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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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 徒然日記---「自分が砕けていく」





協会の記事ではありません。
サークル仲間の日記の紹介です。
 徒然日記---「自分が砕けていく」





 「自分が砕けていく」

 本好きと思いつつ今まで本を読むといったら居間でテレビの合間に読むというのでやってきた。
 よくよく考えてみると一番大事な長老の書かれた仏教の本も自分の参考として読んでいる要素が多分にある。この夏の始めに参考読みではなく実践読みにしていくというのも始めた。

 「生きることは苦」というのがイマイチ理解できなくて何度も流し読みしてきた。このところ「般若心経は間違い?」(スマナサーラ長老著)をじっくり読み直している。
 いろいろ「生は苦」について知りたくなってくる。「ブッダの実践心理学」も並行読みとなった。こんどはこの方に暫く関心が動く
 
 テーブルが本とルーペとスタンドで満載になっている。読みかけていてもそのままにしておく。そして本を読もうという意欲が強くなっている。自分に読書環境を整えようとテーブル書斎にした。

 なるほどこれはいい!!!気にいっている。じっくり落ち着いて読みだすと自分の心がその本の中味に飛び込んでいく手応えが出てくる。やっぱり読む環境も大事だなと思う。

「生きることは苦」という世界に少しづつ自分が砕けていく感じがある。それに本の一字一句に反応している自分に少しビックリ。酷暑には砕けないが「苦」に砕けて元気になる。








徒然日記 | 06:05:26 | トラックバック(0) | コメント(0)
一日一誤日記---悪語で周囲の人に悪感情を撒き散らさないように





協会の記事ではありません
サークル仲間の日記より
一日一誤日記---悪語で周囲の人に悪感情を撒き散らさないように





昨日はホスピス聖十字病院のお茶会での演奏。
一昨日のデイサービスは一人で45分間だったのでキツかったが、この日は前回に引き続きフルート教室の生徒IさんとオカリナのOさんと3人だったのでこころ強い。

夏休みということで、お見舞いに来ていた家族の方々もたくさん参加していただいた。

朝10時から通しリハーサル。会場の菰野まで約一時間あるので、車中の話題は最近ガンで亡くなった共通の知人のことになった。

演奏させてもらうことで技術も向上するが、ホスピス訪問はなによりやがて来る自分の終末をどのように暮らすか?を現場で感じられるところが勉強になるので有難い。

身体の病気も大変なことだが、私の母親のように老年認知症で自分の被害妄想の脅迫観念の世界で暮らすのも辛い。

さて、私はどのようになるか不明だが、今やれることはやっておきたい。
身体は管轄外なので放っておくしかない。
こころが怒りで汚れないように、欲で汚れないように、悪語で周囲の人に悪感情を撒き散らさないようにと思っている。











一日一誤日記 | 17:39:51 | トラックバック(0) | コメント(0)
気付いたら…もう「幸福」になっていた! ~現代人のための「ブッダの幸福論」




協会の記事です。
  • Kindleをお持ちなら、無料でお読みいただけます
  • 今すぐダウンロード
    <もってない  残念  zaike2号 >




日本テーラワーダ仏教協会さんがリンクをシェアしました。
#jtba 日本テーラワーダ仏教協会のKindle電子書籍シリーズが新創刊!第一弾はスマナサーラ長老の講演録『気付いたら…もう「幸福」になっていた! ~現代人のための「ブッダの幸福論」~』本日発売開始。100円です。






商品の詳細

気付いたら…もう「幸福」になっていた! ~現代人のための「ブッダの幸福論」~ アルボムッレ・スマナサーラ、 日本テーラワーダ仏教協会 (2013/8/26)

  • ¥ 100 Kindle版
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お知らせ | 06:09:51 | トラックバック(0) | コメント(0)
徒然日記---「カラスとの対話」




協会の記事ではありません。
サークル仲間のひとりごと です。
徒然日記---「カラスとの対話」





「カラスとの対話」

 好調阪神のデイゲームを見ていたら2回で8点の得点となった。まあ阪神フアンとしては面白いといえ相手方は面白くないだろうな。競り合っているときはこういう同情は出てこない。なんとか勝ちたい一心で相手にミスが出ると喜ぶという汚れ心が剥き出しになる
よしとスイッチ切って歩く冥想一時間をと広間で歩く。往復するごとに窓の向こうの屋根にいる数羽のカラスがこちらを見ている。カラスも無常なり。この自分も無常なりと観察。そこへ妄想も加わる
 カラスが云う。あんたは野球なんていうゴミみたいなものに何故喜ぶの?何を云うかと私は言う。カラスよあんたは人間の捨てた食い残しのゴミ箱を好むではないか?そらそうよそれはカラスにとっては何より生きるのに必要なご馳走なんだよ。

 野球が何故ゴミだというのかねカラスさんよ。カラスは云う。あんたみたいによ勝っているとテレビは付けるが負けているとそれを消してしまう。それに一喜一憂に加えて大声もだす。自分勝手も甚だしいね。知性と観察がまったく機能していません。カラスはもっと冷静ですよ。

 カラスはねゴミ箱を漁るときでもしっかり周りに気を配っているよ。生きるのに必死なんだからね。あんたみたいに安泰な環境じゃないんだよ。そのように安泰で人間をやっていられるのは実にラッキーなことなんだよ。今の生涯はもう九回裏の2アウト2ストライクなのにね。









徒然日記 | 10:06:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
「旅の達成感に通じるもの」




協会のfbの紹介です。




日本テーラワーダ仏教協会

#jtba「旅の達成感に通じるもの」

●瞬間ごとの達成感が幸福へ
──いまという瞬間に注意を集中して、いまここにいる自分に気づくというヴィパッサナー瞑想でなにかを発見することは、ひとり旅で自分の世界に洞察を働かせることと似ている気がします。

