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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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おしゃべりは危険なもの!




一日一誤日記-----  くずはら よしかず 





おしゃべりは危険なもの!

昨日は、母親の病院付き添いと昼食にて約半日の親孝行?
待合室にて、車中にて、回転すしにて、おしゃべりは続く。

認知症が進行しているとの医者の説明だが、病気というより、記憶したり考えるという機能が低下しているということで、それは身体の老化と同じようなものでどうということはない。

しかし、「話していたい」というエネルギーと欲は低下したり減少することはない。
しかも、その感情の中身は他への批判と被害妄想で、それに加えて身体機能の減衰と死への恐怖がさらに怒りを生む。
すしを食べている時も食べ物に関心が移ることはない。

老化で機能、能力は低下するが、性格や考え方は変化しないのが人間というか生命の本質なのだろう。
半日、途切れることのないおしゃべりを聞いていると、この思考パターンが24時間続いているのだと思い私も苦しくなる。このワンパターンが彼女の住む世界だ。

母親のことはよく見えるが、私も同じワンパターンなのだとはなかなか認められない。

輪廻という無知蒙昧な迷信を仏教は信じていると昔は考えていたが、今は、上記の例で推測してみると、幼児の時からもこのパターンでしかないのだから、生きているときにおしゃべりで更に巨大化させたこのワンパターンエネルギーが老化したボロボロの肉体が死んだからといって消滅するとは思えない。

自分の体験で考えてみるとおしゃべりで良い結果が得られたことは無い。そして、あの人はこんな人と、おしゃべりの内容で他からは評価されているのだ。

妻との小さな社会で観察してみると、最近は言おうとした言葉を飲み込むようにしているのだが、言わないで良かったという事例ばかりだ。
逆に、妻のおしゃべりは、それは言わないほうがあなたも私も気持ちがいいでしょうと思うからだ。

おしゃべりは、感情を妄想を強化してさらにワンパターン思考に育て上げる。
言葉を言ったからといって、相手の人とコミュニュケーション出来ているという錯覚が生まれるだけだ。

相手に何か言いたいと思ったときに飲み込める能力が、自分のワンパターンの性格を変化させるチャンスを齎すと、母親の介護で学んだ。









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一日一誤日記 | 13:42:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
『パーリ経典講義』指導:スマナサーラ長老





日本テーラワーダ仏教協会さんがリンクをシェアしました。
‪#‎jtba‬【ご案内】本日、7/25(木)『パーリ経典講義』

『パーリ経典講義』指導:スマナサーラ長老
東京:ゴータミー精舎、時間18:30~21:00

相応部・増支部・中部など数あるパーリ経典の中から、パーリ語の原意から詳説します。翻訳では決して伝わらないブッダの真意に触れることができます。どなたでも参加できます!


...もっと見る




 

≪Ustream配信≫※7/25(木)18:30~21:00予定
http://www.ustream.tv/channel/jtba
参加できない方は、ネットでご覧になってみてください。

※ネット接続状況による中止・変更の可能性もございます。
 予めご了承ください。よろしくお願いいたします。

▼中継情報はコチラ
https://twitter.com/DhammaStream
法話実況メモ
https://twitter.com/jtba_talk

~生きとし生けるものが幸せでありますように~













facebook | 06:25:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
私に怒りのこころが出現する限りは、いつでも危険がいっぱいなのだ。




一日一誤日記 ---くずはら よしかず 





昨日は奈良在住の姪っ子の出産祝いに出かけた。

西名阪のインターを降りたあたりから、妻は右だ左だと指示を出すのだが、これが当てにならない。
私なら、3回、4回と予想が外れたら、言葉も出なくなるのだが、よほど自信があるらしく交差点にさしかかる度に指示が出る。
全部無視して目的地の近くまできたが、最後に私が間違えた。
今までならここで大変なことになるのだが、敵もさるもの平静を保持した(お主やるな)。
車内は危険な空気に包まれるものの互いの感情をコントロールして無事に目的地に辿り着いた。

