協会の記事ではありません。
サークル仲間の一日一誤日記です。
葛原 良和
日ごろの怠け生活により、急激な体重増加の悪循環に陥っている状況を一旦停止すべく、下記の一週間の無言行に参加しました。
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スマナサーラ長老ご指導
誓教寺仏道実践会 6 泊 7 日 in ふれあいパーク
瀬戸内海に浮かぶ島々のパノラマを一望できる岩国市銭壷山山頂の宿泊施設において、合宿仏道実践会を開催します。
緑に包まれた静寂な環境での 6 泊 7 日。
世俗の世界を離れ、ひたすらヴィパッサナーに専念できる稀有な機会です。
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この、こころと身体に瞬間・瞬間生れて消える感覚をひたすら観察する機会を与えていただきました。
下記の写真のように光が、、、、
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17日に名古屋で開催された「初期仏教花まつりデー」に参加した。
花まつりとはお釈迦さまの「誕生・成道・般涅槃」を祝うおまつりということで、祭り行事は好きではないとおっしゃる長老もいつもよりは優しく目に映った。
10年前から名古屋にスマナサーラ長老が来てくださるようになり、毎年「花まつり」にかかわることが出来るようになった。
甘茶をかけるのは日本独特の文化だそうで、まことに古い話だが、わたしが上野市の白鳳幼稚園の園児であった頃、誕生仏に甘茶をかけたり、象さんの台車をひいたりした体験の感触が蘇えった。
お祭りということでみんなで思い思いのものを持ち寄ってお祝いするのだが、奥様は書の展示ということでダンマバダ(法句経)を題材にした色紙を制作された。
最後に「釈迦牟尼仏陀の世界」という小冊子を解説していただき長老と一緒に読んで慈悲の実践をした。
慈悲のこころは、何かを信じるということではなく、すべての生命が平等で幸せでありますようにと思える自分のこころを育てるということだと思いました。
写真はfb友達の加納さんより提供していただきました。
協会の記事ではありません。
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昨日、いつもの大型書店に行ったらスマナサーラ長老の「一日を変えるブッダの教え」が10冊ぐらい置かれてあったので買った。
田舎の書店なのに読む人こんなにいるのかなあ?
まえがきにはいきなり「まず、お詫びを申し上げなくてはいけないのです。この本は読みやすいと思えないからです。」
との長老節が炸裂している。
この本だけではなく長老の本は全部読みにくいでしょう!と言いたくもなる。
例えば、No.19は「好きを追って、不幸にたどり着く」というテーマだが、私のように、好きだけを追いかけている者にとっては、実に耳もこころも痛いのだ。
しかし、私の認知症対策としては、耳の痛い話を聞くことが有効だと思うので読みなさいと言い聞かせている。
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葛原 良和さん
スマナサーラ長老ご指導
誓教寺仏道実践会
瀬戸内海に浮かぶ島々のパノラマを一望できる岩国市銭壷山山頂の宿泊施設において、合宿仏道実践会を開催します。
緑に包まれた静寂な環境での 6 泊 7 日。世俗の世界を離れ、ひたすらヴィパッサナーに専念できる稀有な機会です。
というキャッチコピーに乗って山口県由宇青少年自然の家にての一週間の合宿に行ってきました。
朝・夕の読経の時間以外はプログラム・フリーにて、電話やメールやネットに繋がることの無い、集団生活ですが、無言にての自由行動での一人生活でした。
生きているということはいったいどういうことなんだろう、どうなっているんだろうと、瞬間、瞬間、自分のこころと身体に生じる現象を観察し、確かめ調べることのできる環境を用意していただきました。
スマナサーラ長老、誓教寺さん、スタッフのみなさん、ありがとうございました。
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NHKでチャリダーという番組があり録画するようになった。
先週はペダルの漕ぎ方について、床にガムの食べかすがあり、それを剥がすようなつもりでペダルを引き上げる(私の記憶が間違っている可能性あり)というアドバイスがあった。
先日、試してみたらアララすごく楽でスムース、いつもの坂道もスイスイ登ってしまった。
ペダルは押すものと子どもの頃から思い込んでいたが、見事にひっくり返った。
思えば、自分の思い込み(これが正しいという決めてあるもの)と事実が正反対であったことが今までも数多くあった。
