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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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 誓教寺 つきなみ 第182号 2013年11月




協会の記事ではありません。

誓教寺のホームページより紹介です





ホーム 日本でテーラワーダ仏教 法要・勉強会・お祭り 経典・冥想・ヨーガ つきなみ

誓教寺報

   最新号ご紹介

 

Sabbe sattā bhavantu
       sukhitattā.

常栄山 誓教寺

〒744-0042
山口県下松市切山 347
TEL.0833-46-1413
FAX.0833-46-3149

 

   つきなみ バックナンバー

       誓教寺 つきなみ 第181号 2013年07月

       誓教寺 つきなみ 第180号 2013年04月

       誓教寺 つきなみ 第179号 2013年03月

       誓教寺  つきなみ 第178号 2013年01月

       誓教寺  つきなみ 第177号 2012年11月

       誓教寺 つきなみ 第176号 2012年07・08月 

       誓教寺 つきなみ 第175号 2012年05・06月

       誓教寺 つきなみ 第174号 2012年04月

       誓教寺 つきなみ 第173号 2012年02・03月

       誓教寺 つきなみ 第172号 2012年01月

       誓教寺 つきなみ 第171号 2011年11・12月

       誓教寺 つきなみ 第170号 2011年09・10月

       誓教寺 つきなみ 第169号 2011年07・08月

       誓教寺 つきなみ 第168号 2011年05・06月

       誓教寺 つきなみ 第167号 2011年04月

       誓教寺 つきなみ 第166号 2011年03月

       誓教寺 つきなみ 第165号 2011年01・02月

       誓教寺 つきなみ 第164号 2010年12月

       誓教寺 つきなみ 第163号 2010年10・11月

       誓教寺 つきなみ 第162号 2010年09月

       誓教寺 つきなみ 第161号 2010年07・08月

       誓教寺 つきなみ 第160号 2010年05・06月

       誓教寺 つきなみ 第159号 2010年04月

 










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誓教寺 | 14:07:14 | トラックバック(1) | コメント(0)
人の子よ、慈悲を抱け! いのちの喜びを届けるのだ。  全雄




協会の記事ではありません

今を幸せに生きる道! Be Happy!Namo Tassa

Bhagavato Arahato Sammā Sambuddhassa.


の紹介です





献血のススメ!


お堂の綱渡り昨日は、新宿東口献血ルームでボランティアをさせて頂きました。
メインは「お坊さんと話しませんか?」でしたが、そちらの訪問者はお一人(笑)寂しいものでした(笑)

その代わりに、袋詰め作業、お菓子の補充、ジュースの飲み残しの片付け、テーブル拭き、床清掃、献血終了時にお渡しする紙のカッティングなどなど、充実した時間を過ごす事が出来ました!!

新宿東口献血ルームの皆様、有難うございました(笑)!

そして面白かったのは…
「新宿東口献血ルーム × HALLOWEEN」というクイズ、でした。

ヒントを手掛かりに、ドラキュラの弱点を暴いて、けんけつちゃんを守る、というクイズです。これが、なかなか難しい。解くのに25分ほどかかってしまいました(笑)
この楽しいクイズに挑戦できるのは、10月31日までですから、お時間のある方は、ぜひ献血にお越し頂き、けんけつちゃんを魔の手から守ってあげて下さい。素敵なプレゼントもありますよ~(笑)

自分の体を使って人様をお助けする献血は、とても素晴らしい善行為です。
また、日本中に、血を分けた友達「血縁の輪」が広がります(笑)

人の子よ、慈悲を抱け!
いのちの喜びを届けるのだ。  全雄


もう一行追加

針の太さにおののいてはならない…これは自戒(笑)

≪追記≫
新宿東口献血ルームさんでの「お坊さんと話しませんか?」開催予定日は…
11月19日 ㈫ 11時~16時
11月25日 ㈪ 11時~16時

です。よろしければお越し下さい。
スリランカの「仏旗キーホルダー」を差し上げています(笑)

善人よ物で釣られて下さいな 全雄









Be Happy! | 09:57:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
「それ、迷惑なんだけどなぁ」(他者編)





協会のfbより紹介です。





#jtba「それ、迷惑なんだけどなぁ」(他者編)

◆自分の基準に人が合わないとき
 他人が頼んだとおりにやってくれないなど、人に迷惑をかけられることがあります。具体的に言うと、日常的によくあることなのですが、自分の前の人が、バ スに乗ってから財布を開けてお金を出す。出したら間違っていたので、また出し直して…そんなことをのんびり続けている。あとには人がずーっと並んでいる。 そんなとき、けっこう苛立ちますね。ぶん殴ってやりたくなったりしますね。JRの窓口でも同じこと。

 私もそうい う経験がありますが、新幹線に乗ろうと思って時間を計算していったのですが4人並んでいる。4人なら大丈夫と思って並んでいたら、大丈夫じゃないんです ね。前の人は、なんだか新幹線の歴史まで全部聞いているのではないかと思うほど、長く窓口を占領しているのです。そういうことは世の中にはよくあることな んですね。

 タバコを吸う人は、タバコがどのくらい人に迷惑をかけているのか全然気にしない。ある人々がそのようにまわりに迷惑をかけていて、そのことによって苛立つ。そういう出来事は毎日のようにありますね。では、どうすればいいのでしょうか?

 簡単な方法があります。ぶん殴ってください(笑)。ぶん殴りたくなるのは、「迷惑をかけられている」と思っている人の気持ちなんですね。でも普通だった らそれは答えにならないでしょう。なぜならそのような場面で人を殴ってよいのであれば、我々は一体どのくらい人をぶん殴ればよいのでしょうか。

 自分の子もぶん殴らなければなりません。小さな子に「早く準備しろ」と言ってもなかなか言うことを聞きません。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、ご はんはなかなか食べないし、学校へ行くといってもカバンを忘れるわ、弁当を忘れるわ。追いかけていって、それを届けてあげなくてはないけない。

 つまり、そういうことは、世の中にごく普通にあることなのです。問題はこういうことです。もし苛立つのならば、自分が自分のことしか考えていないという ことなのです。「自分のために世の中は回ってくれ」ということなんです。「私は忙しいのだから、あなた方はそれに合わせて忙しくしなさい」と。

 それを他人の側から見れば、「それはあなたの勝手、私にはなんの関係もない」という状態なんです。駅で切符を売っている人にしても、ただのんびりとごく 普通に仕事しているだけなのです。ですから、そこに見られる現実は、自分一人が勝手にいろいろなことを考えて、イライラしているだけだということなので す。

 たとえば、仕事の部下に何かを頼んだとき、頼んだようにやってくれないとすると、それは頼む側に何か問題があると考えて間違いありません。スカートでも 上着でも、何か直しを頼んだときに、自分の希望通りにやってくれなかったとすると、そこでは自分の頼み方に問題があると思った方がいいのです。

 たくさん言葉を使って、結局何も言っていないということが多々あります。それはしっかりと考えていないからなのです。私はこういう風な形でこんな感じに したいんですと、はっきり言った方がいい。或いは自分が分からないのだったら、「私はよく分からないので、とにかく格好よく見えるようにしてください。お 任せします」と頼んでしまう。そうするとその人も、「この人は私を認めて私に任せてくれたのだから、この人が驚くくらいのことをしなければならない」と責 任を持ってしまうのです。すると良い結果が生まれてきます。

 バスに乗る場合でも、私は乗る前から200円を用意してサッと乗ってしまいます。前のおばあちゃんは遅いかもしれませんが、それぞれの人のスピードとい うものがあるのですから、こんな風に見てみてはいかがでしょう。何番のバスですか?このバスはどこへ行くんですか?とか聞いている姿を、やっぱりおばあ ちゃんだから、しっかり聞いているんだとかわいく感じて見たり、やっぱりおじいちゃんだから、足腰が弱くてバスの階段が大変なのだ、手を貸してあげよう、 そんな風にやさしく見てみる。