帰りの道も同じように指示を出すので、「ややこしいから右だ左だの言わないで欲しい」と嘆願した。
妻は、思ったことを言っているだけです。判断は運転者がすれば良いだけでしょうとのことで、正にその通りである。

車内での危険はナビを購入すれば解消するが、それ以外の時間は「私は怒りません、怒るのはカッコワルイ」という「観察ナビ」を携帯しなければ危ない。

私に怒りのこころが出現する限りは、いつでも危険がいっぱいなのだ。









一日一誤日記 | 09:20:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
悪感情の拡散で周囲に迷惑をかけないで生きるというわたしの人格改造




一日一誤日記    悪感情の拡散で周囲に迷惑をかけないで生きるというわたしの人格改造





昨日はデイサービス施設みやまにて訪問演奏。

朝は雨だったが、昼には晴天になり気温は急上昇。
PAの準備をしているとおしゃべりが耳に入ってくる。
暑い、寒いを感じたときに、イヤダ!という怒りの感情のある時があり、それを他の人に話すと拡散する。

演奏がはじまると隣の人に大きな声でおしゃべりを始める人が時々いる。
何か思いがあるのだろうが、私がそれを嫌だなあと思うと悪感情を演奏してしまう破目になる。

自分に悪感情があるだけでも大変なのに、これを拡散させて周囲に迷惑をかけることなく生きるということはかなり難しいと思った。

約40分間、聴く人にも演奏する私にもいろんな感情が出てくる。
昨日は、おしゃべりあり、苦情あり、美しい声で一緒に歌ってもらったり、拍手をしっかりしてもらったり。
どんな時でも自分に悪感情が出ているかどうかチェックしていなければならない。
めったにないことだが、褒めてもらったときはもっと要チェックである。

昨日は久しぶりにサックスで3曲演奏した。
いい音を出すためのフォーム改造だが、不安定な期間が収まり、少しは音が変わったなあという手応えがあった。

悪感情の拡散で周囲に迷惑をかけないで生きるというわたしの人格改造に、音楽活動が少しは役に立つならば有難いのだが、、、

掲載写真は演奏後に出会った、ここの施設で生活しているヤギさんたち。
この人たちはおだやかに暮らしているようだ。

                    くずはら よしかず

写真
写真









一日一誤日記 | 14:09:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
8・9・10・11月 予定



8・9・10・11月 予定




8月
     

04日(日)   予定無し
11日(日)   予定無し   
18日(日)  予定無し

25日(日) 「経典自主勉強会」希望者で申込済の方限定
                 女性会館 第2集会室  午後1時~4時30分
            


8月 有りません  
  名古屋初期仏教デー (スマナサーラ長老)
8月 有りません  日曜自主冥想会---宝珠院  
                 
使用部屋---正面右手入り口より左--本堂(夏)

8月 有りません ヤサ先生法話会  





9月


01日(日)
  日曜自主冥想会---宝珠院  
                 
使用部屋---正面右手入り口より左--本堂(夏)

08日(日)未定

15日(日)  名古屋初期仏教デー (スマナサーラ長老)-
       日本ガイシホーラム
---確定
            初めて冥想会へ参加される方へのご案内-

22日(日) 「経典自主勉強会」希望者で申込済の方限定
                        女性会館 第2集会室  午後1時~4時30分

29日(日)
  日曜自主冥想会---宝珠院  
                 
使用部屋---正面右手入り口より左--本堂(夏)





9月 有りません ヤサ先生法話会 





10月


06日(日)未定

13日
(日)「経典自主勉強会」希望者で申込済の方限定
                        女性会館 第2集会室  午後1時~4時30分

20日
(日)  名古屋初期仏教デー (スマナサーラ長老)-
         日本ガイシホーラム---確定

                初めて冥想会へ参加される方へのご案内-

27日(日)未定



10月 有りません ヤサ先生法話会 
未定   日曜自主冥想会---宝珠院  
                 
使用部屋---正面右手入り口より左--本堂(夏)





