2010年2月21日AM11:30 ゴータミー精舎1Fロビーにて。 ※召し上がって頂く前に御坊様から祝福を頂いているときの様子です。 ↓のリンクでは、実際にお坊様にお布施されているメニューを紹介します。 ・2011年1月23日の献立NEW |
パティパダー12月号巻頭法話 に合わせてみました
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334~337.気づきのない行ないをする人にはつる草のように渇愛が増える
ダンマパダ 第24 渇愛の章 334~337. ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します ○片山一良先生訳 人もし放逸に行えば 蔓草の如く渇愛がます 林に果を求める猿の如く かれはあちこち飛び回る 世に蔓延(はびこ)るこの野卑な 渇愛に征服されるならば かれに憂いは増す ビーラナ草が繁る如く 世に超えがたいこの野卑な 渇愛を征服するならば かれより憂いは消え失せる 蓮より水滴が落ちる如く そなたらに告ぐ、幸いあれ ここに集まるそなたらは 渇愛の根をほれ、ビーラナ草を ウシーラ根のために掘る如く 何度も悪魔に破れるなかれ 葦が流れに破れる如く ○日常語訳 気づきのない行ないをする人には つる草のように渇愛が増える 彼は森で猿が果実を求めるように この世あの世を輪廻する この世に執着する卑しい渇愛が 彼を打ち負かすならば 雨が降った後のビーラナ草のように 彼の憂いは増える しかし、この世で克服し難い卑しい渇愛に 彼が打ち勝つならば ハスの葉の水滴のように 彼から憂いが消え失せる 我はここに集まった汝らに説く 汝らよ、幸福であれ ビーラナ草の根のように 渇愛の根を掘り起こせ 汝らよ、アシが流されるように 繰り返し悪魔に破壊されるな ○子供のためのダンマパダ ほしい、ほしいと言う子は ほしい思いが大きくなって ほしい思いで お腹がふくれて苦しくなるよ ほしい、ほしいと言う子は 赤ちゃんのようで格好悪い ほしい思いに負けるなら いつまでも赤ちゃんのようだ ほしい、ほしいと言わない子は 少しで満足できる 不平、不満のない かしい子供のようだ 皆さんが幸せになるように 皆さんに教えます ちょっと見ただけで ほしい、ほしいと思わぬように 持っているもので満足するように 心の強い、かしい子になり 幸せになりますよ ○ひと口メモ 今回の詩から「渇愛の章」が始まります。渇愛とは、一般にはあまり使われない言葉ですが、重要な仏教用語です。意味は「のどが渇いて水を 求めるような貪りの心」です。釈尊がお悟りになって最初の説法をまとめた「転法輪経」があります。その中で、四聖諦が述べられています。第1が「苦の聖な る真理」、第2が「苦因の聖なる真理」、第3は「苦滅の聖なる真理」、第4は「苦滅に至る聖なる真理」です。この第2の苦の原因が渇愛なのです。この「渇愛 の章」を通じて渇愛が何か具体的に明らかになります。 さて、この詩では渇愛の核心に触れる事柄が述べられます。すなわち、「気づきのない行いをする」と渇愛が増えると述べられています。渇愛は眼で好ましい と感じると生じます。耳で好ましいと感じると生じます。鼻で好ましいと感じると生じます。舌で好ましいと感じると生じます。身体で好ましいと感じると生じ ます。意で好ましいと感じられると生じます。ですから、気づきのない行いをすると、眼耳鼻舌身意に現れた渇愛に気づけないないので、渇愛が増えることにな るのです。苦の原因の渇愛が増えるので苦が増えることになります。 以上の説明を踏まえて、この四つの詩のやさしい超訳を試みてみます。 おいしそうなかおりがするな メロンが乗ったケーキだ、食べたいな 前の店には、夏用ファッション 心には欲しいエネルギーが増えているのに気がつかない 死ぬ間際まで、欲しい、欲しいと思っていると 欲しいエネルギーは身体は死んでも続く 欲しい、欲しいのエネルギーは 生きたい、生きたいのエネルギーと混じり どんどん増えるが 欲しくてもすべては得られないのが現実 生きたくとも必ず死ぬので 悩み苦しみはどんどん増える しかし、押さえ難い欲しいエネルギーに 打ち勝つならば ハスの葉の上の小さな水玉がポロリと落ちるように 悩み苦しみがきれいに消える お釈迦さまは集まった人々に 次のように教えました 皆さん、幸せになってください 雑草の根を掘り起こすように 欲しい欲しいの思い渇愛を 根から掘り起こしなさい 二度と渇愛が現れないように 以上ですが、前回、前々回のこの詩に相当するブログ記事は6本になりますが、時間のあると時、是非お読み下さい。 ○前回までのこの詩に関するブログ記事 前回 *334.気づきなく果実求める猿のよう渇愛増やせば輪廻続ける http://76263383.at.webry.info/200908/article_22.html *335.336.執着の基の卑しき渇愛に打ち負かされて憂いが増える http://76263383.at.webry.info/200908/article_23.html *337.