞑想」をたくさんの人々に実践して欲しいと願っていたんでしょうね。

――やり易いのは「慈悲の瞑想」と、それから「死の瞑想」ですね。

なぜ「慈悲の瞑想」がやり易いかと言うと、「私が/生きとし生けるものが幸せでありますように」と、私とか、生命という観念を認めた上で実践がなされるからです。自我の錯覚、生命という働きを徹底して分析していく他の仏道とは、ちょっとアプローチが異なるんですね。この瞑想は、誰もが関係のある「生命」に対して、やさしい気持ちを作る訓練なので、とりわけ宗教的な関心がない人でもやり易いでしょう。「慈悲の瞑想」に関しては、スマナサーラ長老も本を書いていますし、簡単なやり方も紹介されています。そういうものを実践するのが良いと思います。

「死の瞑想」に関しても、誤解はしにくいと思います。自分、そして他の生命も必ず死ぬ存在なのだ、死ということからは逃れられないのだ、と常に自覚して念じる実践です。それと同時に、今、自分はさまざまなものに依存して生きているけれど、すべてを捨てて、死に赴かなければならない、逝かなくてはならない、ということを常に自分の心に言い聞かせる。パーリ語で、「Sabbaṃ pahāya gantabbaṃ サッバン パハーヤ ガンタッバン」というフレーズもあります。「すべてを捨てて逝かなくてはならない」という意味です。

そのフレーズを自分自身に言い聞かせるとともに、観察モードにもなるよう、自問自答するのです――自分の子供とか、自分の家とか、自分の財産とか、妻とか、肩書きとか、今、それらはあるけれども、死後も持っていけるものなのか? もちろん持っていけはしません。強いて言うならば、持っていくものは、自分の業ですよね。業というのは「おこない」です。自分の行為の結果を自分が持っていくだけ、ということです。

このように、「慈悲の瞑想」と「死の瞑想」というのは、やり易いし、自己観察にもなって、智慧の開発に繋がるものです。この二つを合わせて実践したら非常に良いと思います。これは私の好みで言っているわけではなくて、テーラワーダ仏教で権威とされる『清浄道論』にもそう書いてありますからね。

「慈悲の瞑想」についてもう一言つけ加えるならば、世の中を客観的に観察すれば、輪廻を解脱する、涅槃に達するという仏教のゴールに興味がある人は少数派です。やはり大多数の人間は輪廻の世界に未練があるし、輪廻のなかで幸福を求めているんです。ブッダは解脱・涅槃を説いたからといって、そういう大多数の人々を無視していいはずはありません。「慈悲の瞑想」は、ひとりでも多くの生命に幸福を体験してほしい、というお釈迦さまの大いなる慈しみ(大悲)が形になった瞑想なのだと思います。

――ありがとうございます。たいへんよくわかりました。ところで、「慈悲の瞑想」の中には「私の嫌いな生命も幸せでありますように」という文言があります。これで苦しくなるという人も見受けられるようですが……。

まあ、引っかかって当たり前なんじゃないでしょうか。そもそも、みんな善人被りをしたがるという悪い癖があるのです。嫌いな人とか、嫌いな生命が幸せでありますように、と言ったとき抵抗感があるのは当たり前なんです。それが生命のあるがままの姿なのですから。

そのあるがままの姿を乗り越えることが、慈悲の完成なのです。やりにくいのは当たり前の話です。だからそこで観察モードになって、「今、『慈悲の瞑想』をすると、嫌いな生命に対しては怒りが生まれるんだな」というふうに自己観察すれば、それで終わりだと思うのですけれど。「なるほど、発見した」と。

今、自分の心は、こんな状態なんだ。嫌いな人の幸せを願おうとしただけで、こんなに腹が立つくらい、しょうも無いんだ。なるほど、自分の心というものはこんなに狭いものなんだ、と気がつけば、それでいいのです。これは、自分を軽視するという話じゃなくて、予断や思い込みにまみれた「自己評価」を軽視しなさい、ありのままに観察してみなさい、ということです。