 知らないことは怖いというか、不安なんですね。だから我々は、発見するために探検をする。旅も同じですね。全然言葉が通じない人に出会ったら、どうやってコミュニケーションをとるか考えて、自分が知りたいことを知ろうとします。自分なりの発見を求めて、とにかく成功させるためにその瞬間ごとを一生懸命に生きるわけです。

──遠い先の目標を目指すのではなく、瞬間ごとに集中するのが重要なんですね。

 目標を設定してもいいですけど、妄想にとらわれてはいけない。いま何をやるのかが重要ですから。だって、いまの瞬間を生きているわけでしょ?受験や仕事 などで悩んでしまう人もいますが、日々、1分単位で挑戦をしていたらいいんです。今日1日を頑張ったら、充実感で終わるでしょ?そうしたらまた明日も頑張 るでしょうに。時間はずっと進むものであって、停止しません。だから、いまするべき挑戦をすれば、それでいい。我々は時間をとても無駄に使っています。妄 想ばっかりだから。きちんと時間を使わないといけません。

──妄想を消し去ることも、自分を観察する瞑想で可能になるわけですね。

 タバコがやめられなかったり、勉強に集中できなかったりするのも妄想があるからで、その原因を取り除けばすぐに変われます。心のトラブルですよ。妄想を 続けるんではなく、研究すればいいんです。妄想がなければ、欲も怒りも憎しみも嫉妬も悲しみも悩みも生まれません。すべて妄想の結果ですから。事件が起 こったり、悩む人が多い現代には、論理的で科学的な仏教のような教えが必要です。お釈迦さまの言葉を理解し、本人の意思で考えることができたら明るく幸せ に生きることができるんです。

──不快感やストレスを引き起こすような外的な要因も、妄想に過ぎないんですか?

 科学的に見ると、自分の体に何かの情報が触れてるだけ。その刺激で、情報そのものを知ろうとせずに妄想しているだけです。仮に同じものを3人が見たとし て、3人がそれぞれ何かを感じたとしたら、それは主観が現れているからにすぎません。主観はあくまで主観であって、事実ではありません。情報そのものを冷 静に見ることができれば、ほとんどの問題を解決することができますよ。

──主観と妄想。すべて、自分を知ることとつながっているんですね。

 だから、自分を知ることで無我を発見できるんです。つまり、いろいろと研究することで、発見するだけに過ぎません。自我がなくなるわけではなく、自我な んて最初からないということに気づくのです。自我があるという錯覚があるから、苦しむんですよ。その錯覚が消えると同時に人が変わって、いつでも淀みが無 くて、明るくて、軽くて、活発で、瞬時に判断できる心を持つことができるんです。

──それが解脱ということですか?

 自分を完全に理解して、無我を発見することは問題の最終解決になります。最終的な答を見つけることがつまり、解脱や涅槃です。なすべくことはなし終え た、という勝利の宣言のようなものです。人生を左右する業のはたらきもありますから、すぐにすべてを理解することは簡単ではありませんが、真剣に瞑想を行 えば、どんな人でも幸せな道を自分で築くことができるんです。

──そうして幸せになるために、瞬間ごとを大切に生きていくわけですね。

 『幸せ』という言葉を正確に定義することができますか?例えば、結婚ができるかどうか、家を建てられるかどうか、というような一時的なことではなく、 もっと人類誰もが獲得できる普遍的なものであるはずです。それが何かというと、自分が挑戦したことを成功させ、達成感を得られるかどうかです。我々は毎 日、いろいろな問題にぶつかりますが、その都度、解決すればいいんです。その達成感が幸せなんですよ。全然特別なことではなくて、日々の生き方そのものに 幸せがあるんです。いまの瞬間を幸せになってください。そうすれば、次の瞬間も幸せになれますよね。その瞬間ごとを幸せに生きるための方法を教えてくれる のが、仏教なんです。

▼参考テキスト
このインタビューは、Papersky No.25(2008)に掲載されています。
インタビュー&構成:中島良平 写真:相田晴美
Interview & Text: Ryohei Nakajima Photography: Harumi Aida