サックス奏法にしても上記のペダルの件と同じで、息を吹き込まなければ鳴らないと思っていたが、肺にある空気の圧力を制御(調御と言う方がぴったり)するということが理に副っていると意識するようになった。
「押すより引く」は自分が自分がという自我から身を守るありがたいキーワードかも知れない。
般若心経の中に「転倒夢想」という文字があったことも思い出した。
自分が自分がという衝動から見えてしまう世界(自己中心発想)は事実が逆さまに見えてしまう(だって、世界は私のためにあるわけない)。
その自分がつくり出した妄想世界にて私は生きていく羽目になっているのだ。
先ずは、「今、このように見えている」と観察することがやるべきことだと思った。
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昨日は名古屋初期仏教デーの花まつりに参加した。
スマナサーラ長老によれば、誕生仏に甘茶をかけるのは日本の仏教の独自の文化だそうだが、60年もの時を経ても記憶の感覚は蘇る。
当時、私は近所の白鳳幼稚園の園児であった。
花御堂の誕生仏を見ていると、象が乗っている台車をみんなで引っ張ったり、甘茶をかけてお菓子を食べたり、という幼児の世界が拡がった。
写真は奥様の力作の法句経の書の展示。
釈尊の言葉に接すると、かく在りたいと願うこころが出てくるが、と、言ってもねえ。という慣れ親しんだ怠けこころが直ぐに顔を出すのだ。
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三月はスケジュール満載の月だった。
しかし、予定が無くなると引きこもり老人のぼんやり暮らしになってしまう。
昨日は、サックスのメンテナンス用ドライバーを買いにDIY店に。ついでに隣の書店に立ち寄ってみた。
「老いと死について」というタイトルに惹かれて購入した。
本の帯のコピーも面白い。
第2章「孤独について」
楽しいと思えることを掘り下げましょう
ひとりで過ごすことを日常にする
社会に認められたいと思うのをやめる
第4章「手ぶらで生きると気楽」
「私のもの」ということが成り立たないのだと知ったら、シャボン玉を楽しむような軽い気持ちで生きることができるのです。
などなど、私の現状にピッタリの引きこもり老人やお気楽老人へ応援歌もある。
年老いるのは嫌だとか死ぬのは怖いとかいう感情はあるが、それはそれで放っておいて「老。死。」と素直にお付き合いしたいものだ。
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葛原 良和さんが写真3枚を追加しました。
9日から昨日まで一週間、山口県の誓教寺さんが主催したヴィパッサナー合宿実践会に妻といっしょに参加した。
会場の山口県立由宇青少年自然の家は環境も施設も快適環境だった。
----瀬戸内海に浮かぶ島々のパノラマを一望できる岩国市 銭壷山頂の宿泊施設。----
このような公共施設を借りることが出来るのは、誓教寺さんの地域社会での活動が信頼されているからだと思った。
スマナサーラ長老は冒頭の説法で、「この一週間は生きることは放っておいて、生きるということはどういうことなのかをヴィパッサナーで観察実践してください」(私の記憶なので間違いあるかも?)ということでした。
残念ながら晩年からではあるが、仏教に出会い、師に出会い、修行環境を提供してくださる先輩方に出会い、夫婦で共に修行できることは有り難いことです。
この間、座禅中に頭の中にメロディが流れたのは一回だけだった(なぜかテナー・マドネス)。音楽妄想が出現するの回数が激減したのは修行が進んだからだと思い込みたいが、、、、
今日からまた相変わらずの仏教と音楽の又裂き修行がはじまる。。。
写真は一週間ずっと晴天でおだやかだった瀬戸内の海と展望台への坂道。
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認知症の母親に学ぶ。
昨日、入れ歯が無くなったということで母親の施設に捜しに行った。
冷蔵庫のパックの中から発見、モノを盗られるという強迫観念があり自分で入れたのだが忘れてしまうのだ。
しかし、自分が入れたのだということは認めない。
生物なら誰でも自分の主観で見たり考えたりするしかない。
「私は私の主観で見ている考えている」といくら自分に言い聞かせても、次の瞬間には主観=事実と思い込んで生きてしまう羽目になる。
スマナサーラ長老はこれを、「事実をありのまま見る」ことは難しい。「自分のあってほしいままに見る・聞く・考えるという行為をしているのだ」と言われる。
私も母親も「あってほしいままに見る」という認知状態では同様なのだ。