 自分の基準にみんなは合わせてくれませんので、自分がみんなの基準に合わせてみるのです。

◆他人に迷惑をかける人とどうつきあうか
 たとえば、タバコを吸う人の場合、他人の迷惑を考えない人も多いように思われます。でもきちんとわきまえた紳士淑女もいます。タバコは少なくとも体には悪いし、やはり精神的に弱い部分があるから吸っているという点は否めないでしょう。

 でも、電車のホームで見た人は随分ちゃんとした人でした。私はいつも乗り降りの早いところに行くようにしているのですが、そういう場所はだいたい喫煙の 場所なんです。私にとってもタバコの煙は気分の良いものではなく、体にダメージのあるものなんですが、昨日、ある中年の男性が、早くホームに到着して前の 方に並んでいたのですが、タバコを吸いたくなったんですね。

 すると、列を離れてちゃんと白い枠線の中に入って、灰皿の前に立って吸い始めたんです。それを見て私は、とても喜びを感じたんですね。これこそ紳士だ と。ですから、その人が吸った煙が私の前に来て鼻に入っても、全然イヤな気がしなかったんです。他人に迷惑をかけないように、一生懸命気をつけていること が分かりますから。

 一方、そこには若いだらしない人もいました。その人はわざわざ枠の外にいて、私のすぐ横でタバコを吸ってるんです。その灰は足元に落ちるわけです。私 は、吸いたいならちゃんと行儀よくやれと、足で蹴飛ばしたくなったんですけどね。でも、私は怒ったわけではありません。怒ったら、タバコの煙を吸う損ばか りでなく、その上さらに精神的に損をしてしまう、そんな必要もないでしょう。

 その人は自分のことしか考えられないように見えますが、その人の立場に立ってみると、「それぐらいはいいかな」と考えているからなのでしょう。そこでも うしばらく見ていると、ときどき灰皿のところまで歩いて行って、灰を落として、また戻るのです。本人としてはしっかりやっているつもりなんですね。

 みんなそれなりにやっているのだと理解しておけば、そういう問題は解決します。たとえばおばあちゃんがすごい荷物を持って満員電車に乗ろうとすると、か なり迷惑なんですが、そのおばあちゃんの立場から考えてあげようとすると、まあ何とか許してあげようという気持ちは生まれてくるのです。

●写真:アショーカ王勅塔
▼参考テキスト
10.心療カウンセリング(5)基準が『鬼順』にならないように
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi52.html
10.心療カウンセリング(6)精神的悩みにショックを与える
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi53.html
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

写真: #jtba「それ、迷惑なんだけどなぁ」(他者編)<br><br>◆自分の基準に人が合わないとき<br> 他人が頼んだとおりにやってくれないなど、人に迷惑をかけられることがあります。具体的に言うと、日常的によくあることなのですが、自分の前の人が、バスに乗ってから財布を開けてお金を出す。出したら間違っていたので、また出し直して…そんなことをのんびり続けている。あとには人がずーっと並んでいる。そんなとき、けっこう苛立ちますね。ぶん殴ってやりたくなったりしますね。JRの窓口でも同じこと。<br><br> 私もそういう経験がありますが、新幹線に乗ろうと思って時間を計算していったのですが4人並んでいる。4人なら大丈夫と思って並んでいたら、大丈夫じゃないんですね。前の人は、なんだか新幹線の歴史まで全部聞いているのではないかと思うほど、長く窓口を占領しているのです。そういうことは世の中にはよくあることなんですね。<br><br> タバコを吸う人は、タバコがどのくらい人に迷惑をかけているのか全然気にしない。ある人々がそのようにまわりに迷惑をかけていて、そのことによって苛立つ。そういう出来事は毎日のようにありますね。では、どうすればいいのでしょうか?<br><br> 簡単な方法があります。ぶん殴ってください(笑)。ぶん殴りたくなるのは、「迷惑をかけられている」と思っている人の気持ちなんですね。でも普通だったらそれは答えにならないでしょう。なぜならそのような場面で人を殴ってよいのであれば、我々は一体どのくらい人をぶん殴ればよいのでしょうか。<br><br> 自分の子もぶん殴らなければなりません。小さな子に「早く準備しろ」と言ってもなかなか言うことを聞きません。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、ごはんはなかなか食べないし、学校へ行くといってもカバンを忘れるわ、弁当を忘れるわ。追いかけていって、それを届けてあげなくてはないけない。<br><br> つまり、そういうことは、世の中にごく普通にあることなのです。問題はこういうことです。もし苛立つのならば、自分が自分のことしか考えていないということなのです。「自分のために世の中は回ってくれ」ということなんです。「私は忙しいのだから、あなた方はそれに合わせて忙しくしなさい」と。<br><br> それを他人の側から見れば、「それはあなたの勝手、私にはなんの関係もない」という状態なんです。駅で切符を売っている人にしても、ただのんびりとごく普通に仕事しているだけなのです。ですから、そこに見られる現実は、自分一人が勝手にいろいろなことを考えて、イライラしているだけだということなのです。<br><br> たとえば、仕事の部下に何かを頼んだとき、頼んだようにやってくれないとすると、それは頼む側に何か問題があると考えて間違いありません。スカートでも上着でも、何か直しを頼んだときに、自分の希望通りにやってくれなかったとすると、そこでは自分の頼み方に問題があると思った方がいいのです。<br><br> たくさん言葉を使って、結局何も言っていないということが多々あります。それはしっかりと考えていないからなのです。私はこういう風な形でこんな感じにしたいんですと、はっきり言った方がいい。或いは自分が分からないのだったら、「私はよく分からないので、とにかく格好よく見えるようにしてください。お任せします」と頼んでしまう。そうするとその人も、「この人は私を認めて私に任せてくれたのだから、この人が驚くくらいのことをしなければならない」と責任を持ってしまうのです。すると良い結果が生まれてきます。<br><br> バスに乗る場合でも、私は乗る前から200円を用意してサッと乗ってしまいます。前のおばあちゃんは遅いかもしれませんが、それぞれの人のスピードというものがあるのですから、こんな風に見てみてはいかがでしょう。何番のバスですか?このバスはどこへ行くんですか?とか聞いている姿を、やっぱりおばあちゃんだから、しっかり聞いているんだとかわいく感じて見たり、やっぱりおじいちゃんだから、足腰が弱くてバスの階段が大変なのだ、手を貸してあげよう、そんな風にやさしく見てみる。<br><br> 自分の基準にみんなは合わせてくれませんので、自分がみんなの基準に合わせてみるのです。<br><br>◆他人に迷惑をかける人とどうつきあうか<br> たとえば、タバコを吸う人の場合、他人の迷惑を考えない人も多いように思われます。でもきちんとわきまえた紳士淑女もいます。タバコは少なくとも体には悪いし、やはり精神的に弱い部分があるから吸っているという点は否めないでしょう。<br><br> でも、電車のホームで見た人は随分ちゃんとした人でした。私はいつも乗り降りの早いところに行くようにしているのですが、そういう場所はだいたい喫煙の場所なんです。私にとってもタバコの煙は気分の良いものではなく、体にダメージのあるものなんですが、昨日、ある中年の男性が、早くホームに到着して前の方に並んでいたのですが、タバコを吸いたくなったんですね。<br><br> すると、列を離れてちゃんと白い枠線の中に入って、灰皿の前に立って吸い始めたんです。それを見て私は、とても喜びを感じたんですね。これこそ紳士だと。ですから、その人が吸った煙が私の前に来て鼻に入っても、全然イヤな気がしなかったんです。他人に迷惑をかけないように、一生懸命気をつけていることが分かりますから。<br><br> 一方、そこには若いだらしない人もいました。その人はわざわざ枠の外にいて、私のすぐ横でタバコを吸ってるんです。その灰は足元に落ちるわけです。私は、吸いたいならちゃんと行儀よくやれと、足で蹴飛ばしたくなったんですけどね。でも、私は怒ったわけではありません。怒ったら、タバコの煙を吸う損ばかりでなく、その上さらに精神的に損をしてしまう、そんな必要もないでしょう。<br><br> その人は自分のことしか考えられないように見えますが、その人の立場に立ってみると、「それぐらいはいいかな」と考えているからなのでしょう。そこでもうしばらく見ていると、ときどき灰皿のところまで歩いて行って、灰を落として、また戻るのです。本人としてはしっかりやっているつもりなんですね。<br><br> みんなそれなりにやっているのだと理解しておけば、そういう問題は解決します。たとえばおばあちゃんがすごい荷物を持って満員電車に乗ろうとすると、かなり迷惑なんですが、そのおばあちゃんの立場から考えてあげようとすると、まあ何とか許してあげようという気持ちは生まれてくるのです。<br><br>●写真:アショーカ王勅塔<br>▼参考テキスト<br>10.心療カウンセリング(5)基準が『鬼順』にならないように<br>http://www.j-theravada.net/kogi/kogi52.html<br>10.心療カウンセリング(6)精神的悩みにショックを与える<br>http://www.j-theravada.net/kogi/kogi53.html<br>♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪









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#jtba「それ、迷惑なんだけどなぁ」(自分編)





協会のfbより紹介です。





#jtba「それ、迷惑なんだけどなぁ」(自分編)

 人が高度な躾を受けた人格者か否かは、行儀作法でわかるのです。身体の立ち居振舞いは、その人の躾と心の状態を世間に表すのです。心を落ち着かせること も、成長することも、智慧の開発も時間がかかる可能性があります。身体の所作に気をつけることは、それほど難しくありません。それで釈尊は、先に身体の所 作に気をつけなさいと注意するのです。

 身体を好き勝手に動かすことは止めた方がよろしい。自分の好き勝手に身体を使うと、周りに大変迷惑なのです。 人々の間で立ち居振舞いに気をつけないと、普段怒らない人まで怒ってしまうのです。人間は、野性の動物の集団とは違います。「私はやりたいんだからやる」 ということは、人間の社会では成り立ちません。教室で運動することも、キャッチボールすることも良くないのです。国会で皆サンバを踊ることも良くないので す。手足を伸ばしたり、走ったりするためには、適切な場所と時間があるのです。

 このような身体の行為は、一つ一つ別に取って考えると、悪いことではありません。道徳に反している訳ではありません。しかし、場所と時間は問題です。不 適切なところで行うと、とても行儀が悪いことになります。頭がおかしいと言われることになります。文明人・社会人でないと言われることになります。周りに 大変な迷惑をかける人間になるのです。ですから、他人の批判、怒りを買うことになる身体の所作を止めることは、行儀なのです。道徳でもあります。身体を制 御することになります。

 道徳・規則項目をいちいち定めることは、簡単なことではありません。人間が間違いを犯すたびにそれを禁止項目にしなくてはならない。人間が何をやるのか とわかったものではありません。時代が変わると、社会が発展すると、生き方は変わっていくのです。生活習慣が変わっていくのです。その時その時、迷惑にな る行動を発見するたびに、禁止しなくてはいけなくなります。

 たとえば、今、人々の間でインターネットのコミュニケーションが流行っています。誰でも自由に発言したり、好きな情報を得たりする。一見、何も悪くな い、昔の人々にできなかった素晴らしいことです。しかし、チャットで犯罪を促したり、自殺の方法を教えたり、自殺願望の人々を集めて集団自殺をさせたり、 爆弾の組み立て方などを教えたりすると、どうなるでしょうか。

 また、他人の機密情報にアクセスしたり、それを公表したりするのはどうでしょうか。何も制御がないから、自由な発言ができるからと、人を誹謗中傷したり するのは、どうでしょうか。また他人のホームページに入って、その中身を書き換えたり消したりするのは、どうでしょうか。全ては悪い行為です。

 しかし、今までそれらを規制する法律がなかったのも当然です。社会が変わると、新しい法律を作り続けなくてはならないのです。これは、終わりのない作業になるのです。

 釈尊はその問題を二千五百年前に知っていたのです。だから、戒律項目を定めるのは、極力控えたのです。間違いを犯したときのみ、戒律項目を設定したので す。その代わりに、常識に従って自分を戒めることを期待していたのです。ですから、「社会を怒らせる、非難を受ける、他人に迷惑になる身体の行為を止めた 方が良い」と説かれると、常に変わっている時代に適応できる、普遍的な戒めになるのです。いちいち替える必要はありません。また、自分で気をつけて考え て、行動しなくてはならないから、頭が良くなるのです。

 厳しく躾されたならば、誰でもその決まりを自然に守るようになるのです。これは、連鎖反応的なもので、知識開発に関係がありません。たとえば、犬猫さえ も躾されたら、言われた通りにやるのです。それは、自分で考えて悪いことを止めたわけではありません。人間も、決して行儀が悪いと言えませんが、殆どの 人々は、自分の判断で理解能力に基づいて正しい振る舞いを知っているわけではありません。小さいときからの躾のお陰で、反射的に行っているのです。

 次の問題は、言葉です。人は言いたかっただけで、思っただけで、喋ってはならないのです。瞬時に思うことはほとんど感情的で、いい加減で、我が儘な思考 なのです。それを発言すると、大変な結果になります。話すことは自由だ思うのは勘違いです。「言論の自由」というのは、ものごとを完全に把握しなかった 人々が、ある側面だけ考えて言ったことです。普遍的な真理ではありません。完全たる自由を教える仏教が、「言論の自由」という表現を決して使っていないこ とに、がっかりしてはならないのです。

 話すということは、聞く相手がいることです。そこで、社会というものが成り立っているのです。社会には、社会の決まり、守らなくてはいけないことがいっ ぱいあるのです。自由に話すということは、ある個人が自分が好き勝手に考えた自己主張を語ることになりかねません。それが、社会の決まりを破ることになる のです。言葉を発言するときは、たとえ相手が一人であっても、その言葉が社会の情報になることを忘れてはならない。言葉が生み出す結果の責任を、発言した 人が担わなくてはならないのです。だから、言論の自由は成り立ちません。

 語る人は、社会に非難される、相手が怒る、相手の尊厳を侵害する言葉を語ってはならない。言葉を制御し、管理しなくてはならない。それが出来ない人の言 葉は、汚物を振りまくようなものです。行儀良く上手に語る能力のない場合は、釈尊が沈黙を守るようにと諭すのです。世界はうるさ過ぎ。皆、キャーキャーと 喋っているが、聞く人はいません。喋るだけで、頭は良くなりません。却って悪くなります。聞き上手は、得します。

 言葉の管理は、身体の躾より難しいのです。人間は、喋るのが好きです。楽しいのです。言葉を発しない生活は無理です。感情が込み上げてくると、どうして も喋りたくなります。それを強引に抑えるとストレスが溜まって、困ることになります。しかし、言葉には戦争を引き起こすくらい、人々を地獄に陥れるくら い、恐ろしいパワーがあるのです。正しく使えば、人類を幸福へ導くこともできるのです。話す度にその言葉の責任が自分に掛かってくるので、重大な罪にもな ります。言葉は遊びじゃないのです。危ないのです。気をつけた方が身の安全です。

 身体の振る舞いが悪い、言葉が乱暴という問題がなぜ生まれるのかというと、思考が汚れていることによるのです。欲、怒り、憎しみ、怨みなどで汚れた思考 をすることこそが、『悪の枢軸』なのです。無知で行う妄想が、精神力を徹底的に浪費させるのです。要するに、思考を管理すれば全ては解決するということで す。

●写真:祇園精舎跡(祇樹給孤独園精舎/ジェータワナ)
▼参考テキスト
躾と行儀作法は正しいと言えますか?変遷する社会に適した道徳
http://www.j-theravada.net/howa/howa135.html
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

