偉大なる人の偉大なる安らぎさて、お釈迦様がこの経典を語ることになったのは、こんないきさつからでした。お釈迦様の義理の兄弟でもあるアヌルッダ尊者がたまたまひとりでいる時に、 自分の人生を観察してみました。自分が王家を出て、今森の中にひとりぼっちで出家生活をしています。しかしなんの悔いも苦しみもない。宮殿の贅沢がなにひ とつもないのに、けたちがいの安らぎと喜びを感じている。そこで考えたのです。「この、安らぎって何なのか」と。王子として宮殿にいた時とまるっきり違う 生き方です。大勢の人々に囲まれて、護衛に守られているのではなく、今、孤独に生きている。ごちそうの代わりに托鉢して貧しい人々からもらったご飯を少々 食べている。住むところは立派な家ではなく、森の中です。なのに、偉大なる安らぎがある。恐怖も不安も苦しみもない生き方をしている。私は偉大なる生活を している。普通に生活していた時と比較すると、比べものにならない尊い生活を自分はしていると。なんとなくそういう思考になっちゃったのです。人の幸不幸は、その人の思考次第です。アヌルッダ大阿羅漢が、今、偉大なる安らぎを感じているというならば、一般人とは違った「偉大なる思考」を持ってい るはずなのです。そこで、アヌルッダ大阿羅漢は「自分の思考と俗世間の思考は何が違いますか」と考えてみました。すると七つの項目が思い浮かびました。そ れをお釈迦様に報告したところ、お釈迦様は「すばらしい」とおっしゃって、それを認めました。そしてさらに、偉大なる人の七種類の思考にお釈迦様がもうひ とつの思考を足しました。その後、お釈迦様が『偉大なる人の思考』というタイトルでこの八つの項目を紹介して、説法したのです。仏教の自己紹介こ の八つの項目に、「仏教とは何か」がコンパクトに語られているのです。世間のすべての思考、普通の人間の生き方と比較してみると、仏教がいかに尊いのか、 いかにすぐれているのか、いかに超越しているのか、ということの説明なのです。くだけた言葉で言うならば、仏教の自慢話なのです。しかし、自慢話は根拠の ないホラ話か、きちんと根拠がある事実の発表か、というところがポイントなのです。ホラ吹きの自慢なら批判されますが、事実の発表ならば他人に批判される ことはありません。ひとが尊い境地に達したことを、他人が聞いて驚くのです。それから、「自分も頑張らなくてはいけない」と思うのです。そういうことで、『偉大なる人の思考』は仏教の世界では朝晩唱える経典なのです。唱えることで、仏道に励むために、自分自身を奮い立たせてもらう。「我々は暗いことをやっているのではない。普通の俗人には想像もできない尊いことをやっています」と自分自身の修行の糧とする。精進するため、励むためのエネルギーとして使うのです。(本文より)
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昔々、菩薩は立派なライオンとして生まれ、獣たちの王となって森に住んでいまし
森の西側の海辺には椰子林があり、たくさんのウサギたちが住んでいました。ある日、一匹のウサギが食事を終え、椰子の根もとで寝ころんで、「もし大地が ひっくり返ったら、どうすればいいかなぁ…」と不安そうに考えていました。すると、その瞬間、熟した大きな椰子の実が一つ、「ダダーン!」とすごく大きな 音をたてて落下したのです。
ウサギはビックリ仰天して飛び起きて、「本当に大地がひっくり返るんだ!」と後も見ず、一目さんに逃げ出しました。死の恐怖で真っ青になってすごい勢いで逃げるウサギを見て、他のウサギたちが「どうしたんだ!」と驚いて訊きました。
