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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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#jtba「世界を味方につけてみる」




協会のfbより紹介です。





#jtba「世界を味方につけてみる」

 私たちは、人を敵と味方に二分化して見る色眼鏡をかけて、人間関係を築きます。人を敵と味方に正しく分ける方法を学んでいるわけではありません。ただの感情で分けるのです。なんの理由もなく、「あの人が気に入らない」と言ったりするのです。

 しかも面白いことに、親切にいろいろなことを教えてくれる師匠や、仕事を教えてくれる会社の上司を敵視してしまうケースも多いのです。理性に欠けた感情的な色眼鏡を使っていると、自分を成長させてくれる大事な人たちからも切り離されてしまうことが大いにあります。

 感情的に嫌な人だと思う相手に対しても、自分の邪魔をしたり足を引っ張ったりするライバルに対しても、敵意をもつのではなく、どうすれば味方にできるの かを考えたほうがいいのです。相手の性格を理解し、味方に変える方法を発見して実行すれば、いままで味方や仲間だと思っていた人たち以上に、助けてくれる のです。

 この世はどちらかというと、私たちの味方ではありません。世間は厳しいのです。こちらのわずかな弱点をつかんで、攻撃をしかけてくるのが普通です。ですから、味方を探すより、敵を味方に変える技を磨くべきたと思います。

 激流の川に落ちてしまえば、水に流され、溺れて死ぬのは当然です。さらに流れに逆らおうとすれば、状況は悪くなるのです。しかし、泳ぎが上手な人は、川の流れに逆らわず、力をうまく使って川を渡ります。

 人を批判する癖、攻撃的な態度、ライバルに対して敵意をもって競争することなどは一切やめる。そして、たとえばライバルであっても、その人のことを心配する。そうすれば、敵は味方に変わってしまうのです。

▼参考テキスト
不安なこの世を生き抜くために
http://amzn.to/1gej7yf
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪


写真: #jtba「世界を味方につけてみる」<br /><br /> 私たちは、人を敵と味方に二分化して見る色眼鏡をかけて、人間関係を築きます。人を敵と味方に正しく分ける方法を学んでいるわけではありません。ただの感情で分けるのです。なんの理由もなく、「あの人が気に入らない」と言ったりするのです。<br /><br /> しかも面白いことに、親切にいろいろなことを教えてくれる師匠や、仕事を教えてくれる会社の上司を敵視してしまうケースも多いのです。理性に欠けた感情的な色眼鏡を使っていると、自分を成長させてくれる大事な人たちからも切り離されてしまうことが大いにあります。<br /><br /> 感情的に嫌な人だと思う相手に対しても、自分の邪魔をしたり足を引っ張ったりするライバルに対しても、敵意をもつのではなく、どうすれば味方にできるのかを考えたほうがいいのです。相手の性格を理解し、味方に変える方法を発見して実行すれば、いままで味方や仲間だと思っていた人たち以上に、助けてくれるのです。<br /><br /> この世はどちらかというと、私たちの味方ではありません。世間は厳しいのです。こちらのわずかな弱点をつかんで、攻撃をしかけてくるのが普通です。ですから、味方を探すより、敵を味方に変える技を磨くべきたと思います。<br /><br /> 激流の川に落ちてしまえば、水に流され、溺れて死ぬのは当然です。さらに流れに逆らおうとすれば、状況は悪くなるのです。しかし、泳ぎが上手な人は、川の流れに逆らわず、力をうまく使って川を渡ります。<br /><br /> 人を批判する癖、攻撃的な態度、ライバルに対して敵意をもって競争することなどは一切やめる。そして、たとえばライバルであっても、その人のことを心配する。そうすれば、敵は味方に変わってしまうのです。<br /><br />▼参考テキスト<br />不安なこの世を生き抜くために<br />http://amzn.to/1gej7yf<br />♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪









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協会のリンク先です。





仏旗  宝泉寺ホームページ 仏暦 2557年
西暦 2014年
平成 26年  
宝泉寺HP 2月









宝泉寺 | 09:20:22 | トラックバック(0) | コメント(0)
法話会(ヤサ比丘)---*注意 いつもと開始時間が違います。*残念ながら 初心者冥想指導はありません










★「茶話会(親睦会)」のお知らせ
午前10時から、法友のみなさんの集いがあります。
※自由参加、昼食は各自ご用意ください。






      法話会(ヤサ比丘)

日時  2月 9日 (日), 12:30 ~ 16:30
*注意  いつもと開始時間が違います。

場所〒457-0833 愛知県名古屋市南区東又兵ヱ町5-1-16 
                  日本ガイシフォーラム(和室) (地図)

説明【内容】 ヤサ先生を講師に迎えて、法話を聞く会です。
  *残念ながら 初心者冥想指導はありません

【講師】         ヤサ比丘

【会場】  日本ガイシフォーラム(和室)
            〒457-0833 愛知県名古屋市南区東又兵ヱ町5-1-16 <交通アクセス>
            ●JRご利用の方 東海道本線「笠寺」駅(かさでら) 徒歩3分 
            ●名鉄ご利用の方 名鉄本線「本笠寺」駅(ほんかさでら)徒歩15分


