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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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日本テーラワーダ仏教協会 更新情報


   場 所日 付  内 容
NEWブッダ智慧えます02/28パティパダーQ&A
【91】 無知の直し方…を追加しました。
NEW表紙02/22NEWS
アルボムッレ・スマナサーラ長老
【最新刊】
 『無我の見方』
『一生、仕事で悩まないためのブッダの教え』




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協会 更新情報 | 08:59:48 | トラックバック(0) | コメント(0)
今年の3冊
今年の3冊

1.

無我の見方 (「私」から自由になる生き方) アルボムッレ・スマナサーラ (単行本 - 2012/2/24)

新品: ¥ 1,575

2.

これでもう苦しまない (学研新書) アルボムッレ スマナサーラ、 Alubomulle Sumanasara (新書 - 2012/1/17)

新品: ¥ 777





ひとり言 | 09:58:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
協会直販の法話DVD目録(2012年2月版)


協会直販の法話DVD目録(2012年2月版)

| | コメント(0) | トラックバック(0)
※全タイトル1枚お買い上げ毎に200円を「慈しみ募金」に拠出します。
 

 

日本テーラワーダ仏教協会が頒布する、スマナサーラ長老の法話DVD&CD-R目録(2012年2月版)です。以下のリンク先よりダウンロードしてください。

「法話DVD&CD-R目録(2012年2月版)」PDFをダウンロード


◆購入方法について

事務手続きの都合で先入金とさせていただいております。

郵便局の郵便振替用紙の備考欄にご希望のDVD,CD-Rの商品番号(V-192等)を記載して、合計金額を下記口座までお振込みください。※DVD,CD-Rの送料は無料です。

口座番号・名称:00120-5-763914 
日本テーラワーダ仏教協会

【他行からのお振込み用の場合】
ゆうちょ銀行 〇一九 店(ゼロイチキユウ店)当座 0763914

事務局で入金を確認後、商品を発送いたします。
(通常、入金から7日~10日程度でお手元に届きます。)

送付先の住所は漏れ無くご記入下さいますようにお願いいたします。

ご不明の点はinfo@j-theravada.net までメールでお問い合わせ下さい。(担当:佐藤)

通信販売法に基づく表記

店舗名
こころを育てる本屋さん
販売業者
宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会
運営責任者
小西 淳一
所在地
〒150-0072
東京都渋谷区幡ヶ谷1-23-9ゴータミー精舎
電話番号>
03-5738-5526
FAX番号
03-5738-5527
商品代金以外の必要料金
消費税5%、送料
申込の有効期限
受注後14日間
不良品
返送後、良品交換または返金
販売数量
お問い合わせによるメールまたはFAXにてご案内
引き渡し時期
在庫のある物は即時発送、無い物は入荷次第発送(納期が遅くなる場合は別途納期連絡)
お支払い方法
郵便振替、銀行振込、代金引換
お支払い期限
代金前払い(入金確認後に商品発送。代引きは事前発送)
返品期限
納品日より7日以内
返品送料
お客様のご都合による返品のみお客様負担


~生きとし生けるものが幸せでありますように~


お知らせ | 14:52:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
パティパダー3 月号巻頭法話 に合わせてみました


パティパダー3 月号巻頭法話 に合わせてみました

ワンギーサ比丘のブログ    困ったときはダンマパダ    の紹介です


困った時はダンマパダ

プロフィール

ブログ名
困った時はダンマパダ
ブログ紹介
 ダンマパダという釈尊の詩集があります。これは智慧の詩集なのです。しかし、日本人にはまだあまり知られていません。そこで、少しでも多くの日本人にこの詩集を知ってもらいたいと思いこのブログを書くことにしました。タイトルの「困った時は・・・」は私が困った時はダンマパダを参考にすると意味ですが、皆様にもきっと役に立つと思います。尚、ダンマパダの解説も書いてありますが、私の師匠であるスリランカのスマナサーラ大長老に教わったことであります。しかし、誤りがあればそれは私の誤解によるものであります。(2008.11.15更新)




338~343.渇愛に捕まった人々はわなにかかった兎のように震えてる
ダンマパダ 第24 渇愛の章 338~343

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo   tassa   bhagavato   arahato    sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


