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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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そこで仏教では、管轄外のことは「放っておく」のです。そこで仏教では、管轄外のことは「放っておく」のです。





協会の記事ではありません。
木下全雄  さんの fb の紹介です





周りの状況も、人様からの評価も、刻々と変わります。希望通りには変わりません。
私もメールで「先生」と呼ばれたり、「先輩風を吹かしたバカ」と呼ばれたり、「豚肉野郎」と呼ばれたりと、呼び名も評価も様々です(^^)

さてここで、高い評価を期待する人は、どうしても低い評価も気になってしまいます。
自分の希望通りかどうかは、誰にでも気になるものですからね。
気にする人は、高低ともに気になります。

そこで仏教では、管轄外のことは「放っておく」のです。

自分の成長に必要な情報は、受け入れて努力します。
ただの個人的な評価ならば、放っておきます。私達にはどうすることもできない範囲のことですからね。

評価は日々刻々と変化するものです。そこを気にすると、一生がそこで終わってしまいます。毎日刻々と変化する評価を気にし続けて、評価に一喜一憂して、あっという間に人生が終了するのです。

ではなくて、自分ができることは何か、自分がしなければならないことは何か、ここからなにを学ぶべきなのか、ということが大切です。

そして最終的には一個人の評価に振り回されるのではなく、生きとし生けるものの役に立つ生き方を自分なりに実践できるようになればそれでいいのです。

木下全雄さんの写真









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Sabbe satta | 10:25:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
 喜(Muditaa―ムディター)から始まる幸福論





協会の記事ではありません。協会のリンク先です。

Sabbe satta bhavantu sukhitatta  の紹介です

生きとし生けるものが幸せでありますように







 精神の栄養剤


  ムディター(Muditaa)とは、精神を成長させる栄養剤です。この栄養剤は外から取り入れるものではありません。心がつくりだすものです。少々訓練さ えしておけば、ムディターという栄養剤はいくらでもつくれます。成長に必要な栄養に困っていなければ、人が成長するのは当たり前の話でしょう。 

 どんなものにも何らかの副作用があるのは当然です。しかし、例外もあるのです。身体を健康に保って成長させるために、私たちは栄養に富んだ食べものを食 べています。しかしこの食べものが持つ副作用によって、身体が成長するとともに、壊れていったり、病気になったりもします。一部の人間は、ハイになるため に痲薬を服用します。結果は早いですが、危険性はあまりにも大きいのです。

 しかし脳と身体を刺激して活発にするために、脳は脳の中で痲薬に似た化学物質をつくります。そちらに副作用はありません。身体を治して活発にしてくれる だけです。「脳はデータを処理して身体を管理するだけでなく、薬を製造することも行なっている」と聞いたことがあります。脳がつくる薬には、危険な副作用 はないのです。自分の身体にぴったり適合する薬なのです。

 このように説明したのは、ムディターは心がつくりだす栄養剤なので、心が成長するためにぴったり適合する薬である、ということを理解していただくためで す。要するに、ムディターはあればあるほどよいものなのです。これから、ムディターとはどのようなものか、どのようにムディターを製造するのかを考えてい きましょう。

 まず、ムディターとは何なのかと理解しましょう。ムディターとは「喜び」という意味です。喜びなら、知っていますね。それはどうでしょうかと疑問です。 みんな喜びの意味を知っているならば、悩んだり苦しんだり失敗したり後悔したりして人生にダメージを与えないでしょう。人はだれでも、大成功を収めること でしょう。私たちが知っている喜びと、心の栄養剤である喜びは、もしかすると少々違うのかもしれません。似ているところはありますが同じではない、と理解 したほうがよいのです。ムディターを学ぶ前に、ムディターの敵について学んでみましょう。

つづきはこの中










Sabbe satta | 09:13:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
善語勝利経 Subhasita Jaya Sutta





協会の記事ではありません。協会のリンク先です。





PTS:SN 1.222
---------------------------------
When, knowing the other's provoked,
you mindfully grow calm.

It doesn't matter whether he thinks,
"He's forbearing out of fear of me."
One's own true good is the foremost good.
Nothing better than patience is found.
---------------------------------

むかし、阿修羅の王 Vepacitti が、神々の王の Sakka に「善語で勝負しよう」と言いました。

Vepacitti は Sakka に、「あなたから先に言ってください」と言うと、Sakka は 「あなたは先輩ですから、お先にどうぞ」と言いました。

Vepacitti はこのように言いました。
「もし抑える人がいなければ、愚者はますます猛り、怒るだろう。だから、激しい罰を与えて賢者は愚者を制すべきです」と言いました。

(そばで見ていた)阿修羅たちは随喜しましたが、神々は沈黙しました。
Vepacitti は Sakka に「次はあなたの番です」と言いました。Sakka はこのように言いました。

「私はこう思います。他人が怒っているのを知ったとき、よく気づき(Sati)、落ち着いて(忍耐して)いるなら、それが愚者を制することです」

神々は随喜しましたが、阿修羅たちは沈黙しました。

Vepacitti はこのように言いました。
「忍耐することに過失があると私は見ます。『彼は私を恐れて耐えている』と思うと、愚者はますます増長します。逃げる人を見ると、牛がますます増長するように」

(愚者は忍耐する人のことを「腰抜け」とか「臆病者」と言い、ますます調子に乗ってひどいことをするから、忍耐することには過失がある)

(そばで見ていた)阿修羅たちは随喜しましたが、神々は沈黙しました。

Sakka はこのように言いました。
「『彼は私を恐れて耐えている』と思いたければ、それでもよい。忍耐は善き利のなかで最上の利です。忍耐に勝るものはほかにありません。
khantya bhiyyo navijjati