PAPER SKY PAPER SKY blog
http://bit.ly/1agZ8hv

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
写真: #jtba「旅の達成感に通じるもの」<br /><br />●瞬間ごとの達成感が幸福へ<br />──いまという瞬間に注意を集中して、いまここにいる自分に気づくというヴィパッサナー瞑想でなにかを発見することは、ひとり旅で自分の世界に洞察を働かせることと似ている気がします。<br /><br /> 知らないことは怖いというか、不安なんですね。だから我々は、発見するために探検をする。旅も同じですね。全然言葉が通じない人に出会ったら、どうやってコミュニケーションをとるか考えて、自分が知りたいことを知ろうとします。自分なりの発見を求めて、とにかく成功させるためにその瞬間ごとを一生懸命に生きるわけです。<br /><br />──遠い先の目標を目指すのではなく、瞬間ごとに集中するのが重要なんですね。<br /><br /> 目標を設定してもいいですけど、妄想にとらわれてはいけない。いま何をやるのかが重要ですから。だって、いまの瞬間を生きているわけでしょ?受験や仕事などで悩んでしまう人もいますが、日々、1分単位で挑戦をしていたらいいんです。今日1日を頑張ったら、充実感で終わるでしょ?そうしたらまた明日も頑張るでしょうに。時間はずっと進むものであって、停止しません。だから、いまするべき挑戦をすれば、それでいい。我々は時間をとても無駄に使っています。妄想ばっかりだから。きちんと時間を使わないといけません。<br /><br />──妄想を消し去ることも、自分を観察する瞑想で可能になるわけですね。<br /><br /> タバコがやめられなかったり、勉強に集中できなかったりするのも妄想があるからで、その原因を取り除けばすぐに変われます。心のトラブルですよ。妄想を続けるんではなく、研究すればいいんです。妄想がなければ、欲も怒りも憎しみも嫉妬も悲しみも悩みも生まれません。すべて妄想の結果ですから。事件が起こったり、悩む人が多い現代には、論理的で科学的な仏教のような教えが必要です。お釈迦さまの言葉を理解し、本人の意思で考えることができたら明るく幸せに生きることができるんです。<br /><br />──不快感やストレスを引き起こすような外的な要因も、妄想に過ぎないんですか?<br /><br /> 科学的に見ると、自分の体に何かの情報が触れてるだけ。その刺激で、情報そのものを知ろうとせずに妄想しているだけです。仮に同じものを3人が見たとして、3人がそれぞれ何かを感じたとしたら、それは主観が現れているからにすぎません。主観はあくまで主観であって、事実ではありません。情報そのものを冷静に見ることができれば、ほとんどの問題を解決することができますよ。<br /><br />──主観と妄想。すべて、自分を知ることとつながっているんですね。<br /><br /> だから、自分を知ることで無我を発見できるんです。つまり、いろいろと研究することで、発見するだけに過ぎません。自我がなくなるわけではなく、自我なんて最初からないということに気づくのです。自我があるという錯覚があるから、苦しむんですよ。その錯覚が消えると同時に人が変わって、いつでも淀みが無くて、明るくて、軽くて、活発で、瞬時に判断できる心を持つことができるんです。<br /><br />──それが解脱ということですか?<br /><br /> 自分を完全に理解して、無我を発見することは問題の最終解決になります。最終的な答を見つけることがつまり、解脱や涅槃です。なすべくことはなし終えた、という勝利の宣言のようなものです。人生を左右する業のはたらきもありますから、すぐにすべてを理解することは簡単ではありませんが、真剣に瞑想を行えば、どんな人でも幸せな道を自分で築くことができるんです。<br /><br />──そうして幸せになるために、瞬間ごとを大切に生きていくわけですね。<br /><br /> 『幸せ』という言葉を正確に定義することができますか?例えば、結婚ができるかどうか、家を建てられるかどうか、というような一時的なことではなく、もっと人類誰もが獲得できる普遍的なものであるはずです。それが何かというと、自分が挑戦したことを成功させ、達成感を得られるかどうかです。我々は毎日、いろいろな問題にぶつかりますが、その都度、解決すればいいんです。その達成感が幸せなんですよ。全然特別なことではなくて、日々の生き方そのものに幸せがあるんです。いまの瞬間を幸せになってください。そうすれば、次の瞬間も幸せになれますよね。その瞬間ごとを幸せに生きるための方法を教えてくれるのが、仏教なんです。<br /><br />▼参考テキスト<br />このインタビューは、Papersky No.25(2008)に掲載されています。<br />インタビュー&構成:中島良平 写真:相田晴美<br />Interview & Text: Ryohei Nakajima Photography: Harumi Aida<br /><br />PAPER SKY PAPER SKY blog<br />http://bit.ly/1agZ8hv<br /><br />~生きとし生けるものが幸せでありますように~








facebook | 10:18:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
「穏やかなノーマルライフ」(後)




協会のFBの記事です





#jtba「穏やかなノーマルライフ」(後)

―つづき― 
 すべてのことには法則があります。社会を動かしているスピードも法則です。その時代、時代に合った固有のスピードを社会は持っています。それは地球の自転・公転と同じです。自転・公転を速めることも遅らせることもできません。

 たとえば、呼吸には呼吸の法則があって、酸素がどれくらい体に必要かということを計算しながら、一定のリズムで息を吸って吐くことを繰り返します。息を速く吸い続けたり、逆に遅く吸い続けたりすることは、ともに酸欠を招くだけです。ですから、意識して速く吸う必要も、遅く吸う必要もありません。

 社会にも法則があります。その法則は、その時代にあったスピードを持っていて、私たちはそれに対して瞬間、瞬間にただ対応してくだけのことです。そんな 社会の法則を無視して、必要以上に速く何かしようとか、遅くしようというのは、呼吸の例と同じく結果的に人間を壊すことになります。もっとも、今の社会は 計画がたくさんありすぎて、必要以上に人々の生活がファストライフ化されてしまっている面があることは事実です。

 しかしながら、人間の力ではしょせん、その法則には太刀打ちできません。法則に逆らおうとすることは、走っている電車を手で止めようとするのと同じよう なもの。ひじょうに苦労した末に自分が潰れてしまいます。ですから、法則を無視して速く生きるのも遅く生きるのも、ともに正しくないのです。ファストライ フもスローライフも必要ない。ほんとうに必要なのはノーマルライフです。

 ノーマルライフというのは、宇宙の法則に合わせたスピードで生きるということです。具体的に説明します。これは“今”を生きることなのです。人生は今だとすると、今何をするべきかがすぐにわかります。

 そこで、「今という時間はどれぐらいですか?」という質問を出すと、返ってくる答えは、みなバラバラになります。今という時間は一年ぐらいだと答える人 もいれば、一ヵ月くらいだと言う人もいる。今は一日だと言う人もいれば、一時間と答える人もいる。今という時間のとらえ方は、短いほうが賢いと思います。 なぜならば、何をするべきか、ということが明確になるからです。

 今は一年間だと思う人には、やることが大量にあるのです。自分にもわからないほどあるので落ち着きがなくなります。やるべきことをやらなかったり、忘れ たり、後回しにしたり、手抜きをしたりするなど、たくさんの問題が起きます。何よりも、精神的に落ち着きがないということは、不幸なことです。

 つまり、今を生きることは、ファストライフでもなく、スローライフでもなく、ノーマルライフなのです。今という時間が短くなればなるほど、成功する確率 が高まります。仏教は今という時間が、「今という瞬間」なるようにと、心を成長させることを薦めています。今という時間が瞬間になった人は、“悟り”にも 達するのです。終わり

