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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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『原訳「法句経」』シリーズ
 


協会のfbより紹介です。





#jrba 佼成出版社のWEB雑誌ダーナネットでスマナサーラ長老『原訳「法句経」』シリーズの再録連載が始まりました。#仏教 #法話 #パーリ経典







大切なことは、お釈迦さまの教えを少しずつでも実践することです。そうすれば、人生の悩みや苦しみを乗り越えていくことができるでしょう。ーアルボムッレ・スマナサーラ
dananet.jp








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#jtba【動画アーカイブ】2015年『関西月例冥想会』スマナサーラ長老法話





協会のfbより紹介です。





#jtba【動画アーカイブ】2015年『関西月例冥想会』スマナサーラ長老法話

よければご覧になってみてください。

http://mayadevi.hatenablog.com/entry/2017/09/07/152317

... もっと見る


▼説明限定配信です。このchからの映像・音声の著作権は、日本テーラワーダ仏…

mayadevi.hatenablog.com









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#jtba【紹介】「回向の文」えこうのもん~供養とは心を向けること~





協会のfbより紹介です。





#jtba【紹介】「回向の文」えこうのもん~供養とは心を向けること~

皆様、お盆休みゆっくりお過ごしください。

 供養には基本的な法則があります。まず、それを覚えておいてください。供養とは、亡くなった人に自分の徳を供与することです。お布施したり、冥想したり、人助けをしたり、ボランティア活動したりなど、自分が何か善行為をして、それによって得られた善いエネルギーを回向するのです。徳というのは、幸福になるためのエネルギーです。供養とは、亡くなった方に幸せになるためのエネルギーを与えるということなのです。

 自動的には届きません。相手にあげる必要があります。そこはお金と同じようなものです。いくら自分にお金があっても、「これを誰々にあげます。どうぞ使ってください」と言わないと、あげたことにはならないでしょう。そのように、自分が善いことをして、「この功徳を誰々にあげます」という気持ちを作るのです。あるいはちゃんと言葉で言う。その方が、もっとしっかりします。

 回向というのは、死んだ人ではなくても、生きている人にすることもできます。自分が善いことをして、「喜んでください」と回向の言葉を唱える。それで相手が回向を受け取ったなら、回向が成立します。

●回向(えこう)の文
『仏法僧の三宝に礼拝(らいはい)・帰依し、戒を守り、慈悲の冥想とヴィパッサナーによって積まれたこの功徳を、神々、先祖、祖父母、両親、親族、恩師をはじめとし、一切の生きとし生けるものに回向いたします。この功徳によってすべての生きとし生けるものが幸福に暮らせますように。そして解脱が得られますように』

▼参考ページURL
【104】 供養は福を呼ぶ
http://www.j-theravada.net/qa/gimon104.html

ANUMODANA:回向
http://www.j-theravada.net/pali/key-anumodana.html

「供養ってなに?」(誓教寺 藤本晃 氏)
https://goo.gl/A168QW

●photo:Graves near Kazagashira Park by Jennifer Morrow<flickr>
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然










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#jtba【音声】『箭経』Salla sutta





協会のfbより紹介です。






 

日本テーラワーダ仏教協会

#jtba【音声】『箭経』Salla sutta

アニミッタン アナンニャータン マッチャーナミダ ジーヴィタン
Animittaṃ anaññātaṃ,maccānaṃ idha jīvitaṃ;
カシラン チャ パリッタン チャ タン チャ ドゥッケーナ サンニュタン
Kasirañ ca parittañ ca,tañ ca dukkhena saññutaṃ.

ナ ヒ ソー ウパッカモー アッティ イェーナ ジャーター ナ ミッヤレー
Na hi so upakkamo atthi,yena jātā na miyyare;
ジャラン ピ パトゥワー マラナン エーワン ダンマー ヒ パーニノー
Jarampi patvā maraṇaṃ,evaṃdhammā hi pāṇino.

パラーナミワ パッカーナン  パートー パタナトー バヤン
Phalānamiva pakkānaṃ,pāto patanato bhayaṃ;
エーワン ジャーターナ マッチャーナン ニッチャン マラナトー バヤン
Evaṃ jātāna maccānaṃ,niccaṃ maraṇato bhayaṃ.

ヤター ピ クンバカーラッサ カター マッティカ バージャナー
Yathāpi kumbhakārassa,katā mattikabhājanā;
サッベー ベーダナパリヤンター エーワン マッチャーナ ジーヴィタン
Sabbe bhedanapariyantā,evaṃ maccāna jīvitaṃ.

ダハラー チャ マハンター チャ イェー バーラー イェー チャ パンディター
Daharā ca mahantā ca,ye bālā ye ca paṇḍitā;
サッベー マッチュ ワサン ヤンティ サッベー マッチュ パラーヤナー
Sabbe maccuvasaṃ yanti,sabbe maccuparāyaṇā.

テーサン マッチュパレーターナン ガッチャタン パラローカトー
Tesaṃ maccuparetānaṃ,gacchataṃ paralokato;
ナ ピター ターヤテー プッタン ニャーティー ワー パナ ニャータケー
Na pitā tāyate puttaṃ,ñātī vā pana ñātake.

ペッカタン イェーワ ニャーティーナン パッサ ラーラパタン プトゥ
Pekkhataṃ yeva ñātīnaṃ,passa lālapataṃ puthu;
エーカメーコー ワ マッチャーナン ゴー ワッジョー ヴィヤ ニッヤティ
Ekamekova maccānaṃ,govajjho viya niyyati.

エーワン アッバーハトー ローコー マッチュナー チャ ジャラーヤ チャ
Evaṃ abbhāhato loko,maccunā ca jarāya ca;
タスマー ディーラー ナ ソーチャンティ ヴィディトゥワー ローカパリヤーヤン
Tasmā dhīrā na socanti,viditvā lokapariyāyaṃ.

ヤッサ マッガン ナ ジャーナースィ アーガタッサ ガタッサ ワー
Yassa maggaṃ na jānāsi,āgatassa gatassa vā;
ウボー アンテー アサンパッスィン ニラッタン パリデーワスィ
Ubho ante asampassaṃ,niratthaṃ paridevasi.

パリデーワヤマーノー チェー カンチダッタン ウダッバヘー
Paridevayamāno ce,kiñcidatthaṃ udabbahe;
サンムールホー ヒンサマッターナン カイラー チェー ナン ヴィチャッカノー
Sammūḷho hiṃsamattānaṃ,kayirā ce naṃ vicakkhaṇo.

ナ ヒ ルンネーナ ソーケーナ サンティン パッポーティ チェータソー
Na hi ruṇṇena sokena,santiṃ pappoti cetaso;
ビィヤッスッパッジャテー ドゥッカン サリーラン チュパハンニャティ
Bhiyyassuppajjate dukkhaṃ,sarīraṃ cupahaññati.

