2013-08-31 Sat
協会の記事ではありません。
サークル仲間の日記の紹介です。
徒然日記---「自分が砕けていく」
「自分が砕けていく」
本好きと思いつつ今まで本を読むといったら居間でテレビの合間
よくよく考えてみると一番大事な長老の書かれた仏教の本も自分
「生きることは苦」というのがイマイチ理解できなくて何度も流
いろいろ「生は苦」について知りたくなってくる。「ブッダの実
テーブルが本とルーペとスタンドで満載になっている。読みかけ
なるほどこれはいい!!!気にいっている。じっくり落ち着いて
「生きることは苦」という世界に少しづつ自分が砕けていく感じが
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2013-08-29 Thu
協会の記事ではありません
サークル仲間の日記より
一日一誤日記---悪語で周囲
昨日はホスピス聖十字病院のお茶会での演奏。
一昨日のデイサービスは一人で45分間だったのでキツかったが、
夏休みということで、お見舞いに来ていた家族の方々もたくさん参
朝10時から通しリハーサル。会場の菰野まで約一時間あるので、
演奏させてもらうことで技術も向上するが、ホスピス訪問はなによ
身体の病気も大変なことだが、私の母親のように老年認知症で自分
さて、私はどのようになるか不明だが、今やれることはやっておき
身体は管轄外なので放っておくしかない。
こころが怒りで汚れないように、欲で汚れないように、悪語で周囲
2013-08-28 Wed
協会の記事です。
- Kindleをお持ちなら、無料でお読みいただけます
- 今すぐダウンロード
日本テーラワーダ仏教協会さんがリンクをシェアしました。
#jtba 日本テーラワーダ仏教協会のKindle電子書籍シリーズが新創刊!第一弾はスマナサーラ長老の講演録『気付いたら…もう「幸福」になっていた! ~現代人のための「ブッダの幸福論」~』本日発売開始。100円です。
気付いたら…もう「幸福」になっていた! ~現代人のための「ブッダの幸福論」~ アルボムッレ・スマナサーラ、 日本テーラワーダ仏教協会 (2013/8/26)
- ¥ 100 Kindle版
- Kindleをお持ちなら、無料でお読みいただけます
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2013-08-27 Tue
協会の記事ではありません。
サークル仲間のひとりごと です。
徒然日記---「カラスとの対話」
「カラスとの対話」
好調阪神のデイゲームを見ていたら2回で8点の得点となった。
よしとスイッチ切って歩く冥想一時間をと広間で歩く。往復するご
カラスが云う。あんたは野球なんていうゴミみたいなものに何故
野球が何故ゴミだというのかねカラスさんよ。カラスは云う。あ
カラスはねゴミ箱を漁るときでもしっかり周りに気を配っている
2013-08-26 Mon
協会のfbの紹介です。

日本テーラワーダ仏教協会
#jtba「旅の達成感に通じるもの」
●瞬間ごとの達成感が幸福へ
──いまという瞬間に注意を集中して、いまここにいる自分に気づくというヴィパッサナー瞑想でなにかを発見することは、ひとり旅で自分の世界に洞察を働かせることと似ている気がします。
知らないことは怖いというか、不安なんですね。だから我々は、発見するために探検をする。旅も同じですね。全然言葉が通じない人に出会ったら、どうやってコミュニケーションをとるか考えて、自分が知りたいことを知ろうとします。自分なりの発見を求めて、とにかく成功させるためにその瞬間ごとを一生懸命に生きるわけです。
──遠い先の目標を目指すのではなく、瞬間ごとに集中するのが重要なんですね。
目標を設定してもいいですけど、妄想にとらわれてはいけない。いま何をやるのかが重要ですから。だって、いまの瞬間を生きているわけでしょ?受験や仕事 などで悩んでしまう人もいますが、日々、1分単位で挑戦をしていたらいいんです。今日1日を頑張ったら、充実感で終わるでしょ?そうしたらまた明日も頑張 るでしょうに。時間はずっと進むものであって、停止しません。だから、いまするべき挑戦をすれば、それでいい。我々は時間をとても無駄に使っています。妄 想ばっかりだから。きちんと時間を使わないといけません。
──妄想を消し去ることも、自分を観察する瞑想で可能になるわけですね。
タバコがやめられなかったり、勉強に集中できなかったりするのも妄想があるからで、その原因を取り除けばすぐに変われます。心のトラブルですよ。妄想を 続けるんではなく、研究すればいいんです。妄想がなければ、欲も怒りも憎しみも嫉妬も悲しみも悩みも生まれません。すべて妄想の結果ですから。事件が起 こったり、悩む人が多い現代には、論理的で科学的な仏教のような教えが必要です。お釈迦さまの言葉を理解し、本人の意思で考えることができたら明るく幸せ に生きることができるんです。
──不快感やストレスを引き起こすような外的な要因も、妄想に過ぎないんですか?