11月


03日(日)未定
10日(日)未定
17日(日)未定
24日(日)未定



確定 有りません  
  名古屋初期仏教デー (スマナサーラ長老)
初期ぶっきょうでー  

11月 有りません ヤサ先生法話会 
後は開催予定ですが日にち未定です
未定   日曜自主冥想会---宝珠院  
                 
使用部屋---正面右手入り口より左--本堂(夏)

未定 「経典自主勉強会」希望者で申込済の方限定
                        女性会館 第2集会室  午後1時~4時30分
  








行事予定 | 06:37:37 | トラックバック(0) | コメント(0)





日本テーラワーダ仏教協会

FACE  BOOK  の紹介です





‪#‎jtba‬「生命のネットワーク~やさしさを求めて~」

 私たちは、弱肉強食の世界で四苦八苦しています。私と他の生命は、いつでも奪い合っているのです。「私」と「他」の対立から、苦しみが生まれているので す。では「私」がなければ、どうなるでしょうか?「私が、私が」というエゴを捨てて、より客観的に、より普遍的に物事を見て、「生命が」と考えればいかが でしょうか?

 「生命が」と考えるなら、これもあれもすべて生命です。そこに自と他の区別はなく、対立は生じません。だから心安らかに生きたいのであれば、「私」という単語をできるだけ使わずに、一個の生命の立場で考えればよいのです。

 「生命のことはわかりません」と言うかもしれませんが、自分も一つの生命なのです。生命という視点・角度で見れば、生命として自分と他の生命に共通しているところがいっぱい見えてきます。ですから、生命として自分を見てみましょう。

 そこで突然、自分の周りに膨大な数の生命が出現するのです。そのすべてが、自分に協力してくれて、自分を成り立たせてくれる生命です。そういう「生命のネットワーク」ができあがってしまうのです。

 「無数の生命のなかで、この自分という一つの生命が、他人からやさしくされたいと思っている」「自分という生命は、他人のやさしさによって生きている。 他の生命の協力がなければ、今こことにいる自分という生命は生きていけないのだ」「この生命は、自分だけ独立して自分勝手に気ままに生きているのではな い。他の生命の協力によって成り立っているのだ」
 
 無数の生命のなかの一個の生命として自分を見たとき、このような世界が広がるはずです。普遍的に生命の状況が見えてくるはずです。そうなってくると、その他の生命が、この生命と違う法則で生きているわけがないこともわかりますね。

 自分は、独立して存在しているのではありません。生命のネットワークのなかの一つの中継点です。生命のネットワークの一員である一個の生命は、他の生命 と正しい関係を維持しなければなりません。そこで成り立つ相互的な関係が「正しいやさしさ」であり、「生命の法則」でもあるのです。

 「やさしい」というのは、ごく自然に生きることです。自己中心にものを考えないことです。「自我がない」ということが、「やさしい」ということなので す。「自我がある」と、「やさしい」ではなくて「恐ろしい」のです。私たちは、お互いに依存し合って、エゴで結びつけ合って、離れないようにしている状態 を「愛」と呼んでいますが、愛はとても恐ろしいものなのです。

 本当の「やさしさ」は、自然のネットワークのなかで何のことはなく、空気のごとく、水のごとく、「私」がない状態でいることです。エゴのない人は、空気のようにすべての生命と関係を持っていて、とてもありがたいのです。

 私たちも時と場合に応じて、母親になったり、父親になったり、子供になったり、社員になったり、お詫び係になったりと、いろいろな仮の役割を果たさなけ ればなりません。そのときは正しくその役割を果たせばよいのです。「会社では社長だけど、街を歩いているときはただのおじさんだ」「学校では先生だけど、 家に帰ったら父親だ」「家では父親だけど、母さんの前ではやっぱり息子だ」と自然にやればいいのです。それは論理的に正しく、シンプルで、まったく無理が ない、とても素晴らしい生き方だと思います。

 安らぎを感じて幸福に生きたいのであれば、もうエゴを消すしかないのです。それしか道はありません。エゴを捨てて、ネットワークで自然に出てくる義務を 果たすなら、ネットワークはあなたに必要なものを全部用意してくれます。満たされて生きていられます。(ブッダが教えた本当のやさしさ より抜粋)

