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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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#jtba「人生を知る」





協会のfbより紹介です。





#jtba「人生を知る」

 あらためて「人生の苦しみ」とはどういうものか、きちんと考えてみましょう。仏教では、「苦・ドゥッカ」というのは命のことである、と言います。生命は 「生老病死」で成り立っています。「生老病死」がなくなると、命も、生きることも、輪廻も成り立ちません。このポイントは相当難しいです。

 「生老病死」といわれると、我々は気軽に、「ああ、知っていますよ。生とは、生まれることでしょう、赤ちゃんが。老は、年を取ること。病も、わかっていますよ。この間、おばあちゃんがお 腹をこわして病気になりましたよ。あともう一つ、死ですね。おじさんが亡くなって、葬式に行きました」と考えてしまいます。しかし、それが「生老病死」の 理解ならば、若くて元気な二十代、三十代、四十代の人たちには、全然苦しみがなく、「生老病死」の問題がないということになります。

 しかし、「生老病死」は偉大なる、聖なる真理です。ですからそこは、お釈迦様の謎かけなのです。お釈迦様は人間に頭をビシビシとはたらかせてほしいの で、ストレートに語られているようで少し謎をかけていらっしゃいます。お釈迦様のおっしゃる「生老病死」は、先ほどの、誰もが考えるような「生老病死」で はありません。偉大なる真理はちょっと難しいのです。

①「生」とは
 わかりやすく説明するために、単細胞生物を例にとりましょう。細胞が一つだけの生命にも「生老病死」があるのです。では、単細胞生物の「生老病死」と は、どんな「生老病死」でしょう?風邪をひくのでしょうか、いえ、細胞一個だからひかないでしょう。お腹もこわしません、というよりお腹がありませんね。 高血圧にだって、血液がないのですからなるわけがありません。それなら単細胞生物には「生老病死」がないはずでしょう?

 しかし、あるのです。この単細胞生物も、ずっと自分が動いて身体を維持しなくてはいけないのです。アメーバも、栄養を取って身体をつくっています。それ は「生」です。生まれることなのです。そうしないと、命はないのです。我々人間も、瞬間も休むことなく、栄養を取って身体を復活させています。一日三食と いいますが、栄養を取っているのは食事のときだけではありません。栄養を取らないときなど、一瞬たりともありません。ずっと栄養を取っています。品物、エ ネルギーを入れているのです。そうすることで、我々の身体はいつでも「生」の状態でいるのです。

②「老」とは
 「老」とは、なんでしょう?細胞は動いていますね。その細胞が栄養を取ります。動いているということは「使う」ということですから、品物と同じように、 使えば使っただけ、その細胞の有効期限は短くなります。そして、使えばエネルギーを補給しなくてはいけなくなりますから、栄養を取ります。栄養を取った途 端、細胞は年を取っているのです。栄養を取って、その栄養を使うということが身体を使っているということです。それが「老いる」ことです。

 一個の細胞には、ちゃんと有効期限があります。使えば有効期限も短くなります。単細胞生物の場合はわかりやすいです。細胞の有効期限がきたら、生きられ なくなります。人間の場合は、いろいろな細胞を持っていて、それぞれの細胞の有効期限はバラバラです。皮膚の細胞の有効期限と、骨の細胞の有効期限はバラ バラで、心臓の細胞はまた違う期限、脳の細胞はまた違う期限です。有効期限がバラバラで、年を取ります。細胞一個一個が「生じつつも老いつつ」です。

③「病」とは
 さて、細胞が栄養を取らなかったらどうなるでしょう?細胞が成り立ちませんね。酸素を入れなかったら死んでしまいます。しかし、手当てをすれば死ぬこと は避けられます。病気の定義はそれです。「このままでは死にます。手当てをするとなんとかなります」ということです。ですから仏教では、お腹が空くことも 病気だと言うのです。皆さんは、お腹が空くことは元気の証拠だと思っているでしょう。私は「お腹が空くことは病気だ」とするお釈迦様の意見が正しいと思い ます。なぜかというと、何かしなかったら死ぬからです。しかし、お腹が空いても人は死にませんね。何か食べればいいのですから。ですから、食べるものは薬 になります。

 お釈迦様の定義でいけば、高血圧や糖尿病などは、そんなに大袈裟な病気ではありません。みんなにある病気でもないし、アメーバはなりません。人間に見ら れる状態の一つです。健康そのもの。しかし、ブッダが言う「病気」は、「手当てするならなんとかなります。手当てしないならさようなら」という厳しい定義 です。ですからアメーバも病気です。我々人間は、細胞をたくさん、何兆と持っているでしょう?それぐらい病気を持っています。手当てしなくてはいけませ ん。そういうわけで、命というのは生じつつも老いつつ、病も「つつ」です。常に「病みつつ」なのです。そして、いつか壊れます。

④「死」とは
 いくら手当てしても、こんなに曖昧で中途半端で、不確定・不安定な細胞が永遠にあるわけがありません。壊れるのです。「ご飯を食べた」ということも、あ る程度「死んだ」ということなのです。「呼吸した」ということも、ある程度「死んだ」ということなのです。死ぬまでに何回、呼吸するのかという回数は決 まっています。一回、呼吸したら、一回分「死んだ」ということなのです。ですから、人間は「生きつつ、老いつつ、病みつつ」だけでなく、「死につつ」なの です。

 この「生老病死」という四種類のはたらきが命です。ですから、赤ちゃんが「生」で、おじいさんが「老」で、おばあさん「病」などということではありませ ん。これは、簡単な言葉で表すことでお釈迦様が我々にかけた謎であって、私たちは皆、「生きつつ、老いつつ、病みつつ、死につつ」であるという真理です。 「生老病死」とは闘えません。命そのものですから。対立もできません。現象的な「生老病死」を一時的に制御することはありますが、「生老病死」である命と 闘えると勘違いしないことです。

 現象的な「生老病死」、たとえば頭痛や風邪などの現象とは闘えます。これらは本物の病気ではありません。身体に何か新しい状態が表れたら、それになんとか対処することはできます。ですが、闘うことはできません。

 経典にある単語ではありませんが、経典の内容をわかりやすく解説するために、私は単語を考えました。その一つが「現実苦」という単語です。「生老病死」 は現実にあるもの、「現実苦」です。命と別にあるわけではなく、命が「生老病死」です。ですから命が苦です。「私は生きている」ということは「苦がある」 という意味です、苦以外の何ものでもないのです。

 「苦・ドゥッカ」に立ち向かうことは愚かな行為です。苦とは負かそうとして闘うものではなく、徹底研究して理解するものなのです。覚えておいてくださ い。徹底的に苦を研究して、「あっ、なるほど。こういうものか、生きることは」と理解すれば、それで十分です。それが人生を学ぶことでもあります。正しく 人生を学ぶということは、苦を学ぶことなのです。「生きることは苦である」と知る人は落ち着きます。お釈迦様は、「生きることは苦であると知った人が解脱 に達しますよ」と説かれています。