力のない人(愚者)のことを耐え忍ぶとき、それは「最上の忍耐」です。

(力のない人の)強さは、けっして強さではありません。その強さは、愚か者の強さです。
徳に守られている強さに、言い逆らえる人はいません。

怒っている人に対して怒り返す人は、それによってさらに悪いことになります。
怒っている人に対して怒り返さない人は、勝ち難き戦いに勝つことになります。

他人が怒っているのを知ったとき、みずから気をつけて静かにしているなら、その人は自分と相手の両方に善いことを行っています。

自分と相手の両方を癒そうと努めている人のことを、人は愚者だと考えます。彼らは真理を知らないから、そう考えるのです。

神々の王 Sakka がこのように言ったとき、神々は随喜しましたが、阿修羅たちは沈黙しました。

(最後に)審査員はこのような判決をくだしました。
阿修羅の王 Vepacitti は、暴力や罰を与えることに関することを言いました。そうなると、これから論争、喧嘩、争いを起こすことになります。それに対し神々の王 Sakka は、他人に罰を与えず、武器を持たないということを言いました。そうすると、論争も、喧嘩も、争いも起こりません。善語の勝利は神々の王 Sakka のものです。


【解説】

 賭け事で全財産を失うこと、自分自身を失うことは それほど大きな負けではない
 真理の体得者(Sugatesu)に対して怒ることこそ 最大の負けである

コーカリカという名の比丘がいました。彼は、サーリプッタ尊者のことをひどく嫉妬していました。そしてお釈迦さまに、「サーリプッタ尊者は悪い考えを持っ ています」と言い、サーリプッタ尊者を中傷したのです。お釈迦さまはこのように仰いました。「コーカリカよ、そんなことを言ってはならない。サーリプッタ 尊者は善き立派な人です。サーリプッタ尊者に対して信頼の念を持ちなさい」

しかし、邪見に覆われているコーカリカは、お釈迦さまの言葉を聞きませんでした。

自分の間違った見解を正さなかったため、まもなくコーカリカの全身には腫れ物ができました。腫れ物はどんどん悪化し、やがて病気を患い、死に至りました。 コーカリカは、道徳ある善人(Sugatesu)のことを非難したという自分の悪行為によって、悪結果を受けたのです。

--------------------------------------

悪語の順番

1.邪見、誤解、怒り、憎悪、嫉妬などで心が腐っている
2.腐った心と悪臭で落ち着きがなくなる
3.「相手が悪い、自分は正しい」と考える。(相手を軽視する)
4.相手に悪語を吐いて攻撃する。


悪語を受ける側(4つのタイプ)

・相手の悪語と悪臭を受け入れる。その結果、自分の心も相手と同じ状態になる。(受動的、落ち込み型)
・相手を攻撃して問題を大きくする。(能動的、攻撃型)
・相手の心は病んでいると理解する。(相手の問題であり、自分には関係ないと理解する)
・相手は病んでいることを理解し、またその治療方法も持っている。(智慧型、人格者)
A. 治せるものなら治す
B. 治せないもの(末期型)なら放っておく










Sabbe satta | 13:42:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
「マハーナーマ経」 ブッダと在家聖者との対話












預流果に至る条件

マハーナーマ経」 ブッダと在家聖者との対話

スマナサーラ長老 法話








 預流果に至る条件

 今回ご紹介する経典は『Sotapatthi samyutta』というセクションの『Mahānāmasuttam / マハーナーマ・スッタ』という経典です。

 Sotapatthi(ソータパッティ)というのは「預流果になる」という意味で、お釈迦様の時代では、多くの在家の方々が預流果に覚っていました。預流果に覚ることは、それほど珍しいことではなかったのです。

 そこで、多くの人が預流果に覚っていますから、預流果についての理解や解説などに個人差がでてきます。覚りそのものには差がありませんが、「あなたはどのように理解していますか」と聞くと、それぞれ表現の仕方や言葉が少々変わったりするのです。

 そこで、「預流果というのはこういうものである」ということをいったんまとめたほうがいいのではないかということだろうと思いますが、お釈迦様が教えられたさまざまな実例やデータが、このサンユッタニカーヤにまとめてあるのです。

 今回はその中の経典の一つ、預流果のセクションの第三章です。

 Ekam samayam bhagava sakkesu viharati kapilavatthusmim nigrodharame.

 ある時、世尊は釈迦国のカピラ城ニグローダラーマに住んでおられました。

 カピラワットゥというのは国の首都の名前で、お釈迦様が生まれた故郷です。このカピラワットゥに、ニグローダーラーマというお寺がありました。

 Atha kho mahanāmo sakko yena bhagava tenupasankami. Upasankamitva bhagavantam abhivadetva ekamantam nis]di. Ekamantam nisinno kho mahanamo sakko bhagavantam etadavoca: 



続きはここ


http://homepage3.nifty.com/sukha/Sumanasara_yoruka.html








Sabbe satta | 09:35:26 | トラックバック(0) | コメント(0)
結集(Sangiti)――ブッダの言葉の保存













The importance of the Pali Tipitaka,
Excerpt from preface to the World Tipitaka Edition in Roman script
by Venerable Phra Dhammapitaka (P.A.Payutto)


三蔵経の重要性

ローマ字国際版三蔵経・序文からの抜粋
P. ダンマピタカ長老著


ブッダ・サーサナ(Buddhasasana)、またはブッディズム(Buddhism)という語には、一般的に幅広い 意味があり、その範囲は、ダンマ(法)、サンガ(僧)、サンガの組織、サンガの活動から、仏教聖地や仏具にまで及びます。しかしブッダ・サーサナのほんと うの意味を調べてみますと、その意味は明白であり、文字通り 『ブッダの教え』 という意味です。これがブッダ・サーサナの本質であり、他のものはブッダの教えの延長線上にあるにすぎないのです。

ブッダ・サーサナという語のほんとうの意味を理解すれば、ブッダ・サーサナが存続するということは、ブッダの教えが存続 するという意味である、ということが分かるでしょう。もしブッダの教えが曖昧になったり、消失したなら、いかに信者の数が多くて活動が盛んであっても、い かに建物や組織、物が立派であったとしても、ブッダの教えが存在していると言うことはできません。反対に、そうした副次的なものがなくとも、ブッダの教え が存続しているなら、人々は仏教を知る機会を持つことができるのです。従って、ブッダの教えを保存することによって、仏教を真に保つことができるのです。


続きはここ








Sabbe satta | 06:06:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
ある日、アーナンダ尊者がお釈迦様にこのように尋ねました。 Upaddhamidam, bhante, brahmacariyassa yadidam kalyānamittatā kalyānasahāyatā kalyānasampavankatā.










