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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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「耳で読む」





八幡山 宝泉寺 (笛岡泰雲住職)  の紹介です






山門--仏教--11
仏教 No.11


 「耳で読む」


もう30年以上も前になりますが、本山僧堂に修行僧として上山(じょうざん)安居(あんご)した時にも、「お経は耳で読め」というような言い方をされたものです。
 
大勢でも少人数でも二人だけでも、読経をするときは、その場をリードするべき人の読みかたを耳でよく聞きながら声を合わせて読むものだということです。
 
そうすると全体が一つに揃って、読む人も読みやすく聞く人も聞きやすく、よい雰囲気になるのです。
 
それは、お坊さんの世界、雛僧(小僧)の基本です。
 
しかし、これは一般社会でも、他から何かを学ぶ時、皆で一緒に声を揃えるような場合などには、その場の主となる人やリード役の人に、自分の声を合わせるのは礼儀というか、わきまえというか、心ある人の態度だとも思います。


続きはここ



















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宝泉寺 | 09:04:12 | トラックバック(0) | コメント(0)
お釈迦様が説かれる中道=「超越道」は、 八つの項目で構成されているので「八正道」とも言われています。




幸せに生きる~ブッダの智慧から学ぶ~  の紹介です





幸せに生きる~ブッダの智慧から学ぶ~
ブログ名
幸せに生きる~ブッダの智慧から学ぶ~
ブログ紹介
すべての生命は病んでいる
病気の世の中で、健やかに楽しく生きよう。
病気に悩む人々の中で、健康な人間として生きてゆこう。(198)

あせって悩む世の中で、落ち着きを保って楽しく生きよう。
あせって悩む人々の中で、落ち着いた人間として生きてゆこう。(199)

  ブログ 新着記事

タイトル 日 時
★正業・・・八正道④正しい行為
★正業・・・八正道④正しい行為 正業という言葉を見て、「正しいカルマ(業)」のことだと考えるのは、誤解です。 パーリ語はsamma-kammamta(サンマーカンマンタ)です。 カンマンタとは、やること、行うこと、為すこと、という意味になります。 いわゆる行為のことです。 行為といえばいろいろです。 生きること自体が無数の行為のかたまりです。 
2013/04/28 14:57
★正語を実行する場合の4つのポイント
★正語を実行する場合の4つのポイント ①ウソをつかない  いつでも事実のみを語ろうと気をつけることです。 ...続きを見る

2013/04/25 09:11
★正語・・・八正道③正しい言葉を語る
★正語・・・八正道③正しい言葉を語る 次にあるのは、「正しい言葉を語れ」(正語)という項目です。 人間は言葉の正しい使い方を知らないので、 自分にも他人にも多大な不幸をもたらします。 言葉の管理をできない人のことを、 ...続きを見る

2013/04/20 22:36
★正思惟・・・八正道②非論理的な欲・怒りは捨てる
★正思惟・・・八正道②非論理的な欲・怒りは捨てる 正思惟(しょうしゆい)とは、考え方を正すことです。 これは大きな問題です。 人とは考える生き物です。その考えが正しくないならば、 何をやっても正しくないことをしていることになります。 ...続きを見る

2013/04/16 09:15
★正見・・・八正道①ありのままに見る
★正見・・・八正道①ありのままに見る 正見の意味は、正しい見解です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「ありのままに見る」「ありのままに観察する」とは、 簡単で当たり前のことではないでしょうか。 それはその通りですが、実行しようとすると問題が起きます。 ...続きを見る

2013/04/12 15:20
★どうすれば苦がなくなるのか
★どうすれば苦がなくなるのか お釈迦様が説かれる中道=「超越道」は、 八つの項目で構成されているので「八正道」とも言われています。 ...続きを見る

2013/04/09 14:0









ひとり言 | 10:54:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「気をつけるべき行動」【5つの戒律「②不偸盗戒」について】