●イラスト:髙橋優子
▼参考テキスト
小さな「悟り」を積み重ねる(集英社新書)
スマナサーラ長老 著
http://amzn.to/1awlg4D

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
写真: #jtba「穏やかなノーマルライフ」(後)<br /><br />―つづき― <br /> すべてのことには法則があります。社会を動かしているスピードも法則です。その時代、時代に合った固有のスピードを社会は持っています。それは地球の自転・公転と同じです。自転・公転を速めることも遅らせることもできません。<br /><br /> たとえば、呼吸には呼吸の法則があって、酸素がどれくらい体に必要かということを計算しながら、一定のリズムで息を吸って吐くことを繰り返します。息を速く吸い続けたり、逆に遅く吸い続けたりすることは、ともに酸欠を招くだけです。ですから、意識して速く吸う必要も、遅く吸う必要もありません。<br /><br /> 社会にも法則があります。その法則は、その時代にあったスピードを持っていて、私たちはそれに対して瞬間、瞬間にただ対応してくだけのことです。そんな社会の法則を無視して、必要以上に速く何かしようとか、遅くしようというのは、呼吸の例と同じく結果的に人間を壊すことになります。もっとも、今の社会は計画がたくさんありすぎて、必要以上に人々の生活がファストライフ化されてしまっている面があることは事実です。<br /><br /> しかしながら、人間の力ではしょせん、その法則には太刀打ちできません。法則に逆らおうとすることは、走っている電車を手で止めようとするのと同じようなもの。ひじょうに苦労した末に自分が潰れてしまいます。ですから、法則を無視して速く生きるのも遅く生きるのも、ともに正しくないのです。ファストライフもスローライフも必要ない。ほんとうに必要なのはノーマルライフです。<br /><br /> ノーマルライフというのは、宇宙の法則に合わせたスピードで生きるということです。具体的に説明します。これは“今”を生きることなのです。人生は今だとすると、今何をするべきかがすぐにわかります。<br /><br /> そこで、「今という時間はどれぐらいですか?」という質問を出すと、返ってくる答えは、みなバラバラになります。今という時間は一年ぐらいだと答える人もいれば、一ヵ月くらいだと言う人もいる。今は一日だと言う人もいれば、一時間と答える人もいる。今という時間のとらえ方は、短いほうが賢いと思います。なぜならば、何をするべきか、ということが明確になるからです。<br /><br /> 今は一年間だと思う人には、やることが大量にあるのです。自分にもわからないほどあるので落ち着きがなくなります。やるべきことをやらなかったり、忘れたり、後回しにしたり、手抜きをしたりするなど、たくさんの問題が起きます。何よりも、精神的に落ち着きがないということは、不幸なことです。<br /><br /> つまり、今を生きることは、ファストライフでもなく、スローライフでもなく、ノーマルライフなのです。今という時間が短くなればなるほど、成功する確率が高まります。仏教は今という時間が、「今という瞬間」なるようにと、心を成長させることを薦めています。今という時間が瞬間になった人は、“悟り”にも達するのです。終わり<br /><br />●イラスト:髙橋優子<br />▼参考テキスト<br />小さな「悟り」を積み重ねる(集英社新書)<br />スマナサーラ長老 著<br />http://amzn.to/1awlg4D <br /><br />~生きとし生けるものが幸せでありますように~









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「穏やかなノーマルライフ」(前)




協会のFBの記事です





#jtba「穏やかなノーマルライフ」(前)

 社会の変化が激しくなると、「こんな変化のスピードが速いのはおかしいんじゃないか、人間性を失ってしまう…」と言ってスローライスを唱える人が出てき ます。しかし、先を急いでいるように見える社会に対して、反対に「急がない」という姿勢でいることは仏教では理解できない考え方なのです。理解できないと いうより、けっこうそれは危うさを孕んでいます。簡単に分析して説明することができない深い問題です。

 私は、めまぐるしいほど速い勢いで生きるのも間違っているし、それに反発してスローライフを選ぶことも正しくないと思います。速いのが悪ければ、遅いのも同様に悪いのです。なぜ社会は早く動くようになったのでしょうか。効率を上げて、早くたくさん儲けて、楽にのんびり生きてみたい、とみんなが思ったのでしょうか。

 今みたいに新幹線がない時代では、東京から大阪に行くのに汽車で一日かかっていました。ところが新幹線が登場し、今では東京から大阪までたった2時間 40分で移動できます。東京で午前中仕事をしてから新幹線で大阪まで行き、その日のうちに大阪で商談をすることも可能です。昔なら移動にかけていた一日分 が浮くわけですから、本来ならそこで一日のんびり過ごしたっていいまずです。でも、果たしてそうするでしょうか?しないですね。

 現代人は仕事をもっと速く、効率的にするために工夫に工夫を重ねています。しかし、いっこうに暇な時間は出現しないのです。この社会には携帯電話、パソ コン、家電など便利な道具が溢れています。人間がつくる機械はすべて、時間を短縮する目的と仕事を楽にする目的でできているのです。しかし、現実は楽にな りません。むしろ、反対に仕事や日常生活はますます複雑になり、忙しくなる一方です。

 では昔はどうだったのでしょうか。現代と比較すると、何でも仕事や生活のペースはスローでした。昔の人はのんびり生きていたということでしょうか?生き 方がスローライフだったということでしょうか?いいえ、そうは言えないと思います。時間的に余裕だとか、忙しさという点では現代人と変わらないと思いま す。

 今、炊飯器なら一時間もかからずにご飯が炊けます。米も無洗米を使えば研ぐ時間も浮かせます。でも、その分、私たちは別な仕事があるので忙しいのです。 昔の人は薪を割って、釜でご飯を炊かなくてはいけませんでした。それに、収穫した稲を脱穀する仕事もありました。そうとう時間がかかりました。結局は忙し かったのです。のんびりする暇などなかったのです。

 お昼に奥様同士が集まって優雅にランチ、なんて暇はどこにもなかったでしょう。もっとも、優雅にランチしている奥様方か実際暇かというとそうではありま せん。見ていると、家事以外にパートで小遣いを稼いだり、自分の趣味を追究したり、のべつまくなしに動き回っていてボーッとしている時間などありません。 昔は家事に五時間かかったのが今では二時間でできるとすれば、余った三時間は別のことで忙しくなっているんですね。

