八幡山 宝泉寺 (笛岡泰雲住職) の紹介です
山門--仏教--4 |
仏教 No.4 |
信仰について 帰依三宝の蛇足のようなものですが、信仰について個人的な考えを書いてみます。 仏教は信によって能く入ることを得る。 「信」は(仏)道の元、功徳の母といわれます。 宗教と言えば信じること、信仰することで、信ずる者は救われると信じられているのが一般だと思います。 しかし、裏を返せば、信じない者は救われない、信じない者は罰を受けても仕方がない、教えに背く者は敵で悪魔だから殺しても良いという発想にさえなります。 パーリ聖典などの古いお釈迦様の仏教を学ぶと、お釈迦様が教えられる言葉には、証拠のないもの、自分の感覚で何一つ捉えようのないものは、ひとまず置いて おいて、ただ他の者が言うからと言って信じるな、とか、皆がやっている伝統だからといって信じるな、等というように、わからないものを簡単に信じないで、 試してみたり尋ねてみたりして自分で正しく見た上で、間違いがなければこれは本当のことだと認めるものだというように、しっかり確かな態度が大切だと言わ れます。 有り難い気持ちがするから証拠は無いけれども信じます。 とか、理由もなく感情的に信じたりするのは元々の仏教では感心されません。 証拠は要らないとい うほどに信じている間は当然ながら気にもならないことですが、証拠が要らないと言うことはナニを言っても、どんな出鱈目でも構わないということなのです (当たり前ですが)。 真理と正反対のコロコロ変わる感情の世界になってしまいます。 初めてこのような話を聞いた時、なるほど自分はハッキリと調べたり確かめないでいて、ザッと大まかに認めた方が良いというか大きく優れているほどにも思っていたことを知って驚いたものでした。 よくあることですが、 しかし「アレ」ですね。 そう「アレ」です。 本当に「ナン」なモンですなぁ。 ちょっと「アレ」持ってきてくれ。 などと、私たちは、はっきりした名前や言葉を使わないで、 「アレ」とか「ナニ」とか「アノ」とか、何にでも当てはまる言葉で、お互いに通じ合うと思っており、日常生活でよく使っております。 悟りの言葉でもあるような中国禅宗の「是什麼物恁麼来」(モという字が出ないので「麼」で代用)などの「什麼(ナニ)」「恁麼(インモ)」も、間違いな く真実を言い表す言葉かも知れないけれども、「アレ」とか「ナニ」というようにハッキリ言わないでおいて、わかっているもの同士には伝わっていると思って いることにしている「ナニ」な言い方であり、通じない物にはチンプンカンプンです。 通じていると思っている者も実のところは「アレ」かも知れません、それも「ナニ」なのです。???まったく禅問答みたいですね。 続きはここhousen.main.jp/bukkyou/bukkyou-4.html |
2012年12月29日土曜日
今年もお世話になりました。
今年は2012年でアセンションが始まったそうです。
ある人の話しによれば意識の次元が変わったので直に悟れるようになるそうです。
有難いですね(笑)
人類が簡単に悟る以前に戦争、貧困、餓えなどが無くなって欲しいのですが未だに人類は貪瞋痴で生きているようです。
仏教の世界観は仏滅後時代がたつにつれて悪くなると言っています。
お釈迦様の時代から別の教祖は時代が経つにつれて自然と清まって行き全ての衆生が悟るという教えもありました。
アセンションと似てませんか?