日本テーラワーダ仏教協会  の紹介です





#jtba「気をつけるべき行動」【5つの戒律「②不偸盗戒」について】

 パーリ語『Adinnādānā veramaṇī sikhāpadaṃ samādiyāmi.』
 読み:アディンナーダーナー ヴェーラマニー スィッカー パダン サマーディヤーミ。
 意味:「与えられていないものを取らない」という戒めを、私は受けて守ります。

 「偸盗」という漢訳仏教語はたいへん難関な印象があります。「盗むなかれ」という戒めです。私たちは「盗み」の罪といえば、銀行強盗のようにスケールが 大きい犯罪をイメージしてしまいます。もっと小さな盗みの場合でも、会社の横領事件とか、子供がいたずら気分で犯す万引きくらいのものでしょう。

 そうすると、「自分とは関係ない話かな」という気分になりますね。そんなことは社会常識として当たり前なので、とりたてて仏教徒の戒めとする必要はあるのか、という疑問も生じるかもしれません。話はそう簡単には済まないのです。

 パーリ語では、不偸盗の定義は「与えられていない(他人の)ものを取らない」になります。「盗む」というと、だれかほかの人がいないと成り立ちません。 それなら、人がいないところでいる限りは、その戒律を守っていることになります。そうなると、人がいないところでいればいるほど、徳を積むことにもなりま す。なにかおかしいでしょう?

 ここで不偸盗の意味を理解するめに、「与えられていないものを取らない」という言葉を変えて、考えてみましょう。与えられたものを取る権利はあるのです。使用する権利もあるのです。「自分に使用する権利がないもの」と言えるのは、自分に与えられていないものなのです。

 人は、すべて他からいただくもので生きています。この身体さえも、他者から与えられたものなのです。親が身体を与えて、食べ物まであげて、大きく成長さ せたのです。与えられた身体だから、自分にはこの身体を使用する権利がある。だから、人はだれでも「与えられたもの」で生きていかなくてはいけない。それ は基本的な法則です。与えられていないのに、奪うことは自分勝手なわがままな行為であるだけでなく、法則まで犯していることになるのです。

 いっぱいいただいて、それなりに生きていられることに感謝するべきなのに、その正反対に奪うという行為は、あまりにも悪いのです。仏教でいう不偸盗とは、与えられていないものを取らない、奪わないことです。それはつまり、法則に従って生きることなのです。

 私たちは自分たちの体を維持して生きるために、外部から様々なものを取り入れなくてはなりません。外部から物質的、感覚的、精神的な刺激を絶えず取り入 れることが、「生きること」です。生命は普遍的に「死を避けたい」という感覚をもっています。生命ならば、生きるために外部から様々なものを取り入れる権 利があるのです。

 しかし、取り入れるものは「与えられたもの」でなければならないのです。つまり、自分が外部の世界にそれなりの貢献をした結果として、いただくものでなければならない、ということです。

 ですから、会社に勤めている人であっても、仕事をさぼって給料だけいただこうとしたら、それは盗みです。労働者は労働法で保護されているんだから、だら だら仕事をしても同じ給料をもらう権利があるんだ、と言ってもそれは真理の世界とは関係ありません。同じように、雇い主が人に仕事を頼んでおいて適切な報 酬を払わないことも「盗み」です。

 生きるために必要な「もの」はもたなければならないのです。それを得るために、必要ななにかを社会に貢献するのです。社会に貢献することで、社会から必要なものを得る。このような生き方ならば、不偸盗の戒を守っていることになります。

・生きるとは取り入れること
・一人分の適量を考える
・適量以上のものを要求しない
・たくさん得た分は、分けてあげるべき分
(書籍「テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え」より抜粋)

『ダンマパダ308』
 戒を守らず 自制せず
 天下の施食(せじき)受けんより
 赤き炎に焼かれたる
 熱鉄丸を喰(は)むがよし(和訳 江原通子) 