善友


ある日、アーナンダ尊者がお釈迦様にこのように尋ねました。

Upaddhamidam, bhante,
brahmacariyassa yadidam kalyānamittatā kalyānasahāyatā kalyānasampavankatā.

善友がいること、善友と共にいること、善友とつきあうことで、
仏道の半分が達成できると思いますが、いかがでしょうか。

これにたいし、お釈迦様はこのように説かれました。

Mā hevam, ānanda, mā hevam, ānanda. 
Sakalameva hidam, ānanda,
brahmacariyam yadidam 
kalyānamittatā kalyānasahāyatā
kalyānasampavankatā.
(Samyutta Nikāya)

アーナンダよ、そうではない。
アーナンダよ、そうではない。
善友がいること、善友と共にいること、善友とつきあうことで、
仏道の半分ではなく、仏道の全てが完成するのです。

(相応部経典)


*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*

本年が皆様にとって幸せな年になりますように
生きとし生けるものが幸せでありますように

*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*



詳しくはここ









Sabbe satta | 08:38:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
 憎しみは、憎しみによって終わらない  慈しみだけが、憎しみを終わらせる












12/15/2012


平和への責任


 スリダンマナンダ長老

 憎しみは、憎しみによって終わらない
 慈しみだけが、憎しみを終わらせる

この言葉は、敵意や悪意を抱いている人たちや 互いに戦争や反乱を起こす人たちにたいして、お釈迦さまが説かれた言葉です。

「敵を慈しみなさい」 という教えを実行するのは不可能だ と多くの人が言っています。しかし実際のところ、敵を慈しむことこそが、すべての問題を解決する唯一の正しい方法なのです。

私たちは 傲慢で自己中心的なため、他人が自分のことを臆病者と見るのではないか と考えて、敵にたいしてやさしくすることを嫌がります。
また、思いやりがあり、正直で、忍耐強く、穏やかな人は弱者だ と考えている人もいます。

でも、考えてみてください。苦しみの原因である「エゴを捨て」、「敵を慈しむ」という理性的な方法をとることによって、さまざまな問題が解決し、平和と幸福が得られるならば、敵にたいして慈しみを向ける人が弱者や臆病者であるはずがないでしょう。

人類の歴史は、貪欲、憎悪、傲慢、嫉妬、わがまま、妄想などが絶え間なく表面化してきた 混乱のあらわれです。
過去 数千年のあいだに 人類は数え切れないほどの大きな戦争を起こしてきたと言われています。戦うことは人類の特性なのでしょうか? 何のために戦うのでしょうか? 人間はなぜ同じ仲間である人間を殺すのでしょうか?

人類は、次から次へとすばらしい事物を発見し、発明してきました。しかし同時に、新しく発見したものを悪用してきたため、人類の種が滅亡する方向へ進んでしまったのです。


1945年8月に日本に落とされた原子爆弾よりも、水素爆弾のほうが強大な破壊力をもつと言われています。科学者たちは、数百個の水素爆弾を落とせば世界が全滅する という恐ろしいことを考えています。科学の発展が何をもたらしたかを考えてください! 人間はいかに残酷で利己的になったかを理解してください!

私たちは、攻撃性という本能に従うべきではありません。
そうではなく、幸せになるために、「賢者が説く智慧の教え」に耳を傾け、道徳的な行為をおこなうべきです。

世界の至るところで大勢の政治家やリーダーたちが、世界の平和を保ち 増進する方法を見いだした、と叫んでいます。そして数多くの平和条約や協定が取り決められました。しかし、そのような努力にもかかわらず、いまだに国民の恐怖を取り除くことはできていないのです。

戦争をすれば、多くの人の命と多額のお金が無駄になります。

政府は、命とお金を浪費する方向から、国民の安全を守り、生活水準を向上させる方向へ転換を図らなければなりません。

国家と国民が欲望と傲慢を捨て、権力と財産を追い求める愚かな行為を完全に捨てるまで、この世界に平和はないでしょう。
権力や財産は、幸福をもたらしません。真理を知ることだけが、心に有益な変化を与えてくれるのです。そして、本当の意味での武力解除、つまり心の中での戦争が終わるのです。
 戦場で百万人の敵に勝つよりも
 ただ一人の自己に打ち克つ者
 彼こそ、実に最上の勝利者である 
                               Dhammapada

殺したり、盗んだり、脅迫したりすることは簡単です。
しかし、自分の心に生じる怒りや嫉妬を制御するには、強大な精神力が必要です。心を制御し、慈悲の心をもつ人は弱者ではなく、強者なのです。報復をしない人こそが、真の勝利者なのです。

 ~**~**~**~**~**~**~**
               
現代社会が直面している危険な事態をよく理解して、一人一人が 自分にできる範囲で  
恐れや心配のない平和な世界を維持するために貢献することを、願っています。 










Sabbe satta | 15:52:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
損得勘定の智慧





Yoshiko Demura出村佳子さんのブログ   の紹介です






損得勘定の智慧

損の無い生き方

 「入るもの―出るもの」と言えば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?
お金なら「収入―支出」 プレゼントなら「貰う―贈る」 会話なら「聞く―話す」 知識なら「学ぶ―教える」 情報なら「受信―発信」などいろいろあるで しょう。私たちの日々の生活は、このように「入る―出る」の関係で成り立っています。そして人生を幸せに、賢く生きるためには「何が入り、何が出たか、ど のくらい入り、どのくらい出たか」とモノの出入りを冷静に勘定して、管理することが大切なのです。
 これから、「損―得」「出る―入る」「与える―得る」をキーワードに、お釈迦さまの損得勘定の智慧を学んでみましょう。