だいたい、瞑想すると気持ちよくなると思っているから、問題に感じるんだと思いますけどね。最初は、混乱した心を落ち着けるだけで気持ちよさを感じるかもしれませんが、修行が進むということは、あるがままの自分と直面することだから、嫌なものも見るに決まっているじゃないですか。自分なんて、ろくでもない存在なんだから、それは嫌なものも見ますよ、いろいろ。ですけど、それでも観察モードを保てれば、それに対して落ち込んだりはしない。「ああ、なるほど」と観察して、それで終わりますから。

どうしても無理なら、その文言の部分を対象から外すっていうのもひとつの緊急避難としてはあり得ます。取り敢えず、やり易いところからやってみる。「生きとし生けるものが幸せでありますように」というのが OK であれば、それだけやるとか。もちろん、緊急避難だという自覚は持っていてほしいですけど。

仏道修行の本質論から言うと、うまくいかないのは当たり前です。そんなに良い人間だったら、修行する必要もないじゃないですか。そこは勘違いしやすいところですよね。ろくでもない人間だから、修行してがんばろうと思うわけだから。そんな、最初から完璧に慈悲の瞑想ができたら、だれも苦労しないですよ。そう思って頑張っていただきたいと思います。

――逆にそう言っていただけると救われますね。肩の力を抜いて実践できそうです。今回は4回にわたり貴重なお話をありがとうございました。

こちらこそありがとうございました。とっ散らかった話になっちゃいましたが、ブッダの瞑想とは「観察モード」で日々を生きることだ、と簡単に憶えてもらえたら幸いです。

参考資料:『慈悲の瞑想』の言葉(日本テーラワーダ仏教協会)

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)
「私は幸せでありますように」と心の中で繰り返し念じます。

私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)
「私の親しい生命が幸せでありますように」と心の中で繰り返し念じます。

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
「生きとし生けるものが幸せでありますように」と心の中で繰り返し念じます。

私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように

私を嫌っている生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

佐藤哲朗(さとう・てつろう)








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ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(4)最終回










ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(4)最終回

     

日本テーラワーダ仏教協会(渋谷区 宗教法人)の編集局長として、仏教や瞑想に関する情報発信を長年続けてきた佐藤哲朗さんに、ヴィパッサナー瞑想法のあらましと、実践にあたって理解すべきポイント、また初心者が陥りやすい誤解などについて伺いました。4回にわたって連載します。

日本テーラワーダ仏教協会:アルボムッレ・スマナサーラ長老の指導のもと、お釈迦さまの教え(初期仏教)を社会に紹介し、人々が法を学び修行できる環境を整え、生きとし生けるものが幸福に達するためのお手伝いをする目的で活動している。

日本テーラワーダ仏教協会編集局長・佐藤哲朗氏(幡ヶ谷・ゴータミー精舎にて)

Q1自分に合った瞑想法と出会うためにはどうすればいいのでしょうか。いろいろな瞑想会に出席してみることは構わないでしょうか。

仏教は基本的に師を変えることに関して、一切禁止してはいないので、自分に合う指導者なり道場を選べばいいのではないかと思います。ただ自分の好みは、結局、自分の煩悩ですから、自分の好みでやって上手くいかないこともありますね。その辺は微妙です。

最悪なのは、あちこちのやり方を嘗めてまわって、一つもものにしないまま事情通ぶっちゃうことですね。まともな指導者は、そういう人を相手にしないと思います。道を求めるというよりは「消費者」みたいなマインドで道場ミシュランを始めちゃうと、一生を台無しにしかねないので、気をつけたほうがいいと思います。

そのような点に注意すれば、いろいろ調べて納得がいくまで、あちこち回るというのはあながち悪いことではありません。疑り深いことは、それが理性的な疑いならば悪い資質ではないので、納得が行くまで調べたうえで、これと決めた指導者のところで修行するのがいいでしょう。

