自分の無知を「業」や「生まれつき」だと思い込んでいないか?
賢者という性質は持って生まれるものではありません。智慧のある人間になるためにはそれなりの努力が必要です。それなのに普通の人間は、運命・業・定 め・生まれつきのような概念を使って自分達の状態を解釈しがちです。自分の状態を納得するためにそのような解釈を使うのも構いませんが、だからしょうがな いと決めつけるのは、問題です。よく考えるとこれは自分の状態が進歩、成長しないことの言い訳にも聞こえます。
因果法則を語る仏教では、何の原因もなく何かが現われるとは考えません。我々の今の状態も何らかの因縁の結果であることは確かですが、それなりの努力を すれば、悪い状態もいい方向へ改善していけるということも事実です。業の話は仏教の中にもありますが、我々の人生が過去の業で定められ、変化しえないよう な固定されたものと考えるのは単なる邪見に過ぎません。それは無常の概念と因果論に反します。
努力することは仏教の道徳の基盤です。努力さえすれば、どんな人間でもやがて完全なる賢者になれます。(人間は様々な能力を持って生まれますが、特別な 人間・選ばれた人・神の子・恵みを与えられた人などの概念は仏教の中にはない、ということを覚えておきましょう。たとえ恵まれた人がいても、それはそれな りの過去の努力と他の因縁の結果です)自分は恵まれていない、だから無知だと思うとその人は努力を否定する暗い人間になってしまいます。たとえ結果として できてもできなくても努力さえすれば良くなるという考え方だけは持つべきです。
「すべては無常」とは観察の結果。信じ込む必要はない!
仏教では、いかなる方向へ観察しても、正しく観察するなら最終的には、全ては無常である・苦(dukkha)である、変化しない実体はない、因縁法則に よって現われる一時的な現象のみであるという結論にたどり着きます。これ自体は固定概念ではなく「ありのまま」の事実です。
しかし「全ては無常だ、その角度でものを見なさい」と言ってしまえば、それもひとつの固定概念になってしまうのではと考えられるかもしれません。確かに 何も知らずに偉そうに、無常だ、無常だと言っても何の意味もありません。その人にもありのままのものは見えないかもしれません。また社会から攻撃を受ける 恐れもあります。
そうではなく、あらゆる固定概念から心をキレイにして、自分の好き嫌いの感情からも離れ、物事を観察し事実を見てみようと努力し、それに喜びを感じるよ うにし、やがて智慧が現われて正しくものが見えるようになったとき、はじめて結論として、何だ全ては無常ではないか、それしか真理はないのだという事実に 出会うということになるのです。全てが無常だとわかったなら、その人はもうすでに賢者です。ですから、最初から「無常だ」と自分を納得させようとする必要 はありません。
●イラスト:野口香
▼参考テキスト
賢者人間入門(3)~喜びとは、真理を知ることである~
http://www.j-theravada.net/howa/howa28.html
~生きとし生けるものが幸せでありますように~