因果法則に見られるギブアンドテイク

 生きる上で「損か、得か」と勘定することは必要でしょうか? 
一般的には、「損得を計算して行動するのは利己的で意地汚い」と思われているようです。そう思うのは、世の中の仕組みを理解してないからです。実際のとこ ろ、私たちは「損得」を考えずに生きていられません。なぜなら人間関係というものは、基本的に「損得」の関係、あるいは「与えて得る」という関係で成り 立っているからです。
 英語ではこれを ギブ・アンド・テイクと言います。仏教から見れば ギブ・アンド・ゲットと言う方が正しいのですが、ここでは皆さんが聞き慣れているギブ・アンド・テイクを使って話しを進めることに致しましょう。
 このギブ・アンド・テイク(与えて得る)という関係は、普遍的な法則です。人間関係だけでなく物質の世界でも、自分から何かを与え、相手から何かを獲得して成り立っています。
 たとえば鉄は空気中の酸素に触れることによって錆びます。鉄には余分な電子があって、酸素には電子が不足していますから、互いに「やり取り」を行って、 それぞれが安定して成立しているのです。このように、物質も、人間も、一切のものが、相互に「与えて得る」という関係で成り立っています。これは宇宙の法 則であり、仏教の因果法則の一部なのです。
 では、「与えて得る」の働きが、私たちの日常生活の中でどのように行われているか、具体的な例を挙げて説明してみましょう。


続きはこの中









Sabbe satta | 07:15:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
 親孝行       スリダンマナンダ長老




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Sabbe sattaAnicca vata sankhara. Uppada vaya dhammmino. Uppajjitva nirujjhan'ti. Tesam vupasamo sukho. bhavantu sukhitatta

What's New

2012/09/08
      親孝行
      スリダンマナンダ長老

2012/09/01
     「マインドフルネス・気づきの瞑想」
      グナラタナ長老(著)
        





質 問

 私は両親と遠く離れて暮らしていますが、どうすれば両親にたいし、親孝行をすることができるでしょうか?


答 え (スリダンマナンダ長老)

 老いた両親の近くに住んでお世話をするのが一番よいことでしょうが、他にも多くのやり方で感謝を示すことはできます。両親が若いころ私たちを育て、面倒を見てくれた恩にたいして、感謝を示すことができるのです。

 まず、思い出してください。子どものとき、両親が自分のことを大事に思っているかどうかを知りたくて、いつも両親と話したがっていました。
 今は、いつでも話すことができます。定期的に電話をかけたり、ちょっとした贈り物やお金をおくったりすることもできます。両親が周りの人たちに自慢でき るようなことをすることができるのです。両親は子どものことを自慢することが好きですし、子どもがいかに立派に生きているかということを話したがるもので す。


続きはこの中









Sabbe satta | 10:05:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
 あなた方は解脱するために  自ら励みなさい。  仏陀は法を説くだけである。




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M 慈悲の瞑想
Meditation on Loving-kindness(Metta)

グナラタナ長老

Bhante H. Gunaratana Nayaka maha thero








 ときどき、「ヴィパッサナー瞑想(智慧の瞑想)をすると、他の生命にたいしてなんの慈しみも思いやりもない冷淡で無関心な人間になる」と言う人もいるようです。しかしながら、お釈迦さまは四つの崇高な心を育てるように強く薦められていることを忘れてはなりません。
 四つの崇高な心とは、慈(慈しみ)・悲(あわれみ)・喜(喜び)・捨(平静)です。この四つの中でも一番目の慈しみはとても重要なもので、お釈迦さまはこのようにおっしゃっています。
 「経済活動をしないで在家の人たちのお布施によって生活している人たち、すなわち僧や尼僧らは、生きとし生けるものにたいして毎日ほんの一瞬でも慈悲の瞑想をするなら、在家者たちからの借りを返すことができます」

慈悲と気づき

 慈悲経(Metta suttam)には次のように述べられています。
 「慈悲の気づき(念)をしっかり育ててください。これが梵天の生き方であると言われています」

 「気づき」は、お釈迦さまの教え全体の中で最も重要な教えの一つです。お釈迦さまが悟りを開いてから八十歳で涅槃に入るまで、ほとんどすべての説法の中 で「気づき」のことを強く教えられました。そこで、慈悲経に「慈悲の気づき(念)をしっかり育ててください」とあるように、慈悲が気づきと同等に大切なも のであることを理解するとき、お釈迦さまの教えの中で慈悲がいかに重要なものかということが分かると思います。

 お釈迦さまは悟りを開くために慈悲を完成させました。そして慈悲と智慧をバランスよく保ちました。悟りを開いたあとも、毎日最初に行なったことは、慈し みの結果である大悲(Mahaa karunaa)の心で世の中を観察し、誰か真理を理解できる人はいないか、ということを見ることだったのです。



続きはこの中


ナラタナ長老










Sabbe satta | 09:55:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
グナラタナ長老





Sabbe satta bhavantu sukhitatta



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慈しみ


慈悲の瞑想をすると、
心も身体も自然にリラックスします。
そして煩悩は少しずつ消えていきます。
眠気や睡魔は、「注意深さ」に換わり
曖昧さや優柔不断は、「確信」に換わります。
怒りや憎しみは、「やさしさ」に換わり
不安や悩みは、「幸せ」に換わります。
そして潜在意識に埋もれていた慈しみが
表面にあらわれ、それによって私たちは
より穏やかで、幸せになるのです。

    続きはこの中








Sabbe satta | 09:28:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
智慧と善行為(6)---スマナサーラ長老 法話



Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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自利と利他


智慧と善行為(6)
スマナサーラ長老 法話


善行為には二種類あります。
一つは、他人を助けることです。これは世の中の誰もが善い行為と見なしています。
では、自分のために何かやることは悪いことでしょうか? 
悪くありません。私たちは自分の幸福のためにいろいろなことをやる必要があるのです。

では、「自分のために善いことをする」ことと「他人のために善いことをする」ことと、どちらが善いことだと思いますか? 

