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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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No.534  もう一歩を踏み出す力   






協会の記事ではありません。

協会のリンク先

テーラワーダ仏教普及委員会  の ブログの紹介です






 もう一歩を踏み出す力
                  2013/10/01  No.534

                  2013/10/06  No.535

                  2013/10/11  No.536

                  2013/10/18  No.537

                  2013/10/23  No.538 








普及委員会 | 08:41:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
ブッダが教える損する人生、得する人生: 幸せに、「一人勝ち」なんてない (知的生きかた文庫)




お知らせです。





商品の詳細

ブッダが教える損する人生、得する人生: 幸せに、

「一人勝ち」なんてない (知的生きかた文庫)


アルボムッレ・スマナサーラ (2014/3/24)

  • 近日発売 予約可。 この商品は2014/3/24に発売予定です。









お知らせ | 09:31:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
スマナサーラ長老と行くインドシナ半島の仏教を巡る旅




協会の記事ではありません
サークル仲間のfbの紹介です。





葛原 良和さんが佐藤 哲朗さんの写真をシェアしました。

「スマナサーラ長老と行くインドシナ半島の仏教を巡る旅」の様子を佐藤哲朗さんの写真を通して知ることが出来る。
参加者の・・夫妻の後姿を見つけた。元気なようで良かった。

皆さんが座っている四角い座布団が、伊賀市の臨済宗の坊様から譲っていただいた座禅用座布団と同じ色、同じようなサイズなのでビックリ。
皆さん元気で巡ってきてください。
スリランカと縁の深いプノンペンのワット・ランカを参詣。ご住職のカマケロ師を表敬訪問して、みなで冥想修行しました。















写真: スリランカと縁の深いプノンペンのワット・ランカを参詣。ご住職のカマケロ師を表敬訪問して、みなで冥想修行しました。








一日一誤日記 | 00:07:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
JTBA更新情報(総合)





JTBA更新情報(総合)
http://pipes.yahoo.com/pipes/pipe.run?_id=rNLn71Cw3RG28SpUQBJ3AQ&_render=rss






JTBA更新情報(総合)
Pipes Output
【ご案内】4/30(水)~5/5(月・祝)『宿泊仏教実践会』申込受付 開始
2014年2月21日 15:59
みなさま  4月末から行われます宿泊仏教実践会の申込みが始まりましたのでご案内させていただきます。ど...
3/23(日)スマナサーラ長老 山口県くだまつ講演会『揺らがない幸福』
2014年2月6日 13:51
★『揺らがない幸福』   ~現代を幸せに生き抜く智慧が、ここに~  日時:2014年3月23日(日)...
'14 1/13 関西定例瞑想会@マーヤーデーヴィー精舎
2014年1月25日 16:42
1/13 マーヤーデーヴィー精舎で関西定例瞑想会が行われました。プログラムは以下の通り。9:30--礼拝-三帰依-読経、慈悲の瞑想スマナサーラ長老より法話(音声あり)11:30--お釈迦様へお食事等のお供え11:50--お昼休み(12:40 -ミーティング)13:30--午後の部 読経、慈悲の瞑想 初心者は、スマナサーラ長老より瞑想初心者指導(戒壇堂) 経験者は、各自で瞑想(1階キッチン*ダイニングホール、2Fホール、廊下等)18:00--全員瞑想を終了し、2Fホールへ集合 慈悲の瞑想、読経、回向18:20--瞑想会終了
【Youtube動画】1月13日(月・祝)「新春 関西月例冥想会」法話(1/18,更新)
2014年1月18日 11:30

http://pipes.yahoo.com/pipes/pipe.run?_id=rNLn71Cw3RG28SpUQBJ3AQ&_render=rss








お知らせ | 00:41:36 | トラックバック(0) | コメント(0)






協会の記事ではありません。
木下全雄  さんの ブログの紹介です





声優さんになって子育てを楽しもう(笑)


お遍路への招待子供に注意する時に、厳しい声で言っていました。
長女に
「優しい声で言って欲しい。三回言ってダメだったら、厳しい声になっていいから。」
と言われて、三回は優しい声優さんになる事にしました。

するとどうでしょう。

すごく言う事は聞くし、こちらは腹が立たないし、最高であることが分かりました。

声優さんになりきると、かなり冷静に注意出来るのです。

子育てに疲れた時、皆さんも一度声優さんになって見て下さい(笑)










未分類 | 00:31:29 | トラックバック(0) | コメント(0)
お遍路への招待常楽我浄(じょう・らく・が・じょう)





協会の記事ではありません。
木下全雄  さんの ブログの紹介です





備忘録2

お遍路への招待常楽我浄(じょう・らく・が・じょう)
常(つね)にあると思い、常であることを願う。
楽があると思い、楽を追い求める。
我(われ)があると思い、我を守る為に生きる。
浄(清らか)であると思い込み、浄が常であることを願う。

私達はその様に信じて疑いません。

しかし、仏教からのアドバイスでは、それらが全くの逆さまです。

無常ですよ!
世の中も自分自身も、観察すれば「無常」である事がわかります。思い通りに変化しているわけではありません。

苦ですよ!
感覚は観察すれば「苦」である事がわかります。逃げてもやっぱり、そこも「苦」です。ですから、執着せずに「放っておく」事が正しい「苦」の乗り越え方です。

無我ですよ!
私の体も心も常に変化しているのですから、「変わらない私」はあるはずが無いのです。

不浄ですよ!
私達の身体は「九穴の糞袋(クケツのクソブクロ)」と呼ばれます。目2・鼻2・耳2・口・尿道・肛門の九つの穴からは、常に不浄物が出ます。
この様に理解して、この身体に執着せずに、人々の安楽と幸せの為にこの身体を活かして頂きたい、というのが、仏教からの提案です。


私達の考え方は、やっぱり逆さまの様ですね(笑)








Be Happy! | 11:33:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「こころのセキュリティーは大丈夫ですか?その2」





協会のfbより紹介です。





#jtba「こころのセキュリティーは大丈夫ですか?その2」

●智慧の扉をひらく鍵「死随念」
「人は死ぬ。自分も死ぬ。他の生命だってみんな死ぬ。そんなことは当たり前ではないか、誰でも知っていることではないか、それがなぜ冥想になるのです か?」と文句を言う人もいるでしょう。問題は、 そういうことを真剣に考えているのかどうかという点です。言葉の上ではわかる、理屈としてそれはわかると思います。でも、自分や、自分の家族などの死に直 面すると、この当たり前だろうといっていた言葉はきれいに忘れてしまって、「ああ、不幸だ」「神様、なんとか助けてください」などと取り乱したりするのです。

 人は、なぜ死について語りたがらないのでしょう?人が死ぬと、なぜ不幸だと思うのでしょう?どうして、死を怯えるのですか? なぜ、夫や妻、親しい人の死を認めようとしないのでしょう?人間は心のどこかで、「死ということは、あってはならない」と思い込んでいるのです。死は不自 然な出来事であると考えているのです。嫌いな人や、イヤな人の死は喜んだり歓迎したりしますが、親しい人の死は悲しい辛い出来事だと思っているのです。

「人はみんな死ぬ、当たり前ではないか」と嘯いている人たちは、実はこういう、自分に関係のない人が死んだときにそんなふうに言っているのです。そういう 人は、一見世の中のことをわかっている智慧のある人のように見えますが、それはとんでもない嘘で、むしろ智慧がない人なのです。関係のない人に起きた不幸 は、いつかは自分の身の回りにも起こることですから、そういうことを見越さないでわかったようなことを言うのは智慧のない証拠です。しかも、そういう人に 限って自分の身内や自分自身が死に直面するときに怯えたり、慌てふためいてオロオロしたりするのです。

他人の死に対して「人はだれでも死ぬ」と智慧のありそうな態度をとるのは、逆に言えば「自分にはそういう不幸は起こるはずがない」というまったく非論理的で、無知な考えに支配されているのです。これは、傲慢の見本のようなものです。

●「死随念」冥想法の不思議
「人はだれでも死ぬ」と知ったようなことを言う人のことを無知であると非難しましたが、実は、人間はだいたいみんな同じように考えているのです。私たちの 人生、生活そのものは、「自分は死ぬはずがない」という前提のもとに成り立っているのです。一所懸命に勉強するのも、好きな人と結婚するのも、大して面白 くもない仕事に精を出して頑張るのも、みんな「私は死にません」という前提があるからです。人を蹴落としても自分の財産を殖やすことに腐心したり、ライバ ルを中傷したりして自分の地位にしがみつくのも、みんな「自分は死なない」という思いがあるからです。