草の根を掘り起こして枯らすように渇愛抜いて幸福であれ http://76263383.at.webry.info/200908/article_24.html 前々回 *334.気付きなく果実求める猿のよう渇愛増やせば輪廻続ける http://76263383.at.webry.info/200810/article_13.html *335.336.執着の基の卑しき渇愛に打ち負かされて憂いが増える http://76263383.at.webry.info/200810/article_14.html *337.草の根を掘り起こして枯らすように渇愛抜いて幸福であれ http://76263383.at.webry.info/200810/article_15.html ○パーリ語原文 334. マヌジャッサ パマッタチャーリノー Manujassa pamattacārino, 人間の 放逸な 行いをする タンハー ワッダティ マールワー ヴィヤ taṇhā vaḍḍhati māluvā viya; 渇愛は 増大する つる草 のように ソー プラワティー フラーフラン So plavatī hurāhuraṃ, 彼は 漂う この世あの世を パラミッチャンワ ワナスミ ワーナロー phalamicchaṃva vanasmi vānaro. 果実を求めるように 森で 猿が 335. ヤン エーサー サハテー ジャンミー Yaṃ esā sahate jammī, 人を この 打ち勝つ 卑しい タンハー ローケー ヴィサッティカー taṇhā loke visattikā; 渇愛が 世間に 執着して ソーカー タッサ パワッディンティ Sokā tassa pavaḍḍhanti, 憂いが 彼らに 増大する アビワッタンワ ビーラナン abhivaṭṭhaṃva bīraṇaṃ. 雨が降った後のように ビーラナ草 336. ヨー チェータン サハテー ジャンミン Yo cetaṃ sahate jammiṃ, 人が しかしこの 打勝つ 卑しい タンハン ローケー ドゥラッチャヤン taṇhaṃ loke duraccayaṃ; 渇愛を この世で 征服しがたい ソーカー タンハー パパタンティ Sokā tamhā papatanti, 憂い 彼らから 消え失せる ウダビンドゥワ ポッカラー udabinduva pokkharā. 水滴のように ハスの葉の 337. タン ヴォー ワダーミ バッダン ヴォー Taṃ vo vadāmi bhaddaṃ vo, 人々に 汝らに 説く 幸福であれ 汝らよ ヤーワンテッタ サマーガター yāvantettha samāgatā; それだけ ここに 集まった人々 タンハーヤ ムーラン カナタ Taṇhāya mūlaṃ khaṇatha, 渇愛の 根を 掘り起こせ ウスィーラットーワ ビーラナン usīratthova bīraṇaṃ; 根のように ビーラナ草の マー ヴォー ナランワ ソートーワ Mā vo naḷaṃva sotova, なかれ 汝らよ 葦の 流され ように マーロー バンジ プナップナン māro bhañji punappunaṃ. 悪魔が 破壊する 何度も 〇詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。 〇慈悲の瞑想 ~私は幸せでありますように~ ~私の悩み苦しみがなくなりますように~ ~私の願いごとが叶えられますように~ ~私に悟りの光が現れますように~ ~私は幸せでありますように(三回)~ ~私の親しい人々が幸せでありますように~ ~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~ ~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~ ~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~ ~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~ ~生きとし生けるものが幸せでありますように~ ~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~ ~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~ ~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~ ~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~ ~私の嫌いな人々も幸せでありますように~ ~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~ ~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~ ~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~ ~私を嫌っている人々も幸せでありますように~ ~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~ ~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~ ~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~ ~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~ (この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。) ================================ ~~~~~お 知 ら せ~~~~~ ◎今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』バナーのクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。一日一回お願いします。 ================================ |
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
Yoshiko Demura/出村佳子さんのブログより 紹介です
預流果に覚る条件4
マハーナーマ経
スマナサーラ長老法話
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これまでのお話 → マハーナーマ経・預流果に覚る条件
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続いて、お釈迦様は「肉体」について説かれました。私もヴィパッサナー瞑想を指導するとき、肉体というのは生ゴミのようなものだから肉体のことは気にしないでくださいと言いますが、その根拠はこちらにあるのです。
肉体とはどのようなものでしょうか? お釈迦様は次のように説かれました。
・肉体は物質でできています。(物質とは地水火風のことです)
・父親と母親によってできたものです。(父親の肉体の一部と母親の肉体の一部をほんの少しずつもらってできた肉体です)
・ご飯や穀物など毎日いろいろな食べ物を注入して膨らました肉体です。(ときどき「私の体格はいい。背も高いし、筋肉も鍛えてある」などと肉体自慢をする人もいますが、それはただ食べ物をどのくらい注入したかということです。肉が多いだけで、そんなのは本当は自慢にならないのです)
・肉体は毎日毎日、瞬間瞬間変化しています。(変化するたびに、修理や修復をしなければならないものです)
生命は変化しているがゆえに、「生きる」ということが成り立っています。母親のおなかの中に生命が芽生えたとき、細胞はたった一つでした。その一つの細胞は、細胞分裂を繰り返しながら絶え間なく変化し続け、肉体をだんだん大きくしていきます。やがて、おなかの中の居心地が悪くなり、おなかから外へ出て行きます。外へ出て行った後も、成長は止まることなく、さらに成長を続け、大きくなっていくのです。
このように、肉体はずっと成長・変化を続けます。でも、その変化のスピードは死ぬまで同じなのです。
一般的に私たちは「子供は成長するのが早いが、大人になったら成長は止まる」などと考えていますが、そうではなく、子供も大人も同じスピードで変化しています。ただ、子供の変化には「成長する」という言葉を用い、大人の変化には「老化する」という異なる言葉を用いているだけで、その変化のスピードは子供も大人も同じなのです。
それから、肉体は変化するたびに、修理や修復をしなければならないものです。たとえばおなかがすいたら、そのたびに何か食べなくてはなりませんし、のどが渇いたら、そのたびに何か水分を補給しなくてはなりません。体調が悪くなれば、薬を飲んだり運動したりしなくてはなりませんし、ケガをすれば、治療しなくてはなりません。このようにして、肉体はずっと修理し続けなくてはならないものなのです。
全て読む
http://yoshikodemura.blogspot.com/2011/11/blog-post_26.html
協会のホームページ より
10.ヴィパッサナー実践のポイント
2003.6.15 於 兵庫県 いたみホール
<A・スマナサーラ長老>
(関西地区月例の「法話とヴィパッサナー冥想会」午後の部、初回参加者に冥想指導をされる前、これから各自で自由冥想をする常連参加者に対して、ヴィパッサナー実践のポイントをお話いただいた「虎の巻」のお話です。)
<毎回、大事なお話のテープを起こして Dhamma West に上げていただいている「ふなはし様」のデータを、ホームページ用に少し手を加えたものです。管理人>
