fc2ブログ

新WEBサイト公開開始しました

 
■ご訪問者数
■東海ダンマサークル紹介

zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

■カレンダー

08 | 2014/09 | 10
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -

■記事検索

■最新記事

■月別アーカイブ

■カテゴリ
■メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

■リンク
■QRコード

QRコード

私は、人生においても、冥想においても、ケモノの脳に負けることがあります。





協会の記事ではありません。
木下全雄  さんの ブログの紹介です





昨夜はケモノの脳に負けた!

私は、人生においても、冥想においても、ケモノの脳に負けることがあります。

昨夜は、負けて悔しい、と思いました。
が、その悔しさも度が過ぎると「自我」になります。
自我が生まれると、その副産物として、落ち込みや後悔が生まれ易くなるのです。

だから、昨夜はケモノの脳に負けたけれども、まだ負けていません!と自分に言い聞かせよう(笑)
今日もケモノの脳と戦うのだから!まだ負けてはいない(笑)
今日もケモノの脳をねじ伏せることにチャレンジするのだから!まだチャンスがある(笑)

ケモノの脳は私の心と肉体を支配しようとして来ます。(五蓋ゴガイと呼びます)
欲の世界に!
怒りの世界に!
惰眠の世界に!
うわつきと後悔の世界に!
判断力のない世界に!

引きずり込まれそうになっても、いや、ちょっとくらい引きずり込まれても(笑)、なんとか這い出したい、と思います。

その道は、お釈迦様によって説かれ、お釈迦様の教えとして残されていて、お釈迦様のお弟子さん達が実践出来ることを今の時代にも示して下さっています。

ケモノの脳との戦いは、冥想の時にだけ出てくるのではありません。

人生のいかなる場面にも、その戦いは続いています。
ケモノの脳に智慧が勝つまでは、その戦いは続くのです。

欲が出たら戦おう、理性でしょう!
怒りが出たら戦おう、慈悲でしょう!
惰眠が出たら戦おう、実況中継でしょう!
うわつきと後悔が出たら戦おう、今に集中でしょう!
優柔不断が出たら戦おう、客観的に判断でしょう!

今日の写真は、三宝庵所蔵の文殊菩薩の掛け軸です。
文殊菩薩は、獅子を完璧に征服しています。
ケモノの脳を征服して、理性的に生きる姿、それが「文殊菩薩(もんじゅぼさつ)」です。

文殊菩薩を拝むのではなく、私達一人ひとりが、ケモノの脳を征服して、文殊菩薩になることが必要なのです。

ちなみに、菩薩とは、悟りを目指して努力を続ける人、という意味です。
まだ悟ってはいませんが、理性を育てて、慈悲の心を育てて、実況中継をして、自分がやらなければならないことを的確に行う姿を菩薩というのです。
他人になにを言われようとも、慈悲の心を持って、悟りを目指してケモノの脳と戦い、なすべきことをなす姿、そんな文殊菩薩の様な生き方がしたい、と思う今日この頃です。
文殊菩薩は、現在の私のマイブームです(笑) .