もうひとつ助言するなら、仏教の瞑想に取り組む際に、ある程度、仏教の教えに関する勉強を一緒にやって欲しいということです。もちろん難しい経典を勉強して、パーリ語の勉強もして、阿毘達磨(アビダルマ)の勉強もして、頭を経典の知識でいっぱいにして……などという必要はありません。しかし基本的なことは押さえておきたいですね。

無執着、執着をなくす、という仏教の基本的な芯の部分を、ちゃんと掴んでおいた方がいい。ヴィパッサナー瞑想法に関する本は、今、たくさん出版されています。そういうものに加えて、スマナサーラ長老の著作も含めて、仏教の基本的な教えを解説した本にも親しんで、ある程度は勉強した方がいいのではないかと思います。

 









ひとり言 | 13:40:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
 無漏という生き方 Ⅱ
 




協会の記事ではありません。
吉水 秀樹  安養寺住職 のfbより紹介です。





 無漏という生き方 Ⅱ
 
 昨日の日記は少し話題がねらいと違った方向に進んでしまいました。「有漏」と「無漏」と言う言葉を知って、私たちの日常の生き方の道しるべを示そうとしています。

「あおり運転」という言葉を耳にするようになりました。死亡事故や事件が起きて、車の運転をする人には他人事ではありません。先日、御在所岳湯の山温泉に遊びに行きました。新名神ができて、京都から御在所岳までは、1時間少しで行けます。新名神高速道路は部分的に三車線もある広い道路で、スピードが出やすいです。半面ゆるやかな登りもあり、スピードが落ちます。その登りを走っていたら、10㌧車が10㌧車を追い越していて、スピードが時速80㌔以下に落ち、四五台の車が連なる場面がありました。10㌧車の後ろに乗用車が三台連なって、その後ろが私でした。見ていると前の車は、その前の車との車間距離が目測20mもなくて、危険を感じました。ハンドルを左右に切って車体がゆれています。俗に言うあおり運転です。たぶん、本人は自分が危険な運転をしているとは気づいていないと思います。

私は車間距離を保っていましたが、ルームミラーで私の後続車を見ると、車間距離が目測で20mもありませんでした。前にも後ろにも、危険な運転をしている人がいるわけです。私は怖くなって、左車線に回避しました。
 車を運転していたら、誰もが「目的地に行きたい」という「欲」を持っています。これは当たり前のことです。しかし、この「欲」が「我先に!」「何が何でも!」「他の者は邪魔!」となった時には、「欲」が危険な「貪欲」「執着」に変化しています。「欲」の段階で、「漏れ」がはじまっています。気づきのあるものは、この「欲」の段階で「有漏」(漏れが有る)ことに気づいて、それを捨てなければなりません。
 
冷静に考えたら、前に10㌧車が二台走っているので、それ以上前方に行くことはできません。なのに、車間距離を縮めて左右に車体をゆらせて前に行こうとしています。無智としか言いようがありません。このような人にクラクションを鳴らして警告すると、「貪欲」が「怒り」に変化して、さらに危険です。あおり運転で事件が起きるのは、このような売り言葉に買い言葉で、無智と貪欲と怒りの三毒煩悩が背後で糸を引いていることは間違いありません。
けっきょく、その後2.3分で渋滞は解消して事故も事件も起きませんでした。車の運転をする人は、このような場面に出くわしたら、その場から速やかに離れることが得策だと思います。有漏の人(感情のある人)の行動はともかく目につきます。一方、無漏という生き方を実践している人は、ただ気づきを保って運転しているだけなので、人の気配も感じません。
「有漏」と「無漏」という言葉を理解して、漏れのない生き方をしたいものです。

※「有漏と無漏」の話は、明後日、11月11日(日)にある「十夜法要」のネタです。

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画像に含まれている可能性があるもの:橋、空、道路、屋外、自然