<ヴィパッサナー実践のポイント!>
各自で自由に冥想する方々に、もう一度考え直して欲しいポイントだけ説明します。
● この、特に「時間」というものですね、
我々人間が、同じ時間で沢山のことが出来ると思ってるんです。
分かり易く言えば、本を読みながらラジオを聞くとか、二つも一遍にやっている。
しかし厳密に見ると、それは成り立たないんです。 瞬間の時間で一つの行為しかできない。
ですから自分の命というのは、本当は時間の一本の流れで起きているものなんです。
生きるということは、喋ることも生きる、見ることも生きる、聞くことも生きること、味わうことも生きること、座ることも立つことも生きること、考えることも生きること。
では、 或る一瞬の時間で、ものを見て、聞いて、食べているということはあり得ないんです。
一個の時間単位で一個の仕事しかしない。 それが一般的な知識では分らないことです。
瞬間で一つの仕事しかやってない。 これは真理であって、冥想では発見できるんです。
我々は長い時間丸めて(例えば一秒とか、ものすごい長い時間を取って)いるのに、同じ時間に沢山のことやってると思ってる、同時に幾つかの仕事をしていると勘違いする。 だから問題だらけで何一つも解決出来なくなっている。
仏教では瞬間ということを言っていて、瞬間というのはものすごく速い時間なんです。
光の速度よりは、心の変化速度というのは、かなり速い。
それは、この冥想で何とかして発見する準備をしておかないと、いけないんですね。 そこら辺は気を付けて欲しい。
それで、例えば本を読みながらテレビを聞くというと、一遍に出来ない。
我々は何をやってるかというと、聞く場合は「聞く・聞く・聞く」で、読む場合は「読む・読む」なんですよ。
それで総合的に「聞く・聞く」、「読む・読む」、また「聞く・聞く・聞く」とかね、時々「聞く・聞く・聞く」の方が沢山いっちゃって、それで「読む・読む」という方が少なくなったりして、また「読む・読む・読む」の方が沢山になって、また「聞く・聞く」ということにもなります。
それ、何で出来るかというと、ラジオの声というのはゆっくりのんびり喋ってるんだから、一旦、「聞く・聞く」ということで聞いたところで、次の音が来るまでは結構時間があるんですよ。 その時間がある間で本を読んだりして、そこで又ラジオを聞くということにする。
ラジオの放送で幾つかの言葉を聞かなくっても別に何も損はないんだから、自分がラジオ番組を聞いたつもりになってるんです。 同時に本も読んだつもりになってるんです。
しかし一遍に一つの仕事しか出来ない。
そういうことでこれを発見するためには、心がすごーく集中していると分るんです。
ものすごく強烈に集中してると、一つの瞬間で一つのものしか心は認識しないということが分るんです。
それはすごーい集中力が必要なんです。 走り回っているこころには出来ない。
「聞く」、「見る」、また「読む」、またラジオ「聞く」、「見る」とか色んな事やってるんだからね。
それを発見するために修行する人々は訓練するんですね。
その訓練というのはスローモーションなんですよ。 自分の修行中の行為を全部スローでコマ単位で動かしてみて下さい。
たとえ立つということにしても、仕事は一遍に沢山出来ないんです。
ですからコマ単位で立つ時でも一つ動かして、次の部品を動かして、次の部品を動かして、という感じでスローモーションで修行してみて下さい。
続き
http://www.j-theravada.net/dhamma/oriori10.html
<A・スマナサーラ長老>
2002.1.20 於大阪国際ユースホステル
( 初めて辞書の引き方から教わった宿泊パーリ語勉強会。 翌朝勉強会の準備して先生をお待ちしていたところ。
一言、“パーリ語は午後に勉強しましょう” で始まりました。)
皆様おはようございます、これからVipassana冥想にいたします。
インドの古い迷信によりますと、午前中というのは、大変幸福な時期なのです、午後よりも…。
朝3時4時から昼までということで。
まあその迷信にのって(笑)、 午前中一所懸命冥想してみましょう。
昨晩はじめて指導受けた方々も、今日は歯を喰いしばって説明した通り頑張ってみて下さい。
修行のポイントとして言いたいのは、一旦修行はじめたら「では終了しましょう」と私が言うまで、徹底的に実況中継に徹してください。
一本の鉄の棒のようにキチンとやってみてください。
どんな思考も考え方も入らないようにと厳密に自分の心を守ってみてください。
家のことやら、仕事のこと、自分のことやら、過去、現在、未来、将来、まあ宇宙のこと等、そういう思考等は本当に「汚物だ」と思って下さい。
何か考えちゃうと何ひとつそちらには、真理がありません。智慧でもありません。思考は無知から発生するものです。
思考について説法するとき、また色々説明しますので、まあそちらで分析しなくっちゃいけないんだけど、大雑把に言えば、思考そのものが無知から現れるものなんです、あるいは怒りから、欲から。ほとんど無知からあらわれるものです。