ウサギは懸命に逃げながら、「話なんかしてる場合じゃない!」と必死の形相で言いました。「これはただごとではない」と思ってさらにたずねると、ウサギ は「大地がひっくり返るんだよ~」と走りながら叫んだのです。それを聞いて、たくさんのウサギたちも、次々に逃げ出しました。我も我もと逃げる数は増え続 け、とうとう十万匹のウサギの大群が、一斉に駆けだしたのです。
それを鹿たちが見て、「どうしたのだ!」と訊きました。ウサギたちが「大地がひっくり返るんだよ~」と皆で叫ぶと、「大変だ!」と鹿たちも一緒に逃げ出しました。それを見てイノシシたちが、「なぜ逃げるのだ!」と訊きました。
皆が逃げながら「大地がひっくり返る、大地がひっくり返る」と言うのを聞いて、イノシシたちも逃げ出しました。次に牛たちが、次に水牛たちが、次に山羊 たちが、つられて逃げ出しました。そして犀たち、次に虎たち、ライオンたち、さらに象たちまでが、皆、死の恐怖にとらわれて、「大変だ!大地がひっくり返 る!」と、必死で逃げ出したのです。森中の動物たちの大集団が血相を変えて怒濤の勢いで走るという、たいへんな騒ぎになりました…(続く http://bit.ly/174H48x )
◆解説
この物語のウサギは、腹一杯食べて居眠りしながら、余計な妄想を始めたのです。この妄想が大騒ぎの原因なのです。ここで「妄想なんかは全くもくだらな い、かえって危険なものである」と教えています。妄想なんかは誰にでも簡単にできます。食べ過ぎたらそれに関連して何かを妄想する。飲み過ぎて酔っぱらっ たら、別なことを妄想する。仕事を失敗したら、また何かを妄想する。体調が崩れたら何かを妄想する。
24時間、人は絶えず妄想し続ける。妄想の中身はバラバラで、一貫性があるものではないのです。公園で散歩をしながら何かを妄想して、家に帰ると子供た ちが散らかした居間が目に入る。それでまた別なことを妄想する。人はその場でその場で、何かを妄想して生きている。妄想には何の一貫性もないから、ちょっ と前に何を妄想したか、きれいさっぱり忘れる。これが、普通の人の生き方です。
妄想することほど簡単な行為はありません。人の人生は妄想で始まります。赤ちゃんのときから、親が子供に妄想遊びをさせます。子供の遊びは、ほとんど妄 想と戯れることです。それから我々は死ぬまで妄想し続けるのです。世間ではそれを「想像力」と評価する傾向があります。妄想を実行して人の役に立ったなら ば、その妄想に「想像力」と言えるでしょう。
しかし、他人の役に立つ思考・アイデアなどに豊かな人間は、この世でとても少ないです。妄想は無知から発生する心の回転なのです。生きるために必要な精 神的なエネルギーが、この心の無駄な回転に浪費されるから、皆、常に疲れています。力がありません。妄想さえ控えれば、人生はエネルギーに溢れる明るいも のに、たちまち変わります。
この物語に出てくる菩薩のライオン(仏教の立場)は、皆の役に立つことと事実とに基づいて考察するべきだと推薦しています。人の妄想を鵜呑みにせずに、 事実は自分自身で確かめるべきものです。この世界は妄想の達人たち(無知の代物)に支配されているから、苦が絶えないのです。
●Image: dustandrust.com
▼参考テキスト
「ダダーン!」物語
http://www.j-theravada.net/jataka/jataka-0501.html
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山門--仏教--12 |
仏教 No.12 |