○片山一良先生訳
 340.
どこにも流れは流れゆき
また蔓草は生じ、とどまる
その生じた蔓草を見て
慧によりその根を断つがよい

○日常語訳
 340.
渇愛の流れはどこにでも流れ
葛のような渇愛は芽を出す
その繁茂する葛を見て
その根を智慧によって切り取れ
比丘は自分の離貪を望んで


○子供のためのダンマパダ

目を赤くしてふるえてる
つかまったウサギのように
ほしいほしいと思う子は
もらえなければ悲しいし
もらえても、なくなるのが心配で
いつもいつもおびえてる

目を赤くしてふるえてる
つかまったウサギのように
ならないために
かしこい子供は
ほしい、ほしいと思わずに
どんなものでも満足するよ


○ひと口メモ


340番
 蔓草(葛)は地上の部分の繁茂力は強力ですが、それは同時に根の繁茂力も強力です。ちょっとした力では掘りつくせません。ですから、智慧によりその根を切り取れと述べられています。具体的には、観察により、一つの渇愛が現れたまだ弱いうちに切り取るようにするのです。ですから、不放逸、正念が必要なのです。

○前回までのこの詩に関するブログ記事

前回


339~341.渇愛は三十六の流れなりその貪欲は彼を押し流す
http://76263383.at.webry.info/200908/article_26.html


前々回


339~341.渇愛は三十六の流れなり欲に基ずく見解運ぶ
http://76263383.at.webry.info/200810/article_17.html

 

○パーリ語原文

340.
サワンティ    サッバディ    ソーター
Savanti    sabbadhi     sotā,
流れる      すべての所に  流れは


ラター   ウッパッジャ    ティッタティ
latā    uppajja      tiṭṭhati;
葛は    芽生えて      繁茂する


タンチャ    ディスワー  ラタン   ジャータン
Tañca    disvā     lataṃ    jātaṃ,
その  又 見て       葛の    発生を


ムーラン    パンニャーヤ      チンダタ
mūlaṃ    paññāya       chindatha.
根を        智慧によって   切断せよ