 要は、便利や効率を求めても、結局は忙しさという点では同じところをグルグル回っているだけなのです。急いで何かやろうという発想は、どこか間違っているのです。だからと言って、ゆっくりやりましょうというのも間違っている。

 すべてのことには法則があります。社会を動かしているスピードも法則です。その時代、時代に合った固有のスピードを社会は持っています。それは地球の自転・公転と同じです。自転・公転を速めることも遅らせることもできません。つづく

●イラスト:髙橋優子
▼参考テキスト
小さな「悟り」を積み重ねる(集英社新書)
スマナサーラ長老 著
http://amzn.to/1awlg4D

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
写真: #jtba「穏やかなノーマルライフ」(前)<br /><br /> 社会の変化が激しくなると、「こんな変化のスピードが速いのはおかしいんじゃないか、人間性を失ってしまう…」と言ってスローライスを唱える人が出てきます。しかし、先を急いでいるように見える社会に対して、反対に「急がない」という姿勢でいることは仏教では理解できない考え方なのです。理解できないというより、けっこうそれは危うさを孕んでいます。簡単に分析して説明することができない深い問題です。<br /><br /> 私は、めまぐるしいほど速い勢いで生きるのも間違っているし、それに反発してスローライフを選ぶことも正しくないと思います。速いのが悪ければ、遅いのも同様に悪いのです。なぜ社会は早く動くようになったのでしょうか。効率を上げて、早くたくさん儲けて、楽にのんびり生きてみたい、とみんなが思ったのでしょうか。<br /><br /> 今みたいに新幹線がない時代では、東京から大阪に行くのに汽車で一日かかっていました。ところが新幹線が登場し、今では東京から大阪までたった2時間40分で移動できます。東京で午前中仕事をしてから新幹線で大阪まで行き、その日のうちに大阪で商談をすることも可能です。昔なら移動にかけていた一日分が浮くわけですから、本来ならそこで一日のんびり過ごしたっていいまずです。でも、果たしてそうするでしょうか?しないですね。<br /><br /> 現代人は仕事をもっと速く、効率的にするために工夫に工夫を重ねています。しかし、いっこうに暇な時間は出現しないのです。この社会には携帯電話、パソコン、家電など便利な道具が溢れています。人間がつくる機械はすべて、時間を短縮する目的と仕事を楽にする目的でできているのです。しかし、現実は楽になりません。むしろ、反対に仕事や日常生活はますます複雑になり、忙しくなる一方です。<br /><br /> では昔はどうだったのでしょうか。現代と比較すると、何でも仕事や生活のペースはスローでした。昔の人はのんびり生きていたということでしょうか?生き方がスローライフだったということでしょうか?いいえ、そうは言えないと思います。時間的に余裕だとか、忙しさという点では現代人と変わらないと思います。<br /><br /> 今、炊飯器なら一時間もかからずにご飯が炊けます。米も無洗米を使えば研ぐ時間も浮かせます。でも、その分、私たちは別な仕事があるので忙しいのです。昔の人は薪を割って、釜でご飯を炊かなくてはいけませんでした。それに、収穫した稲を脱穀する仕事もありました。そうとう時間がかかりました。結局は忙しかったのです。のんびりする暇などなかったのです。<br /><br /> お昼に奥様同士が集まって優雅にランチ、なんて暇はどこにもなかったでしょう。もっとも、優雅にランチしている奥様方か実際暇かというとそうではありません。見ていると、家事以外にパートで小遣いを稼いだり、自分の趣味を追究したり、のべつまくなしに動き回っていてボーッとしている時間などありません。昔は家事に五時間かかったのが今では二時間でできるとすれば、余った三時間は別のことで忙しくなっているんですね。<br /><br /> 要は、便利や効率を求めても、結局は忙しさという点では同じところをグルグル回っているだけなのです。急いで何かやろうという発想は、どこか間違っているのです。だからと言って、ゆっくりやりましょうというのも間違っている。<br /><br /> すべてのことには法則があります。社会を動かしているスピードも法則です。その時代、時代に合った固有のスピードを社会は持っています。それは地球の自転・公転と同じです。自転・公転を速めることも遅らせることもできません。つづく<br /><br />●イラスト:髙橋優子<br />▼参考テキスト<br />小さな「悟り」を積み重ねる(集英社新書)<br />スマナサーラ長老 著<br />http://amzn.to/1awlg4D <br /><br />~生きとし生けるものが幸せでありますように~





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「ここがスゴイよ 日本人の仏教観」




協会の記事です           





日本テーラワーダ仏教協会さんがリンクをシェアしました。

#jtba【お知らせ】シンポジウム「ここがスゴイよ 日本人の仏教観」  



平成25年度 第二回BDKシンポジウム
「ここがスゴイよ 日本人の仏教観」
http://www.bdk.or.jp/pdf/news/2013/symposium.pdf


日時:2013年9月19日(木)18:00~20:00
定員:100名(先着順)
場所:仏教伝道協会 8階「和」の間(東京都港区)
参加費:500円 ※参加費は、東日本大震災の義捐金として全額寄付します。

お申込みはFAXもしくはメールのみにて承ります。
但し、メールで申し込まれる方は、件名に必ず「第2回BDKシンポジウム」とご記載下さい。
申込期限は、2013年9月6日(金)迄です。
尚、参加費は当日お支払い下さい。
※お問い合わせは、仏教伝道協会まで

▼パネリスト
ネルケ・無方 師(曹洞宗)
アルボムッレ・スマナサーラ 師(日本テーラワーダ仏教協会)
ケネス・タナカ 師(浄土真宗本願寺派)