キソー ヴィワンノー バワティ ヒンサマッターナマッタナー
Kiso vivaṇṇo bhavati,hiṃsamattānamattanā;
ナ テーナ ペーター パーレンティ ニラッター パリデーワナー
Na tena petā pālenti,niratthā paridevanā.

ソーカマッパジャハン ジャントゥ ビッヨー ドゥッカン ニガッチャティ
Sokamappajahaṃ jantu,bhiyyo dukkhaṃ nigacchati;
アヌットゥナントー カーラカタン ソーカッサ ワサマンワグー
Anutthunanto kālaṅkataṃ,sokassa vasamanvagū.

アンニェー ピ パッサ ガミネー ヤター カンムーパゲー ナレー
Aññepi passa gamine,yathā kammupage nare;
マッチュノー ワサマーガンマ パンダンテー ヴィダ パーニネー
Maccuno vasamāgamma,phandante vidha pāṇine.

イェーナ イェーナ ヒ マンニャンティ タトー タン ホーティ アンニャター
Yena yena hi maññanti,tato taṃ hoti aññathā;
エーターディソー ヴィナーバーヴォー パッサ ローカッサ パリヤーヤン
Etādiso vinābhāvo,passa lokassa pariyāyaṃ.

アピ チェー ワッササタン ジーヴェー  ビッヨー ワー パナ マーナヴォー
Api vassasataṃ jīve,bhiyyo vā pana māṇavo;
ニャーティサンガー ヴィナー ホーティ ジャハーティ イダ ジーヴィタン
Ñātisaṅghā vinā hoti,jahāti idha jīvitaṃ.

タスマー アラハトー ストゥワー ヴィネッヤ パリデーヴィタン
Tasmā arahato sutvā,vineyya paridevitaṃ;
ペータン カーラカタン ディスワー ナ ソー ラッバー マヤー イティ
Petaṃ kālaṅkataṃ disvā,neso labbhā mayā iti.

ヤター サラナマーディッタン ワーリナー パリニッバイェー
Yathā saraṇamādittaṃ,vārinā parinibbaye;
エーワン ピ ディーロー サッパンニョー パンディトー クサロー ナロー
Evampi dhīro sapañño,paṇḍito kusalo naro;
キッパムッパティタン ソーカン ワートー トゥーラン ワ ダンサイェー
Khippamuppatitaṃ sokaṃ,vāto tūlaṃva dhaṃsaye.

パリデーワン パジャッパン チャ ドーマナッサン チャ アッタノー
Paridevaṃ pajappañ ca,domanassañ ca attano;
アッタノー スカメーサーノー アッバヘー サッラマッタノー
Attano sukhamesāno,abbahe sallamattano.

アッブールハ サッロー アスィトー サンティン パップッヤ チェータソー
Abbūḷhasallo asito,santiṃ pappuyya cetaso;
サッバソーカン アティッカントー アソーコー ホーティ ニッブトー ティ
Sabbasokaṃ atikkanto,asoko hoti nibbutoti.

1 徴(しるし)もなし。予告もなし。この世の人の命というものは、惨めなもの。儚いもの。その上、苦しみに陥っている。

2 生まれた者が死なずにすむ、その手立ては何もなし。「老いて老いて、死に至る」生きるものにはこのきまり。

3 たわわに実った果実なら、夜明けとともに落ちるやも。生まれた人も同じこと。死の恐れ、常にあり。

4 陶工の作る土の器が、最後は必ず壊れる。人の命もそんなもの。

5 子供であれ大人であれ、愚者であれ賢者であれ、みんな死の力に征服されている。死はみなの行き着くところ。

6 死があの世にさらって行くのに、父でも息子を救えない。親族も親族を救えない。

7 泣きわめく親族の目の前で、さらわれていくのを見よ。人は孤独で死に至る。屠場に牽かれる牛のように。

8 老いと死が常にこの世を攻撃する。世のこの理を知る賢者には悲しみなし。

9 どこから来た者か、またどこへ逝ったか、それをあなたは知らない。両辺も見えないその人のために、あなたは無意味に嘆く。

10 泣き叫ぶことで得する何かがあるならば、それは頭の混乱、そして自己いじめ。智慧のある人ならこのように知る。

11 こころの安らぎは、泣き崩れること、嘆き悲しむことでは得られない。苦しみだけは増すばかり。身体はますます損なわれる。

12 身はやつれ、顔色が悪くなる。自分で自分を傷つける。死者の供養にもならない悲しむことは、無駄なだけ。

13 悲しみを断ち切らない者が、なおさら苦悩に陥る。亡き人を嘆く人は、悲しみに呑み込まれる。

14 摂理によって死んでいく他の人々も見るがよい。死期が近づくと、生命は震えるもの。

15 どのように思い願っても、起こることはその逆です(死なないようにと思っても、必ず死は訪れる)。無常とはそういうこと。世間の有様を観てごらん。

16 もし百年、あるいはもっと長く人が生きるとしても、親族と死別する。ついに自分も命を捨てる。

17 それゆえ、覚者に学び、悲嘆を克服しよう。逝った死者を見て、「この人はもはや得られない」と〔知ろう〕。

18 家についた火を水で消し去るように、智慧に満ちた賢者、巧みな人は、湧き起った悲しみを、風が綿花を吹き払うように、即座に消す。

19 自分の憂い・未練・悲しみを引き抜くこと。自分の幸福を求める者は、刺さった〔悲しみの〕箭(矢)を引き抜くのである。

20 箭を引き抜き、涼やかになり、こころの安らぎを得る。一切の悲しみを乗り越えて、悩みなき寂静に達する。
(Sutta-nipāta 小部 経集III-8)

▼経典テキストURL
http://gotami.j-theravada.net/sallasutta.pdf

~生きとし生けるものが幸せでありますように~










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仏弟子たちのダメダメ事件簿――知られざる律蔵の世界





佐藤哲郎さんのfb より 紹介です。





仏弟子たちのダメダメ事件簿――知られざる律蔵の世界



パーリ三蔵読破への道 連載第二回

佐藤哲朗

●日の当たらない「律蔵」

パーリ三蔵中の律蔵(ヴィナヤ・ピタカ)は、ちょっと「不遇」な仏典です。専門的な研究書は数々ありますが、原典の全訳は旧漢字・旧仮名遣いの『南伝大蔵経』(一巻~五巻)のみ。律蔵は出家の領分だから、在家者が読んでも面白くないと思われているようです。でも、それって偏見ですよ。むしろ、読み物としてこれほど魅力的な仏典はないといっても過言ではありません。

文献としての律蔵は経分別(スッタヴィバンガ)と犍度部(カンダカ)、附随(パリワーラ)に別れており、我々がイメージする「~なかれ」という罰則を伴った戒律は経分別(南伝大蔵経の一巻と二巻)に収録。じつは、釈尊が伝道活動をはじめた当初、明文化された戒律はなかったのです。戒律は、比丘サンガで煩悩にまつわる諸問題が起きてから順次、定められました(随犯随制)。仏伝では釈尊成道から十二年後からとしています。釈尊在世中、戒律は次々に定められ、出家比丘サンガでは二二七項目にまで増えました。