科学的に見ると、自分の体に何かの情報が触れてるだけ。その刺激で、情報そのものを知ろうとせずに妄想しているだけです。仮に同じものを3人が見たとし て、3人がそれぞれ何かを感じたとしたら、それは主観が現れているからにすぎません。主観はあくまで主観であって、事実ではありません。情報そのものを冷 静に見ることができれば、ほとんどの問題を解決することができますよ。
──主観と妄想。すべて、自分を知ることとつながっているんですね。
だから、自分を知ることで無我を発見できるんです。つまり、いろいろと研究することで、発見するだけに過ぎません。自我がなくなるわけではなく、自我な んて最初からないということに気づくのです。自我があるという錯覚があるから、苦しむんですよ。その錯覚が消えると同時に人が変わって、いつでも淀みが無 くて、明るくて、軽くて、活発で、瞬時に判断できる心を持つことができるんです。
──それが解脱ということですか?
自分を完全に理解して、無我を発見することは問題の最終解決になります。最終的な答を見つけることがつまり、解脱や涅槃です。なすべくことはなし終え た、という勝利の宣言のようなものです。人生を左右する業のはたらきもありますから、すぐにすべてを理解することは簡単ではありませんが、真剣に瞑想を行 えば、どんな人でも幸せな道を自分で築くことができるんです。
──そうして幸せになるために、瞬間ごとを大切に生きていくわけですね。
『幸せ』という言葉を正確に定義することができますか?例えば、結婚ができるかどうか、家を建てられるかどうか、というような一時的なことではなく、 もっと人類誰もが獲得できる普遍的なものであるはずです。それが何かというと、自分が挑戦したことを成功させ、達成感を得られるかどうかです。我々は毎 日、いろいろな問題にぶつかりますが、その都度、解決すればいいんです。その達成感が幸せなんですよ。全然特別なことではなくて、日々の生き方そのものに 幸せがあるんです。いまの瞬間を幸せになってください。そうすれば、次の瞬間も幸せになれますよね。その瞬間ごとを幸せに生きるための方法を教えてくれる のが、仏教なんです。
▼参考テキスト
このインタビューは、Papersky No.25(2008)に掲載されています。
インタビュー&構成:中島良平 写真:相田晴美
Interview & Text: Ryohei Nakajima Photography: Harumi Aida
PAPER SKY PAPER SKY blog
http://bit.ly/1agZ8hv
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
●瞬間ごとの達成感が幸福へ
──いまという瞬間に注意を集中して、いまここにいる自分に気づくというヴィパッサナー瞑想でなにかを発見することは、ひとり旅で自分の世界に洞察を働かせることと似ている気がします。
知らないことは怖いというか、不安なんですね。だから我々は、発見するために探検をする。旅も同じですね。全然言葉が通じない人に出会ったら、どうやってコミュニケーションをとるか考えて、自分が知りたいことを知ろうとします。自分なりの発見を求めて、とにかく成功させるためにその瞬間ごとを一生懸命に生きるわけです。
──遠い先の目標を目指すのではなく、瞬間ごとに集中するのが重要なんですね。
目標を設定してもいいですけど、妄想にとらわれてはいけない。いま何をやるのかが重要ですから。だって、いまの瞬間を生きているわけでしょ?受験や仕事 などで悩んでしまう人もいますが、日々、1分単位で挑戦をしていたらいいんです。今日1日を頑張ったら、充実感で終わるでしょ?そうしたらまた明日も頑張 るでしょうに。時間はずっと進むものであって、停止しません。だから、いまするべき挑戦をすれば、それでいい。我々は時間をとても無駄に使っています。妄 想ばっかりだから。きちんと時間を使わないといけません。
──妄想を消し去ることも、自分を観察する瞑想で可能になるわけですね。
タバコがやめられなかったり、勉強に集中できなかったりするのも妄想があるからで、その原因を取り除けばすぐに変われます。心のトラブルですよ。妄想を 続けるんではなく、研究すればいいんです。妄想がなければ、欲も怒りも憎しみも嫉妬も悲しみも悩みも生まれません。すべて妄想の結果ですから。事件が起 こったり、悩む人が多い現代には、論理的で科学的な仏教のような教えが必要です。お釈迦さまの言葉を理解し、本人の意思で考えることができたら明るく幸せ に生きることができるんです。
──不快感やストレスを引き起こすような外的な要因も、妄想に過ぎないんですか?
