協会の行事ではありません。
誓教寺のfbより紹介です。

Sabbe sattā bhavantu sukhitattā.
生きとし生けるものが幸せでありますように
常栄山 誓教寺 Seikyoji in spring. Cherry trees are in full brossom
〒744-0042
山口県下松市切山 347
TEL.0833-46-1413
FAX.0833-46-3149
協会の行事ではありません。
誓教寺のfbより紹介です。
いいですよ 最後の一文
<死後に楽したきゃ死ぬとき楽に、死ぬとき楽したきゃ生きるとき楽に 生きるとき楽したきゃ心清らかに>
NEWS
仏教連続講義、毎月第2火曜の夜です
会場は「仏教なんでもセンター」1階ホール
「明るい終活クラブ」
死は誰にでも必ず訪れます。
しっかり準備して堂々と死出の旅に出られるように、
安心して旅立てるコツをお釈迦様に学びましょう。
第4回は7月11日(火)午後6時半~8時
講師は、餓鬼(幽霊)への功徳廻向の法則を解明して
広島大学より文学博士号を授与された
誓教寺住職・藤本晃(慈照)です♡
第1回のレジュメはこちら
第2回のレジュメはこちら
第3回のレジュメはこちら
第4回のレジュメはこちら
レジュメをご覧になって興味が湧いたら
夜の「なんでもセンター」にGo!
用事があって受講できない方もご心配ご無用!
連続講座が終わったら、まとめて冊子か本にします。
それまでは死なないで待っててね♡
愛知大学
・開催会場:豊橋校舎 研究館1F 第1.2会議室毎土曜日10:30~12:00・全5回
なんと、今週の土曜日の午前です♡
東海地区の皆様は、土曜の午前は豊橋で藤本晃の仏教勉強会、
翌日曜日の午後は名古屋でヤサ先生の瞑想指導で、
仏教三昧の週末にしましょうガクガクブルブル
豊橋市の愛知大学で、今年は公開講座(全5回)が開催されます。
積徳行の社会経済的効用について、5名が1回ずつ各自の得意分野を講演し、参加者と議論します。
私は第2回目、6月10日が出番です。
「仏典に説かれる功徳と廻向のしくみ」と題して、功徳廻向や功徳随喜の法則をお話しする予定です。
申し込み不要で無料です。お近くにお越しの際は覗いてみてください。
協会の記事ではありません。
誓教寺 Seikyoj藤本住職のfbより紹介です。
今年の誓教寺はなまつりの施本はこれです。
お骨のことは別の案件になりますので書いてませんが、供養の意味から、先祖供養が功徳廻向であること、その構造、そして今問題の永代供養まで載っています。
20日のはなまつりに参加してゲットだぜ。
PDFもアップします。ので、そちらでチェックもできるぜ。
協会の記事ではありません。
誓教寺 Seikyojiの<誓教寺報つきなみ>より抜粋です。
現住職と現坊守が20数年前に誓教寺に着任したとき、「毎月出すぞ」の意気込みを持って、しかも「内容は平凡かも」と自信のないまま、ともかくも始めたので、寺報のタイトルは『つきなみ』なのです。
今では内容はかなり濃くなり、装丁も相当プロっぽくなり、その代わり、2~3か月に一回、「次はいつ出るの?」という頃に出ています。気長にお待ちください。
最新号ご紹介
表紙をクリックしてね♡

NEWS
つきなみ202号(2017年5月1日)を掲載しました♡ Tsukinami, Seikyoji's official paper

お寺というより住職の活動ですが、、、
下松市というより愛知県豊橋市ですが、、、
愛知大学の公開講座に住職も出講します。
住職の出番は6月10日(土)10:30~12:00です。
申し込み不要で参加費も無料だそうです。
ちょっと遠いのですが、お近くにおいでの際は、どうぞお立ち寄りくださいませ。
協会の記事ではありません。
誓教寺 Seikyojiの<誓教寺報つきなみ>より抜粋です。
仏教と文化②文化は変わるが壊れない
藤本 慈照
文化は変わるもの
紀元六世紀、飛鳥時代の日本に仏教がはじめて伝わってから千五百年間、日本仏教は今日まで不変の伝統を守り伝えてきた、と、つい思いがちになりますけど本当でしょうか。
仏教の真理の部分は変わりません。日本に正しく伝わったかどうか心もとないところもありますが、仏教の根幹である悟りと悟りに至る道は不変です。変わったら悟れなくなります。「諸行無常(生じたものは必ず滅する)」などの真理の法則も変わりません。
一方、積徳行とか功徳回向などといういわば「衆善奉行(善いことは勤めておこなう)」の部分は、善いこと・功徳になることなら何でもよいので、やり方は千差万別です。仏像や聖地に供養する仕方から先祖のお祀りの仕方まで、各地の文化に影響されやすい部分です。チベットや東南アジアまで目を広げなくても、日本国内でさえ、地域によって時代によって、やり方は様々です。お盆とか年末年始、村の祭りとの絡みなど仏教をネタにして自分たちも楽しむ純粋な文化の部分は、地域差や時代の変化が顕著に現れるところです。
こういう文化の部分は時代や地域と共にどんどん変化していくのが当たり前です。実際、日本でもこれまで変化し続けてきました。現在までよく知られている、しかし急速に衰えつつある日常の仏教文化は、せいぜい江戸時代の最初の五十年が過ぎた頃から始まった、まだ三百五十年程度の伝統しかない新しい仏教文化なのです。
現在の仏教文化は江戸時代から
江戸幕府が全国民を仏教徒というかお寺の檀家にしようと号令を掛けたときから、現在の日本の仏教文化が形成されてきました。江戸幕府の奨励に乗って、全国津々浦々、一村ごとに一ヶ寺というほどの勢いでお寺が建立されました。江戸時代半ばまでの百数十年間に建立されたお寺の数は、江戸時代以前までの千年以上の間に設立されたお寺の総数の十倍にも上りました。
一村一ヶ寺ですから、ほぼ、寺の檀家=村の人口です。寺は村の戸籍係とか身元保証人にもなっていたのです。それだけではありません。寺の檀家ということはキリシタンではないということですから、葬儀は必ず檀那寺を導師におこなわないといけません。檀那寺は亡き人が確かに本人であることを確認する役目を自然に負っていたのです。一周忌、三回忌などという隔年ごとの法事を積極的に勤めること。寺で説教があれば行って聴聞するだけでなく施主録=芳名帳に記帳すること。割り当てられた寄付を滞りなく納めること。こういう「仏教徒=ある寺の檀家」というシステムは、江戸時代にはじめてスタートした制度なのです。しかも、二百数十年後に江戸時代が終わったとき、同時に制度としては終了しています。今や葬儀も法事も寄付も、それどころかどこかの寺の檀家であることも、やらなければいけないことではないのです。二百数十年続いた江戸時代の文化が、明治になっても昭和になってもまだ消えずに続いているだけなのです。
もちろん、檀家が自主的にこの善い文化を続けようとしていることは確かです。お寺を支えることは善行為で、葬儀でも法事でもお寺の法要でもそのたびに功徳を積んで先祖や一切衆生に回向することもできますから、寺と檀家という文化が続いていることは良いことです。問題は、お寺の方が勘違いして、檀家が寄付とかお布施するのが当たり前だと思っていることでしょう。布施は自由意思でおこなうなら善行為ですが、強制され徴収されると、料金とかぼったくりみたいになって嫌な気分しか残りません。嫌な気持ちでやるとせっかくの善行為でも功徳が少なくなってしまうのです。お寺は、法を伝える智慧と功徳を分け合う慈悲を持って檀家と接しないといけません。