それは判断できません。自分のことはおいておいて他人のためにやることが善行為であり菩薩行だという考えもありますが、あれは間違いです。結局、この二つを区別することはできないのです。

たとえば、若者たちがみんなおとなしく、自分のためだけにビシビシ勉強するとしましょう。ボランティアなど社会的な善い活動はしませんが、悪いことも何も しません。それで社会が悪くなると思いますか? 社会全体が明るくなるでしょう。私が私のためにまじめに勉強することは、自分のための自利の行為ですが、 それで社会も豊かになるのです。
仕事の場合も同じです。自分の仕事をしっかりおこなうこと、これは自利の行為ではありますが、結局は社会全体の繁栄につながるのです。

一人で静かに冥想したり、修行したり、戒律を守ったりすることは、他人や社会には関係がないことですが、そうやって立派な人間でいるだけでも、社会にとても善い影響を与えています。ですから、善行為は自利でも利他でもどちらでもよいのです。

あるいは、私が千円しか持っていません。その千円でごはんを食べようと外に出ました。その途中、たまたま道路で義捐金を集めている人たちに出くわし、持っ ていた千円を寄付しました。ごはんを食べようと思っていたのに、ごはんが食べられなくなりました。これは自分を犠牲にしたことですが、私は喜びを感じてい るのです。「善い行為をしました、よかった、よかった」と楽しい気分になっているのです。千円でごはんを食べたら、それほど長持ちする楽しみは得られない でしょう。

このように、他人のためにやった行為でも、その結果は自分に返ってきます。ですから、自利と利他は区別することができません。区別すること自体が間違いです。善行為をすることによって人格が向上しますし、また社会のためにもなるのです。


問題は心


続きはここ













Sabbe satta | 09:52:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
ウェーサーカ祭


Sabbe satta bhavantu sukhitatta
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ウェーサーカ祭




 仏教の年中行事のなかで最も有名な行事といえば、聖なる三大事のウェーサーカ祭(Wesak)です。これは仏教徒以外の人たちにも広く知れわたっている行事です。

 ウェーサーカとは、古代インド暦のウェーサーカ月のことです。通常、ウェーサーカ祭は五月におこなわれますが、四月下旬になることもありますし、六月上旬になることもあります。Wesak の語源は、パーリ語で「Vesqkha」サンスクリット語で「Vai1qkha」です。国によってはウェサックとかウェーサーカと言わずに、「釈尊の日」として知られている国もあります。

 

 

世界仏教徒連盟決議

 

 一九五〇年、第一回世界仏教徒連盟会議(The World Fellowship of Buddhists WFB)がスリランカで開催されました。この会議で「お釈迦さまが誕生されたウェーサーカの満月日を祝祭日に制定する」ことに関して、合意のための決議がなされました。世界会議で可決された決議は以下のとおりです。

 「世界仏教徒連盟会議 は、ネパール王国でウェーサーカの満月日を祝祭日に制定してくださったネパール国王陛下の慈悲深い行為に感謝の意を表すと同時に、多数であろうか少数であ ろうか仏教徒がいるすべての国々の政府最高責任者に、人類に偉大なる恩恵を施した人物の一人として普く称賛されている釈迦牟尼仏陀を尊敬し、五月の満月日 を祝祭日に制定することに向けて前向きにご検討くださいますよう、よろしくお願い申し上げます」

 次の世界仏教徒連盟会議でも、ウェーサーカの満月日、または釈尊の日の祝祭日に関する多くの決議が可決されました。一九五四年、ミャンマーのヤンゴンでWFB 会議が開催され、次のような決議が可決されました。「本会議は、インド政府にたいし、ブッダ・プールニマー日(五月の満月日・お釈迦さまの聖誕祭)を全インドの祝祭日に制定していただけますよう、お願い申し上げます」

 一九五六年、ネパールで開催された第四回WFB 会議でも、同様の決議が可決されました。「本会議は、パキスタン政府にたいし、聖なる三大事のウェサック・プールニマー日を、今後毎年祝祭日に制定していただけますよう、お願い申し上げます」

 一九六一年、第六回世界仏教徒連盟会議がカンボジアのプノンペンで開かれました。この会議では、「五月の満月日を釈尊の日として認め、祝祭を執り行う」ことが決議されました。

 一九七六年、第十一回WFB 会 議がタイのバンコクで開かれました。ウェーサーカの満月日を世界共通の祝祭日に制定するための決議が、次のような決議案を可決することにより、再び繰り返 されました。「本会議ではウェーサーカ祭を同一の日に執り行うべきであるということに関して決議する必要があります。したがって当委員会は前の総会で可決 した決議を執行することを、本会議でもう一度くり返し述べることを提言いたします」

 

 

マラヤ連邦―― ウェーサーカの満月日が祝祭日に認定

 

 このように、WFB 会議では多数の決議が可決されました。マラヤ連邦の仏教団体は、一九六一年、連邦政府にたいして、ウェーサーカの満月日をマラヤ連邦の祝祭日に制定するよう申請書を提出しました。次の文はその一部です。