〇詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

================================
~~~~~お 知 ら せ~~~~~

◎今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』バナーのクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。一日一回お願いします。

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ひとり言 | 09:56:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
【完全予約制】初期仏教月例講演会(2012年03月18日)「サンガに帰依する」ってどういうこと? ~三宝のひとつ「僧宝」入門~ 予約フォーム


提供: 日本テーラワーダ仏教協会

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【完全予約制】初期仏教月例講演会(2012年03月18日)

「サンガに帰依する」ってどういうこと? 

~三宝のひとつ「僧宝」入門~ 

講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老 

宗派を問わず仏教では、何よりもをする時も、まず「三宝」に帰依することから始めます。三宝とは、仏(ブッダ)、法(ダンマ)、僧(サンガ)です。このうち、意外と分かりにくいのが僧(サンガ)です。日本語では僧というのは一人のお坊さんを指します。しかし経典でサンガという場合は、お釈迦さまの出家弟子グループ(僧団)を指します。また、三宝の1つとしての僧(聖なるサンガ)は、お釈迦さまの教えを受けて修行して覚りに到った聖者の方々を指すそうです。今回の月例講演会では、仏教におけるサンガとは何かについて、経典から考察してみましょう。お釈迦さまが定めた出家サンガの運営管理術(マネジメント)から、私たちが学ぶべきポイントも探してみたいと思います。 

***** 

日時:2012年3月18日(日)14:00~17:30(終了予定) 
    (受付開始13:00~) 

場所 国立オリンピック記念青少年総合センター・センター棟417号室 

定員 300名(先着順) 

*完全予約制の講演会です。当日券の発行はありません。 
予約なしに来場いただいても入場できませんので、必ず事前にお申し込み下さい。 
(申込締切3月16日17:00pm) 

*受付返信がない方は、予約が取れておりません。 
当日入場できませんので、再度お申し込み手続きをお取り下さい。 

*300人定員の無料講演会です。 
希望される方がより多くご参加いただけますよう、皆さまのご理解とご協力をお願いいたします。当日キャンセルは極力されませんように、お申込みお願いいたします。 
また、事情によりおいでいただけない場合は、申込締切3月16日17:00pm迄にご連絡をお願いいたします。(ご連絡無くキャンセルされた方は、次回以降ご予約を見合わせていただく場合がございます。ご了承願います。) 

*会場の国立オリンピック記念青少年総合センターへのお問い合わせはご遠慮ください。

*予約フォームはこちらです。   http://kokucheese.com/event/index/25366/
※完全予約制です。当日券の発行はありません。必ず予約の上ご来場ください。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~


協会 更新情報 | 09:10:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
我々、パーリ語で仏教を学ぶ人々は最後の最後に学んでみようかな~と挑戦する一番、難しいものです。怖くて触りたくもない経典です。
テーラワーダ仏教普及委員会 ブログより

No.375 ブッダは「単独行動」に自信あり 5 
  No.374 法話集目次 8 HOME



講義1の元になる経典を見てみましょう。
私は普通の常識を破る、聞いたことが無い革命的な話を一杯、言ってきたでしょう。その参考になる経典があります。その経典の中で一つを紹介します。
その経典は皆様も知っていると思います。それはSuttanipata-Khaggavisaanaです。「犀の角」と言う有名な経典です。「ブッダの言葉」というタイトルでN先生の訳で出ています。
かなり前に出版されて誰からも愛読されている本です。立派な日本語でとても分かりやすく訳されていますが、これが翻訳できる教えではありません。
我々、パーリ語で仏教を学ぶ人々は最後の最後に学んでみようかな~と挑戦する一番、難しいものです。怖くて触りたくもない経典です。
しかし、日本の方々が仏教を勉強したい、学びたいと思ったら先ず、これを読みますね。私は何時でも、これ止めなさい、と言いたいのです。
それで仏教のABCも知らない人が読んで「ああ、分かった」と言うから私に結構、批判されるでしょう。しょうがいないんです。

経典の1番目 テキストの35番目の偈