▼参考テキスト
アルボムッレ・スマナサーラ法話選1―業/苦/死
http://amzn.to/1bvdzcX
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪
写真: #jtba「人生を知る」<br /><br /> あらためて「人生の苦しみ」とはどういうものか、きちんと考えてみましょう。仏教では、「苦・ドゥッカ」というのは命のことである、と言います。生命は「生老病死」で成り立っています。「生老病死」がなくなると、命も、生きることも、輪廻も成り立ちません。このポイントは相当難しいです。<br /><br /> 「生老病死」といわれると、我々は気軽に、「ああ、知っていますよ。生とは、生まれることでしょう、赤ちゃんが。老は、年を取ること。病も、わかっていますよ。この間、おばあちゃんがお腹をこわして病気になりましたよ。あともう一つ、死ですね。おじさんが亡くなって、葬式に行きました」と考えてしまいます。しかし、それが「生老病死」の理解ならば、若くて元気な二十代、三十代、四十代の人たちには、全然苦しみがなく、「生老病死」の問題がないということになります。<br /><br /> しかし、「生老病死」は偉大なる、聖なる真理です。ですからそこは、お釈迦様の謎かけなのです。お釈迦様は人間に頭をビシビシとはたらかせてほしいので、ストレートに語られているようで少し謎をかけていらっしゃいます。お釈迦様のおっしゃる「生老病死」は、先ほどの、誰もが考えるような「生老病死」ではありません。偉大なる真理はちょっと難しいのです。<br /><br />①「生」とは<br /> わかりやすく説明するために、単細胞生物を例にとりましょう。細胞が一つだけの生命にも「生老病死」があるのです。では、単細胞生物の「生老病死」とは、どんな「生老病死」でしょう?風邪をひくのでしょうか、いえ、細胞一個だからひかないでしょう。お腹もこわしません、というよりお腹がありませんね。高血圧にだって、血液がないのですからなるわけがありません。それなら単細胞生物には「生老病死」がないはずでしょう?<br /><br /> しかし、あるのです。この単細胞生物も、ずっと自分が動いて身体を維持しなくてはいけないのです。アメーバも、栄養を取って身体をつくっています。それは「生」です。生まれることなのです。そうしないと、命はないのです。我々人間も、瞬間も休むことなく、栄養を取って身体を復活させています。一日三食といいますが、栄養を取っているのは食事のときだけではありません。栄養を取らないときなど、一瞬たりともありません。ずっと栄養を取っています。品物、エネルギーを入れているのです。そうすることで、我々の身体はいつでも「生」の状態でいるのです。<br /><br />②「老」とは<br /> 「老」とは、なんでしょう?細胞は動いていますね。その細胞が栄養を取ります。動いているということは「使う」ということですから、品物と同じように、使えば使っただけ、その細胞の有効期限は短くなります。そして、使えばエネルギーを補給しなくてはいけなくなりますから、栄養を取ります。栄養を取った途端、細胞は年を取っているのです。栄養を取って、その栄養を使うということが身体を使っているということです。それが「老いる」ことです。<br /><br /> 一個の細胞には、ちゃんと有効期限があります。使えば有効期限も短くなります。単細胞生物の場合はわかりやすいです。細胞の有効期限がきたら、生きられなくなります。人間の場合は、いろいろな細胞を持っていて、それぞれの細胞の有効期限はバラバラです。皮膚の細胞の有効期限と、骨の細胞の有効期限はバラバラで、心臓の細胞はまた違う期限、脳の細胞はまた違う期限です。有効期限がバラバラで、年を取ります。細胞一個一個が「生じつつも老いつつ」です。<br /><br />③「病」とは<br /> さて、細胞が栄養を取らなかったらどうなるでしょう?細胞が成り立ちませんね。酸素を入れなかったら死んでしまいます。しかし、手当てをすれば死ぬことは避けられます。病気の定義はそれです。「このままでは死にます。手当てをするとなんとかなります」ということです。ですから仏教では、お腹が空くことも病気だと言うのです。皆さんは、お腹が空くことは元気の証拠だと思っているでしょう。私は「お腹が空くことは病気だ」とするお釈迦様の意見が正しいと思います。なぜかというと、何かしなかったら死ぬからです。しかし、お腹が空いても人は死にませんね。何か食べればいいのですから。ですから、食べるものは薬になります。<br /><br /> お釈迦様の定義でいけば、高血圧や糖尿病などは、そんなに大袈裟な病気ではありません。みんなにある病気でもないし、アメーバはなりません。人間に見られる状態の一つです。健康そのもの。しかし、ブッダが言う「病気」は、「手当てするならなんとかなります。手当てしないならさようなら」という厳しい定義です。ですからアメーバも病気です。我々人間は、細胞をたくさん、何兆と持っているでしょう?それぐらい病気を持っています。手当てしなくてはいけません。そういうわけで、命というのは生じつつも老いつつ、病も「つつ」です。常に「病みつつ」なのです。そして、いつか壊れます。<br /><br />④「死」とは<br /> いくら手当てしても、こんなに曖昧で中途半端で、不確定・不安定な細胞が永遠にあるわけがありません。壊れるのです。「ご飯を食べた」ということも、ある程度「死んだ」ということなのです。「呼吸した」ということも、ある程度「死んだ」ということなのです。死ぬまでに何回、呼吸するのかという回数は決まっています。一回、呼吸したら、一回分「死んだ」ということなのです。ですから、人間は「生きつつ、老いつつ、病みつつ」だけでなく、「死につつ」なのです。<br /><br /> この「生老病死」という四種類のはたらきが命です。ですから、赤ちゃんが「生」で、おじいさんが「老」で、おばあさん「病」などということではありません。これは、簡単な言葉で表すことでお釈迦様が我々にかけた謎であって、私たちは皆、「生きつつ、老いつつ、病みつつ、死につつ」であるという真理です。「生老病死」とは闘えません。命そのものですから。対立もできません。現象的な「生老病死」を一時的に制御することはありますが、「生老病死」である命と闘えると勘違いしないことです。<br /><br /> 現象的な「生老病死」、たとえば頭痛や風邪などの現象とは闘えます。これらは本物の病気ではありません。身体に何か新しい状態が表れたら、それになんとか対処することはできます。ですが、闘うことはできません。<br /><br /> 経典にある単語ではありませんが、経典の内容をわかりやすく解説するために、私は単語を考えました。その一つが「現実苦」という単語です。「生老病死」は現実にあるもの、「現実苦」です。命と別にあるわけではなく、命が「生老病死」です。ですから命が苦です。「私は生きている」ということは「苦がある」という意味です、苦以外の何ものでもないのです。<br /><br /> 「苦・ドゥッカ」に立ち向かうことは愚かな行為です。苦とは負かそうとして闘うものではなく、徹底研究して理解するものなのです。覚えておいてください。徹底的に苦を研究して、「あっ、なるほど。こういうものか、生きることは」と理解すれば、それで十分です。それが人生を学ぶことでもあります。正しく人生を学ぶということは、苦を学ぶことなのです。「生きることは苦である」と知る人は落ち着きます。お釈迦様は、「生きることは苦であると知った人が解脱に達しますよ」と説かれています。<br /><br />▼参考テキスト<br />アルボムッレ・スマナサーラ法話選1―業/苦/死<br />http://amzn.to/1bvdzcX<br />♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪









facebook | 15:06:29 | トラックバック(0) | コメント(0)
検定「けんてーごっこ」ホーム > アルボムッレ・スマナサーラ検定




協会の記事ではありません。

検定「けんてーごっこ」ホーム > アルボムッレ・スマナサーラ検定





検定・クイズのことなら検定数日本一の「けんてーごっこ」!



アルボムッレ・スマナサーラ検定


◆◆◆ 検定 ◆◆◆

アルボムッレ・スマナサーラについて、( )に当てはまる語句として最も適当なものを選んでください。

作者:Qろいど by wiki

5問正解で合格/全6問中

合格7人/全14人中

カテゴリ: - 、 アルボムッレ・スマナサーラ

http://kentei.cc/k/943769/







ひとり言 | 09:28:04 | トラックバック(0) | コメント(1)
一日一誤日記---寒波到来。





協会の記事ではありません
サークル仲間の日記より
一日一誤日記---寒波到来。





寒波到来。

28日夕方、四日市のサラームでの小濱カルテットライブ+セッションに行くべく名阪を走行していたが、亀山インターあたりで雪が本格的にチラついてきた。
予定通り鈴鹿インターを降りたが、ちょっとヤバイ雰囲気になってきた。

天気予報を検索したら三重県北部は大雪の予報なので引き返すことにして、サラームに予約キャンセルを入れた。

急いで取って返したが亀山インター手前で積雪が多くなり、一面の雪景色になってしまった。
自然渋滞がはじまり橋の上ではスリップ寸前。

関トンネルを抜け加太トンネルを抜けるとやっと雪の勢いは弱くなった。
対向車線の柘植から亀山方面に救急車が何台も走る。

間一髪という言葉があるが、そんな感じで伊賀に戻れたが見通しが甘かった。
というか、冬季になったという自覚がなかった。

自分の頭で描いた予想(妄想)と事実とはこのような関係にあるということだ。
2013年のまとめ。妄想は便利だがヤバイ。









一日一誤日記 | 15:07:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
一日一誤日記---こころの管理を一番の仕事として心がけること





協会の記事ではありません
サークル仲間の日記より
一日一誤日記---こころの管理を一番の仕事として心がけること





本日は伊賀市のデイサービスみやまでの本年最終の訪問演奏。

先日の豊寿園でも、本日も、演奏がはじまると叫んだり、大きい声でお喋りをする人が居た。
何事も無かったかのように演奏は続けるがこころは影響を受ける。
今までで一番の猛者は「私は、音楽が嫌いだ!」と必ず宣言するおばあちゃんがいたなあ。

大人になってからの集団生活の経験が無く、知り合いでもない人たちが、集まってお風呂に入って、昼ごはんを食べて、音楽を聴いて、3時のお茶をして、半日を一緒に過ごすということだけで大仕事になる。