昨夜はケモノの脳に負けた!<br><br>私は、人生においても、冥想においても、ケモノの脳に負けることがあります。<br><br>昨夜は、負けて悔しい、と思いました。<br>が、その悔しさも度が過ぎると「自我」になります。<br>自我が生まれると、その副産物として、落ち込みや後悔が生まれ易くなるのです。<br><br>だから、昨夜はケモノの脳に負けたけれども、まだ負けていません!と自分に言い聞かせよう(笑)<br>今日もケモノの脳と戦うのだから!まだ負けてはいない(笑)<br>今日もケモノの脳をねじ伏せることにチャレンジするのだから!まだチャンスがある(笑)<br><br>ケモノの脳は私の心と肉体を支配しようとして来ます。(五蓋ゴガイと呼びます)<br>欲の世界に!<br>怒りの世界に!<br>惰眠の世界に!<br>うわつきと後悔の世界に!<br>判断力のない世界に!<br><br>引きずり込まれそうになっても、いや、ちょっとくらい引きずり込まれても(笑)、なんとか這い出したい、と思います。<br><br>その道は、お釈迦様によって説かれ、お釈迦様の教えとして残されていて、お釈迦様のお弟子さん達が実践出来ることを今の時代にも示して下さっています。<br><br>ケモノの脳との戦いは、冥想の時にだけ出てくるのではありません。<br><br>人生のいかなる場面にも、その戦いは続いています。<br>ケモノの脳に智慧が勝つまでは、その戦いは続くのです。<br><br>欲が出たら戦おう、理性でしょう!<br>怒りが出たら戦おう、慈悲でしょう!<br>惰眠が出たら戦おう、実況中継でしょう!<br>うわつきと後悔が出たら戦おう、今に集中でしょう!<br>優柔不断が出たら戦おう、客観的に判断でしょう!<br><br>今日の写真は、三宝庵所蔵の文殊菩薩の掛け軸です。<br>文殊菩薩は、獅子を完璧に征服しています。<br>ケモノの脳を征服して、理性的に生きる姿、それが「文殊菩薩(もんじゅぼさつ)」です。<br><br>文殊菩薩を拝むのではなく、私達一人ひとりが、ケモノの脳を征服して、文殊菩薩になることが必要なのです。<br><br>ちなみに、菩薩とは、悟りを目指して努力を続ける人、という意味です。<br>まだ悟ってはいませんが、理性を育てて、慈悲の心を育てて、実況中継をして、自分がやらなければならないことを的確に行う姿を菩薩というのです。<br>他人になにを言われようとも、慈悲の心を持って、悟りを目指してケモノの脳と戦い、なすべきことをなす姿、そんな文殊菩薩の様な生き方がしたい、と思う今日この頃です。<br>文殊菩薩は、現在の私のマイブームです(笑) .









スポンサーサイト



Be Happy! | 16:58:32 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「破壊」その2~無明を消す~











#jtba「破壊」その2~無明を消す~

Q:3つめの破壊欲について、もっと具体的に教えてください。
A:たとえば、勉強しようとします。いい大学に入りたいとがんばっても、うまくいかない場合がありますね。希望の大学には入れなかった、ということがある でしょう。世界の環境が私のために動いているならば、私が東大に入りたいと言えば「はい、どうぞどうぞ」ということになるでしょうが、実際には東大は何を 言うかというと「入るな」と、扉を閉めてくるのです。

 そこで、東大と戦わなくてはならないのです。そこではまた、たくさんの人々が同じく戦うのですから、やはり勝つのは決められた人数だけなのです。「相手に勝とう」と破壊欲で行動して、そこで負けると、負けるごとに破壊欲が強くなってしまうのです。

 身近な例で見ると、夏の夜蚊が入ってきて、手で追い出そうとがんばってもなかなか出ていかない。何とかその一匹を殺してやると追いかけ回す。それでなか なか捕まえられないと、どんどん怒りが募ってくるんですね。負ければ負けるほど、強烈に破壊欲が膨張するのです。増えて増えて、強くなっていくのです。

 このような状態がつづくと、普通の世界では、人々は自殺するのです。もう自分には戦えないと。やっていた悪いこと、賄賂を取っていたことや誰かをいじめ ていたことがばれたりすると自殺する。なぜならば自分に敵が現れたのです。自殺するということは、この「破壊欲」という渇愛が、ものすごく強くなっちゃっ たということなのです。あまりにも強い怒りで自殺するのです。わずかでも戦う余地があれば、がんばるのです。わずかでも戦って、自分の欲しいものが得られ るということがわかればがんばりますが、勝てないなあと思ったら、自殺してしまうんですね。