 Sabbesu bhuutesu nidhaaya dandam,
 Avihethayam anntarampi tesam,
 Na puttamiccheyaa kuto sahaayam,
 eko care khaggavisaanakappo.

できるだけN先生の訳を入れました。しかし、読んでみると間違っている箇所があります。日本の仏教学者の中で王様の中の王様と言えるほど立派な方です。
だから決まりとしてN先生にだけにはケチを付けるなと。そのくらい尊敬されていますけど。私はその世界から離れているので、その気になったらケチを付ける可能性があります。
1つ、このタイトル。学者が皆「犀の角」と訳しますが、これが既に間違いです。何故かというとパーリ語でkhaggaは本当は(つるぎ)という意味、刀です。
次に、visaana という言葉があるでしょ? 角という意味ですね。それで「剣の角」と訳した方がいいのですが、意味はそうではない。

動物の名前を付ける場合はパーリ語、サンスクリット語ではある決まりがあります。形容詞を名詞にする。
例えば、思考する生きもの。だから思考する者ですね。それをやるヤツと言えば? 人間でしょ? だから「人間」という言葉は「思考する者」という意味から出来ている。
で、「人間」と訳すべきところを「思考する者」と訳したらおかしいでしょう。

お腹を足にするもの、という言葉があります。それuraga と言います。
ura とはお腹のこと。ga はmove 動く。お腹で動く、と言えば誰? 蛇でしょう。だからuraga は辞書で蛇と訳します。
だからKhaggavisaana と言えば、角が剣の様な形をしている。その形の角は犀以外、誰にも無い。太くて前がちょこっと尖っていて、どう見ても刃物に見える。曲がった剣ですね。
アラビアの物語に出て来る様なのがあるでしょう。だから角がその様な形の動物、という意味で犀なのです。だから「犀の角の如く」と訳すともうおかしくておかしくて、意味が通らない。
だからタイトルからして間違いというかね。何故かというと英語に訳す学者たちもRhinoceros horn と訳します。 
sutta Rhinoceros horn は一寸、やり過ぎ。知ったかぶりをしたところで間違ってしまったという。

意味は
「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や(いわん)朋友をや。
(これからが一寸、おかしい →)犀の角のようにただ独り歩め」 35
犀の角は一人で歩みませんけど。「犀の如く独りで歩め」ですよ。誰とも関係なく。 犀は何時でも単独行動です。インドには犀はたくさんいますが今は少なくなっていますけど。
現代人が言うには犀の視力が凄く悪いみたいです。2,3m先のものが殆ど見えないみたい。だから一寸でも何かあると向かって行き攻撃をする。だから交尾するのも難しい。
動物園では一緒にいますが、なかなか一緒には生活しない。だから絶滅状態になるのも分かります。まあ、それは最近の知識で、また変わるかもしれませんけど。

そこで3行目を見てください。Na puttamiccheyaa これも提案形です。だからN先生もそのまま提案形で訳していますけど。その場合は別な意味もあります。
自分の生き方を現す時も同じ形式を使う。「そんなにも期待することなく」と。なかれでは無い。
「子を欲することなく」です。それだったら「況や朋友をも」と、いうことになります。だから微妙なところですが意味がガクッと変わっちゃいますよ。
で、これ専門的に見ると変わりますから、私たちは凄く怖いんです。ここで何を言うのか、というと生命の生き方の反対です。

私はブッダの言葉の裏を使って講義の1をやりました。生命は食うか食われるか、だと。
nidhaaya dandam(1行目) dandamは武器ですね。生命は誰でも武器を持って生きている。何か獲物は無いのかい?という感じで。これは人間であれば誰でも同じです。
動物は生れ付き武器を持っています。我々、人間は生れ付き武器は持って生まれませんね。しかし、思考する、という武器を持って生まれる。これが蛇の毒と同じく武器です。
蛇は毒で獲物を捕る。鷲は翼を使って飛んで来て鋭い足でパシっと獲物を捕っちゃいますね。

ペンギンは鳥のくせに飛べないし歩けない。何をやっているのか、と聞きたいんだけど。でも、海の中に入ったら魚より速く泳げる。それでいくらでも魚を捕る。
人間も知識という武器を持っていて、それで獲物を捕っている。人間は色々な道具を作っていますけど、その道具は知識で作った。
例えば、知識だけでは獲物は捕れないでしょ? あの鹿が美味しそうだなあ、じゃあ、倒れろ!倒れろ!と言っても倒れませんね。走ったら人間より速いし。
石を投げたり棒を投げてみたりしても駄目ですね。逃げられちゃう。それで弓や矢を考えた。だから人間の場合は武器は思考です。
それで生命が食うか食われるか、という生き方をしている。

ブッダの世界では【一切の武器を降ろす】 これ大胆な意味です。
食うか食われるかの生き方を全部、止める。だから想像できません。生きる道と丸っきり違う道です。

「武器を持たないぞっと」というと皆様の気持ちで理解するでしょ? それは余りにも何かチッポケな理解です。
これは99%以上の人が武器を持っていないこの日本で言っても何も意味が無い。それではブッダは偉い、とは言えないでしょう。だからそんな意味ではない。