もちろん音楽を楽しんでくれる人もいるのだが、訪問することで、さて、私はこれからどのような人格で加齢することになるかと切実に考える機会となる。

老齢になると、思考力や記憶能力は落ちたり無くなったりするが、それは生きるということに重大な障害になることはないように思う
私が、認知症であっても、明るい感情で、いつもニコニコとしている爺さんでいられるなら、周囲に迷惑をかけることは少なくなるのでありがたい。

それには、こころの管理を一番の仕事として心がけることだと思う
今のこころはどのような状態でしょうか?といつも観察している暮らしをしなさいと、訪問演奏のたびに自分に言い聞かせる機会となるので、このボランテイア活動は、自助ボランテイアとなっている

本年は真面目にコツコツと(音楽的にも)訪問活動良くがんばりましたと言ってやれる年となりました。









一日一誤日記 | 12:09:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
NEWS 【お詫びと訂正】『パティパダー』2014年1月号49ページ





NEWS


【お詫びと訂正】『パティパダー』2014年1月号49ページ
機関誌『パティパダー』2014年1月号の49ページ(念処経講義)で最終行の文章が一部欠落しておりました。正しくは、「妄想のなかに隠れて人生を誤魔化すのではなく、愛別離苦をそのまま発見すれば、心が落ち着くのです。」となります。お詫びとともに謹んで訂正いたします。









お知らせ | 09:01:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
猪八戒を見つけました。




協会の記事ではありません

今を幸せに生きる道! Be Happy!Namo Tassa

の紹介です







猪八戒を見つけました。


陸上の舟今日は、雪が降る予報でしたので、近所のホームセンター「ビーバートザン 五月台店」に雪かきスコップを買いに行きました。

内装・陳列が大幅に変わり、大変明るい店内に変わっていて、びっくり!
しかも、雪かきスコップも沢山あって、安心して買い物が出来ました。

雪かきスコップを担いで帰宅中、スーパーのガラスを見て、びっくり。
猪八戒が歩いていたのです!雪かきスコップを持った、猪八戒が(笑)!

しかし、実際には、私でしたから、猪八戒(ちょはっかい)ではなく猪五戒(ちょごかい)です。

猪八戒は、
不殺生(ふせっしょう)私は故意に生き物を殺しません。
不偸盗(ふちゅうとう)私はどのようなものも盗みません。
不邪淫(ふじゃいん)私は夫婦以外の性的関係を持ちません。
不妄語(ふもうご)私はいつわりを語りません。
不飲酒(ふおんじゅ)私は酒や麻薬などを摂取しません。
の五戒に加えて、
正午を過ぎたら、食事をしない戒
歌舞音曲を視聴せず、装飾品・化粧・香水などで、身を飾らない戒
天蓋付きで高く広い寝台に寝ない戒
の三戒をも守っているのですから、なかなかあっぱれな黒豚妖怪なのです。

あっぱれ、というよりも、私は必死に守って五戒ですから、負けているのです…(泣)

猪八戒を目指すと、私ももう少しやせるかも知れませんがね(笑)もう少し、時間を下さい。決心するまでの時間を(笑)!

さて、今までいくつかの提案をさせて頂きました。
まだまだありますが、今までの記事とも重複する内容にもなりますから、この辺で終了させて頂こうと思います。それとも、もう一度、まとめておいた方がよろしいでしょうかねぇ?

振り返ってみると、「当たり前のこと」ばかりですね。
そう、仏教の教えには、「不可思議な事」は無いのです。

先ずは、仏教の教えを聞いて、読んで理解します。
次に、自分の体を使って、実践してみます。
その結果、体験から本物の心の安らぎに至ります。

各段階に進むには、少々時間がかかります。
固定観念、実践態度、条件、などに影響され、思い通りに進むのではないのですが、焦らず、ご自分の心と向き合って頂きたいと思います。

生きとし生けるものが幸せでありますように









Be Happy! | 10:26:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「人生を変えられるお釈迦様の教え」





協会のfbより紹介です。





#jtba「人生を変えられるお釈迦様の教え」

 皆さんがよく掲げているもう少し具体的な願い(目的)について考えてみましょう。

 なぜ意志を強化したいのかと問うと、多くの人が「もっとやせたい」「若返りたい」「いつまでも健康でいたい」と言います。具体的には、「体重をあと5キ ロ減らす」「おなかまわりを10センチ細くする」「シミやシワが消えるように肌の手入れをする」というものだったりします。

 こうした目的をかなえるためには、食事制限や運動が必要です。そこで、大好物の霜降りステーキを我慢したり、甘いものを食べないようにしたり、運動を始 めたりという計画を立てるのですが、精神的に苦痛を感じて、なかなか長続きしないのです。なかには、計画を立てるだけで、つまり、頭の中で考えているだけ で、行動にすら移せないということもあります。

 ここで、いとも簡単に「意志が弱い」と言うのです。意志をもてば、成功すると思うでしょう。しかし、意志を強くする方法はわかりません。このときに、心 はどのようにはたらくのかを発見しなくてはいけないのです。重要なポイントは、自分が「行動する・しない」の判断を「理性」ではなく、「好き・嫌い」の 「感情」で決めることです。頭の中の「理性の脳」では、「やせるためには甘いものは禁物である」と知っています。しかし人は、理性中心に生きていません。 感情に振り回されて生きているのです。

 人間には「動物の脳(原始脳)」もありますから、「好きなものを好きなだけ食べたい」という感情が、常に、自然に湧いてくるのです。原始脳は、生まれた ときにすでにできあがっています。大脳(理性の脳)は、生まれてから成長させなくてはいけないものです。ここで差が出てくるのです。

 理性の脳を正しく成長させることができたならば、感情に振り回されることはなくなります。ダイエットしなくては、という問題さえも起きません。ダイエッ トしなくてはいけないと決めた時点で、原始脳の命令で生きた証拠です。ということは、理性の脳が弱いのです。ダイエットすることに決めても、途中で断念す ることになるのです。

 つまり、理性が勝つか、感情が勝つか、ということです。自分の意志が弱いのは、理性より感情が優先してしまうからなのです。

 人間はそもそも、人間である前に動物です。だから、動物の脳である原始脳をもっているのは当然であり、「好き・嫌い」の感情が湧いてくるのも自然なこと です。しかし、人間は原始脳だけでは生きられません。原始脳を自由勝手に昨日させていると、好きなことしか行動に移さないようになります。つまり、好きな だけ食べる、面倒くさいことはしない、といった方向に流れていくのです。

 それは人間である前に、あなたは動物として生きているということなのです。身体は大人になっているかもしれませんが、脳は赤ん坊のときのままなのです。

 まずは、理性を中心にして生きる人間にならなくてはなりません。大脳に理性を叩き込んで、理性の命令によって生きる人間に成長する必要があります。原始 脳は、好き勝手に生きてみようという感情を起こします。しかし、理性の脳が成長しているならば、感情を抑えて理性が勝ちます。好き勝手なことをしないで、 正しいことをするようになります。それで意志が正しく強化されたことになります。

▼参考テキスト
人生を変える練習。~ブッダの「意志」強化術~
http://amzn.to/1dx0G4P
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