江戸時代以来の仏教文化が変わっていく
お寺と檀家の関係が今でもまだ続いてはいますが、江戸時代以来の葬儀や法事や施餓鬼会、説法会などの佳き仏教文化も、今や急激に変わろうとしています。しかも何か新しいものに変わるのではなく、ただ消えゆくだけの「ゼロ葬」とか「墓しまい」とか「終活」などという「減らす」さらには「やらない」仏教文化?が盛んです。現代のこの「やらない」仏教文化?を考察する前に、これまでもこのような変化があったかどうかおさらいしてみましょう。
じつは、「やらない」仏教文化?の時代も、これまでも何度も現れていました。流行の変化のように、文化も周期的にいろいろなものが浮き沈みしていくのです。
・葬儀をしない
仏教文化が廃れるというか、現代のように葬儀もしないなんて時代があったのでしょうか。
何度もありました。疫病の大流行などの病気、大火事や台風や大洪水などの災害、そして戦乱など、同時期にあまりにもたくさんの人が亡くなると、つまり、送る人より送られる人の方が多くなると、人手が足りなくて葬送するどころではなくなるのです。しかも遺体はどんどん傷みます。待ったなしの時間制限つきですから、やむを得ず葬儀も略式になるのです。五年前の東北の大震災のときがそうでした。
現代は葬儀社を頼んで(寺へのお布施も含めて)金銭的にできるかどうかがよく問題になりますが、それは葬送に関するすべての仕事を金銭に置き換えただけのことです。葬儀社が世に現れる(古くても明治時代、急増したのは第二次大戦後からです)前は、墓穴掘りや喪家の食事のお世話など何から何まですべてが、近所の人々の無償の協力によって賄われていました。その互助システムの無償の仕事を専門の人に任せて金銭で勘定してみると、現代の葬儀の費用分くらいになるのです。昔は喪家は葬儀のときは寺へのお布施以外何もしなくて済んだのですが、今は近所の助けを借りない代わりに葬儀代をすべて自分で払わないといけないのです。
現代でも、火葬炉が少ないとかお棺が間に合わないとか僧侶も足りない!とかで、大都会では日常的に、少々の田舎でも大災害の時はやむなく葬儀が略式になったりおこなわれなかったりします。物理的環境的原因によるのです。
現代の「ゼロ葬」は自然現象というよりは金銭的問題、あるいは各個人の価値観などで決めているようですから、地域共同体が主体になっていたこれまでの葬儀のあり方と違うといえば違いますが、お金にせよ人手にせよやる気にせよ、それらがあるかないか、葬儀ができるかできないかが問題なのです。「ゼロ葬」は今に始まった問題ではなく、しょっちゅう起こってきたのです。
これまでのやり方さえ、ホンの何十年か前に始まったものかもしれないのです。重い歴史というほどのものではありません。状況に合わせて、無理なく、できる範囲でおこなえばいいのです。やればやるほど功徳になるのですが、「こうやらなければいけない」などと負担に感じながらやると、せっかくの善行為でも功徳は少なくなってしまうのです。
・葬儀をしよう
ただし、最近のテレビや本に見られる一部の風潮には眉をひそめてしまいます。そんなことを吹聴する人の悪業はどれほどかなあ、と当人たちのことが心配になってしまいます。「葬儀は無駄だ。そんなものにお金をかける必要はない。『ゼロ葬』でいこう」と、とにかく葬儀をしないで済ませようとする論調です。
テレビや本を見ていて感じるのですが、そのような本を書いたり主張をする人の心には、どうしても隠しきれない悪意がありありと読み取れます。葬儀で不当に儲けているはずの葬儀社や僧侶を懲らしめてやろうという気持ちです。葬儀社が請求する不明瞭で高い葬祭料や僧侶が要求する高額なお布施、戒名料、院号料などに対する義憤によるものでしょう。個人的にも嫌な思いをしたのかもしれません。
しかし「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」では、やり過ぎです。ここ十年来のテレビや本の批判のおかげで、最近は葬儀の際の不明瞭な葬祭料請求はおよそないでしょう。葬儀を頼むこちら側も複数の葬儀社にあらかじめ相談して比べて、良心的なところを探しています。寺も布施とか院号料とか自分から言いにくくなっています。どうしても変な寺なら、他の良心的な寺に替わればいいのです。
問題は、テレビや本で批判する論客が、善行為や功徳や業の意味を知らないまま、義憤を含むにせよ自分の怒りに任せてやってしまっているということです。葬儀社や寺が気に食わないからというだけで、人がおこなう善行為を全面的に否定してしまっていることです。これは相当な悪業になります。
商行為が滞りなく成り立つとき、双方に「助かった。役に立った」という良い結果が生まれます。世間では双方が勝つという意味で「ウィン(勝ち)・ウィン(勝ち)」などと言っていますが、これは双方が金銭的に儲かるという意味だけではありません。買う側はお金を払って品物や心の満足が得られればいいのです。
葬儀社なしで、近所の助けなしで、僧侶の導きもなしで、一人で親の遺体を火葬しようとすれば分かります。どれだけの労力と手続きと必要物資と心の支え、そして衛生観念や遺体処置の知識と能力が必要か。遺族数名だけでは無理なことを能力あるプロに頼むには必要不可欠なコストがかかります。これはこの世の必要経費です。
しかも、そのうえで、亡き人のために何か善行為をしてその功徳を回向したほうがよいです。お寺をはじめとしてどのような宗教でもよいので縁あるところにお布施して、その功徳を故人に回向するのが一般的です。布施を受けた縁で宗教者も読経や説法などの法縁を結んでくれます。良い宗教者もそれほどでないのも酷いのもありますが、誰に対してでも、お布施した功徳だけは間違いなくあります。無理のない額を、とにかく自分の善行為としてお布施するのです。やってみて損はありません。やってみれば分かります。
こういう心の善行為さえも否定するのはまずいです。知らないとはいえ、人の善行為を妨害する悪業は、無垢の人々を道連れにしていますから、自分がただ悪いことをするよりも何倍も強い悪業になります。功徳や善悪業の法則をしっかり勉強して(仏教だけがこの法則を正しく教えていますが)、一般の人々を善から遠ざけないように気をつけないといけません。
水道の修理を頼むように、海外旅行の申し込みをするように、葬儀をするときも、気楽にあれこれ比較しながら、しかも自分たちもある程度の知識をつけながら、「このくらいはかかるよね」というコストを弁えて、安心してプロに任せましょう。そのくらいの敬意を葬儀社の人々や僧侶に対して持っていて損はありません。人はお互いに助け合うものです。そのうえで、自分が無理なくできる範囲で葬儀をしましょう。どのような規模でも、心がこもっていればいるほど大きな功徳になります。
・法事をしない
葬送は遺体の処理が関わるので、葬儀の儀式の部分をすべて省いたとしても、法的にも衛生的にも最低限はおこなわないといけません。
一方、葬儀の後の満中陰や年回などの法事をやるかどうかについては、まったく各人の自由意思によるものです。法事には葬儀と違って遺体の処理という緊急問題がないので、法的衛生的な縛りはまったくない、純粋な積徳行・功徳回向の(仏教)文化です。しかも、神道や他の宗教でも無宗教でも、おこなえばそれ相応の功徳が生まれます。
法事をおこなう意義は、宗教的なポイント、故人への追善供養・功徳回向の以外にもあります。家族の一員が欠けて悲しみに暮れるだけでなく家族の力も少し弱まってしまったその家族を親族が支えようというこれまた互助的な意味です。喪家の側から見ても、葬儀のときにお世話になった親族に遺族の元気な姿を示しながら当時のお世話に感謝する意味もあります。