 「ウェーサーカの満月 日(五月の満月日)を毎年マラヤ連邦の祝祭日に制定してくださいますよう、謹んでお願いを申し上げます。これまでマラヤ連邦における仏教徒のあいだでは、 釈迦牟尼仏陀の誕生をお祝いする日についての意見が一致していませんでした。四月八日にお祝いする人もいれば(中国系の人)、四月の満月日にお祝いする人 もいます。この不一致が、これまで仏教徒が合同でウェーサーカの満月日を祝祭日にするという政府へのお願いを妨げてきたのです。しかし、今マラヤ連邦のす べての仏教徒が、お釈迦さまの誕生をウェーサーカの満月日(五月の満月日)にお祝いすることに合意しました。また同日すべての仏教寺院で祝祭法要を執り行 なうことにも合意しました。

 ウェーサーカの満月日 は、数ある仏教行事のなかで最も神聖な日です。三大事、つまりお釈迦さまの誕生と成道と涅槃という三つのことをお祝いする日です。世界中の仏教徒たちは、 大いなる尊敬心をもって、この三つの記念すべき日をお祝いします。在家者はこの日を特別な日として、貧しい人々に施しをしたり、お寺にお布施をしたり、経 典を唱えたり、瞑想をしたり、法話を聞いたり、戒律を守るなど、徳のある行為をおこないます」

 マラヤ連邦にいるすべての主要な仏教徒たちから、この請願を支持するための署名を集めているとき、われわれの寛大な政府は、「一九六二年からウェーサーカの満月日を祝祭日に制定する」ことを承認しました。

 

 

偉大なる王子の誕生

 

 世界総人口の五分の一 からにもなる大多数の仏教徒にとって、ウェーサーカ祭は特別に重要な日です。東は東京から西はサンフランシスコまで、世界中の多くの寺院に仏教徒たちが集 まります。そして王室の快楽を捨て、人類に平和と幸福をもたらしたインドの王子に敬意を表します。

 正覚者である釈迦牟尼仏陀は、紀元前六三二年、ウェーサーカの満月日に誕生されました。この幼い王子は「シッダールタ」(Siddhqrtha)と名づけられました。意味は「目的を達成した人」です。シッダールタ王子の両親、スッドーダナ王とマハーマーヤ妃は、インド北部に位置する小さな王国を統治していました。

 王子が誕生したとき、老齢のアシタ仙人が宮殿を訪れました。そして王子を抱きあげて、最初に微笑んでから次に涙を流しました。そばにいた人たちは、その普通ではない態度を見て、「どうなされたのですか?」とたずねると、アシタ仙人はこのように言いました。

「私が微笑んだのは、この王子はやがて、王位を継げば世界を治める偉大なる転輪聖王になり、もし出家すれば、世の人々を救い導く仏陀(真理に目覚めた人)になるだろう。私が涙を流したのは、王子が成長するまで私は生きていられないからである」

 

 

優れた智慧をもつ王子

 

 ゴータマ・シッダール タ王子は宮殿で暮らし、この世のあらゆる贅沢を享受していました。両親は、王子が外界の不快な現実に触れないようにと王子を保護しました。王子は聡明にし て武芸に優れ、卓越した知性を発揮していました。しかし、そのような一時的な喜びには満足していなかったのです。 王子は思慮深い人でした。ある日、一匹 のヘビがカエルに食いつき、次の瞬間タカが空から舞い降りてきてカエルを銜(くわ)えたヘビを捕まえ、飛び去っていく、という光景を目の当たりにしまし た。王子は考えました。生きるということは、いま見た光景のように、絶えず強者が弱者を打ち負かすことではないか。この生存競争が終わるときにのみ幸福が 見つかるのだと。

 またある日、王子が宮殿の門外に出たとき、腰の曲がった老人と病人と死体を目にしました。王子はぞっとしました。いくら体を大切にしていても、体は老病死に支配されている、と。

 老人、病人、死体を見 たあと、一人の行者を見ました。着ているものは簡素な衣でしたが、世俗の情欲を捨て去り、平穏な心を身につけていました。王子は、その行者が発している幸 福と落ち着きに深い感銘を受けました。そして二十九歳のとき、すべてを捨てて、出家したのです。老病死の苦を解決し、幸福に至る道を求めるために。

 沙門となったシッダー ルタは、はじめ数人の指導者のもとを訪れて指導を受けました。しかし指導者の智慧には限界があり、自分が求めていた問題を解決する助けにはなりませんでし た。そこで、自力で真理を探究することを決意しました。並々ならぬ修行をし、六年もの歳月を経たのち、ついに真理に目覚めたのです。

 最初に悟ったことは「中道」です。「世俗の快楽に耽ることも、体を痛めつける苦行に没頭することも、その両極を避けるべきである。心を清らかにして安らぎを得るためには、あらゆる面において中道を実践しなければならない」という真理です。

 

 

成 道

 

 沙門シッダールタは三十五回目の誕生日に、ブッダガヤーの菩提樹の根もとに坐して瞑想しているとき、ついに完全なる悟りを開かれ、正覚者に成道されました。この日もウェーサーカの満月日だったのです。

 その後、四十五年ものあいだ、お釈迦さまはインド北部を歩き、人々に、すべての生命にたいする慈悲の教えと、存在の本質を悟る道を教え続けました。

 

 

真 理

 

 お釈迦さまは、「すべての苦の根源は無明であり、われわれがエゴという幻覚に執着し、『私』という概念を満たそうとすることから欲望が生まれる」ということを悟りました。

 お釈迦さまの教えの根 幹をなすものは、四つの聖なる真理(四聖諦)です。一番目は「苦の真理」です。生は、老、病、死、不満という苦しみに満ちています。いくら喜びを追い求め ても、それは手に入らず、さらなる苦痛や不満で終わるということです。二番目は「苦の原因の真理」です。欲望やわがまま、限りない渇愛が苦をもたらしてい るということです。三番目は「苦の滅の真理」です。渇愛が取り除かれたとき、苦が滅します。四番目は「苦を滅する道の真理」であり、聖なる八正道のことで す。聖なる八正道とは、次の八つの道のことです。

 

1 正見

2 正思惟

3 正語

4 正業

5 正命

6 正精進

7 正念

8 正定

 