●イラスト:玉城雪子
▼参考テキスト
ブッダが教えた本当のやさしさ(宝島SUGOI文庫)
http://amzn.to/13W9Eat

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

写真: #jtba「生命のネットワーク~やさしさを求めて~」<br><br> 私たちは、弱肉強食の世界で四苦八苦しています。私と他の生命は、いつでも奪い合っているのです。「私」と「他」の対立から、苦しみが生まれているのです。では「私」がなければ、どうなるでしょうか?「私が、私が」というエゴを捨てて、より客観的に、より普遍的に物事を見て、「生命が」と考えればいかがでしょうか?<br><br> 「生命が」と考えるなら、これもあれもすべて生命です。そこに自と他の区別はなく、対立は生じません。だから心安らかに生きたいのであれば、「私」という単語をできるだけ使わずに、一個の生命の立場で考えればよいのです。<br><br> 「生命のことはわかりません」と言うかもしれませんが、自分も一つの生命なのです。生命という視点・角度で見れば、生命として自分と他の生命に共通しているところがいっぱい見えてきます。ですから、生命として自分を見てみましょう。<br><br> そこで突然、自分の周りに膨大な数の生命が出現するのです。そのすべてが、自分に協力してくれて、自分を成り立たせてくれる生命です。そういう「生命のネットワーク」ができあがってしまうのです。<br><br> 「無数の生命のなかで、この自分という一つの生命が、他人からやさしくされたいと思っている」「自分という生命は、他人のやさしさによって生きている。他の生命の協力がなければ、今こことにいる自分という生命は生きていけないのだ」「この生命は、自分だけ独立して自分勝手に気ままに生きているのではない。他の生命の協力によって成り立っているのだ」<br> <br> 無数の生命のなかの一個の生命として自分を見たとき、このような世界が広がるはずです。普遍的に生命の状況が見えてくるはずです。そうなってくると、その他の生命が、この生命と違う法則で生きているわけがないこともわかりますね。<br><br> 自分は、独立して存在しているのではありません。生命のネットワークのなかの一つの中継点です。生命のネットワークの一員である一個の生命は、他の生命と正しい関係を維持しなければなりません。そこで成り立つ相互的な関係が「正しいやさしさ」であり、「生命の法則」でもあるのです。<br><br> 「やさしい」というのは、ごく自然に生きることです。自己中心にものを考えないことです。「自我がない」ということが、「やさしい」ということなのです。「自我がある」と、「やさしい」ではなくて「恐ろしい」のです。私たちは、お互いに依存し合って、エゴで結びつけ合って、離れないようにしている状態を「愛」と呼んでいますが、愛はとても恐ろしいものなのです。<br><br> 本当の「やさしさ」は、自然のネットワークのなかで何のことはなく、空気のごとく、水のごとく、「私」がない状態でいることです。エゴのない人は、空気のようにすべての生命と関係を持っていて、とてもありがたいのです。<br><br> 私たちも時と場合に応じて、母親になったり、父親になったり、子供になったり、社員になったり、お詫び係になったりと、いろいろな仮の役割を果たさなければなりません。そのときは正しくその役割を果たせばよいのです。「会社では社長だけど、街を歩いているときはただのおじさんだ」「学校では先生だけど、家に帰ったら父親だ」「家では父親だけど、母さんの前ではやっぱり息子だ」と自然にやればいいのです。それは論理的に正しく、シンプルで、まったく無理がない、とても素晴らしい生き方だと思います。<br><br> 安らぎを感じて幸福に生きたいのであれば、もうエゴを消すしかないのです。それしか道はありません。エゴを捨てて、ネットワークで自然に出てくる義務を果たすなら、ネットワークはあなたに必要なものを全部用意してくれます。満たされて生きていられます。(ブッダが教えた本当のやさしさ より抜粋)<br><br>●イラスト:玉城雪子<br>▼参考テキスト<br>ブッダが教えた本当のやさしさ(宝島SUGOI文庫)<br>http://amzn.to/13W9Eat<br><br>~生きとし生けるものが幸せでありますように~









facebook | 09:35:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
#‎jtba‬「思い込まない、信じ込む必要はない」






日本テーラワーダ仏教協会
の紹介です。







‪#‎jtba‬「思い込まない、信じ込む必要はない」

自分の無知を「業」や「生まれつき」だと思い込んでいないか?
 