法事は本来、功徳回向の先祖供養をすることだけが目的ではありません。故人の縁者たる親族が集まって旧交を温め、五年十年ぶりならば伴侶や子供など新来の親族の顔見せをし、変わらず助け合う気持ちを再確認する親族共同体の再結合です。寺へのお布施だけでなく、親族同士の相互扶助もお互いの功徳にもなります。何よりも地域の共同体とは別の親族の結束は、この人間世界を生きる上で心強いものです。
しかし、葬儀を近所や親族のお世話にならずに金銭的に葬儀社にだけお願いすることが多い現在では、親族をその後の法事に招く意義も薄れてしまいがちです。法事をしなくなるのは、さすがに現代の個人主義的な、金銭でドライに考える時代ならではと言えそうです。近所や親族との普段からの相互扶助のつながりが薄れていれば、法事でわざわざ繋がりをつくろうという動きにもなりにくいでしょう。
・法事をしよう
ということを知ったうえで、できる範囲で法事もしましょう。現在増えている形は、家族葬と似ていますが、親族さえおよそ誘わずに、後のお斎さえせずに、遺族だけでお寺でお経と説法に逢うだけの法事をするパターンです。いろいろの準備やお世話は大変です。でも、故人のためにシンプルに何かしてあげたい。その気持ちが凝縮した形が、法事の中心の法要の部分だけおこなうというものです。
それでも結構なことです。故人をすぐに忘れておさらばするほどドライではないのです。何かしてあげたいという気持ちが起これば、それだけでも心に湧き上がった善行為なのです。後は無理のない範囲でいいのです。面白いことに、そのように「このたびは家族だけでコンパクトな法事にします」とお誘いしない旨の連絡をすると、遠方の親族も故人の命日を、その生前の触れ合いを思い出します。供養したいという気持ちが生まれれば、それぞれの地域で自分の檀那寺に行って法事をしてもらったりできます。自宅の仏壇に手を合わせるだけでも、その家の先祖ではない親族の幸福をも願う気持ちがこもります。その思い出すこと、何かしてあげようとする気持ちも、それだけでも功徳になるのです。
できる範囲でやればいいと理解したうえで、逆に一度、親族を招いて盛大に法事をしてもよいかもしれません。「今回の法事は親族の再結束を兼ねているのだ」と割り切って、お互いに親族披露をしてみるのです。昔みたいに自宅に招いてお斎をふるまうのでは、特にその家のお嫁さんが大変です。自分たちも楽しみも込めて、法要が終わったら料理屋さんなどに移動することもできます。
特に親の葬儀の後の満中陰や一周忌などの法事は、その家の跡継ぎを親族にお披露目する意味もあります。社会通念上必要な通過儀礼だと思えば、法事の意義も強く感じられます。傍若無人に酔っぱらって騒ぐような親族がいたら、次から呼ばないなどの対処をすればいいのです。
さすがに、「葬儀をやめよう」と主張するテレビや本でも「法事をやめよう」とまでは言っていません。緊急時に不明瞭な高額請求をされる心配のない、落ち着いた心でおこなう純粋な宗教行為だから、文句をつける筋合いがないからでしょう。
ただし、お寺が「はい、次は何回忌ですよ。お布施はこのくらいが普通ですよ」などと指図するのはいただけません。お知らせはしてもらった方がありがたいですが、一般檀家の年回忌を決めたのも江戸時代からで、その形式に無理に合わせる必要はありません。やるかやらないか、どのくらいの規模かを決めるのは施主の側です。供養したい気持ちと身体や予定に合わせて、気楽に楽しく法事をしましょう。心が清らなかならば、その行為には必ず功徳が伴います。
・墓をつくらない・しまう
葬儀や法事は行為ですから、一回ごとにやるかやらないかどのようにやるか決めます。終わったらその行為は消えます。しかしお墓とか仏壇は形や土地が物質的に残ってしまいます。これも最近は「しまいましょう」という文化になってきています。
先に言っておきますと、家族用のお墓も、一人ずつの墓石さえも、そして仏壇も、一般家庭で始まったのはせいぜい江戸時代からです。比較的新しい仏教文化なのです。
お墓については、戦前までは土葬が主流でしたから遺体を埋葬する土地がどうしても必要でした。寝棺なら畳一畳分以上のスペース、体育座りの桶棺なら正方形のスペースが、地域によっては各家ごとに設えてありました。村ごとの共同墓地にはその村の戸数分の土地がありました。江戸時代に僧侶が必ず葬儀をするようになると、遺体を埋葬する墓地でも何らかの儀式をするようになります。それに応じて各家ごとに石で墓標を建てたり、その表面に故人や家の名前を彫ったりするようになりました。墓標まであると、「埋葬しておしまい。後は土に還るだけ」とはなりにくいのです。家族(個人)墓の始まりです。
基準を満たした高温の炉で遺体をきれいに焼くようになったのは、ほんの最近五、六十年ほどのことです。清潔なのでそのまま家に持っていても法律上も衛生上も問題ないのですが、すでに墓地がある家なら、そこの土に埋めてしまいます。骨壺ごと埋めても、いつかは土に還ります。しかし高温で火葬した焼骨を納める空間を持つ新しいタイプのお墓ができると、話はややこしくなります。安置しておくだけなのでいつまでも土に還らないのです。家系が絶えたらあとは誰がお墓を見ればよいのでしょうか。
「お墓をつくらない・しまう」という最近はやりの文化は、お墓や墓地の値段が高いのも問題ですが、継承者がいなくなる(かも)という必要に迫られてのことでもあるのです。これは、堂々たる現代の(仏教)文化です。お寺が江戸時代の感覚を押し付けたりすると、おかしくなるだけです。文化は変わるのです。
せっかく遺骨が高温で焼かれて清潔で持ち運びできる良い時代になったのです。必要な間だけ手元に安置して、移動も自由、法律をちょっと変えて処分も自由ということにすれば、新しいお墓(遺骨)の文化になります。人々の求めに合致するものは流行り、長続きし、良い文化だと語り継がれます。お墓や遺骨のあり方がそのように変化していくと良いでしょう。
・墓を工夫しよう
墓しまいやそれに伴うお寺からの離檀にも、テレビや本が批判をしています。石材店の料金や寺からの離檀料が不明瞭で高額だからというのです。まったく、人の批判ばかりしないで自分で調べてくれと言いたくなります。
石材店にも何軒か行って、見積もりを取るだけでなくお店の雰囲気や担当者の人となりを見比べるべきです。葬儀社を選ぶのと同じです。金額を比べるだけでなく、そもそも墓石をつくったり運んだり建てたり処分したりということがどういうことか分かれば、こちらにも知識が増えて学びになります。先祖がどのような苦労をしてお墓を建てたのかも理解しやすくなります。「金額があいまいだ」などと文句を言われますが、労働には対価と実費が付きものです。ある程度は必ず費用がかかるものです。
寺の離檀料だけは、いただけません。法律上、どこかの寺の檀家になるには入檀料などの条件があるかもしれません。しかし離檀するのは檀家の自由意思にだけよります。信教の自由です。寺の墓地にお墓を建てていても、建てた最初に、それなりのお布施とか料金を納めたはずです。処分するときはその区画は檀家の費用で更地にしますから、他の人のために使えるのです。さらに離檀料などを請求される謂われはありません。これまでお世話になったという気持ちを自分の意志でお布施すれば、功徳にもなるので言うことはありません。