写真: #jtba「それ、迷惑なんだけどなぁ」(自分編)<br><br> 人が高度な躾を受けた人格者か否かは、行儀作法でわかるのです。身体の立ち居振舞いは、その人の躾と心の状態を世間に表すのです。心を落ち着かせることも、成長することも、智慧の開発も時間がかかる可能性があります。身体の所作に気をつけることは、それほど難しくありません。それで釈尊は、先に身体の所作に気をつけなさいと注意するのです。<br><br> 身体を好き勝手に動かすことは止めた方がよろしい。自分の好き勝手に身体を使うと、周りに大変迷惑なのです。人々の間で立ち居振舞いに気をつけないと、普段怒らない人まで怒ってしまうのです。人間は、野性の動物の集団とは違います。「私はやりたいんだからやる」ということは、人間の社会では成り立ちません。教室で運動することも、キャッチボールすることも良くないのです。国会で皆サンバを踊ることも良くないのです。手足を伸ばしたり、走ったりするためには、適切な場所と時間があるのです。<br><br> このような身体の行為は、一つ一つ別に取って考えると、悪いことではありません。道徳に反している訳ではありません。しかし、場所と時間は問題です。不適切なところで行うと、とても行儀が悪いことになります。頭がおかしいと言われることになります。文明人・社会人でないと言われることになります。周りに大変な迷惑をかける人間になるのです。ですから、他人の批判、怒りを買うことになる身体の所作を止めることは、行儀なのです。道徳でもあります。身体を制御することになります。<br><br> 道徳・規則項目をいちいち定めることは、簡単なことではありません。人間が間違いを犯すたびにそれを禁止項目にしなくてはならない。人間が何をやるのかとわかったものではありません。時代が変わると、社会が発展すると、生き方は変わっていくのです。生活習慣が変わっていくのです。その時その時、迷惑になる行動を発見するたびに、禁止しなくてはいけなくなります。<br><br> たとえば、今、人々の間でインターネットのコミュニケーションが流行っています。誰でも自由に発言したり、好きな情報を得たりする。一見、何も悪くない、昔の人々にできなかった素晴らしいことです。しかし、チャットで犯罪を促したり、自殺の方法を教えたり、自殺願望の人々を集めて集団自殺をさせたり、爆弾の組み立て方などを教えたりすると、どうなるでしょうか。<br><br> また、他人の機密情報にアクセスしたり、それを公表したりするのはどうでしょうか。何も制御がないから、自由な発言ができるからと、人を誹謗中傷したりするのは、どうでしょうか。また他人のホームページに入って、その中身を書き換えたり消したりするのは、どうでしょうか。全ては悪い行為です。<br><br> しかし、今までそれらを規制する法律がなかったのも当然です。社会が変わると、新しい法律を作り続けなくてはならないのです。これは、終わりのない作業になるのです。<br><br> 釈尊はその問題を二千五百年前に知っていたのです。だから、戒律項目を定めるのは、極力控えたのです。間違いを犯したときのみ、戒律項目を設定したのです。その代わりに、常識に従って自分を戒めることを期待していたのです。ですから、「社会を怒らせる、非難を受ける、他人に迷惑になる身体の行為を止めた方が良い」と説かれると、常に変わっている時代に適応できる、普遍的な戒めになるのです。いちいち替える必要はありません。また、自分で気をつけて考えて、行動しなくてはならないから、頭が良くなるのです。<br><br> 厳しく躾されたならば、誰でもその決まりを自然に守るようになるのです。これは、連鎖反応的なもので、知識開発に関係がありません。たとえば、犬猫さえも躾されたら、言われた通りにやるのです。それは、自分で考えて悪いことを止めたわけではありません。人間も、決して行儀が悪いと言えませんが、殆どの人々は、自分の判断で理解能力に基づいて正しい振る舞いを知っているわけではありません。小さいときからの躾のお陰で、反射的に行っているのです。<br><br> 次の問題は、言葉です。人は言いたかっただけで、思っただけで、喋ってはならないのです。瞬時に思うことはほとんど感情的で、いい加減で、我が儘な思考なのです。それを発言すると、大変な結果になります。話すことは自由だ思うのは勘違いです。「言論の自由」というのは、ものごとを完全に把握しなかった人々が、ある側面だけ考えて言ったことです。普遍的な真理ではありません。完全たる自由を教える仏教が、「言論の自由」という表現を決して使っていないことに、がっかりしてはならないのです。<br><br> 話すということは、聞く相手がいることです。そこで、社会というものが成り立っているのです。社会には、社会の決まり、守らなくてはいけないことがいっぱいあるのです。自由に話すということは、ある個人が自分が好き勝手に考えた自己主張を語ることになりかねません。それが、社会の決まりを破ることになるのです。言葉を発言するときは、たとえ相手が一人であっても、その言葉が社会の情報になることを忘れてはならない。言葉が生み出す結果の責任を、発言した人が担わなくてはならないのです。だから、言論の自由は成り立ちません。<br><br> 語る人は、社会に非難される、相手が怒る、相手の尊厳を侵害する言葉を語ってはならない。言葉を制御し、管理しなくてはならない。それが出来ない人の言葉は、汚物を振りまくようなものです。行儀良く上手に語る能力のない場合は、釈尊が沈黙を守るようにと諭すのです。世界はうるさ過ぎ。皆、キャーキャーと喋っているが、聞く人はいません。喋るだけで、頭は良くなりません。却って悪くなります。聞き上手は、得します。<br><br> 言葉の管理は、身体の躾より難しいのです。人間は、喋るのが好きです。楽しいのです。言葉を発しない生活は無理です。感情が込み上げてくると、どうしても喋りたくなります。それを強引に抑えるとストレスが溜まって、困ることになります。しかし、言葉には戦争を引き起こすくらい、人々を地獄に陥れるくらい、恐ろしいパワーがあるのです。正しく使えば、人類を幸福へ導くこともできるのです。話す度にその言葉の責任が自分に掛かってくるので、重大な罪にもなります。言葉は遊びじゃないのです。危ないのです。気をつけた方が身の安全です。<br><br> 身体の振る舞いが悪い、言葉が乱暴という問題がなぜ生まれるのかというと、思考が汚れていることによるのです。欲、怒り、憎しみ、怨みなどで汚れた思考をすることこそが、『悪の枢軸』なのです。無知で行う妄想が、精神力を徹底的に浪費させるのです。要するに、思考を管理すれば全ては解決するということです。<br><br>●写真:祇園精舎跡(祇樹給孤独園精舎/ジェータワナ)<br>▼参考テキスト<br>躾と行儀作法は正しいと言えますか?変遷する社会に適した道徳<br>http://www.j-theravada.net/howa/howa135.html<br>♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪










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人生の主人公は、「私」です!





協会の記事ではありません

今を幸せに生きる道! Be Happy!Namo Tassa

Bhagavato Arahato Sammā Sambuddhassa.


の紹介です






人生の主人公は、「私」です!

お堂の悟空の自尊心信仰が何であれ、人生の主人公は「私」です。それも、今生きている「私」です。

主人公は、常に今をしっかりと演じなければなりません。

過去の事を思い出したり、将来の事を不安に思っている暇などないのです。

ですから、「主人公の私よ、今何をしていますか?」と、しばしば自分自身に問うべきです。

「今歩いています。」というのが今の役柄ならば、歩く事に集中します。完璧に演じるために!

この様にいつも、過去を振り返る事なく、未来を妄想する事なく、上の空でいる事なく、今を演じている事が、名優の条件です。

この演技中で「今」は、次の役柄のためのプロセス(過程)ではなく、それ自体が目的の行為です。
「今の役柄」が重要なのは、どうでもよい過程ではなく、目的そのものだからです。

こうして「今を演じる」事に慣れたならば、その人はもう迷うことなく今を大切に生きる「立派な主人公」になっています。

のんびり気楽な主人公である 全雄









Be Happy! | 06:23:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
「より良くなりたい」と正しく精進努力することが、正しい希望です。仏教は希望を持つことを否定していません。





協会のfbより紹介です。





#jtba「精進いたします」

【正精進①】今ある悪いところをなくす
 一つ目は「自分の悪いところやダメなところ、いけないところを直すために努力する」ことです。この「悪いところ」とはどういう意味かといいますと、お釈 迦様が使われた言葉は、不善(akusala)で、「巧みではない、上手ではない、下手」という意味です。何か不善の性格があるなら、それを努力して直さ なくてはなりません。不善にはいろいろありますが、特にお釈迦様が厳しくおっしゃったのは「怠けてはならない」ということです。