 賢者という性質は持って生まれるものではありません。智慧のある人間になるためにはそれなりの努力が必要です。それなのに普通の人間は、運命・業・定 め・生まれつきのような概念を使って自分達の状態を解釈しがちです。自分の状態を納得するためにそのような解釈を使うのも構いませんが、だからしょうがな いと決めつけるのは、問題です。よく考えるとこれは自分の状態が進歩、成長しないことの言い訳にも聞こえます。

 因果法則を語る仏教では、何の原因もなく何かが現われるとは考えません。我々の今の状態も何らかの因縁の結果であることは確かですが、それなりの努力を すれば、悪い状態もいい方向へ改善していけるということも事実です。業の話は仏教の中にもありますが、我々の人生が過去の業で定められ、変化しえないよう な固定されたものと考えるのは単なる邪見に過ぎません。それは無常の概念と因果論に反します。

 努力することは仏教の道徳の基盤です。努力さえすれば、どんな人間でもやがて完全なる賢者になれます。(人間は様々な能力を持って生まれますが、特別な 人間・選ばれた人・神の子・恵みを与えられた人などの概念は仏教の中にはない、ということを覚えておきましょう。たとえ恵まれた人がいても、それはそれな りの過去の努力と他の因縁の結果です)自分は恵まれていない、だから無知だと思うとその人は努力を否定する暗い人間になってしまいます。たとえ結果として できてもできなくても努力さえすれば良くなるという考え方だけは持つべきです。

「すべては無常」とは観察の結果。信じ込む必要はない!

 仏教では、いかなる方向へ観察しても、正しく観察するなら最終的には、全ては無常である・苦(dukkha)である、変化しない実体はない、因縁法則に よって現われる一時的な現象のみであるという結論にたどり着きます。これ自体は固定概念ではなく「ありのまま」の事実です。

 しかし「全ては無常だ、その角度でものを見なさい」と言ってしまえば、それもひとつの固定概念になってしまうのではと考えられるかもしれません。確かに 何も知らずに偉そうに、無常だ、無常だと言っても何の意味もありません。その人にもありのままのものは見えないかもしれません。また社会から攻撃を受ける 恐れもあります。

 そうではなく、あらゆる固定概念から心をキレイにして、自分の好き嫌いの感情からも離れ、物事を観察し事実を見てみようと努力し、それに喜びを感じるよ うにし、やがて智慧が現われて正しくものが見えるようになったとき、はじめて結論として、何だ全ては無常ではないか、それしか真理はないのだという事実に 出会うということになるのです。全てが無常だとわかったなら、その人はもうすでに賢者です。ですから、最初から「無常だ」と自分を納得させようとする必要 はありません。

●イラスト:野口香
▼参考テキスト
賢者人間入門(3)~喜びとは、真理を知ることである~
http://www.j-theravada.net/howa/howa28.html