1999年に世紀末で人類が滅ぶので成就者を一万人?出せば救われると布教し出家を薦めたのは麻原でした。
「100匹目のサル」という疑似科学の影響と言われています。
1999年が何事も無く終わったとたんに2012年で商売を始めた連中がいます。
2012年で何事も無ければ今度は何を言い出すのか楽しみです。
疑似科学やスピリチュアルの与太話に騙されないように気をつけましょう。
波動とか、量子力学とか、エネルギーという言葉を使って科学的に聞こえるスピリチュアルな話は注意が必要だと思います。
今年もお世話になりました。
来年が良い年になりますように願っています。
トーバッティー の紹介です
ミャンマーでの出家生活をありのまま報告。
Dipa Ma

1911年『ディパマ』は東部ベンガル(現在のバングラディッシュ)のミャンマーとの国境近くのある村で古代インド仏教徒の末裔であるバルワ族として生まれる。
彼女が生まれた頃には瞑想する人々もほとんどいなくなっているほど仏教の伝統は消えてしまっていたが、ごく少数の家族だけがその伝統を堅く守り続けていた。
その中にはディパマの家族も含まれていた。
ディパマは幼少の頃から両親よりお布施する人を差別しないという事を教わり、行ってきた。
また、別の子供達とはあまり遊ばず、他の女の子達は人形で遊んだりするのだが彼女は仏像を彫るという特別な趣味があった。
彼女は当時の民族習慣に習い、12歳で学校を辞めさせられて25歳の男性と結婚させられた。
その後、夫の仕事の関係でミャンマーのヤンゴンに渡り、新しい生活を始める。
20年以上経っても子供が出来なかったが、ディパマが35歳の時女の子を授かるが、3ヶ月で病気で亡くしてしまう。
4年後に再び女の子を出産、その後には待望の男の子を身ごもるも出産途中で亡くしてしまう。
数年して故郷の両親の死を知り、また夫を病気で亡くして7歳の娘一人と二人きりになってしまい深い悲しみの中で何をしたらいいのか、どこへ行ったらいいのか、あるいはどのように生きて行ったらいいのか分からなくなり持病である心臓病も悪化していった。
続きはここ
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三谷 順一さんの感想 (12月23日(日) パーリ語勉強会)

昨日、今年最後のパーリ語勉強会が終わった。
ここで感想を書くのは初めてだが、昨日の講座が勉強会が始まって2年ちょっと。やっと、スッタニパータ「犀の角」の講義が完結したことと、自分なりにも一区切り付いた思いがあったので書き込みを思い立った。
パーリ語の勉強は,一言で言って面白い。難しいけど面白い。
何が面白いかと言って、日々時々に自分を支えてくれるお経の文面に接するこということもひとつである。
接 するとは、パーリ語を和訳したとき。と言っても、ほとんど先生の講話を聞いて初めて和訳の意味を理解するのであるが、パーリ語と和文では語句の並び順や、 変化(曲用とか活用と言った文法的な変化)が全く違うので、難解な謎を解いたときのような開放感と同時に、経文の意味することの深い教えがそこからよみが えってくるときである。
まさに、長老達から教えられる法の力が身近に感じられ、また、お釈迦様が話していた、使っていた言語であるということで、2600年経っても聖地ブッダガヤを訪れたくなる仏教徒の心境に似ている。
確かに、「パーリ語は難しい!」とか、「もう既に和訳があるではないか」とかの意見はあるのだけど、プチ学者(仏教学者)の気分になりたいことと聖なることに接していたいという気持ちがそうさせます。
まだまだ、一人では和訳などほど遠いことであるが、一歩でもと。
スッタニパータ「犀の角の経」最終行。
Bhajanti sevanti ca kāraṇatthā, nikkāraṇā dullabhā ajja mittā;
Attaṭṭhapaññā asucī manussā, eko care khaggavisāṇakappo
トーバッティー の紹介です
ミャンマーでの出家生活をありのまま報告。
喧嘩両成敗
ほぼ同時期に来てこれまで3ヶ月余りに亘ってマハーシ瞑想センターで瞑想していた日本人瞑想者の2人が、先日サヤドーの指示で強制的に退去させられた。
強制退去の理由は喧嘩、瞑想センター内で取っ組み合ったのか殴り合ったのか知らないが傷を作るまで派手にやったらしい。
親子くらい年が離れた2人であったが、ここまで頑張っていたのにとても残念である。
喧嘩の理由は何であれ、ここでの修行はもう許されない。
腹が立つ事もあるかもしれない、悲しい思いもするかもしれないし辛い事もあるかもしれない。
無神経に必要のない事を話しかけて来てあなたの瞑想を妨げる人がいるかもしれないし、無礼な態度を取る人がいるかもしれない。
思い通りにならない事は沢山ある。
苛ついて我慢ならない感情が溢れて来るような時もあるかもしれない。