律蔵には、戒律制定のきっかけとなった事件の記録や具体的な判例集が付記されています。俗世間を離れて出家しながら欲望にかられてトラブルを起こしたダメ僧侶たちの赤裸々な記録は、そこらの小説やノンフィクションよりずっと面白い。サーリプッタ尊者やマハーカッサパ尊者といった「偉大なる人々」の影で、教団でトラブルを起こして戒律の制定にのみ名を残した「その他大勢」の比丘たちに思いを馳せるのも一興かと思います。

●教団追放の罪

二二七項目の出家の戒律には様々なランクがあります。その中でも最も重い戒律はパーラージカ(波羅夷)、一般の社会では死刑にあたる罪です。これを犯した比丘はサンガから追放され、二度と出家することはできません。ちなみにサンガの戒律は、条文が制定される前に犯したもの、精神錯乱で犯したものは無罪、とされます。これは現在の法制度とも通じる規定ですね。さて、パーラージカは四つあります。

一、婬戒。比丘は誰であれ、戒律を捨てる手続きをしないで、異性であれ同性であれ、相手が動物であっても、性交を行ったならば、教団追放。

二、盗戒。比丘は誰であれ、俗世間で法的に罰せられる程度のものを、自分に与えられていないのに、盗もうという心を起こして(故意に)盗んだならば、教団追放。(仏教では与えられていないものを取ることは一切禁止だが、この場合は教団追放罪になる重い窃盗のこと。)

三、絶人命戒。比丘は誰であれ、故意に人の命を断ち、またはそのために殺す道具を持つものを求めれば、または死を賛嘆したり自殺を勧めたりしたら、教団追放。

四、大妄語戒。比丘は誰であれ、自ら覚りを得たり超越的な禅定体験を得たりしていないのに、それを得たかのごとく嘘を付いたならば、教団追放。増上慢(覚ったという勘違い)は除く。(冗談でも嘘を禁じるのは普通の戒律だが、超人法に関する嘘は教団追放罪。)

●婬戒の因縁

ヴェーサーリー近郊カランダ村の富豪の息子スディンナが、跡継ぎを残さないままで出家しました。その後、故郷に托鉢に訪れたスディンナは、家の両親と妻から跡継ぎの子供を作ることを強く要請され、出家のままで元の妻と性交して妊娠させたのです。スディンナは「義務を果たした」ことでようやく家から解放されたのですが、自分の行為は出家に相応しくなかったと後悔して激しく悩みました。スディンナから告白を受けた釈尊は彼を厳しく叱責し、婬戒を制定されたそうです。

いささか同情を禁じ得ないスディンナ比丘のエピソードの直後には、餌付けした猿と獣姦した某比丘の話が出てきます……。さらに古代インドには、出家とのセックスを「布施」とする奇妙な習慣があったようで、そのような性的布施を志願した女性に押しまくられて射精に至った比丘の話も載っています。また、チンピラの集団に捕まった比丘と比丘尼が衆人環視のなか性行為を強いられた事件、比丘尼がレイプされた事件など、出家が犯罪行為に巻き込まれた際の判例も記録されており、釈尊教団が置かれていた厳しい環境も垣間見えます。

ちなみにパーラージカの次に重い戒律であるサンガーディセーサ(僧残)は、十三項目中、五つの項目が性(セックス)の問題にまつわる規定になっています。そちらで大活躍?しているのは釈尊教団を代表する問題児、ウダーイー(ラールダーイー)比丘です。

●盗戒の因縁

盗戒が制定されたのは、マガダ国の王舎城にいた陶工出身のダニヤ比丘が起こした事件がきっかけ。自分の庵を作るための資材を探していたダニヤ比丘は、災害時に城塞を修理する目的で備蓄されていた材木に目をつけ、管理人に「王から許可を受けたから」と言って、譲り受けたのです。マガダ国のビンビサーラ王は釈尊教団を保護することを布告していたので、国の財産である材木もサンガで自由に使っても構わないと、勝手な解釈をしたのですね。この行為によって、材木の管理人は逮捕され、ダニヤ比丘もビンビサーラ王から尋問されました。当然、釈尊教団全体もマガダ国の国民から強い非難を浴びました。そこで、釈尊は盗戒を制定したのです。律蔵には、盗戒の解釈について詳細な「判例」が記録されています。

●絶人命戒の因縁

絶人命戒のきっかけはかなり変わっています。釈尊がヴェーサーリー大林の重閣講堂に居られた時、様々な方便をもって不浄に関する説法をなし、不浄観の瞑想を賛嘆しました。それから釈尊は、自らが半月間、禅定に入って過ごすことを比丘たちに告げ、一日に一度食事を持ち来る者以外は、禅定に入っている場所に立ち入らないように申し付けました。

釈尊が不浄観の瞑想を賛嘆したのを聞いた比丘たちは、指導者である釈尊のいない間に、不浄観の瞑想に専念しました。彼らは自分の身体を厭い、恥じ、嫌悪して、ついには自ら命を絶ち、また相互に命を絶ち(殺し合い)、ついには袈裟をまとってサンガの残飯を漁っていた似非沙門(ミガランディカ・サマナクッタカ、「鹿の糞・似非修行者」という意味)のところに行って、「どうか自分を殺してくれ、殺してくれれば、私の衣や鉢は君のものになるから」と頼みました。そこで似非沙門は、衣と鉢のために自殺志望の比丘たちを次々と殺してまわったのです。

似非沙門はいったん自分の行為を後悔しますが、悪魔に唆されてさらに多くの比丘を殺しました。自殺・他殺の入り乱れた血生臭い混乱によって、釈尊が半月の禅定から戻られたときには、多くの比丘は死に絶え、ヴェーサーリー大林の重閣講堂は閑散となっていました。事情を尋ねた釈尊に、アーナンダ尊者は、比丘たちが不浄観の瞑想によって、次々命を断ち、あるいは他に頼んで殺して貰ったりして、こんなに比丘の数が減ってしまったと説明しました。「願わくば世尊、比丘たちに不浄観以外の修行法を授けて下さい」というアーナンダ尊者の懇願を受けて、釈尊は残った比丘たちを集め、呼吸観察の瞑想を指導したのです。そして、「比丘は誰であれ、故意に人の命を断ち、またはそのために殺す道具を持つものを求めれば(他人に殺させれば)、教団追放」という戒律を定めたと言います。