「お経に照らし合わせる」 7年ほども前、京都にある日蓮宗の大きなお寺を会場にお借りして スマナサーラ長老の宿泊冥想会が行われたことがありました。 用事が出来て最初のご説法だけを聞いて帰ったのでしたが、その時私なりに受け取ったお話から少し書いてみます。 世の中の宗教・信仰というものは、その教えで決められている考え方や仕来り作法を疑わず迷わずに信じて言われる通りに行うことが大事で、それは言ってみれば自分の自由は無いということです。 お釈迦さまの仏教は、その反対で自由なものです。 教えが本当かどうかと自分でしっかりと試し自分の目で見て納得し、疑いの無い確信を得ることが大事ですので、他の宗教と大きく違います。 しかし、そのように各自が自由に考えて自分でいろいろに受け取ると、それぞれ人により、元々の教えとは随分違った捉え方をすることが、必ず起きてきます。 一口に仏教といっても、テーラワーダ仏教でさえも国によりリーダーにより随分違いがあるように思われますし、 日本の大乗仏教などでは、各宗派により本尊佛・お経・服装・法要・その他それぞれに大変な違いがあります。 また同じ宗派であっても、複数の派に分かれるとそれぞれの仕来り作法などが大きく違うのですが、これが当たり前でちっとも不思議でないのが実に不思議なところです。 どの宗派のお祖師様方も、自分こそがお釈迦さまの教えを寸分違わずに正しく伝えている者だよと、それぞれが固く信じていた訳ですし、その流れを汲む法孫も、どの本山も末派寺院も正伝の仏教は自分の所だよと信じているものなのです。 続きのリンク先 |
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Yathā agāraṃ suchannaṃ,
vuṭṭhī na samativijjhati;
Evaṃ subhāvitaṃ cittaṃ,
rāgo na samativijjhati.(Dhmmapada,14)
日本語訳:「屋根を丁寧に、よく葺いてある家に雨が漏らないように、修養された心に貪欲が侵入しない」
◆
・心の病いは、人の悩み、苦しみを育てている大本。
・五感覚器官から入る情報は心を剌激し、心に起こる思考や想念によって動揺し、汚れる。
・しかも、概念や外界の情報そのものには心を汚すことも、清めることもできない。
・心のすべての悩み、苦しみの原因は「我が心の中」にあって、外にはない。
・常に自分の身体と心の動きに「気づき・Sati」が自分を守り、清浄にする方法。
心の病いは人類全体、いや仏教の立場から言えば一切の生命体を悩ませている重大問題です。心の問題と言いますと、私たちはすぐ精神的問題を想起します が、それは医学の領域で、今日では精神医学もまた急速な進捗をみせておりますが、ここで言う心の問題とは、心の苦しみ、悩み、悲しみ、怒りなど通俗的な表 現で言えば“感情”と言っているものです。感情ですから、満足感、愛情、興奮なども当然含まれます。ちょっと思いつくだけでも挙げてみましょうか。貪欲、 慎恚、無知、嫉妬、恨み、不満、不安、恐怖、無気力、怠惰、ストレス、退屈、苛立ち、葛藤、不愉快、羞恥、高慢、失望、劣等感、頑迷、被害妄想、誇大妄 想、躁鬱、緊張、野望、不信、後悔、罪悪感…そうです、みなどれも自分を苦しめた感情として覚えがあるでしょう。
お釈迦様は、この心の病いに対して「心の汚ごれ」という意味の『煩悩』という用語を用いられました。ところで仏教では、この「煩悩」には、なんと 1500もの種類があるといっています。「汚れ」が心の病いを作るとすれば、1500の「汚れ」の組み合わせによって心の病いは相当な数になります。「身 体の病いに悩まされない人はこの世にいますが、心の病気に悩まされない人はひとりもいません」というお釈迦様の言葉もむべなるかなというものでしょう。そ れだけに「心の汚れ」の問題はこの世を生きる人間の最大重要事で、心がどんなふうにして「煩悩」という細菌に冒されていくのかを考察することも大切です。
汚れはどこで発生し、どこからあなたの中へと入り込むのでしょうか?