▼参考テキスト
「テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え」
 http://amzn.to/8YDWCB

「仕事とはどんなもの?~盗取受用の話~」
 http://bit.ly/IrafSz

「香り盗人の話」(ジャータカ物語)
 http://bit.ly/ZjOKzs
 
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
写真: #jtba「気をつけるべき行動」【5つの戒律「②不偸盗戒」について】 パーリ語『Adinnādānā veramaṇī sikhāpadaṃ samādiyāmi.』 読み:アディンナーダーナー ヴェーラマニー スィッカー パダン サマーディヤーミ。 意味:「与えられていないものを取らない」という戒めを、私は受けて守ります。 「偸盗」という漢訳仏教語はたいへん難関な印象があります。「盗むなかれ」という戒めです。私たちは「盗み」の罪といえば、銀行強盗のようにスケールが大きい犯罪をイメージしてしまいます。もっと小さな盗みの場合でも、会社の横領事件とか、子供がいたずら気分で犯す万引きくらいのものでしょう。 そうすると、「自分とは関係ない話かな」という気分になりますね。そんなことは社会常識として当たり前なので、とりたてて仏教徒の戒めとする必要はあるのか、という疑問も生じるかもしれません。話はそう簡単には済まないのです。 パーリ語では、不偸盗の定義は「与えられていない(他人の)ものを取らない」になります。「盗む」というと、だれかほかの人がいないと成り立ちません。それなら、人がいないところでいる限りは、その戒律を守っていることになります。そうなると、人がいないところでいればいるほど、徳を積むことにもなります。なにかおかしいでしょう? ここで不偸盗の意味を理解するめに、「与えられていないものを取らない」という言葉を変えて、考えてみましょう。与えられたものを取る権利はあるのです。使用する権利もあるのです。「自分に使用する権利がないもの」と言えるのは、自分に与えられていないものなのです。 人は、すべて他からいただくもので生きています。この身体さえも、他者から与えられたものなのです。親が身体を与えて、食べ物まであげて、大きく成長させたのです。与えられた身体だから、自分にはこの身体を使用する権利がある。だから、人はだれでも「与えられたもの」で生きていかなくてはいけない。それは基本的な法則です。与えられていないのに、奪うことは自分勝手なわがままな行為であるだけでなく、法則まで犯していることになるのです。 いっぱいいただいて、それなりに生きていられることに感謝するべきなのに、その正反対に奪うという行為は、あまりにも悪いのです。仏教でいう不偸盗とは、与えられていないものを取らない、奪わないことです。それはつまり、法則に従って生きることなのです。 私たちは自分たちの体を維持して生きるために、外部から様々なものを取り入れなくてはなりません。外部から物質的、感覚的、精神的な刺激を絶えず取り入れることが、「生きること」です。生命は普遍的に「死を避けたい」という感覚をもっています。生命ならば、生きるために外部から様々なものを取り入れる権利があるのです。 しかし、取り入れるものは「与えられたもの」でなければならないのです。つまり、自分が外部の世界にそれなりの貢献をした結果として、いただくものでなければならない、ということです。 ですから、会社に勤めている人であっても、仕事をさぼって給料だけいただこうとしたら、それは盗みです。労働者は労働法で保護されているんだから、だらだら仕事をしても同じ給料をもらう権利があるんだ、と言ってもそれは真理の世界とは関係ありません。同じように、雇い主が人に仕事を頼んでおいて適切な報酬を払わないことも「盗み」です。 生きるために必要な「もの」はもたなければならないのです。それを得るために、必要ななにかを社会に貢献するのです。社会に貢献することで、社会から必要なものを得る。このような生き方ならば、不偸盗の戒を守っていることになります。・生きるとは取り入れること・一人分の適量を考える・適量以上のものを要求しない・たくさん得た分は、分けてあげるべき分(書籍「テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え」より抜粋)『ダンマパダ308』 戒を守らず 自制せず 天下の施食(せじき)受けんより 赤き炎に焼かれたる 熱鉄丸を喰(は)むがよし(和訳 江原通子) ▼参考テキスト「テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え」 http://amzn.to/8YDWCB「仕事とはどんなもの?~盗取受用の話~」 http://bit.ly/IrafSz「香り盗人の話」(ジャータカ物語) http://bit.ly/ZjOKzs ~生きとし生けるものが幸せでありますように~