・タイムテーブル
17:15 開場
18:00 シンポジウム開始
    主催者挨拶
18:05 発表(15分×3名)
18:50 ディスカッション(40分)
19:30 休憩
19:40 質疑応答
20:00 終了

~生きとし生けるものが幸せでありますように~








facebook | 09:18:08 | トラックバック(1) | コメント(0)
1950年に第一回世界仏教徒会議がスリランカで開かれた際、正式に「国際仏旗」





協会の記事ではありません




八幡山 宝泉寺 (笛岡泰雲住職)  の紹介です





仏教 No.13

「仏旗」

仏旗」というものを、始めて私が見たのは30年ほど前、大本山永平寺に安居(修行)中で、春秋二期の大法要など
特別大事な行事の時には、山門の両脇に国旗と見慣れぬ五色の旗が立てられ、それが仏旗だということを教わりました。
全日本仏教会 のHPにも、説明がありますが、随分前(150年程)から仏教国で掲げられていたものを、
1950年に第一回世界仏教徒会議がスリランカで開かれた際、正式に「国際仏旗」として決められたものだそうです。
 日本テーラワーダ仏教協会HP→「仏旗の由来」 もご覧下さい。
 
1954年に第二回世界仏教徒会議が、大本山永平寺で開かれた際にも再確認されたということで、日本では永平寺が
この仏旗に一番深いご縁のあるお寺なのでした。
 
この仏旗の形に限らず、五色の吹き流しや、内陣や大間に五色や三色の布を繋ぎ合わせた荘厳幕は、
日本の寺院で随分昔から使われてきていると思います。
奈良東大寺の大仏建立の大法要にも色旗は仏教の象徴として荘厳されたかも知れません。
宝泉寺でも、私の晋山式以来、大本山永平寺にならって、元日や大きな法要には、小さな可愛い仏旗と国旗を掲げてきました。


    雪の元日

この春(平成18年5月)から本堂建築が始まり、地鎮祭や上棟式で仏旗を立てて荘厳しています。

   地鎮祭(仏暦2550年:平成18年9月3日)
 

  上棟式(仏暦2550年:平成18年11月11日)
 雨の降る早朝、現場監督さんが仏旗を立てるために青竹を切って来て準備してくれました。
 
見慣れない方々は、これは何の旗だろうと思われるかも知れませんが、
 お釈迦さまの仏旗を、喜びの気持ちで掲げると、安心の空間が生まれるような気がします。

生きとし生けるものが、幸せでありますように。








宝泉寺 | 10:25:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
「今の現象を観察」---徒然日記




協会の記事ではありません

サークル仲間の 記事です。

「今の現象を観察」---徒然日記


 今日は男風呂の美化をした。排水溝の掃除も大事なポイント。一カ所目で洗濯ネーム(洗濯物には個人NOを付けている)がクリップ付きで捨てられていた。見た後直ぐにありゃ~と心の中に極軽い腹立ち感情が出ているのを観察。

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徒然日記 | 17:17:09 | トラックバック(0) | コメント(0)




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#‎jtba‬「幸せへの選択」

「幸せにならなくていい」は極限の嘘
 「道徳は大嫌い」と言って守らないことと、「幸せになりたい」と思うことは、まったく矛盾しています。両方が一緒に成り立つことはあり得ないのです。

 みなさん、いちいち意識して過ごしてはいないでしょうが、人はみな、幸せになりたいのです。なかには「私は幸せにならなくてもいい」と言っている人もい るでしょうが、仏教でいえば、それは矛盾でしかありません。「幸せにならなくていい」「不幸でいい」というなら、「なぜ生きているのですか」とたずねたくなります。