さて、この問題にたいして、私が今、やれることは「このように見えている・このように感じている・このように考えている」と、起こった感覚の実況中継をするということだと思っている。
主観に縛られてはいるが、起こった感覚の観察とラベリングをしているときは主観(あってほしいまま)が暴走することはない。
とはいえ、私の日常はほとんどがこの暴走状態なので、このまま行けばどこに行き着くかは母親が教えてくれている。
明るく居る、他の生命を慈しむ、感覚を観察するをコツコツとやっていけば、私が認知症になっても明るい、楽しい認知症になれそうだと思っている。
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葛原 良和 ---一日一誤日記
奥様のモノトーンの原画をパソコンに取り込みプリントしたのは私、奥様が一つ一つ絵の具で彩色して完成した。
私の知り合いリストの方には届かないと思うので、Fbにてご覧ください。

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一日一誤日記--------葛原 良和
ガンで入院した友人の見舞いに行ったのだが、病院の駐車場は満車。
仕方なく、少し遠いが津市図書館に駐車。
ついでに本を借りようと入った。
なんとなく書架を眺めていると「養老」という文字が目に入ったので、とりあえずこの本を借りた。
本の中身はあまり覚えていないが、世間の常識や思考は仏教と「顛倒(さかさま)」との対話があったと記憶している。
アマノジャクの私には、読み易く「希望のしくみ」というタイトルも「深すぎる」。
これが「ブッダの仏教」に出会う縁となった。
スマナサーラ長老の法話は私には耳が痛いが、それでも「お釈迦様のことばよりは百倍も優しい」そうです。
私のような老人は叱ってもらえる機会はほとんどなくなった(妻は除外して)。
この本がキッカケで、その悪い性格をなんとか叩き直して、明るく生きなさいと自分に言い聞かせるようになった。
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一日一誤日記--------葛原 良和
ふと、見てみると、奥さんが親子の棲み分けのお世話をしたメダカの子どもが5・6匹に増えて元気にいる。
メダカさん達はこの壺の中で生きているのだが、私も同じで、この必ず壊れる身体の中に閉じ込められている。
世界は広い、宇宙は大きいと自慢しても、それは私のこころと身体の中で生滅している感覚の世界ですね。
その中身を明るく楽しいものにしたいと思いました。
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葛原 良和 一日一誤日記
認知症進行中の母親との会話に学ぶ。
私の日常のこころを観察して、私もそうなりますという立場で照らし合わせてみると、少しはこころの因果関係が見えてくるように思う。
先日のNHKサイエンスZEROを何回も観たが、こころの機能と脳に現れる現象がどのように関連しているのか?最新の脳科学で少しずつ解明されている。
私の老人化が進行していて、放っておくと認知症やうつ病への一直線の道が見えてきた。
番組ではデフォルト・ネットワークと表現されている「こころがぼんやりしている」と「座禅や冥想」での脳の状態が似ていると紹介されていたが、かなり大雑把な説明なので今後の研究に期待したい。
私の上記の体験では、①今の私のこころとからだの感覚はどのような状態か?観察しつつ暮らすこと。②とにかく怒らないこと。
これが、認知症やうつ病への一直線の道から脱出することに役立つと思っている。
人間でも哺乳類でも「こころがぼんやり」は脳にとって必要かつ意味があるということだが、「今のこころの観察」は人間にしかできない。
http://www.nhk.or.jp/zero/contents/dsp469.html
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葛原 良和 一日一誤日記
東京生活3日間。
金曜日から上京、まずは弟の勤務する靖国神社へ、かねてから第2の人生をどんなところで歩んでいるのか見ておきたかった。いい顔してた。
翌日はお釈迦様の祝祭日をお祝いする「ウェーサーカー祭り」に参加した。
ハイライトはスマナサーラ長老、ケネス・タナカ師、宮崎哲弥氏による特別鼎談。現代人の求める仏教とは何か?というテーマだったが、お釈迦様の生き方と教えに触れて私はどのように生きるのか?と自問することとなった。
長老と宮崎氏のやりとりがスリリングで思わず前のめりで聞き入った。
この組み合わせは次なる大爆発を予感させるものだった。
最終日の今日は東京在住の孫と近所の公園にお出かけ散歩。
駆け足だったが充実した日々でした。