【お問い合わせ】 東海ダンマサークル 
     電話:090-7316-6349(葛原)
     電話:090-2133-0495(吉田)
メール quiet-place.366@be.wakwak.com








行事予定 | 05:48:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
「スマナサーラ長老 初期仏教月例講演会 3月14日」






協会のfbより紹介です。





「スマナサーラ長老 初期仏教月例講演会 3月14日」










初期仏教公開講座
 
『善を行うチカラ
~忍耐・堪忍の本当の意味~』

講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老
 
「諸仏の教え」(七仏通誡偈)という有名なお経の一節に「忍耐・堪忍は最上の修行である」とあります。「忍耐・カンティー」「堪忍・ティティッ カー」とは、どのような修行のことなのか、どのように実践するのか、この二つの単語から仏道修行の真髄が明らかになります。お釈迦様が教えられた実践方法 には、苦行はありません。また実行不可能で無意味なことはゼロです。世の中に溢れているヘンテコリンな修行方法ではなく、「まさにこれが修行です」と言え る方法があるのです。

*****
日時:2014月3月14日(金)18:30~21:00(終了予定)
    (受付開始18:00~)
場所 なかのZEROホール
定員 550名(先着順)
参加費 ご喜捨(お気持ち)

☆★☆会場のお間違えの無いよう、ご確認お願いいたします。☆★☆

*事前にお申し込みの上ご参加下さい。
(申込締切3月13日12:00pm)

*受付返信がない方は、予約が取れておりません。再度お申し込み手続きをお取り下さい。

*会場のなかのZEROホールへのお問い合わせはご遠慮ください。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~


開催概要

日時 2014年03月14日(18:30 ~ 21:00)
質疑応答などにより時間が延長される場合があります。
開催場所なかのZEROホール
(東京都中野区中野2-9-7)
参加費無料
定員550人(先着順)
申し込み開始2014年02月01日 17時30分から
申し込み終了2014年03月13日 12時00分まで
主催

イベント概要

2014年03月14日

「スマナサーラ長老 初期仏教月例講演会 3月14日」

東京都中野区中野2-9-7

http://kokucheese.com/event/index/139514/

初期仏教公開講座   『善を行うチカラ ~忍耐・堪忍の本当の意味~』 講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老   「諸仏の教え」(七仏通誡偈)という有名なお経の一節に「忍耐・堪忍は最上の修行である」と...










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#jtba「一般的な人間関係に見える『私の立ち位置』」





協会のfbより紹介です。





#jtba「一般的な人間関係に見える『私の立ち位置』」

―仏教を知ることで、何を学べるのでしょう?とても難しことのように感じるのですが。
スマナサーラ長老(以下S):仏教は何も難しいことなんてありませんよ。「楽に生きましょう」ということを、論理的に説いているのが仏教なんです。そしてそのためにはまず怒らないことです。怒っていると苦しいでしょう。怒りは相手も自分も傷つけるのです。

―でも、意見が食い違うと、怒ってしまうこともありますよね。
S:人は一人一人違って当たり前です。世の中は一枚の大きな絵のようなものだと思ってみてください。全部同じ色だったら絵じゃないでしょう。隣の人と意見が違うと感じたら「この人は違う色で絵画を彩っているのだ」と思えば、怒ることなんかなくなりますよ。

―時にはとても理不尽なことを言われて怒ることもあります。
S:世の中には確かに理不尽なことを言う人もいます。でもそれに怒ったら負けですよ。怒っても何も私にプラスにならない。相手が怒っていても、いかに自分は怒らずに答えるかを考える。そうすると、相手のことは気にならず、自分一人で、えらい楽しくなっちゃうものです。

―子育てや後輩の指導などで、怒らなければならない場面では、どうしたらいいですか?
S:怒ることと教えることは違います。私が指導するときには、「ダメ」という言葉は使いません。たとえば子どもたちが横断歩道を信号も見ずに渡ろうとす る。そんなとき私は子どもたちに「信号は何色かな。見てごらん」と声をかけます。すると子どもたちは一人でも信号に気付ける子になります。後輩に対して も、仕事で失敗したときに「すみません」と謝られても困るでしょう。ただ「あなたの仕事ですから、ちゃんとやり直せばいい」と言うだけです。子どもも後輩 も、あなたのものではありません。きちんと一人で判断できるように育て、社会に返すことが、あなたの役目なのです。

―相手のために叱らなくてはいけないと思っていましたが、それは違うんですね。
S:そもそも、叱ることだけではなく、何をするにしても、「誰かのために」と考えるのはおかしいですね。社会のため、家族のため、恋人のため。それはすべ て、あたなが相手をコントロールしようとしているか、あなたがコントロールされて、相手の奴隷になっているかのどちらかです。