 また人間は慈悲がなければ、自分のためになるなら人も殺すのです。1人でなく、何人でも殺すのです。テロリストは、爆弾を飛行機に取りつけて、とにかく たくさん殺せばよいのだと。自分の目的のためには、大量殺人したほうがよい。そう思えば、原子爆弾でも落とす。今は平和な社会ですから、原子爆弾なんて過 去の話かと思えば、そんなことはありません。今も作っているのですから。しかも、5つの国しか作ってはいけないなんて、信じられないほど汚い考え方です。

 我々に平等や民主主義を教える連中が、爆弾を持つ権利があるのは私たちだけよ、あなたがたは持つべきではないと言うのです。そういうものを絶対使わない と決めてしまえば、何兆円単位のお金が無駄にならなくて済むのです。そのくらい莫大なお金を投入しているのは、必要であれば使いますよ、ということなので す。

 第二次世界大戦で、ヒットラーが自分にとって必要ということで、大量に殺人を犯しました。現代でも、国の幹部が、自分の権力を保ちたい、ただそれだけの ために、何十万もの人を殺しています。それも破壊欲です。そういう人は、失敗すると自殺してしまいます。だから、それだけの人を殺しても、生きていられ る、権力を保てるという見込みがあってやっているのです。ですから人というのは恐ろしい。ずっと国を治める権力を保っていたいと思う権力者、世界を支配し たいと思ったヒットラー、そのくらい大きなものを欲しがったのです。

 私たちはせいぜい、もっとおいしいご飯を食べたいとか、その程度のものを欲しがっているので、怒りは小さいのです。ただ、量の問題なのです。欲の量が増 えてくると、破壊欲もその分、バランスをとって増えていくんですね。だから欲が減れば、その分当然、破壊欲も減っていく。欲がきれいに消えてしまえば、あ の恐ろしい破壊欲も、きれいさっぱり消えてしまう。そのような関係なのです。

Q:自分を殺す破壊欲と他人を殺す破壊欲は正反対に見えますね。
A:自殺は戦いに負けた人の場合です。戦いでどう考えても勝てる見込みがないから自殺する。受験にがんばってきた子が、母親からは「勉強しなさい、東大に 入りなさい」といじめられてきて、それでもやっぱり戦いには負けた。そうすると、母親に合わせる顔がない、友だちに合わせる顔がない、両親が自分に引いた レール、たとえば東大を出て、いい会社に入って、出世して…そんなレールからはずれてしまった、すべて壊れてしまった、もう生きていられないと自殺に向か う。大量殺人は、大きな欲を満たすために、とことん戦う人の場合です。

Q:破壊欲は、いつごろから大きくなっていくのですか。
A:破壊欲、殺し合う気持ちというのは、子供のときからあります。ある母親のもとに2人目の子が生まれるでしょう。そこに殺し合いの原則が生まれますし、 そこから競争も生まれるのです。ですから、2人目の子が生まれる前に、大きくなっている上の子に、一生懸命手をかけ、いろいろなことを教えてあげて、わざ わざ愛情をかけておいてあげないと危険なのです。そうでないと、上の子が、知らないうちに赤ちゃんの首を絞める可能性があります。

 母親は、そういうことは本能的にわかっていますから、先に、もうひとりやって来るんだよ、ということを教えてあげます。そこでちょっと、ごまかしもする んですね。「良かったねえ、これからあなたはお兄ちゃんになるんだよ。弟かなあ、妹かなあ」。本人は、何が良かったのかさっぱりわからないのですが、良 かったと言われるのだから、何か良いことがあるのだろうと錯覚するのです。今まで自分のことだけにかまってくれていた母親が、自分のことをまったく無視し ている。それでも強引に、何か良かったのだろうと思って、なんとかまあまあ生きているのです。

Q:兄弟が助け合うような感情はないのですか。
A:助け合い、慈悲というのは、わざわざ強引に、無理矢理育てないと現れないものなのです。ですから、世の中を哲学的に見ると、あまりにも恐ろしいので す。母親さえ、自分の邪魔になるというなら、子を殺すのです。母親に得がないと子供は育ちません。子供を産んで、自分の立場が良くなったとか、これから子 育てを楽しむぞとか、自分にとってプラスのものが生まれてくると育てるのであって、マイナスが生まれてくると壊すという働きは確実にあるのです。

