Sabbe satta bhavantu sukhitatta
Yoshiko Demura/出村佳子さんのブログより 紹介です
http://homepage3.nifty.com/sukha/index.html
預流果に覚る条件(最終)
スマナサーラ長老法話
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これまでのお話 → マハーナーマ経・預流果に覚る条件
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三番目の経典があります。これはこれまで説明してきました一番目と二番目の経典と同様、釈迦族のマハーナーマさんのエピソードを用いて、別の表現で「預流果の特色」を説明している経典です。
経典の初めのところは同じですので省略いたします。
マハーナーマさんが、同じ釈迦族のゴーダさんのところへ行き、質問するところから始まります。マハーナーマさんもゴーダさんも預流果に覚っていましたから、預流果同士の会話です。ただ同じ預流果でも、人によって言葉の表現上、微妙に個人差があるのです。でも中身や内容は同じで、預流果に覚っているという事実に変わりありません。それをこの経典で説明しているのです。
釈迦族のマハーナーマが釈迦族のゴーダのところへ行き、このように言いました。
「ゴーダよ、あなたはどのように思うか。どのぐらいの特色(能力)が身に付けば預流果だと言えるか。堕落せず確定して解脱へ向かうのか」
ゴーダは答えました。
「私は三つだと思う。三つの特色が身に付けば預流果だと思う。仏陀にたいする揺らぎない信と、法にたいする揺らぎない信と、サンガ(僧・僧団)にたいする揺らぎない信を確定していることである」
ゴーダさんは「仏法僧にたいして揺らぎない信が確定していれば預流果です」と言いました。いわゆる、仏陀の九つの特色と、法の六つの特色と、サンガ(僧・僧団)の九つの特色は「そのとおりである」と、しっかり確信していることです。ゴーダさんは自分が預流果に覚っていて、自分の経験から語っているのであり、他人から聞いた話をただ言っているわけではありません。自分の預流果の状態を、そのように説明したのです。
次に、ゴーダがマハーナーマに尋ねました。
「あなたはどう思うか。どのぐらいの特色が身に付けば預流果だと言えるか」
マハーナーマは答えました。
「私は四つの特色が身に付けば預流果だと思う。仏陀にたいする揺らぎない信、法にたいする揺らぎない信、サンガにたいする揺らぎない信を確定していること、そして戒律を守っていることである。壊れることなく汚れることなく破れることなく、戒律を守っていることである」
このように、二人は意見がちょっと異なりました。ゴーダさんは「三つの条件が揃えば預流果だ」と言い、マハーナーマさんは「四つの条件が揃えば預流果だ」と言いました。ただ意見が異なっても、二人は仏教徒で預流果に覚っていますから、ごちゃごちゃくだらない喧嘩や言い争いはしません。
そこで意見が分かれましたが、それぞれがしっかりした意見ですから、これは二人にとっては解決することができません。それでゴーダさんはこのように言いました。
「マハーナーマよ、待とう。これについてはお釈迦様にお尋ねしよう。どちらの意見が完成された正しい意見かは、お釈迦様しか分からないのだから」
そこで、マハーナーマさんとゴーダさんはお釈迦様のところへ行き、礼拝して座りました。マハーナーマさんはお釈迦様の意見を聞く前に、先にお釈迦様にこれまでの二人の意見の違いについて話し、続けてこう言いました。
「あることに関して、比丘サンガ全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います」
すべての比丘サンガが一貫して述べる意見であっても、それがお釈迦様の意見と違っている場合は、マハーナーマさんは何の躊躇もなく、お釈迦様の意見が正しいと決めるのです。つまり、マハーナーマさんはそこまで仏陀のことを信頼しているということなのです。さらにマハーナーマさんは続けて言います。
「あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。
あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。
あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員と在家の女性全員が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います。
あることに関して、比丘サンガ全員と比丘尼サンガ全員、在家の男性全員と在家の女性全員、すべての神々、悪魔、梵天、沙門、バラモン等、すべての生命が一つの意見で、お釈迦様だけが別の意見をもち、意見が異なった場合、私はお釈迦様の意見に従います」
この経典で何が言いたいのかといいますと、「仏法僧にたいする揺らぎない信を確立する」とは、このぐらいの自信があるということなのです。神々、梵天、悪魔であろうが、比丘・比丘尼サンガ全員であろうが、在家の男性・女性全員であろうが、誰であろうが、皆が一つの意見をもっていて、お釈迦様が別の意見を言うなら、私は「お釈迦様が正しい」と、お釈迦様に従います。これは口先だけでなく、自分自身でしっかりと「お釈迦様が正しい」と理解して確信しているのです。これが「揺らぎない信」ということです。
このように、マハーナーマさんはお釈迦様の意見を聞く前に、自分がどれほどお釈迦様を信頼しているかということを言いました。世界の生命すべてが「違う」と言ったとしても、私は「お釈迦様が正しい」ということを、そこまで確信していますよ、と。