位牌や遺骨をお寺に預けていた場合も、最初に預け料みたいなものを納めていれば、返してもらうときにさらにお金を請求される謂われはありません。気持ちを込めてお布施するのはもちろん良いことです。位牌や遺骨は移動できるので、無料で預ける場合もあるでしょう。その場合は、これまで預けておいた分の気持ちを含めて、返してもらうときにお布施した方が良いです。
テレビ人も本を書く人もしっかり勉強してほしいのですが、善行為には功徳があります。悪行為には悪業が生まれます。仏教だけが大真面目に言いますが、実感が伴う明らかな事実です。だから葬儀も法事もお墓もこれまでずっと続いてきたのです。今、これまでのようにはできないから苦しんでいるだけです。誰もやめたくはないのです。「料金」か「お布施」か、「妥当」か「法外」か、よく見極めて、ついでに法律や先例もあれこれ調べて、騙されずに気持ちよく徳を積めるように導くべきです。「インチキだ。無駄だ。やめよう」というだけでは、人の善行為を妨げるばかりです。私の『功徳はなぜ回向できるの?』とか『お布施ってなに?』とかを読んで勉強してほしいものですね。
・仏壇をつくらない・しまう
家庭用の仏壇も、江戸時代の手作りから一般に広まりました。僧侶が家に来てお参りするので、お参りする対象とか場所が必要になったのです。本尊や先祖の位牌を安置し、後はロウソクやお香やお花など、各家庭でアレンジしていたのです。全部が一セットになった、本堂の内陣をそのまま縮小したような箱型の仏壇が専門家によってつくられるようになったのは、ほとんど明治になってからです。お金を払って購入しなければなりませんが、お祀りしやすくて便利になりました。
その仏壇も、家系が絶えるなら誰が継ぐの?ということになるのです。お墓や仏壇はどうしても各家庭や個人専用のもので、車や家のように中古で売買するのは気が引けます。処分するしかないのです。位牌をお寺に預けても、位牌に「魂が宿っている」わけではありませんから、いつかは焼却処分しておしまいにします。同じ要領で、仏壇も仏壇屋さんに頼んで処分すればよいのです。自分が亡くなるまで、家系が本当に絶えるまでの間は、本尊と小さな位牌だけのお守をするケースが多いです。全部セットでは大き過ぎて重過ぎるのです。仏壇が始まった当初に還って、簡易式のものになったのです。
・仏壇を工夫しよう
仏壇も、位牌とか過去帳とかの記録や写真があれば先祖を祀る先祖壇。先祖の記録や写真の傍に仏さまの絵や仏像の写真や像そのものがあれば、その場が立派な仏壇です。高価な箱ものを揃える必要はありません。むしろ逆転の発想というか江戸時代初期の仏壇の草創期に戻って、ある空間を区切って自分の好みで自分にふさわしい「仏壇」を創造するのはどうでしょう。江戸時代のように床の間や押入れの一角を利用しても構いません。そんな和室がなければ、今風の仏壇を奥にピッタリのスペース、箪笥の上とか居間のテレビ台の傍とか、自分の寝室やみんなが集まる場所に、心の中心をつくるのです。
小道具もいろいろ楽しいものがあります。仏壇屋さんに行ってみましょう。これもあちこちに行って各お店の雰囲気を比べましょう。そのうえで、仏壇本体を求めなくても、像や鈴、お香と香炉、ロウソク立てなど、必要かどうかを吟味しながら好みのものだけを求めて「私の仏壇」をアレンジしましょう。
「こんないい加減な祀り方ではいけません。我が宗派の正式な仏壇にしなさい」などと要求するお寺は時代遅れなので諦めて、お寺も新しいところを探しましょう。寺や僧侶はもともと時代に先駆けるリーダーであるはずです。それだけの知性と先見の明が求められるものです。文化の変化についていけなくて旧弊をそのまま押し付けるようでは、その寺はおしまいなのです。正しい道を示してくれるお寺を探しましょう。
仏壇もお墓も法事も葬儀も、全部、供養するこちらの自由意思による善行為です。テレビにも本にもお店にも僧侶にさえも、あれこれ口出しされる謂われはありません。楽しく、心を込めて供養すればそれだけで大きな功徳になります。自信を持って自分流で行きましょう。
文化は変わるものだからしまっても大丈夫
お墓も仏壇や位牌も、そこに「故人の魂」が住んでいるわけではありません。「ここに遺骨を埋めたよ」とか「ここに名前を記録したよ」という思いがこもって、遺族が、なんとなく特別な気持ちになるだけです。土地やモノそのものではなく、それを大事に思う気持ちが大事なのです。そして遺族に大事に思われている当人は、とっくに新しい世界に生まれ変わって頑張っているのです。お墓や仏壇や位牌などの物質にこだわらず、できるときにできる範囲で先祖供養・功徳回向をすれば良いのです。
江戸時代から一般に広まった仏事やお墓や仏壇が徐々に贅沢になり豪勢になってきたのですが、ここにきてまた揺り戻しというか先細りというか、家系が絶えたり同じ仕事なのに賃金が減らされたりして大変な時代になっています。こういうときは重厚長大から軽薄短小に切り替えるしかありません。できる範囲のものに小さくすれば気持ちも楽でしょう。せっかく徳を積むチャンスである先祖供養や家系のお守を負担に感じては本末転倒でもったいないのです。
負担を軽くして、気楽に徳を積みましょう。先祖供養をする私たちも、遅かれ早かれ死ぬのです。どこかに生まれ変わるのです。重荷で心をいっぱいにして憂鬱な世界になんか往きたくありません。心軽やかに、徳はたっぷりと満ち足りて、次の生涯も堂々と善い処に往きましょう。
協会の行事ではありません。
誓教寺のfbより紹介です。
お待たせしました!誓教寺オリジナルカレンダー2017です♡ Seikyoji Original Calendar
つきなみ200号(2017年1月1日)を掲載しました♡ Tsukinami, Seikyoji's official paper
NEWS
12月27日、今年の仕事納め直前の誓教寺会館工事の様子です。
もっとすごい?画像を「誓教寺会館は普請中」のページでご覧ください♡


ホームページの不調で更新できていなかった、11月12日 会館祝福法要の様子です。
「誓教寺会館は普請中」のページで更にご覧いただけます♡



♡住職の新刊が、また出ました♡
Chief priest's newest publication just arrived!
『日本仏教は仏教なのか?』の第二巻です。
お釈迦様の大般涅槃前後から聖典の第一結集までです。
まだ全然日本仏教に入っていませんが、
遠回りするには理由があります。
「日本仏教とは何か」と考えるとき、
そもそも私たちは「仏教とは何か」知っているのか、
これまで知っていると思っていたことは
間違いではないのか、
というところまで厳密に
歴史を遡ってみないといけないと考えたからです。
お釈迦様にきちんと向き合い、
お釈迦様の教えからずれていないかと気を付けながら、書き進めています。
田舎寺の住職がドン・キホーテみたいなことをしていますが、ドン・キホーテも信念に基づいて好きなことをして、けっこう幸せ者だったのではないかと思っています。周りの人は堪ったものではないでしょうけど……
これまでの仏教史研究に再考を迫る信念の第二巻を
どうぞご一読ください。
お待たせしました!誓教寺オリジナルカレンダー2017です♡ Seikyoji Original Calendar
つきなみ200号(2017年1月1日)を掲載しました♡ Tsukinami, Seikyoji's official paper
お知らせ!!!