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
写真: #jtba「思い込まない、信じ込む必要はない」<br><br>自分の無知を「業」や「生まれつき」だと思い込んでいないか?<br> <br> 賢者という性質は持って生まれるものではありません。智慧のある人間になるためにはそれなりの努力が必要です。それなのに普通の人間は、運命・業・定め・生まれつきのような概念を使って自分達の状態を解釈しがちです。自分の状態を納得するためにそのような解釈を使うのも構いませんが、だからしょうがないと決めつけるのは、問題です。よく考えるとこれは自分の状態が進歩、成長しないことの言い訳にも聞こえます。<br><br> 因果法則を語る仏教では、何の原因もなく何かが現われるとは考えません。我々の今の状態も何らかの因縁の結果であることは確かですが、それなりの努力をすれば、悪い状態もいい方向へ改善していけるということも事実です。業の話は仏教の中にもありますが、我々の人生が過去の業で定められ、変化しえないような固定されたものと考えるのは単なる邪見に過ぎません。それは無常の概念と因果論に反します。<br><br> 努力することは仏教の道徳の基盤です。努力さえすれば、どんな人間でもやがて完全なる賢者になれます。(人間は様々な能力を持って生まれますが、特別な人間・選ばれた人・神の子・恵みを与えられた人などの概念は仏教の中にはない、ということを覚えておきましょう。たとえ恵まれた人がいても、それはそれなりの過去の努力と他の因縁の結果です)自分は恵まれていない、だから無知だと思うとその人は努力を否定する暗い人間になってしまいます。たとえ結果としてできてもできなくても努力さえすれば良くなるという考え方だけは持つべきです。<br><br>「すべては無常」とは観察の結果。信じ込む必要はない!<br><br> 仏教では、いかなる方向へ観察しても、正しく観察するなら最終的には、全ては無常である・苦(dukkha)である、変化しない実体はない、因縁法則によって現われる一時的な現象のみであるという結論にたどり着きます。これ自体は固定概念ではなく「ありのまま」の事実です。<br><br> しかし「全ては無常だ、その角度でものを見なさい」と言ってしまえば、それもひとつの固定概念になってしまうのではと考えられるかもしれません。確かに何も知らずに偉そうに、無常だ、無常だと言っても何の意味もありません。その人にもありのままのものは見えないかもしれません。また社会から攻撃を受ける恐れもあります。<br><br> そうではなく、あらゆる固定概念から心をキレイにして、自分の好き嫌いの感情からも離れ、物事を観察し事実を見てみようと努力し、それに喜びを感じるようにし、やがて智慧が現われて正しくものが見えるようになったとき、はじめて結論として、何だ全ては無常ではないか、それしか真理はないのだという事実に出会うということになるのです。全てが無常だとわかったなら、その人はもうすでに賢者です。ですから、最初から「無常だ」と自分を納得させようとする必要はありません。<br><br>●イラスト:野口香<br>▼参考テキスト<br>賢者人間入門(3)~喜びとは、真理を知ることである~<br>http://www.j-theravada.net/howa/howa28.html<br><br>~生きとし生けるものが幸せでありますように~









facebook | 09:15:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
2013年07月21日    つきなみ181号 07月号掲載




誓教寺のホームページより紹介です







2013年07月21日    つきなみ181号 07月号掲載

2013年04月17日    つきなみ180号 04月号掲載

2013年03月02日    つきなみ179号 03月号掲載

2013年01月03日    つきなみ178号 01月号掲載

2012年12月22日    誓教寺2013年度年間行事掲載








住職の新刊が出ました。浄土真宗は仏教と言えるのか。言えるとしたらどう解釈すべきか。これを真正面から問いました。
タイトルも激しい『浄土真宗は仏教なのか?』(サンガ)です。
仏教と真宗を知り尽くした住職が、厳密に、しかも平易に解き明かします。

5月末の発売以来、Amazonなどで賛否両論を巻き起こした本書が、お陰様で増刷が決定しました。
2刷りはスマナサーラ長老の帯が目印です。
書店で、インターネットで、お近くの方は誓教寺にお寄りになって、お求めください。


2年前より『つきなみ』で、のちに『サンガジャパン』誌に場所を移して連載していた「仏教としての浄土真宗」が完結しました。
一冊の書物にまとめるとき、編集さんから提示されたタイトルが、これでした。デザイナーさんの装丁が、これでした。
私は2つ返事で賛同しました。無視されるより、イヤでも目に止まる形にして、読んでほしかったのです。
反応は予想どおり両極端ですが、どちらにしても、よく読んだ上でのお言葉には重みがあります。
浄土真宗と日本仏教が元気を取り戻せるよう、誓教寺もますます頑張ります。住職敬白