では、なぜマハーナーマさんは先にそのようなことをお釈迦様に言ったのでしょうか? ゴーダさんとマハーナーマさんの意見はそれぞれ違っていました。それでもし万が一お釈迦様が、ゴーダさんの答えが法に合っていますと言われたならば、王家であるマハーナーマさんの立場が悪くなります。それでも、お釈迦様はマハーナーマさんの立場などを全く気にせず回答してください、と言いたかったので、マハーナーマさんは仏法僧に対する揺らぎない信があることを発表したのです。
お釈迦様はマハーナーマさんの言ったことに、何も言いませんでした。そしてゴーダさんにこう聞きました。
「マハーナーマがこのように言っているが、あなたはマハーナーマにたいし、何か言いたいことはあるか?」
ゴーダは答えました。
「何も言うことはありません。(マハーナーマのお釈迦様にたいする揺らぎない信は)すばらしい。見事です」と言いました。
ここで経典は終わっています。中途半端なようですが、わざと終わっているのです。ゴーダさんの言ったことについて、お釈迦様は何も答えていません。
そこで結論は何かと言いますと、「マハーナーマさんの言うことはその通りである」ということです。「預流果の条件は四つで、戒律は必要」ということなのです。
だからといって、ゴーダさんの意見が間違っているということではありません。これは言葉上の問題だと思います。ゴーダさんも預流果ですが、戒律の条件は言いませんでした。それはおそらくゴーダさんにとっては戒律を守ることは当たり前で基本的なことで、誰でも守らなければならないもので、特別に預流果の条件として出さなくてもいいのではないか、仏法僧にたいする揺らぎない信を確定することの方を強調した方がいいのではないか、という気持ちがあったからかもしれません。
しかしマハーナーマさんはそうではなく、「戒律を守ることも預流果に覚る条件である」と、はっきり言い、お釈迦様も「その通りである」と示されたのです。
(了)
編集文責 Yoshiko Demura
アラナ精舎日記 の紹介です
アラナ精舎に住んでいる坊さんの独り言です。宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会 アラナ精舎の正式ブログではありません。 ミャンマーの第六結集に基づくテーラワーダ仏教の教義とマハーシ長老のヴィパッサナー瞑想法を基本にしております。もし教義的内容に疑問のある方は他のミャンマーの長老にご確認ください。教義上問題があれば直ぐに訂正いたします。
アラナ精舎に住んでいる坊さんの独り言です。宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会 アラナ精舎の正式ブログではありません。 ミャンマーの第六結集に基づくテーラワーダ仏教の教義とマハーシ長老のヴィパッサナー瞑想法を基本にしております。もし教義的内容に疑問のある方は他のミャンマーの長老にご確認ください。教義上問題があれば直ぐに訂正いたします。
2011年12月26日月曜日
「世界平和パゴダ」休館 再開へ出資者募る
西日本新聞 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/279248
「世界平和パゴダ」休館 再開へ出資者募る
門司港地区の観光名所のひとつで、日本唯一のミャンマー式寺院「世界平和パゴダ」が23日、資金難のため休館した。旧ビルマ政府と住民有志らが1958年に建立して以来、太平洋戦争のビルマ戦線復員兵らでつくるパゴダ奉賛会が運営費を負担してきたが、会員減に伴い運営が困難となった。2人いたミャンマー人僧侶も既に帰国した。奉賛会は「出資者を募り運営を何とか再開したい」としている。
パゴダとはミャンマー様式の仏塔のことで、門司港などからビルマ(現ミャンマー)へ出兵して亡くなった兵士の慰霊と世界平和を願い、門司区の和布刈(めかり)公園内に建立された。敷地内には、仏塔の寺院のほか、僧侶が生活する僧院など計4棟の建物がある。拝観料は大人百円で、1日に数人が訪れていた。
所有する宗教法人「世界平和パゴダ」の理事会が23日開かれ、正式に休館を決定。寺院は門が閉ざされ、参拝できないようになっている。
理事会などによると、パゴダの運営費は、僧侶の食費や光熱費で年間約400万円。奉賛会などの寄付金で運営していた。しかし、約2千人いた奉賛会会員は現在約80人。10年ほど前から、積み立てていた資金を切り崩して運営費をまかなっていた。現在、奉賛会には約1千万円の資金があるが、老朽化した僧院の解体費や休館中の寺院の維持費に充てるという。
今後、新たな僧院の建設費と運営費の出資者を募り、僧院の建設計画やミャンマーから僧侶を呼び寄せる計画を練るという。奉賛会の三木恭一会長(93)は「あらゆる手段を講じたが難しかった。休館は残念で仕方ない」と話した。
=2011/12/24付 西日本新聞朝刊=
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記事には帰国とありますが現在お二人の長老は中板橋のミャンマー寺に滞在しています。
詳しい内情やその後の予定はお聞きしていません。
現在の法人役員や会員の高齢化が大きいのでしょう。
大きな新興宗教には使い切れないほどお布施が集まっているので
平和パゴダに気前良くお布施してくれるとありがたいですね。
パティパダー1月号巻頭法話 に合わせてみました
ワンギーサ比丘のブログ 困ったときはダンマパダ の紹介です
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338---渇愛に捕まった人々はわなにかかった兎のように震えてる