2017年最初の住職の勉強会は1月14日(第2土)です。
時間はいつもどおり午後1時半からです。どうぞご期待ください。
☆ 女性限定・ミニ合宿(自主)実践会開催のお知らせ☆
次回開催日が、「つきなみ」でお知らせした日にちから変更になっておりますので、どうかご注意ください。
日時:1月22日(日)9:30~24日(火)20:00頃
場所:誓教寺会館管理棟
定員:若干名/要予約
★ 24時間のヴィパッサナー実践を目指します。
★ 指導者はいません。ヴィパッサナー実践の初心者指導を既に受講された方が対象です。
★ 部分参加も可能です。
★ 初日には、スマナサーラ長老のヴィパッサナー初心者指導(過去の録音)を聴きながら復習します。(希望者のみ)
★ 食事や宿泊の方の布団の準備がありますので、ご参加希望の方は必ず、誓教寺までご連絡ください。
★ 期間中は無言行になります。
★ スタッフはいますが、全員が同じ修行者として共同生活を営みます。食事の準備・片付けや掃除は全員で行ないますので、ご協力をよろしくお願いいたします。
★ 以前にヴィパッサナー実践の指導を受けたことがあるが、なかなか実践が続かない、やり方がよくわからなくなってしまった、家ではなかなか実践の時間が作れない、などの方には役に立つ実践会になることと思います。実践を頑張ってみようと志のある方、どうぞご参加ください。

誓教寺会館にお布施くださった方に
3つのお願い♡
1.左のお礼状を順次お送りしております。
が、誓教寺がご住所を存じない(『つきなみ』をお送りしていない)方からもお布施をいただいております。申し訳ございませんが、メールでご住所をお知らせくださいますようお願いいたします。
2.法事などの通常のお布施に「会館」分を上乗せしてお布施してくださっている方はおられないでしょうか。
大変失礼とは存じますが、会館お布施者のための銘板を作成しますので、思い当たる方は、お手数ですがどうか自己申告していただけないでしょうか。
3.他者の善行為を顕彰して共に慶ぶ「廻向と随喜」が仏教本来の積徳行です。というわけで、原則としてすべての方のお名前を掲示いたします。
大変申し訳ございませんが、匿名をご希望なさる方だけ、そのようにお知らせくださいますようお願いいたします。
以上、はなはだ勝手なお願いを申しますが、どうかご理解くださいますようよろしくお願いいたします。住職

少し前の、この四月の出版ですが、こちらの論文集に住職も執筆しております。「テーラワーダは三度、海を渡る」というふざけたタイトルですが、中身はまじめです。明治の釋興然、戦後のミャンマー仏教界との交流、そしてスマナサーラ長老に始まる’80年代からのテーラワーダの日本への「根付き」について検討し、近未来の日本におけるテーラワーダのあり方まで予想しています。
京都大学・地域研究統合情報センターの研究プロジェクトの一部門の成果として編纂されました。
タイなどに関する他の論文も、いずれも硬い論文というよりは一般読者にも楽に読めるように工夫されています。さまざまな角度から楽しめる、学術論文集というよりは「読み物」になっています。
詳しくは、出版元の勉誠出版のホームページまたはAmazonなどで検索してみてください。よろしければご一読をお願いいたします。
表紙は名古屋の日泰寺です。仏舎利を奉迎した日タイ交流の日本での象徴的寺院です。
あなたも「誓教寺住職と学ぶ仏教勉強会」に参加してみませんか
次回は2017年1月14日(第2土)13:30~16:00
誓教寺本堂にて
本当はまじめに毎月一回、下記のような勉強もしています。が、人々の仏教に対する関心はいろいろなので、まず最初に、途中でも、勉強会が終わった後でも、
「仏教に関する疑問・質問・不満なんでもズバリお答えします」
コーナーを設けております。
法事や葬式の疑問、お墓や仏壇の悩み、幽霊って本当にいるの?、そして、お寺との付き合い方、
などなど、なんでも仏教的に正しくお答えいたします。
なにしろ回答者は、
仏教最古のパーリ語で記録された原始仏教経典に説かれる「幽霊に対する功徳回向(施餓鬼供養)のしくみと効果」をテーマに広島大学にて文学博士を取得した住職
なのです。どうぞご安心して、どなたでもお気軽にご参加ください。参加費は無料です。
毎月一回、基本的には第三土曜日の午後に誓教寺本堂で勉強会を開催しています。
片山一良先生が和訳された『パーリ仏典』(大蔵出版)シリーズの原始仏教経典を住職が読んで解説します。
現在は長部経典第22『大念処経』です。コピーをご用意しています。
副読本としてアルボムッレ・スマナサーラ長老『大念処経』(サンガ)4000円を各自ご用意ください。お寺にも予備を置いております。
協会の記事ではありません。
誓教寺 Seikyojiの<誓教寺報つきなみ>より抜粋です。
仏教と文化①宗派は文化
藤本 慈照
日本仏教、インド仏教、スリランカ仏教?
スマナサーラ長老は永年にわたって「スリランカの仏教ではなくお釈迦様の仏教を日本に伝えます」と言い続けておられます。それがどういう意味なのか、私はこれまでまったく分かっていませんでした。スマナサーラ長老は、仏教の本質的な部分とインドや中国や日本など各地の仏教文化の違いをしっかり見極めて、そして仏教の本質と各地の仏教文化との切り離しにくい関係についても最初から分かったうえでおっしゃっていたのだと、私は最近やっと気づき始めました。
仏教の文化といって分かりにくければ、仏教の宗教的な部分といってもよいかもしれません。たとえば仏教式の葬式といっても、インドや中国や日本など各地域でやり方はバラバラです。日本では宗派ごとにも違うありさまです。先祖供養とか施餓鬼とかお盆などのどの地域にもある仏教行事も、各地域でやり方や考え方は違います。そういう日常の実践や儀礼を含む「宗教」とか仏教文化としての仏教ではなく「お釈迦様の仏教を伝えます」とスマナサーラ長老はおっしゃっているのです。
大学の学問のように「仏教思想」を教えるという意味でもありません。それは私にも分かっていました。大学では、「悟りとは何か」とか「悟りへの道を実践する」などという生の仏教はやらないのです。仏教を「思想」としてだけ教えるのです。スマナサーラ長老が取り組んでおられるのは、そういう、大学の授業のように思想を教えるのでもなく、文化とか宗教としてのスリランカ式の仏教を教えるのでもなく、仏教の真髄を教えるという意味なのです。
しかしそれは、そんなに単純な話ではないようです。スリランカ人が日本人に「仏教」を教える場合、お互いの文化の部分はきれいに切り捨てて、「仏教」だけが素直に伝わらないといけません。教えるスマナサーラ長老は、スリランカ文化を抑えて教えておられます。しかし受け取る日本人が日本文化の染み込んだ日本仏教の視点を持って受け取ろうとすると、うまくいかないでしょう。もともと自分たちが持っている日本仏教の物差しを持ってきて「これは好き、これは嫌い」などと選り好みしたら、仏教をそのまま受け取ったとは言えなくなってしまいます。受け取る日本人も、日本文化を抑えて仏教の純粋な部分を素直に吸収しないといけません。仏教を正しく理解し吸収した後で、それを日本文化に合うようにアレンジして「日本仏教」をつくれば、よりしっくりと日本人向きの、しかもお釈迦様の「仏教」になるでしょう。これまでの日本仏教は、お釈迦様の仏教の部分よりも日本文化の部分が幅を利かせていたように思えます。
言うのは簡単です。しかし文化は理屈ではありません。身体と心の隅々にまで染み込む、抜きがたいものです。言葉とか行動パターンとかものの考え方は変えにくいものです。相手の文化を理解するのも大変です。食べ物の好みなんかは生涯変わらないどころか、相手の好みを理解もできないでしょう。仏教にも、日本仏教とかインド仏教というように、各文化の好みに合わせて変わってしまっている部分があるのです。そんな日本の仏教文化にどっぷり浸かっている私たち日本人がお釈迦様の仏教を聞いたら、どのように反応するでしょうか。スマナサーラ長老はそこまで考えて、日本人が受け入れやすいアプローチの仕方で、インド仏教でもスリランカ仏教でもない仏教の要の部分だけを教えておられるのです。大変なことだと思います。
仏教と文化
