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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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#jtba「自由から生まれる苦しみ~感情という束縛~」(HP更新)





協会のfbより紹介です。





#jtba「自由から生まれる苦しみ~感情という束縛~」(HP更新)

  人は自由でいたいのです。自由とは何か、自由で生きていられるのか、ということはどうでもよいのです。「自由に生きたい」という感情だけが強くあるので す。自由について学んでないので、わがまま好き勝手に生きられるなら、それが自由だと思っているのです。わがまま好き勝手に生きるとは、残念ながら自由で はなく、感情の奴隷になっていることです。

 ですから、感情を戒めるブッダの教えを守ることによって、自由が無くなったと勘違いする人々も出てくるのです。戒律を守ることで自由が無くなったと思ったら、その人には戒律を守ることが苦痛になります。

 ブッダは、〈戒律を守って生活することで社会的な束縛から解放されて自由とやすらぎを感じるのだ〉と説かれていますが、個人が自分の見方からその意味を ねじ曲げて理解するのです。社会でわがまま奔放で感情に溺れて好き勝手に(自由に)生きていたのに、戒律を守ろうとした時点から自由が無くなった・生きる ことが苦しくなった、と思ってしまう場合もある。このようなケースは仏典にも記録されています。

◆犬の生活
 ここで、面白いポイントが観えてきます。現実的に自由であるか、束縛されているかは関係ないのです。その個人が自由だと思うならば、どんな生き方もその 個人にとっては楽しいのです。長い年月、受刑者として過ごした人が刑期を終えて社会に出されたら、どう生きていけばよいのか分からなくなります。途方に暮 れてしまいます。刑務所生活は自由で安全だったと思ってしまいます。

 例として、犬の生活を考えてみましょう。犬は、本来なら森で群れを作って楽しく過ごせる生き物でした。しかし人間が犬を飼ってしまったのです。犬から見 れば飼い主がマスターで、自分は子分です。命令に従えばよい存在なのです。人間に飼われて人間の生き方に合わせて生きることは、犬にとっては苦しいはずで す。走り回れない。気持よく吠えることも禁止。攻撃したい相手を見つけても牙をみせて攻撃してはいけない。地面に穴を掘って寝ることは気持ちいいのに、人 間の社会に生きている間は無理です。

 しかし犬は、人間に飼われることが自由に生きられることだと思っているようです。時々、大事に飼っていた犬なのに、捨てなくてはいけない場合も起こりま す。捨てられた犬たちは、自由を味わって楽しく生活すればよいのに、逆に不自由を感じるのです。誰かに飼ってほしいと思って、知らない人を見つけても、 尾っぽを振りながら後を追いかけるのです。

 都会に生活していた人が、何かわけがあって田舎で生活するはめになると、不自由を感じます。それが苦しいのです。子供の頃から大人になるまで田舎生活し た人にとっては、都会生活は不自由でおっかない。苦しみを感じるのです。ひとが自由か不自由かを判断する、客観的な基準は無さそうです。他人がそれを決め ることも、大きなお世話です。

 合衆国の政治家が決める自由を、世界の各国に押しつけようと思うこと自体も、人権侵害なのです。独裁政権であっても、国民がそれで構わないと思うなら ば、苦しみを感じません。まわりの国々が勝手に介入して、その独裁政権を倒しても、国民はそれからどのように生きればいいのか分からなくなって、不自由と 苦しみを感じるのです。

 ですから、「自由とは何か」と、その個人が自分特有の定義を作らなくてはいけないのです。個人で考えた自由が、その個人にあるならば、その人は幸せを感じることでしょう。その自由が無くなったら、生きることは現実的に苦しくなるのです。

◆世間の自由は? 感情の奴隷?
 このようなものが、俗世間でいう自由なのです。仏教が考える自由は、当然ながら違います。人々は、生きていきたい、死にたくない、という基本的な衝動で 生きているのです。生きることを支えるものはすべて味方です。それに執着します。生きることの妨げになるものは敵です。それらを壊しに行きます。欲しいも のを限りなく獲得することと、嫌なものは攻撃して打ち勝つことができれば、俗世間は幸福を感じます。

 要するに、自由だと思っているのです。人間みな同じことをやって生きているので、この社会からは争いが消えません。奪い合いが消えません。弱肉強食が消 えません。人間は、誰よりも人間のことが怖いのです。それでも自分の基本的な衝動に従って、生きていきたいと思うのです。