分かりやすい例を出します。私は呼吸しないで生きることにしました。これ成り立たないでしょう。それくらい厳しいことです。

【一切の生命に対して武器を降ろしました】 これが生命に対しての基本的な生き方。

生きる為には生命を捕って食べなくていはいけない。生命を捕ることが武器です。それを止めた。だから生きることそのものを放棄した。
生きるならば依存型で単独ではできない。だから私たちの頭で理解できる範囲の経典ではありません



ひとり言 | 16:47:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
2/19---日曜自主冥想会--宝珠院 恒例の終わってからの茶話会は今回ありません



2/19---日曜自主冥想会 --宝珠院
恒例の終わってからの茶話会は今回はありません

  宝珠院自主冥想会

 ただし、急な用事が出来た時は、中止の 

可能性はあります。

当日の朝にもう一度お確かめください。

 

  宝珠院   詳しくはここ    会場案内

お願い

だいたいの人数を知りたいので、出席したい人、

出席する人、出席するかもしれない人

下の  を押してください。

もちろん、押してなくても参加できます。

 
思い込みとは、恐ろしいものですね。
2年もお世話になっていながら、お寺の名前読み方間違えていました。
ほうじゅいん  ではなく ほうしゅういん でした。



日曜自主冥想会--
宝珠院

    住職のご好意によりダンマサークルが会場をお借りして

    自主的に実施している冥想会です

参加注意事項---冥想指導長老がみえません ので
    テーラワーダ長老の指導を一度でも受けた方に限ります

  • 予約-------なし
  • 会費------なし(各自でお賽銭をいれる)
    場所-------宝珠院
    住職-------多賀住職
    時間-------13時~18時
  •    13時------------日常読誦経典前半の読誦
  •         その後各自冥想
  •    17時45分-------日常読誦経典後半の読誦
  •    18時------------終了
  •   出入り自由
  • 使用部屋---正面右手入り口より右奥和室
  • 住所------名古屋市昭和区伊勝町2-9
  •         地下鉄東山線本山駅4番出口徒歩15分
  • 駐車場は西北側道路を挟んで10台ほどあります。
  •  奥の広いところは20台ほどあります。
  •  車止めに宝珠院の字が有るところです。
  •  個人が借りているところもあるので注意願います。
  • 追記----会場の都合で時間変更、中止などの時もあります

         当日の朝出かける時にこのブログで確認してからお越しください




ひとり言 | 14:48:02 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba [Dhammacast]日本テーラワーダ仏教協会の情報を発信します。


日本テーラワーダ仏教協会 日本テーラワーダ仏教協会
@jtba_info 東京都渋谷区幡ヶ谷
日本テーラワーダ仏教協会の情報を発信します。
日本テーラワーダ仏教協会
日本テーラワーダ仏教協会




ひとり言 | 09:52:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
No.371 ブッダは「単独行動」に自信あり 1-9   
テーラワーダ仏教普及委員会 ブログより






普及委員会 | 14:40:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
協会 更新情報


   場 所日 付  内 容
NEWパティパダー法話02/112010年4月号(182)

巻頭法話「名声の落とし穴」

を追加しました。
 ジャータカ 仏教社会学02/11チュッラカ長者の話

(その4)重複修正。

お知らせありがとうございました。
NEW根本仏教講義02/01「根本仏教講義(165)」

28.希望と欲望 

(7) 最終回 不満の理解が心を向上させる

~を追加しました。




協会 更新情報 | 09:32:02 | トラックバック(0) | コメント(0)
ダンマジョーティ長老 -慈しみの心-2


Sabbe satta bhavantu sukhitatta
Yoshiko Demura出村佳子さんのブログより紹介です
http://homepage3.nifty.com/sukha/index.html



慈しみの心(2)



 ダンマジョーティ長老 法話

 仏教は「五力」ということを教えています。
 今日は時間があまりありませんので、詳細までは説明できませんが、一つのポイントだけご説明いたします。

 「五力」とは、覚りに必要な五つの力のことで、信・精進・念・定・慧です。
 五つのうち、「信」(確信)と「慧」(智慧)はバランスをとらなければなりません。もし「信」だけが強くて「慧」がなければ、迷信(妄信)に陥ってしまいます。