写真: #jtba「人生を変えられるお釈迦様の教え」<br /><br /> 皆さんがよく掲げているもう少し具体的な願い(目的)について考えてみましょう。<br /><br /> なぜ意志を強化したいのかと問うと、多くの人が「もっとやせたい」「若返りたい」「いつまでも健康でいたい」と言います。具体的には、「体重をあと5キロ減らす」「おなかまわりを10センチ細くする」「シミやシワが消えるように肌の手入れをする」というものだったりします。<br /><br /> こうした目的をかなえるためには、食事制限や運動が必要です。そこで、大好物の霜降りステーキを我慢したり、甘いものを食べないようにしたり、運動を始めたりという計画を立てるのですが、精神的に苦痛を感じて、なかなか長続きしないのです。なかには、計画を立てるだけで、つまり、頭の中で考えているだけで、行動にすら移せないということもあります。<br /><br /> ここで、いとも簡単に「意志が弱い」と言うのです。意志をもてば、成功すると思うでしょう。しかし、意志を強くする方法はわかりません。このときに、心はどのようにはたらくのかを発見しなくてはいけないのです。重要なポイントは、自分が「行動する・しない」の判断を「理性」ではなく、「好き・嫌い」の「感情」で決めることです。頭の中の「理性の脳」では、「やせるためには甘いものは禁物である」と知っています。しかし人は、理性中心に生きていません。感情に振り回されて生きているのです。<br /><br /> 人間には「動物の脳(原始脳)」もありますから、「好きなものを好きなだけ食べたい」という感情が、常に、自然に湧いてくるのです。原始脳は、生まれたときにすでにできあがっています。大脳(理性の脳)は、生まれてから成長させなくてはいけないものです。ここで差が出てくるのです。<br /><br /> 理性の脳を正しく成長させることができたならば、感情に振り回されることはなくなります。ダイエットしなくては、という問題さえも起きません。ダイエットしなくてはいけないと決めた時点で、原始脳の命令で生きた証拠です。ということは、理性の脳が弱いのです。ダイエットすることに決めても、途中で断念することになるのです。<br /><br /> つまり、理性が勝つか、感情が勝つか、ということです。自分の意志が弱いのは、理性より感情が優先してしまうからなのです。<br /><br /> 人間はそもそも、人間である前に動物です。だから、動物の脳である原始脳をもっているのは当然であり、「好き・嫌い」の感情が湧いてくるのも自然なことです。しかし、人間は原始脳だけでは生きられません。原始脳を自由勝手に昨日させていると、好きなことしか行動に移さないようになります。つまり、好きなだけ食べる、面倒くさいことはしない、といった方向に流れていくのです。<br /><br /> それは人間である前に、あなたは動物として生きているということなのです。身体は大人になっているかもしれませんが、脳は赤ん坊のときのままなのです。<br /><br /> まずは、理性を中心にして生きる人間にならなくてはなりません。大脳に理性を叩き込んで、理性の命令によって生きる人間に成長する必要があります。原始脳は、好き勝手に生きてみようという感情を起こします。しかし、理性の脳が成長しているならば、感情を抑えて理性が勝ちます。好き勝手なことをしないで、正しいことをするようになります。それで意志が正しく強化されたことになります。<br /><br />▼参考テキスト<br />人生を変える練習。~ブッダの「意志」強化術~<br />http://amzn.to/1dx0G4P<br />♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪








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愛語の実践になったかな?





協会の記事ではりません。
サークル仲間のfbより紹介です。





先ほどの会話。
妻「ご飯炊いてくれてるの?」
私「。。。。。(何時も僕がやっているのに)」
妻は今のことを言っているのに、私は過去から遡って妄想。
辛うじて「。。。。。」と余計な口答えは抑えることが出来た。
愛語の実践になったかな?









一日一誤日記 | 13:40:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
お正月をお幸せにお迎え頂くために⑫






協会の記事ではありません

今を幸せに生きる道! Be Happy!Namo Tassa

の紹介です







お正月をお幸せにお迎え頂くために⑫

安全に進む幸せな新年をお迎え頂くために⑫

本日の提案

⑫今、悩んでいるなら、今、妄想しています!妄想を切る努力をする事が幸せにつながっています。


私達は、よく悩みます。そしてその結果、苦しみます。
その悩んでいる時に言える事は、ただ一つ。今妄想していますよ、という事です。

私達は、妄想しないで、悩む事は出来ません。

ですから、妄想さえしなければ、悩みは生まれないのです。

では、なぜ妄想してしまうのでしょうか?

それは、人生の問題の解決方法を知らないからです。今、ササッとやってしまえる事ならば、悩みませんね。

今やらなければならない事、というのは、極めて簡単な事です。
何故ならば、筋原繊維のアクチンとミオシンの筋収縮によって起こる、極めてシンプルな動きしか人間はしないからです。

伸ばすか、曲げるか、回すか。その程度の動きしかしないのです。

頭の中では、複雑怪奇な「ファンタジー世界」を作り上げる事も出来ますが、実際の私達人間の動き、というものは実にシンプルなのです。

悩みますかねぇ?ただ、伸ばすか、曲げるか、回すか、しかしないのに(笑)!

さらに、時間軸について考えてみます。
過去は、過ぎたもので、どうしようもありません。悩む必要もないのです。
未来は、まだ来ないものですから、これまた、どうしようもありません。過去と同様に、悩む必要はありません。

そういう訳で、本当に私達がやらなければならない事は、今の瞬間にあり、伸ばすか、曲げるか、回すか、というシンプルな動きの中にこそ、その解決方法があるのです。

なんという単純な世界でしょうか?
私達は、実にシンプルに生きる事が出来そうではありませんか!

何を悩んでいたのでしょうか?

悩んでいるならば、今やらなければならない事を忘れて、妄想している証拠です。

そして、頭の中で妄想が出たら、やっつけます。
「妄想している」と気付いて、今やらなければならない事に集中して下さい。

そうした「妄想を切る能力」を高めると、なすべきことをなす、という人生になり、幸せになれるのです。

髪もヒゲも伸びている師走である 全雄









facebook | 11:42:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
お正月をお幸せにお迎え頂くために⑪






協会の記事ではありません

今を幸せに生きる道! Be Happy!Namo Tassa

の紹介です







お正月をお幸せにお迎え頂くために⑪

廃車今日も、途中で更新を止めてしまいました。
それは、朝、学校に行く子供達と職場に行く嫁さんを見送りに外に出たところ、私の自転車が無い事に気付いたのです。それで、ヒヤッとして、ブログの更新どころではなく、自転車探しの旅に出かけました。

それで、自分の頭陀袋を見てみると、自転車の鍵が付いているのですね。ですから、盗まれた訳ではなさそうなのです。

ゆっくりここ何日間かを思い出しまして…
昨日はのんびりして外に出ない引きこもりだったし…
一昨日は…そう、一昨日、自転車に乗って駅の駐輪場に停めて、帰りは乗って帰るのを忘れたのでした。

一昨日は、とんかつの店「馬酔木さん」の美味しいとんかつを頂き、お店のお車で自宅まで送って頂いたのでした。そのとんかつの美味しさに、完璧に自転車を駅まで取りに行くのを忘れていました。

しかも昨日の丸一日は、駐輪場にほったらかしにしていたので、結構な金額をお支払して、自転車を連れ戻して来ました(笑)まぁ、あってよかった~(笑)

請け出しの自転車霜下りてあり 全雄


幸せな新年をお迎え頂くために⑪

本日の提案(続き)

⑪何でも笑い飛ばしてしまって下さい!

私達の人生、色々ありますが、何でもネタにして、笑い飛ばしてしまって下さい。失敗や困った時の事はネタにして、色々な人を笑わせる事に使うのです。
さらには、自由律俳句にしたり、川柳にしたらいかがでしょうか?

私達は、今生きているなら、それだけで大成功です!

生きている時には、色々な事にチャレンジして、頑張っている私達です。
勉強したり、家事をしたり、子育てをしたり、友達を作ったり、仕事をしたり、英会話を習ったり、スポーツをしたり、遊んだり、食事をしたり、呼吸をした り、恋愛をしたり、本を読んだり、買い物をしたり、散歩をしたり、と、まぁ、色々頑張っているのですが、終わりはありません。

いつ終わるのかと言うと、死んでしまう時です。

その時には、人間生活を頑張り続ける事をやめます。
その時が来るまでは、終わりなく、次々と頑張り続けるしかありませんね。

しかも、何を成し遂げたとしても、全てこの世に置いて逝きます。
良くなった脳みそも、建てた家も、集めたお金も、作った家族も、身に付けたスキルも、筋肉も、仕事も、守り続けてきた健康も、何もかも、置いて逝くのです。

とは言え、失敗したい、失敗して馬鹿にされたいと思っている人はいないのであり、一つ一つを成功に導くために、努力する必要があります。
しかし、失敗をする事もあるし、失敗をしたとしても、死ぬ時には置いて逝くコトばかり。

それならば、明るい気持ちで、気楽に、みんなと仲良く人生を楽しんでしまってはいかがでしょうかねぇ。努力はする、けれども、落ち込みはしない、という生き方です。

努力して、人生を成功させ、充実感を手に入れる。
その時に、失敗があったとしても、笑い飛ばしてしまい、凹まない。
いつでも、他の生命の幸せを祈りながら、明るい心で過ごす。

私達は、そんなちょっと違った価値観もある事に気付くと、気持ちが軽くなるのです(笑)幸せは、特定の価値観に縛られなくなった時に、やって来るのです。









Be Happy! | 07:40:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「智慧が現れない理由~軽視~」




協会のfbより紹介です。





#jtba「智慧が現れない理由~軽視~」

 皆さん方にしても、たとえば何年もヴィパッサナー瞑想に励んでいても、おそらく解脱に達していないでしょう。真面目にしっかり取り組んでいても、仏教の 法(ダンマ・真理)を学んでも、智慧が思うように現れないということは珍しくありません。これはお釈迦様の時代にもあった問題です。お釈迦様は、法を学ん でも智慧が現れないのはどういうことなのか、語られています。その説は、私たちが学校で学んでも頭が良くならないのはなぜなのかということにも適用できま す。