 ところが、こういう思いを実現するだけでも私たちはものすごいエネルギーと能力を使わなくてはなりません。そのエネルギーの消費は、自分の幸福の計画実 践に使うときの量の何十倍も、何百倍もかかるのです。危険を避けるため、安全を確保するため、競争相手を抑えるため、敵を倒すため、死を避けるためにどれ だけのエネルギーを使わなくてはならなくなるのか。

「自分は死なない」という前提は、人個人だけのことではありません。会社同士、政治の世界、スポーツの世界、民族同士がみんなこの前提のもとに成り立っているのです。自国の利益を守るためといって国同士が戦争までするのも同じ理屈です。

 そんなに苦労して頑張っているのだから、さぞかし皆さんは幸福になっているのだろうと思って、「皆さん、幸福ですか?」と訊いてみると、それがあにはか らんや、「なんとか生きていることは生きているんですが」などと、なんとも頼りない返事が返ってくるのです。なぜ、そういう答えしか返ってこないのでしょ う。

 それは、「生命はみんな死ぬのに自分だけは死なないと頑張って死を認めない」「不死になる夢ばかり追って、不死の秘薬と言われると大金を払っても手に入 れようとする」「延命をはかるなら どんなことでも、犯罪でも人を殺してでも自分の生命を守ろうとする」「自分の命が愛しく、そのためなら相手がどうなろうとかまわない」といったふうに、自 然に逆らって生きようとするために無駄な労力、エネルギーを使わなくてはならなくなるのです。これが、人間社会の常識となっているのです。

仏教から見れば、なんとも非論理的で、非常識で、幸福をもたらすためには逆になる発想であり、すべての不幸、苦しみを生む大元であると言うのです。

●「死の観察」で心は180度変わる
 仏陀はいつでも「死」を観察しなさいと説かれています。事実から目を逸らすことはいけないと言われるのです。「自分にとってこの自分ほど愛しいものはな い、自分以上に可愛いものはこの世にはない」という概念はだれにもありますし、仏説にもなっています。その愛しい、可愛い自分がこの世からなくなる、死ぬ というのは、なんとしても避けたいことでしょう。認めたくないことでしょう。それは、わかります。

 でも、そこで思考をストップさせるのはいけません。その段階は、人間の欲の発想であり事実に則した見方ではないからです。その先にある事実を見なければ いけません。それは、「命あるものは一つの例外もなく死ぬ」ということです。その事実から目を逸らし「自分は死なない」と考えている人間は大変な愚かもの であり、またその発想で人生を生きている人は、最強の無知なる存在であると言わなければなりません。無知な人ほどいろいろと罪を犯します。無知な人がさま ざまな人々に迷惑をかけ、他人を不幸に陥れます。その結果、さらに自分を不幸にし、人生で失敗を繰り返してしまうのです。

ところで、「自分も他人もみんな結局死んでしまうのだ」と観察することは、人生を暗くするでしょうか。どうせ死ぬのだからという見方は、厭世的になり無気力な思考を生むことになるのでしょうか。それは、まったく違うのです。

人間はいとも簡単に死んでしまうということを理解したとき、その人はこの世を生きていくことはとても大変なことであり、一瞬一瞬を大切に生きていかなけれ ばならないということを納得するのです。自分も死に、他人も同じように死ぬということが、理屈でなく実感として理解できると、他人に迷惑をかけることや、 むやみやたらに暴力をふるったり、残酷な行為や残忍な思考を巡らしたり、他の生命を脅かすようなことをしなくなります。そういうことまでして、自分だけが 生き延びていくということに興味がなくなっていくのです。

 その代わり、みんなに優しくなってきます。名誉や財産、権力、容貌などに執着しなくなり、いざ死ぬときも落ちついて平安のなかで死を迎えることができる のです。物質的な向上を目指すのではなく、精神的な向上を生きる目的にするようになって、その生き方も明るく、気楽になっていきます。たとえ幸福になって も舞い上がることもなく、また不幸になっても落ち込むこともありません。いつも平安な心で、豊かな智慧が身につき、他人の役に立つ人間として生きていくの です。

▼参考テキスト
【施本】こころのセキュリティー(発行2002年)
http://www.j-theravada.net/dhamma/kokoro-security.pdf
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪












写真: #jtba「こころのセキュリティーは大丈夫ですか?その2」<br /><br />●智慧の扉をひらく鍵「死随念」<br /> 「人は死ぬ。自分も死ぬ。他の生命だってみんな死ぬ。そんなことは当たり前ではないか、誰でも知っていることではないか、それがなぜ冥想になるのですか?」と文句を言う人もいるでしょう。問題は、 そういうことを真剣に考えているのかどうかという点です。言葉の上ではわかる、理屈としてそれはわかると思います。でも、自分や、自分の家族などの死に直面すると、この当たり前だろうといっていた言葉はきれいに忘れてしまって、「ああ、不幸だ」「神様、なんとか助けてください」などと取り乱したりするのです。 <br /> <br /> 人は、なぜ死について語りたがらないのでしょう?人が死ぬと、なぜ不幸だと思うのでしょう?どうして、死を怯えるのですか? なぜ、夫や妻、親しい人の死を認めようとしないのでしょう?人間は心のどこかで、「死ということは、あってはならない」と思い込んでいるのです。死は不自然な出来事であると考えているのです。嫌いな人や、イヤな人の死は喜んだり歓迎したりしますが、親しい人の死は悲しい辛い出来事だと思っているのです。<br /><br /> 「人はみんな死ぬ、当たり前ではないか」と嘯いている人たちは、実はこういう、自分に関係のない人が死んだときにそんなふうに言っているのです。そういう人は、一見世の中のことをわかっている智慧のある人のように見えますが、それはとんでもない嘘で、むしろ智慧がない人なのです。関係のない人に起きた不幸は、いつかは自分の身の回りにも起こることですから、そういうことを見越さないでわかったようなことを言うのは智慧のない証拠です。しかも、そういう人に限って自分の身内や自分自身が死に直面するときに怯えたり、慌てふためいてオロオロしたりするのです。 <br /><br /> 他人の死に対して「人はだれでも死ぬ」と智慧のありそうな態度をとるのは、逆に言えば「自分にはそういう不幸は起こるはずがない」というまったく非論理的で、無知な考えに支配されているのです。これは、傲慢の見本のようなものです。<br /><br />●「死随念」冥想法の不思議<br />「人はだれでも死ぬ」と知ったようなことを言う人のことを無知であると非難しましたが、実は、人間はだいたいみんな同じように考えているのです。私たちの人生、生活そのものは、「自分は死ぬはずがない」という前提のもとに成り立っているのです。一所懸命に勉強するのも、好きな人と結婚するのも、大して面白くもない仕事に精を出して頑張るのも、みんな「私は死にません」という前提があるからです。人を蹴落としても自分の財産を殖やすことに腐心したり、ライバルを中傷したりして自分の地位にしがみつくのも、みんな「自分は死なない」という思いがあるからです。<br /> <br /> ところが、こういう思いを実現するだけでも私たちはものすごいエネルギーと能力を使わなくてはなりません。そのエネルギーの消費は、自分の幸福の計画実践に使うときの量の何十倍も、何百倍もかかるのです。危険を避けるため、安全を確保するため、競争相手を抑えるため、敵を倒すため、死を避けるためにどれだけのエネルギーを使わなくてはならなくなるのか。<br /><br /> 「自分は死なない」という前提は、人個人だけのことではありません。会社同士、政治の世界、スポーツの世界、民族同士がみんなこの前提のもとに成り立っているのです。自国の利益を守るためといって国同士が戦争までするのも同じ理屈です。 <br /><br /> そんなに苦労して頑張っているのだから、さぞかし皆さんは幸福になっているのだろうと思って、「皆さん、幸福ですか?」と訊いてみると、それがあにはからんや、「なんとか生きていることは生きているんですが」などと、なんとも頼りない返事が返ってくるのです。なぜ、そういう答えしか返ってこないのでしょう。<br /><br /> それは、「生命はみんな死ぬのに自分だけは死なないと頑張って死を認めない」「不死になる夢ばかり追って、不死の秘薬と言われると大金を払っても手に入れようとする」「延命をはかるなら どんなことでも、犯罪でも人を殺してでも自分の生命を守ろうとする」「自分の命が愛しく、そのためなら相手がどうなろうとかまわない」といったふうに、自然に逆らって生きようとするために無駄な労力、エネルギーを使わなくてはならなくなるのです。これが、人間社会の常識となっているのです。 <br /><br />仏教から見れば、なんとも非論理的で、非常識で、幸福をもたらすためには逆になる発想であり、すべての不幸、苦しみを生む大元であると言うのです。<br /><br />●「死の観察」で心は180度変わる<br /> 仏陀はいつでも「死」を観察しなさいと説かれています。事実から目を逸らすことはいけないと言われるのです。「自分にとってこの自分ほど愛しいものはない、自分以上に可愛いものはこの世にはない」という概念はだれにもありますし、仏説にもなっています。その愛しい、可愛い自分がこの世からなくなる、死ぬというのは、なんとしても避けたいことでしょう。認めたくないことでしょう。それは、わかります。<br /><br /> でも、そこで思考をストップさせるのはいけません。その段階は、人間の欲の発想であり事実に則した見方ではないからです。その先にある事実を見なければいけません。それは、「命あるものは一つの例外もなく死ぬ」ということです。その事実から目を逸らし「自分は死なない」と考えている人間は大変な愚かものであり、またその発想で人生を生きている人は、最強の無知なる存在であると言わなければなりません。無知な人ほどいろいろと罪を犯します。無知な人がさまざまな人々に迷惑をかけ、他人を不幸に陥れます。その結果、さらに自分を不幸にし、人生で失敗を繰り返してしまうのです。<br /> <br /> ところで、「自分も他人もみんな結局死んでしまうのだ」と観察することは、人生を暗くするでしょうか。どうせ死ぬのだからという見方は、厭世的になり無気力な思考を生むことになるのでしょうか。それは、まったく違うのです。<br /><br /> 人間はいとも簡単に死んでしまうということを理解したとき、その人はこの世を生きていくことはとても大変なことであり、一瞬一瞬を大切に生きていかなければならないということを納得するのです。自分も死に、他人も同じように死ぬということが、理屈でなく実感として理解できると、他人に迷惑をかけることや、むやみやたらに暴力をふるったり、残酷な行為や残忍な思考を巡らしたり、他の生命を脅かすようなことをしなくなります。そういうことまでして、自分だけが生き延びていくということに興味がなくなっていくのです。<br /><br /> その代わり、みんなに優しくなってきます。名誉や財産、権力、容貌などに執着しなくなり、いざ死ぬときも落ちついて平安のなかで死を迎えることができるのです。物質的な向上を目指すのではなく、精神的な向上を生きる目的にするようになって、その生き方も明るく、気楽になっていきます。たとえ幸福になっても舞い上がることもなく、また不幸になっても落ち込むこともありません。いつも平安な心で、豊かな智慧が身につき、他人の役に立つ人間として生きていくのです。<br /><br />▼参考テキスト<br />【施本】こころのセキュリティー(発行2002年)<br />http://www.j-theravada.net/dhamma/kokoro-security.pdf<br />♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪








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#jtba「こころのセキュリティーは大丈夫ですか?」






協会のfbより紹介です。





#jtba「こころのセキュリティーは大丈夫ですか?」

●妄想世界からの脱出
 どのようにして心というものは育てたらいいのかという話になります。

 まず必要なことは、「妄想」という世界を知っておくことです。私たちの心には子どものころから夢の世界を楽しみたいというデータがインプットされていま す。これはどんな人間にも多かれ少なかれ例外なく組み込まれていますし、大人になっても想像の世界を楽しむという傾向はつづきます。ここで重要なことは、 妄想や想像と現実はまったく違うということを知っておくということです。

 小説や漫画に描かれる、そして映画や舞台などで演じられる世界は物語であり、我々の欲、怒り、希望、悩み、悲しみなどの感情を刺激するために用意された つくりものだということです。そういう感情に訴えてこない限り作品にはならないのです。読んだり、見たりしているうちに感情移入されて引き込まれ、いつの 間にか現実と妄想の世界の区別がつかなくなることがあります。

 つくる側の人々も、なんとかリアルに、それが妄想ではなく現実に思えるようにつくることに力を入れていますから、映画でも劇画でもこれでもかというふう に現実性を出して描くのです。こういう世界に没頭しているとき、私たちの思考は妄想と現実とをはっきり区別することはしません。区別することに目を向ける と、折角の妄想の世界を楽しむ興味が半減してしまうからです。ところが、その妄想と現実の区別の認識が欠如するところに心の発病の萌芽があるのです。

 物語の妄想世界を体験していると心のなかにさまざまな感情が揺れ動き、その感情のなかからいろいろな概念が出てきます。その概念が、実はその妄想世界を 楽しむ源になっているのですが、そのグルグルと回転しているさまざまな概念をそのまま放ったらかしにしておくのではなく、「どの思考が事実に基づいている のか」「どの思考が単なる想像に基づいているのか」という区別を、しっかりとつけておく必要があるのです。

 ちょっと難しく思われるかもしれませんが慣れてみればこれは簡単なことで、このチェックさえ怠らなければ心が発病することはまず防ぐことができます。こ のチェック法は、このあとに詳しくお話しますが、仏教の冥想法が解決してくれます。そして、心の発病を防ぐことのできるこのチェック法は、その冥想法しか ないのです。

 冥想といってもいろいろな種類がありますが、仏教でいう冥想法は「自分の心を客観的に観ること」なのです。この修行をしつづけていくと、やがてかつて経 験もしなかった智慧が現れます。その智慧によって、欲、怒り、無知という三悪は消えていってしまうのです。三悪が消えた心は、もうぜったいに安心です。突 如発病するなどいう危険もまったくありません。

 心を観察するといっても、もう少し詳しく言うと「観察すること自体」を実践すること、それを冥想と言っているのです。心を育てるために、これ以上早くできる方法を見つけることは論理的に言っても不可能です。

 この冥想法を「ヴィパッサナー冥想」と呼んでいます。この冥想の実践から私たちは、仏教の教えの基本である「一切のものごとは無常であり、実体のないも のだ」という真理を体験できるのです。貪り、怒り、無知などのいわゆる「貪・瞋・痴」が跡形もなく消えていくのです。

▼参考テキスト
【施本】こころのセキュリティー(発行2002年)
http://www.j-theravada.net/dhamma/kokoro-security.pdf
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪
















写真: #jtba「こころのセキュリティーは大丈夫ですか?」<br /><br />●妄想世界からの脱出<br /> どのようにして心というものは育てたらいいのかという話になります。<br /> <br /> まず必要なことは、「妄想」という世界を知っておくことです。私たちの心には子どものころから夢の世界を楽しみたいというデータがインプットされています。これはどんな人間にも多かれ少なかれ例外なく組み込まれていますし、大人になっても想像の世界を楽しむという傾向はつづきます。ここで重要なことは、妄想や想像と現実はまったく違うということを知っておくということです。<br /> <br /> 小説や漫画に描かれる、そして映画や舞台などで演じられる世界は物語であり、我々の欲、怒り、希望、悩み、悲しみなどの感情を刺激するために用意されたつくりものだということです。そういう感情に訴えてこない限り作品にはならないのです。読んだり、見たりしているうちに感情移入されて引き込まれ、いつの間にか現実と妄想の世界の区別がつかなくなることがあります。<br /><br /> つくる側の人々も、なんとかリアルに、それが妄想ではなく現実に思えるようにつくることに力を入れていますから、映画でも劇画でもこれでもかというふうに現実性を出して描くのです。こういう世界に没頭しているとき、私たちの思考は妄想と現実とをはっきり区別することはしません。区別することに目を向けると、折角の妄想の世界を楽しむ興味が半減してしまうからです。ところが、その妄想と現実の区別の認識が欠如するところに心の発病の萌芽があるのです。<br /> <br /> 物語の妄想世界を体験していると心のなかにさまざまな感情が揺れ動き、その感情のなかからいろいろな概念が出てきます。その概念が、実はその妄想世界を楽しむ源になっているのですが、そのグルグルと回転しているさまざまな概念をそのまま放ったらかしにしておくのではなく、「どの思考が事実に基づいているのか」「どの思考が単なる想像に基づいているのか」という区別を、しっかりとつけておく必要があるのです。<br /> <br /> ちょっと難しく思われるかもしれませんが慣れてみればこれは簡単なことで、このチェックさえ怠らなければ心が発病することはまず防ぐことができます。このチェック法は、このあとに詳しくお話しますが、仏教の冥想法が解決してくれます。そして、心の発病を防ぐことのできるこのチェック法は、その冥想法しかないのです。<br /><br /> 冥想といってもいろいろな種類がありますが、仏教でいう冥想法は「自分の心を客観的に観ること」なのです。この修行をしつづけていくと、やがてかつて経験もしなかった智慧が現れます。その智慧によって、欲、怒り、無知という三悪は消えていってしまうのです。三悪が消えた心は、もうぜったいに安心です。突如発病するなどいう危険もまったくありません。 <br /> <br /> 心を観察するといっても、もう少し詳しく言うと「観察すること自体」を実践すること、それを冥想と言っているのです。心を育てるために、これ以上早くできる方法を見つけることは論理的に言っても不可能です。 <br /><br /> この冥想法を「ヴィパッサナー冥想」と呼んでいます。この冥想の実践から私たちは、仏教の教えの基本である「一切のものごとは無常であり、実体のないものだ」という真理を体験できるのです。貪り、怒り、無知などのいわゆる「貪・瞋・痴」が跡形もなく消えていくのです。 <br /><br />▼参考テキスト<br />【施本】こころのセキュリティー(発行2002年)<br />http://www.j-theravada.net/dhamma/kokoro-security.pdf<br />♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪









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2/16   経典自主勉強会のご案内




  経典自主勉強会のご案内




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経典自主勉強会のご案内
お釈迦様が説かれたパーリ語経典の訳を試み、その訳を通じて仏教を深く理解していくための自主勉強会です。

【参加概要】
第一部 : パーリ語勉強会(13:00~15:00)
スッタニパータ第五章についての文法解析

第二部 : 経典勉強会(15:00~16:30)
スッタニパータ第五章についての自由討論

講師   :正田大観
備考  :第一部はパーリ語辞典・文法書が必要。
     第二部のみの参加も可。第二部はパーリ語の文法知識を必要としない学び
     合いの場です。気軽にご参加ください。
参加費  :喜捨

【会場案内】
                   刈谷市産業振興センター 304会議室   
                ・交通: JR:名古屋駅~刈谷駅(新快速17分)
                JR刈谷駅(北口)・名鉄刈谷駅(北口)から徒歩3分


【お問い合わせ】
・ 経典自主勉強会について:東海ダンマサークル 担当: 船橋・原








経典自主勉強会 | 16:41:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
下松でスマナサーラ長老に学ぶ5日間





協会の記事ではありません。

誓教寺のホームページより紹介です





ホーム 日本でテーラワーダ仏教 法要・勉強会・お祭り 経典・冥想・ヨーガ つきなみ

下松でスマナサーラ長老に学ぶ5日間

3月19日(水) ヴィパッサナー瞑想会初心者指導 9:30~ @誓教寺
  20日(木)・21日(金) 春彼岸法要        13:30~ @誓教寺
  22日(土) 初期仏教勉強会           13:30~ @誓教寺
  23日(日) 講演会                 10:00~ @スターピアくだまつ

  下松講演1

  2014下松講演2           

   

   NEWS 誓教寺 2014年カレンダー掲載

誓教寺のホームページにようこそ

 こちらは山口県の瀬戸内海に面した小さな町の山の中にある、浄土真宗(単立)のお寺です。
宗派色はわりあい薄めで、宗派よりも「仏教のお寺」という、考えてみれば当たり前のスタンスで活動しております。
仏教のこと、浄土真宗のこと、お墓やお葬式や来世のことや人生のことなど、気になることがあれば、お気軽に、いつでもぶらりとお訪ねください。
お尋ねになりたいことなどございましたら、メアドや電話・ファックス番号、住所を入れておきますので、どうぞお気軽にお問い合わせくださいませ。

住職敬白

Welcome to Seikyoji Temple!  

This is an independent Jodo-shinshu (founded by Shinran 1172-1262) Buddhist temple. Jodo-shinshu being based on the Mahayana tradition, chief priest Akira and his wife Ryuko, also a priest, are deeply interested in Theravada tradition which directly comes from Sakyamuni Buddha.
Akira tries to re-connect the essence of Jodo-shinshu to the origin of Buddhism.
Ven. Alubomulle Sumanasara visits Seikyoji temple four times a year (staying about 4 days each time) and preach sermons, teach Pali canons and train vipassana meditation. Everyone is welcome. Please check the temple calendar or ask to Seikyoji for his schedule.
Questions and opinions are welcome. Please e-mail or tweet in English and/or, of course, in Japanese.  

Akira Fujimoto, chief priest

住職のTweetへ   








誓教寺 | 10:12:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「人々が求めること~社会に与えるべきもの~」





協会のfbより紹介です。





#jtba「人々が求めること~社会に与えるべきもの~」

 日本の宗派仏教では、日蓮宗や浄土真宗が大きな組織かもしれませんが、一般人の間で外国人がまで知っているのは「禅」でしょう。「お寺」と言ったとたん「禅」を思い浮かべる人は多いと思います。

 では、どうして「禅」なのでしょう。坐禅なんてつまらないし、座ってもいられないのに、なぜみんなが興味あるのかといったら、結局は「役に立っている」からなのです。

 学校も、宗教に対しては特定のものを取り上げにくい事情がありますが、坐禅堂には生徒たちを連れて行ったりします。落ち着きのない年頃の子どもに、落ち 着きを身につけさせたりする「効き目」があるからです。実際的な効果があるから、「『南無妙法蓮華経』を唱えるよりも坐禅を組もうか」という話になりま す。

 ニューヨークでは浄土真宗のお寺でも坐禅を組んでいる場合があるそうですが、日本仏教でも、禅宗の坐禅修行だけは、なんとなく宗派の枠を取り払えている感があります。ここに、日本仏教が立ち上がれるヒントがあります。

 「学校の授業で教えられない何かを、日本仏教で教えられる」ということです。教育の場で宗教を実践する場合、問題になるのは「宗派」です。西洋でも宗教 と教育はできるだけ離したいと政治家は思っていますが、それはやはり宗派の問題があるからです。ある宗派の教えばかりを子どもたちに教えるのは問題です。 子どもたちには自由に考えて、何か信仰するなら自分で選択できるようにする必要があります。ある宗教が学校に割り込んで、自分たちの教えばかり教え込むの うは「侵害」です。

 では、学校で何を教えるべきなのでしょうか。それは「どう生きるべきか」なのです。ポイントは、「人生は、パンだけでは、食べることだけでは、完璧に幸 福にならない」というところなのです。聖書でも「人はパンだけで生きるのではない」ということを言っていますね。「パン」にはいろいろな意味が含まれてい ます。俗世間のこと、お金があることや家があること、家族がいること、全部「パン」です。そして、「それだけでは成り立ちませんよ」という、「パン」以外 のところが本来は宗教の仕事なのです。つまり、「正しい生き方とは」と教えることです。

 人は、パンだけでは心に喜びを得られません。お金だけが儲かっても虚しくなります。そして、「正しく生きる」ということは、宗教にしか教えられません。なぜなら、それは塾で教えても商売にならないからです。

 とにかく「いくら儲かるのか」と考えるのが俗世間です。例えば、世間では人間の管理・マネジメントについては教えていますね。社長や上司が部下をいかに マネジメントするのか、工場で能率を上げるためにどうやって社員の精神状態をよい状態に保つのかなどを研究しています。それは実は、「いくら儲かるのか」 という話です。社員を大切に思う慈しみとは違います。

 経営側は、本音では「工場の人々には、できればロボットのように黙々と働いてもらいたい。とにかくたくさん品物を作ってほしい」と思っています。しか し、そうはいきませんから、マネジメントが必要とされるのです。よく働いてもらえるように、「レクリエーションや娯楽を取り入れましょう」「年に一度は海 外へ社員旅行をしましょう」などというご機嫌とりの企画を立てます。生産効率を上げるために、さまざまな工夫をするということです。「いくら儲かるのか」 という話なのです。