 誰にでも弱点や欠点はあるものです。そこで、そうした自分の悪いところを見て、見て、見て、その悪いところを直す努力をすること、これが幸福への道で す。私たちには悪いところやだらしないところがいっぱいあります。ですから、日々努力精進しなければなりません。ひとつ悪いところを直すと、別のものが顔 を出します。隠れていて、さっと顔を出すのです。それを直すと、また別のものが顔を出します。私たちは常に努力して、自分の悪いところを直していかなけれ ばならないのです。

【正精進②】やったことのない悪いことをこれからもやらない
 二番目は、今までやったことがない悪い行為を、これからもやらないように努力することです。世の中には悪行為や破壊行為がいっぱいあります。たとえば、 一度も麻薬に手を出したことがないのに悪い友達に誘われて、じゃあ一回だけやってみようと興味本位で手を出す人もいるかもしれません。でも仏教は「麻薬に は絶対手を出してはならない」と教えています。「あなたは今までやったことがないのだから、これからも頑張って、どんなに誘惑されても、やらないことを守 り通してください」と。その点では徹底的に頑固になっても構わないのです。

 今までやったことのない悪い行為はこれからもやらないよう、自分を戒めなくてはなりません。世の中は誘惑だらけです。社会を見ると、何十年も真面目に生 きてきた人が突然悪いことをする、ということがあります。五十歳まで真面目に仕事をしてきたのに、五十一歳でお金を取ったとか、浮気をしたとか。それで今 までこつこつ積み上げてきた成果も信頼も全部消えてなくなってしまうのです。ですから「今までやったことのない悪行為は、これからもやらないように努力す ること」が大切なのです。

【正精進③】すでにやっている善いことを完成するまで拡大する
  私たちは日常生活の中でいろいろな善いことをしています。たとえば仕事をまじめにするとか、会社が発展するように努力するとか、そういう自分が誠意を 持ってやっていることがいろいろあると思います。その「善いことをさらに完成するところまで努力する」というのが三番目の希望、いわゆる三番目の正精進で す。これぐらいでいいのではないかと、ほっとしてはなりません。私は毎朝九時から午後六時まで会社で仕事をしているから、それでいいのではないかとほっと するのではなく、さらに「善いこと、役に立つことはないでしょうか」と、自分が日々やっている善い行為を完成させるまで努力しなければならないのです。

【正精進④】今までやったことがない善いことをやる
 四番目は「今までやったことのない善い行為を勇気を出してやる」ということです。私たちはたいてい何か新しいことを試みようとするとき、「やっぱりやっ たことがないからやめよう」という弱気な気持ちが出てくるものです。だいたい人間には善い考えは浮かぶけど、やったことがないからやめましょうと、そうい う弱さがあるのです。これは仏教では認めません。仏教は、たとえやったことがなくても、それが善い行為なら、勇気を持ってやりなさいと教えています。いつ でも前進です。これが四つ目の正精進であり、善い希望なのです。

 仏教を実践するにはかなりの勇気とインスピレーションが必要です。常に新しい意見を持ち、新しいことを考えて行動することが大切なのです。なぜ仏教はそ ういうことを言うかと申しますと、「すべてのものは無常で流れて行く」からです。停止しているものは一つもありません。なのに私たちはいつでも「止まろ う、止まろう」としています。そうではなく、日々自分の生き方を改めて向上させなければならないのです。

★正精進まとめ
・今までやってきた悪行為をやめる
・今までやったことがない悪行為はこれからもやらない
・今やっている善行為を完成させる
・今までやったことがない善行為をやる

 「日々昨日より、もう少し良くなるように努力する」ということです。毎日毎日頑張らなくてはなりません。「昨日よりも今日、今日よりも明日、良くなるよ うに頑張ります」と自分を改善し、向上させ、成長させるのです。ですから、正精進には終わりがありません。悟りを開いて解脱をしたら修行は終わりますが、 解脱した人は解脱しても怠らないのです。

 お釈迦様は完全なる悟りを開いたとき、「やるべきことはすべて成し終えた。修行は完成した」と堂々とおっしゃいました。でも、その後の人生も寝る時間は 日に二時間程度。それも身体がガタガタに疲れたときだけお休みになり、それ以外のときはずっと頑張っていました。自分のためではなく、人々のため、社会の ために頑張っていたのです。仏教では、より良いことをしようではないか、より役に立つことをしようではないか、と死ぬ瞬間まで努力することをとても大切に しているのです。

 「より良くなりたい」と正しく精進努力することが、正しい希望です。仏教は希望を持つことを否定していません。それどころか「正しい希望をもって修行 し、修行を完成して悟りを開いてください」と励ましています。お釈迦様は常に比丘たちにおっしゃいました。「怠けてはなりません。睡眠にふけってはなりま せん。精進しなさい」と。世間では「寝ることは自然の行為であり、健康にいい」などと言っていますが、お釈迦様は「睡眠は時間の無駄」と教えているので す。

▼参考テキスト
28.希望と欲望(4)正しい希望の持ち方
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi162.html
28.希望と欲望(5)正しい希望の持ち方2
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi163.html

♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

写真: #jtba「精進いたします」<br><br>【正精進①】今ある悪いところをなくす<br> 一つ目は「自分の悪いところやダメなところ、いけないところを直すために努力する」ことです。この「悪いところ」とはどういう意味かといいますと、お釈迦様が使われた言葉は、不善(akusala)で、「巧みではない、上手ではない、下手」という意味です。何か不善の性格があるなら、それを努力して直さなくてはなりません。不善にはいろいろありますが、特にお釈迦様が厳しくおっしゃったのは「怠けてはならない」ということです。<br><br> 誰にでも弱点や欠点はあるものです。そこで、そうした自分の悪いところを見て、見て、見て、その悪いところを直す努力をすること、これが幸福への道です。私たちには悪いところやだらしないところがいっぱいあります。ですから、日々努力精進しなければなりません。ひとつ悪いところを直すと、別のものが顔を出します。隠れていて、さっと顔を出すのです。それを直すと、また別のものが顔を出します。私たちは常に努力して、自分の悪いところを直していかなければならないのです。<br><br>【正精進②】やったことのない悪いことをこれからもやらない<br> 二番目は、今までやったことがない悪い行為を、これからもやらないように努力することです。世の中には悪行為や破壊行為がいっぱいあります。たとえば、一度も麻薬に手を出したことがないのに悪い友達に誘われて、じゃあ一回だけやってみようと興味本位で手を出す人もいるかもしれません。でも仏教は「麻薬には絶対手を出してはならない」と教えています。「あなたは今までやったことがないのだから、これからも頑張って、どんなに誘惑されても、やらないことを守り通してください」と。その点では徹底的に頑固になっても構わないのです。<br><br> 今までやったことのない悪い行為はこれからもやらないよう、自分を戒めなくてはなりません。世の中は誘惑だらけです。社会を見ると、何十年も真面目に生きてきた人が突然悪いことをする、ということがあります。五十歳まで真面目に仕事をしてきたのに、五十一歳でお金を取ったとか、浮気をしたとか。それで今までこつこつ積み上げてきた成果も信頼も全部消えてなくなってしまうのです。ですから「今までやったことのない悪行為は、これからもやらないように努力すること」が大切なのです。<br><br>【正精進③】すでにやっている善いことを完成するまで拡大する<br>  私たちは日常生活の中でいろいろな善いことをしています。たとえば仕事をまじめにするとか、会社が発展するように努力するとか、そういう自分が誠意を持ってやっていることがいろいろあると思います。その「善いことをさらに完成するところまで努力する」というのが三番目の希望、いわゆる三番目の正精進です。これぐらいでいいのではないかと、ほっとしてはなりません。私は毎朝九時から午後六時まで会社で仕事をしているから、それでいいのではないかとほっとするのではなく、さらに「善いこと、役に立つことはないでしょうか」と、自分が日々やっている善い行為を完成させるまで努力しなければならないのです。<br><br>【正精進④】今までやったことがない善いことをやる<br> 四番目は「今までやったことのない善い行為を勇気を出してやる」ということです。私たちはたいてい何か新しいことを試みようとするとき、「やっぱりやったことがないからやめよう」という弱気な気持ちが出てくるものです。だいたい人間には善い考えは浮かぶけど、やったことがないからやめましょうと、そういう弱さがあるのです。これは仏教では認めません。仏教は、たとえやったことがなくても、それが善い行為なら、勇気を持ってやりなさいと教えています。いつでも前進です。これが四つ目の正精進であり、善い希望なのです。<br><br> 仏教を実践するにはかなりの勇気とインスピレーションが必要です。常に新しい意見を持ち、新しいことを考えて行動することが大切なのです。なぜ仏教はそういうことを言うかと申しますと、「すべてのものは無常で流れて行く」からです。停止しているものは一つもありません。なのに私たちはいつでも「止まろう、止まろう」としています。そうではなく、日々自分の生き方を改めて向上させなければならないのです。<br><br>★正精進まとめ<br>・今までやってきた悪行為をやめる<br>・今までやったことがない悪行為はこれからもやらない<br>・今やっている善行為を完成させる<br>・今までやったことがない善行為をやる<br><br> 「日々昨日より、もう少し良くなるように努力する」ということです。毎日毎日頑張らなくてはなりません。「昨日よりも今日、今日よりも明日、良くなるように頑張ります」と自分を改善し、向上させ、成長させるのです。ですから、正精進には終わりがありません。悟りを開いて解脱をしたら修行は終わりますが、解脱した人は解脱しても怠らないのです。<br><br> お釈迦様は完全なる悟りを開いたとき、「やるべきことはすべて成し終えた。修行は完成した」と堂々とおっしゃいました。でも、その後の人生も寝る時間は日に二時間程度。それも身体がガタガタに疲れたときだけお休みになり、それ以外のときはずっと頑張っていました。自分のためではなく、人々のため、社会のために頑張っていたのです。仏教では、より良いことをしようではないか、より役に立つことをしようではないか、と死ぬ瞬間まで努力することをとても大切にしているのです。<br><br> 「より良くなりたい」と正しく精進努力することが、正しい希望です。仏教は希望を持つことを否定していません。それどころか「正しい希望をもって修行し、修行を完成して悟りを開いてください」と励ましています。お釈迦様は常に比丘たちにおっしゃいました。「怠けてはなりません。睡眠にふけってはなりません。精進しなさい」と。世間では「寝ることは自然の行為であり、健康にいい」などと言っていますが、お釈迦様は「睡眠は時間の無駄」と教えているのです。<br><br>▼参考テキスト<br>28.希望と欲望(4)正しい希望の持ち方<br>http://www.j-theravada.net/kogi/kogi162.html<br>28.希望と欲望(5)正しい希望の持ち方2<br>http://www.j-theravada.net/kogi/kogi163.html<br><br>♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪










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人生は小さい花マルの集積がいいね~---徒然日記





協会の記事ではありません。
サークル仲間の記事です。---徒然日記





「花マルの集積がいいね~」

 住まいするマンションの駐輪場でのこと。歩道のタイル工事をしている所で足を滑らせてそのタイルの一部を凹ませてしまった。一瞬そのままにして通り過ぎようと思った。
 
 直ぐにこれは嘘をついているなと気づいた。そこで工事をしているオジサンにその状況を報告。それを聞いたオジサンは一瞬嫌な顔をしました。その後表情が和らいで 有難うと言いました。

 もしこの報告をしなかったら凹んだタイルの傍を通る度に、嘘をついた自分に何時までも出会うという不幸なことがなくてよかったわ!!!
 この話しは東京に暮らす孫のママの体験談でした。

 只今熱海での一週間の瞑想合宿に参加する前に孫宅に暫く夫婦で居候中。今朝は名門阪急百貨店の嘘つきメニュ-が話題になって,
みんなで人の値打ちのことで話しが弾んだところで出てきた話題だった。


 いくら勉強できてもお金がたまっても意味がないね。名門とか格式とか財力といったものはそこに真摯に生きる姿勢があってのもの。その心根をいい加減にすると単なる物の集積になってしまう。 嘘をつくということで全てがパ~になる。

 タイルを踏んで花マル一つ貰う。メニューを誤魔化し嘘をつき会社をぱーにする。人生は小さい花マルの集積がいいね~









徒然日記 | 10:43:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
見えないモノに対する依存は、自分に対する腰抜けである!





協会の記事ではありません

今を幸せに生きる道! Be Happy!Namo Tassa

Bhagavato Arahato Sammā Sambuddhassa.


の紹介です






見えないモノに対する依存は、自分に対する腰抜けである!

お堂の句碑と塔婆先日電車の中で居眠りしていたら、隣からこんな会話が…

「お母さん、この神社に行った?鳥居の先から空気が違うんだよ!すごいパワーがもらえるよ。」
「あらそう、行きたいわね。このお寺は行ったの?ご住職の力はすごいわよ。拝んでもらいに行かない?」

私の夢なのか?それとも、隣の人が寝言を言っているのかと思い、目を開けて確認。

二十歳くらいの息子さんと、そのお母さんがそれぞれのスマホの写真を見せ合いながら、仲良くお話しをしていました。

仲が良い親子は、素晴らしいです!微笑ましいです。

しかし、神様やらお坊さんやらに、どれだけ依存しているのでしょうか?
見えないモノに依存して、どれだけ自分に自信がないのでしょうか?

大きな声で話されて、私の居眠りを邪魔されたので、自分と周りにいてくれる人々に自信がない事はどれだけ情けないか、どれだけ失礼なのか、どこまで腰抜けなのかを説教してやろうかと思いましたが、寝ぼけた頭が回復する前に鎌倉駅で降りてしまった(笑)

人間はすごいよ!
生きているだけで、すごい!

出来る限りの努力をする事も、助け合う事も出来ます。
私達は日々、どれだけ多くの方に助けてもらって生きているのでしょうか?

それが分かったら、見えない力に依存するよりも大切な事は、自分の努力と、他の生命を大切にすること、という事がわかるはずです。

祈って、拝んでもらって、幸せになりたい、とこいねがうよりも、重要な鍵は、今、自分が握っている。この心が握っている!私の努力が握っている!

それから、「感謝」は、神にささげるものではなく、いつも私達の身の周りにある人々の努力と慈しみにこそ向けられるべきなのです。

努力して腰抜侍から浪士へ 全雄
一秒も離れ得ず生命の恩 全雄









Be Happy! | 11:15:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「心配しないで、性格も変わるもの」





協会のfbより紹介です。





#jtba「心配しないで、性格も変わるもの」

 人間にとって、どんな環境で育てられ、どんな環境で生きているか、ということは非常に重要な問題です。それは人間の人生そのものを形作り形成するものだ からです。生まれてから死ぬまで、人は生きている環境からいろんなことを学んでいきます。人格というものは、結局、自分の育てられた環境から学んだもので 出来上がっていきます。環境から学んだものと、環境の影響とを調整して自分の人格を作ります。老いぼれてどうにもならなくなるときまで、人は環境の影響を受けて人格も性格も変え続けていきます。

 他人に対してはすぐに、人格が良いとか悪いとか、性格が良いとか悪いとか決めつけたくなりますが、それは考え直したほうがいいと思います。性格も人格も 徐々に変っていくものですから、今は良い人も後になって悪くなるかもしれませんし、今は悪い人が後になって良い人になる可能性もあります。人と付き合うと きも、社会の中で生活するときも、人の性格・人格というものは、それほど固定していないことを理解したほうが、精神的にも楽になると思います。

 とはいっても、人格・性格というものは固定しているように感じられてしまうのです。それには訳があります。環境は、そこから学ぶものと、影響を受けるも のとの2つに分けて考えなければなりません。生まれたときは、この世の中のことは何も知りません。厳しく守られた環境の中で育てられます。そして大人にな るまで環境からありとあらゆるものを学んでいきます。環境から受ける影響はとても少なく、環境から学ぶものが大変多いのです。この学ぶものによって個人の 人格・性格の基本的な構成がしっかりと作られます。

 その後の環境からの学び方も、影響の受け方も、その基本的な人格構成によって変ります。ですので、人格は固定しているように見えます。基本的な構成がす ぐに変わることはありません。それはその人の性格の土台ですから、本人にとってとても大事です。一旦、精神的に独立してから、環境によって性格も人格も変 りますが、それはとてもゆっくり徐々に起こる現象です。ですから、人の性格が変らないものだと思うのも無理のない話です。