誓教寺 | 11:23:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
【Youtube 動画配信】6月のスマナサーラ長老法話(7/19更新)




Māyādevī Vihāra blog


の紹介です







【Youtube 動画配信】6月のスマナサーラ長老法話(7/19更新)


どうぞ、ご覧になってみてください。

2013年 6月23日(日) 関西月例冥想会 

スマナサーラ長老法話(質疑応答)<約1時間47分>



~生きとし生けるものが幸せでありますように~









Māyādevī Vihāra blog | 06:13:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
日本テーラワーダ仏教協会  「いま幸せになるために」




‪#‎jtba‬「いま幸せになるために」 

  の紹介です







あらゆるもののなかで、先立つものは心である。
あらゆるものは、心を主とし、心によってつくりだされる。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につきまとう。荷車を引く牛に車輪がついていくように。
(ダンマパダ 第一偈)

 わたしたちは、「生」の大本にある心をないがしろにしています。心よりも形あるものを大事にしています。金や健康や建物を大事にして生きています。

 生命あるものは、心によって行動しています。話したり食事をしたり、歩いたり仕事をしたりする働きは、心によるのです。人間関係がうまくいったりいかな かったりするのも、すべては心によるのです。どうしようもないと諦めることも、チャレンジするのも、心の働きです。いくら頑健でも、心にストレスが溜まれ ば健康を害します。過酷な仕事をしていても、生き甲斐をもってやっていれば疲れないものです。

 建物をつくるのは心、飛行機をつくるものは心、宇宙船をつくるのも心です。幸・不幸、成功・不成功は、心次第で決まります。心がすべての創造者なのです。ものごとは、無意識の心が願う通りに運んでいくのです。心が現実をつくっているのです。

 心のなかにネガティブな志向があれば、現実はそのようになるのです。「これは大変なことだから、自分にはできそうにもない」と心がきめてしまうと、もうできなくなります。

 わたしたちは、心をないがしろにしています。心よりも形あるものを大事にしています。金や健康や建物を大事にして生きています。これでは、物質が神様 で、心は物質の奴隷になっているようなものです。わたしたちは、心によって生きているのです。心が自己の支配者であり自己の管理者なのです。

心に関する「ダンマパダ」の一節を、もう一つご紹介しましょう。

心はとらえ難く、軽々とざわつき、欲するがままにおもむく。
その心は制御したほうがよい。
よく制御した心は、安らぎをもたらす。
(ダンマパダ 第三五偈)

 心はあまりにもその動きが早いのです。瞬時に笑いが起き、ときには怒りだします。心の動きに気がつくのは、とても難しいことです。あまりにも速いので、 怒ったときはそれに気づきません。手遅れになってから、まずいことをしたことに気づくのです。お釈迦様は「心をおさめたら、安楽をもらたす」と言われまし た。心を清らかになるように向上することが仏道なのです。そのためには、心というものを具体的にとらえなければなりません。

 たとえば、怒りという感情があるとき、それを心のなかに探しても見つかりません。しかし怒りの心は、荒々しい呼吸や、こわばった顔の表情、激しい心臓の鼓動、力の入った方などとなって、具体的に体にあらわれます。

 その体の変化――自分の体の動き、呼吸、歩き方、動作、そして感情などの具体的な動きから、心を捉えていくのです。今、起きている心の動きを捉まえたと き、はじめて心をおさめる方法を、だれでも具体的に実践できる道として説いたのが、仏教なのです。(原訳「法句経」一日一話より P.39~抜粋)

▼参考テキスト
原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話 [新書]
http://amzn.to/9M82UX