ですから思考そのものは、有難いものじゃ無くて単なる汚物なのです。
じゃ、それがいっぱい頭の中に溜ってたまって、いい顔できますかね。 汚れているんですよ。
ですから我々はそこで、厳密に鉄の壁を作って、心の中に汚物が漏れないようにしておくんです。汚物は危険なものだから、そういうものを心に積み込むと心はドンドン堕落するんです、成長はしません。
それで鉄の壁を作って城壁を作っておくと心はみるみるうちに成長する。
心が成長するためにはほんの瞬間だけでも十分です。すべて瞬間のものだから。
この瞬間を我々は心に与えてあげないんですよ。1秒の1万分の1ぐらいの瞬間で十分です。その瞬間を心に与えてあげないでズーと、この貪瞋痴で、思考で責めているのです。
輪廻というのはそういうことで長くなるのであって、たいした大変なことと言うわけでも無いのです。
ですからほんの1秒だけでも (笑)
心に何も思考が入らないような瞬間をつくられるように…、という事で徹底的に頑張ってみて下さい。
修行はそんなにむつかしい、体力消耗するきびしいものでもないのです。
そのかわり厳しく頑張って守っていただきたいのは、この実況中継して“今”の瞬間に心とまってもらう、それしか無い。
ですからこれから修行始めたら、その瞬間からズーっと実況中継、命かけてやるんだよ、と。
我々は、なにかロープでつながれてすごく険しい崖に半分位降ろされているんだ、だったら自分の命もあのロープが切れたら終わり…、実況中継はそれくらいの気持ちでやってください。
これ手離しすると、妄想しちゃうと、もう命が無くなったというくらい、それくらい真剣におぼえておいて下さい、いわゆる心構えですからね。
それくらいの気持ちでこれから実況中継頑張ってみて下さい。(終)
12時30分集合でお願いします。
以上よろしくお願いいたします。
アラナ精舎日記 の紹介です
アビダンマ基礎講座 you tube
河津さんがアビダンマ基礎講座(金沢)をyoutubeにUPしてくれました。
http://www.youtube.com/watch?
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NEW | パーリ仏典を読む | 11/20 | 沙門果経 第三「出家の倫理的な生き方《大戒》 (25)を追加しました。 |
NEW | ブッダの智慧で答えます | 11/20 | パティパダーQ&A 【88】 善行為を身近に…を追加しました。 |
NEW | ジャータカ 仏教社会学 | 11/20 | 「ジャータカ物語」連載56. ケチケチ大富豪の物語 (1)~を追加しました。 |
NEW | 根本仏教講義 | 11/20 | 「根本仏教講義(162)」 28.希望と欲望 (4)正しい希望の持ち方~を追加しました。 |
jtba_info 日本テーラワーダ仏教協会
日本テーラワーダ仏教協会の情報を発信します。 の紹介です
jtba_info #jtba 大分市あけのアクロスホールでのスマナサーラ長老の講演会『どうしたら心は強くなれますか』Twitter実況のまとめです。 twilog.org/jtba_talk/date… fb.me/1pkNnGq85 21 days ago · reply · retweet · favorite
スマナサーラ長老の法話より(2011年11月18日宮崎市明星寺・四十九薬師霊場会の法要にて)
スマナサーラ長老の法話より(2011年11月18日宮崎市明星寺・四十九薬師霊場会の法要にて)
(招待へのお礼と日本の仏教界へのエール。「どんな宗派でも、仏教のお寺は明るい場所。子供たちはぜひ仏教系の幼稚園に入れてほしい。なぜなら仏教のお寺では宗教で洗脳することはしない。のびのびとした良い子に育ちます」という話を導入に……)
仏教徒にとってお釈迦さまは父親。スリランカでは“釈迦牟尼父上”と呼ぶ。だからお寺に行くことは自分のお父さんのところに行くこと。自分の家のようにリラックスできる場所です。父は子供が至らないことがあっても見て見ぬふりをしてくれる。しかし何か教えなければいけないことがあったら、厳しく教えてくれる。
父親が子に期待するのは、人間として立派に成長すること。ブッダに礼拝したければ、母は自分に何を期待するか、父が自分に何を期待するかと考えてください。私が何をしたら母親が微笑むのか、私が何をしたら父親が微笑むのか、それだけ考えて生きてみれば人生に問題はない。それが仏道を歩むこと。あの世まで待つ必要ないんです。
何かしようとするときに、これをしたら母が喜ぶか、父が喜ぶかと考えれば、人生は幸福になります。この世で自分の子供に嫉妬怒り憎しみで生きてほしいという親はいない。いたって簡単です。親が微笑む、親が喜ぶと思うことをして生きてください。それが仏道を歩むこと。