 智慧が現れない理由を学んでみましょう。真理を聞いたら、納得すること、理解することは当たり前ですが、客観的な事実を知っても心が変わらない者もいま す。いくら真理を知っても「これこそ正しい、これこそ道である」という善の道に達することはできない理由があるのだと説かれます。その五つの理由を解説し ます。

①教えを軽視する。
②師匠を軽視する。
③自分自身を軽視する。
④混乱した心で法を聞く。
⑤集中力もなく、ありのままに考察することができない。いい加減に考える。

 この五つがあったらだめです。しかし、この五つを聞いて皆さん、どう思われましたか?「本当?」と思うでしょう。そして、おそらく全然面白くないでしょ う。もっと摩訶不思議な、神のみぞ知る秘密がないものかと思うことでしょうね。しかし、真実は、この五つです。これさえなければ、学んだら頭が良くなりま す。智慧が現れます。人格が向上します。

 智慧が現れない理由の①~③までは、「軽視」という問題です。ここでまず、「軽視」とは何か、しっかりと理解しておきましょう。

 学ぶとは心に新たなデータを取り入れることです。「心にデータを取り入れる」と聞いて、ピンとこなかった場合は「脳」という言葉に入れ替えても構いませ ん。脳に新たなデータを取り入れる、それが学ぶことです。心でも脳でもいいですが、学ぶということはとにかくそれらに新しい訓練をさせることです。今まで にない何かをさせる、新たな心で、新たな脳でさせなくてはいけないのです。

 これは、何を学ぶにしても同じことです。たとえば、それまでまったく勉強したことのないイタリア語を今から学ぼうとした場合、脳や心にとっては今までに ない訓練をすることになります。そこでポイントです。この新しく入れようとする情報に価値をおかないと、学べないのです。

 たとえば、新たに入れようとする情報に対して「価値がない」「大したことではない」「皆が言っている」「同じことだ」と思ってしまったら、「なんだ、こ んなの重要じゃないな」という気分になるでしょう?それが「軽視すること」なのです。「大したことない」「価値がないでしょう、そんな情報」「そんなのみ んな言っているでしょう」などと思ったら、心が、脳が閉じるのです。ロックされて新しい情報を取り入れません。

 これは大きな問題です。心に、脳に、鍵をかけて閉じた状態では、どんな授業も、どんな講演も、どんな勉強も入りません。学べないのです。ですから、「軽 視する」という単語は、ごく普通の一般的な言葉ではありますが、とても笑いごとで済まされる問題ではありません。お釈迦様は、このような内容を精密に調べ た上で、一般の人々が簡単に覚えられるよう、いとも簡単な言葉で語られるのです。内容はものすごく深い真理です。

 学ぶ場合には、頭に新たなデータを入れて新たなコンテンツをつくらなくてはなりません。そのときに、新たなデータを「大したことないね」と思ったら終わ りです。実際、「あ、これってスゴイな!」と思ったものは学ぶでしょう?苦労しないで覚えられます。「これってスゴイ」「超面白い」「これなら役に立つ」 というふうに、軽視しない気持ちが生まれたら、脳はドアを開けるのです。開けて情報をどんどん入れます。

 もうおわかりですね。どうして智慧が現れないのか、どうして学べないのかということの答えは、「軽視する」というたった一つの単語です。このお釈迦様の教えは、脳のはたらきから見ても事実です。

 学校の授業を例にとっても、授業中に「うるさいな」「先生の講義は大したことないし、テキストにも書いてあるし」という気分でいると、脳にインパクトが ありません。ですから、頭はそのまま、鍵がかかった状態です。この鍵の問題はなかなか大きな問題なのですが、皆さんは知らないのです。鍵さえかけないで開 けておけば、いくらでも頭が良くなるのです。今からでも遅くありませんから、心の鍵を開けてください。

 どうやって鍵を開けるのか。それは、軽視するのではなく「何だ、これは?」「なに?なに?」という興味・関心、あるいは「ああ、そうなんですか!」とい う程度の気持ちでも心がオープンになります。それほど難しいことではありません。この「軽視」による鍵の問題で、世の中には学んでも学んでもなかなか心が 変わらないという頑固者がいるのです。よく憶えておいてください。

 では、「軽視する」という問題の解決策は、どういうことになるでしょうか。説明します。たとえば、ぎゃあぎゃあと泣いている赤ちゃんがいるとします。実 際の映像をテレビで見たのですが、すぐに近くでレジ袋のクシャクシャという音を聞かせると泣き止んでいたのです。「何だろう?」と思うのですね。どうとい うことはないビニールのちょっとした音なのですが、聞こえる音に興味を抱くのです。心を開きます。もう、泣いている場合ではないのです。

 泣くときというのは、子どもの心が閉じているのです。どうして、赤ちゃんが泣いているときにお母さんが子どもを揺すったり、「いない、いない、バア」と 言ったり、いろいろあやしているのでしょうか。それは、心を開くためです。スマホのアプリにもいろいろ、子どもを泣き止ませる音がありますね。親は、そう わかってやっているわけではありませんが、何とかして心を開こうとしているのです。

 心に入る情報は何であろうとも「初めて」です。何でも「初めて」と思うことができれば、もう頭がビシビシ成長します。初めての気分が、脳に強いインパク トを与えるのです。データを刷り込んでしまうのです。赤ちゃんや子どもはあらゆることが「初めて」ですが、大人はなかなかその気分になりませんね。ですか ら、大人の場合は、何にでも興味を持とうとすることがポイントです。

 見下すアプローチは、心に鉄の壁を作ることです。何一つとして、見下すことだけはしないでください。見上げるもそうですが、見下した態度は自分の頭に鉄 のカーテンをつけたことになります。また、見下すことはよくありませんが、だからといって、何でも見上げてみるということでもありません。世の中には、あ りとあらゆる、いろいろとなデータがあふれています。それは、全部が良いものではありません。いつでも「なんだ?これは」という興味を持つことが大事で す。見下すとか見上げるのではなく、「なんだ、これ?」という姿勢でいると、世の中のデータの良いもの悪いものが学べます。