 現代のテーラワーダ仏教徒は、「信」はあまり必要ないと考える人が結構います。そして、「仏教は徹底的に科学的な教えであり、他の宗教とは違う。仏教は「信」を必要としない」などと言って、仏教は一番優れている、と主張します。現代のテーラワーダ仏教徒はこのように言ってお釈迦様の教えを教えている人が多いのではないかと私は思います。

 しかし、「信」は大事なものです。パーリ語でsaddhāと言い、サンスクリット語でśraddhāといいます。

 仏教でも他の宗教でも、心なしに、ただ頭だけで教えを理解するなら、そこには心が関係していませんから、宗教とは言えません。心が関係していないとなりません。

 たとえば、お釈迦様に礼拝するとします。そのとき、「やらなければならないからお釈迦様に礼拝する」とか「仏教のしきたりだから礼拝しなければならない」と考えるのは、頭での理解のレベルです。

 そうではなく、心で感じて、感情のレベルで礼拝することが大事です。「お釈迦様は広大無辺の慈悲があり、生命が達することのできる最高のレベルまで心を清らかにした偉大なる方だ」などと本当に心で感じることができるなら、そのときは自分が自ずと謙虚になり、自然に礼拝するでしょう。他人に言われて礼拝するのではありません。

 単なる知識のみで、「この教えは論理的で、いい教えだ」と考えて勉強するだけでは、実践しようとする気持ちは起こらないでしょうし、人生も幸福にならないでしょう。
 そうではなく、心で感じるなら、内面から刺激され、実践しようとする気持ちになります。

 どんな経典でも、どんな教えでも、たとえそれらが論理的に正しく、非常に深い哲学であったとしても、もし心で理解しなければ、意味がありません。心で理解したとき、「幸福の道を歩もう、実践しよう」という気持ちが起こるのです。感情のレベルで、心で感じるとき、実践し始めるのです。

 したがって、善い感情は非常に大事です。もしかすると、善い感情は知性よりも大事だとも言えるでしょう。仏教徒として、人間として、善い感情を育てることが大事です。心の内面から善い感情を引き出すのです。

 今日、皆さんはお寺に来て、食事のお布施をしました。おそらく何らかの幸福を感じていると思います。お布施をすることは「信」の一種であり、育てなければならないものです。先生を尊敬することも重要なことです。これも「信」です。このようにして、善い感情を育てなければなりません。

 善い感情の中で最も重要な感情は、慈悲です。慈悲を最高のレベルまで育てるなら、その最高のレベルでは「我」を超えることができます。慈悲の感情を最高レベルまで育てることによって、「無我」(anatta)を感じることができるのです。

 無我とは何でしょうか? 無我とは「我がない」ということで、真の智慧の状態のことです。このとき、慈悲と智慧は同じになり、2つは1つになるのです。 

 このことを実践面でお話いたしましょう。慈悲の瞑想です。通常は説明するのに40分以上かかりますが、今日は時間がないので5分で説明いたします。ポイントだけお話します。

 最初に、自分にたいして慈しみの瞑想をします。「私が幸せでありますように。苦しみがなくなりますように」と心で念じます。

 2番目のステージは、両親・兄弟・友達など自分の親しい人にたいして瞑想します。

 3番目のステージは、好きでも嫌いでもない人にたいして瞑想します。

 4番目のステージでは、嫌いな人・自分を嫌っている人にたいして瞑想します。私たちはどうしても嫌な人にたいして否定的な感情をもってしまいますが、そういう人たちにも、親しい人と同じように「幸せでありますように・・・」と瞑想します。

 これで終わりません。さらに慈悲を育てます。
 「この部屋にいる人が幸せでありますように」
 「この建物にいる人が幸せでありますように」
 「この地域にいる幸せでありますように」
 「日本の人々が幸せでありますように」
 「世界の人々が皆、幸せでありますように」
 と慈悲を育てます。

 人間のみならず、すべての生命にたいして瞑想します。
 見えるものも見えないものも、近くにいるものも遠くにいるものも、すべての生命にたいして、できるかぎり慈悲の心を拡げていくのです。

 このステージでは、対象が自分であれ、親しい人であれ、嫌いな人であれ、好きでも嫌いでもない人であれ、区別を乗り越えています。まったく差別も区別もなくなるのです。これを中国語では「無縁大慈」といいます。縁とは対象のことで、対象(の区別)が無くなり、1つになるということです。そこには我はありません。無我を経験するのです。

 最初のステージでは、自分にたいして瞑想しますが、対象は「自分」で、とても狭い範囲で瞑想します。

 次に、親しい人にたいして瞑想すると、対象の範囲が 「自分+親しい人」 になり、拡がります。

 次に、好きでも嫌いでもない人にたいして瞑想すると、対象の範囲がさらに拡がります。

 次に、嫌いな人にも瞑想すると、もっと拡がります。

 このように一つ一つのステージごとに対象が拡がって行き、同時に「我」が薄まっていきます。

 最後に、すべての人間、それから人間だけでなく、見える者も見えない者も、近くにいる者も遠くにいる者も、生きとし生けるものすべてにたいして瞑想します。

 もし、本当にこの瞑想をすべて完全にやり遂げ、最高のレベルまで心を育てたなら、「無我」を経験するでしょう。