 精神的に独立するまで、人が生きている環境は非常に大切です。理想的に考えれば、素晴しい環境で育てられたならば、大人になって環境から受ける影響もす べてプラス方向に受け止めることができます。仏教では、人が育てられる環境というものは非常に大切なものと考えられています。前世物語(ジャータカ)の中 でも、お経の中でも、人が環境によって良く変ったり悪く変ったりする例がたくさん出てきます。

 お釈迦様の侍従であったアーナンダ尊者がお釈迦様に次のように言う場面があります。「良い仲間があれば、仏道の半分は成功すると思います。」それに対し てお釈迦様は「いいえ、良い仲間があれば仏道は完全に成功するのです。」と答えられたといいます。悟りという、究極の境地へ達することまでも仲間の影響が あるというのですから、それほど環境の影響は大きいということなのです。

 環境から影響を受けて育てられるように、人の心はできていますので、影響を受けずに心を守ることは無理です。たとえ動物であっても、人間と付き合うと、 それなりに性格が変ることは事実です。あなは、教えられたことのまったくないとき、つまり生まれてきた瞬間から、できることがありましたか?と聞かれたら 答えはどうなるでしょうか。

 呼吸すること、寝ること、泣くこと、笑うこと、おっぱいを吸うこと、ぐらいでしょう。このような基本的なことについてさえ、後で我々はいろんなことを教 えてもらうのではないでしょうか。結局は人間の人生はすべて教えてもらうものだと理解したほうが正しいと思います。そういうわけで我々にとって、育てられ る、また影響を受ける環境は、自分の命と同じくらい大事なものだということがわかります。

 子供のときに良い環境を作ってあげるべきだということも、大人になってからも良い環境で生きるべきであることも明白です。ただ問題は、何が良いか、何が悪いかということですが、良い環境というのは、人が幸福になる道で、人が不幸になる道は悪い環境だといえます。

▼参考テキスト
人格と性格は変えられる
http://www.j-theravada.net/howa/howa25.html
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

写真: #jtba「心配しないで、性格も変わるもの」<br><br> 人間にとって、どんな環境で育てられ、どんな環境で生きているか、ということは非常に重要な問題です。それは人間の人生そのものを形作り形成するものだからです。生まれてから死ぬまで、人は生きている環境からいろんなことを学んでいきます。人格というものは、結局、自分の育てられた環境から学んだもので出来上がっていきます。環境から学んだものと、環境の影響とを調整して自分の人格を作ります。老いぼれてどうにもならなくなるときまで、人は環境の影響を受けて人格も性格も変え続けていきます。<br><br> 他人に対してはすぐに、人格が良いとか悪いとか、性格が良いとか悪いとか決めつけたくなりますが、それは考え直したほうがいいと思います。性格も人格も徐々に変っていくものですから、今は良い人も後になって悪くなるかもしれませんし、今は悪い人が後になって良い人になる可能性もあります。人と付き合うときも、社会の中で生活するときも、人の性格・人格というものは、それほど固定していないことを理解したほうが、精神的にも楽になると思います。<br><br> とはいっても、人格・性格というものは固定しているように感じられてしまうのです。それには訳があります。環境は、そこから学ぶものと、影響を受けるものとの2つに分けて考えなければなりません。生まれたときは、この世の中のことは何も知りません。厳しく守られた環境の中で育てられます。そして大人になるまで環境からありとあらゆるものを学んでいきます。環境から受ける影響はとても少なく、環境から学ぶものが大変多いのです。この学ぶものによって個人の人格・性格の基本的な構成がしっかりと作られます。<br><br> その後の環境からの学び方も、影響の受け方も、その基本的な人格構成によって変ります。ですので、人格は固定しているように見えます。基本的な構成がすぐに変わることはありません。それはその人の性格の土台ですから、本人にとってとても大事です。一旦、精神的に独立してから、環境によって性格も人格も変りますが、それはとてもゆっくり徐々に起こる現象です。ですから、人の性格が変らないものだと思うのも無理のない話です。<br><br> 精神的に独立するまで、人が生きている環境は非常に大切です。理想的に考えれば、素晴しい環境で育てられたならば、大人になって環境から受ける影響もすべてプラス方向に受け止めることができます。仏教では、人が育てられる環境というものは非常に大切なものと考えられています。前世物語(ジャータカ)の中でも、お経の中でも、人が環境によって良く変ったり悪く変ったりする例がたくさん出てきます。<br><br> お釈迦様の侍従であったアーナンダ尊者がお釈迦様に次のように言う場面があります。「良い仲間があれば、仏道の半分は成功すると思います。」それに対してお釈迦様は「いいえ、良い仲間があれば仏道は完全に成功するのです。」と答えられたといいます。悟りという、究極の境地へ達することまでも仲間の影響があるというのですから、それほど環境の影響は大きいということなのです。<br><br> 環境から影響を受けて育てられるように、人の心はできていますので、影響を受けずに心を守ることは無理です。たとえ動物であっても、人間と付き合うと、それなりに性格が変ることは事実です。あなは、教えられたことのまったくないとき、つまり生まれてきた瞬間から、できることがありましたか?と聞かれたら答えはどうなるでしょうか。<br><br> 呼吸すること、寝ること、泣くこと、笑うこと、おっぱいを吸うこと、ぐらいでしょう。このような基本的なことについてさえ、後で我々はいろんなことを教えてもらうのではないでしょうか。結局は人間の人生はすべて教えてもらうものだと理解したほうが正しいと思います。そういうわけで我々にとって、育てられる、また影響を受ける環境は、自分の命と同じくらい大事なものだということがわかります。<br><br> 子供のときに良い環境を作ってあげるべきだということも、大人になってからも良い環境で生きるべきであることも明白です。ただ問題は、何が良いか、何が悪いかということですが、良い環境というのは、人が幸福になる道で、人が不幸になる道は悪い環境だといえます。<br><br>▼参考テキスト<br>人格と性格は変えられる<br>http://www.j-theravada.net/howa/howa25.html<br>♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪









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常識を疑いたくなる人物と出会った時に…






協会の記事ではありません


今を幸せに生きる道! Be Happy!Namo Tassa

Bhagavato Arahato Sammā Sambuddhassa.



の紹介です






常識を疑いたくなる人物と出会った時に…

お堂の石仏3常識を疑いたくなる人物と出会ってしまった時に…

何だ、この人は!何様のつもりなのか?ただの人間だろうが!思い上がるのもいい加減にしろ!
と思うと、腹が立ちます。

ところが…


何だ、この私は!神様のつもりなのか?私も同じただの人間だろうが!思い上がるのもいい加減にしろ、私!
と思うと、腹が立ちません(笑)

これは、いや、これも、師僧に教えて頂いた知恵です(笑)

滅私で譲り合う落ち葉ひらり 全雄









Be Happy! | 10:01:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
スマナサーラ長老『名古屋初期仏教デー』(愛知 日本ガイシフォーラム)





【ご案内】10/20(日)スマナサーラ長老『名古屋初期仏教デー』(愛知 日本ガイシフォーラム)



★「茶話会(親睦会)」のお知らせ
午前10時から、法友のみなさんの集いがあります。
※自由参加、昼食は各自ご用意ください。






#jtba【ご案内】10/20(日)スマナサーラ長老『名古屋初期仏教デー』(愛知 日本ガイシフォーラム)

 名古屋で行われるスマナサーラ長老指導の「法話と冥想」の会です。午後1時半から始まります。法話・質疑応答ののち、ヴィパッサナー冥想の初心者指導が ございます。「仏教って一体なに?」「怒るのは悪いことって本当?」「どうすれば幸せになれるの?」などなど、どんな疑問・質問でもぶつけてみてくださ い。お釈迦さまの教えに触れ、自分自身で納得し、悩み苦しみのない、心の落ち着きを築いてみてください。※予約不要、どなたでも参加していただけます。