ダンマパダ 第24 渇愛の章 338 ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ Namo tassa bhagavato arahato sammāsambuddhassa 阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します ○片山一良先生訳 338. 根が傷つかず、堅固なら 樹は切られても、また育つ 渇愛の根も断たれなければ この苦しみは何度も起こる ○日常語訳 338. 根が安全で強固ならば 木が切られても再び成長するように 潜在する渇愛が根絶されない限り この苦しみは何度も現われる ○子供のためのダンマパダ 目を赤くしてふるえてる つかまったウサギのように ほしいほしいと思う子は もらえなければ悲しいし もらえても、なくなるのが心配で いつもいつもおびえてる ○ひと口メモ 338番 昨日説明しました渇愛というものは、多くの植物のように枝や幹を切られても、根が残っていると再生するなかなかしぶといものなのです。私には渇愛がなくなったと思っても、心のどこかに潜んでいた渇愛は条件は整うとまた何度でも現れます。ですから、渇愛は根まで残らずなくさなければいけません。 ○前回までのこの詩に関するブログ記事 前回 338.渇愛の根の根絶がない限りこの苦しみはまた現われる http://76263383.at.webry.info/200908/article_25.html 前々回 338.渇愛の根の根絶がない限りこの苦しみはまた現われる http://76263383.at.webry.info/200810/article_16.html ○パーリ語原文 338. ヤターピ ムーレ アヌパッダヴェー ダルヘー Yathāpi mūle anupaddave daḷhe, であれば 根が 安全で 強固で チンノーピ ルッコー プナレーワ ルーハティ chinnopi rukkho punareva rūhati; 切断されても 木が 再び ように 生長する エーワンピ タンハーヌサイェー アヌーハテー Evampi taṇhānusaye anūhate, ならば 潜在する渇愛が 根絶されない ニッバッタティー ドゥッカミダン プナップナン nibbattatī dukkhamidaṃ punappunaṃ. 起こる この苦が 再三再四 〇詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。 〇慈悲の瞑想 ~私は幸せでありますように~ ~私の悩み苦しみがなくなりますように~ ~私の願いごとが叶えられますように~ ~私に悟りの光が現れますように~ ~私は幸せでありますように(三回)~ ~私の親しい人々が幸せでありますように~ ~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~ ~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~ ~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~ ~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~ ~生きとし生けるものが幸せでありますように~ ~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~ ~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~ ~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~ ~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~ ~私の嫌いな人々も幸せでありますように~ ~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~ ~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~ ~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~ ~私を嫌っている人々も幸せでありますように~ ~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~ ~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~ ~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~ ~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~ (この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。) ================================ ~~~~~お 知 ら せ~~~~~ ◎今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』バナーのクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。一日一回お願いします。 ================================ |
11時会場----11時20分まで受け付けます。
11時までに 第2和室に集合お願いします。
食事御布施会
11時までに集合
11:15~12:00
(11:30までが準備時間です。