科学的に見ると、自分の体に何かの情報が触れてるだけ。その刺激で、情報そのものを知ろうとせずに妄想しているだけです。仮に同じものを3人が見たとし て、3人がそれぞれ何かを感じたとしたら、それは主観が現れているからにすぎません。主観はあくまで主観であって、事実ではありません。情報そのものを冷 静に見ることができれば、ほとんどの問題を解決することができますよ。
──主観と妄想。すべて、自分を知ることとつながっているんですね。
だから、自分を知ることで無我を発見できるんです。つまり、いろいろと研究することで、発見するだけに過ぎません。自我がなくなるわけではなく、自我な んて最初からないということに気づくのです。自我があるという錯覚があるから、苦しむんですよ。その錯覚が消えると同時に人が変わって、いつでも淀みが無 くて、明るくて、軽くて、活発で、瞬時に判断できる心を持つことができるんです。
──それが解脱ということですか?
自分を完全に理解して、無我を発見することは問題の最終解決になります。最終的な答を見つけることがつまり、解脱や涅槃です。なすべくことはなし終え た、という勝利の宣言のようなものです。人生を左右する業のはたらきもありますから、すぐにすべてを理解することは簡単ではありませんが、真剣に瞑想を行 えば、どんな人でも幸せな道を自分で築くことができるんです。
──そうして幸せになるために、瞬間ごとを大切に生きていくわけですね。
『幸せ』という言葉を正確に定義することができますか?例えば、結婚ができるかどうか、家を建てられるかどうか、というような一時的なことではなく、 もっと人類誰もが獲得できる普遍的なものであるはずです。それが何かというと、自分が挑戦したことを成功させ、達成感を得られるかどうかです。我々は毎 日、いろいろな問題にぶつかりますが、その都度、解決すればいいんです。その達成感が幸せなんですよ。全然特別なことではなくて、日々の生き方そのものに 幸せがあるんです。いまの瞬間を幸せになってください。そうすれば、次の瞬間も幸せになれますよね。その瞬間ごとを幸せに生きるための方法を教えてくれる のが、仏教なんです。
▼参考テキスト
このインタビューは、Papersky No.25(2008)に掲載されています。
インタビュー&構成:中島良平 写真:相田晴美
Interview & Text: Ryohei Nakajima Photography: Harumi Aida
PAPER SKY PAPER SKY blog
http://bit.ly/1agZ8hv
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
2013-08-25 Sun
協会のFBの記事です
#jtba「穏やかなノーマルライフ」(後)
―つづき―
すべてのことには法則があります。社会を動かしているスピードも法則です。その時代、時代に合った固有のスピードを社会は持っています。それは地球の自転・公転と同じです。自転・公転を速めることも遅らせることもできません。
たとえば、呼吸には呼吸の法則があって、酸素がどれくらい体に必要かということを計算しながら、一定のリズムで息を吸って吐くことを繰り返します。息を速く吸い続けたり、逆に遅く吸い続けたりすることは、ともに酸欠を招くだけです。ですから、意識して速く吸う必要も、遅く吸う必要もありません。
社会にも法則があります。その法則は、その時代にあったスピードを持っていて、私たちはそれに対して瞬間、瞬間にただ対応してくだけのことです。そんな 社会の法則を無視して、必要以上に速く何かしようとか、遅くしようというのは、呼吸の例と同じく結果的に人間を壊すことになります。もっとも、今の社会は 計画がたくさんありすぎて、必要以上に人々の生活がファストライフ化されてしまっている面があることは事実です。
しかしながら、人間の力ではしょせん、その法則には太刀打ちできません。法則に逆らおうとすることは、走っている電車を手で止めようとするのと同じよう なもの。ひじょうに苦労した末に自分が潰れてしまいます。ですから、法則を無視して速く生きるのも遅く生きるのも、ともに正しくないのです。ファストライ フもスローライフも必要ない。ほんとうに必要なのはノーマルライフです。