facebook | 10:29:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
仏教ではかなり精密な哲学的なとこで「悪魔」という文学的な表現で使っています。





テーラワーダ仏教普及委員会 ブログの紹介です





              ブッダと悪魔との対話【悪魔相応を読む】苦行の放棄
                 
                ブッダと悪魔との対話  ~巧妙な悪魔の絆~

                  2012/08/20  No.467  

                  2012/08/25  No.468 

                  2012/08/30  No.469   

                  2012/09/04  No.470 

                  2012/09/09  No.471 

                  2012/09/14  No.472  









普及委員会 | 10:06:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「怒らないことは誰のため?」




#jtba「怒らないことは誰のため?」

Ubhinnamatthaṃ carati,
Attano ca parassa ca;
Paraṃ saṅkupitaṃ ñatvā,
Yo sato upasammati.

『怒っている人に対して、逆に怒らない人は、
 自分と他人という両方に、有意義な行為をしているのです。』
(相応部経典,有偈篇,第11 サッカ相応,第5 善語勝利経)

 仏陀の教えは、完全なる幸福の境地を説くものです。それだけではなく、日常生活にもおおいに役に立つものなのです。しかし、理性に基づいて理解しなくて はならないのです。聞法だけでは実行する気にはなりません。時々、表面的に見ると違うと思える言葉もあるのです。いくつかの例で考えてみましょう。

 「怒りに打ち勝つためには、怒らないことだ」、これだけでは何の意味かわからないですね。人が怒って自分に攻撃するならば、自分も怒って逆襲すれば超簡 単で早いのではないかと思う。怒りを怒りで返すということは、確かに超簡単です。どんな無知な人にもできることです。人間に限らず、動物も同じことをやっ ているのです。世界で正しいと思われているのは、インテリ的な生き方ではなく、脳も発達していない動物たちがやっている行為なのです。

 無知な人、感情に操られている人は、気に入らない出来事が起きたら必ず怒る。それから相手に攻撃を仕掛けるのです。相手も「何だこいつは」と思って、怒 りを返します。自分が怒っても、それに対する相手の怒りが嫌なので、先に怒った人がさらに怒るのです。このように、互いに怒り合いの合戦をするのです。怒 りが燃えるだけで、消えることはありません。

 理性のある人は、感情的な怒りに怒り返すのではなく、怒りとは何かと観察するのです。怒りは炎のようなもので、怒った人も怒りの対象も、破壊する感情だ と発見します。相手がいくら悪くても、自分だけ怒らないで落ち着いていれば、自分の心が相手の怒りの炎で燃えないことと、相手の怒りも自分から怒りという 燃料を与えないから、そのうち怒りの炎が燃え尽きるのだと理解するのです。

 では、人が自分に対して勝手に怒ったり、自分を侮辱したり、攻撃したり、非難したりするのを黙っていると損ばかりではないか?相手がやりたい放題ではないか?と思われるでしょう。

 実は、そうではありません。怒った人は、その時点で燃えています。自分の心もいくらか破壊しています。ですから、怒りを受けた自分が怒り返さなかったな らば、何の損害も受けていないのです。相手に対しても、怒りの燃料を供給していないから、相手の心も最小限の害で済みます。ですから、怒りに対して怒り返 さないことで、自分の心が成長するだけではなく、他人に対しても善行為をしていることになるのです。