さらに、こんな事件も起こりました。ある不良比丘のグループ(六群比丘)が病人の在家信者を見舞った際、彼らはその妻の美貌に心奪われました。「この病人が生きている限り、我々がこの女をものにすることはできない。我々はこの在家信者に向かって死の甘美さを賛嘆しよう」と考えて、在家信者に向けて「あなたは様々な善行為を行ってきた。この厭わしい生があなたにとって何の意味があるでしょう。死こそあなたにとって生よりも勝るものです。はやく死んで、天界に生まれ変わりなさい。そこで天上の五欲を享受して楽しみなさい」と唆したのです。その話を真に受けた在家信者は、死の魅力にとりつかれて、ろくに食べ物をとらなくなり、病気もどんどん重くなり、ついに亡くなってしまったのです。

死亡した信者の妻は激怒し、不良比丘たちを非難したため、釈尊教団で大きな問題となりました。そこで釈尊は、「比丘は誰であれ、故意に人の命を断ち、またはそのために殺す道具を持つものを求めれば、または死を賛嘆したり自殺を勧めたりしたら、教団追放」という形に戒律をバージョンアップされたのです。

この絶人命戒の前半の因縁については、首を傾げてしまうところがあります。瞑想指導者である釈尊が、不浄観についてレクチャーを行った後で弟子たちを放置して禅定に入ったのもおかしいし、集団自殺という結果を予期できなかったのもおかしい。サンガの留守を預かるアーナンダ尊者らがそれに手をこまねいていたのもおかしいし、いくら止められているといっても事件を釈尊に伝える者が誰もいない(食事は持っていっているのに)ということはおかし過ぎる。戒律の制定には具体的な因縁話が必要なことから、無理やりストーリーをつなげたのかもしれません。しかし、不浄観を修行した比丘の集団自殺という事件は、ディテールは違いますが、相応部経典にも記録がある(S54-8)ので、実際に起きた悲劇かもしれません。

●大妄語戒の因縁

大妄語戒は、ワッジー国のワッグムダー河の畔で雨安居に入っていた比丘たちが起こした事件がもとで制定されたそうです。その時ヴァッジー国は大飢饉に見まわれ、比丘たちは托鉢により生活するのが困難でした。そこで比丘たちは、お互いに「あの比丘は禅定の体得者である」「あの比丘は阿羅漢果に達している」などと宣伝しあえば、在家の者たちからたくさんの布施を集められるだろうと考えて、実行したのです。すると案の定、在家者たちは「このような比丘方が安居に入っているとは素晴らしいことだ。一生懸命お布施をしなければ」と、自分たちが食べるものも食べずに、食べ物をその比丘たちに布施したのです。おかげで比丘たちは、飢饉の土地に暮らしていたのに丸々と太り、肌もツヤツヤになりました。

雨安居が終了すると、修行の結果を報告するために釈尊のところを訪ねるのが、比丘サンガの決まりでした。ワッグムダー河の畔で安居に入った比丘たちも、釈尊のいるヴェーサーリー大林の重閣講堂に集まりました。飢饉でやせ細っていた他の比丘たちに比べて、ワッグムダー河畔にいた比丘たちだけは太って肌もツヤツヤでした。釈尊が彼らに安居中の過ごし方を問いただすと、比丘たちは事の経緯を話しました。釈尊はさらに質問しました。「では、君たちがふれ回ったそれ(禅定や覚り)は、実際にあるのか、ないのか?」比丘たちは正直に「ありません、世尊」と答えました。釈尊は激しい言葉で比丘たちを叱責しました。

「愚か者、お前たちは出家が絶対にしてはならないことをしたのだ。愚か者、お前たちはなぜ食い物のために、在家者に互いの超人法(世俗を超越した境地)を賛嘆し説いたのだ。愚か者、お前たちはむしろ鋭利な牛刀で腹を割かれたとしても、食い物のために在家者に互いの超人法を賛嘆し説いてはならない。牛刀で腹を割かれて死ぬか死に等しい苦を受けたところで、地獄に生まれることはない。しかし、お前たちがしたその行為によっては、死後、地獄に堕ちるのだ」と。さらに釈尊は世間にいる五種類の大悪人を列挙して、その最後に、「比丘たちよ、天界・魔界・梵天界を含む世界において、沙門・バラモン・神々と人間のなかで、最大の悪党は、自分にありもしない超人法をあるかのごとく説く者である。彼らは、盗み心をもって社会の布施を食している大悪人である」と断じ、「比丘は誰であれ、自ら覚りを得たり、超越的な禅定体験を得たりしていないのに、それを得たかのごとく嘘を付いたならば、教団追放」と戒律を定めたのです。

しかし、釈尊がこの律を定めたことで、教団には深刻な悩みに陥る者が続出しました。「私はかつて、禅定に達してもいないのに達したと思い、覚りに達してもいないのに達したと思い、増上慢(覚ったという勘違い)によって他にこれを説いたことがある。ああ、なんと恥ずかしいことだろう」と。後悔に打ちひしがれた比丘たちは、アーナンダ尊者に相談しました。尊者が釈尊に比丘たちの困惑を伝えたところ、釈尊によって「増上慢は除く」という例外が加えられたのです。

かなり端折りましたが、以上がパーリ律蔵経分別のパーラージカ(波羅夷)因縁です。正確には比丘(男性出家者)の波羅夷で、比丘尼(女性出家者)に対しては別途さらに四つの波羅夷が定められています。これもまた「人情」の機微に触れる上で興味深いですが、誌面の制約もあるので省きます。次号では律蔵の犍度部(カンダカ)を紹介します。こちらは釈尊教団の成立史に関わる重要な文献です。

(初出:サンガジャパン Vol.2(2010Summer),サンガ,2010/6/28









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『計画する人生』~流されるように生きていませんか?~





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#jtba【案内】東京 9/24(日) 初期仏教月例講演会 『計画する人生』予約受付中

初期仏教公開講座
『計画する人生』~流されるように生きていませんか?~
講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老

▼予約申し込みページ
http://kokucheese.com/event/index/479877/
 
 あなたは自分の人生の計画書を持っていますか? まわりに流されるように、なんとなく生きていませんか? 自分の判断を保留し、時間切れで現状維持の判子を押して失敗していませんか? 感情的に条件反射で対応し、信頼を失っていませんか? お釈迦様の人生は、困難の連続でした。誰も成功したことのない目標を設定し、プランを立て、条件を整え、決断し、行動し、そして見事にゴールに達したのでした。お釈迦様に、人生を主体的に生き、見事に成功するコツを教わりましょう。

*****
日時:2017年9月24日(日)14:00~16:30(終了予定)
    (受付開始13:40~)
場所 日暮里サニーホール
定員 400名(先着順)
参加費 ご喜捨(お気持ち)

☆★☆会場のお間違えの無いよう、ご確認お願いいたします。☆★☆

*事前にお申し込みの上ご参加下さい。
(申込締切9月22日12:00pm)