身体の病いの場合は、外部からも内部からも原因が発生しますが、心の汚れはあなたの内部、心の中で発生する以外原因はあり得ないのです。物体と生命体の 厳とした違いがここにあります。生命体は自分の存在と外部(環境)の存在を察知することができますが、物体にはそれができません。それが「心」というもの の働きなのです。諸感覚器官から入る情報から心は刺激され、「感じる、知る、認識する、存在感‥」というプロセスを経て判断していきます。情報そのものに は、心を汚すものや心を清める作用をするものは一切含まれてはいません。その情報に刺激され、心を汚すのも、清めるのも、すべては自分の生命体の独自の判 断・態度に委ねられているのです。
お釈迦様はこう説かれます。「煩悩は外に存在する諸々の対象ではなく、人の心のなかにある概念(想念)です。外に存在する美しいものは“欲”ではありません」
識別作用の刺激を受けた心が、いつも正しく、ありのままの姿として情報を促えていく、それが心の健康の唯一の治療法ですが、そのための心の修養としての 方法はヴィパッサナー冥想法しかありません。常にありのままを観る習慣を、この冥想法で身につけてください。すべての外界の情報に対して、また識別作用に 対して気づく「サテイ(Sati)」を怠らないことなのです。
●イラスト:玉城雪子
▼参考テキスト
「心のワクチン~苦しみ、悩みという病気に患らない為に~」
http://www.j-theravada.net/howa/howa7.html
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The Chant of Mettā Text 慈しみの声明
The Chant of Mettā Text 慈しみの声明
(木岡治美訳/ウ・ウエープッラ『南方仏教基本聖典』参考)
※パーリ語で唱えられている『慈しみの声明』テキストとその日本語訳です。
Ahaṃ avero homi
私は恨みのない人間であらんことを。
abyāpajjho homi
私は瞋りのない人間であらんことを。
anīgho homi
私は悩みのない人間であらんことを。
sukhī- attānaṃ pariharāmi
安楽に過ごせんことを。
Mama mātāpitu
私の母や父が、
ācariya ca ñātimitta ca
先生や親族や友と、
sabrahma- cārino ca
修行仲間とが、
averā hontu
恨みのない人間であらんことを。
abyāpajjhā hontu
瞋りのない人間であらんことを。
anīghā hontu
悩みのない人間であらんことを。
sukhī - attānaṃ pariharantu
安楽に過ごせんことを。
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#jtba「善のはじまり」(八正道の正見とは?)
『八正道』は、悪を為さず、善を為し、悟りへと進む八支の道のことです。
その八正道の第一番目が「正見・
仏道は智慧の道なので、智慧(正見)で始まって智慧(正定)で終わるのです。 智慧の目で見るとは、客観的にありのままに事実を見て、因果関係を理解す ることです。正しい道徳や修行によって心が清らかになって幸福になる、という因果関係に納得すると、八正道を信頼して進んでいくことができるようになりま す。
正しく見るためには、「これこそだ」と何かの意見にとらわれないことと、固定概念を捨てることが大切です。その上で、客観的に見てみるのです。何を見るのかというと、まず自分を観察するのです。「生きるということはどういうことなのか」「自分とは何なのか」とまず理解する。そこから始まります。
悟りへの道は、「悟るぞ」「煩悩をなくすぞ」と力むのではなく、「自分とは何なのか」と正直に見ることが第一歩なのです。たとえば怠けていたら、単純 に、「あ、私に怠けがある」と見る。それだけでいいです。「ああとんでもない、こんなことではダメだ、ダメだ」などと考えたり、妄想することはいりませ ん。自分が怠け者であることを認めずに、どこかで「自分の嫌な面を消してやろう、消してやろう」と思ってしまう。それは逆効果です。怠けが出たら「怠 け」、怒りが出たら「怒り」と、感情を置いておいて、ありのままに見るのです。