 人が考える成功とは、「どの程度まで基本的な衝動を満たすことができたか」ということです。ですから、億万長者が賛嘆される、権力者が褒められる、戦争で勝った人が英雄になる、銅像も作られる。

 仏教からは、このような生き方は「自由」に見えません。感情の奴隷になって、理性の一欠片もなく生きている生き方である、と見えるのです。現実的に、人 は幸福を感じていないのです。生きるために、死に物狂いで競争しなくてはいけない。やすらぎを感じる余裕はない。笑顔はないのです。ですから仏教では、 〈感情(煩悩)という束縛を破ったところで、正真正銘の自由が現れるのだ〉と説くのです。

◆いちばん酷い束縛
 お釈迦さまの時代、田舎にいたある出家比丘のグループが、釈尊に会うべく舎衛城を訪ねました。翌日、彼らは托鉢のため街に出ました。都会には田舎で目に入らないものがたくさんあります。その時、舎衛城ではたくさんの犯罪者が奉行所に連行されていました。

 国王が裁判にかけるまで、みなを逮捕しておかなくてはいけない。そこで奉行所の役人は、一部の容疑者をロープで縛り、一部は鎖で縛っておきました。他の 一部は木の板で作られたさらし台に架け、または手枷足枷で拘束したのです。田舎から来た比丘たちは、托鉢のついでにその場所を見学しました。

 そして、人々がさまざまな束縛で結ばれて、自由を失って、惨めに、苦しんで、恐怖感を味わっている姿を目の当たりにしました。人間なのに、いまは動物よ りも惨めな状態です。比丘たちは、生存欲・自由・束縛・苦しみということについて、考えさせられました。彼らはお釈迦さまに挨拶が叶ったところで、「人間 にとっていちばん酷い束縛は何でしょうか」と訊いてみようと思ったのです。

 彼らは、奉行所ではさまざまな束縛を受けた多くの人々が、どれほど惨めに苦しんでいたのかと、お釈迦さまに報告しました。次に、人間にとって断ちがたい 一番ひどい束縛は何なのかと、伺ったのです。お釈迦さまは、このように語られたそうです。「縄で縛られること、鎖で縛られること、さらし台に架けられるこ となどは、それほど厳しい束縛ではありません。財産や家族に対する執着、渇愛、煩悩こそが、最大の苦しみを招く断ちがたい束縛なのです」と。

◆最も困難な闘い
 この言葉を少々、解釈します。さらし台に架けられて苦しんでいても、誰かに簡単にその束縛を無くすことができます。もし国王が犯罪者に恩赦を与えたなら ば、束縛はそれで終わりです。束縛を無くす方法は、いたって簡単です。しかし束縛されることは、多大な苦しみであることも事実です。なかでも、感情の奴隷 になっていることが、最大の束縛です。悪いことに、当人はそれに気づかないのです。

 人が気づこうが気づくまいが関係なく、束縛は苦しみを作ります。普通に俗世間で生活をしても、人生は苦しみのどん底なのです。家族がいることで幸せだと 思う。それは自分の生存欲から見れば、味方の範疇に入るからです。しかし家族を養わなくてはいけない。家族の機嫌をとってあげなくてはいけない。家族を敵 から守らなくてはいけない。一向に暇がないのです。財産がある時、幸せを感じます。それも生存欲の味方だからです。

 しかし、財産は勝手に入るものではありません。入った財産が他人に盗まれることも、王に没収されることもあります。火事に焼かれることも、洪水に流され ることもあります。地震・津波・竜巻などで無くなってしまうこともあります。とにかく、財産を守る苦しみがあるのです。

 お釈迦さまは、感情の奴隷として生きている事実に気づかないことを、「無明」と呼びます。「感情という束縛」を断つことが、いちばん難しいのです。巨大 な帝国と戦って植民地になった祖国の自由を勝ち取るのは、難しくありません。凶暴な独裁者を倒して自由を獲得するのは、難しくありません。偉大なる人と は、自分自身を奴隷にしている感情と闘い、自由を勝ち取った人のことです。

●イラスト:髙橋優子
▼参考テキスト
世間の自由VS仏教の自由~苦しみは束縛によって生まれる~
http://www.j-theravada.net/howa/howa209.html
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