―家族や恋人のためというのも、コントロールなんでしょうか?
S:そうです。あなたの力で恋人や家族が幸せになると考えるのは、あなたがその人の人生をコントロールしようとしていることです。人は、夫や妻、親や子であってもコントロールされたくないのです。

―では、結婚については仏教ではどのように考えますか?
S:結婚というのは、男の人と女の人が一緒に暮らすというだけの話でしょう?本来、宗教が入り込む必要はありません。キリスト教では、教会の祭壇の前で神 に永遠の愛を誓いますが、仏教ではそんなことはしません。そもそも、すべてが無常なのですから、人の心も移ろうのです。仲良くできる間はすればいいし、そ うでなければ別れても仕方ないじゃないですか。

―じゃあ、心変わりは裏切りじゃないんでしょうか。
S:「信じていたのに裏切られた」なんていうのは、盲目的に信仰していたということでしょう?自分の心はどこにありますか。お釈迦様は「私を信じなさい」 なんて言わず、「自分で判断しなさい」とおっしゃる。ただ信仰するということとは違います。それは宗教や身近な人だけでなく、国や政治に対しても信仰する というのは間違いです。

―政治家がリーダーシップを発揮するべきと考えるのも間違いなんでしょうか?
S:政治家にとってみれば、自分たちを信じてくれる奴隷のほうがコントロールしやすくていいかもしれません。でも私たち奴隷ではない以上、自分たちで判断 するようにならなくてはいけません。国民が政治家に何をすべきか命令するのであって、政治家が命令するというのは、飼い犬が飼い主に命令するようなもの。 それなのに、政治家が何とかしてくれると思うから、怒りも起きる。人は自分で判断して動いていれば、ストレスは感じないものです。

―多くの人々の間で、それぞれにやるべきことは異なりますよね。そうすると、意見の衝突が起きないでしょうか。
S:「我」を通そうとすると、意見は通りません。でも客観的、論理的に考えた意見であれば通らないことはありません。「私は正しい」と我を張れば、必ず衝 突します。だから私個人としてではなく、世界、人類までも考えた広い視野で意見を述べればいいのです。「私はこれがしたい」と主張するのではなく「今、み んなにとってこれが必要だと思う」と話し合う。それだけで物事はすすみます。

―なるほど、仏教の教えはとてもシンプルで論理的なんですね。
S:その通りです。私はとても勝気な子どもだったので、ずっと自分が敵わないものを探して、いろいろな宗教や哲学を学びました。しかし他の教えには矛盾を 見つけましたが、仏教には未だに矛盾を見つけたことがありません。論理で勝てたことがない。もし、論理性がない仏教に出会ったら、それは間違っていると 思っていいですよ。

―仏教はもっと神秘的なお話があるのかと思っていました。
S:私もよく、「死後の世界はどうなっていますか?」なんて聞かれますが、そんな話は答える気になりません。だから、「最高の生き方をしたら、死後も最高 でしょう」と答えます。「あなたの死後はちょっとやばいですね」とか「あなたの前世が悪い」などと言う人がいたら、「証拠を見せてください」と言ようなっ てやればいいんです。

―仏教は難しいものではないんですね。きちんと学べば、怒ることなく楽に生きられるような気がします。
S:大切なのは人にコントロールされず、人をコントロールせず、余計なことに怒らない。そのことを心にとめて、自らの生き方を自らの判断で決めていくことです。仏教の教えには、この智恵がたくさん詰まっているのです。

●イラスト:酒主浄忍
▼参考テキスト
VOGUE JAPAN(2011年10月号、No.146)
vogue college「スリランカ仏教×人間関係の悩み全般」
http://bit.ly/1ezpoEF http://bit.ly/1bspGZv
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪













写真: #jtba「一般的な人間関係に見える『私の立ち位置』」<br><br>―仏教を知ることで、何を学べるのでしょう?とても難しことのように感じるのですが。<br>スマナサーラ長老(以下S):仏教は何も難しいことなんてありませんよ。「楽に生きましょう」ということを、論理的に説いているのが仏教なんです。そしてそのためにはまず怒らないことです。怒っていると苦しいでしょう。怒りは相手も自分も傷つけるのです。<br><br>―でも、意見が食い違うと、怒ってしまうこともありますよね。<br>S:人は一人一人違って当たり前です。世の中は一枚の大きな絵のようなものだと思ってみてください。全部同じ色だったら絵じゃないでしょう。隣の人と意見が違うと感じたら「この人は違う色で絵画を彩っているのだ」と思えば、怒ることなんかなくなりますよ。<br><br>―時にはとても理不尽なことを言われて怒ることもあります。<br>S:世の中には確かに理不尽なことを言う人もいます。でもそれに怒ったら負けですよ。怒っても何も私にプラスにならない。相手が怒っていても、いかに自分は怒らずに答えるかを考える。そうすると、相手のことは気にならず、自分一人で、えらい楽しくなっちゃうものです。<br><br>―子育てや後輩の指導などで、怒らなければならない場面では、どうしたらいいですか?<br>S:怒ることと教えることは違います。私が指導するときには、「ダメ」という言葉は使いません。たとえば子どもたちが横断歩道を信号も見ずに渡ろうとする。そんなとき私は子どもたちに「信号は何色かな。見てごらん」と声をかけます。すると子どもたちは一人でも信号に気付ける子になります。後輩に対しても、仕事で失敗したときに「すみません」と謝られても困るでしょう。ただ「あなたの仕事ですから、ちゃんとやり直せばいい」と言うだけです。子どもも後輩も、あなたのものではありません。きちんと一人で判断できるように育て、社会に返すことが、あなたの役目なのです。<br><br>―相手のために叱らなくてはいけないと思っていましたが、それは違うんですね。<br>S:そもそも、叱ることだけではなく、何をするにしても、「誰かのために」と考えるのはおかしいですね。社会のため、家族のため、恋人のため。それはすべて、あたなが相手をコントロールしようとしているか、あなたがコントロールされて、相手の奴隷になっているかのどちらかです。<br><br>―家族や恋人のためというのも、コントロールなんでしょうか?<br>S:そうです。あなたの力で恋人や家族が幸せになると考えるのは、あなたがその人の人生をコントロールしようとしていることです。人は、夫や妻、親や子であってもコントロールされたくないのです。<br><br>―では、結婚については仏教ではどのように考えますか?<br>S:結婚というのは、男の人と女の人が一緒に暮らすというだけの話でしょう?本来、宗教が入り込む必要はありません。キリスト教では、教会の祭壇の前で神に永遠の愛を誓いますが、仏教ではそんなことはしません。そもそも、すべてが無常なのですから、人の心も移ろうのです。仲良くできる間はすればいいし、そうでなければ別れても仕方ないじゃないですか。<br><br>―じゃあ、心変わりは裏切りじゃないんでしょうか。<br>S:「信じていたのに裏切られた」なんていうのは、盲目的に信仰していたということでしょう?自分の心はどこにありますか。お釈迦様は「私を信じなさい」なんて言わず、「自分で判断しなさい」とおっしゃる。ただ信仰するということとは違います。それは宗教や身近な人だけでなく、国や政治に対しても信仰するというのは間違いです。<br><br>―政治家がリーダーシップを発揮するべきと考えるのも間違いなんでしょうか?<br>S:政治家にとってみれば、自分たちを信じてくれる奴隷のほうがコントロールしやすくていいかもしれません。でも私たち奴隷ではない以上、自分たちで判断するようにならなくてはいけません。国民が政治家に何をすべきか命令するのであって、政治家が命令するというのは、飼い犬が飼い主に命令するようなもの。それなのに、政治家が何とかしてくれると思うから、怒りも起きる。人は自分で判断して動いていれば、ストレスは感じないものです。<br><br>―多くの人々の間で、それぞれにやるべきことは異なりますよね。そうすると、意見の衝突が起きないでしょうか。<br>S:「我」を通そうとすると、意見は通りません。でも客観的、論理的に考えた意見であれば通らないことはありません。「私は正しい」と我を張れば、必ず衝突します。だから私個人としてではなく、世界、人類までも考えた広い視野で意見を述べればいいのです。「私はこれがしたい」と主張するのではなく「今、みんなにとってこれが必要だと思う」と話し合う。それだけで物事はすすみます。<br><br>―なるほど、仏教の教えはとてもシンプルで論理的なんですね。<br>S:その通りです。私はとても勝気な子どもだったので、ずっと自分が敵わないものを探して、いろいろな宗教や哲学を学びました。しかし他の教えには矛盾を見つけましたが、仏教には未だに矛盾を見つけたことがありません。論理で勝てたことがない。もし、論理性がない仏教に出会ったら、それは間違っていると思っていいですよ。<br><br>―仏教はもっと神秘的なお話があるのかと思っていました。<br>S:私もよく、「死後の世界はどうなっていますか?」なんて聞かれますが、そんな話は答える気になりません。だから、「最高の生き方をしたら、死後も最高でしょう」と答えます。「あなたの死後はちょっとやばいですね」とか「あなたの前世が悪い」などと言う人がいたら、「証拠を見せてください」と言ようなってやればいいんです。<br><br>―仏教は難しいものではないんですね。きちんと学べば、怒ることなく楽に生きられるような気がします。<br>S:大切なのは人にコントロールされず、人をコントロールせず、余計なことに怒らない。そのことを心にとめて、自らの生き方を自らの判断で決めていくことです。仏教の教えには、この智恵がたくさん詰まっているのです。<br><br>●イラスト:酒主浄忍<br>▼参考テキスト<br>VOGUE JAPAN(2011年10月号、No.146)<br>vogue college「スリランカ仏教×人間関係の悩み全般」<br>http://bit.ly/1ezpoEF http://bit.ly/1bspGZv<br>♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪









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アスギリヤ大精舎法王猊下ご一行 大本山永平寺を表敬訪問




協会の記事です。
2006年  こんなの見つけました。





アスギリヤ大精舎法王猊下ご一行 大本山永平寺を表敬訪問

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20060420_1_2
四月二〇日、アスギリヤ大精舎法王猊下ご一行が福井県の曹洞宗大本山永平寺を表敬訪問されました。永平寺では全山挙げて歓迎をしてくださいました。南北仏教の絆を深めた記念すべき一日の様子を写真でご紹介いたします。(撮影:佐藤哲朗)
(記念撮影:永平寺光明蔵にて。法王猊下ご一行、永平寺重役方、日本大サンガ、スリランカ大使御夫妻、日本テーラワーダ仏教協会随行)

20060420_0_2
永平寺山門にて。山内修行僧の方々が総出でお出迎え。

20060420_3_1
法王猊下は修行僧の方の介添えを受けて車椅子で移動。

20060420_4_1
日本を代表する禅の古刹についての説明に熱心に耳を傾ける。

20060420_9
永平寺法堂より、勇壮な七堂伽藍を望む。

20060420_7_1
不老閣相見の間にて。森嶺雄主監に記念品を贈呈。

20060420_6_1
昼食は心尽くしの精進料理のお布施。

20060420_2_1
永平寺仏殿にて。祝福の読経が堂内に響き渡る。

20060420_5
移動中に立ち寄った東尋坊付近にて。ブッダラッキタ法王猊下(中央)、ダンマローカ大長老(向って左)、アーナンダ大長老(向って右)。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

20060420_1_2.jpg








ひとり言 | 06:53:29 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba【新刊 機関誌】2014年 パティパダー2月号 ご紹介





協会のfbより紹介です。





#jtba【新刊 機関誌】2014年 パティパダー2月号 ご紹介

◆連載目次(no.228,一冊600円)
・巻頭法話[スマナサーラ長老/編集 佐藤哲朗]
「生きているのに生きることを知らない」~生きるとは感覚依存症です~ Addiction to six senses is called life

・根本仏教講義[スマナサーラ長老/編集 出村佳子]
 喜(Muditā)から始まる幸福論【5】

・あなたとの対話[スマナサーラ長老/編集 佐藤哲朗]
【196】不邪淫戒の解釈について/カルナー(悲)の冥想について

・翻訳[スリダンマナンダ長老/翻訳 出村佳子]
 Mercy Killing「安楽死」について【1】

・パーリ経典を読む[スマナサーラ長老/編集 佐藤哲朗]
 念処経講議ブッダが説かれた「気づき」の実践方法(32)

・年末特別法話[スマナサーラ長老/編集 佐藤哲朗]
「すべては仏道なり」~日常生活の中からブッダの説かれた真理を発見しましょう~

●表紙:佐藤広基
▼巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」本文抜粋
 「生きる」ということは、人間にとって最大のテーマです。しかし、どのように生きるべきか、どの生き方が正しいのか、などの問題に、それほど真剣に取り 組まないのです。結局は皆、なんとなく生きているのです。自分の希望通りに生きることができれば、幸福に生きている、明るく生きている、楽しく生きてい る、などの言葉を使うのです。人生が希望通りに行かない場合は、苦労して生きている、必死で頑張って生きている、何があっても苦労を乗り越えて生きるべ き、などの言葉を使うのです。

 生きるとは不思議な働きです。自然に生きることはできないのです。自然に起こるのは、生まれることと死ぬことです。生きるとは、生と死のあいだの働きで す。それは努力しないと成り立たないのです。生命は自然に生まれて自然に死ぬが、意図的に努力して生きていかないといけないのです。それなら、「生きるこ とは不自然な行為である」と言っても構わないのです。

 お釈迦様は、感情に支配・管理されて、感情のままに、感情の奴隷で生きることに対して、「正しい生き方」というべき新たな方法を見つけたのです。奴隷と して生きるのではなく、自由に生きられる方法・生きることを乗り越える方法を見つけたのです。その方法に、「仏道」と言うのです。苦しみを乗り越えるため に、仏道を実践しなくてはいけないのです。仏道を実践することが人間にとって唯一の幸福の道であると理解するために、仏道を歩むべきだという意欲を作るた めに、生きることのカラクリを説明するのです。

★入会ご案内 http://bit.ly/17GSDnr
 日本テーラワーダ仏教協会に入会されますと、スマナサーラ長老をはじめとした長老方のご法話やパーリ経典の和訳、各種行事情報などが掲載された月刊機関誌『パティパダー』や施本等が送付されます。新規入会の方には、パーリ日常経典などの入会セットを進呈いたします。
 
 しかし、何よりの特典は、仏法を学び・実践する集いに参加することで得られるこころの喜びです。自らのこころを育て、お釈迦様の教えを日本で花開かせるための活動に、あなたも参加してみませんか?ブッダの教えのサポーターとして共に歩みましょう。
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪




