11:30頃よりお食事を始めていただきます。)
場所---第2和室
【食事御布施会・紹介】
西澤先生(ウ・コーサッラ長老)をお招きしての冥想と勉強会の時、
午前中に食事のお布施をする事があります。
テーラワーダでは、2550年前から今迄変わらず、
在家がサンガの皆様の食を支えてきました。
東海ダンマサークルでは、みんなで持ち寄ったお弁当の中から、
ひと匙の食事を差し上げています。
遠くから、お釈迦様の教えを伝えに来て下さるお坊様を、
この一口のお布施が支えるのです。
とても意義のある行為です。
どうぞ皆さんも食事のお布施にご参加ください。
なぜかとても元気になれます。あわせな気分になります。
卵焼き一切れ、おむすび一つでかまいません。
皆さんでサンガの命をつなぎましょう。
誓教寺報 の紹介です
http://www.seikyoji.jp./index/index.html
最新号ご紹介 |
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http://www.seikyoji.jp./tsukinami/tsukinami1.html
Theravada Online ゴータミー精舎日記 の紹介です
The Chant of Mettā Text 慈しみの声明
(木岡治美訳/ウ・ウエープッラ『南方仏教基本聖典』参考)
私は恨みのない人間であらんことを。
abyāpajjho homi
私は瞋りのない人間であらんことを。
anīgho homi
私は悩みのない人間であらんことを。
sukhī- attānaṃ pariharāmi
安楽に過ごせんことを。
Mama mātāpitu
私の母や父が、
ācariya ca ñātimitta ca
先生や親族や友と、
sabrahma- cārino ca
修行仲間とが、
averā hontu
恨みのない人間であらんことを。
abyāpajjhā hontu
瞋りのない人間であらんことを。
anīghā hontu
悩みのない人間であらんことを。
sukhī - attānaṃ pariharantu
安楽に過ごせんことを。
Imasmiṃ ārāme sabbe yogino
ここに居る、すべての修行者たちは、
averā hontu
恨みのない人間であらんことを。
abyāpajjhā hontu
瞋りのない人間であらんことを。
anīghā hontu
悩みのない人間であらんことを。
sukhī - attānaṃ pariharantu
安楽に過ごせんことを。
Imasmiṃ ārāme sabbe bhikkhū
ここに居る、 すべての比丘たちと、
sāmaṇerā ca
沙弥たちと、
upāsakā - upāsikāyo ca
優婆塞たちと優婆夷たちは、
averā hontu
恨みのない人間であらんことを。
abyāpajjhā hontu
瞋りのない人間であらんことを。
anīghā hontu
悩みのない人間であらんことを。
sukhī - attānaṃ pariharantu
安楽に過ごせんことを。
Amhākaṃ catupaccaya - dāyakā
衣類・食事・臥具・薬を施す者たちは、
averā hontu
恨みのない人間であらんことを。
abyāpajjhā hontu
瞋りのない人間であらんことを。
anīghā hontu
悩みのない人間であらんことを。
sukhī - attānaṃ pariharantu
安楽に過ごせんことを。
Amhākaṃ ārakkhā devatā
私たちの守りとなる神々は、
Imasmiṃ vihāre
この精舎における、
Imasmiṃ āvāse
この住まいにおける、
Imasmiṃ ārāme
この園における、
ārakkhā devatā
(私たちの)守りとなる神々は、
averā hontu
恨みのない存在であらんことを。
abyāpajjhā hontu
瞋りのない存在であらんことを。
anīghā hontu
悩みのない存在であらんことを。
sukhī - attānaṃ pariharantu
安楽に過ごせんことを。
Sabbe sattā
すべての衆生、
sabbe pāṇā
すべての(呼吸する)生類(五蘊をそなえた生命)、
sabbe bhūtā
すべての生きもの(無想有情天と無色界の生命)、
sabbe puggalā
すべてのプッガラ(神々、人間等)、
sabbe attabhāva - pariyāpannā
すべての身体に含まれたもの(卵など)、
sabbā itthiyo
すべての女性、
sabbe purisā
すべての男性、
sabbe ariyā
すべての聖者、
sabbe anariyā
すべての聖者ならざるもの、
sabbe devā
すべての神々、
sabbe manussā
すべての人々、
sabbe vinipātikā
すべての悪趣に堕ちたものたちは、
averā hontu
恨みのない存在であらんことを。
abyāpajjhā hontu
瞋りのない存在であらんことを。
anīghā hontu
悩みのない存在であらんことを。
sukhī - attānaṃ pariharantu
安楽に過ごせんことを。
Dukkhā muccantu
苦しみから脱せんことを、
Yatthā -laddha -sampattito māvigacchantu Kammassakā
業を受け継ぐ生命は、正しく得た富を失うことのなからんことを。
Puratthimāya disāya
東方、
pacchimāya disāya
西方、
uttarāya disāya
北方、
dakkhiṇāya disāya
南方、