ノーマルライフというのは、宇宙の法則に合わせたスピードで生きるということです。具体的に説明します。これは“今”を生きることなのです。人生は今だとすると、今何をするべきかがすぐにわかります。
そこで、「今という時間はどれぐらいですか?」という質問を出すと、返ってくる答えは、みなバラバラになります。今という時間は一年ぐらいだと答える人 もいれば、一ヵ月くらいだと言う人もいる。今は一日だと言う人もいれば、一時間と答える人もいる。今という時間のとらえ方は、短いほうが賢いと思います。 なぜならば、何をするべきか、ということが明確になるからです。
今は一年間だと思う人には、やることが大量にあるのです。自分にもわからないほどあるので落ち着きがなくなります。やるべきことをやらなかったり、忘れ たり、後回しにしたり、手抜きをしたりするなど、たくさんの問題が起きます。何よりも、精神的に落ち着きがないということは、不幸なことです。
つまり、今を生きることは、ファストライフでもなく、スローライフでもなく、ノーマルライフなのです。今という時間が短くなればなるほど、成功する確率 が高まります。仏教は今という時間が、「今という瞬間」なるようにと、心を成長させることを薦めています。今という時間が瞬間になった人は、“悟り”にも 達するのです。終わり
●イラスト:髙橋優子
▼参考テキスト
小さな「悟り」を積み重ねる(集英社新書)
スマナサーラ長老 著
http://amzn.to/1awlg4D
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
―つづき―
すべてのことには法則があります。社会を動かしているスピードも法則です。その時代、時代に合った固有のスピードを社会は持っています。それは地球の自転・公転と同じです。自転・公転を速めることも遅らせることもできません。
たとえば、呼吸には呼吸の法則があって、酸素がどれくらい体に必要かということを計算しながら、一定のリズムで息を吸って吐くことを繰り返します。息を速く吸い続けたり、逆に遅く吸い続けたりすることは、ともに酸欠を招くだけです。ですから、意識して速く吸う必要も、遅く吸う必要もありません。
社会にも法則があります。その法則は、その時代にあったスピードを持っていて、私たちはそれに対して瞬間、瞬間にただ対応してくだけのことです。そんな 社会の法則を無視して、必要以上に速く何かしようとか、遅くしようというのは、呼吸の例と同じく結果的に人間を壊すことになります。もっとも、今の社会は 計画がたくさんありすぎて、必要以上に人々の生活がファストライフ化されてしまっている面があることは事実です。
しかしながら、人間の力ではしょせん、その法則には太刀打ちできません。法則に逆らおうとすることは、走っている電車を手で止めようとするのと同じよう なもの。ひじょうに苦労した末に自分が潰れてしまいます。ですから、法則を無視して速く生きるのも遅く生きるのも、ともに正しくないのです。ファストライ フもスローライフも必要ない。ほんとうに必要なのはノーマルライフです。
ノーマルライフというのは、宇宙の法則に合わせたスピードで生きるということです。具体的に説明します。これは“今”を生きることなのです。人生は今だとすると、今何をするべきかがすぐにわかります。
そこで、「今という時間はどれぐらいですか?」という質問を出すと、返ってくる答えは、みなバラバラになります。今という時間は一年ぐらいだと答える人 もいれば、一ヵ月くらいだと言う人もいる。今は一日だと言う人もいれば、一時間と答える人もいる。今という時間のとらえ方は、短いほうが賢いと思います。 なぜならば、何をするべきか、ということが明確になるからです。
今は一年間だと思う人には、やることが大量にあるのです。自分にもわからないほどあるので落ち着きがなくなります。やるべきことをやらなかったり、忘れ たり、後回しにしたり、手抜きをしたりするなど、たくさんの問題が起きます。何よりも、精神的に落ち着きがないということは、不幸なことです。
つまり、今を生きることは、ファストライフでもなく、スローライフでもなく、ノーマルライフなのです。今という時間が短くなればなるほど、成功する確率 が高まります。仏教は今という時間が、「今という瞬間」なるようにと、心を成長させることを薦めています。今という時間が瞬間になった人は、“悟り”にも 達するのです。終わり