写真: #jtba【新刊 機関誌】2014年 パティパダー2月号 ご紹介<br><br>◆連載目次(no.228,一冊600円)<br>・巻頭法話[スマナサーラ長老/編集 佐藤哲朗]<br>「生きているのに生きることを知らない」~生きるとは感覚依存症です~ Addiction to six senses is called life<br><br>・根本仏教講義[スマナサーラ長老/編集 出村佳子]<br> 喜(Muditā)から始まる幸福論【5】<br><br>・あなたとの対話[スマナサーラ長老/編集 佐藤哲朗]<br>【196】不邪淫戒の解釈について/カルナー(悲)の冥想について<br><br>・翻訳[スリダンマナンダ長老/翻訳 出村佳子]<br> Mercy Killing「安楽死」について【1】<br><br>・パーリ経典を読む[スマナサーラ長老/編集 佐藤哲朗]<br> 念処経講議ブッダが説かれた「気づき」の実践方法(32)<br><br>・年末特別法話[スマナサーラ長老/編集 佐藤哲朗]<br>「すべては仏道なり」~日常生活の中からブッダの説かれた真理を発見しましょう~<br><br>●表紙:佐藤広基<br>▼巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」本文抜粋<br> 「生きる」ということは、人間にとって最大のテーマです。しかし、どのように生きるべきか、どの生き方が正しいのか、などの問題に、それほど真剣に取り組まないのです。結局は皆、なんとなく生きているのです。自分の希望通りに生きることができれば、幸福に生きている、明るく生きている、楽しく生きている、などの言葉を使うのです。人生が希望通りに行かない場合は、苦労して生きている、必死で頑張って生きている、何があっても苦労を乗り越えて生きるべき、などの言葉を使うのです。<br><br> 生きるとは不思議な働きです。自然に生きることはできないのです。自然に起こるのは、生まれることと死ぬことです。生きるとは、生と死のあいだの働きです。それは努力しないと成り立たないのです。生命は自然に生まれて自然に死ぬが、意図的に努力して生きていかないといけないのです。それなら、「生きることは不自然な行為である」と言っても構わないのです。<br><br> お釈迦様は、感情に支配・管理されて、感情のままに、感情の奴隷で生きることに対して、「正しい生き方」というべき新たな方法を見つけたのです。奴隷として生きるのではなく、自由に生きられる方法・生きることを乗り越える方法を見つけたのです。その方法に、「仏道」と言うのです。苦しみを乗り越えるために、仏道を実践しなくてはいけないのです。仏道を実践することが人間にとって唯一の幸福の道であると理解するために、仏道を歩むべきだという意欲を作るために、生きることのカラクリを説明するのです。<br><br>★入会ご案内 http://bit.ly/17GSDnr<br> 日本テーラワーダ仏教協会に入会されますと、スマナサーラ長老をはじめとした長老方のご法話やパーリ経典の和訳、各種行事情報などが掲載された月刊機関誌『パティパダー』や施本等が送付されます。新規入会の方には、パーリ日常経典などの入会セットを進呈いたします。<br> <br> しかし、何よりの特典は、仏法を学び・実践する集いに参加することで得られるこころの喜びです。自らのこころを育て、お釈迦様の教えを日本で花開かせるための活動に、あなたも参加してみませんか?ブッダの教えのサポーターとして共に歩みましょう。<br>♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪







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かえるカレンダーを押すと その日の言葉が出ます。●パーリ語





協会の記事ではありません。

まんどぅーかの

パーリ語ページ


  さんの 紹介です

  かえるカレンダーを押すと その日の言葉が出ます。

   ●サンスクリット

   ●ヒンディー語/ウルドゥー語

   ●パーリ語






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ひとり言 | 11:26:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「感覚に夢中で、事実が見えない」




協会のfbより紹介です。






#jtba「感覚に夢中で、事実が見えない」

 あなたは、どれくらいお金があれば充分満足しますか?どれくらい健康で体力があれば満足しますか?どれくらい美しければ充分だといえるでしょうか?これ らは、誰にもはっきりとは答えられない質問です。そう言われると、答えてみようという気持ちになるでしょう。しかし無理だと思います。

 ある人は、5000万円くらいあれば自分の余生を過ごすのに充分だと言うかもしれません。しかし、もし予測できなかったような事が起きたら?自分の子供が突然問題でも起こして、大金が必要になったりしたら?…と相手に質問を投げかければ、5000万円という金額に疑問を抱くようになるでしょう。明日どうなるのかというのは、未知の世界です。明日の不安が心をよぎると、「どれくらいあると満足ですか?」という問いに答えられなくなります。

 また、どれくらい音楽を聴けば満足できるか、どれくらい美味しいものを食べれば満足できるかと聞いても、答えは分からないのです。これは、明日のことを 心配しているからではありません。好きな音楽でも、ずっと聴いていると飽きてしまって、違うものが聴きたくなるのです。ご馳走の場合でも同じです。如何な る好物であろうとも、食べ続けると飽きてくる。違うものを食べたくなるのです。飽きると言っても、二度と要らないと言えるような飽き方ではない。一旦飽き た音楽も、時間が経てばまた聴きたくなる。飽きたご馳走も、また食べたくなる。そういう訳で、どれくらい音楽を聴けば満足できるかと問われても、答えは存 在しないのです。このような状態を、「感覚の一時的な麻痺」とでも呼んでおきましょう。