puratthimāya anudisāya
北東方、
pacchimāya anudisāya
南西方、
uttarāya anudisāya
北西方、
dakkhināya anudisāya
南東方、
heṭṭhimāya disāya
下方、
uparimāya disāya
上方[に住む]、
Sabbe sattā
すべての衆生、
sabbe pāṇā
すべての(呼吸する)生類(五蘊をそなえた生命)、
sabbe bhūtā
すべての生きもの(無想有情天と無色界の生命)、
sabbe puggalā
すべてのプッガラ(神々、人間等)、
sabbe attabhāva - pariyāpannā
すべての身体に含まれたもの(卵など)、
sabbā itthiyo
すべての女性、
sabbe purisā
すべての男性、
sabbe ariyā
すべての聖者、
sabbe anariyā
すべての聖者ならざるもの、
sabbe devā
すべての神々、
sabbe manussā
すべての人々、
sabbe vinipātikā
すべての悪趣に堕ちたものたちは、
averā hontu
恨みのない存在であらんことを。
abyāpajjhā hontu
瞋りのない存在であらんことを。
anīghā hontu
悩みのない存在であらんことを。
sukhī - attānaṃ pariharantu
安楽に過ごせんことを。
Dukkhā muccantu
苦しみから脱せんことを、
Yatthā -laddha -sampattito māvigacchantu Kammassakā
業を受け継ぐ生命は、正しく得た富を失うことのなからんことを。
Uddhaṃ yāva bhavaggā ca
上は有頂(天)に至るまで、
adho yāva avīcito
下は無間(地獄)に至るまで、
samantā cakkavāḷesu
あまねくこの世界において、
ye sattā paṭhavīcarā
大地の上に棲まう衆生は、
abyāpajjhā niverā ca
瞋りなく、恨みない生命であらんことを。
nidukkhā ca nupaddavā
苦しみのない、災難のない生命であらんことを。
Uddhaṃ yāva bhavaggā ca
上は有頂(天)に至るまで、
adho yāva av īc ito
下は無間(地獄)に至るまで、
samantā cakkavāḷesu
あまねく世界において、
ye sattā udakecarā
水中に棲まう衆生は、
abyāpajjhā niverā ca
瞋りなく、恨みない生命であらんことを。
nidukkhā ca nupaddavā
苦しみのない、災難のない生命であらんことを。
Uddhaṃ yāva bhavaggā ca
上は有頂(天)に至るまで、
adho yāva av īc ito
下は無間(地獄)に至るまで、
samantā cakkavāḷesu
あまねくこの世界において、
ye sattā ā k ā s e c a r ā
空中に棲まう衆生は、
abyāpajjhā niverā ca
瞋りなく、恨みない生命であらんことを。
nidukkhā ca nupaddavā
苦しみのない、災難のない生命であらんことを。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
※パーリ語で唱えられている『慈しみの声明』テキストとその日本語訳です。
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
Yoshiko Demura/出村佳子さんのブログより 紹介です
預流果に覚る条件(6)
スマナサーラ長老法話
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これまでのお話 → マハーナーマ経・預流果に覚る条件
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多くの方が仏法僧を信じていますし、戒律も守っています。でも「あなたの信は確かですか? 揺らがないですか?」と聞くと、「私はちょっと自信がありません……」と言う人がほとんどです。
もし、いかなる場合でも「私の仏法僧にたいする信は変わらない」という自信があり、「誰に、どんなに誘惑されても、私は戒律を破りません」という決意があるなら、預流果です。
この「破るはずがない」という堅固な信、それがあれば預流果なのです。
「状況によって、どうするかわかりません。破るかもしれません……」というのは、なさけない生き方です。「今日は嘘をつきませんが、明日はわかりません。時と場合によって嘘をつくこともあります……」と言うならば、人格的にはまだまだしっかりしてないということです。
人格者というのは「破りません」と、はっきり決まっているのです。
預流果に覚っているなら、「仏法僧にたいする信」が揺らぐはずがありません。戒律に関しても、誰に何を言われても、「絶対に破りません」という堂々たる態度です。恐い上司に脅されても、「私はやりません」と、はっきりしています。
では、殺されそうになったら?
冗談じゃない。たとえ自分が殺されそうなっても、戒律を破ることはありません。そのぐらい堅固な確信があり、そのように生きているなら、預流果の境地なのです。
預流果に覚ったら、解脱は確定です。堕落することはありません。地獄に落ちることも決してないのです。
天界など幸福な次元に生まれ変わるのですが、どこに生まれ変わっても解脱の方へ引かれ、解脱の方へ進んでいきます。ですから、仏教徒は誰でも「預流果に覚ること」を目指して頑張るのです。
(続きます)
編集文責:Yoshiko Demura