●イラスト:髙橋優子
▼参考テキスト
小さな「悟り」を積み重ねる(集英社新書)
スマナサーラ長老 著
http://amzn.to/1awlg4D
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
2013-08-24 Sat
協会のFBの記事です
#jtba「穏やかなノーマルライフ」(前)
社会の変化が激しくなると、「こんな変化のスピードが速いのはおかしいんじゃないか、人間性を失ってしまう…」と言ってスローライスを唱える人が出てき ます。しかし、先を急いでいるように見える社会に対して、反対に「急がない」という姿勢でいることは仏教では理解できない考え方なのです。理解できないと いうより、けっこうそれは危うさを孕んでいます。簡単に分析して説明することができない深い問題です。
私は、めまぐるしいほど速い勢いで生きるのも間違っているし、それに反発してスローライフを選ぶことも正しくないと思います。速いのが悪ければ、遅いのも同様に悪いのです。なぜ社会は早く動くようになったのでしょうか。効率を上げて、早くたくさん儲けて、楽にのんびり生きてみたい、とみんなが思ったのでしょうか。
今みたいに新幹線がない時代では、東京から大阪に行くのに汽車で一日かかっていました。ところが新幹線が登場し、今では東京から大阪までたった2時間 40分で移動できます。東京で午前中仕事をしてから新幹線で大阪まで行き、その日のうちに大阪で商談をすることも可能です。昔なら移動にかけていた一日分 が浮くわけですから、本来ならそこで一日のんびり過ごしたっていいまずです。でも、果たしてそうするでしょうか?しないですね。
現代人は仕事をもっと速く、効率的にするために工夫に工夫を重ねています。しかし、いっこうに暇な時間は出現しないのです。この社会には携帯電話、パソ コン、家電など便利な道具が溢れています。人間がつくる機械はすべて、時間を短縮する目的と仕事を楽にする目的でできているのです。しかし、現実は楽にな りません。むしろ、反対に仕事や日常生活はますます複雑になり、忙しくなる一方です。
では昔はどうだったのでしょうか。現代と比較すると、何でも仕事や生活のペースはスローでした。昔の人はのんびり生きていたということでしょうか?生き 方がスローライフだったということでしょうか?いいえ、そうは言えないと思います。時間的に余裕だとか、忙しさという点では現代人と変わらないと思いま す。
今、炊飯器なら一時間もかからずにご飯が炊けます。米も無洗米を使えば研ぐ時間も浮かせます。でも、その分、私たちは別な仕事があるので忙しいのです。 昔の人は薪を割って、釜でご飯を炊かなくてはいけませんでした。それに、収穫した稲を脱穀する仕事もありました。そうとう時間がかかりました。結局は忙し かったのです。のんびりする暇などなかったのです。
お昼に奥様同士が集まって優雅にランチ、なんて暇はどこにもなかったでしょう。もっとも、優雅にランチしている奥様方か実際暇かというとそうではありま せん。見ていると、家事以外にパートで小遣いを稼いだり、自分の趣味を追究したり、のべつまくなしに動き回っていてボーッとしている時間などありません。 昔は家事に五時間かかったのが今では二時間でできるとすれば、余った三時間は別のことで忙しくなっているんですね。
要は、便利や効率を求めても、結局は忙しさという点では同じところをグルグル回っているだけなのです。急いで何かやろうという発想は、どこか間違っているのです。だからと言って、ゆっくりやりましょうというのも間違っている。
すべてのことには法則があります。社会を動かしているスピードも法則です。その時代、時代に合った固有のスピードを社会は持っています。それは地球の自転・公転と同じです。自転・公転を速めることも遅らせることもできません。つづく
●イラスト:髙橋優子
▼参考テキスト
小さな「悟り」を積み重ねる(集英社新書)
スマナサーラ長老 著
http://amzn.to/1awlg4D
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