 将来に対する不安は、簡単には解決できません。一切の物事は無常なので、明日は確実にこのようになると断定できないからです。だからといって、物事はラ ンダムに変わるわけではない。変化する過程には法則があります。それを見いだせば、将来に対する不安が消えます。しかしこの法則の発見で、万々歳の気持ち になれるわけではありません。人は誰でも、将来を美しく明るく夢見がちです。しかし、それは事実ではなく、単なる主観的な感情から生まれる妄想なのです。

 自分に対する、また他人に対する法則とは何でしょうか。人は瞬間 瞬間、年を経て衰えてゆく。体力、能力、美貌などは減少し消えてゆく。鋭敏な感覚が、ジワジワと鈍磨してゆく。そうなると、いくら美しいものに囲まれてい ても、退屈で堪らなくなる。そして最後にはすべてを捨てて、否応なしに死を迎えなくてはならない。明日とか将来とか呼ばれるものは、このような法則で変化 してゆきます。事実は、我々が当然と期待して夢見る将来とは、まるで反対です。こんな法則を発見したって、失望して落ち込むだけでしょう。

 だからといって、事実に背くことは大変危険です。妄想の中で生きることは、自分と他人の不幸の大本です。妄想に陥らず、理性で物事を観るならば、ありの ままの事実をありのままに(自分の希望のままではなく)観るならば、落ち込むことはあり得ません。かえって落ち着くのです。

 では感覚が麻痺する問題はどうすれば良いでしょうか。これも大変大きな問題です。冷蔵庫を開けてみれば、一、二年前の食べ残しが見つからないとも限りま せん。食べている時は満足してストップするが、残したものを「また明日」と思って冷蔵庫に放り込むのです。結局、冷蔵庫は何も入らないほど一杯ですが、食 べられるものは何もない状態になるのです。十年ほど住んでいたアパートを引っ越しすることになったら、大型トラックが必要になるかもしれません。そのア パートに入居したときは、鞄一つだったのに。あれも必要これも必要、あれも欲しいこれも欲しいと思って、自分が住む環境をどんどんゴミの山にしてしまう。 「いま要らなくても、いつかは必要になるかも」という考え方から抜けられないのです。

 刺激に対して感覚が一時的に麻痺する現象は、このような問題を引き起こすのです。人はいくら食べても、いくら遊んでも満足しない。もっと欲しいと思う。 昔も今も、俗世間の喜び、快楽などは、財産がなければ得られません。それで皆、無我夢中に財産をため込むことに励むのです。いくらでもあるに越したことは ないと思い込んで、ゴールがないマラソンを走っているのです。財産を貯め込んだ人は、それを使う暇をまったく持てずに、すべてを残して死ぬ。財産を得るこ とで人生を思い切り楽しむ計画を持っていたはずなのに、何一つ実現できず、苦しむだけで人生を終えてしまう。残した財産のゴミには、相続人たちがハイエナ のように群がって、互いに憎しみあって喧嘩して、余計な苦しみを味わうのです。財産を貯め込むことで楽しみを得る人は、一体どこにいるのでしょうか。他人 の財産を相続する人は、幸福・快楽を相続するのではなく、前の持ち主の苦しみを相続するだけなのです。

 いくらあっても足りないという感情によって、世界は略奪行為の罠にはめられています。皆が幸せになるのではなく、貧富の差が激しく二極化している。「世 界平和」というのは、一度も実現したことがない神話です。その一方で戦争は常識なのです。たくさん殺戮を犯した人が英雄として崇められ、平和を語る人は臆 病者として侮られる。大自然も取り返しのつかないところまで破壊してしまっているのに、「もっと欲しい気持ち」を捨てない。人は自分で適度に楽しめるくら いの財産を得て、満足すべきなのです。それしか道はありません。


●イラスト:酒主浄忍
▼参考テキスト
明日を楽しめる保証はない
http://www.j-theravada.net/howa/howa102.html
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪



