 無我を経験するとはどういうことでしょうか? 
 無我は「最高の智慧」ということです。
 低いレベルから高いレベルへと慈悲の瞑想を育てていき、最高のレベルに達したとき、本物の智慧に達するのです。その智慧に達したとき、慈悲と智慧は同じになります。
 ですから、慈悲の心を育てることを軽視しないでください。

 実際、多くの人にとって、(慈悲の)感情を育てることは簡単ですし、力強い方法です。なぜなら、感情は理性よりも心に強く影響を与え、心を強く動かすからです。ですから慈悲の感情を育てることは、心を清らかにするために、とても力強い方法なのです。

 感情の中でも、慈悲の心は最も明るく美しい心です。

 毎日毎日、数分でも慈悲の瞑想をするなら、人生はものすごく美しく豊かになるでしょう。

 (完)

 生きとし生けるものが幸せでありますように




Sabbe satta | 09:30:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
マレーシア出身、香港在住のダンマジョーティ長老


Sabbe satta bhavantu sukhitatta
Yoshiko Demura出村佳子さんのブログより紹介です
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慈しみの心(1)

ダンマジョーティ長老 法話


 この法話は、マレーシア出身、香港在住のダンマジョーティ長老が、東京ゴータミー精舎に滞在中、青年部の方々にたいして説かれた法話です。


 今日は「慈悲」について簡単にお話しいたます。
 一般的に「慈悲」と言われますが、実際は 「慈悲喜捨」の4つです。4つはそれぞれ質が異なり、区別されています。

 慈は「幸せであってほしい」と慈しむ気持ち
 悲は「苦しみがなくなってほしい」と憐れむ気持ち
 喜は「他者の成功を喜ぶ」気持ち
 捨は「落ち着きや平静な心」のことです。

 慈悲喜捨は、感情を清らかにした幸福の状態です。
 この慈悲喜捨の4つの中の1つ、たとえば「慈」(慈しみ)だけでも完全に理解して実践するなら、他の3つ(悲・喜・捨)も理解することができるのです。
 慈しみは仏教の道徳(戒)の基本です。私たちは五戒を守っています。その一つに、「殺生しない」とありますが、皆さんはなぜ殺生しないのでしょうか? なぜこの戒律を守るのでしょうか? 仏教徒だからですか? 先生がやりなさいと言ったからですか?

 五戒は、仏教徒だからとか、先生がやりなさいと言ったから守るものではありません。大事なことは、自分の心で「他の生命が苦しんでほしくない、幸せであってほしい」と感じ、その心から戒律を守るべきなのです。

 戒律を守るときに最も大事なことは、「他人に言われたからやる」というような外的なものではなく、自分の心の中から守ろうとすることが大事なのです。

 ここで、仏教の道徳と他の社会や宗教の道徳の違いがわかると思います。仏教の道徳は、慈しみが基本になっています。

 母親に慈しみがあるなら、その母親にたいして、「このように子供の面倒をみなさい」とか「このように世話をすべきです」などと子育ての方法を教える必要はありません。
 何をすべきか、どうすれば子供をよく育てられるのかを、慈しみのある母親なら知っているのです。
 心から「子供が苦しんでほしくない。幸福であってほしい。自分も苦しみたくないし、幸福でありたい」と願うなら、自ずとどのように行動すべきかということが分かるのです。

 したがって、戒律を守るのは先生が言ったからとか、経典や本に書いてあるから、伝統だから、お釈迦様が教えたから守るのではなく、「自分と他の生命が幸福であってほしい」と願う心があるから守るのです。この心があれば、どのように生きるべきかが分かりますし、そのとき戒律に基づいた生き方ができるでしょう。

 現代のテーラワーダ仏教では、慈しみの重要性がだんだん落ちてきている傾向があります。多くの人は仏教の大学へ行き、テストに合格するために勉強し、知識を得ることを強調しすぎているように思います。もちろん、知識を得ることは大事です。でも、ここで注意しなければならないのは、知識と智慧は別のものだということです。智慧は最も大事なもので、仏教の大きな特徴です。智慧がなければ、解脱はできません。しかし智慧は、経典や仏教の本を読んだり、知識を得たり、話し合いをしても、得られないのです。

 といっても、私たちのような凡人のレベルでは、知識的な理解も必要です。凡人のレベルでは、知識的な理解も重要なのです。
 私たちは瞬間瞬間、判断して生きていなければなりません。たとえば皆さんは今日、お寺に来るという選択をしました。他のところには行きませんでした。その選択は大部分が知識的な理解に基づいているのです。
 知識は解脱の段階では必要ありませんが、仏教を実践するための基本的な知識は必要なのです。

 (続きます) 


 翻訳・文責: yoshiko demura




Sabbe satta | 10:53:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
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