日時:10月20日(日) 13:30~19:30
会場:日本ガイシフォーラム 和室
(〒457-0833 愛知県名古屋市南区東又兵ヱ町5-1-16)
参加費:ご喜捨(参加当日、受付にお渡し下さい)

▼スケジュール
13:00 受付開始
13:30 お経・法話・質疑応答
15:30 休憩(15分程度)
15:45 初心者冥想指導
    各自冥想実践
19:00 お経・祝福
19:30 終了予定

●交通アクセス
http://www.nespa.or.jp/shisetsu/bunka/access.html

★「茶話会(親睦会)」のお知らせ
午前10時から、法友のみなさんの集いがあります。
※自由参加、昼食は各自ご用意ください。

●東海ダンマサークル

~生きとし生けるものが幸せでありますように~


写真: #jtba【ご案内】10/20(日)スマナサーラ長老『名古屋初期仏教デー』(愛知 日本ガイシフォーラム)<br /><br /> 名古屋で行われるスマナサーラ長老指導の「法話と冥想」の会です。午後1時半から始まります。法話・質疑応答ののち、ヴィパッサナー冥想の初心者指導がございます。「仏教って一体なに?」「怒るのは悪いことって本当?」「どうすれば幸せになれるの?」などなど、どんな疑問・質問でもぶつけてみてください。お釈迦さまの教えに触れ、自分自身で納得し、悩み苦しみのない、心の落ち着きを築いてみてください。※予約不要、どなたでも参加していただけます。<br /><br />日時:10月20日(日) 13:30~19:00<br />会場:日本ガイシフォーラム 和室<br />(〒457-0833 愛知県名古屋市南区東又兵ヱ町5-1-16)<br />参加費:ご喜捨(参加当日、受付にお渡し下さい)<br /><br />▼スケジュール<br />13:00 受付開始<br />13:30 お経・法話・質疑応答<br />15:30 休憩(15分程度)<br />15:45 初心者冥想指導<br />    各自冥想実践<br />19:00 お経・祝福<br />19:30 終了予定<br /><br />●交通アクセス<br />http://www.nespa.or.jp/shisetsu/bunka/access.html<br /><br />★「茶話会(親睦会)」のお知らせ<br />午前10時から、法友のみなさんの集いがあります。<br />※自由参加、昼食は各自ご用意ください。<br /><br />●東海ダンマサークル<br />http://toukaidhammam.blog72.fc2.com/<br />~生きとし生けるものが幸せでありますように~






行事予定 | 10:12:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「寝るのは楽しい!?2」





協会のfb より紹介です。





#jtba「寝るのは楽しい!?2」

Q:冥想会などで話を聞くと、睡眠だけはかなり批判されます。睡眠は自然な行為ではないでしょうか?
A:睡眠は自然な行為です。人間は一日の3分の1は寝ているのだから、命を保つためにはどうしても必要なことです。動物は人間より長く、1日の半分以上寝ています。ですから、睡眠は完全に悪いと否定するつもりはありません。

Q:では眠ることは必要なことなのに、修行中は避けるべきなのですか?
A:仕事中に居眠りしてもよいという話を聞いたことがありますか。居眠り運転は構わないと思いますか。修行の場合も同じ論理です。修行は人間にとって一番大切な仕事です。そうであるならば、居眠りは決して認めるわけにはいきません。居眠りしながら仕事をすると、無駄が多く失敗も多数です。気持ちも悪い。楽しくない。いやな気持ちになります。修行も同様に、くっきりと目覚めた状態でなさるならば、失敗なく明るい気持ちで前へ進むものです。

Q:勉強したり冥想したりすると、なぜすぐ眠くなるのですか?そういう場合は少しでも仮眠したほうがよいと思いますが。
A:上手くいっているならば、眠くはならないのです。面白くなってきて、やる気が出てくるのです。形式的に勉強しても、脳が一向に成長しようとしない場合は眠くなってしまうのです。冥想の場合も同じことです。仮眠させてあげても問題は変わりません。冥想しようとする、眠くなる、仮眠する、また冥想しようとする、眠くなる、仮眠する…のような循環になる。結果としては、眠ることの訓練になってしまうだけです。

 このような場合は、理解もできない勉強などをがむしゃらにやるのではなく、脳を開発してくれるような形に変えて、工夫を凝らしてやったほうがよいと思います。冥想の場合も、目がくっきり覚めている状態で、努力できる範囲で回数を増やせばよいと思います。

 身体が疲れていないのに、勉強、冥想などすると眠くなってしまうのは、知識や智慧などが現われないように働く障害があるからなのです。金銀も宝石もダイヤも石油も、そこらじゅうにごろごろ転がっているわけではないのです。掘って掘って探し出して、精製して、仕上げなくてはいけないものです。知識と智慧の成長も同じことです。努力しなければ現れないのです。

 ですから仏教は、修行において精進、努力を勧めているのです。睡眠欲、感情に溺れること、食欲・性欲にふけることなどをいさめているのです。勉強、修行中に出る睡眠は、破って進むべき障害の一つです。

Q:長時間の睡眠の害はあるのでしょうか?
A:確実にあります。体力の疲れを取る量以上に眠ることは、人の成長を妨げます。創造するものは何もなく、時間の無駄遣いです。進化ではなく、退化の原因です。
 
 こころの障害を取り除いた人には、睡眠の必要がなくなります。常に明るくて活発なこころで生きている人は、身体が疲れたならば、その疲れをとるために必要とする時間だけ睡眠を摂るのです。よく眠れば健康になるのだと一概に言ってはいけません。

●不善心所(心所…こころの成分)
①thīna(ティーナ:昏沈)⇒心の力を弱くする働き
 心の活発なエネルギーがなくなって、やる気がしぼんでしまうことです。何かをするためには元気なエネルギーが必要です。昏沈が出ると「明日でもいいか」と仕事を後回しにしたりします。修行をしていてもこの昏沈が出てくると、無知が生まれてきてぼんやりとし、やる気がなくなってしまいます。本来、ヴィパッサナー冥想をしていてエネルギーが減るはずはないのです。正しく不貪・不瞋・不痴で冥想実践をしているならば、どんどん元気になってやる気が出てこないとおかしいのです。だから疲れてやる気がなくなったり眠くなったりするということは、貪瞋痴で冥想実践をしてしまっているということになります。
 
 これは修行以外でも同じことです。怒りや欲で仕事をすると、どんどん疲れてエネルギーがなくなってきます。「ああイヤだな」と思ったとたんに、昏沈が出て、ストレスが溜まってきます。だからといって「不貪・不瞋・不痴でがんばるんだ」と無理矢理に自分に言い聞かせても意味がありません。そういう大げさなことではなく、まず自分の心に気づくことです。たとえばお年寄りの介護をしていて疲れたとします。そのときに「私は疲れてイヤになってやめたくなっている…ということは、怒りや無知の心があったのかな」と自分の心を観ます。仕事をしていて元気になって気持ちよくやる気が出たら、「不貪・不瞋・不痴でがんばれた」と気づくようにします。そうしていくと自然にいい方向に進めるようになります。
 
②middha(ミッダ:睡眠)⇒心の機能を鈍くする働き
 心の機能が鈍くなっていくと眠くなります。だからミッダ(睡眠)が働いてくると眠くなってきて、最終的には寝てしまいます。冥想の時は、このミッダの働きだけは出ないように気をつけなければいけません。なぜかというと、心の働きをすべて鈍くしてしまうので、サティ(気づき・観察)の働きも鈍くなって冥想実践ができなくなってしまうのです。ですから気をつけて、ちょっとでもこの睡眠の心所が働いていることに気づいたら、それがまだ弱いところで切るようにします。
 
 昏沈と睡眠はよくいっしょに出てくるので、昏沈睡眠というように、二つ併せて呼ばれています。両方とも行動的でなくなって、やる気がなくなっていく暗いエネルギーです。

▼参考テキスト
【45】睡眠について
http://www.j-theravada.net/qa/gimon45.html
【49】睡眠中の修行
http://www.j-theravada.net/qa/qahp49.html
不善心所
http://www.j-theravada.net/pali/key-akusala.html

♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪









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