Q:破壊欲、渇愛の原因は何ですか?
A:仏教には「無明」という概念があります。「無明があるから渇愛が生まれる」と考えます。逆に言えば、ものごとをきちんと観られるようになれば、渇愛は消えてしまうのだということです。渇愛が完全に消えてしまえば、もう輪廻転生もありません。

 しかし、仏教では「人間は本来恐ろしさのかたまりだ」と言いながら、優しくしなさい、人を助けなさいと言います。そして、欲を減らしなさいと中道を語る のです。他の哲学では「人間は恐ろしいのだから自分を捨てなさい」とか、「自分を破壊しなさい」とかいう場合もあるようですが、仏教で言うのは「自分を捨 てろ」ということではなく、「欲を捨てなさい」ということなんですね。「無明と渇愛を客観的に観ることで消してみましょう」というのがお釈迦さまの教えな んですね。

●photo:Experiment - Glass Sheet #4 by Matt Rogers
▼参考テキスト
【76】 続・渇愛~とくに破壊欲に関して
http://www.j-theravada.net/qa/gimon76.html
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪





















写真: #jtba「破壊」その2~無明を消す~<br><br>Q:3つめの破壊欲について、もっと具体的に教えてください。<br>A:たとえば、勉強しようとします。いい大学に入りたいとがんばっても、うまくいかない場合がありますね。希望の大学には入れなかった、ということがあるでしょう。世界の環境が私のために動いているならば、私が東大に入りたいと言えば「はい、どうぞどうぞ」ということになるでしょうが、実際には東大は何を言うかというと「入るな」と、扉を閉めてくるのです。<br><br> そこで、東大と戦わなくてはならないのです。そこではまた、たくさんの人々が同じく戦うのですから、やはり勝つのは決められた人数だけなのです。「相手に勝とう」と破壊欲で行動して、そこで負けると、負けるごとに破壊欲が強くなってしまうのです。<br><br> 身近な例で見ると、夏の夜蚊が入ってきて、手で追い出そうとがんばってもなかなか出ていかない。何とかその一匹を殺してやると追いかけ回す。それでなかなか捕まえられないと、どんどん怒りが募ってくるんですね。負ければ負けるほど、強烈に破壊欲が膨張するのです。増えて増えて、強くなっていくのです。<br><br> このような状態がつづくと、普通の世界では、人々は自殺するのです。もう自分には戦えないと。やっていた悪いこと、賄賂を取っていたことや誰かをいじめていたことがばれたりすると自殺する。なぜならば自分に敵が現れたのです。自殺するということは、この「破壊欲」という渇愛が、ものすごく強くなっちゃったということなのです。あまりにも強い怒りで自殺するのです。わずかでも戦う余地があれば、がんばるのです。わずかでも戦って、自分の欲しいものが得られるということがわかればがんばりますが、勝てないなあと思ったら、自殺してしまうんですね。<br><br> また人間は慈悲がなければ、自分のためになるなら人も殺すのです。1人でなく、何人でも殺すのです。テロリストは、爆弾を飛行機に取りつけて、とにかくたくさん殺せばよいのだと。自分の目的のためには、大量殺人したほうがよい。そう思えば、原子爆弾でも落とす。今は平和な社会ですから、原子爆弾なんて過去の話かと思えば、そんなことはありません。今も作っているのですから。しかも、5つの国しか作ってはいけないなんて、信じられないほど汚い考え方です。<br><br> 我々に平等や民主主義を教える連中が、爆弾を持つ権利があるのは私たちだけよ、あなたがたは持つべきではないと言うのです。そういうものを絶対使わないと決めてしまえば、何兆円単位のお金が無駄にならなくて済むのです。そのくらい莫大なお金を投入しているのは、必要であれば使いますよ、ということなのです。<br><br> 第二次世界大戦で、ヒットラーが自分にとって必要ということで、大量に殺人を犯しました。現代でも、国の幹部が、自分の権力を保ちたい、ただそれだけのために、何十万もの人を殺しています。それも破壊欲です。そういう人は、失敗すると自殺してしまいます。だから、それだけの人を殺しても、生きていられる、権力を保てるという見込みがあってやっているのです。