*受付返信がない方は、予約が取れておりません。再度お申し込み手続きをお取り下さい。

*会場の日暮里サニーホールへのお問い合わせはご遠慮ください。

~生きとし生けるものが幸せでありますように

画像に含まれている可能性があるもの:1人、テキスト










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・鈴木一生さん葬儀(通夜式)スマナサーラ長老の弔辞と法話





協会のfbより紹介です。





・鈴木一生さん葬儀(通夜式)スマナサーラ長老の弔辞と法話
2017年7月27日夕刻 南多摩斎場にて 書き起こし:佐藤哲朗
皆様よろしくお願いします。今日はほとんどがお寺の関係の皆様が、鈴木一生さんの冥福を祈るためにお集まりいただいております。私はこういう場所でしゃべる日本語はわかりませんので、ふつうの日本語でしゃべります。
■鈴木一生さんの功績を偲んで
仏教は人間に「いつでも前を向いて進みなさい」ということを言っていて、鈴木さんも生きている時は怖いほど前向きなんです。何か新しいことをつくらなきゃ気が済まないという、すばらしい、思う存分の明るさがありました。私たちは日本国中、テーラワーダ仏教、ヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスの実践など、いまかなり若い方々、学識のある方々、お医者様、いろんな専門家の方々の間で、私たちテーラワーダ仏教で教えていることを勉強したり実践したりしているんですね。
協会から出している本なんかは、いま中国語やハングル語などにも翻訳されていて、けっこう幅広く活動はしています。このテーラワーダ協会を最初に設立して、最初の会長として活動したのは鈴木一生さんなんです。もしかすると、軌道に乗って回転すると「もう次のことをするぞ」と思ったかもしれません。でも、そういうわけではなく、いろいろ条件があって、私たちはあまりにもすごい勢いで進んでいたんだから、若い者にバトンタッチして鈴木さんが会長の座を降りましたけど。そこからも我々はすごく親しい関係でいました。
珍しい性格のかたなんですね。日本でテーラワーダ仏教の教えを紹介しようということに、鈴木さんが協力してくれなかったら、他の方はなかなか大胆なことをしようと思わないんですね。怖くて、しり込みするんですね。それを何のことなく一言、「やりましょう」ということでね、頑張っていただきましたので、いまテーラワーダ協会というのはしっかりと活動しています。
それから、みなさまは仏教関係の方々だからね、そういう宗教関係の方々に対して、役に立つことを何かしゃべってほしいという要望がありましたので、それについてしゃべります。
■すべて捨てて逝かなくてはいけない
生まれてきたものは誰でも亡くなります。誰でもこの世を去らなくてはいけないんですね。お釈迦さまは、それをずーっと念じてくださいと。お釈迦さまの言葉でいえば、「sabbaṃ pahāya gantabbaṃ (サッバン パハーヤ ガンタッバン)すべて捨てて逝かなくてはいけない」と。宗派はどうでもいいんだけど、私たちは「sabbaṃ pahāya gantabbaṃ」これをしっかり念頭に、頭の一番先に入れて、元気で活動しなくてはいけないんです。どんな活動をしたとしても、それを抱きしめて、それにしがみついて、私のもの、私のお寺、私の財産、そういうのは、まったく仏教的ではないんです。活動して人々のために前に進むが、何一つも囚われないで、捨てて捨てて捨てて捨てて、進まなくてはいけないんですね。「sabbaṃ pahāya gantabbaṃ」というのは、そういうことです。
■私は今日、どのように生きてきたのか?
それから、次のお釈迦さまの言葉は、「kathaṃ bhūtassa me rattindivā vītipatantīti (カタン ブータッサ メー ラッテンディワー ヴィーティパタンティーティ)私の日夜(昼と夜)は、どうだったのかと毎日、観察しなさい」と。毎日。これは、宗派は関係ないんです。私は今日、どのように生きてきたのかということを観察しなくちゃいけないんですね。この二つの言葉で、私たちに、人間のために、人類のために、人間の悩み苦しみを無くすために、前向きに活動することができます。それで、今日一日はどうだったんですかと。なーんかくだらないことばかりで無駄でした、と思ったら、それって失敗でしょうし、だから、今日は今日なりに頑張りましたと、これぐらいのことをやりましたと、そうやって毎日自分の成績表に「〇マル」入れるように、我々は生きているあいだで、生きていかなくちゃいけないんですね。だから、亡くなったときはどうでもいいんです。なにしゃべっても鈴木さんに聞えませんしね。ですから、一人ひとりが自分の成績表をね、しっかりと、「〇マル」か「◎二重マル」になるようにと、生きていかなくちゃいけない、ということは気をつけなくてはいけないと思いますね。
■業が与える宿題に取り組もう
次のポイントで話を終了します。いったい、人生ってなんなのかと。生きるということはなんなのかと。私たちは、ただ死ぬために生きているんですかね? 私が言いたいのは、人間として生まれるんだけど、人間のままで死ぬなよと。人間より優れた性格を持って死ななくちゃいけない。それはどうやってするのかというと、いたって簡単です。我々の業が、私たちに朝から晩まで、あらゆる宿題を与えてくれるんですね。毎日、我々に与えられる宿題を、ちゃんとこなさなくてはいけないんです。ちゃんとやらなくてはいけないんです。
時々、自分の自分の弟や兄が、ケンカを売ってくるかもしれない。それはケンカを売ってるんじゃない、自分に宿題を与えているんだと。あなたはこの問題をどうやって乗り越えますかと。また、奥さんに怒られるかもしれません。でも、相手が私に怒った、ではないんです。あ、この方が私に宿題を与えていると。会社でいろいろトラブルがあるかもしれません。それはトラブルではありません。人格向上するために、よりよい人間になるために、業が我々に宿題を与えているんです。だから朝、目が覚めたら、ずっと連続して宿題が次から次へと現れます。それはものの見事に、業が与えてくれるんです。
宿題をやってもやらなくても、業にはどうってことはないんです。ほとんどの人間は宿題に失敗するんです。それで、自分の善業が消えるんです。消えて悪業になるんです。だから我々、仏教関係の方々は、決まって自分に毎日、もしかすると毎分かもしれません、業が与えてくれるそれぞれの宿題に、ものの見事に合格しなくちゃいけないんですね。それはいたって簡単なことで、より明るく、より優しく、より生命を広く慈しんで、どうやってベストの結果を出せますかと、いつでも一人ひとりが努力しなくちゃいけないんです。
■無常偈
それが仏教の根本的な立場です。鈴木一生さんの冥福を祈ります。それから、我々テーラワーダ仏教では葬式に来たらいつでもとなえる偈がありますので、その偈をとなえて、皆様にも祝福いたしまして終了します。
Aniccā vata saṅkhārā, uppādavayadhammino; Uppajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo sukho.
Aniccā vata saṅkhārā, uppādavayadhammino; Uppajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo sukho.
Aniccā vata saṅkhārā, uppādavayadhammino; Uppajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo sukho.
(アニッチャー ワタ サンカーラー ウッパーダワヤダンミノー  ウッパッジトゥワー ニルッジャンティ テーサン ヴーパサモー スコー)
(生じて滅びる性質を持つ 諸行は無常である。  生じては滅びるそれらから [こころを]静めるのが安楽である。)
この偈は、お釈迦さまが涅槃に入られた瞬間、帝釈天がとなえて、お釈迦さまを礼拝した偈なんです。皆様に幸福がありますように。