●イラスト:田辺敏宏
▼参考テキスト
「怒りに慈しみで勝つ~怒る人は多重に損をする~」
 http://www.j-theravada.net/howa/howa129.html
【57】 口は機関銃です
 http://www.j-theravada.net/qa/gimon57.html
「言葉は核燃料か ~感情混じりの言葉は核廃棄物です~」
 http://www.j-theravada.net/howa/howa55.html
「口から漏れる放射能~言葉は注意して使用する道具に過ぎない~」
 http://www.j-theravada.net/howa/howa150.html

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
写真: #jtba「怒らないことは誰のため?」<br><br>Ubhinnamatthaṃ carati,<br>Attano ca parassa ca;<br>Paraṃ saṅkupitaṃ ñatvā,<br>Yo sato upasammati.<br><br>『怒っている人に対して、逆に怒らない人は、<br> 自分と他人という両方に、有意義な行為をしているのです。』<br>(相応部経典,有偈篇,第11 サッカ相応,第5 善語勝利経)<br><br> 仏陀の教えは、完全なる幸福の境地を説くものです。それだけではなく、日常生活にもおおいに役に立つものなのです。しかし、理性に基づいて理解しなくてはならないのです。聞法だけでは実行する気にはなりません。時々、表面的に見ると違うと思える言葉もあるのです。いくつかの例で考えてみましょう。<br><br> 「怒りに打ち勝つためには、怒らないことだ」、これだけでは何の意味かわからないですね。人が怒って自分に攻撃するならば、自分も怒って逆襲すれば超簡単で早いのではないかと思う。怒りを怒りで返すということは、確かに超簡単です。どんな無知な人にもできることです。人間に限らず、動物も同じことをやっているのです。世界で正しいと思われているのは、インテリ的な生き方ではなく、脳も発達していない動物たちがやっている行為なのです。<br><br> 無知な人、感情に操られている人は、気に入らない出来事が起きたら必ず怒る。それから相手に攻撃を仕掛けるのです。相手も「何だこいつは」と思って、怒りを返します。自分が怒っても、それに対する相手の怒りが嫌なので、先に怒った人がさらに怒るのです。このように、互いに怒り合いの合戦をするのです。怒りが燃えるだけで、消えることはありません。<br><br> 理性のある人は、感情的な怒りに怒り返すのではなく、怒りとは何かと観察するのです。怒りは炎のようなもので、怒った人も怒りの対象も、破壊する感情だと発見します。相手がいくら悪くても、自分だけ怒らないで落ち着いていれば、自分の心が相手の怒りの炎で燃えないことと、相手の怒りも自分から怒りという燃料を与えないから、そのうち怒りの炎が燃え尽きるのだと理解するのです。<br><br> では、人が自分に対して勝手に怒ったり、自分を侮辱したり、攻撃したり、非難したりするのを黙っていると損ばかりではないか?相手がやりたい放題ではないか?と思われるでしょう。<br><br> 実は、そうではありません。怒った人は、その時点で燃えています。自分の心もいくらか破壊しています。ですから、怒りを受けた自分が怒り返さなかったならば、何の損害も受けていないのです。相手に対しても、怒りの燃料を供給していないから、相手の心も最小限の害で済みます。ですから、怒りに対して怒り返さないことで、自分の心が成長するだけではなく、他人に対しても善行為をしていることになるのです。<br><br>●イラスト:田辺敏宏<br>▼参考テキスト<br>「怒りに慈しみで勝つ~怒る人は多重に損をする~」<br> http://www.j-theravada.net/howa/howa129.html<br>【57】 口は機関銃です<br> http://www.j-theravada.net/qa/gimon57.html<br>「言葉は核燃料か ~感情混じりの言葉は核廃棄物です~」<br> http://www.j-theravada.net/howa/howa55.html<br>「口から漏れる放射能~言葉は注意して使用する道具に過ぎない~」<br> http://www.j-theravada.net/howa/howa150.html<br><br>~生きとし生けるものが幸せでありますように~