●イラスト:髙橋優子
▼参考テキスト
忘れる練習・記憶のコツ
http://amzn.to/1l2Oag4 , http://amzn.to/1krUCjo [Kindle版]
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪
写真: #jtba「智慧が現れない理由~軽視~」<br /><br /> 皆さん方にしても、たとえば何年もヴィパッサナー瞑想に励んでいても、おそらく解脱に達していないでしょう。真面目にしっかり取り組んでいても、仏教の法(ダンマ・真理)を学んでも、智慧が思うように現れないということは珍しくありません。これはお釈迦様の時代にもあった問題です。お釈迦様は、法を学んでも智慧が現れないのはどういうことなのか、語られています。その説は、私たちが学校で学んでも頭が良くならないのはなぜなのかということにも適用できます。<br /><br /> 智慧が現れない理由を学んでみましょう。真理を聞いたら、納得すること、理解することは当たり前ですが、客観的な事実を知っても心が変わらない者もいます。いくら真理を知っても「これこそ正しい、これこそ道である」という善の道に達することはできない理由があるのだと説かれます。その五つの理由を解説します。<br /><br />①教えを軽視する。<br />②師匠を軽視する。<br />③自分自身を軽視する。<br />④混乱した心で法を聞く。<br />⑤集中力もなく、ありのままに考察することができない。いい加減に考える。<br /><br /> この五つがあったらだめです。しかし、この五つを聞いて皆さん、どう思われましたか?「本当?」と思うでしょう。そして、おそらく全然面白くないでしょう。もっと摩訶不思議な、神のみぞ知る秘密がないものかと思うことでしょうね。しかし、真実は、この五つです。これさえなければ、学んだら頭が良くなります。智慧が現れます。人格が向上します。<br /><br /> 智慧が現れない理由の①~③までは、「軽視」という問題です。ここでまず、「軽視」とは何か、しっかりと理解しておきましょう。<br /><br /> 学ぶとは心に新たなデータを取り入れることです。「心にデータを取り入れる」と聞いて、ピンとこなかった場合は「脳」という言葉に入れ替えても構いません。脳に新たなデータを取り入れる、それが学ぶことです。心でも脳でもいいですが、学ぶということはとにかくそれらに新しい訓練をさせることです。今までにない何かをさせる、新たな心で、新たな脳でさせなくてはいけないのです。<br /><br /> これは、何を学ぶにしても同じことです。たとえば、それまでまったく勉強したことのないイタリア語を今から学ぼうとした場合、脳や心にとっては今までにない訓練をすることになります。そこでポイントです。この新しく入れようとする情報に価値をおかないと、学べないのです。<br /><br /> たとえば、新たに入れようとする情報に対して「価値がない」「大したことではない」「皆が言っている」「同じことだ」と思ってしまったら、「なんだ、こんなの重要じゃないな」という気分になるでしょう?それが「軽視すること」なのです。「大したことない」「価値がないでしょう、そんな情報」「そんなのみんな言っているでしょう」などと思ったら、心が、脳が閉じるのです。ロックされて新しい情報を取り入れません。<br /><br /> これは大きな問題です。心に、脳に、鍵をかけて閉じた状態では、どんな授業も、どんな講演も、どんな勉強も入りません。学べないのです。ですから、「軽視する」という単語は、ごく普通の一般的な言葉ではありますが、とても笑いごとで済まされる問題ではありません。お釈迦様は、このような内容を精密に調べた上で、一般の人々が簡単に覚えられるよう、いとも簡単な言葉で語られるのです。内容はものすごく深い真理です。<br /><br /> 学ぶ場合には、頭に新たなデータを入れて新たなコンテンツをつくらなくてはなりません。そのときに、新たなデータを「大したことないね」と思ったら終わりです。実際、「あ、これってスゴイな!」と思ったものは学ぶでしょう?苦労しないで覚えられます。「これってスゴイ」「超面白い」「これなら役に立つ」というふうに、軽視しない気持ちが生まれたら、脳はドアを開けるのです。開けて情報をどんどん入れます。<br /><br /> もうおわかりですね。どうして智慧が現れないのか、どうして学べないのかということの答えは、「軽視する」というたった一つの単語です。このお釈迦様の教えは、脳のはたらきから見ても事実です。<br /><br /> 学校の授業を例にとっても、授業中に「うるさいな」「先生の講義は大したことないし、テキストにも書いてあるし」という気分でいると、脳にインパクトがありません。ですから、頭はそのまま、鍵がかかった状態です。この鍵の問題はなかなか大きな問題なのですが、皆さんは知らないのです。鍵さえかけないで開けておけば、いくらでも頭が良くなるのです。今からでも遅くありませんから、心の鍵を開けてください。<br /><br /> どうやって鍵を開けるのか。それは、軽視するのではなく「何だ、これは?」「なに?なに?」という興味・関心、あるいは「ああ、そうなんですか!」という程度の気持ちでも心がオープンになります。それほど難しいことではありません。この「軽視」による鍵の問題で、世の中には学んでも学んでもなかなか心が変わらないという頑固者がいるのです。よく憶えておいてください。<br /><br /> では、「軽視する」という問題の解決策は、どういうことになるでしょうか。説明します。たとえば、ぎゃあぎゃあと泣いている赤ちゃんがいるとします。実際の映像をテレビで見たのですが、すぐに近くでレジ袋のクシャクシャという音を聞かせると泣き止んでいたのです。「何だろう?」と思うのですね。どうということはないビニールのちょっとした音なのですが、聞こえる音に興味を抱くのです。心を開きます。もう、泣いている場合ではないのです。<br /><br /> 泣くときというのは、子どもの心が閉じているのです。どうして、赤ちゃんが泣いているときにお母さんが子どもを揺すったり、「いない、いない、バア」と言ったり、いろいろあやしているのでしょうか。それは、心を開くためです。スマホのアプリにもいろいろ、子どもを泣き止ませる音がありますね。親は、そうわかってやっているわけではありませんが、何とかして心を開こうとしているのです。<br /><br /> 心に入る情報は何であろうとも「初めて」です。何でも「初めて」と思うことができれば、もう頭がビシビシ成長します。初めての気分が、脳に強いインパクトを与えるのです。データを刷り込んでしまうのです。赤ちゃんや子どもはあらゆることが「初めて」ですが、大人はなかなかその気分になりませんね。ですから、大人の場合は、何にでも興味を持とうとすることがポイントです。<br /><br /> 見下すアプローチは、心に鉄の壁を作ることです。何一つとして、見下すことだけはしないでください。見上げるもそうですが、見下した態度は自分の頭に鉄のカーテンをつけたことになります。また、見下すことはよくありませんが、だからといって、何でも見上げてみるということでもありません。世の中には、ありとあらゆる、いろいろとなデータがあふれています。それは、全部が良いものではありません。いつでも「なんだ?これは」という興味を持つことが大事です。見下すとか見上げるのではなく、「なんだ、これ?」という姿勢でいると、世の中のデータの良いもの悪いものが学べます。<br /><br />●イラスト:髙橋優子<br />▼参考テキスト<br />忘れる練習・記憶のコツ<br />http://amzn.to/1l2Oag4 , http://amzn.to/1krUCjo [Kindle版]<br />♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪







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#jtba「幸福を実感するとき~他人に好かれる~」





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#jtba「幸福を実感するとき~他人に好かれる~」

 自分に対して他人が良い評価をしていることは、自分がそれなりに社会に認められる生き方をしている証拠です。他人の協力なしには、この世で生きていられ ません。一般的に考えられている幸せというものも、突き詰めていくと、良い人間関係であるという答えになります。家族がいて楽しい、子供がとても可愛い、 仕事が楽しい、良い仲間がいっぱいいるのだという場合、それは人間関係という幸福なのです。

 人間関係が上手くいっていると、幸せを感じるのです。仕事が上手くいくことも、商売繁盛できることも、家庭円満も、学業成就も、健全な人間関係の上に成り立つのです。ですから、一般的に考える幸福の概念は、健全な人間関係であると言っても過言ではありません。これも言い換えれば、「他人に好かれる」ということなのです。

 ですから他人に好かれるかどうかは、大事に考えなくてはいけないのです。しかし、他人のことばかり考えて、他人の気持ちが常に気になって、他人にどう思われているのかと常に注意して生きることは、決して楽ではありません。ストレスが溜まる生き方なのです。

 また、良かれと思ってやったことが外れる可能性があります。時々というより、ほとんどの場合は、他人が何を考えているのか、実際は何を期待しているの か、さっぱり理解できないのです。他人に好かれるのは良いことですが、このような状態では、「他人に好かれる道」は期待外れが多くて、かなり険しい道では ないかと思われるのです。

 他人のことばかりを気にして生きることは、正しい道ではありません。釈尊は、決して外れることのない他人に好かれる道を説かれたのです。その道を理解して実行すれば、人生は成功すると思います。

 まず言えることは、他人の気持ちを考えることは止めることです。自分の気持ちさえも何なのかと自覚がない我々に、他人の気持ちなんかは理解できるはずも ないのです。そして、そういう意味では他人も自分と同じです。自分たちの気持ちはどうなのかという、自覚はないのです。「私は私自身の気持ちさえわかって いない。あなたは、あなた自身の気持ちもわかっていない。それでも私は、あなたの気持ちを理解しようとする」ということは、ありえない、成り立たない話で す。

 生まれつき目が見えない二人が、美しい色彩について語り合っているようなものです。上手くいくはずがないのです。世間ではスローガンの如く、「他人の気 持ちを理解して行動する」という言葉がよく聞こえて来ます。みな、それに乗せられて他人の気持ちを理解する努力もします。ところが、それはもともとあり得 ない話なのですから、失敗するに決まっている。

 何十年も夫婦生活をしていながら、相手の気持ちを理解できなくて、または相手を誤解してしまって、やがては離婚ということになるのです。手塩にかけて育 てる子供たちの考え方や気持ちを、やがて解らなくなって、親子関係が断絶してしまうケースもあります。幼なじみでも、やがて喧嘩別れをする。人間関係が破 綻するということは、この世で当たり前に起きることです。しかし、皆めげずに相手を理解しようと挑戦する。それで、見事にあてが外れる。結果として、多大 なストレスが溜まる、精神的に落ち込む、生きることは苦しくなる。従って、この道は正しくないのです。

 合理的に具体的にものごとを説明するブッダは、まずは自分を理解しなさいと説かれるのです。自分を正しく、ありのままに理解している人なら、敢えて努力 しなくても、楽々と他人を理解出来るのです。それは外れることは、決してありません。ですから、「他人に好かれる」ためには、自分自身を理解することから 始めなくてはならないのです。それは自己観察なのです。