写真: #jtba「自由から生まれる苦しみ~感情という束縛~」(HP更新)<br><br>  人は自由でいたいのです。自由とは何か、自由で生きていられるのか、ということはどうでもよいのです。「自由に生きたい」という感情だけが強くあるのです。自由について学んでないので、わがまま好き勝手に生きられるなら、それが自由だと思っているのです。わがまま好き勝手に生きるとは、残念ながら自由ではなく、感情の奴隷になっていることです。<br><br> ですから、感情を戒めるブッダの教えを守ることによって、自由が無くなったと勘違いする人々も出てくるのです。戒律を守ることで自由が無くなったと思ったら、その人には戒律を守ることが苦痛になります。<br><br> ブッダは、〈戒律を守って生活することで社会的な束縛から解放されて自由とやすらぎを感じるのだ〉と説かれていますが、個人が自分の見方からその意味をねじ曲げて理解するのです。社会でわがまま奔放で感情に溺れて好き勝手に(自由に)生きていたのに、戒律を守ろうとした時点から自由が無くなった・生きることが苦しくなった、と思ってしまう場合もある。このようなケースは仏典にも記録されています。<br><br>◆犬の生活<br> ここで、面白いポイントが観えてきます。現実的に自由であるか、束縛されているかは関係ないのです。その個人が自由だと思うならば、どんな生き方もその個人にとっては楽しいのです。長い年月、受刑者として過ごした人が刑期を終えて社会に出されたら、どう生きていけばよいのか分からなくなります。途方に暮れてしまいます。刑務所生活は自由で安全だったと思ってしまいます。<br><br> 例として、犬の生活を考えてみましょう。犬は、本来なら森で群れを作って楽しく過ごせる生き物でした。しかし人間が犬を飼ってしまったのです。犬から見れば飼い主がマスターで、自分は子分です。命令に従えばよい存在なのです。人間に飼われて人間の生き方に合わせて生きることは、犬にとっては苦しいはずです。走り回れない。気持よく吠えることも禁止。攻撃したい相手を見つけても牙をみせて攻撃してはいけない。地面に穴を掘って寝ることは気持ちいいのに、人間の社会に生きている間は無理です。<br><br> しかし犬は、人間に飼われることが自由に生きられることだと思っているようです。時々、大事に飼っていた犬なのに、捨てなくてはいけない場合も起こります。捨てられた犬たちは、自由を味わって楽しく生活すればよいのに、逆に不自由を感じるのです。誰かに飼ってほしいと思って、知らない人を見つけても、尾っぽを振りながら後を追いかけるのです。<br><br> 都会に生活していた人が、何かわけがあって田舎で生活するはめになると、不自由を感じます。それが苦しいのです。子供の頃から大人になるまで田舎生活した人にとっては、都会生活は不自由でおっかない。苦しみを感じるのです。ひとが自由か不自由かを判断する、客観的な基準は無さそうです。他人がそれを決めることも、大きなお世話です。<br><br> 合衆国の政治家が決める自由を、世界の各国に押しつけようと思うこと自体も、人権侵害なのです。独裁政権であっても、国民がそれで構わないと思うならば、苦しみを感じません。まわりの国々が勝手に介入して、その独裁政権を倒しても、国民はそれからどのように生きればいいのか分からなくなって、不自由と苦しみを感じるのです。<br><br> ですから、「自由とは何か」と、その個人が自分特有の定義を作らなくてはいけないのです。個人で考えた自由が、その個人にあるならば、その人は幸せを感じることでしょう。その自由が無くなったら、生きることは現実的に苦しくなるのです。<br><br>◆世間の自由は? 感情の奴隷?<br> このようなものが、俗世間でいう自由なのです。仏教が考える自由は、当然ながら違います。人々は、生きていきたい、死にたくない、という基本的な衝動で生きているのです。生きることを支えるものはすべて味方です。それに執着します。生きることの妨げになるものは敵です。それらを壊しに行きます。欲しいものを限りなく獲得することと、嫌なものは攻撃して打ち勝つことができれば、俗世間は幸福を感じます。<br><br> 要するに、自由だと思っているのです。人間みな同じことをやって生きているので、この社会からは争いが消えません。奪い合いが消えません。弱肉強食が消えません。人間は、誰よりも人間のことが怖いのです。それでも自分の基本的な衝動に従って、生きていきたいと思うのです。