協会 更新情報 | 11:49:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「食事の観察」(日常読誦経典 P.106より)





日本テーラワーダ仏教協会
https://www.facebook.com/jtheravada






#jtba「食事の観察」(日常読誦経典 P.106より)

☆食事をいただく前に、唱えてみてください。

「正覚者の説かれた真理を遵守し、
 正しく観察してこの食事をいただきます。

 食事により心が汚れることを戒め、
 身体を痛めることにも注意し、
 壊れてゆくこの肉体の修復のために、
 量を計って、この食事をいただきます。

 一切の生命に対して慈しみの念を抱き、
 釈尊の説かれた仏道を歩む目的を念頭において、
 一切の現象は無常であることを隨念しつつ、
 この食事をいただきます。」


 食べる為に生きているのではなくて、生きているからやむを得ず食べているのです。生きている間でなければ、修行して解脱に至ることが出来ません。修行が出来るという条件の中でのみ、生きることも、食べることも有義になるのです。

◆参考資料
【Ustream動画】2013/04/13 初期仏教月例講演会
「ブッダの正しい食生活」(約180分)

http://bit.ly/XGlKR8
http://bit.ly/1000KS4
http://bit.ly/YUMG1q

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

写真: #jtba「食事の観察」(日常読誦経典 P.106より)<br><br>☆食事をいただく前に、唱えてみてください。<br><br>「正覚者の説かれた真理を遵守し、<br> 正しく観察してこの食事をいただきます。<br><br> 食事により心が汚れることを戒め、<br> 身体を痛めることにも注意し、<br> 壊れてゆくこの肉体の修復のために、<br> 量を計って、この食事をいただきます。<br><br> 一切の生命に対して慈しみの念を抱き、<br> 釈尊の説かれた仏道を歩む目的を念頭において、<br> 一切の現象は無常であることを隨念しつつ、<br> この食事をいただきます。」<br><br><br> 食べる為に生きているのではなくて、生きているからやむを得ず食べているのです。生きている間でなければ、修行して解脱に至ることが出来ません。修行が出来るという条件の中でのみ、生きることも、食べることも有義になるのです。<br><br>◆参考資料<br>【Ustream動画】2013/04/13 初期仏教月例講演会<br>「ブッダの正しい食生活」(約180分)<br>①http://bit.ly/XGlKR8<br>②http://bit.ly/1000KS4<br>③http://bit.ly/YUMG1q<br><br>~生きとし生けるものが幸せでありますように~









facebook | 11:10:21 | トラックバック(0) | コメント(0)
2013年4・5・6月






4月

07日(日) 花祭り 
              名古屋初期仏教デー (スマナサーラ長老)- 日本ガイシホーラム
                初めて冥想会へ参加される方へのご案内-          



222-50-50-80-70-90.PNG
                       



21日(日) 日曜自主冥想会---宝珠院 
            使用部屋---正面右手入り口より左--本堂(夏)
                  ---正面右手入り口より右奥--和室(冬  

21日(日) 「経典自主勉強会」希望者で申込済の方限定) ---
      女性会館第2集会室



4月28日(日) ヤサ先生の法話会」---ヤサ先生を迎えて4月から新しく始まります
   ---会場--
ウインクあいち 
                              会場アクセス http://www.winc-aichi.jp/access/  
         
(12:45開場)                   
          
時間:13:00~16:45
        
      会費:喜捨
     残念ながら 初心者冥想指導は ありません






祝新年---仏暦2557

5月


05日(日) 「経典自主勉強会」希望者で申込済の方限定) ---
                                  日本ガイシフォーラム 第三研修室
12日(日) 日曜自主冥想会---宝珠院 
           
使用部屋---正面右手入り口より左--本堂(夏)
 