 俗世間で「いかに人間関係を持つべきか」と教えているのは、「どう生きるのか」を考えてのことではなくて、あくまで商売上の必要性からです。「いかに利益をあげるか」という目的でやっていますから、人を愛する、慈しむという世界からは遠いのです。

 ですから、今の時代にあっても、人間に生きる道を教えるのは宗教の仕事です。日本仏教の役目は、儀式・儀礼ではなくて、「どう生きるべきか」を教えるこ と。また、宗教自らが基本的に人間を、生命を慈しみ、その精神を広めていくことです。儲かるためのものではありません。決して商売になり得ないのが宗教で す。

 科学がいくら発達した現代でも、勉強してそれらの知識がいくらあっても、生きているのは人間です。人間と人間とのコミュニケーションによって仕事も成り 立ちますし、お金も儲かります。科学者は科学だけでは食べていけません。その科学者の科学が人の役に立つならば、そこで仕事として成り立ち、給料をもらう ことになります。ですから、「どう生きるべきか」「人間の生き方は何なのか」ということは、科学と一緒に学校で教えるべきなのです。

 教えるべき「どう生きるべきか」は、信仰と関係がありません。逆に宗派を押しつけようとすると、みんな逃げていきます。実際に教育現場で、例えば浄土真宗のお坊さんが、あえて浄土真宗を教えようとしても、生徒はすぐに興味をなくすでしょう。

 ですから、人間誰もが必要としている品物、「どう生きるべきか」「怒り・感情をどう管理するのか」「自分の能力をどうやって向上させるか」まとめれば 「人間はどう生きるべきか」ということですが、それこそが「売れる商品」なので、それを広めようとすればよいのです。これなら教えても侵害になりません。 法律違反でもありません。

 教育現場で日本仏教がどう生かされるかは大きな問題ですし、私は影響力ある立場ではありませんが、初期仏教を教えている身から言うと、「ブッダの教えな ら、宗教と関係なく、どこででも教えられます」と言えます。「生きることはどういうことか」「貪瞋痴はどんな働きをしているのか」「平等って何なのか」 「仲良くするというのはどういうことか」「どうして仲良くする必要があるのか」「親と自分はどんな関係なのか」「先生と自分はどんな関係なのか」など、い くらでもありますから。これらは全部役に立つ教えでしょうし、生徒が知りたいことでもあるでしょう。売れる商品です。

 つまりは「信仰は問わない、内容は普遍的である」ということなら良いのです。それは日本仏教にもできることです。教える先生がどの宗派に属していても、関係なく教えられます。

 日本仏教はこれからどんどん社会に入っていく必要がありますから、お坊さんたち側にもそれなりの準備は必要です。一般人が「仏教とは何ですか?人生には どんなふうに役に立ちますか?」と聞いてきたときに、答える準備をしておかなくてはいけません。「生きるためにどうするか」という部分について、日蓮や弘 法大師の教えでは役に立つものが得られないのであれば、ブッダから学ぶしかないでしょう?

 そもそも仏教は、日蓮の教えではなくて、弘法大師の教えでもなくて、もともと、ブッダの教えであったということを共通認識として再確認してほしいので す。別に宗派があるのはいいのですが、「すべての宗派を一つの傘でまとめるのは、釈迦牟尼仏陀以外にない」ということです。

 ブッダは社会に普遍的な真理を語りましたし、人間に生きる道を教えました。その部分はブッダ本来の教えとしてまとめて、あとは各宗派でいろいろと異なる信仰を、ということであれば、うまく共存できると思います。

 そして、実際の社会の場で、学校の授業でも、子どもたちにも分かるように、相手に合わせて「どう生きるべきか」という売れる商品を上手に売っていくので す。上手に売れる工夫をいろいろしていけば、日本仏教は大いに活性化するでしょう。一般の方に、「お寺も頑張っているな」と伝われば、それが社会に対して 模範にもなります。

●イラスト:髙橋優子
▼参考テキスト
真理のききめ
http://amzn.to/1m4sruc
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪
写真: #jtba「人々が求めること~社会に与えるべきもの~」<br /><br /> 日本の宗派仏教では、日蓮宗や浄土真宗が大きな組織かもしれませんが、一般人の間で外国人がまで知っているのは「禅」でしょう。「お寺」と言ったとたん「禅」を思い浮かべる人は多いと思います。<br /><br /> では、どうして「禅」なのでしょう。坐禅なんてつまらないし、座ってもいられないのに、なぜみんなが興味あるのかといったら、結局は「役に立っている」からなのです。<br /><br /> 学校も、宗教に対しては特定のものを取り上げにくい事情がありますが、坐禅堂には生徒たちを連れて行ったりします。落ち着きのない年頃の子どもに、落ち着きを身につけさせたりする「効き目」があるからです。実際的な効果があるから、「『南無妙法蓮華経』を唱えるよりも坐禅を組もうか」という話になります。<br /><br /> ニューヨークでは浄土真宗のお寺でも坐禅を組んでいる場合があるそうですが、日本仏教でも、禅宗の坐禅修行だけは、なんとなく宗派の枠を取り払えている感があります。ここに、日本仏教が立ち上がれるヒントがあります。<br /><br /> 「学校の授業で教えられない何かを、日本仏教で教えられる」ということです。教育の場で宗教を実践する場合、問題になるのは「宗派」です。西洋でも宗教と教育はできるだけ離したいと政治家は思っていますが、それはやはり宗派の問題があるからです。ある宗派の教えばかりを子どもたちに教えるのは問題です。子どもたちには自由に考えて、何か信仰するなら自分で選択できるようにする必要があります。ある宗教が学校に割り込んで、自分たちの教えばかり教え込むのうは「侵害」です。<br /><br /> では、学校で何を教えるべきなのでしょうか。それは「どう生きるべきか」なのです。ポイントは、「人生は、パンだけでは、食べることだけでは、完璧に幸福にならない」というところなのです。聖書でも「人はパンだけで生きるのではない」ということを言っていますね。「パン」にはいろいろな意味が含まれています。俗世間のこと、お金があることや家があること、家族がいること、全部「パン」です。そして、「それだけでは成り立ちませんよ」という、「パン」以外のところが本来は宗教の仕事なのです。つまり、「正しい生き方とは」と教えることです。<br /><br /> 人は、パンだけでは心に喜びを得られません。お金だけが儲かっても虚しくなります。そして、「正しく生きる」ということは、宗教にしか教えられません。なぜなら、それは塾で教えても商売にならないからです。<br /><br /> とにかく「いくら儲かるのか」と考えるのが俗世間です。例えば、世間では人間の管理・マネジメントについては教えていますね。社長や上司が部下をいかにマネジメントするのか、工場で能率を上げるためにどうやって社員の精神状態をよい状態に保つのかなどを研究しています。それは実は、「いくら儲かるのか」という話です。社員を大切に思う慈しみとは違います。<br /><br /> 経営側は、本音では「工場の人々には、できればロボットのように黙々と働いてもらいたい。とにかくたくさん品物を作ってほしい」と思っています。しかし、そうはいきませんから、マネジメントが必要とされるのです。よく働いてもらえるように、「レクリエーションや娯楽を取り入れましょう」「年に一度は海外へ社員旅行をしましょう」などというご機嫌とりの企画を立てます。生産効率を上げるために、さまざまな工夫をするということです。「いくら儲かるのか」という話なのです。<br /><br /> 俗世間で「いかに人間関係を持つべきか」と教えているのは、「どう生きるのか」を考えてのことではなくて、あくまで商売上の必要性からです。「いかに利益をあげるか」という目的でやっていますから、人を愛する、慈しむという世界からは遠いのです。<br /><br /> ですから、今の時代にあっても、人間に生きる道を教えるのは宗教の仕事です。日本仏教の役目は、儀式・儀礼ではなくて、「どう生きるべきか」を教えること。また、宗教自らが基本的に人間を、生命を慈しみ、その精神を広めていくことです。儲かるためのものではありません。決して商売になり得ないのが宗教です。<br /><br /> 科学がいくら発達した現代でも、勉強してそれらの知識がいくらあっても、生きているのは人間です。人間と人間とのコミュニケーションによって仕事も成り立ちますし、お金も儲かります。科学者は科学だけでは食べていけません。その科学者の科学が人の役に立つならば、そこで仕事として成り立ち、給料をもらうことになります。ですから、「どう生きるべきか」「人間の生き方は何なのか」ということは、科学と一緒に学校で教えるべきなのです。<br /><br /> 教えるべき「どう生きるべきか」は、信仰と関係がありません。逆に宗派を押しつけようとすると、みんな逃げていきます。実際に教育現場で、例えば浄土真宗のお坊さんが、あえて浄土真宗を教えようとしても、生徒はすぐに興味をなくすでしょう。<br /><br /> ですから、人間誰もが必要としている品物、「どう生きるべきか」「怒り・感情をどう管理するのか」「自分の能力をどうやって向上させるか」まとめれば「人間はどう生きるべきか」ということですが、それこそが「売れる商品」なので、それを広めようとすればよいのです。これなら教えても侵害になりません。法律違反でもありません。<br /><br /> 教育現場で日本仏教がどう生かされるかは大きな問題ですし、私は影響力ある立場ではありませんが、初期仏教を教えている身から言うと、「ブッダの教えなら、宗教と関係なく、どこででも教えられます」と言えます。「生きることはどういうことか」「貪瞋痴はどんな働きをしているのか」「平等って何なのか」「仲良くするというのはどういうことか」「どうして仲良くする必要があるのか」「親と自分はどんな関係なのか」「先生と自分はどんな関係なのか」など、いくらでもありますから。これらは全部役に立つ教えでしょうし、生徒が知りたいことでもあるでしょう。売れる商品です。<br /><br /> つまりは「信仰は問わない、内容は普遍的である」ということなら良いのです。それは日本仏教にもできることです。教える先生がどの宗派に属していても、関係なく教えられます。<br /><br /> 日本仏教はこれからどんどん社会に入っていく必要がありますから、お坊さんたち側にもそれなりの準備は必要です。一般人が「仏教とは何ですか?人生にはどんなふうに役に立ちますか?」と聞いてきたときに、答える準備をしておかなくてはいけません。「生きるためにどうするか」という部分について、日蓮や弘法大師の教えでは役に立つものが得られないのであれば、ブッダから学ぶしかないでしょう?<br /><br /> そもそも仏教は、日蓮の教えではなくて、弘法大師の教えでもなくて、もともと、ブッダの教えであったということを共通認識として再確認してほしいのです。別に宗派があるのはいいのですが、「すべての宗派を一つの傘でまとめるのは、釈迦牟尼仏陀以外にない」ということです。<br /><br /> ブッダは社会に普遍的な真理を語りましたし、人間に生きる道を教えました。その部分はブッダ本来の教えとしてまとめて、あとは各宗派でいろいろと異なる信仰を、ということであれば、うまく共存できると思います。<br /><br /> そして、実際の社会の場で、学校の授業でも、子どもたちにも分かるように、相手に合わせて「どう生きるべきか」という売れる商品を上手に売っていくのです。上手に売れる工夫をいろいろしていけば、日本仏教は大いに活性化するでしょう。一般の方に、「お寺も頑張っているな」と伝われば、それが社会に対して模範にもなります。<br /><br />●イラスト:髙橋優子<br />▼参考テキスト<br />真理のききめ<br />http://amzn.to/1m4sruc<br />♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪









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#jtba「宝経-Ratana suttaṃ」





協会のfbより紹介です。





#jtba「宝経-Ratana suttaṃ」

 お祓いや祈祷とは違いますが、仏教徒も普段の生活の中で祝福文句を護呪のように、よく口にするのです。これは必ず祝福するためのものであって、ただ言葉 を言うだけでも効き目があるのです。祝福は慈しみのこころですから特別な技術がなくても、「あなたはどうぞ気をつけて」「どうぞ幸せに」「お元気で」「成 功を祈る」などの祝いの言葉はだれでも言える。それは効くのです。言う人と言われる人の精神状態によって効き目に差がつきますが。口癖のようにいつでも祝福文句を使うというのは大変大事な善行為です。

 決して間違ってでも、人を呪う言葉を使ったりしてはいけません。冗談ででも「死んでしまえ」というような、のろい文句は言ってはいけません。相手が死ななくても、自分の憎しみのエネルギーは自分への呪いになるのです。また、悪業です。

 祝福文句は言葉の意味だけではなくて、慈しみのこころの波動が相手に伝わるのです。「末永く幸せに」と言われた瞬間に気持ちが柔らかく、明るくなる。 言った人に対して慈しみが生まれる。柔らかい気持ちがあると、どんどん性格が明るくなって、人間関係がよくなってしまいます。瞬間的な、無意識で起こる慈 しみさえも良い結果を出すので、すべての生命に対する慈悲の気持ちを表現する「生きとし生けるものが幸せでありますように」、という言葉は最高の祝福文句 です。

 『宝経』には「etena saccena suvatthi hotu(この真理で幸せでありますように)」というフレーズが繰り返し出てきます。これは、お釈迦様の発見した真理は確実にすべての生命を幸せに導くも のだと明言している所です。祝福にも法則がある。祝福する人の心が弱くて、幸福でないなら、他人を祝福することはできないのです。効き目が弱いのですね。

 ですから、完全たる幸福な状態にあるお釈迦様が真理を賭けてする祝福は最高の威力があるのです。この言葉のうらを読むと、相手が幸福にならなかったら、 ブッダの悟りも、教えた真理も嘘になると言う意味です。もしある医者が、「この治療であなたの病気が治らなかったら、私の医師免許を取り消します」と言っ たならば、その医者に確実に自信があることになるのです。仏教の祝福はこのような調子で行うものです。

『宝経』
1.ここに集いし諸々の精霊は、地に棲むものたちも虚空に棲むものたちも、一切の精霊は、心喜ぶがよい。そして、我が語るところを謹んで聞くがよい。

2.それゆえ、一切の精霊は耳を傾けよ。人間に慈しみを垂れるがよい。昼夜に供物を持ち来る人々を。怠ることなく護るがよい。

3.此の世、あるいは来世における如何なる富も、また天上にある如何なる妙宝も、我らの如来に等しきものあらず。此れは佛陀(ブッダ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。

4.釈迦牟尼が到達されし禅定は、煩悩の滅尽、離貪、不死の境地で、優れたるものなり。その法(禅定)に等しきものあらず。此の法(ダンマ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。

5.最勝たる佛陀が、清浄なりとせし禅定は「無間」と呼ばれる。彼の禅定に等しきものは存せず。此の法(ダンマ)が勝宝たる由縁なり。

6.仙人たちが賞賛せし者は、彼の八輩即ち四双の者たちなり。彼ら善逝(ブッダ)の弟子たちは、布施供養を受くに値す。彼らに施されしものには大果あり。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。

7.堅く決意し、ゴータマ(ブッダ)の教えに基づきよく励み、欲から離れている彼らは達すべき境地に達して、不死なる境地を体得し、その涅槃を余すところなく享受せり。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。

8.[城の]主柱が地に立ちてあるならば、四方の風に揺らぐことはない。[四]聖諦を如実に観ぜし仙人[預流果の者]は、是の如く喩えられると我は言う。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。

9.深き智慧により正しく説かれたる[四]聖諦を実践する者たちは、たとい[後に]大いに放逸になろうとも、八回目の[転]生を引き寄せること有らず。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。

10.知見[四聖諦の明知]の成就と共に、以下の三つのもの(煩悩)は捨て去られる。有身見、疑、あらゆる戒禁取なり。また四悪趣に陥ることを離脱し、六重罪を為すこと能わず。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。

11.身、口、意にて悪を犯すことになりても、彼はそれを隠蔽すること能わず。知見に達した者は隠蔽すること能わずと言わるるなり。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。

12.夏の最初の月(春)、叢林の枝先に花咲き満てるが如く、その如く、最高の利益となる涅槃に導く尊き教法を説き給いし。此れは佛陀(ブッダ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。

13.至善にして至善を知り、至善を与え至善へ導く無上士は、最上の至善たる教法を説き給いし。此れは佛陀(ブッダ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。

14.「古き[業]は尽き、新しき[業]は生せず」再び生まれることに未練はない。種子[業]が尽きた。貪欲を根絶やしにした。彼の賢者たちは、灯明の如く寂滅す。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。

(以下は精霊たちのブッダに対する応答の言葉である)

15.ここに集いし諸々の精霊は、地に棲むものたちも虚空に棲む我らは、人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。佛陀(ブッダ)に礼拝奉る。幸いがあらんことを。

16.ここに集いし諸々の精霊は、地に棲むものたちも虚空に棲む我らは、人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。法(ダンマ)に礼拝奉る。幸いがあらんことを。

17.ここに集いし諸々の精霊は、地に棲むものたちも虚空に棲む我らは、人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。僧(サンガ)に礼拝奉る。幸いがあらんことを。

1.Yānīdha bhūtāni samāgatāni,
Bhummāni vā yāni va antalikkhe.
Sabbeva bhūtā sumanā bhavantu,
Athopi sakkacca suṇantu bhāsitaṃ.