<br><br> 人が考える成功とは、「どの程度まで基本的な衝動を満たすことができたか」ということです。ですから、億万長者が賛嘆される、権力者が褒められる、戦争で勝った人が英雄になる、銅像も作られる。<br><br> 仏教からは、このような生き方は「自由」に見えません。感情の奴隷になって、理性の一欠片もなく生きている生き方である、と見えるのです。現実的に、人は幸福を感じていないのです。生きるために、死に物狂いで競争しなくてはいけない。やすらぎを感じる余裕はない。笑顔はないのです。ですから仏教では、〈感情(煩悩)という束縛を破ったところで、正真正銘の自由が現れるのだ〉と説くのです。<br><br>◆いちばん酷い束縛<br> お釈迦さまの時代、田舎にいたある出家比丘のグループが、釈尊に会うべく舎衛城を訪ねました。翌日、彼らは托鉢のため街に出ました。都会には田舎で目に入らないものがたくさんあります。その時、舎衛城ではたくさんの犯罪者が奉行所に連行されていました。<br><br> 国王が裁判にかけるまで、みなを逮捕しておかなくてはいけない。そこで奉行所の役人は、一部の容疑者をロープで縛り、一部は鎖で縛っておきました。他の一部は木の板で作られたさらし台に架け、または手枷足枷で拘束したのです。田舎から来た比丘たちは、托鉢のついでにその場所を見学しました。<br><br> そして、人々がさまざまな束縛で結ばれて、自由を失って、惨めに、苦しんで、恐怖感を味わっている姿を目の当たりにしました。人間なのに、いまは動物よりも惨めな状態です。比丘たちは、生存欲・自由・束縛・苦しみということについて、考えさせられました。彼らはお釈迦さまに挨拶が叶ったところで、「人間にとっていちばん酷い束縛は何でしょうか」と訊いてみようと思ったのです。<br><br> 彼らは、奉行所ではさまざまな束縛を受けた多くの人々が、どれほど惨めに苦しんでいたのかと、お釈迦さまに報告しました。次に、人間にとって断ちがたい一番ひどい束縛は何なのかと、伺ったのです。お釈迦さまは、このように語られたそうです。「縄で縛られること、鎖で縛られること、さらし台に架けられることなどは、それほど厳しい束縛ではありません。財産や家族に対する執着、渇愛、煩悩こそが、最大の苦しみを招く断ちがたい束縛なのです」と。<br><br>◆最も困難な闘い<br> この言葉を少々、解釈します。さらし台に架けられて苦しんでいても、誰かに簡単にその束縛を無くすことができます。もし国王が犯罪者に恩赦を与えたならば、束縛はそれで終わりです。束縛を無くす方法は、いたって簡単です。しかし束縛されることは、多大な苦しみであることも事実です。なかでも、感情の奴隷になっていることが、最大の束縛です。悪いことに、当人はそれに気づかないのです。<br><br> 人が気づこうが気づくまいが関係なく、束縛は苦しみを作ります。普通に俗世間で生活をしても、人生は苦しみのどん底なのです。家族がいることで幸せだと思う。それは自分の生存欲から見れば、味方の範疇に入るからです。しかし家族を養わなくてはいけない。家族の機嫌をとってあげなくてはいけない。家族を敵から守らなくてはいけない。一向に暇がないのです。財産がある時、幸せを感じます。それも生存欲の味方だからです。<br><br> しかし、財産は勝手に入るものではありません。入った財産が他人に盗まれることも、王に没収されることもあります。火事に焼かれることも、洪水に流されることもあります。地震・津波・竜巻などで無くなってしまうこともあります。とにかく、財産を守る苦しみがあるのです。<br><br> お釈迦さまは、感情の奴隷として生きている事実に気づかないことを、「無明」と呼びます。「感情という束縛」を断つことが、いちばん難しいのです。巨大な帝国と戦って植民地になった祖国の自由を勝ち取るのは、難しくありません。凶暴な独裁者を倒して自由を獲得するのは、難しくありません。偉大なる人とは、自分自身を奴隷にしている感情と闘い、自由を勝ち取った人のことです。<br><br>●イラスト:髙橋優子<br>▼参考テキスト<br>世間の自由VS仏教の自由~苦しみは束縛によって生まれる~<br>http://www.j-theravada.net/howa/howa209.html<br>♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪









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