社会の変化が激しくなると、「こんな変化のスピードが速いのはおかしいんじゃないか、人間性を失ってしまう…」と言ってスローライスを唱える人が出てき ます。しかし、先を急いでいるように見える社会に対して、反対に「急がない」という姿勢でいることは仏教では理解できない考え方なのです。理解できないと いうより、けっこうそれは危うさを孕んでいます。簡単に分析して説明することができない深い問題です。
私は、めまぐるしいほど速い勢いで生きるのも間違っているし、それに反発してスローライフを選ぶことも正しくないと思います。速いのが悪ければ、遅いのも同様に悪いのです。なぜ社会は早く動くようになったのでしょうか。効率を上げて、早くたくさん儲けて、楽にのんびり生きてみたい、とみんなが思ったのでしょうか。
今みたいに新幹線がない時代では、東京から大阪に行くのに汽車で一日かかっていました。ところが新幹線が登場し、今では東京から大阪までたった2時間 40分で移動できます。東京で午前中仕事をしてから新幹線で大阪まで行き、その日のうちに大阪で商談をすることも可能です。昔なら移動にかけていた一日分 が浮くわけですから、本来ならそこで一日のんびり過ごしたっていいまずです。でも、果たしてそうするでしょうか?しないですね。
現代人は仕事をもっと速く、効率的にするために工夫に工夫を重ねています。しかし、いっこうに暇な時間は出現しないのです。この社会には携帯電話、パソ コン、家電など便利な道具が溢れています。人間がつくる機械はすべて、時間を短縮する目的と仕事を楽にする目的でできているのです。しかし、現実は楽にな りません。むしろ、反対に仕事や日常生活はますます複雑になり、忙しくなる一方です。
では昔はどうだったのでしょうか。現代と比較すると、何でも仕事や生活のペースはスローでした。昔の人はのんびり生きていたということでしょうか?生き 方がスローライフだったということでしょうか?いいえ、そうは言えないと思います。時間的に余裕だとか、忙しさという点では現代人と変わらないと思いま す。
今、炊飯器なら一時間もかからずにご飯が炊けます。米も無洗米を使えば研ぐ時間も浮かせます。でも、その分、私たちは別な仕事があるので忙しいのです。 昔の人は薪を割って、釜でご飯を炊かなくてはいけませんでした。それに、収穫した稲を脱穀する仕事もありました。そうとう時間がかかりました。結局は忙し かったのです。のんびりする暇などなかったのです。
お昼に奥様同士が集まって優雅にランチ、なんて暇はどこにもなかったでしょう。もっとも、優雅にランチしている奥様方か実際暇かというとそうではありま せん。見ていると、家事以外にパートで小遣いを稼いだり、自分の趣味を追究したり、のべつまくなしに動き回っていてボーッとしている時間などありません。 昔は家事に五時間かかったのが今では二時間でできるとすれば、余った三時間は別のことで忙しくなっているんですね。
要は、便利や効率を求めても、結局は忙しさという点では同じところをグルグル回っているだけなのです。急いで何かやろうという発想は、どこか間違っているのです。だからと言って、ゆっくりやりましょうというのも間違っている。
すべてのことには法則があります。社会を動かしているスピードも法則です。その時代、時代に合った固有のスピードを社会は持っています。それは地球の自転・公転と同じです。自転・公転を速めることも遅らせることもできません。つづく
●イラスト:髙橋優子
▼参考テキスト
小さな「悟り」を積み重ねる(集英社新書)
スマナサーラ長老 著
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~生きとし生けるものが幸せでありますように~
2013-08-23 Fri
協会の記事です


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#jtba【お知らせ】シンポジウム「ここがスゴイよ 日本人の仏教観」

平成25年度 第二回BDKシンポジウム
「ここがスゴイよ 日本人の仏教観」
http://www.bdk.or.jp/pdf/news/2013/symposium.pdf
日時:2013年9月19日(木)18:00~20:00