2.Tasmā hi bhūtā nisāmetha sabbe,
Mettaṃ karotha mānusiyā pajāya.
Divā ca ratto ca haranti ye baliṃ,
Tasmā hi ne rakkhatha appamattā.

3.Yaṃ kiñci vittaṃ idha vā huraṃ vā,
Saggesu vā yaṃ ratanaṃ paṇītaṃ.
Na no samaṃ atthi tathāgatena,
Idam pi buddhe ratanaṃ paṇītaṃ.
Etena saccena suvatthi hotu.

4.Khayaṃ virāgaṃ amataṃ paṇītaṃ,
Yadajjhagā sakyamunī samāhito.
Na tena dhammena samatthi kiñci,
Idam pi dhamme ratanaṃ paṇītaṃ.
Etena saccena suvatthi hotu.

5.Yaṃ Buddha seṭṭho parivaṇṇayī suciṃ,
Samādhim ānantarikaññam āhu.
Samādhinā tena samo na vijjati,
Idam pi dhamme ratanaṃ paṇītaṃ.
Etena saccena suvatthi hotu.

6.Ye puggalā aṭṭha sataṃ pasatthā,
Cattāri etāni yugāni honti.
Te dakkhiṇeyyā sugatassa sāvakā,
Etesu dinnāni mahapphalāni.
Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,
Etena saccena suvatthi hotu.

7.Ye suppayuttā manasā daḷhena,
Nikkāmino gotama sāsanamhi.
Te pattipattā amataṃ vigayha,
Laddhā mudhā nibbutiṃ bhuñjamānā.
Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,
Etena saccena suvatthi hotu.

8.Yathindakhīlo pathaviṃ ssito siyā,
Catubbhi vātebhi asampa kampiyo.
Tathūpamaṃ sappurisaṃ vadāmi,
Yo ariya saccāni avecca passati.
Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,
Etena saccena suvatthi hotu.

9.Ye ariya saccāni vibhāvayanti,
Gambhīra paññena sudesitāni.
Kiñcāpi te honti Bhusappamattā,
Na te bhavaṃ aṭṭhamaṃ ādiyanti.
Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,
Etena saccena suvatthi hotu.

10.Sahāvassa dassana sampadāya,
Tayassu dhammā jahitā bhavanti.
Sakkāya diṭṭhī vicikicchitañ ca,
Sīlabbataṃ vāpi yadatthi kiñci.
Catūhapāyehi ca vippamutto,
Chaccābhiṭhānāni abhabba kātuṃ.
Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,
Etena saccena suvatthi hotu.

11.Kiñcā pi so kammaṃ karoti pāpakaṃ,
Kāyena vācā uda cetasā vā.
Abhabba so tassa paṭicchadāya,
Abhabbatā diṭṭhapadassa vuttā.
Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,
Etena saccena suvatthi hotu.

12.Vanappagumbe yathā phussitagge,
Gimhānamāse paṭhamasmiṃ gimhe.
Tathūpamaṃ dhamma varaṃ adesayi,
Nibbāna gāmiṃ paramaṃ hitāya.
Idam pi buddhe ratanaṃ paṇītaṃ,
Etena saccena suvatthi hotu.

13.Varo varaññū varado varāharo,
Anuttaro dhamma varaṃ adesayī.
Idam pi buddhe ratanaṃ paṇītaṃ,
Etena saccena suvatthi hotu.

14.Khīṇaṃ purāṇaṃ navaṃ natthi sambhavaṃ,
Viratta cittā āyatike bhavasmiṃ.
Te khīṇa bījā avirūḷhichandā,
Nibbanti dhīrā yathāyaṃ padīpo.
Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,
Etena saccena suvatthi hotu.

15.Yānīdha bhūtāni samāgatāni,
Bhummāni vā yāni va antalikkhe.
Tathāgataṃ deva manussa pūjitaṃ,
Buddhaṃ namassāma suvatthi hotu.

16.Yānīdha bhūtāni samāgatāni,
Bhummāni vā yāni va antalikkhe.
Tathāgataṃ deva manussa pūjitaṃ,
Dhammaṃ namassāma suvatthi hotu.

17. Yānīdha bhūtāni samāgatāni,
Bhummāni vā yāni va antalikkhe.
Tathāgataṃ deva manussa pūjitaṃ,
Saṅghaṃ namassāma suvatthi hotūti.

●イラスト:髙橋優子
▼参考テキスト
沙門果経 第三章 仏陀の話
出家の論理的な生き方《大戒》
http://www.j-theravada.net/explain/syamonka-12.html