お墓参りすることは仏教ではないんです。それは日本の文化であって、仏教は世界のものです。お墓参りはけっこうなことですが、仏教がお墓参りではない。仏教はいかに生きるのか、いかに完璧に生きるのかを教える教えです。ですから仏教はいつでも役に立ちます。24時間、生まれてから死ぬまで、臨終の瞬間まで、人を助けてくれる。
何をしたら自分は仏教的になるのか?という疑問が起こるでしょう。難しいお経を引用したってわからない。いたって簡単な方法があるんです。お釈迦様が私たちの父親ですから、父だと思って接すればいいんです。皆さんにも父、母がいる。そのご両親がよかったなぁと思ってくれるような生き方をする。それが仏教を歩むことになるんです。その思いが、24時間我々を守ってくれるんです。
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http://www.facebook.com/note.php?note_id=306290929400516
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
Yoshiko Demura/出村佳子さんのブログより 紹介です
預流果に覚る条件3
スマナサーラ長老法話
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これまでのお話 → マハーナーマ経・預流果に覚る条件
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②Siilaparibhāvitam cittam
「戒(道徳)」によって心を育てる
条件の第二番目は「siilaparibhāvitam cittam」です。
「siila」とは道徳的な生き方のことです。
世の中には「戒律を守るなんて、まっぴらごめんだ」と言う人が、結構います。でも本当は戒律を守って道徳的な生き方をすることこそが、人格を向上させる道であり、人の心を自由にさせる道なのです。
心の自由とは何でしょうか?
それは、何があっても落ち着いていられる心のことです。道徳を守って生活していると、世の中のどんなことにも足を引っ張られなくなる強い心が育つのです。
世間では「自分の心の声に従って生きましょう」と言い、そのように生きることが自由だと考えているようですが、本当にそうなのでしょうか? では皆さま、ご自分の心に「自分は本当は何をやりたいのか?」と正直に聞いてみてください。
心の声に従うとひどいことになるということがおわかりになるでしょう。心というのは、本当は自分を不幸にするようなことしか考えていないのです。欲張りたい、酒を飲みたい、嘘をつきたい、怠けたいなど、心のままに生きることこそが、不幸で不自由になる道です。そこで幸福で自由になりたいなら、私たちは心の声に逆らって生きるべきなのです。
在家の方に薦めている戒律は、たった五つしかありません。
・殺生しないこと
・盗まないこと
・嘘をつかないこと
・淫らな行為をしないこと
・酒や麻薬を摂らないこと
の五つです。これらは実践です。
長いあいだ戒律を守って正しい生き方をしていると、人格が大きく向上していきます。そして自由に、気楽に、幸福に生きていくことができるのです。周りの人たちからも信頼されるようになるでしょう。
「仏教の戒律は厳しくていやだ」と言う人がいますが、厳しいどころか、本当は戒律ほど人に親切な教えはないのです。
③Sutaparibhāvitam cittam
「学習(聞)」によって心を育てる
全てを読む
http://yoshikodemura.blogspot.com/2011/11/blog-post_13.html
2011-11-14
山形での報恩講で話したこと
「お釈迦様の念仏、私たちの念仏」
■[ひじる日々][現代仏教論]
山形での報恩講で話したこと
「お釈迦様の念仏、私たちの念仏」
2011年11月13日、
懇意にさせていただいている山形県の真宗寺院で
「報恩講」の講演をしました。
その内容(草稿に当日の概要を加筆)をシェアします。
本日は親鸞聖人七五〇年大遠忌という大切な年に●●寺の報恩講にお招き頂いたことを、●●寺の皆様、ご門徒の皆様に心より御礼申し上げます。
私はテーラワーダ仏教というインドからスリランカや東南アジアに伝えられた仏教を学んでいます。今日は浄土真宗で大切にされている「念仏」という言葉について、私が勉強してきたことからお話したいと思います。浄土真宗の教えについて詳しくないのでトンチンカンなことを言ってしまうかもしれませんが、ご寛恕ください。
念仏とは、2600年前のお釈迦様の時代からあった仏教用語です。
インドの言葉で、Buddhānussati (ブッダーヌッサティ)・仏隨念(ぶつずいねん)と言います。
Buddha(ブッダ、仏)とAnussati(随念)に分かれます。AnussatiはSati(サティ)という言葉からできた熟語です。Sati(サティ)・念 は、「気づく、注意する、心にとめる、憶えておく」といった意味になります。