そして、できるだけ細かいところまで観察するようにしていきます。それで初めて「なるほど、こんなものか」とわかってくるのです。「生きることは dukkha(ドゥッカ:苦)だ」とわかるのです。よく見ると、「自分」は一瞬たりとも固定していない。安定していない。ものすごい速さで変化していく。 「すべてはどんどん変化する、何にしがみついていても虚しい、結局はどうということはない、すべてはdukkha(苦)だ」とわかる。それが正見です。
自分をさらに観察すると、心の中には常に「まだ満たされていない、生きていきたい」という根深い衝動があるのに気づきます。それが渇愛です。怒りも、憎 しみも、怠けも、欲も、だらしなさも、いいかげんなところも、すべて渇愛からくるのです。「生きていきたい」から、どんなだらしないことでもする。その上 に「私はそういう人間ではない」と平気で隠したりもします。 善人ぶるのもすべて、渇愛のせいです。観察する一個一個の項目は、すべて苦であって虚しいも のであるのに、それでも生きていきたいのはなぜか。それは、わけもわからない衝動である「渇愛」…これのせいなのですね。世の中のすべての生命は渇愛に よって苦しみを味わっているのです。
渇愛があるのは、自分の心です。何かを見たり、聞いたり、食べたりして、それで欲や怒りが生まれるのです。原因は自分の心にある ということは、自分の 心からウイルスを取り除いて治療すれば、問題はなくなるのですね。渇愛がなくなれば苦しみがなくなる。それこそが最高に幸福な状態(涅槃)です、とお釈迦 さまはおっしゃっています。
では、そのためにはどうすればいいのでしょうか?方法がなければ、いくら立派な教えであっても意味がありません。お釈迦さまは、その方法もちゃんと教えておられます。それが八正道なのです。
そのような四聖諦(苦集滅道)という四つの真理を理解することが「正見」です<①苦(dukkha)を知る、②苦がどのように生まれるか、その原因を知 る、③苦が消えた状態を知る、④苦を消滅させる方法を知る>。「正見」というのは、頭がすごく整理されていることです。ゴチャゴチャした曖昧な思考で苦し まず、しっかりと真理を納得していることなのです。
●イラスト:佐藤広基
▼参考テキスト
「ARIYA ATTANGIKA MAGGA:八正道 」
http://bit.ly/8oiqpw
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★八正道は革命的な教え
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正定・・・八正道⑧心の統一
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仏陀の九徳
Iti pi so bhagavâ araham sammâ-sambuddho
vijjâ-carana-sampanno sugato loka-vidû
anuttaro purisa-damma-sârathî, satthâ
deva-manussânam buddho bhagavâ ti.
かの世尊は阿羅漢であり、正自覚者であり、明行足であり、善逝であり、世間解であり、無上士であり、調御丈夫であり、天人師であり、仏であり、世尊である
このパーリ語の仏陀を表す言葉は仏陀の九徳として知られているものです。しかし、日本訳の注では『仏の十徳でありまた十仏名として知られる』とあります。実は、十ではなく九徳なのです。
・ Iti pi so bhagavâ araham アラハンである。
日本訳で「阿羅漢」というこの言葉は、特別な仏教用語ではありません。当時の一般的な冥想の世界を探検した宗教家たちが理想的な境地を表すために使ってい た言葉なのです。冥想修行して完全な理想に至った人はみなアラハンと言う。それを仏教でも使って仏教的な定義をしているのです。
宗教家、特に当時のインドの修行者たちはみんな正直者でした。ただ金のために、有名になるために、あるいは食べるために、宗教家を目指すようなニ セ者はいなかったのです。ほとんどの人々は財産を捨てて、体ひとつで修行に出た人々なのですね。だからかなり正直で、誰も軽々しく「私はアラハンになりま した」とは言わない。修行する、納得いかない、また修行をする、ずっとアラハンを目指して頑張っている。つまり普通は、修行中の人々は公言しないものなの です。
お釈迦さまは真理を悟ったのだから「アラハンになりました」と言ったのですが、それで疑った人々もいるのです。「ものすごく長い間修行してきた大 変な年寄りの仙人たちも自分がアラカンだと名乗っていないのだ。あなたは若いくせによく言う」というふうにお釈迦さまに詰問した人もあります。ということ は、いかにこの言葉自体が大変な言葉かということです。それを堂々とお釈迦さまに使っている。いわゆる、完全に悟っているという意味なのです。