日常読誦経典(日本テーラワーダ仏教協会)
「宝経-Ratana suttaṃ」
http://www.j-theravada.net/sutta/Ratana_Sutta.wav
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪
写真: #jtba「宝経-Ratana suttaṃ」<br /><br /> お祓いや祈祷とは違いますが、仏教徒も普段の生活の中で祝福文句を護呪のように、よく口にするのです。これは必ず祝福するためのものであって、ただ言葉を言うだけでも効き目があるのです。祝福は慈しみのこころですから特別な技術がなくても、「あなたはどうぞ気をつけて」「どうぞ幸せに」「お元気で」「成功を祈る」などの祝いの言葉はだれでも言える。それは効くのです。言う人と言われる人の精神状態によって効き目に差がつきますが。口癖のようにいつでも祝福文句を使うというのは大変大事な善行為です。<br /><br /> 決して間違ってでも、人を呪う言葉を使ったりしてはいけません。冗談ででも「死んでしまえ」というような、のろい文句は言ってはいけません。相手が死ななくても、自分の憎しみのエネルギーは自分への呪いになるのです。また、悪業です。<br /><br /> 祝福文句は言葉の意味だけではなくて、慈しみのこころの波動が相手に伝わるのです。「末永く幸せに」と言われた瞬間に気持ちが柔らかく、明るくなる。言った人に対して慈しみが生まれる。柔らかい気持ちがあると、どんどん性格が明るくなって、人間関係がよくなってしまいます。瞬間的な、無意識で起こる慈しみさえも良い結果を出すので、すべての生命に対する慈悲の気持ちを表現する「生きとし生けるものが幸せでありますように」、という言葉は最高の祝福文句です。<br /><br /> 『宝経』には「etena saccena suvatthi hotu(この真理で幸せでありますように)」というフレーズが繰り返し出てきます。これは、お釈迦様の発見した真理は確実にすべての生命を幸せに導くものだと明言している所です。祝福にも法則がある。祝福する人の心が弱くて、幸福でないなら、他人を祝福することはできないのです。効き目が弱いのですね。<br /><br /> ですから、完全たる幸福な状態にあるお釈迦様が真理を賭けてする祝福は最高の威力があるのです。この言葉のうらを読むと、相手が幸福にならなかったら、ブッダの悟りも、教えた真理も嘘になると言う意味です。もしある医者が、「この治療であなたの病気が治らなかったら、私の医師免許を取り消します」と言ったならば、その医者に確実に自信があることになるのです。仏教の祝福はこのような調子で行うものです。<br /><br />『宝経』<br />1.ここに集いし諸々の精霊は、地に棲むものたちも虚空に棲むものたちも、一切の精霊は、心喜ぶがよい。そして、我が語るところを謹んで聞くがよい。<br /><br />2.それゆえ、一切の精霊は耳を傾けよ。人間に慈しみを垂れるがよい。昼夜に供物を持ち来る人々を。怠ることなく護るがよい。<br /><br />3.此の世、あるいは来世における如何なる富も、また天上にある如何なる妙宝も、我らの如来に等しきものあらず。此れは佛陀(ブッダ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。<br /><br />4.釈迦牟尼が到達されし禅定は、煩悩の滅尽、離貪、不死の境地で、優れたるものなり。その法(禅定)に等しきものあらず。此の法(ダンマ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。<br /><br />5.最勝たる佛陀が、清浄なりとせし禅定は「無間」と呼ばれる。彼の禅定に等しきものは存せず。此の法(ダンマ)が勝宝たる由縁なり。<br /><br />6.仙人たちが賞賛せし者は、彼の八輩即ち四双の者たちなり。彼ら善逝(ブッダ)の弟子たちは、布施供養を受くに値す。彼らに施されしものには大果あり。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。<br /><br />7.堅く決意し、ゴータマ(ブッダ)の教えに基づきよく励み、欲から離れている彼らは達すべき境地に達して、不死なる境地を体得し、その涅槃を余すところなく享受せり。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。<br /><br />8.[城の]主柱が地に立ちてあるならば、四方の風に揺らぐことはない。[四]聖諦を如実に観ぜし仙人[預流果の者]は、是の如く喩えられると我は言う。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。<br /><br />9.深き智慧により正しく説かれたる[四]聖諦を実践する者たちは、たとい[後に]大いに放逸になろうとも、八回目の[転]生を引き寄せること有らず。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。<br /><br />10.知見[四聖諦の明知]の成就と共に、以下の三つのもの(煩悩)は捨て去られる。有身見、疑、あらゆる戒禁取なり。また四悪趣に陥ることを離脱し、六重罪を為すこと能わず。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。<br /><br />11.身、口、意にて悪を犯すことになりても、彼はそれを隠蔽すること能わず。知見に達した者は隠蔽すること能わずと言わるるなり。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。<br /><br />12.夏の最初の月(春)、叢林の枝先に花咲き満てるが如く、その如く、最高の利益となる涅槃に導く尊き教法を説き給いし。此れは佛陀(ブッダ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。<br /><br />13.至善にして至善を知り、至善を与え至善へ導く無上士は、最上の至善たる教法を説き給いし。此れは佛陀(ブッダ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。<br /><br />14.「古き[業]は尽き、新しき[業]は生せず」再び生まれることに未練はない。種子[業]が尽きた。貪欲を根絶やしにした。彼の賢者たちは、灯明の如く寂滅す。此の僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。此の真実により、幸いがあらんことを。<br /><br />(以下は精霊たちのブッダに対する応答の言葉である)<br /><br />15.ここに集いし諸々の精霊は、地に棲むものたちも虚空に棲む我らは、人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。佛陀(ブッダ)に礼拝奉る。幸いがあらんことを。<br /><br />16.ここに集いし諸々の精霊は、地に棲むものたちも虚空に棲む我らは、人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。法(ダンマ)に礼拝奉る。幸いがあらんことを。<br /><br />17.ここに集いし諸々の精霊は、地に棲むものたちも虚空に棲む我らは、人・天に尊敬さるる如来を敬礼せん。僧(サンガ)に礼拝奉る。幸いがあらんことを。<br /><br />1.Yānīdha bhūtāni samāgatāni,<br />Bhummāni vā yāni va antalikkhe.<br />Sabbeva bhūtā sumanā bhavantu,<br />Athopi sakkacca suṇantu bhāsitaṃ.<br /><br />2.Tasmā hi bhūtā nisāmetha sabbe,<br />Mettaṃ karotha mānusiyā pajāya.<br />Divā ca ratto ca haranti ye baliṃ,<br />Tasmā hi ne rakkhatha appamattā.<br /><br />3.Yaṃ kiñci vittaṃ idha vā huraṃ vā,<br />Saggesu vā yaṃ ratanaṃ paṇītaṃ.<br />Na no samaṃ atthi tathāgatena,<br />Idam pi buddhe ratanaṃ paṇītaṃ.<br />Etena saccena suvatthi hotu.<br /><br />4.Khayaṃ virāgaṃ amataṃ paṇītaṃ,<br />Yadajjhagā sakyamunī samāhito.<br />Na tena dhammena samatthi kiñci,<br />Idam pi dhamme ratanaṃ paṇītaṃ.<br />Etena saccena suvatthi hotu.<br /><br />5.Yaṃ Buddha seṭṭho parivaṇṇayī suciṃ,<br />Samādhim ānantarikaññam āhu. <br />Samādhinā tena samo na vijjati,<br />Idam pi dhamme ratanaṃ paṇītaṃ. <br />Etena saccena suvatthi hotu.<br /><br />6.Ye puggalā aṭṭha sataṃ pasatthā,<br />Cattāri etāni yugāni honti.<br />Te dakkhiṇeyyā sugatassa sāvakā,<br />Etesu dinnāni mahapphalāni.<br />Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,<br />Etena saccena suvatthi hotu.<br /><br />7.Ye suppayuttā manasā daḷhena,<br />Nikkāmino gotama sāsanamhi.<br />Te pattipattā amataṃ vigayha,<br />Laddhā mudhā nibbutiṃ bhuñjamānā.<br />Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,<br />Etena saccena suvatthi hotu.<br /><br />8.Yathindakhīlo pathaviṃ ssito siyā,<br />Catubbhi vātebhi asampa kampiyo.<br />Tathūpamaṃ sappurisaṃ vadāmi,<br />Yo ariya saccāni avecca passati.<br />Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,<br />Etena saccena suvatthi hotu.<br /><br />9.Ye ariya saccāni vibhāvayanti,<br />Gambhīra paññena sudesitāni.<br />Kiñcāpi te honti Bhusappamattā,<br />Na te bhavaṃ aṭṭhamaṃ ādiyanti.<br />Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,<br />Etena saccena suvatthi hotu.<br /><br />10.Sahāvassa dassana sampadāya,<br />Tayassu dhammā jahitā bhavanti.<br />Sakkāya diṭṭhī vicikicchitañ ca,<br />Sīlabbataṃ vāpi yadatthi kiñci.<br />Catūhapāyehi ca vippamutto,<br />Chaccābhiṭhānāni abhabba kātuṃ.<br />Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,<br />Etena saccena suvatthi hotu.<br /><br />11.Kiñcā pi so kammaṃ karoti pāpakaṃ, <br />Kāyena vācā uda cetasā vā.<br />Abhabba so tassa paṭicchadāya,<br />Abhabbatā diṭṭhapadassa vuttā.<br />Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,<br />Etena saccena suvatthi hotu.<br /><br />12.Vanappagumbe yathā phussitagge,<br />Gimhānamāse paṭhamasmiṃ gimhe.<br />Tathūpamaṃ dhamma varaṃ adesayi,<br />Nibbāna gāmiṃ paramaṃ hitāya.<br />Idam pi buddhe ratanaṃ paṇītaṃ,<br />Etena saccena suvatthi hotu.<br /><br />13.Varo varaññū varado varāharo,<br />Anuttaro dhamma varaṃ adesayī.<br />Idam pi buddhe ratanaṃ paṇītaṃ,<br />Etena saccena suvatthi hotu.<br /><br />14.Khīṇaṃ purāṇaṃ navaṃ natthi sambhavaṃ,<br />Viratta cittā āyatike bhavasmiṃ.<br />Te khīṇa bījā avirūḷhichandā,<br />Nibbanti dhīrā yathāyaṃ padīpo.<br />Idam pi saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ,<br />Etena saccena suvatthi hotu.<br /><br />15.Yānīdha bhūtāni samāgatāni,<br />Bhummāni vā yāni va antalikkhe.<br />Tathāgataṃ deva manussa pūjitaṃ,<br />Buddhaṃ namassāma suvatthi hotu.<br /><br />16.Yānīdha bhūtāni samāgatāni, <br />Bhummāni vā yāni va antalikkhe.<br />Tathāgataṃ deva manussa pūjitaṃ,<br />Dhammaṃ namassāma suvatthi hotu.<br /><br />17. Yānīdha bhūtāni samāgatāni,<br />Bhummāni vā yāni va antalikkhe.<br />Tathāgataṃ deva manussa pūjitaṃ,<br />Saṅghaṃ namassāma suvatthi hotūti.<br /><br />●イラスト:髙橋優子<br />▼参考テキスト<br />沙門果経 第三章 仏陀の話<br />出家の論理的な生き方《大戒》<br />http://www.j-theravada.net/explain/syamonka-12.html<br /><br />日常読誦経典(日本テーラワーダ仏教協会)<br />「宝経-Ratana suttaṃ」<br />http://www.j-theravada.net/sutta/Ratana_Sutta.wav<br />♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪








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