しかし、そのような時にはその嫌な感情に巻き込まれずにそれをただ心の目でじっと見ること、それらの感情が自分に生じている事を認識する事が瞑想なのです。
自分が瞑想をしに来た事を、それをする為にわざわざ日本から数千キロ離れたこの国に来た事を思い出してほしい。
気晴らしに何か新しい行動を起こさないで、そのままその嫌な感情を抑えつけたり逃れようとしないでしっかり向かい合わなければならない。
そうすれば、それができればあなたに起こるすべての妨害は教えになる、そのおかげで順風満帆にやって来た人より遙かにあなたは成長する。
あなたの邪魔をする人があなたの教師となる、そしてその人に感謝の念すら覚えるかもしれない。
これまで生きて来た中で起きた嫌なことや辛い事などもすべて自分にとって必要な事だったことが分かる。
良い事も悪い事も全部ちょうどよかった事を知る。
取っ組み合うべき相手は自分の中にある、自分の外側にはどんな相手もいないのだ。
12月
23日(日) パーリ語勉強会(希望者で申込済の方限定) ---
女性会館第2集会室 パ-リ語勉強会 会員募集
使用部屋---正面右手入り口より左--本堂 ---どちらか
---正面右手入り口より右奥--和室
今年最後の 宝珠院自主冥想会
今年の行事終了です。
親しい方、3人とのしばらくの別れが有り
さみしい思いもしましたが、
行事としては、無事 終了しました。
また、来年も よろしくお願いします。(zaike2号より)
八幡山 宝泉寺 (笛岡泰雲住職) の紹介です
山門--仏教--3 |
仏教 No.3 |
帰依三宝 【三帰依文】 一般の方の中にも「ブッダム・サラナム・ガッチャーミ」という言葉は聞いた方もあると思いますが、 初期仏教では、次のように唱えます。 ■三帰依 ブッダム・サラナム・ガッチャーミ 私は仏陀に帰依いたします。 ダッマム・サラナム・ガッチャーミ 私は法(真理)に帰依いたします。 サンガム・サラナム・ガッチャーミ 私は僧(聖者の僧団)に帰依いたします。 ドゥティヤム・ピ ブッダム・サラナム・ガッチャーミ 再び私は、仏陀に帰依いたします。 ドゥティヤム・ピ ダッマム・サラナム・ガッチャーミ 再び私は、法(真理)に帰依いたします。 ドゥティヤム・ピ サンガム・サラナム・ガッチャーミ 再び私は、僧(聖者の僧団)に帰依いたします。 タティヤム・ピ ブッダム・サラナム・ガッチャーミ 三度私は、仏陀に帰依いたします。 タティヤム・ピ ダッマム・サラナム・ガッチャーミ 三度私は、法(真理)に帰依いたします。 タティヤム・ピ サンガム・サラナム・ガッチャーミ 三度私は、僧(聖者の僧団)に帰依いたします。 先ず初めに唱え、次に再び私は、そして三度私は、というように 一度毎に一回一回きちんと数を間違えなく確認して、三度唱えるのだということを日本語の訳文を見て知ったとき、 これは本当に大切な、凄いことだと思いました。 曹洞宗の三帰依も正式に行うのは3回繰り返し、頭の中で回数を意識しているのですが、 このように、再び、三度、という言葉を付けて唱えるには、文の長さや読む調子の関係などで伝わらなかったものかも知れないと思います。 それはともかく、「ドゥティヤム・ピ …」「タティヤム・ピ …」とパーリ語の響きで意味をしっかり確認しながら、仏・法・聖者の僧団を念じて丁寧に三帰依文を唱えてみると、それだけでも自分のこころが変わる気がします。 生きとし生けるものが幸せでありますように。 ★★★2001年5月、 宝泉寺を会場に行われた初期仏教宿泊実践会で、スマナサーラ長老がご説法された、帰依三宝についてのお話が、日本テーラワーダ仏教協会ホームページにありますのでご覧下さい。 ★★★~仏教は自己責任で帰依します~(折々の法話6) |
山門--仏教-- |
スマナサーラ長老(Ven. Alubomulle Sumanasâra) ………日本在住 | |
1. お布施について 2.お釈迦様は科学者です 3.人は遺体を運んでいる | ![]() |
4. 無価値論(宿泊冥想会の夜に) | |
5. パネルディスカッション報告 『介護問題』について考える | |
6. 三帰依文の由来 | |
7. 冥想会のQ&Aから~死を迎える方法~~食事論~ | |
8. 講演会のQ&Aから~思考・妄想~ | |
9. ヴィパッサナー実践の心構え | |
10.ヴィパッサナー実践のポイント |
9.「ヴィパッサナー実践の心構え」
<A・スマナサーラ長老>
2002.1.20 於大阪国際ユースホステル
( 初めて辞書の引き方から教わった宿泊パーリ語勉強会。 翌朝勉強会の準備して先生をお待ちしていたところ。
一言、“パーリ語は午後に勉強しましょう” で始まりました。)
皆様おはようございます、これからVipassana冥想にいたします。
インドの古い迷信によりますと、午前中というのは、大変幸福な時期なのです、午後よりも…。
朝3時4時から昼までということで。
まあその迷信にのって(笑)、 午前中一所懸命冥想してみましょう。