・ 次の言葉はsammâ-sambuddha。
人類の中で、自分の力で完全に悟った初めての方という意味です。悟りを開けば誰でもブッダ、覚者と呼ばれますが、自力で悟った初めての独覚者という意味で、正自覚者というのです。
・ Vijjâcaraza-sampanno。
日本語で「明行足」。この日本語はどういう意味か分かりませんね。一般的な意味は、「明」は「智慧」、「行」というのは「性格」なのです。智慧も性格も完成している。それも人間として必要なポイントなのです。
世間には、頭はいいが性格が悪い人々がいるではないですか。一方、性格はいいが頭は駄目という人もいて、なかなか両方揃わない。それは世の中で普 通にあることなのです。例えば、頭は悪くて判断能力は鈍いし何かやったら失敗する人は、性格でそれを補う。あまり激しいことは言わないし、みんなに親切に ふるまったりして、人々から性格は立派だ、正直者だというふうにほめそやされる。でも何かあったら相談に乗ってくれるかというと、それは無理です。逆に頭 のいい人々は乱暴でわがままでいい加減で、性格は悪い。そうすると人々は、あの人は頭はいいが性格はもうひとつだというふうに言う。完全な人というのは智 慧も抜群に完成して、そのうえ性格も完成しているという意味なのです。
本当の注釈はそれだけでは終わりません。明行具足というのは二、三時間かけても説明できないほど大変難しい仏教の専門用語なのです。注釈書ではお 釈迦さまの「明」とは何か、「行」とは何かをはっきりと定義しています。お釈迦さまが身につけていた「行」というのは性格というよりも冥想の力なのです。 大変な冥想の達人で、ありとあらゆる精神的能力を持っていたのです。それに付け加えて、智慧もありました。
ここで皆さまの場合は、「智慧もあって、人格も完璧で正しい」という一般的な理解で十分だと思います。
・ Sugato。
スガトーは、「善逝」と訳しています。Sugata は、注に「正しく行ったこと」とあります。Gata というのは「行」。出家者ですから修行はもう完全に卒業しましたという意味なのです。お坊さんが経典を勉強する場合は、ものすごく厳密な専門的な注釈は別にあります。でも一般的な理解では、自分の仕事は完成しました、というぐらいの意味で結構です。
・ 次に、loka-vidû。
この伝統的な訳は、「世間解」。「解」というのは、理解している。「世間」というのは生命のことです。人々のこと、生命の問題はもう解いてしまっているの です。現代風に言えば、「命」という大きなテーマは何ですか、とみんな宗教の世界で探しているでしょう。「私は誰ですか」、「命って何ですか」、「死んだ らどうなるのですか」、「なぜ生まれてきたのですか」、というふうにどんな宗教の世界でも扱う問題がありますね。神に創造された宗教でも、「死んだら地獄 か天国に行く」とか、人間の問題を語るのです。
ですからこの「世間解」というのも、もう生命という問題を解決した、人間の問題を解いてしまったという意味になります。パーリ語でもうひとつ、すべてのことは知っているという意味もあります。
・ Anuttaro purisa-damma-sârathî 。
これは、「無上士であり」ではなくて、「無上調御丈夫」と私たちは一緒に読みます。Anuttaraというのは「偉大なる」。日本訳の「無上」は「この上ない」ということ。Sârathîというのは「リーダー」という意味です。Purisaの意味は「人々」。Dammaというのは「調教」のことです。
ブッダは我々の性格をたたき直して立派な人間にする調教師なのです。知らないことを教えてくれるだけでなく、弱みやゆがみだらけの情けない我々の人格をたたき直して立派な人間にしてみせる先生なのです。だから、お釈迦さまに勝る先生はいないという意味です。
優しくてみんなにニコニコ顔して性格のたたき直しはできるわけはないのです。イエス様はものすごく親切で優しい受難の方として描かれていますが、お釈迦 さまは大人しく黙って自分一人でみんなの苦しみを受け入れるのではないのです。それは、お釈迦さまが失礼で乱暴だという意味ではありません。本当に人のこ とをものすごく心配していたのですが、心配したからこそみんなに怠けは認めない。お釈迦さまはこの上なく厳しい調教師でした。
・ 次にsatthâ deva-manussânam 。