 自己観察を脇において、良い人間になろう、皆に好かれる人間になろう、他人に認められる人間になろうと、あれこれ努力しても、大変苦しくなるのです。結 局は上手くいかないのです。自己観察だけしておけば、自然に皆に好かれる人間になるのです。他人に認められる人間になるのです。

 しかし残念ながら、自己観察など誰もやりたがらないのです。そして、それがなぜかということも、理解されていないと思います。では、その理由を説明しま しょう。口に出しては言わないが、我々は「自分が完璧な人間だ」と思っているのです。自分が常に正しいと思っているのです。間違いを犯したとき、失敗した ときでさえも、他人の批判を嫌がり、非難を怖れる理由は、それなのです。自分が完璧でないことは当然だと思っているならば、他人が自分を批判するとき、と ても楽しくなるはずです。しかし、批判されて良かったと思う人間はいませんね。

 そこで、ある人が自己観察を実践しようとする。その人は何を発見するのでしょうか?他人に好かれる長所なんかは、何一つも見つからないのです。我がま ま、優柔不断、傲慢、怒り、憎しみ、嫉妬、怠けなどは、いくらでも見えてきますが、自慢できる良いところは、なかなか見あたらないのです。自分は完璧だ、 正しいのだと勘違いしていた人にとっては、耐えられないほどのショックでしょう。好かれたいと思っていたが、嫌われる短所のアラカルトを発見するのです。

 それでどうなるかというと、その人は開き直って自己観察を止めるのです。元の幻覚思考に戻るのです。他人に嫌われる、嫌悪される性格のままで生きること になるのです。しかし、勇気のある人は素直に自己観察を続けるのです。短所のアラカルトだから、傲慢も見栄を張ることも出てこなくなるのです。それだけで も、もう他人に好かれます。勇気を持って素直に自己観察を続ければ、確実に期待通りに良い結果になるのです。

 それには、秘密があります。心は自分が本来完全無欠だ、完全無垢だと、とてつもない誤解に苛まれています。それで自己観察をし始めると、本当の自分が見 えてくる。そうなると、二通りの結果になるのです。根性の無い人は、自己観察を止める。勇気のある人は、自己観察を続ける。勇気のある素直な人々の心は、 それでも完全無欠・完全無垢に対する期待を諦めない。本格的に完全無欠・完全無垢にならなくては恥だという気持ちになるのです。自己観察で発見するあらゆ る短所をなくそう、無効にしようという気持ちになるのです。

 ですから、短所を発見することで、ダメージは受けざるをえません。それでも、めげずに繰り返し、より鮮明に短所を観察すると、跡形もなく消えるのです。完璧だと、とてつもない誤解に陥っていた心は、正真正銘の完璧になってしまうのです。これが自己観察の秘密です。

 「人間は不完全だ」という話を、よく誰でも口にするものです。人間なら誰でも、間違いを犯す。Every man has his faults.《だれにも欠点はあるもの》「無くて七癖」「叩けば埃が出る」という諺があります。To err is human, to forgive divine.(Alexander Pope)《過つは人の性、許すは神の心》という諺さえあります。しかし、不完全でしょうがないではないか、人を批判したり差別したりしてはいけないので はないか、というぐらいの教訓で終わるのです。

 より善い人間になりなさい、完全性を目指しなさい、という上昇志向はないのです。ブッダの場合は、「生命は不完全だからこそ、完全性を目指す」というよ うな諺になるだろうと思います。仏教が語る解脱は、その境地なのです。心にある「私は完璧だ」という、とんでもない錯覚を正して、正真正銘の完璧な心を持 つ人間を育てるのです。

 自己観察を始めた人が、間もないうちに他人に好かれる人間に変わっていくのです。徐々に自分の気持ちが分かってくるので、他人の気持ちも理解できるよう になるのです。「この人には好かれたい。この人には好かれなくても結構」だと理解できる。「この人に賛成した方が良い。この人に反対した方が良い」と理解 できるのです。

 正しい好かれ方は、自分の方から相手を追いかけて、機嫌を取って、自分の方を向いてもらって、束縛することではないのです。他人を追っていくと、他人は 逃げてしまうに決まっているのです。正しい好かれ方は、自分の心の力に皆引かれて、寄ってくることです。自然に他人が引かれてくるところに、「なんとかし て好かれなくては…」という無理はないのです。

 自己観察する人の心の成長の流れを考えてみましょう。まず、欲、怒り、無知、嫉妬、傲慢、我が儘、などの感情の荒波に流されて、自分がロボットのような 生き方をしていることを発見する。自分のためだと思って行う行為は、自分の不幸につながる。他人のためだと思って行う行為も、結局は他人を不幸にする。感 情に流されて、ロボット化された生き方は善くないと理解する。悪い感情を治めるような行動をしようとする。その行為は見事に自分のためにも、他人のために もなってしまう。この状態は仏教で言う、道徳的な生き方なのです。

 さらに観察を続けると、心の働きが見えてくるのです。心が苦しみを作ることも、その原因も見えてくるのです。自分だけではなく、すべての生命の心も、同 じ法則であることも発見するのです。「私がいる」という錯覚に基づいて、皆ものごとを考えていることを発見する。人は何を考えても、何を推測しても、元は 錯覚なので、正しい理解が起こり得ないと発見する。

 永遠不滅の、一定した、全く変わらない自我・自分がいるのではなく、その瞬間その瞬間の因縁によって、一時的にのみ、自分という自覚が起こるものだと発 見する。何ものも執着するに値しない、一時的な、瞬間的な現象であると発見することで、心は解脱を経験するのです。これが、心の完全無欠・完全無垢な状態 なのです。

 したがって、自己観察する人はブッダによって説かれた真理を、自分自身で発見するのです。真理を知った人になるのです。心は太陽の如く輝くのです。太陽 は、地球上の生命に好かれようと何の努力もしない。しかし、地球上のすべての生命は、太陽のお陰で、太陽の力で、太陽に支えられて生きているのです。いわ ば、太陽は皆に好かれているのです。

 太陽自身が全く無関心なのにです。自己観察する人の心も、このようなものです。自分には、他人に好かれても好かれなくても、何の関係もない自由自在な心があるのです。しかし完全無欠の心を持っている自分が、すべての生命に自然に好かれるのです。

 他人に好かれる正しい方法というのは、他人の気持ちを気にしながら、人の目を気にしながら生きることではありません。自分自身の心を観察することなので す。他人に好かれることは、自分の人格が善であるか、悪であるかが分かるバロメーターなのです。しかし、他人の目を気にするという間違った生き方は、止め なければいけないのです。