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
写真: #jtba「いま幸せになるために」<br /><br />あらゆるもののなかで、先立つものは心である。<br />あらゆるものは、心を主とし、心によってつくりだされる。<br />もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につきまとう。荷車を引く牛に車輪がついていくように。<br />(ダンマパダ 第一偈)<br /><br /> わたしたちは、「生」の大本にある心をないがしろにしています。心よりも形あるものを大事にしています。金や健康や建物を大事にして生きています。<br /><br /> 生命あるものは、心によって行動しています。話したり食事をしたり、歩いたり仕事をしたりする働きは、心によるのです。人間関係がうまくいったりいかなかったりするのも、すべては心によるのです。どうしようもないと諦めることも、チャレンジするのも、心の働きです。いくら頑健でも、心にストレスが溜まれば健康を害します。過酷な仕事をしていても、生き甲斐をもってやっていれば疲れないものです。<br /><br /> 建物をつくるのは心、飛行機をつくるものは心、宇宙船をつくるのも心です。幸・不幸、成功・不成功は、心次第で決まります。心がすべての創造者なのです。ものごとは、無意識の心が願う通りに運んでいくのです。心が現実をつくっているのです。<br /><br /> 心のなかにネガティブな志向があれば、現実はそのようになるのです。「これは大変なことだから、自分にはできそうにもない」と心がきめてしまうと、もうできなくなります。<br /><br /> わたしたちは、心をないがしろにしています。心よりも形あるものを大事にしています。金や健康や建物を大事にして生きています。これでは、物質が神様で、心は物質の奴隷になっているようなものです。わたしたちは、心によって生きているのです。心が自己の支配者であり自己の管理者なのです。<br /><br />心に関する「ダンマパダ」の一節を、もう一つご紹介しましょう。<br /><br />心はとらえ難く、軽々とざわつき、欲するがままにおもむく。<br />その心は制御したほうがよい。<br />よく制御した心は、安らぎをもたらす。<br />(ダンマパダ 第三五偈)<br /><br /> 心はあまりにもその動きが早いのです。瞬時に笑いが起き、ときには怒りだします。心の動きに気がつくのは、とても難しいことです。あまりにも速いので、怒ったときはそれに気づきません。手遅れになってから、まずいことをしたことに気づくのです。お釈迦様は「心をおさめたら、安楽をもらたす」と言われました。心を清らかになるように向上することが仏道なのです。そのためには、心というものを具体的にとらえなければなりません。<br /><br /> たとえば、怒りという感情があるとき、それを心のなかに探しても見つかりません。しかし怒りの心は、荒々しい呼吸や、こわばった顔の表情、激しい心臓の鼓動、力の入った方などとなって、具体的に体にあらわれます。<br /><br /> その体の変化――自分の体の動き、呼吸、歩き方、動作、そして感情などの具体的な動きから、心を捉えていくのです。今、起きている心の動きを捉まえたとき、はじめて心をおさめる方法を、だれでも具体的に実践できる道として説いたのが、仏教なのです。(原訳「法句経」一日一話より P.39~抜粋)<br /><br />▼参考テキスト<br />原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話 [新書]<br />http://amzn.to/9M82UX<br /><br />~生きとし生けるものが幸せでありますように~







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こころの復興+アルボムッレ・スマナサーラ法話選2―真理のききめ [単行本]




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ひとり言 | 10:20:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
 「人生の後半が勝負」




徒然日記





 「人生の後半が勝負」                   よしだ まきお

 人生の折り返し点。人生の後半。それに定年&現役引退。夫婦二暮らし&一人暮らし。とまあ若い時とは異う区分をするものがある

 少し進めると自分で動ける&自分一人では動けないという区分けもある。もう一歩進めると自分を認知・観察出来る&自分の都合だけで考える・認知症。というのもある。

 こういう流れは何によって決まっていくのだろうか?こういうことは大方は若い元気な時は考えないで行動している。こんな視点でいるときに16才の女の子が山の中で殺人して死体放棄というニュースを聞くとチョットため息が出てしまった。

 私はかつて50才が節目としていた。それは織田信長が人生50年・・といっていたのを拝借です。それもあって47才で会社づとめを辞める。60才で村の役を止める。

 今は自分の身体を自分の意志で元気に動ける現役である。今からの後半に終末ケアーを必要とするときは麻薬類による緩和ケアーは一切やらないという自分(貧・瞋・痴)との勝負をする。どう転んでも忍耐・堪忍で楽しむ。









徒然日記 | 10:46:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
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