定員:100名(先着順)
場所:仏教伝道協会 8階「和」の間(東京都港区)
参加費:500円 ※参加費は、東日本大震災の義捐金として全額寄付します。
お申込みはFAXもしくはメールのみにて承ります。
但し、メールで申し込まれる方は、件名に必ず「第2回BDKシンポジウム」とご記載下さい。
申込期限は、2013年9月6日(金)迄です。
尚、参加費は当日お支払い下さい。
※お問い合わせは、仏教伝道協会まで
▼パネリスト
ネルケ・無方 師(曹洞宗)
アルボムッレ・スマナサーラ 師(日本テーラワーダ仏教協会)
ケネス・タナカ 師(浄土真宗本願寺派)
・タイムテーブル
17:15 開場
18:00 シンポジウム開始
主催者挨拶
18:05 発表(15分×3名)
18:50 ディスカッション(40分)
19:30 休憩
19:40 質疑応答
20:00 終了
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

平成25年度 第二回BDKシンポジウム
「ここがスゴイよ 日本人の仏教観」
http://www.bdk.or.jp/pdf/news/2013/symposium.pdf
日時:2013年9月19日(木)18:00~20:00
定員:100名(先着順)
場所:仏教伝道協会 8階「和」の間(東京都港区)
参加費:500円 ※参加費は、東日本大震災の義捐金として全額寄付します。
お申込みはFAXもしくはメールのみにて承ります。
但し、メールで申し込まれる方は、件名に必ず「第2回BDKシンポジウム」とご記載下さい。
申込期限は、2013年9月6日(金)迄です。
尚、参加費は当日お支払い下さい。
※お問い合わせは、仏教伝道協会まで
▼パネリスト
ネルケ・無方 師(曹洞宗)
アルボムッレ・スマナサーラ 師(日本テーラワーダ仏教協会)
ケネス・タナカ 師(浄土真宗本願寺派)
・タイムテーブル
17:15 開場
18:00 シンポジウム開始
主催者挨拶
18:05 発表(15分×3名)
18:50 ディスカッション(40分)
19:30 休憩
19:40 質疑応答
20:00 終了
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
http://www.bdk.or.jp/pdf/news/2013/symposium.pdf
www.bdk.or.jp
2013-08-22 Thu
協会の記事ではありません
八幡山 宝泉寺 (笛岡泰雲住職) の紹介です
仏教 No.13
「仏旗」
仏旗」というものを、始めて私が見たのは30年ほど前、大本山永平寺に安居(修行)中で、春秋二期の大法要など
特別大事な行事の時には、山門の両脇に国旗と見慣れぬ五色の旗が立てられ、それが仏旗だということを教わりました。
全日本仏教会 のHPにも、説明がありますが、随分前(150年程)から仏教国で掲げられていたものを、
1950年に第一回世界仏教徒会議がスリランカで開かれた際、正式に「国際仏旗」として決められたものだそうです。
日本テーラワーダ仏教協会HP→「仏旗の由来」 もご覧下さい。
1954年に第二回世界仏教徒会議が、大本山永平寺で開かれた際にも再確認されたということで、日本では永平寺が
この仏旗に一番深いご縁のあるお寺なのでした。
この仏旗の形に限らず、五色の吹き流しや、内陣や大間に五色や三色の布を繋ぎ合わせた荘厳幕は、
日本の寺院で随分昔から使われてきていると思います。
奈良東大寺の大仏建立の大法要にも色旗は仏教の象徴として荘厳されたかも知れません。
宝泉寺でも、私の晋山式以来、大本山永平寺にならって、元日や大きな法要には、小さな可愛い仏旗と国旗を掲げてきました。

雪の元日
この春(平成18年5月)から本堂建築が始まり、地鎮祭や上棟式で仏旗を立てて荘厳しています。

地鎮祭(仏暦2550年:平成18年9月3日)

上棟式(仏暦2550年:平成18年11月11日)
雨の降る早朝、現場監督さんが仏旗を立てるために青竹を切って来て準備してくれました。
見慣れない方々は、これは何の旗だろうと思われるかも知れませんが、
お釈迦さまの仏旗を、喜びの気持ちで掲げると、安心の空間が生まれるような気がします。
