の紹介です
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仏教に興味がある人なら誰でも参加出来る会です。
・お楽しみ勉強会
2月23日(土)・3月20日(水祝)に開催
場所:ゴータミー精舎 13:30〜17:30(予定)
その月によって中身が変わる勉強会です。
終了後、1時間程度の座談会も行います。
2月23日(土)も前回に引き続き長老の本でダンマトークの会です。
マーヤーデーヴィー精舎で行われていますダンマ・ディスカッションをに参考にさせて頂きました。
今回使用する長老の本は、PDF施本の「ヴィパッサナー冥想(業・善行為)」です。
これは題名のイメージと違って、身近な感覚の説明から業の説明をして始まる面白い本です。
これを部分的に読み合わせして、次にディスカッションを行います。
また次の箇所を読み合わせをして・・・と進行します。
この施本を持っていらっしゃらない方にはコピーを用意します。
また、こちらにPDFがあります。
→http://www.j-theravada.net/dhamma/2008_10_19-housenji_howa.pdf
可能な方は印刷されてお持ちください。もちろん出来なくても構いません。
また、今回はワンギーサ師が同席してくださるので、お坊様にしか質問できない専門的な疑問も募集しています。こちらもメールでお寄せください。※なるべく当日参加の方
問い合わせは、sakhila.oishi@gmail.com 大石宛までお寄せ下さい。
ぜひお待ちしております。
続きはここ
2008-09-25 改訂増補版
『大アジア思想活劇』刊行
の紹介です
『大アジア思想活劇
~仏教が結んだもうひとつの近代史~』
くわしくはこちらをご覧下さい。(2008/9/26)

大アジア思想活劇~仏教が結んだ、もうひとつの近代史~
著者:佐藤 哲朗
定価:4,725円(税込)
ISBN:9784901679954
店頭予定:2008年9月29日
仏教ブームのもう一歩先へ 日本人にとって仏教とは何だったのか? 知られざる近代史を紐解く
『大アジア 思想活劇』 総目次 | 第一部:明治二十一年のインド旅行からオルコット来日まで 第二部:“ランカーの獅子”ダルマパーラと日本 |
更新情報:第二部第十八章 十九章 大アジア思想家列伝 野口復堂注釈を追加。(2004/09/10)
更新情報:第二部第四章 本文の翻訳文面を修正。全章の小見出しへのアンカー設置を完了しました。(2002/09/13)
更新情報:第一部第十九章,第二部第十章,第二部第十八章 本文と注釈を更新しました。(2002/09/06)
更新情報:画像の追加やキャプションの付け替え、ナビゲーションの新設、細かい誤記の修正などを施しました。(2002/09/02)
詳しくはここ
買うのはここ
- 3/17(日) スマナサーラ長老 山口県下松市講演会「不安感にサヨナラ」
- 日時:3/17(日)10:00 会場:スターピアくだまつ(山口県下松市)※参加無料・申込不要
信仰や他人やものに頼ること無く、科学的・実践的に自分自身で不安を克服する方法とは? - 3/22(金) スマナサーラ長老講演 『ブッダの暴力論 ~その分析と克服~』
- 日時:2013年3月22日(金)18:30[受付開始18:00] ~21:00[終了予定]
場所:中野ZERO小ホール 定員:550名 参加費:ご喜捨 詳細&申込みはバナーをクリック! - 6月15日(土)-19日(水) 精進湖ヴィパッサナー実践合宿(4泊5日)
- スマナサーラ長老ご指導のヴィパッサナー実践合宿です。慌ただしい日常生活から離れ、集中して心を清らかにするための貴重な機会です。詳細&申込みはバナーをクリック!