明治になって西洋の影響で始まった「仏教学」では、便利なので、仏教を輪切りにして日本仏教、中国仏教、インド仏教などと区分けしています。とりあえず地域ごとに分けるのです。しかし、分けられているのは地域だけではありません。それぞれの○○仏教ごとに、同じ仏教のはずなのに、明確な色合いの違いが感じられます。たとえばインド仏教と中国仏教では、言葉が違うだけではありません。「唱えて聞いて覚える文化」と「書いて読む文化」の違いなので、お坊さんの弟子の育て方からもう違います。気候風土や食べ物が違うので、着るものから住む処まで人々の生活スタイルが違います。それがどうしてもお坊さんにも在家信者にも影響を与えます。インド仏教と中国仏教の、このお互いに違う部分がもう「文化」の違いなのです。
葬儀や先祖供養をして功徳を積むやり方やそれに対する思いも、インドと中国では違います。それは「仏教の教え」の部分でもあるのですが、倫理道徳や来世観を含む日常生活に関わる「文化としての仏教」とも言えます。「仏教」の実践活動の部分は、「仏教」と「文化」が混ざっているのです。
では、悟りと、悟りに至る方法は、インド仏教と中国仏教では違いがあるでしょうか。修行法は多少違うように見えても、インド仏教ではこういう悟り、中国仏教ではああいう悟りなどと、悟りそのものが違っていては話になりませんね。悟りはインドでも中国でもまったく同じです。そして、その同じ悟りに至るのなら、悟る方法・道筋も同じなのです。つまりインド仏教とか中国仏教などと区分けしていますが、そのインドや中国などという「文化」の部分ではなく、肝心の「仏教」の部分はどれも同じなのです。「仏教」の最初の最初から、お釈迦様がはっきりと教えておられるのです。
この、インドでも中国でもない「仏教」の部分、悟りと悟りに至る方法だけを教えます、という意味で、「スリランカの仏教ではなくお釈迦様の仏教を日本に伝えます」と長老はおっしゃっていたのです。日本仏教には、日本文化の部分がすでにたっぷりあります。スリランカの仏教には、スリランカ文化の部分が、こちらも濃厚にあります。日本文化の中にスリランカ文化を持ってきても、そこはなかなかうまくいきません。また、文化を押し着せるようなことはしなくてよいでしょう。異文化の紹介は物産展のように物珍しさや新奇さがあって楽しいのですが、日本人にスリランカ文化が取って替わることがあるでしょうか。緑茶の代わりに紅茶を飲んで、香辛料の効いた食べ物を手で食べて、トイレの後は紙で拭くのでなく水で洗う……(トイレは、日本でも水で洗う良さが広まりつつありますが)。ちょっと考えにくいですね。
「文化」は、好きな人が好きなものを取り入れればいいのです。好みの問題であって、人の生死に関わるものではありません。
しかし「仏教」はどうでしょうか。これは生死の道に関わる重大問題です。果てしなく続く輪廻の苦しみを脱出して解脱・悟りに至るのが仏教の教えで、目的で、お釈迦様はみずから悟り、その悟りに至る方法を人々にも教えたのです。仏教というからには、その「仏教」でないと困ります。仏教でないものを仏教だと思い込んで教えたり学んだりしていては、いつまでも悟りに近づかないし、何よりも「看板に偽り」ありです。「たい焼き」屋の看板を挙げながら「たこ焼き」を売って、「名前も同じようなものだからいいじゃん」というわけにはいかないのです。
日本仏教の悟りと修行
日本仏教では、現在に至るまでこの「仏教」の部分がどれだけ真剣に探求されてきたでしょうか。
日本仏教界には最近の百五十年間に劇的な、良くない変化がありました。明治に始まり現代に続く「仏教学」は、最初から「仏教」を除外していました。悟りとは何か、そして悟りに至るにはどうすればよいのか、その求道というかみずから体験する実践の部分、つまり「仏教」の本質が、「仏教学」には最初からなかったのです。「仏教学」が目指す目的は、学問として机上の書物だけを読み、そこに書かれている「仏教思想」を他の哲学や宗教と同様に研究することです。大学で学ぶ哲学とか思想と同じ扱いなのです。ですから「仏教学」をどれだけ学んでも、大学の偉い教授になっても、それでは悟れません。仏教=悟りを体得するには別の道が必要なのです。
では、修行して悟りを目指すはずの日本仏教の現場では、この「仏教」の部分は正しくおこなわれていたでしょうか。
少なくとも明治からこっちの百五十年間は、「仏教思想」を学ぶだけの「仏教学」に押されて、現場の仏教界でもどんどん悟りと悟りに至る努力が廃れていったように思えます。終戦までの八十年間は、それでもまだ必死でした。国家神道が幅を利かせ廃仏毀釈で虐げられる中で、日本仏教界は存在意義を示さないといけませんでした。
しかし戦後はどうでしょうか。「政教分離」といえば聞こえは良いですが、仏教をはじめとして宗教の出番が、公の場になくなったのです。必要ないなら、存在意義もありません。仏教は急速に力を落として行きました。しかし、文化の移り変わりのように人々の行事や心から仏教(文化)が消えていくのはまだしも、悟りへの道という「仏教」の部分まで顧みられなくなるのは寂しいものです。また、仏教文化というものがここまで脆いというのもちょっとびっくりです。お盆やお彼岸や寺のお参りなど、伝統ある仏教文化でも必要がなければ簡単に消えていくものなのです。
そういう戦後から四十年近く経った頃に、スマナサーラ長老が日本に来られました。スリランカの文化の香りはカットして悟りを目指す「仏教」の部分だけを伝えるためです。現代の日本仏教には、やはり「仏教」の部分がかなり欠けていたのです。一般の人々のみならずお坊さんまで、悟りや悟りに至る方法をほとんど忘れかけていたのです。もっと以前から知らなかったかもしれません。「日本仏教」に対する「スリランカ仏教」ではなく、「お釈迦様の仏教」を伝えるために、わざわざ来られたのです。
国と文化
日本仏教、つまり「仏教の日本文化的展開」の最大の特徴は何でしょうか。明治になって僧侶が正式に結婚して世俗化したのも問題かもしれませんが、それ自体は在家者が仏教を実践するというだけのことです。仏教は出家も在家も合わせて全人類のためにあるのですから、「仏教」としては問題ありません。世俗化は仏教の日本文化的展開の一つに過ぎないのです。
日本仏教を外国に輸出するときは、文化の違いに注意が必要です。日本文化の部分を出しても違う文化を持つ他国では受け入れられないのです。日本仏教というか「仏教の日本文化的展開」は、戦時中は朝鮮や台湾など占領した国々に進出しました。が、終戦と共にすべて引き揚げになりました。朝鮮にも台湾や旧満州(中国東北部)にも自国の仏教があります。仏教の日本文化の部分は他国の仏教文化には合わないのですから広まらなくて当然でしょう。日本の神道も同じです。あれは日本だけの宗教ですから、他国に持っていくだけで無意味になります。外国を一時的に占領して法的には「今日からここは日本です」といっても、文化はそう簡単には変わらないのです。押しつけても無理です。
悟りと悟りに至る方法という仏教の根幹は全仏教共通で、それは悪いものではなく文化の匂いもしないので、それならば受け入れられただろうと思います。しかし日本仏教に、日本文化の匂いのない純粋な悟りと修行があったでしょうか。そもそも、占領した国々に対して日本文化の匂いがプンプンする日本仏教を意図的に輸出したとも言えます。
「宗派」が日本仏教の特徴
日本仏教文化の最大の特徴は、仏教が多種多様な宗派に分立していることでしょう。宗派が分立した歴史も古いです。仏教が日本に入って二百年足らずの奈良時代にはすでに南都六宗などといって、まだ宗派というより学派みたいなものでしたが各寺院の特徴を出し始めています。平安時代には天台宗と真言宗が設立され、続く鎌倉時代には浄土系や禅、法華など多様な宗派が花開きます。その宗派がさらに内部で分立して、戦前までに十三宗五十六派にもなりました。
日本仏教の源流である中国でも朝鮮でも最初はいろいろ宗派に分かれましたが、やがて禅系統と浄土系統の二流派に、そしてそれらを合わせて修行する一流派にほぼ再統合されています。分立しているグループは、主流派に比べて圧倒的に小さいです。チベットは大きく四つくらいの流派に分かれていますが、どれも同じチベット語訳大蔵経のすべてのお経を使っています。密教中心か普通の大乗中心かで大蔵経典のどの教えをアピールするかという違いがあります。戒律など生活面での違いも少しあります。しかし全宗派が並んでも、なんとなくどれも同じという雰囲気があります。日本仏教の宗派だけが、他の仏教の宗派とか学派と違うように見えます。そもそも並んだり一緒に活動したり、他宗派と混ざりたがりません。そして日本仏教で宗派といえば、雰囲気以前に教えの根幹に、お互いに大きな違いがあるのです。