ひとり言 | 09:58:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
仏教を学ぶのに「今ここ」や「あるがまま」はキイワードになります。
 




協会の記事
ではありません。
吉水 秀樹  安養寺住職 のfbより紹介です。




仏陀 に対する画像結果
























吉水 秀樹






 『二つの今ここ』  

 仏教を学ぶのに「今ここ」や「あるがまま」はキイワードになります。今ここも二つのとらえ方があるようです。
 一つは、輪廻のなかの今ここ。もう一つは、輪廻を超えた今ここ。
 ある聖者の言葉に「無明が過去に向かって無限に伸びています。」とありました。凡夫の考える今ここは、無智と無明に根ざしており、憎しみ・恐怖・貪欲を含んでいます。このようなこころの状態にある人にとって、世界は旧来の悪感情や条件づけを含んだ輪廻のなかの囲いある世界です。

 冥想によって、私が誰でもない。時間がない、空間がない。想念やイメージする働き思考の運動がない。望むことや追及することがない世界をほんの一瞬でも垣間見ることができたなら。そこが安らぎであり自由であることが理解されると思います。それが輪廻を超えた今ここのように私は思う。たとえそれが一瞬であっても、その瞬間は人類の文化や文明を超えた瞬間であり、そこに安らぎがあることを知ることが光であり安らぎです。








ひとり言 | 10:09:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(3)後編
 



ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(3)後編

     

日本テーラワーダ仏教協会(渋谷区 宗教法人)の編集局長として、仏教や瞑想に関する情報発信を長年続けてきた佐藤哲朗さんに、ヴィパッサナー瞑想法のあらましと、実践にあたって理解すべきポイント、また初心者が陥りやすい誤解などについて伺いました。4回にわたって連載します。

日本テーラワーダ仏教協会:アルボムッレ・スマナサーラ長老の指導のもと、お釈迦さまの教え(初期仏教)を社会に紹介し、人々が法を学び修行できる環境を整え、生きとし生けるものが幸福に達するためのお手伝いをする目的で活動している。

日本テーラワーダ仏教協会編集局長・佐藤哲朗氏(幡ヶ谷・ゴータミー精舎にて)

佐藤氏が敬愛してやまない、指導者 アルボムッレ・スマナサーラ師(撮影:加納智美)

Q2 ところで、悩み・苦しみの原因とはいったい何でしょうか。

ここまでの説明から、「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という自我の錯覚こそが、悩み・苦しみの原因だと言うことができます。以上、終わり……なんですが、せっかくですので、お釈迦さまのもう一つの説明も紹介しましょう。われわれのこころにある渇愛(渇き)が悩み・苦しみの原因である、という話です。

お釈迦さまが初めて体系的に教えを発表した「初転法輪」では、苦集滅道という四つの真理が語られました。①苦聖諦は「悩み・苦しみ」とは何かという真理。②苦集聖諦は「悩み・苦しみの原因」とは何かという真理。③苦滅聖諦は「悩み・苦しみが無くなった境地」とは何かという真理。④苦滅道聖諦は「悩み・苦しみを無くすための方法」とは何かという真理。

①について、お釈迦さまは生・老・病・死などを並べたうえで、「要するに五取蘊が苦である」と仰っています。取(ウパーダーナ)とは、仏教用語で執着のことです。五蘊すなわち身体とこころに執着している状態が、悩み・苦しみなんです。

それで、苦を作り出している原因は何かっていうと、渇愛・渇望(パーリ語:タンハー、サンスクリット語:トゥリシュナー)だと言うのです。渇愛の意味は、そのまんま「渇き」なんですね。この渇きが、生命を輪廻させてしまう。喜びと欲望で絡み合って、世の中のものごとに喜怒哀楽を起こして執着させてしまう。渇愛は、われわれの心に生まれる超強烈な衝動です。

この渇きには三種類あります。①視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という感覚的刺激への渇き(欲愛)、②存在への渇き(有愛)、③虚無への渇き(無有愛)です。

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