単独でSati(サティ)・念という場合は、「気づく、注意する」の意味が前に出ます。八正道の「正念」の意味もそれです。具体的には「気づきの冥想」「ヴィパッサナー冥想」です。いま・この瞬間の自分に気づくという修行です。
Anussati(アヌッサティ)・隨念という場合は、「心にとめる、憶えておく」という意味が強くなります。仏法僧の徳を念ずる 仏法僧のことを心において忘れないことです。
『旗先経』(パーリ相応部)という経典があります。森のなかで修行する僧たちの心が恐怖に覆われて、身の毛のよだつ思いにとらわれ、修行することに挫けてしまいそうな時、仏法僧を念ずることで、心を奮い立たせるのだ、とお釈迦様は、がアドバイスします。「阿修羅との戦争で神々がひるみそうになった時、神々の王である帝釈天の旗を仰いで勇気を奮い立たせるように」という例えが出てきます。
つづく 全てを読む
http://d.hatena.ne.jp/ajita/20111114
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
Yoshiko Demura/出村佳子さんのブログより 紹介です
マハーナーマ経:預流果に覚る条件2
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これまでのお話 → マハーナーマ経(1)
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お釈迦様はマハーナーマにこのように言いました。
Mā bhāyi mahānāma, mā bhāyi mahānāma apāpakaṃ te maranaṃ bhavissati, apāpikā kālakiriyā.
「恐れるなかれマハーナーマ、恐れるなかれマハーナーマ、なんじは不幸な死には至りません。幸福に逝くでしょう」
パーリ語の「bhaya」は、恐れること、怖がること、心配すること、という意味で、お釈迦様はこの言葉を二回くり返して言います。
「Apāpakaṃ te maranaṃ bhavissati」は「あなたの死は、不幸な死にはなりません」という意味です。「Pāpaka」は、専門用語では「不善」や「罪」という意味ですが、この場合は「不幸」や「悪い」の意味で理解しなければなりません。たとえば、何か仕事をして失敗してしまったとき、パーリ語では「pāpakaṃ」と言います。いわゆる「失敗だ、ダメだ、うまくいかなかった」ということです。ここでは罪という意味ではなく、不幸や悪いという意味です。それから、この語には「a」という否定の意味の接頭辞が付いていますから、「悪くない」「不幸ではない」となり、文全体の意味としては「マハーナーマよ、そんなに心配するな。あなたの死は悪いことにはなりません。不幸にはなりません」となるのです。
「apāpikā kālakiriyā」も同義語で、「あなたが亡くなっても決して不幸にはなりません」という意味です。
でも、この言葉だけを聞くと、ちょっと宗教的な話にも聞こえ、ただ信仰すればいいのではないか、と思う方もいるかもしれません。ここで気をつけなければならないのは、マハーナーマという人は世間一般の人とは違い、お釈迦様の親戚でもありますし、お釈迦様に頻繁に会って説法を聞いていた熱心な仏教徒です。ですから仏教の理解や修行というのは、私たちよりも遥かに上なのです。
お釈迦様は次に、なぜマハーナーマにそのように言ったのかと、理由も述べます。仏教はいつでも証拠や理由を出して話すのです。
Yassa kassaci mahānāma, dīgharattaṃ saddhāparibhāvitaṃ cittaṃ, sīlaparibhāvitaṃ cittaṃ,sutaparibhāvitaṃ cittaṃ, cāgaparibhāvitaṃ cittaṃ, paññāparibhāvitaṃ cittaṃ, tassa yo hi khvāyaṃ kāyo ruupī cātummahābhuutiko mātāpettikasambhavo odanakummāsuupacayo aniccucchādanaparimad–danabhedanaviddhaṃsanadhammo, taṃ idheva kākā vā khādanti, gijjhā vā khādanti, kulalā vā khādanti, supānā vā khādanti, sigālā vā khādanti, vividhā vā pānakajātā khādanti, yañca khvassa cittaṃ dīgharattaṃ saddhāparibhāvitaṃ, sī– laparibhāvitaṃ, sutaparibhāvitaṃ, cāgaparibhāvitaṃ, paññāparibhāvitaṃ, taṃ uddhaṃgāmī hoti visesagāmī
全てを読む
http://yoshikodemura.blogspot.com/2011/11/blog-post.html