 

お釈迦さまの入滅

 

 他の偉大な宗教指導者たちと同様に、お釈迦さまにもお釈迦さまの教えに反発する者たちがいました。しかしそのうちの大勢が、説法を聞くうちにお釈迦さまの教えに真理を見いだし、お釈迦さまに帰依し、存在の苦しみから解脱するために正しい生き方を歩み始めたのでした。

 悟りを開いてから四十五年後、お釈迦さまはクシナーラーで、大勢の比丘たちが見守るなか、二本の美しい沙羅双樹のあいだに横たわり、息を引きとりました。このお釈迦さまの死は、究極の平安と至福への到達、つまり涅槃(Mahq Parinivqza)として知られています。この偉大なる出来事も、ウェーサーカの満月日に起こりました。仏教の紀元は涅槃、いわゆるお釈迦さまの入滅日から始まるのです。

 

 

聖なる三大事

 

 ウェーサーカ祭には、 世界中の仏教徒たちが、ゴータマ・ブッダの「誕生・成道・涅槃」という三つの偉大なる出来事をお祝いします。仏教はインドを出発点として世界のあらゆる 国々に広がりました。そして教えを理解した人々の文化に、ただちに溶け込んでいきました。その結果、仏教美術や仏教文化はそれぞれの国で豊かに多種多様な 形となって現れたのです。お釈迦さまは断固として暴力を禁じましたから、その美術や文化は、慈しみ深く、憐れみ深いものとなりました。

 仏教の慣習も、仏教を受け入れた国々の文化に合うようにさまざまな形で適合していきました。ですから、ウェーサーカ祭も世界中さまざまなやり方でお祝いされているのです。とはいえ、本質的にその内容の多くは世界共通になっています。

 ウェーサーカ祭をお祝 いするときに忘れてはならない最も重要なことは、この聖なる日は仏教の清らかな祝祭日だということです。ご馳走を食べたり、飲んだり、踊ったりして、お祭 り騒ぎをする日ではありません。この日は、仏教徒たちが仏法にたいする「信」を再確認し、心を清らかにする日です。瞑想をしたり慈しみを実践したりする日 なのです。

 

 

ウェーサーカ祭のお祝いの仕方

 

 ウェーサーカ祭の当 日、敬虔な仏教徒たちはお寺に集まり、儀式用の仏旗を掲げ、聖なる仏法僧の三宝を讃えてお経を唱えます。中には、花やろうそく、線香などの供物を持ってき て、偉大なる釈迦牟尼仏陀の足もとにお供えする人もいます。これらの象徴的な供物を捧げるとき、次のことを思い起こしてください。

 

いま美しく咲いている花も、やがて萎む。

ろうそくも、線香も、すぐに燃え尽きる。

花やろうそく、線香のように、

わが命も衰えて消える。

 

 それから在家者は、特別な精進をします。この日は肉や魚を食べないようにするのです。いくつかの国々、特にスリランカでは、ウェーサーカの祝祭日は二日間あり、政府の命令によって酒屋と畜殺場はすべて休業します。

 また、解放を象徴する 行為として、飼っている鳥や動物を放す人も大勢います。ですが、このとき気をつけていただきたいことは、鳥を放すとき、雑踏する町の中心部で放すことはお 勧めできません。なぜなら、鳥たちはかわいそうに長いあいだ鳥籠に捕えられていたため、どこに飛んで行けばいいかわからず、迷ってしまうこともあるからで す。また、あくどい商人が、せっかく自由になった鳥たちを捕まえて、鳥好きの在家者に売りつけることもあるからです。そこで鳥を放すときには、鳥が本当に 自由になれるような農村部で放すことをお勧しめします。

 ウェーサーカの日に は、清楚な白い服を着て、新たな決意をもって八戒(八つの戒律)を守り、寺院で一日を過ごす敬虔な在家仏教徒もいます。彼らは常に教えにしたがって五戒 (五つの戒律)を守り、日々を正しく過ごしていますが、新月と満月日という特別な日には、心を清らかにするためにさらに戒律を増やします。道徳を守り、欲 を減らし、謙虚さを実践するのです。

 

八戒

 

 1 生命を殺さない

 2 与えられていないものを盗まない

 3 性的な行為をしない

 4 悪い言葉を語らない

 5 酒や麻薬などを摂取しない

 6 適切な時間以外に食事をとらない

 7 踊りや歌、身を飾るなど、快楽から離れる

 8 謙虚さを実践するために高座や贅沢な椅子に座らない

 

 在家者は、僧侶の説法を聞きます。僧侶は、政府の平和と生きとし生けるものの幸福を願いながら、二五五〇年以上も前にお釈迦さまが説かれた経典を唱えます。そして仏教徒はみんな「互いに仲良く調和すること」や「他人を侮辱しないで尊重する」というお釈迦さまの教えを思い起こすのです。

他人に幸福をもたらす

 ウェーサーカ祭には、 高齢者や障害のある人、病気の人に安らぎをもたらす活動もおこないます。療養所など、国中のさまざまな慈善施設に寄付をしたり、奉仕したりするのです。そ れからウェーサーカ祭は、思う存分喜び、楽しむ日でもあります。喜ぶといっても、低俗な欲望を満たすという意味ではありません。より多くの人が仏教を理解 できるようにお寺を装飾したり、提灯(ランタン)をともしたり、お釈迦さまの美しい生涯の絵を壁に描いたり飾ったりなど、有益な活動をして楽しみます。ま た、お釈迦さまを敬うためにお寺に参詣した人たちに、飲み物や菓子、菜食料理をもてなして楽しむのです。

 

 

パレード

 