「天人師」とあります。これは人間の先生と言うだけでなく、天にも先生だと限りなく威張ってしまう。「神々であろうが出てこい、教えてあげるのだ」と言うのです。
何故そんなことを言いますかというと、宗教は人間がすごくレベルを低くして尊い神に祈るというのが、一般的な宗教の形でしょう。祈りというものは 宗教には欠かせないものです。でも仏教には神ヘの祈りはありません。反対のことを言うのです。祈ってかなうならみんな祈ればいい。「金持ちになりたい、き れいになりたい、年をとりたくない、病気になりたくない、死にたくはない」等々祈ってなれるのだったら、そんなことはみんなやるのだと。ですから仏教は祈 りの宗教ではないのです。
そのお釈迦さまの特色、仏教の特色を言うために、神も入れなければいけないのです。「人間の師は、神に対して何者か。神のしもべですか、あるいは 神の使者ですか」という問題が出てくるでしょう。それにきれいに答えるのです。「神も出てこい、教えてあげます」と。ここでほかの宗教と、お釈迦さまがこ れから教えようとしている仏教の違いを明確にしているのです。
・ Buddhoブッダというのは「智慧の完成者」ということ。
・ Bhagavâ。
バガヴァーというのは徳が高い人、尊敬に値する人です。日本訳で「世尊」であると書いています。このバガヴァーもインドの一般的な言葉です。宗教家に敬語 を使う場合はいまだに、バガヴァーという言葉を使います。並の宗教家には使いません。例えば皆さまも知っているサイババさんのようにかなり人気のある大物 にだけ使います。
リンク先はこの中
http://www.j-theravada.net/explain/syamonka-1.html
質問法話会ログ2011/12/11
〜法話・ブッダの九徳についての解説の部〜
※日常読誦経典を参照しながらこの説法を頂きました。
私達がお釈迦さまに礼拝して唱えているのは、こんな意味があるんですよということを説明します。
(1)阿羅漢:一切の煩悩を滅尽し、神々・人間の尊厳、供養を受けるに値する方
車輪に軸があり、スポークがある、このスポークを全て壊した存在。車輪は「輪廻」の喩えです。
供養を受けるに値する:お布施をするとすごい功徳がある。
一切の悪いことを隠さない。
だれも見ていなくても、全く悪いことをしない存在
(2)正自覚者:完全たる覚りを最初に覚って、その悟りへの道を他に教えられる方
自分で覚った方には二種類いらして、独覚と言って自分で覚るんだけど人を覚りに導けない方、それとお釈迦様のように人を覚りに導いた方がいらっしゃる。
(3)明行具足者:八種の智慧と15種の行「性格に関する徳」が備わっている方
ヴィッジャー:智慧
アラナ:行為、行動、性格
サンパンノー: 備わっている方
八 種の智慧(八明): 八種類の神通力。無常、苦、無我を観ることが出来る智慧。他者を自分の思い通りにコントロール出来る智慧。空を飛んだり、地下に潜ったり、色々なものに変 身したり出来る智慧。遠くの音や小さな声を聞くことが出来る智慧。他人の心を読むことが出来る智慧。自分のこととか他人の事とか、過去生を知ることが出来 る智慧。普通肉眼で見えないような遠いところや、微小なものを観ることが出来る智慧。一切の煩悩を滅し尽くすことが出来る智慧。
15種の行「性格 に関する徳」、お釈迦様の性格を表している:戒律をきちんと守ることが出来ること、貪欲や怒りの煩悩が生じないよう、六根を守ることが出来ること、食事に おいて適量を知ることが出来ること(こんちん睡眠を防ぐ意味でも大切)、不眠の努力(全然眠らないということではなく、惰眠を貪らない)、仏法僧の三宝・ 因果律を信じている・納得している性格、悪事をすることを内心に恥じる・コントロールできること、悪事をすることを外部に恐れる性格、知識が多くの分野に 及ぶ・偏りなく知識豊かな人であること、覚りを得る目的に向かって正しく努力する・悪を取り除く努力が出来る人(精進)、常に気づきがあること(念)、智 慧がある・真理をきっちり観ることが出来ること、初禅〜第四禅を備えていること(←これで4項目) 以上で15
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【Youtube 動画配信】5月のスマナサーラ長老法話(5/17更新)
どうぞ、ご覧になってみてください。
スマナサーラ長老 記念法話<約36分>
http://youtu.be/4CmGdMfxVx8
2013年 5月4日(土) 関西月例冥想会

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