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フェルト人形(画像):根岸まり
▼参考テキスト
的中する生き方(サンガ新書)
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~生きとし生けるものが幸せでありますように~
写真: #jtba「幸せへの選択」<br /><br />「幸せにならなくていい」は極限の嘘<br /> 「道徳は大嫌い」と言って守らないことと、「幸せになりたい」と思うことは、まったく矛盾しています。両方が一緒に成り立つことはあり得ないのです。<br /><br /> みなさん、いちいち意識して過ごしてはいないでしょうが、人はみな、幸せになりたいのです。なかには「私は幸せにならなくてもいい」と言っている人もいるでしょうが、仏教でいえば、それは矛盾でしかありません。「幸せにならなくていい」「不幸でいい」というなら、「なぜ生きているのですか」とたずねたくなります。<br /><br /> 自分でご飯を食べているくせに、自分がお風呂に入っているくせに、自分がテレビを見ているくせに、「幸せにはなりたくない」というのは、どういうことでしょうか。「いい加減にしろ。そこまで嘘を言うな」という話でしょう。極まりのない嘘です。<br /><br /> 我々は、「楽しい=幸せ」と思っていて、幸せな思いをしたいから、食べるし、お風呂にも入るし、テレビを見たりもするのです。たとえば、不倫をしたら、奥さんにバレたらまずいというので、とにかく誤魔化すでしょう。それも嘘ですが、「やはり自分の家族だけは不幸にしたくない」という気持ちからつく嘘であって、極限の嘘とはいえません。<br /><br /> 生きているのに「不幸になりたい」というのは、極限の嘘です。「そこまで言うのか」という嘘なのですが、けっこう言う人がいるのも確かです。<br /><br />不幸を避け、幸福になる原因を選ぶのが「道徳」<br /> 仏教では「道徳は真理」です。「紛れもない事実」を「道徳」としているのです。これはとても大切なポイントです。次のようにまとめることができます。<br /><br />●道徳・倫理とは、一時的な考え・価値観ではありません。<br />●道徳・倫理とは、因果法則です。<br />●因果法則は、客観的な真理・事実です。<br />●原因とその結果とをよく調べて、好まない結果を出す原因と、好む結果を出す原因を語ることが道徳・倫理です。<br /><br /> 「道徳・倫理」というのは、まず、因果法則をしっかりと調べるところから始まります。つまり、原因と結果についてしっかりと調べるのです。あるものごとが起きるとき、かならずそれが起こった「原因」があります。それをよく研究します。自分の人生や生活の中で起こることを、よく調べてみます。すると、「この結果は、こういう原因で現れるのだ」「好ましくない結果は、こういう原因で現れるのだ」と、起こったことに対する理由がわかります。そして、私たちは「こういうよい原因があると、このようなよい結果になる」「悪い原因によって、このような不幸な結果になる」ということが判断できるようになります。<br /><br /> たとえば、むさぼって食べる習慣が身についたがために、若くして成人病にかかってしまう人がいます。一方で、むさぼることなく、身体を維持するために必要な量だけ食べる習慣が身についているなら、年齢は70歳であっても健康な身体でいられます。このことがわかれば、「むさぼる感情は悪で、理性で行動することが善」であることを発見できます。<br /><br /> 私たちにとっての正解は、完全にひとつしかないのです。人間にとっての正解とは、「幸福になりたい」ということだけです。人は幸せになるために生きています。当然でしょう。そこで、「では、私は幸福になる原因を選んで、不幸になる原因を避けます」と、決めます。それが、道徳の世界なのです。<br /><br />誰もが幸福になる行為が完全な「道徳」<br /> 「道徳」=「幸福になる行為」については、次のようにまとめることができます。<br /><br />●自分だけ幸福になる行為は不完全です。他人(自分以外のすべての人)が不幸になる恐れがあります。<br /><br /> これは、わかりやすいと思います。<br /><br />●周りだけが幸福になる行為も不完全です。自分も他人も不幸になる恐れがあります。<br /><br /> 「周り」というのは、二人称で表されるような親しい相手を指します。たとえば、奥さんが旦那さんだけを幸福にしようと頑張ることなどです。これは、ちょっと不完全です。行為によって自分が不幸になる可能性があります。すると、自分だけでなく他の人々も不幸になる可能性があります。<br /><br />●他人だけが幸福になる行為も不完全です。自分と周りが犠牲になる恐れがあります。<br /><br /> 「他人」というのは、家族などの近しいひと以外の人を指します。他人様を幸福にしてあげようと思うと、これは危ないです。自分と周り(家族など)が犠牲になる可能性があります。<br /><br />●自分も、周りも、他人も幸福になる行為が完全な道徳です。<br /><br /> これは断言的に、絶対的に、「道徳」です。誰にも否定できません。たとえ神でも、バラモンでも、梵天でも否定できません。国王だろうが、法王だろうが、どんな人間であろうとも否定することはできません。お釈迦様が語っているのは、そういう完全たる「道徳」です。<br /><br />してはいけない行為「十悪」<br /> お釈迦様は、「道徳」的に生きる上でやめるべき行為を、「十悪」といって10項目を挙げていらっしゃいます。また、守るべき行為も「十善」といって、10項目を挙げています。<br /><br />①殺生(殺す)<br />②偸盗(盗む)<br />③邪淫(邪な行為をする)<br /><br />④妄語(嘘を言う)<br />⑤両舌(噂を言う)<br />⑥綺語(無駄話を言う)<br />⑦麁悪語(悪口を言う)<br /><br />⑧瞋恚(心で勝手に妄想する怒り)<br />⑨貪欲(心で勝手に妄想する欲)<br />⑩邪見(間違った意見を持つ)<br /><br /> という10種類の行為です。その行為自体が、いつでも罪になると仏教ではとらえます。<br /><br /> 「十善」は、「十悪」をしないことです。ですから、道徳的に生きる上で守るべきは、10項目だけなのです。「十悪」を犯さなければ、心がどんどんきれいになって、どんどん幸福に向かいます。<br /><br />フェルト人形(画像):根岸まり<br />▼参考テキスト<br />的中する生き方(サンガ新書)<br />http://amzn.to/bL1rY7<br /><br />~生きとし生けるものが幸せでありますように~









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facebook | 06:50:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
「少欲?知足?」




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#‎jtba‬「少欲?知足?」

 「少欲」という言葉の意味はわかるのでしょうか。わからないと思います。お釈迦様の「少欲」の定義は、「自分がどれほど精神的にすぐれていても、それを他人に知られることを欲しない」ということなのです。
 
 「私はこういうものだ」とどんどん宣伝して、みんなの間で売れて、人気者になって、というように、自分を売り込むことはしない、ということなのです。仏道を完成した人なら、智慧も完成している。しかし、それは俗世間には発表しません。自分が智慧を完成している こと、仏道を正直に勤め励んでいることなど、自分の徳を他人に知られるようにしたくないのです。ただごく普通に、一般の人々とまったく同じに扱われたっ て、なんのこともない。偉大なる智者になっているにもかかわらず、それは他人には全然知らせないようにする、知らせたくもない、という気持ちなのです。