幸せに生きる~ブッダの智慧から学ぶ~
の紹介です
★感情の深い部分を冥想でコントロールする

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テーラワーダ仏教普及委員会 ブログの紹介です


2012/05/29 No.453 白黒はっきりさせるブッダの「選択」論 9
2012/06/03 No.454 白黒はっきりさせるブッダの「選択」論 10
2012/06/08 No.455 白黒はっきりさせるブッダの「選択」論 11
2012/06/13 No.456 白黒はっきりさせるブッダの「選択」論 12
2012/06/18 No.457 白黒はっきりさせるブッダの「選択」論 13
2012/06/23 No.458 白黒はっきりさせるブッダの「選択」論 14
2012/06/28 No.459 白黒はっきりさせるブッダの「選択」論 15
八幡山 宝泉寺 (笛岡泰雲住職) の紹介です
山門--仏教--10 |
仏教 No.10 |
本来無一物 (ほんらいむいちもつ) 先日、12月の関西冥想会、 スマナサーラ長老がご説法の中で、仏教で言う執着を捨てるということから禅宗のことばを引かれて、 中国の禅僧で鏡の詩を書いた方「…」?、と、禅宗坊さんの私の方を見て確認されようとした時、 咄嗟に返事が出来ず、少し内容を話されたところでようやく六祖慧能禅師の名前が出てきました。 禅宗ではあまりにも有名な話なので、神秀上座(じんしゅうじょうざ)と六祖慧能(えのう)の二人の詩偈は私でも記憶していたのですが、 初期仏教に触れてこの6年程、祖録等から離れて忘れてしまい、帰る頃ようやく思い出したというお粗末でした。 中国禅宗の五祖、大満弘忍(だいまんこうにん=曹洞宗での読み方)禅師の下、黄梅山(おうばいざん)の会中、五百~七百人?の修行僧の第一座、神秀上座が、学問も修業も出来て徳も高く皆の信頼を得ていました。 法を嗣いで六祖となる者を決める為に、各自が会得しているところを示す詩偈を提出することになりました。 誰一人も提出する者が無い中、神秀は会中第一座の立場なので、作った偈を悩んだあげく夜中にそっと張り出しておく。 「身はこれ菩提の樹、心は明鏡の台の如し、時々に勤めて払拭(ほっしき)して、塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむること莫(なか)れ。」と。 続きはここ |

Jyunich Mitani | 2013年2月17日 22:58 |
皆さんの中で昔、「スパイ大作戦」というアメリカドラマをTVでやっていたのをご存じの方はおられるでしょうか?最近、トムクルーズがそれを模したスパイ映画「ミッション:インポッシブル」を演じて大ヒットしました。私も興味本位で観ましたが、全編にわたり息つくまもなくスリルを味わえる映画です。 それを真似た形で報告を始めたいと思います。 <・・・この作戦における、一切の責任は諸君にある。当局は一切関知しないからそのつもりで・・・では、諸君の健闘を祈る。尚この指令は自動的に消滅する> ~という台詞から映画が始まる。~ ~スッタ大作戦~指令(報告)その2 今日もなんか釈然としない何かが残った。 つらいことは、仏教に縁のない一般の人も、仏教を学ぶもの(以下仏教徒という)も同じようにある。いや、一般の人の方がもっとつらく感じて直に真剣に受けとめて苦しんでいる。 仏教を少し学んで知っているが故に、知識が先行して鈍感になっていないか反省してみる必要がある。 いくら「無明だから悩み苦しみがある。」と教えられても、やはり、つらいものはつらい!解っていてもつらい。 我々は勘違いしていると思う。「そこに真理がある・・・だから苦。」と、知っていても、瞑想しても「苦」は一向に無くならない。「修行したら苦るしみが無くなる!」いや、そこまで求めなくても,苦しみが少しでも和らぐぐらいは期待する。 そうでない、苦しみは無くならないもので、苦しみながら、不安や不満を感じながら苦を苦として、不安を不安として受けとめていくしかない。 つまり我々が思い描いている修行の場というものは無く。ただ、出家して寺で学ぶことが修行でなく、また、これからの我々、仏教徒の道の先に何かがあるように期待するところにもない。つまり、一般の人も仏教徒も区別無く「今ここにしかない。」 というようなことを、今日の勉強会で感じたので整理してみました。そうです。これが、前回の解答だったようです。といってもこのお経の意味は修行が進まないと本当に理解したことにならないのでしょうから私の主観であります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ スッタニパータ 第5章の1 1043(中村元訳:1036) 尊者アジタが尋ねた「まさしく、智慧が[諸々の欲望の流れの統御となり]、さらには、気づきが[諸々の欲望の流れの防護となる]、というなら、では、敬愛なるお方よ、名前と形態(名色:現象世界)を、これを[問いを]尋ねられた者として、私に説いてください。