●イラスト:髙橋優子
▼参考テキスト
他人に好かれる道~人の目を気にする人は、嫌われる~
http://www.j-theravada.net/howa/howa124.html
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪
写真: #jtba「幸福を実感するとき~他人に好かれる~」<br /><br /> 自分に対して他人が良い評価をしていることは、自分がそれなりに社会に認められる生き方をしている証拠です。他人の協力なしには、この世で生きていられません。一般的に考えられている幸せというものも、突き詰めていくと、良い人間関係であるという答えになります。家族がいて楽しい、子供がとても可愛い、仕事が楽しい、良い仲間がいっぱいいるのだという場合、それは人間関係という幸福なのです。<br /><br /> 人間関係が上手くいっていると、幸せを感じるのです。仕事が上手くいくことも、商売繁盛できることも、家庭円満も、学業成就も、健全な人間関係の上に成り立つのです。ですから、一般的に考える幸福の概念は、健全な人間関係であると言っても過言ではありません。これも言い換えれば、「他人に好かれる」ということなのです。<br /><br /> ですから他人に好かれるかどうかは、大事に考えなくてはいけないのです。しかし、他人のことばかり考えて、他人の気持ちが常に気になって、他人にどう思われているのかと常に注意して生きることは、決して楽ではありません。ストレスが溜まる生き方なのです。<br /><br /> また、良かれと思ってやったことが外れる可能性があります。時々というより、ほとんどの場合は、他人が何を考えているのか、実際は何を期待しているのか、さっぱり理解できないのです。他人に好かれるのは良いことですが、このような状態では、「他人に好かれる道」は期待外れが多くて、かなり険しい道ではないかと思われるのです。<br /><br /> 他人のことばかりを気にして生きることは、正しい道ではありません。釈尊は、決して外れることのない他人に好かれる道を説かれたのです。その道を理解して実行すれば、人生は成功すると思います。<br /><br /> まず言えることは、他人の気持ちを考えることは止めることです。自分の気持ちさえも何なのかと自覚がない我々に、他人の気持ちなんかは理解できるはずもないのです。そして、そういう意味では他人も自分と同じです。自分たちの気持ちはどうなのかという、自覚はないのです。「私は私自身の気持ちさえわかっていない。あなたは、あなた自身の気持ちもわかっていない。それでも私は、あなたの気持ちを理解しようとする」ということは、ありえない、成り立たない話です。<br /><br /> 生まれつき目が見えない二人が、美しい色彩について語り合っているようなものです。上手くいくはずがないのです。世間ではスローガンの如く、「他人の気持ちを理解して行動する」という言葉がよく聞こえて来ます。みな、それに乗せられて他人の気持ちを理解する努力もします。ところが、それはもともとあり得ない話なのですから、失敗するに決まっている。<br /><br /> 何十年も夫婦生活をしていながら、相手の気持ちを理解できなくて、または相手を誤解してしまって、やがては離婚ということになるのです。手塩にかけて育てる子供たちの考え方や気持ちを、やがて解らなくなって、親子関係が断絶してしまうケースもあります。幼なじみでも、やがて喧嘩別れをする。人間関係が破綻するということは、この世で当たり前に起きることです。しかし、皆めげずに相手を理解しようと挑戦する。それで、見事にあてが外れる。結果として、多大なストレスが溜まる、精神的に落ち込む、生きることは苦しくなる。従って、この道は正しくないのです。<br /><br /> 合理的に具体的にものごとを説明するブッダは、まずは自分を理解しなさいと説かれるのです。自分を正しく、ありのままに理解している人なら、敢えて努力しなくても、楽々と他人を理解出来るのです。それは外れることは、決してありません。ですから、「他人に好かれる」ためには、自分自身を理解することから始めなくてはならないのです。それは自己観察なのです。<br /><br /> 自己観察を脇において、良い人間になろう、皆に好かれる人間になろう、他人に認められる人間になろうと、あれこれ努力しても、大変苦しくなるのです。結局は上手くいかないのです。自己観察だけしておけば、自然に皆に好かれる人間になるのです。他人に認められる人間になるのです。<br /><br /> しかし残念ながら、自己観察など誰もやりたがらないのです。そして、それがなぜかということも、理解されていないと思います。では、その理由を説明しましょう。口に出しては言わないが、我々は「自分が完璧な人間だ」と思っているのです。自分が常に正しいと思っているのです。間違いを犯したとき、失敗したときでさえも、他人の批判を嫌がり、非難を怖れる理由は、それなのです。自分が完璧でないことは当然だと思っているならば、他人が自分を批判するとき、とても楽しくなるはずです。しかし、批判されて良かったと思う人間はいませんね。<br /><br /> そこで、ある人が自己観察を実践しようとする。その人は何を発見するのでしょうか?他人に好かれる長所なんかは、何一つも見つからないのです。我がまま、優柔不断、傲慢、怒り、憎しみ、嫉妬、怠けなどは、いくらでも見えてきますが、自慢できる良いところは、なかなか見あたらないのです。自分は完璧だ、正しいのだと勘違いしていた人にとっては、耐えられないほどのショックでしょう。好かれたいと思っていたが、嫌われる短所のアラカルトを発見するのです。<br /><br /> それでどうなるかというと、その人は開き直って自己観察を止めるのです。元の幻覚思考に戻るのです。他人に嫌われる、嫌悪される性格のままで生きることになるのです。しかし、勇気のある人は素直に自己観察を続けるのです。短所のアラカルトだから、傲慢も見栄を張ることも出てこなくなるのです。それだけでも、もう他人に好かれます。勇気を持って素直に自己観察を続ければ、確実に期待通りに良い結果になるのです。<br /><br /> それには、秘密があります。心は自分が本来完全無欠だ、完全無垢だと、とてつもない誤解に苛まれています。それで自己観察をし始めると、本当の自分が見えてくる。そうなると、二通りの結果になるのです。根性の無い人は、自己観察を止める。勇気のある人は、自己観察を続ける。勇気のある素直な人々の心は、それでも完全無欠・完全無垢に対する期待を諦めない。本格的に完全無欠・完全無垢にならなくては恥だという気持ちになるのです。自己観察で発見するあらゆる短所をなくそう、無効にしようという気持ちになるのです。<br /><br /> ですから、短所を発見することで、ダメージは受けざるをえません。それでも、めげずに繰り返し、より鮮明に短所を観察すると、跡形もなく消えるのです。完璧だと、とてつもない誤解に陥っていた心は、正真正銘の完璧になってしまうのです。これが自己観察の秘密です。<br /><br /> 「人間は不完全だ」という話を、よく誰でも口にするものです。人間なら誰でも、間違いを犯す。Every man has his faults.《だれにも欠点はあるもの》「無くて七癖」「叩けば埃が出る」という諺があります。To err is human, to forgive divine.(Alexander Pope)《過つは人の性、許すは神の心》という諺さえあります。しかし、不完全でしょうがないではないか、人を批判したり差別したりしてはいけないのではないか、というぐらいの教訓で終わるのです。<br /><br /> より善い人間になりなさい、完全性を目指しなさい、という上昇志向はないのです。ブッダの場合は、「生命は不完全だからこそ、完全性を目指す」というような諺になるだろうと思います。仏教が語る解脱は、その境地なのです。心にある「私は完璧だ」という、とんでもない錯覚を正して、正真正銘の完璧な心を持つ人間を育てるのです。<br /><br /> 自己観察を始めた人が、間もないうちに他人に好かれる人間に変わっていくのです。徐々に自分の気持ちが分かってくるので、他人の気持ちも理解できるようになるのです。「この人には好かれたい。この人には好かれなくても結構」だと理解できる。「この人に賛成した方が良い。この人に反対した方が良い」と理解できるのです。<br /><br /> 正しい好かれ方は、自分の方から相手を追いかけて、機嫌を取って、自分の方を向いてもらって、束縛することではないのです。他人を追っていくと、他人は逃げてしまうに決まっているのです。正しい好かれ方は、自分の心の力に皆引かれて、寄ってくることです。自然に他人が引かれてくるところに、「なんとかして好かれなくては…」という無理はないのです。<br /><br /> 自己観察する人の心の成長の流れを考えてみましょう。まず、欲、怒り、無知、嫉妬、傲慢、我が儘、などの感情の荒波に流されて、自分がロボットのような生き方をしていることを発見する。自分のためだと思って行う行為は、自分の不幸につながる。他人のためだと思って行う行為も、結局は他人を不幸にする。感情に流されて、ロボット化された生き方は善くないと理解する。悪い感情を治めるような行動をしようとする。その行為は見事に自分のためにも、他人のためにもなってしまう。この状態は仏教で言う、道徳的な生き方なのです。<br /><br /> さらに観察を続けると、心の働きが見えてくるのです。心が苦しみを作ることも、その原因も見えてくるのです。自分だけではなく、すべての生命の心も、同じ法則であることも発見するのです。「私がいる」という錯覚に基づいて、皆ものごとを考えていることを発見する。人は何を考えても、何を推測しても、元は錯覚なので、正しい理解が起こり得ないと発見する。<br /><br /> 永遠不滅の、一定した、全く変わらない自我・自分がいるのではなく、その瞬間その瞬間の因縁によって、一時的にのみ、自分という自覚が起こるものだと発見する。何ものも執着するに値しない、一時的な、瞬間的な現象であると発見することで、心は解脱を経験するのです。これが、心の完全無欠・完全無垢な状態なのです。<br /><br /> したがって、自己観察する人はブッダによって説かれた真理を、自分自身で発見するのです。真理を知った人になるのです。心は太陽の如く輝くのです。太陽は、地球上の生命に好かれようと何の努力もしない。しかし、地球上のすべての生命は、太陽のお陰で、太陽の力で、太陽に支えられて生きているのです。いわば、太陽は皆に好かれているのです。<br /><br /> 太陽自身が全く無関心なのにです。自己観察する人の心も、このようなものです。自分には、他人に好かれても好かれなくても、何の関係もない自由自在な心があるのです。しかし完全無欠の心を持っている自分が、すべての生命に自然に好かれるのです。<br /><br /> 他人に好かれる正しい方法というのは、他人の気持ちを気にしながら、人の目を気にしながら生きることではありません。自分自身の心を観察することなのです。他人に好かれることは、自分の人格が善であるか、悪であるかが分かるバロメーターなのです。しかし、他人の目を気にするという間違った生き方は、止めなければいけないのです。<br /><br />●イラスト:髙橋優子<br />▼参考テキスト<br />他人に好かれる道~人の目を気にする人は、嫌われる~<br />http://www.j-theravada.net/howa/howa124.html<br />♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪









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