昨晩はじめて指導受けた方々も、今日は歯を喰いしばって説明した通り頑張ってみて下さい。
修行のポイントとして言いたいのは、一旦修行はじめたら「では終了しましょう」と私が言うまで、徹底的に実況中継に徹してください。
一本の鉄の棒のようにキチンとやってみてください。
どんな思考も考え方も入らないようにと厳密に自分の心を守ってみてください。
家のことやら、仕事のこと、自分のことやら、過去、現在、未来、将来、まあ宇宙のこと等、そういう思考等は本当に「汚物だ」と思って下さい。
何か考えちゃうと何ひとつそちらには、真理がありません。智慧でもありません。思考は無知から発生するものです。
思考について説法するとき、また色々説明しますので、まあそちらで分析しなくっちゃいけないんだけど、大雑把に言えば、思考そのものが無知から現れるものなんです、あるいは怒りから、欲から。ほとんど無知からあらわれるものです。
ですから思考そのものは、有難いものじゃ無くて単なる汚物なのです。
じゃ、それがいっぱい頭の中に溜ってたまって、いい顔できますかね。 汚れているんですよ。
ですから我々はそこで、厳密に鉄の壁を作って、心の中に汚物が漏れないようにしておくんです。汚物は危険なものだから、そういうものを心に積み込むと心はドンドン堕落するんです、成長はしません。
それで鉄の壁を作って城壁を作っておくと心はみるみるうちに成長する。
心が成長するためにはほんの瞬間だけでも十分です。すべて瞬間のものだから。
この瞬間を我々は心に与えてあげないんですよ。1秒の1万分の1ぐらいの瞬間で十分です。その瞬間を心に与えてあげないでズーと、この貪瞋痴で、思考で責めているのです。
輪廻というのはそういうことで長くなるのであって、たいした大変なことと言うわけでも無いのです。
ですからほんの1秒だけでも (笑)
心に何も思考が入らないような瞬間をつくられるように…、という事で徹底的に頑張ってみて下さい。
修行はそんなにむつかしい、体力消耗するきびしいものでもないのです。
そのかわり厳しく頑張って守っていただきたいのは、この実況中継して“今”の瞬間に心とまってもらう、それしか無い。
ですからこれから修行始めたら、その瞬間からズーっと実況中継、命かけてやるんだよ、と。
我々は、なにかロープでつながれてすごく険しい崖に半分位降ろされているんだ、だったら自分の命もあのロープが切れたら終わり…、実況中継はそれくらいの気持ちでやってください。
これ手離しすると、妄想しちゃうと、もう命が無くなったというくらい、それくらい真剣におぼえておいて下さい、いわゆる心構えですからね。
それくらいの気持ちでこれから実況中継頑張ってみて下さい。(終)
10.ヴィパッサナー実践のポイント
2003.6.15 於 兵庫県 いたみホール
<A・スマナサーラ長老>
(関西地区月例の「法話とヴィパッサナー冥想会」午後の部、初回参加者に冥想指導をされる前、これから各自で自由冥想をする常連参加者に対して、ヴィパッサナー実践のポイントをお話いただいた「虎の巻」のお話です。)
<毎回、大事なお話のテープを起こして Dhamma West に上げていただいている「ふなはし様」のデータを、ホームページ用に少し手を加えたものです。管理人>
<ヴィパッサナー実践のポイント!>
各自で自由に冥想する方々に、もう一度考え直して欲しいポイントだけ説明します。
● この、特に「時間」というものですね、
我々人間が、同じ時間で沢山のことが出来ると思ってるんです。
分かり易く言えば、本を読みながらラジオを聞くとか、二つも一遍にやっている。
しかし厳密に見ると、それは成り立たないんです。 瞬間の時間で一つの行為しかできない。
ですから自分の命というのは、本当は時間の一本の流れで起きているものなんです。
生きるということは、喋ることも生きる、見ることも生きる、聞くことも生きること、味わうことも生きること、座ることも立つことも生きること、考えることも生きること。
では、 或る一瞬の時間で、ものを見て、聞いて、食べているということはあり得ないんです。
一個の時間単位で一個の仕事しかしない。 それが一般的な知識では分らないことです。
瞬間で一つの仕事しかやってない。 これは真理であって、冥想では発見できるんです。
我々は長い時間丸めて(例えば一秒とか、ものすごい長い時間を取って)いるのに、同じ時間に沢山のことやってると思ってる、同時に幾つかの仕事をしていると勘違いする。 だから問題だらけで何一つも解決出来なくなっている。
仏教では瞬間ということを言っていて、瞬間というのはものすごく速い時間なんです。
光の速度よりは、心の変化速度というのは、かなり速い。
それは、この冥想で何とかして発見する準備をしておかないと、いけないんですね。 そこら辺は気を付けて欲しい。
我々は何をやってるかというと、聞く場合は「聞く・聞く・聞く」で、読む場合は「読む・読む」なんですよ。
続きはここ