 近年ウェーサーカ祭を お祝いするために、美しく装飾した山車(だし)に仏像を乗せてパレードをおこなう仏教団体も結構あります。けれども実際のところ、仏教の国ではそのような 伝統はありません。でも、もしパレードをおこなうことによって人々の仏教への帰依が深まり、正しい生き方をおくることの助けになるなら、それは悪いことは ありません。しかし、あいにく山車をつくるのに熱狂的になり過ぎて、ウェーサーカ祭本来の意味を見失っている団体もあるのです。彼らは一生懸命に貯めた多 額のお金を、ただ単に人目を引くためだけの山車や装飾品に浪費しています。しかし、そういうものにお金を使うくらいなら、仏教を広めるためや、苦しんでい る生命を助けるために役立てた方がはるかにいいでしょう。パレードには、ほどよい美しさで飾られた山車を一つだけ出すに留めるのがいちばんよいと思いま す。

 また、お寺の装飾につ いても、訪れた人たちが飾りを楽しむだけでなく、法要に参加したくなるように、上品で落ち着いた感じにしたほうがよいでしょう。人々が仏教への理解を深 め、慈悲を実践し、心を育てるために瞑想し、暴力から離れ、精神を向上させようという勇気が湧いてくるなら、ウェーサーカ祭はすばらしく有意義なものにな ります。

 

 

お釈迦さまへの敬意

 

 お釈迦さまにたいしてどのように敬意を表せばよいかということについて、お釈迦さまは非常に大切なことを説かれています。お釈迦さまが涅槃に入られる前のことです。忠実なお弟子のアーナンダ尊者が嘆き悲しんでいるのを見て、お釈迦さまはこのように説かれました。

 

「悲しむな、構成されたものはすべて(この肉体も)滅びるのです」

そして皆にたいして、

「この肉体が滅びても嘆いてはなりません。私が死んだあとは、私が説いた法(真理)がお前たちの師となるのです」

 法(真理)だけが、この世の中で永遠不変なものであり、無常の法則に支配されていないものなのです。

 さらにお釈迦さまは、

「私に敬意を表したいなら、単に花や線香、ろうそくを供えるだけではなく、偽ることなく正直に教えを実践して、精進しなさい」と強調されました。

 

 以上のことがウェーサーカ祭のお祝いの仕方です。私たちが正しく生きることを決意して、心を育て、慈悲を実践し、人類に平和と幸福をもたらすために、ウェーサーカの満月日をお祝いするのです。

 

 

聖なる三大事の日、ウェーサーカ祭が

すべての生きとし生けるものに

幸福と安穏をもたらしますように

 

 

Sqdhu ! Sqdhu ! Sqdhu !

 

 


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CELEBRATION OF WESAK
by Venerable Dr. K. Sri Dhammananda Nayaka Maha Thera,
Published by the Buddhist Missionary Society Malaysia,
Buddhist Maha Vihara
123 Jalan Berhala, Brickfields 50470 Kuala Lumpur, Malaysia
Published for free distribution
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Translated by Yoshiko Demura

生きとし生けるものが幸せでありますように









Sabbe satta | 07:01:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
喜び
人間の脳というものは
「喜び」がないと、うまく機能しません。
人生はつまらない、楽しくないなどと
不平不満ばかり言っていると、
脳はどんどん退化していきます。

私たちの脳には 常に喜びが必要です。
だから、いつでも笑ったり、ニコニコしたりして、
何かイヤなことがあっても、
全然気にしないようにしてください。
そうすると、脳も成長していくのです。

スマナサーラ長老




Sabbe satta | 16:47:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
悪思考 (欲・怒り・無知)を止める5つの方法---Yoshiko Demura/出村佳子さんのブログより の紹介です


Sabbe satta bhavantu sukhitatta
Yoshiko Demura出村佳子さんのブログより紹介です
http://homepage3.nifty.com/sukha/index.html


Vitakka-Santhana Sutta
中部経典20



悪思考 (欲・怒り・無知)を止める5つの方法


1 悪思考を善思考に入れ替える

悪思考が生じたとき、善になる別の対象に入れ替える。その結果、貪瞋痴が消えて、心が落ち着き、統一する。大きな釘を打つことによって、はずし難い釘をはずすように、心を観察して、早いうちに悪い思考の話題を善い思考の話題に変える。

2 悪思考のデメリットを見る

1の方法で悪思考が消えない場合、その思考のデメリットを観察する。「この思考は罪であり、不幸や苦しみを招く」と。具体的に大胆にデメリットを考えると、悪思考が消える。おしゃれ好きの若者が、自分の首にヘビやイヌの死骸をかけられるのを嫌悪するように、悪思考を嫌悪する。

3 悪思考を無視する

2の方法で悪思考が消えない場合、その思考を無視する。目の見える人が、見たくないものを避けるために、目を閉じるか、目をそらすように、悪思考を無視する。

4 悪思考の衝動を鎮める

3の方法で悪思考が消えない場合、悪思考を引き起こす衝動を抑え、沈め、消す。
(例) 走っている人が「なぜ走るのか、もっと落ち着こう」と考えて早歩きにし、早歩きをして いるとき、「なぜ早歩きをするのか、もっと落ち着こう」と考えて普通に歩き、普通に歩いているとき、「なぜ歩いているのか、もっと落ち着こう」と考えて、立ち止まり、立ち止まっているとき、「なぜ立っているのか、もっと落ち着こう」と考えて座り、座っているとき「なぜ座っているのか、もっと落ち着こう」と考えて、横になって落ち着く。
同様に、悪思考が生じたとき、その衝動を鎮める。怒りが生まれたら「怒りが生まれた」と怒りの衝動を観察し、「なんで怒っているのか。そんなに怒らなくてもいいのではないか」などと観察して、怒りの衝動を控える。

5 悪思考を痛めつける

4の方法で悪思考が消えない場合、歯を食いしばり、舌を口蓋につけ、その悪思考を非難し、押さえ、痛めつける。力の強い人が弱い人を捕まえて、いじめ、押さえ、痛めつけるように、強い思考で悪思考を 痛めつける。

 



Sabbe satta | 11:24:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
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