写真: #jtba「感覚に夢中で、事実が見えない」<br /><br /> あなたは、どれくらいお金があれば充分満足しますか?どれくらい健康で体力があれば満足しますか?どれくらい美しければ充分だといえるでしょうか?これらは、誰にもはっきりとは答えられない質問です。そう言われると、答えてみようという気持ちになるでしょう。しかし無理だと思います。<br /><br /> ある人は、5000万円くらいあれば自分の余生を過ごすのに充分だと言うかもしれません。しかし、もし予測できなかったような事が起きたら?自分の子供が突然問題でも起こして、大金が必要になったりしたら?…と相手に質問を投げかければ、5000万円という金額に疑問を抱くようになるでしょう。明日どうなるのかというのは、未知の世界です。明日の不安が心をよぎると、「どれくらいあると満足ですか?」という問いに答えられなくなります。<br /><br /> また、どれくらい音楽を聴けば満足できるか、どれくらい美味しいものを食べれば満足できるかと聞いても、答えは分からないのです。これは、明日のことを心配しているからではありません。好きな音楽でも、ずっと聴いていると飽きてしまって、違うものが聴きたくなるのです。ご馳走の場合でも同じです。如何なる好物であろうとも、食べ続けると飽きてくる。違うものを食べたくなるのです。飽きると言っても、二度と要らないと言えるような飽き方ではない。一旦飽きた音楽も、時間が経てばまた聴きたくなる。飽きたご馳走も、また食べたくなる。そういう訳で、どれくらい音楽を聴けば満足できるかと問われても、答えは存在しないのです。このような状態を、「感覚の一時的な麻痺」とでも呼んでおきましょう。<br /><br /> 将来に対する不安は、簡単には解決できません。一切の物事は無常なので、明日は確実にこのようになると断定できないからです。だからといって、物事はランダムに変わるわけではない。変化する過程には法則があります。それを見いだせば、将来に対する不安が消えます。しかしこの法則の発見で、万々歳の気持ちになれるわけではありません。人は誰でも、将来を美しく明るく夢見がちです。しかし、それは事実ではなく、単なる主観的な感情から生まれる妄想なのです。<br /><br /> 自分に対する、また他人に対する法則とは何でしょうか。人は瞬間 瞬間、年を経て衰えてゆく。体力、能力、美貌などは減少し消えてゆく。鋭敏な感覚が、ジワジワと鈍磨してゆく。そうなると、いくら美しいものに囲まれていても、退屈で堪らなくなる。そして最後にはすべてを捨てて、否応なしに死を迎えなくてはならない。明日とか将来とか呼ばれるものは、このような法則で変化してゆきます。事実は、我々が当然と期待して夢見る将来とは、まるで反対です。こんな法則を発見したって、失望して落ち込むだけでしょう。<br /><br /> だからといって、事実に背くことは大変危険です。妄想の中で生きることは、自分と他人の不幸の大本です。妄想に陥らず、理性で物事を観るならば、ありのままの事実をありのままに(自分の希望のままではなく)観るならば、落ち込むことはあり得ません。かえって落ち着くのです。<br /><br /> では感覚が麻痺する問題はどうすれば良いでしょうか。これも大変大きな問題です。冷蔵庫を開けてみれば、一、二年前の食べ残しが見つからないとも限りません。食べている時は満足してストップするが、残したものを「また明日」と思って冷蔵庫に放り込むのです。結局、冷蔵庫は何も入らないほど一杯ですが、食べられるものは何もない状態になるのです。十年ほど住んでいたアパートを引っ越しすることになったら、大型トラックが必要になるかもしれません。そのアパートに入居したときは、鞄一つだったのに。あれも必要これも必要、あれも欲しいこれも欲しいと思って、自分が住む環境をどんどんゴミの山にしてしまう。「いま要らなくても、いつかは必要になるかも」という考え方から抜けられないのです。<br /><br /> 刺激に対して感覚が一時的に麻痺する現象は、このような問題を引き起こすのです。人はいくら食べても、いくら遊んでも満足しない。もっと欲しいと思う。昔も今も、俗世間の喜び、快楽などは、財産がなければ得られません。それで皆、無我夢中に財産をため込むことに励むのです。いくらでもあるに越したことはないと思い込んで、ゴールがないマラソンを走っているのです。財産を貯め込んだ人は、それを使う暇をまったく持てずに、すべてを残して死ぬ。財産を得ることで人生を思い切り楽しむ計画を持っていたはずなのに、何一つ実現できず、苦しむだけで人生を終えてしまう。残した財産のゴミには、相続人たちがハイエナのように群がって、互いに憎しみあって喧嘩して、余計な苦しみを味わうのです。財産を貯め込むことで楽しみを得る人は、一体どこにいるのでしょうか。他人の財産を相続する人は、幸福・快楽を相続するのではなく、前の持ち主の苦しみを相続するだけなのです。<br /><br /> いくらあっても足りないという感情によって、世界は略奪行為の罠にはめられています。皆が幸せになるのではなく、貧富の差が激しく二極化している。「世界平和」というのは、一度も実現したことがない神話です。その一方で戦争は常識なのです。たくさん殺戮を犯した人が英雄として崇められ、平和を語る人は臆病者として侮られる。大自然も取り返しのつかないところまで破壊してしまっているのに、「もっと欲しい気持ち」を捨てない。人は自分で適度に楽しめるくらいの財産を得て、満足すべきなのです。それしか道はありません。<br /><br />●イラスト:酒主浄忍<br />▼参考テキスト<br />明日を楽しめる保証はない<br />http://www.j-theravada.net/howa/howa102.html<br />♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪














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