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私たちが死ぬまで心がけて行うべき3つのこ




佐藤哲郎さんのfb より 紹介です。





昨晩の鈴木一生さんの葬儀(通夜式)、スマナサーラ長老、ウィセッタ長老、マハーカルナー長老、オバサ長老、ヤサ長老といったテーラワーダのお坊さんはじめ、典礼寺院協会に関わってる日本仏教のお坊さんも多数参列していて、お坊さん率が高かった。日本テーラワーダ仏教協会有縁の古い方々のお顔も拝見できて懐かしかった。

バブル紳士だった頃からの軌跡を追うスライドショーは微笑を誘う内容で、ほんと憎めない人だったよなぁという印象。葬儀委員長に続いてスマナサーラ長老が10分ほど弔辞と法話を述べたんだけど、素晴らしい内容だった。

曰く、私たちが死ぬまで心がけて行うべき3つのことがあります。

1)いつでも「すべてを捨てて逝くのだ sabbaṃ pahāya gantabbaṃ (サッバン パハーヤ ガンタッバン)」と念じて、無執着の気持ちを育てること。

2)「私は意義ある日夜(時間)を過ごしたか」と自ら反省して向上に励むこと。

3)人生に起こるすべての出来事は「宿題」であると覚悟して、避けることなく取り組むこと。



~生きとし生けるものが幸せでありますように~









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協会の今年のスローガンです。「こころを清らかにする人が幸せである。」





協会の今年のスローガンです。






「こころを清らかにする人が幸せである。」


私たちは、アルボムッレ・スマナサーラ長老のご指導の下、釈迦牟尼仏陀の教えを社会に伝え広め、法を学び、修行できる環境を提供することを目的に活動しています。



















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瞑想には興味にゃい





協会の記事ではありません。
佐藤哲朗さんのfbより紹介です。





瞑想には興味にゃい

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ゆるねこ×ブッダの言葉 2018年カレンダー(スマナサーラ長老 監修)





事務局佐藤哲朗さんのfbより紹介です。





ゆるねこ×ブッダの言葉 2018年カレンダー(スマナサーラ長老 監修)

予約よろ!

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#jtba【慈悲の実践(瞑想)フルバージョン】





協会のfbより紹介です。





#jtba【慈悲の実践(瞑想)フルバージョン】
パティパダー創刊250号記念

釈迦牟尼仏陀の世界 聖なるこころを体験しましょう

                          アルボムッレ・スマナサーラ長老
「慈悲の実践」のフルバージョンを紹介します。いままで皆様がたが実践してきた慈悲の冥想は、慈悲喜捨の気持ちを凝縮した省略バージョンです。それは誰にでも簡単に暗記できる「慈悲の携帯バージョン」です。慈しみの実践をするたびに、こころがその影響を受けて、変わっていかなくてはいけないのです。慈悲の実践は、人間を優れた人格者に育てるための方法なのです。慈悲の省略バージョンを実践することで、人格が変わって幸福になった人々はたくさんいるようです。同時に、慈悲の実践のインパクトを感じていない方々もいるのです。
そこで、こころに確実に影響を与えることを狙って、慈悲の実践のフルバージョンを作成してみたのです。経典でお釈迦さまが慈悲について語られているところを沢山参考にしたのです。パーリ語のフレーズは、直訳してみてもうまく通じないところも出てきます。そのような箇所を日本語で通じるように編集しなくてはいけないのです。そこは私の能力が及ばないところなので、自信はありません。何とかまとめられた、という気持ちです。これから皆様の意見も聞いて、さらに文章を編集したいと思っているのです。
慈悲の気持ちを経験してほしいのです。体感してほしいのです。こころにインパクトを与えて、こころを変えてほしいのです。こころは洗脳しやすい、脆いものです。人間のこころは貪瞋痴で汚れているのです。我々のこころは世間の貪瞋痴のこころによって洗脳されているので、たいへん不幸な人生を過ごさなくてはいけなくなっているのです。慈悲の実践で完全に清らかなこころを育てるのです。世間の波に左右されない、汚れたこころで、迷信で、脅迫で洗脳されない、安定したこころを育てるのです。こころを治せば、人生は奇跡的に変わります。人生における本物の奇跡とは、慈悲です。それを体感してみると、「慈悲は奇跡だ」と各自で発見するに違いありません。
以下、紹介する文章を自分のこころで感じながら、念じてみてください。自分の好きな節にあわせて唱えてみてください。これは慈悲のフルバージョンなので、すべてを唱えるために時間がかかるかもしれません。唱えている最中、自分のこころで感じやすいセットを見つけたならば、繰り返し三回くらい唱えてみてください。すべての言葉を三回唱えることを考えると、時間がかかるかもしれませんが、しっかりと慈悲の冥想をしたことにはなります。
忙しいときは、自分の気に入ったセット一つ二つを選んで、唱えることもよいのです。何日か実践してみると、自分が一番気にいるフレーズが見つかるのです。それが自分専用の慈悲の冥想になります。
ヴィパッサナー実践以外の冥想は、基本的に何かのフレーズを唱えることで成り立つのです。このフレーズが自分の性格に合わない場合は、冥想は進みません。自分特有の慈悲の冥想を発見したら、それをしっかりと、こころに携帯してください。自分のモットーにしてください。毎日、幸福に生きられるようになります。予測できなかった出来事に遭遇しても、ものの見事に正しく対応できるようになります。怒り・嫉妬・落ち込みなどの感情が消えて、微笑んで生きられるようになります。自我の錯覚がじわじわと消えてゆくことを経験できます。ブッダの説かれた世界は、幸福に満たされた世界であることを発見します。