日本仏教の宗派は、もはや仏教の中の一宗派というよりは、それぞれが○○宗ではなく○○教のような、仏教を基にしてはいるけどお互いが別々の宗教のようにさえ見えます。なにしろ戒律がそれぞれ違います(浄土系のように戒律がない宗派さえあります)。漢訳大蔵経から選び取ったお経がそれぞれ違います。それに基づく教えも違います。その教えを唱えた開祖が違うのはいいのですが、開祖を崇めて崇めて、「お釈迦様はどこに行ったの?」というほどです。「仏教」というより「親鸞教」とか「日蓮教」とか「空海教」などといった方が良いような「開祖教」なのです。
「浄土真宗にはお釈迦様は必要ありません」とまで言った布教使がいました。「仏教はお釈迦様の仏教だけではない。阿弥陀仏の仏教もあるのだ」などという、これまた浄土真宗の布教使さえいます。仏教じゃなくて良いなら、むしろお釈迦様が邪魔なら、仏教という看板は諦めて「親鸞教」などを別に創立した方がすっきりすると思います。これほど何から何まで宗派ごとに異なる「仏教」は、日本仏教以外に例がないでしょう。日本では各宗派のお坊さんや信者が集まっても、一緒に法要もできないのです。読むお経が違うし作法も違いますから。
各宗派の開祖が大きく前に出過ぎているのが良くないのです。「我が宗派は○○師が何歳のとき大悟して~」とか「我が宗派の本山は~」とかいうのは良いのですが、それら開祖様の遠いお師匠であるお釈迦様を忘れたり、あまつさえ邪魔扱いするようでは、もはや仏教とは言えません。「宗派」という日本の仏教文化だけの特徴は、威張れるものではないのです。むしろ恥ずべきものなのです。
日本仏教の落し物
そんな各宗派にこだわる日本仏教に、お釈迦様の悟りと悟りに至る道は正しく伝わっているでしょうか。つまり「日本仏教」の日本文化の要素を取り除いた後に、きちんと「仏教」が輝いているでしょうか。
それがかなりあやしいのです。日本の宗派仏教ではお釈迦様の教えよりも各宗派の開祖の教えの方が大事なのですから、まず、日本仏教にはお釈迦様とその教え(悟りと悟りに至る道)がはっきり見えにくいのです。見えにくいだけならいいのですが、何百年も千年以上もその調子で開祖の教えだけ学び伝えていると、自分の宗派の中ではそれしか必要ないので、それしか学ばなくなります。その偏った学びが一生涯続けばその人は、さらには何世代も続けばその宗派全体が、いつの間にか「お釈迦様って誰?」というくらい、お釈迦様とその教えをすっかり忘れてしまうことになります。
実際にそうなっていないでしょうか。仏教の枠の外から「ブッダは実在しない」などと言っても責任も重くないので構いませんが、肝心の仏教学者やお坊さんが「お釈迦様は関係ない」なんて言うようでは、日本仏教は終わりです。「日本宗教」とか「日本親鸞教」とか、仏教以外の名前をつけなければいけません。しかも、日本の仏教学者やお坊さんは、このような現状を危機とも異常とも感じてさえいないかのように平然としているのです。
戦後の「仏教は必要ない」という風潮にもまんまと乗せられているように見えます。「必要ない」と言われると慌てて「人寄せ」できるテーマを探すのですが、これがまた的外れになりかねません。今また仏教がさりげなくブームに見えますが、その中身は「終活」とか「墓じまい」とか仏壇や位牌の処分などの「文化」的なことがほとんどでしょう。それはまだ日本仏教に関わるので良いのですが、「美坊主コンテスト」とか「お寺で飲み会」なんて言い始めたら、もう開いた口がふさがりません。
そのような日本仏教界に、スマナサーラ長老は悟りと悟りに至る道を教えに来られたのです。日本仏教が「仏教」を落としてしまって宙ぶらりんな状況になっていたところへ、また仏教を根付かせてあげようとしているのです。
不思議なことに、仏教学者や各宗派のお坊さんが、なかなかその一番大事な落し物を取りにきません。自分が「仏教」を落としてしまったことに気づいてもいないかもしれません。日本「文化」を日本「仏教」だと思ったまま、儀礼や法要を同じやり方で続けているだけです。
悟りと悟りに至る道を「これこそが仏教だ。正しい道だ」と理解してみずから選び取り心を成長させるのは、むしろ一般の仏教愛好者です。この人々は仏教が好きなのに、道を求めて日本のお寺に行っても、日本のお坊さんに尋ねても、どうも求めるものがなさそうだと感じて失望して、「ではどこに行けばいいの?」と探してスマナサーラ長老に出会うのです。日本仏教の中に日本文化ではなく仏教を探していたので、なかなか見つからなかったのです。今やっと見つけました。
歴史は繰り返す?
スマナサーラ長老の初来日から四十年近く経ちました。日本仏教は少しは変わったでしょうか。文化ではない悟りとそこに至る道の「仏教」は正しく伝わったでしょうか。
一方では正しく伝わっていると私は胸を張れます。少なくない数の日本仏教のお坊さんが、自分の宗派の教えの上に大本のお釈迦様の悟りの教えがあるのだと思い出しつつあります。
日本の仏教文化は、世間が急速に変えつつあります。戦前までの、戦後もしばらく続いていた日本仏教文化の伝統は、ガラガラと音を立てて崩れつつあります。家族葬とかゼロ葬とかいう一方で、寺や神社や山や滝がパワースポットなんですって。そちらは妙な人気で、行けばご利益があるのでしょう。
せっかくスマナサーラ長老が文化の匂いを削ぎ取った仏教の真髄だけを伝えてこられたのですが、最近、二つ、困った現象も目につきます。一つは、仏教の真髄の理解できるところだけを選り好みしようとする現象。もう一つは、せっかくの仏教の真髄にまた文化の匂いをつけようとする現象です。
一つ目の、理解できるところだけ選り好みする現象は、最近大流行の「マインドフルネス」です。仏教の悟りに導く修行法から一般的なところだけ盗まれました。しかしお釈迦様は最初から著作権なんか放棄して、「誰でも自由にこの修行法で悟りに挑戦してください」と開放しておられますので構いません。みんな好き勝手に使っています。
悟ってもいない一般人が「マインドフルネスだ」などと言っていろいろ修行してみても、それなりに効果は出ます。修行法は正しいのですから。しかし時速三百kmで走れるポルシェを近所のスーパーに買い物に行くためだけに使うのは、ちょっともったいない話です。「マインドフルネス」の正しい使い方を、それを知っている人からきちんと教わる方が良いと思います。
もう一つの困った現象は、本当に困ります。
スマナサーラ長老の真似をしているつもりなのでしょうけど、スリランカや東南アジアの文化をプンプン匂わせながら日本で「これが本物の仏教ですよ。日本仏教はダメですよ」とばかりに活動するお坊さんやその信者さんが出てきたのです。異国の文化が好きな日本人はむしろこちらを喜ぶでしょう。肌に合うならそれでもよいのですが、そのお坊さんや信者さんに、まず確かめてほしいのです。「ここに悟りはありますか?悟りに導く道はありますか?」と。「日本仏教がダメでテーラワーダ仏教が良い」と思うのは構いませんが、大事なのは日本とかインドとか東南アジアではありません。仏教の真髄、悟りの部分です。悟りを忘れて「文化」で道に迷わないようにしてほしいのです。
仏教も人が身に付けるものですからその人の文化をどうしても背負います。仏教だけを伝えようと苦労してきた先人の横で異国文化を売り物にするのは各人の好みです。しかし文化を仏教だと言って売ってはいけません。区別は必要です。受け取る側も、仏教と文化の違いが分かっていないと危険です。仏教も文化も同じく人間が扱うものですが、たい焼きとたこ焼きは別物なのです。いや、もっと違いますね。仏教は、つまり悟りと悟りに導く道は、その資質を身に付けた人だけが扱えるものです。よくよく注意して、本物の仏教が日本仏教にも根づくように頑張りたいものです。
協会の行事ではありません。
誓教寺のfbより紹介です。
NEWS
つきなみ199号(2016年12月1日)を掲載しました♡
Tsukinami, Seikyoji's official paper