                ---正面右手入り口より右奥--和室(冬
19日(日)     名古屋初期仏教デー (スマナサーラ長老)- 日本ガイシホーラム
                          --スマナサーラ長老ーーーガイシフォーラム

26日(日) ヤサ先生「法話会」  決定!
      ・開催日:5月26日(日)
      ・時間:12:30~16:30
残念ながら 初心者冥想指導は ありません
      ・会場:女性会館   
地図         
      〒460-0015
          名古屋市中区大井町7番25号
        地下鉄東別院①番出口徒歩3分、JR・名鉄金山駅徒歩15分

       ※会場の使用時間の都合上、第1回目の4月より
       開催時間が変更しています。






6月
02日(日) 日曜自主冥想会---宝珠院 
           
使用部屋---正面右手入り口より左--本堂(夏)
 
                ---正面右手入り口より右奥--和室(冬  
09日(日) 予定無し

16日(日) ヤサ先生---会場 時間未定


23日(日) 「経典自主勉強会」希望者で申込済の方限定) ---確定
                                女性会館 第一集会室

30日(日) 日曜自主冥想会---宝珠院 
           
使用部屋---正面右手入り口より左--本堂(夏)
 
                ---正面右手入り口より右奥--和室(冬















お知らせ | 10:33:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「不確定と計画性、いつでも調整が必要です!」




日本テーラワーダ仏教協会
 の 紹介です







#jtba「不確定と計画性、いつでも調整が必要です!」

 私たちには、明確な計画を立てないで生きることは難しいことです。しっかりした計画があれば、しっかりと生きることはできます。ですからわれわれは、幼 稚園の時から計画を立てること、計画通りに生きることを学ぶのです。計画の立て方を学ぶ作業は、何歳くらいで卒業するのでしょうか。この質問はおそらく考 えたことはないと思います。試しに考えた方がいいのではないかと思います。実は、計画の立て方を学ぶ事をやめる時期があります。それは自分の意

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写真: #jtba「不確定と計画性、いつでも調整が必要です!」<br /><br /> 私たちには、明確な計画を立てないで生きることは難しいことです。しっかりした計画があれば、しっかりと生きることはできます。ですからわれわれは、幼稚園の時から計画を立てること、計画通りに生きることを学ぶのです。計画の立て方を学ぶ作業は、何歳くらいで卒業するのでしょうか。この質問はおそらく考えたことはないと思います。試しに考えた方がいいのではないかと思います。実は、計画の立て方を学ぶ事をやめる時期があります。それは自分の意志で何もできない状態に陥った時です。老いて病弱になって、生きることは床の上に制限された時です。言いかえれば、人は一生、計画の立て方を学ばなくてはいけないことになります。<br /><br /> 問題は、このことを早くやめたいと思っていることです。「計画の達人」に早くなりたいのです。美しいのは言葉だけです。裏にあるのは、「怠けたい」という気持ちです。怠けたい、手抜きをしたい、という気持ちを隠して立てる計画には、手抜きがたくさんあります。ですから、達人の計画を実行すると、起こるのは問題ばかりです。世の中の現実を見れば、よく分かることです。<br /><br /> 世の中の人々は、計画が上手くいかないことに、計画が狂ってしまうことに、よく悩みます。計画を立てても、その通りに成功しないということが事実であることは、もう理解できると思います。一部の原因だけを知って立てる計画は、うまくいかないのです。上手くいくどころか、失敗する確率はかなり高いのです。しかし、この事実は認めたくはないという感情に陥るのです。仏教は悲観的だと怒鳴る。人間なら、計画を立ててそれを実行して生きているのではないかと反論もする。しかし、仏教側の弁解は単純です。「うまくいっているのか?」だけです。<br /><br /> 物事は条件によって現れるというならば、現れた現象は一時的であり、条件に依存するものでもあります。分かりやすく言えば、たちまち変わります。時間の経過は、見事な条件です。美味しいラーメンを作ったとしましょう。しかし、「美味しい」ということは、時間という条件によるものです。作ってから30分たったら、美味しいラーメンではなく、不味くて食べられないラーメンなのです。因縁により一切の現象は生じるという場合は、一切の現象は無常であるということになるのです。<br /><br /> 無常であっても、われわれは様々な工夫をします。家を建てる時は、耐震性を考えるのです。しかし、地震が起きても壊れない、という保証もないのです。要するに、いかなる計画を立てても、その計画を立てて実行する人々に、何の管理もできない、管轄外の原因と条件が関わってくるのです。管理外の原因と条件まで揃ったら、文句なく成功するのです。だから無知な人は、ついている、ラッキーでした、運が良かった、神の恩寵だ、などの言葉が好きなのです。これが怖い落とし穴です。<br /><br /> やはり何であろうとも、「不確定」という態度が安全です。精神的に落ち着いていられます。明日のことは分からないとは、事実です。事実を認めれば、ウソを信じるよりは安心です。無常には勝てないのです。<br /><br /> 理性のある人は、精密に計画を立てるのです。実行する時でも、成功するまで運に任せて待っていないのです。成功させるようにするのです。それでも成功しなかったからと言って、何とも思わないのです。実行する過程で、いつでも計画の変更、改良、調整などをするのです。<br /><br /> 「計画通りに…」という発想は、理性のある人にはないのです。計画を実行することを始めたその瞬間から、絶えず改良、調整などをするのです。もし条件が揃ってこないと、または条件が悪いと、分かった時点で、どれほど苦労した計画であっても、何の躊躇もなく、中止するのです。捨てるのです。逆説的に言えば、捨てられる計画の方が、良い計画なのです。<br /><br />▼参考テキスト<br />「計画的に生きる~理性があるなら捨てられる計画を立てる~」<br /> http://www.j-theravada.net/howa/howa169.html<br /><br /> 2013/04/09法話動画<br /> http://www.ustream.tv/recorded/31188611<br /><br />~生きとし生けるものが幸せでありますように~