【慈悲の実践】フルバージョン

私は幸せでありますように
・私は幸せでありますように。 ・私の心に現れる悩み、苦しみが徐々に消えていきますように。 ・怒り、嫉妬、憎しみの感情は人の心を苦しめます。 ・苦しみである怒り、嫉妬、憎しみが、私の心に起こりませんように。 ・怒り、嫉妬、憎しみの妄想を育てないように努めます。 ・私の思考が慈しみの思考になりますように。
・私は「物事が常に変化して消え去るものである」と観察します。 ・私は過ぎ去った出来事に囚われないように精進します。 ・私は将来のことに執着して悩まない、不安にならない人間になります。 ・私は今ここで、するべきことに集中します。
私に、他者に対する慈しみの気持ちが現れますように
・私に、他者に対する慈しみの気持ちが現れますように。 ・他者に対して、優しい心で対応することができますように。 ・私のこころに、他を差別する気持ちが現れませんように。 ・苦しい状況に遭遇しても、忍耐することができますように。 ・私のこころが、常に平安でありますように。 ・私のこころの汚れが、徐々になくなりますように。
・私に、ありのままの事実を発見することができますように。 ・私に、真理を発見する智慧が現れますように。 ・私に、一切の現象に対する愛着がなくなりますように。 ・私に、悟りの光が現れますように。
全ての生命は兄弟
・私は、全ての生命が私の兄弟であると思えるように精進します。 ・私は、全ての生命と私が平等であると思えるように精進します。 ・私は、全ての生命の幸福と繁栄を期待します。 ・私は、生命の間で調和が保たれるように精進します。
私は、釈尊の言葉を念じます
・私は、釈尊の言葉を念じます。 ・無始なる輪廻のなかで、私の母ではなかった生命はいません。 ・無始なる輪廻のなかで、私の父ではなかった生命はいません。 ・無始なる輪廻のなかで、私の兄弟ではなかった生命はいません。 ・無始なる輪廻のなかで、私の子供ではなかった生命はいません。 ・無始なる輪廻のなかで、私の友人ではなかった生命はいません。 ・釈尊の戒めを尊(とうと)んで、一切の生命に慈しみの気持ちを抱きます。
・すべての生命は私自身の父・母であると思います。 ・すべての生命は私自身の兄弟であると思います。 ・すべての生命は私自身の子供であると思います。 ・すべての生命は私自身の友人であると思います。 ・すべての生命は私自身の家族であると思います。 ・すべての生命は幸福でありますように。
こころは空気のように
・空気と空気が何の対立もなく一体になるように、私の慈しみの気持ちが、全ての生命のこころと一体になりますように。
・水と水が何の対立もなく一体になるように、私の慈しみの気持ちが、全ての生命のこころと一体になりますように。
・太陽の光が、地球の隅から隅まで照らすように、私の慈しみの光が、全ての生命のこころをさまたげ無く照らせるように、制限無く、慈しみを育(はぐく)みます。
・東・西・南・北・上・下という六方に住む生命に対して、無限に、とどまること無く、慈しみを育(はぐく)みます。
心は大地のように
・大地は、如何なる清らかなものを捨てても、如何なる不浄なものを捨てても、喜ぶことも嫌がることもありません。 ・私も、他の生命の賞賛・非難などを受ける時は、大地のようなこころを保ちます。 ・生きとし生けるものが幸せでありますように。
皆、業を相続します
・全ての生命は、自分の業を相続します。 ・自分の業に管理されて生きています。 ・各生命が受ける幸不幸は、その生命の業の力によるものです。 ・ですから、私は私より豊かな人を見るたびに、 ・過去に善行為をした人であると思い、喜びを感じます。 ・私より不幸に思える人を見ると、 ・生命は無明のせいで罪を犯すのだと理解し、自分が罪を犯さないようにと気をつけます。 ・不幸に陥っている生命に対して、憐れみの気持ちを抱きます。 ・協力する、助ける気持ちを起こします。
エゴの錯覚
・「私は他より優れている」と感じることは高慢です。 ・「私は他と同等だ」と思うことは同等慢です。 ・「私は他より卑しい存在である」と思うことは卑下慢です。 ・慢とは、私のエゴの錯覚から起こるのです。 ・私は、エゴの錯覚がこころに現れないように、と精進します。 ・私は、慢により現れる対立・悩み・争いから離れるように、と精進します。
苦しむ世界で苦しみなく
・世界は欲によって苦しんでいることを観察して、私は欲を控えることに精進します。 ・世界は怒りによって苦しんでいることを観察して、怒りのないこころで生きるように精進します。 ・世界は嫉妬によって苦しんでいることを観察して、嫉妬のない心で生きるように精進します。 ・世界は恨みによって苦しんでいることを観察して、恨みのない心で生きるように精進します。 ・世界は物惜しみによって苦しんでいることを観察して、物惜しみのない心で生きるように精進します。 ・世界は自我を張るから苦しんでいることを観察して、自我を張らない心で生きるように精進します。 ・世界は見栄を張るから苦しんでいることを観察して、見栄を張らない心で生きるように精進します。
・世界は一切の現象は無常であると気づかないので苦しんでいることを観察して、一切の現象は無常であると認めて生きるように精進します。
・世界は一切の現象は苦であると気づかないので苦しんでいることを観察して、一切の現象は苦であると認めて生きるように精進します。
・世界は一切の現象は無我であると気づかないので苦しんでいることを観察して、一切の現象は無我であると認めて生きるように精進します。
・私のこころに悩みが起こりませんように。 ・私のこころに苦しみが起こりませんように。 ・私のこころは平安でありますように。 ・私のこころに安らぎが現れますように。 ・私に悟りの光が現れますように。
・Khantī paramaṃ tapo titikkhā  カンティー パラマン タポー ティティッカー ・忍耐と堪忍は最高の修行であります。
・Nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ  ニッバーナン パラマン スカン ・涅槃は究極の幸福であります。
慈しみの拡大
・私の上の方向に住んでいる全ての生命、 ・私の下の方向に住んでいる全ての生命、 ・私の前の方向に住んでいる全ての生命、 ・私の右の方向に住んでいる全ての生命、 ・私の後ろの方向に住んでいる全ての生命、 ・私の左の方向に住んでいる全ての生命、
・幸福で、安穏でありますように。 ・怒り、憎しみ、恨みから自由になりますように。 ・互いに慈悲喜捨の気持ちで接しあえますように。 ・願いごとが叶えられますように。 ・心の汚れが徐々になくなりますように。 ・すべての生命に、苦しみを乗り越えることができますように。