どこにおいて、この[名前と形態]は止滅するのですか?」と。 1044(中村元訳:1037) 世尊は答えた「アジタさん、[まさに]その、[あなたが]尋ねたこの問いですが、それを、あなたに説きましょう。そこにおいて、名前(名)と形態(色)とが残りなく止滅するところですが、識知[作用](識:認識作用一般・自己と他者を識別する働き)の止滅によって、ここにおいて、この[名前と形態]は止滅します」と。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 再度説明ですが、二つのお経文の形式はアジタ尊者の問いにお釈迦様が答えた内容です。その意味とするところは、尊者が「・・・は何処にありますか?」の問いに対して「ここにおいて」と答えられたということです。 つまり、全ては今ここにある。この瞬間にあるということが答えらしいです。確かに文面から真面目に読もうとすればこの答えは誰も思いつかないのですが、素直にそのままお釈迦様は「ここにある」と答えられているのですね。これは、中村元先生の訳では読み取れないところらしいです。しかし、しかしですよ、これがとても難しいことでして、「ここにある」とはどういうことなのか。また、どうして「ここにある」と、我々は答えを出せなかったのか考察することが大切ですと、先生は言われました。 「『ここにある』とは?」と考えたときに、ある瞬間の一点にあると我々はイメージしてしまいがちですが、そうではないと。変化の流れの中にあるのでもなくただの流れのことと言われましたが、私にはもう一つ理解出来ませんでした。つまり、まだ修行で体験していないから理解出来ないのだと理解しました。 ~スッタ大作戦~ さて、勉強会の報告は今回で打ち切りとしますが、今日の内容について出席者および皆様のからのアドバイスがあればよろしくお願いします。 |
本 › "アルボムッレ・スマナサーラ" ›
瞑想経典編
(初期仏教経典解説シリーズII)
[単行本]
内容紹介
「心の改革プログラム」を最初期の経典から理解する
数多くの仏教経典から厳選した5つの瞑想経典を、いきいきとした現代日本語で解説。
スマナサーラ長老の「初期仏教経典解説シリーズ」第2弾、待望の刊行!
瞑想経典編 (初期仏教経典解説シリーズII) アルボムッレ・スマナサーラ (2013/3/1)
- ¥ 3,675 単行本
- 近日発売 予約可。 この商品は2013/3/1に発売予定です。
ブッダの聖地(サンガ文庫) アルボムッレ・スマナサーラ (2012/11/25)
仏教徒は、
自分が「無明」そのものだと聞いてびっくり仰天、これは大変、自分こそが「馬鹿」で「アホ」で「間抜け」の「愚か者」で生きている、見たくないけど真実は、自分が真実を見ようとしない貪瞋痴そのもので生きていると認めるより仕方がない。
![]() | 宝泉寺ホームページ | 仏暦 2556年 西暦 2013年 平成 25年 |
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![]() | illustrations:F.Noriko ( 最終更新 2013年2月8日) |
山門--仏教--9 |
仏教 No.9 |
無 明(むみょう) 言葉というもの、 同じ一言葉を聞いても、聞く人により思い浮かべる妄想は様々です。 言葉には固定した意味があるように思うものですが、使われる時と場所、前後の流れ、聞く人の心により随分違うものです。 仏教の説法などを聞いても、法話の生きた内容は聞くつもりの無い人が、一つの言葉や一部分だけを抜き出して云々しようとすると、話の内容とは別の問題になってしまうものです。 関西では軽い意味で使われているきつい言葉でも、関東では凄くきつい意味であったり、その反対の言葉もあるように、人により地域や時代により印象の軽重が逆になったりする言葉はいろいろあると思います。 近年の曹洞宗でも澤木老師や師家方など、お釈迦さまの教えを伝えようとされた方々の法話の中で、自分(ご本人)もいろいろときつい酷い言葉で言うように人 から言われるけれども、永平祖師から比べればごく優しいものだし、それよりお釈迦さまはもっと凄くて、とても敵わないのだというような言い方がされていた ように思います。 そんなことから、法話の内容でなくて丁寧な言葉使いや綺麗そうな有難い話しが好きな人からは結構嫌われていたようでした。 それはそうと我々人間の日常生活を見ると、怒りの感情一杯で相手に対して「馬鹿」「アホ」「間抜け」「ド・・・」「・・・」などと頭の中に浮かべたり、口で、きついことを言ったつもりでいるのではないかと思います。 しかし考えてみると、お釈迦さまの初期仏教では、私たち生命は「無明」である、「無知」なのだと語られます。 その寂静の心で語られた、「無明」という真実の言葉の厳しさ激しさはどうでしょう。 |
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