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~生きとし生けるものが幸せでありますように~
写真: #jtba「少欲?知足?」<br /><br /> 「少欲」という言葉の意味はわかるのでしょうか。わからないと思います。お釈迦様の「少欲」の定義は、「自分がどれほど精神的にすぐれていても、それを他人に知られることを欲しない」ということなのです。<br /> <br /> 「私はこういうものだ」とどんどん宣伝して、みんなの間で売れて、人気者になって、というように、自分を売り込むことはしない、ということなのです。仏道を完成した人なら、智慧も完成している。しかし、それは俗世間には発表しません。自分が智慧を完成していること、仏道を正直に勤め励んでいることなど、自分の徳を他人に知られるようにしたくないのです。ただごく普通に、一般の人々とまったく同じに扱われたって、なんのこともない。偉大なる智者になっているにもかかわらず、それは他人には全然知らせないようにする、知らせたくもない、という気持ちなのです。<br /><br /> appiccha(アッピッチャ)を辞書で「少欲」と訳するから誤解してしまうのです。これは日本語で読むときだけ起こる問題ではありません。たとえパーリ語で読んでみても、appiccha の辞書の意味は「欲が少ない」ということになるのです。お釈迦様が意味するところは、この単語の言語学的な意味とは違うので、お釈迦様はご自分で、その言葉を解説なさるのです。お釈迦様の解説を理解して、appiccha を正しく訳するならば、「無我の精神」になるだろうと思います。<br /><br /> 私、私、というふうに、いつも自我を出すと、ひとには何もできなくなるのです。やることなすこと失敗するのです。落ち着きもなくなるのです。自我意識は、成長を目指す人にとって致命的な障害なのです。また、周りの目が気になってしようがないという人もいるのです。周りのことが気になるという病気も、自我なのです。ひとの評価を期待することも、自我なのです。周りの目が気になったり、認められることを期待したりすると、ひとのこころに重い負担がかかるのです。能力は発揮できなくなるのです。活発性も失うのです。また、精神的な病気に陥る恐れが充分あるのです。<br /> <br /> ですから私たちは、日常の生活もできるところまで自我を抑えて、無我の精神で行動するように励むと、ものごとはうまく運ぶのです。それには方法があります。たとえば会社で「お茶を煎れなさい」と言われたとします。「なんで私が」と思うと、自我意識なのです。お茶を入れてあげても、イヤな気持ちになるのです。ストレスがたまるのです。また、お茶を入れるとき、運ぶとき、失敗する可能性もあるのです。これは「なんで私が」という気持ちのせいなのです。そこで、このように考えましょう。「私、あの人、この人、などはどうでもよい。今この場でお茶を入れる必要があります。それはひとの役に立つ行為です。単純にお茶を入れる、ということだけに集中します」と。このように考えてから、「行く、急須を取る、中身を捨てる、洗う、茶葉を入れる、ポットを押してお湯を注ぐ」などなどの行為だけを考えて行いましょう。行為はあるが、ひとはいない、という前提ではたらきましょう。行為をおこなうからには、できるだけ正しくやりましょうと、つとめるのです。<br /> <br /> 自我意識さえ捨てれば、ひとには、「できない、やりたくない」というものはなくなるのです。その人には、幸福と喜びを感じることができるのです。自我はないが、人間としての自分の尊厳は大事に守られるのです。<br /><br /> 「満足する」というのは、ものの必要最小限で「もう充分だ」と満足することです。欲にはきりがないことはご存じだと思います。ひとにはお金が必要なのです。ではいくらあれば充分でしょうか? 答えがないでしょう。だいたい出てくる答えは、「お金はいくらあってもいいんじゃない」です。生きるために必要な他のものについても、私たちの気持ちの中では、上限がないのです。上限がない人は、いくら富豪であっても、満足して楽しく生きることはできないのです。高級車を何台も買っているのに、ボートも必要だと思うのです。ボートが手に入ったら、次にヘリを買おうとするのです。大富豪にも、欲しいと思われるすべてのものを手に入れることはできないのです。欲しいけれども手に入らない何かがあるならば、その人は不満を抱えているのです。無力感を感じているのです。それが幸福な人生だとは言えるものではありません。<br /> <br /> 人間の欲というのは「いくらあっても足りない」という大変な病気なのです。しかし、もっと欲しいという気持ちは、俗世間では危険視しないのです。逆によい気持ちとして取っているのです。ひとはもっと欲しいもっと儲けたいと思うからこそ、努力して発展しているのではないかと、弁解をするのです。しかしこの気持ちは、ひとの喜びを壊すのです。こころを暗くするのです。もっと欲しい、足りない、という気持ちは、はっきりと病原だと思った方がよいのです。突然発病する恐れがあるのです。<br /> <br /> 世間の弁解に、二つの立場で答えられます。もっと欲しい、足りない、と思う人は、当然がんばる。うまく行けば、前よりは期待したものが手に入っているかも知れません。しかしその人は、これで充分だとストップしないのです。やればできるのだと思って、さらに儲けることにがんばるのです。それでいつまで経っても満足はしないのです。いつまで経っても、無我夢中ではたらいているのです身体が壊れるまではたらくのです。楽しく生きることができなくなるのです。こころの安らぎは感じないのです。<br /> <br /> もっと欲しい、足りない、と思う二番目のひともがんばる。しかし成功しない。よい結果はでない。苦労したのに、お金が手に入らなかったならば、悔しい思いをするのです。怒るのです。落ち込むのです。自己嫌悪に陥るのです。他人にも攻撃する凶暴な人間になる恐れもあるのです。あるいは何もしないで、引きこもってしまう可能性もあるのです。結局は、成功してもしなくても、精神的な安らぎを感じない、という同じ結果です。<br /> <br /> もっと欲しい、足りない、という気持ちが精神病であると理解することは簡単です。三番目の人々もいるのです。その人々は、欲しい、欲しい、と希望だけ膨らみますが、何の行動もしないのです。欲しい、という気持ちはいくらでも膨らみます。希望が膨らんで大きくなると、実現のために行動することは不可能になるのです。やがて、部屋の掃除をすること、風呂に入ることまで、できなくなるのです。病気になっているのです。<br /><br /> ひとの「欲しい」には上限がないのです。前も言ったように、これは恐ろしい精神病です。仏教が認めるはずもありません。ひとはパソコンを使ってはいけない、という意味ではありません。ブランドのかばんを使ってはいけません、ではないのです。「必要」であるならば、それは揃わないと困るのです。「パソコンが必要」、「パソコンが欲しい」、この二つは同じ意味ではありません。欲しい欲しいと思う気持ちが、病気です。「欲しい」には上限がないが、「必要」には実現できるリミットがあるのです。上限があるのです。私たちが「欲しい」を「必要」に入れ替えると、精神病は軽減するのです。<br /><br />●イラスト(F.Noriko)<br />▼参考テキスト<br />偉大なる人の思考(PDF施本)<br />http://bit.ly/1d2a02e<br /><br />~生きとし生けるものが幸せでありますように~









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