◎パティパダー2015年12月号掲載原稿

~生きとし生けるものが幸せでありますように~










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#jtba ジャータカ物語「古井戸の話」





協会のfbより紹介です。





#jtba ジャータカ物語「古井戸の話」
『古井戸の話』Jarudapāna-jātaka(No.256) 監修:アルボムッレ・スマナサーラ長老
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、サーヴァッティー在住の商人たちについて語られたものです。
 商人たちはサーヴァッティーで商品を仕入れ、車に満載し、商売をするために出かけるとき、如来を招待しました。大布施を行ない、帰依して戒を保ち、お釈迦さまに礼拝し、「世尊よ、わたしたちは商売のために長い道中を参ります。商品を売って成功し、無事に帰って参りましたら、ふたたび世尊にご挨拶申し上げましょう」と言って、旅立ちました。
 商人たちは難路を行く途中で、古井戸を見つけて、「この井戸には水がない。しかし我々はのどが渇いている。この井戸を掘り下げてみよう」と言って、掘っている間に、相次いでたくさんの鉄や瑠璃等を手に入れました。商人たちはそれで満足して、その財宝を車に満載し、無事にサーヴァッティーに帰って来ました。
 商人たちは持って来た財宝を収蔵し終わって、「わたしたちは成功した。お釈迦様に食物を捧げよう」と思い、如来を招待し布施を行った後、礼拝して片隅に坐り、自分たちが財宝を得た様子をお釈迦さまにお話ししました。
 お釈迦さまは、「あなたたちウパーサカ(男性信者)は、その財宝で満足し、適量を知っていたので、財宝も楽な生き方も手に入れたのです。しかし昔、満足せず、適量をわきまえず、賢者の言葉にも従わないで生命を失った者がありました」と言われ、商人たちに乞われて、過去のことを話されました。
 その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩はバーラーナシーで商人の家に生まれました。やがて成年に達して、隊商たちの長となりました。彼はバーラーナシーで商品を仕入れ、車に満載して、たくさんの商人をつれて、その同じ難路に差し掛かり、その同じ井戸を見ました。そこでそれらの商人たちは、「水を飲もう」と言って、井戸を掘っているうちに、相次いでたくさんの鉄等を手に入れました。彼らは財宝をたくさん手に入れたにもかかわらず、それに満足しませんでした。「ここには他に、これよりも素晴らしいものがあるであろう」と言って、いま一層深くその井戸を掘りました。
 そのとき菩薩は商人たちに言いました。「さあ、商人たちよ、貪欲というものは破滅の根源です。わたしたちはすでにたくさんの財宝を得ました。これだけで満足すべきです。掘り過ぎてはいけません。」商人たちは菩薩に制止されたにもかかわらず、なおも掘り続けました。しかしその井戸には竜が棲息していました。そのとき、その井戸の下に住んでいた竜王は、自分の宮殿がこわされ、土塊や塵芥が落ちて来たとき、怒って、菩薩を除くすべての商人を一人残らず鼻息で打ち殺してしまいました。

 彼は竜宮から出て来て、車を仕立てさせ、財宝全部を満載し、菩薩を乗り心地のよい車に乗せ、若い竜たちに車をひかせて、菩薩をバーラーナシーに案内して家に入らせた後、財宝を順序良く収蔵させて、自分たちの竜宮に帰って行きました。菩薩は財宝を売り、たとえば鋤で畑を掘る場合は余すことなく掘るように、インド全土に遍く布施をし、戒を受けて斎戒を行ない、やがて生命が終わったとき、天界に生まれました。
 お釈迦さまはこの過去のことを話されてから、悟りをひらいた人として、つぎの詩句を唱えられました。
水を欲して 古井戸を掘る商人たちが 鉄・銅・すず・鉛を掘り当てた さらにたくさんの 金・銀・真珠・瑠璃も掘り当てた それでも満ち足らず さらにさらに掘り続けた商人たちは 猛毒をもつ蛇王の 威厳の炎によって 忽ち死滅した だから掘りなさい 掘り過ぎはやめなさい 掘り過ぎは罪である 掘る者は財を得る 掘り過ぎは破綻する
 お釈迦さまはこの法話をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの竜王はサーリプッタであり、隊商の長は実にわたくしであった」と。

◎スマナサーラ長老のコメント

■この物語の教訓
 「知足」は、仏教では大事な概念です。幸福を目指す人々は、人生設計するとき、知足という土台の上に構築するものであるということを、決して忘れてはならないのです。「頑張ればいくらでも儲かる。金はいくらあっても良い」などという考え方は、全くの本末転倒なのです。
 いくらでも儲かるんだといって、あらゆるものに手を出すと、何一つ管理できなくなるのです。商売繁盛どころか、大赤字を抱えたあげく破綻するのです。自分の能力のレベルと目的をわきまえてから商売する人は、成功するのです。その人は自分の夢を叶えて、豊かに生きることができるのです。
 仏教が、欲を「破滅のもとだ」と目の仇にしていることは、確かな事実です。そのことに反応して「欲がないと、何の商売もできない。だから仏教は、経済活動をする社会とは何の関係もない教えだ」と思うのは、一瞬先のことも考えられない俗世間の人間です。
 「商売するなかれ」と仏教で説かれたことは、一度もありません。「この世でもあの世でも、賢い人は幸福に生きるのだ」というのは、釈尊の言葉です。仏陀は、地雷があるところに旗を立てているだけです。人間はそれを見て、仏陀は先へ進みたい人を邪魔しているのだと苦情を言っているのです。
 人生は、貪り、怒り、競争心、嫉妬、裏切り、無知などの地雷で、埋め尽くされているのです。闇雲に「成功を収めたい」と思って人生を走る人は、地雷を踏んで破滅する恐れが高いのです。全てのものごとに対して悟っている仏陀の話を信頼する人は、地雷を避けて人生の道を見事に進んで、安穏の境地に至るのです。
 このエピソードに最後に出てくる偈に、「だから掘りなさい」という行があります。これは、知足の原理のもとで正しく経済活動をすれば、幸福になるので努めなさい、という意味です。
 あとの行には「掘り過ぎは罪である」とあります。人はたとえ環境を破壊しても資源がなくなっても、金儲けに狂って、ガン細胞のように事業を拡大するのです。人間が今の調子で進めば、幸福になるどころか、地球の生命がみな滅びるという恩恵にあずかるのです。ですから経済活動のやり過ぎは、生命の息の根を止めてしまう行為なので、罪なのです。
 「知足」の原理のもとに人生設計すると、地球上の人間も他の生き物も、地球が存在する限りは、どこまででも幸福に生き続けることでしょう。「掘り過ぎは破綻する」という言葉は、核兵器まで用いて戯れようとする、欲にイカレた現代人に対する忠告のような言葉です。
◎photo:The Old Wells by Live Zakynthos〈flickr〉 ◎photo:Bonito Park by Coconino National Forest〈flickr〉
▼引用ページURL 「古井戸の話」 http://www.j-theravada.net/jataka/jataka-0308.html

~生きとし生けるものが幸せでありますように~







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スマナサーラ長老が取材を受けてるときの動画を編集したPRビデオです。<7分30秒>
 




協会のfbより紹介です。






押せば リンク先に跳びます。

過剰なエゴを捨てれば楽になる! 日本各地で講演や対話を行うスマナサーラ長老が…


videotopics.yahoo.co.jp

スマナサーラ長老が取材を受けてるときの動画を編集したPRビデオです。





#jtba 手放せばあなたは変わり始める! モノも心も「ためない生き方」の智慧

SBクリエイティブOnlineに、スマナサーラ長老インタビュー動画が公開されました。

Youtube版はこちら↓

https://youtu.be/DSJgRooeI5c











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雨安居入り法要 クサラダンマ長老の法話





ゴータミー精舎のfbより紹介です。







雨安居入り法要 クサラダンマ長老の法話

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法要初参加

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