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オール4コマ漫画のコミックエッセイ 『ミャンマーで尼になりました』





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「みんなの寺」坊守(寺嫁)。
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みんなの寺 絵日記


寺嫁による絵日記(主に4コマ)。お寺暮らしはなかなか楽しい。

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オール4コマ漫画のコミックエッセイ

『ミャンマーで尼になりました』



ミャンマーで尼になりましたミャンマーで尼になりました
(2013/05/17)
天野和公



仏教に恋いこがれ、女ひとりでミャンマーへ!
そこで手に入れたのは、ブッダが教えてくれた「幸せに生きる」ためのヒント。

瞑想センターって?テーラワーダ仏教って?
仏教の歴史やミャンマー文化も分かる、七転八倒・実録修行マンガです。

発売は来月ですが…ようやく、ようやくかたちになります









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★正思惟・・・八正道②非論理的な欲・怒りは捨てる




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幸せに生きる~ブッダの智慧から学ぶ~
ブログ名
幸せに生きる~ブッダの智慧から学ぶ~
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すべての生命は病んでいる
病気の世の中で、健やかに楽しく生きよう。
病気に悩む人々の中で、健康な人間として生きてゆこう。(198)

あせって悩む世の中で、落ち着きを保って楽しく生きよう。
あせって悩む人々の中で、落ち着いた人間として生きてゆこう。(199)

 




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驚いた










ひとり言 | 09:26:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba 「名古屋初期仏教デー 冥想会の動画」




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#jtba 「名古屋初期仏教デー 冥想会の動画」

2012年12月09日名古屋初期仏教デー(日本ガイシフォーラム)
アルボムッレ・スマナサーラ長老と参加者の質疑応答より

00:56 手放すことが生きること
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花祭り | 09:59:37 | トラックバック(0) | コメント(0)
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お待ち致しております。                

              

 









ひとり言 | 09:53:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
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