生きとし生けるものが、幸せでありますように。
2013-08-21 Wed
協会のFBの紹介です
#jtba「幸せへの選択」
「幸せにならなくていい」は極限の嘘
「道徳は大嫌い」と言って守らないことと、「幸せになりたい」と思うことは、まったく矛盾しています。両方が一緒に成り立つことはあり得ないのです。
みなさん、いちいち意識して過ごしてはいないでしょうが、人はみな、幸せになりたいのです。なかには「私は幸せにならなくてもいい」と言っている人もい るでしょうが、仏教でいえば、それは矛盾でしかありません。「幸せにならなくていい」「不幸でいい」というなら、「なぜ生きているのですか」とたずねたくなります。
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フェルト人形(画像):根岸まり
▼参考テキスト
的中する生き方(サンガ新書)
http://amzn.to/bL1rY7
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
「幸せにならなくていい」は極限の嘘
「道徳は大嫌い」と言って守らないことと、「幸せになりたい」と思うことは、まったく矛盾しています。両方が一緒に成り立つことはあり得ないのです。
みなさん、いちいち意識して過ごしてはいないでしょうが、人はみな、幸せになりたいのです。なかには「私は幸せにならなくてもいい」と言っている人もい るでしょうが、仏教でいえば、それは矛盾でしかありません。「幸せにならなくていい」「不幸でいい」というなら、「なぜ生きているのですか」とたずねたくなります。
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フェルト人形(画像):根岸まり
▼参考テキスト
的中する生き方(サンガ新書)
http://amzn.to/bL1rY7
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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2013-08-20 Tue
協会のFBより紹介です
#jtba「少欲?知足?」
「少欲」という言葉の意味はわかるのでしょうか。わからないと思います。お釈迦様の「少欲」の定義は、「自分がどれほど精神的にすぐれていても、それを他人に知られることを欲しない」ということなのです。
「私はこういうものだ」とどんどん宣伝して、みんなの間で売れて、人気者になって、というように、自分を売り込むことはしない、ということなのです。仏道を完成した人なら、智慧も完成している。しかし、それは俗世間には発表しません。自分が智慧を完成している こと、仏道を正直に勤め励んでいることなど、自分の徳を他人に知られるようにしたくないのです。ただごく普通に、一般の人々とまったく同じに扱われたっ て、なんのこともない。偉大なる智者になっているにもかかわらず、それは他人には全然知らせないようにする、知らせたくもない、という気持ちなのです。
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~生きとし生けるものが幸せでありますように~
「少欲」という言葉の意味はわかるのでしょうか。わからないと思います。お釈迦様の「少欲」の定義は、「自分がどれほど精神的にすぐれていても、それを他人に知られることを欲しない」ということなのです。
「私はこういうものだ」とどんどん宣伝して、みんなの間で売れて、人気者になって、というように、自分を売り込むことはしない、ということなのです。仏道を完成した人なら、智慧も完成している。しかし、それは俗世間には発表しません。自分が智慧を完成している こと、仏道を正直に勤め励んでいることなど、自分の徳を他人に知られるようにしたくないのです。ただごく普通に、一般の人々とまったく同じに扱われたっ て、なんのこともない。偉大なる智者になっているにもかかわらず、それは他人には全然知らせないようにする、知らせたくもない、という気持ちなのです。
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