少し前の、この四月の出版ですが、こちらの論文集に住職も執筆しております。「テーラワーダは三度、海を渡る」というふざけたタイトルですが、中身はまじめです。明治の釋興然、戦後のミャンマー仏教界との交流、そしてスマナサーラ長老に始まる’80年代からのテーラワーダの日本への「根付き」について検討し、近未来の日本におけるテーラワーダのあり方まで予想しています。
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タイなどに関する他の論文も、いずれも硬い論文というよりは一般読者にも楽に読めるように工夫されています。さまざまな角度から楽しめる、学術論文集というよりは「読み物」になっています。
詳しくは、出版元の勉誠出版のホームページまたはAmazonなどで検索してみてください。よろしければご一読をお願いいたします。
表紙は名古屋の日泰寺です。仏舎利を奉迎した日タイ交流の日本での象徴的寺院です。
あなたも「誓教寺住職と学ぶ仏教勉強会」に参加してみませんか
11月26日(土)13:30~16:00
誓教寺本堂にて
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法事や葬式の疑問、お墓や仏壇の悩み、幽霊って本当にいるの?、そして、お寺との付き合い方、
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なにしろ回答者は、
仏教最古のパーリ語で記録された原始仏教経典に説かれる「幽霊に対する功徳回向(施餓鬼供養)のしくみと効果」をテーマに広島大学にて文学博士を取得した住職
なのです。どうぞご安心して、どなたでもお気軽にご参加ください。参加費は無料です。
毎月一回、基本的には第三土曜日の午後に誓教寺本堂で勉強会を開催しています。
片山一良先生が和訳された『パーリ仏典』(大蔵出版)シリーズの原始仏教経典を住職が読んで解説します。
現在は長部経典第22『大念処経』です。コピーをご用意しています。
副読本としてアルボムッレ・スマナサーラ長老『大念処経』(サンガ)4000円を各自ご用意ください。お寺にも予備を置いております。
「仏教なんでもセンター」
祝福法要(地鎮祭)のご参加ありがとうございました。
不思議なことにご用意していた椅子二十数脚ぴったりのご参加。寒くもなく暑くもない秋晴れの中、何とか無事にお祝いしていただきました。写真など詳しい情報はホームページ担当者が風邪から復活するまでしばしお待ちを。
日時:11月12日(土)10:00より
場所:下松市切山130番地(周防久保駅前信号を渡って左手)の工事現場にて
導師:アルボムッレ・スマナサーラ長老
誓教寺会館「誓教寺なんでもセンター」のパンフができました。
新しいタイプの仏教センターです。お気軽にご要望をお聞かせください。
政教分離で公民館などでは実施しにくい「死出の旅路準備」講座みたいなものもやってみたいです。
右端のページにさりげなくお布施お振込み先も載っています。
我と思わん方はこの機会にぜひ徳をお積みください♡
「誓教寺会館は普請中」ページを追加しました。日々刻々と進化する(工事が進む)会館の今を
リアルタイムでご覧ください。ここでもチラッとご報告します。

十月半ばすぎて、旧歯科医院の臓物がほぼ刳り出されました。間仕切りを変えるので一部の壁や床!も取り払いました。
この期間、ご近所の方には埃と騒音で大変なご迷惑をおかけしました。申し訳ございませんでした。
左は会館二階。吹き抜けロビーの上部です。正面(北側)の壁がガラスになり、一階から菩提樹様が枝を伸ばします。

☆ 女性限定・ミニ合宿(自主)実践会開催のお知らせ☆
日時:12月4日(日)9:30~6日(火)20:00頃
場所:誓教寺会館管理棟
定員:若干名/要予約
★ 24時間のヴィパッサナー実践を目指します。
★ 指導者はいません。ヴィパッサナー実践の初心者指導を既に受講された方が対象です。
★ 部分参加も可能です。
★ 初日には、スマナサーラ長老のヴィパッサナー初心者指導(過去の録音)を聴きながら復習します。(希望者のみ)
★ 食事や宿泊の方の布団の準備がありますので、ご参加希望の方は必ず、誓教寺までご連絡ください。
★ 期間中は無言行になります。
★ スタッフはいますが、全員が同じ修行者として共同生活を営みます。食事の準備・片付けや掃除は全員で行ないますので、ご協力をよろしくお願いいたします。
★ 以前にヴィパッサナー実践の指導を受けたことがあるが、なかなか実践が続かない、やり方がよくわからなくなってしまった、家ではなかなか実践の時間が作れない、などの方には役に立つ実践会になることと思います。実践を頑張ってみようと志のある方、どうぞご参加ください。

♡住職の新刊が、また出ました♡
Chief priest's new book on the existense of the Buddha
まあ、お釈迦様が実在するのは当たり前なのですが、
明治以降の「近代仏教学」の研究の仕方ではその存在が見えにくくなっているようです。
そのうえ、日本仏教の現場ではお釈迦様より各宗派の開祖様の方が大事?みたいで……
宗教学者が見た「ここが変だよ日本仏教」攻撃に仏教学者住職は華麗に反撃できるか。
一般書店、ネット通販、または誓教寺でお求めください。
お待たせしました!誓教寺オリジナルカレンダー2016です♡ Seikyoji Original Calendar
誓教寺の菩提樹さまたちです。Two Indian Bodhi trees of Seikyoji
左が参道途中の「上の菩提樹さま」、右が第二駐車場向かいの「下の菩提樹さま」です。
Seikyoji front gardens, left and right of the San'mon gate for the main hall
lavatory in the right San'mon gate in the centre



Sabbe sattā bhavantu sukhitattā.
生きとし生けるものが幸せでありますように
常栄山 誓教寺 Seikyoji in spring. Cherry trees are in full brossom
〒744-0042
山口県下松市切山 347
TEL.0833-46-1413
FAX.0833-46-3149
協会の行事ではありません。
誓教寺のfbより紹介です。
誓教寺 Seikyoji
「仏教なんでもセンター」
祝福法要(地鎮祭)をおこないます
おかげさまで会館の工事は順調に進んでおります。壁や床の一部を抜くほどの大掛かりな解体作業がこのたび無事に終わりました。
そこで、本格的な改装作業が始まる今、この土地・建物に縁を結ぶすべての生命を祝福し、もちろん工事の安全を願って、ささやかながら祝福法要(地鎮祭)を執りおこないます。
日時:11月12日(土)10:00より
場所:下松市切山130番地(周防久保駅前信号を渡って左手)の工事現場にて
導師:アルボムッレ・スマナサーラ長老
当日は寒いようですが、みなさまどうかご都合つけてお参りくださいませ。
協会の記事ではありません。
藤本さんのfbより紹介です。
藤本 晃
愛知大学人文社会学研究所の主催で、
「南伝上座仏教と現代」というワークショップが開催されます。
10月15日(土)13:30~17:00
愛知大学豊橋キャンパスにて。
タイ仏教の専門家とミャンマー仏教の専門家に加えて
日本仏教の専門家?として私も発表します。
総合討論の時間もありますので、どなたもご自由にご参加ください。
かっこいいポスターがあるのですがうまく貼れないので、
詳しくは愛知大学のホームページでご覧ください。
<2016.10.15<10/15>人文社会学研究所主催ワークショップ 【南伝上座仏教と現】 >
http://www.aichi-u.ac.jp/information/pdf/1015%E4%BA%BA%E6%96%87%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80.pdf

![]() ![]() | 2016.9.17 | 講演会・ワークショップ > ワークショップ 【南伝上座仏教と現代】を2016年10月15日(土)に 開催します。 ![]() ![]() |