ですから人というのは恐ろしい。ずっと国を治める権力を保っていたいと思う権力者、世界を支配したいと思ったヒットラー、そのくらい大きなものを欲しがったのです。<br><br> 私たちはせいぜい、もっとおいしいご飯を食べたいとか、その程度のものを欲しがっているので、怒りは小さいのです。ただ、量の問題なのです。欲の量が増えてくると、破壊欲もその分、バランスをとって増えていくんですね。だから欲が減れば、その分当然、破壊欲も減っていく。欲がきれいに消えてしまえば、あの恐ろしい破壊欲も、きれいさっぱり消えてしまう。そのような関係なのです。<br><br>Q:自分を殺す破壊欲と他人を殺す破壊欲は正反対に見えますね。<br>A:自殺は戦いに負けた人の場合です。戦いでどう考えても勝てる見込みがないから自殺する。受験にがんばってきた子が、母親からは「勉強しなさい、東大に入りなさい」といじめられてきて、それでもやっぱり戦いには負けた。そうすると、母親に合わせる顔がない、友だちに合わせる顔がない、両親が自分に引いたレール、たとえば東大を出て、いい会社に入って、出世して…そんなレールからはずれてしまった、すべて壊れてしまった、もう生きていられないと自殺に向かう。大量殺人は、大きな欲を満たすために、とことん戦う人の場合です。<br><br>Q:破壊欲は、いつごろから大きくなっていくのですか。<br>A:破壊欲、殺し合う気持ちというのは、子供のときからあります。ある母親のもとに2人目の子が生まれるでしょう。そこに殺し合いの原則が生まれますし、そこから競争も生まれるのです。ですから、2人目の子が生まれる前に、大きくなっている上の子に、一生懸命手をかけ、いろいろなことを教えてあげて、わざわざ愛情をかけておいてあげないと危険なのです。そうでないと、上の子が、知らないうちに赤ちゃんの首を絞める可能性があります。<br><br> 母親は、そういうことは本能的にわかっていますから、先に、もうひとりやって来るんだよ、ということを教えてあげます。そこでちょっと、ごまかしもするんですね。「良かったねえ、これからあなたはお兄ちゃんになるんだよ。弟かなあ、妹かなあ」。本人は、何が良かったのかさっぱりわからないのですが、良かったと言われるのだから、何か良いことがあるのだろうと錯覚するのです。今まで自分のことだけにかまってくれていた母親が、自分のことをまったく無視している。それでも強引に、何か良かったのだろうと思って、なんとかまあまあ生きているのです。<br><br>Q:兄弟が助け合うような感情はないのですか。<br>A:助け合い、慈悲というのは、わざわざ強引に、無理矢理育てないと現れないものなのです。ですから、世の中を哲学的に見ると、あまりにも恐ろしいのです。母親さえ、自分の邪魔になるというなら、子を殺すのです。母親に得がないと子供は育ちません。子供を産んで、自分の立場が良くなったとか、これから子育てを楽しむぞとか、自分にとってプラスのものが生まれてくると育てるのであって、マイナスが生まれてくると壊すという働きは確実にあるのです。<br><br>Q:破壊欲、渇愛の原因は何ですか?<br>A:仏教には「無明」という概念があります。「無明があるから渇愛が生まれる」と考えます。逆に言えば、ものごとをきちんと観られるようになれば、渇愛は消えてしまうのだということです。渇愛が完全に消えてしまえば、もう輪廻転生もありません。<br><br> しかし、仏教では「人間は本来恐ろしさのかたまりだ」と言いながら、優しくしなさい、人を助けなさいと言います。そして、欲を減らしなさいと中道を語るのです。他の哲学では「人間は恐ろしいのだから自分を捨てなさい」とか、「自分を破壊しなさい」とかいう場合もあるようですが、仏教で言うのは「自分を捨てろ」ということではなく、「欲を捨てなさい」ということなんですね。「無明と渇愛を客観的に観ることで消してみましょう」というのがお釈迦さまの教えなんですね。<br><br>●photo:Experiment - Glass Sheet #4 by Matt Rogers<br>▼参考テキスト<br>【76】 続・渇愛~とくに破壊欲に関して<br>http://www.j-theravada.net/qa/gimon76.html<br>♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪





facebook | 15:40:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
・9月27日(土)15:00~22:00--- 三河方面自主冥想会のご案内(9月)




協会の記事ではありません。
東海ダンマの自主行事です。

三河方面自主冥想会のご案内(9月)

・9月27日(土)15:00~22:00






仏道修行者の皆様へ


 秋も近づく季節です。しかし、あいにくの雨空の多い日々が続いております。

 そして、体調に変化を来す季節でもあります。常日頃における体調管理を十分にされ健やかでありますようにと願います。

 
 いつものように9月の冥想会の案内申し上げます。

また、会場は刈谷駅前直ぐですので、三河方面だけでなく他地域の方もお気軽に参加ください。


・9月13日(土)15:00~22:00
・9月20日(土)15:00~22:00
・9月27日(土)15:00~22:00

  ※どの日程も途中参加・退出は可能です。

・場所 :刈谷市中央生涯学習センター和室1(刈谷市総合文化センター内3階)
 URL : http://www.kariya.hall-info.jp/index.php?menuID=5
・交通 : JR名古屋駅~刈谷駅(新快速17分)南口から西へ徒歩3分
  車 : 駐車場(文化センター駐車場)が隣接。(参加者:4時間無料)

・参加費:会場代/参加者数(途中参加・退出者一律500円也)
・連絡先:三谷 090ー9897ー2882 mail:mj888jp@…

 とくには申込み不要ですが、開催週の水曜日までに連絡頂ければありがたいです。

従って、参加人数少ない場合は中止・変更もありますので、必ず出掛ける前に私及び直接会場に確認をして下さい。
                               

  では、皆様が幸福でありますように~。                                      

 東海ダンマサークル 三谷 








行事予定 | 11:12:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「破壊」~3つのうちのひとつ~





協会の記事ではありません。
きょうかいのfbより紹介です。





#jtba「破壊」~3つのうちのひとつ~

Q:渇愛とは何でしょうか?
A:生命には渇愛があります。渇愛があるから、終わりなく生き続けていくのです。死んでもそこで終わらないというのは、仏教の考え方です。

 渇愛というのは、文字通りに渇いている状態。欲しがる状態。「トゥルシュナー」というのはパーリ語、サンスクリット語で、日常の渇く状態にも使っている し、何かをすごく欲しがるときにも、「トゥルシュナー、タンハー」といいます。それが日本語で「渇愛」となっているんですね。

 生命は皆、いつでもこの「欲しがる状態」でいるのです。我々のこころの中ではいつも、この「欲しい」「欲しい」という欲しがるエネルギーがあって、それ は消えないのです。あれもやりたい、これもやりたい、あれを聞きたい、これを聞きたい、あれを見たい、これも見たいと、いつでもその欲しがるエネルギーが 働いているのです。人間ばかりでなく、どんな生命でも、欲しいものを得よう、得ようとしてしまうのです。欲しいものを得たら、もう探求するのをやめた方が いいでしょう?
 
 それがやめられないのです。それは不思議な働きなのです。欲しいものを得たら次にはまた違うものが欲しくなる。さらにまた違うものを欲しくなる。この、欲しがる感覚、気持ちは消えません。

 たとえば寒いなら暖房をつける。そうすると暖かくなる。暖かい空気が欲しいと思って、暖房をつけたら暖かい空気が入ってきて、その「欲しい」という渇愛 は消えるのです。でも、それでは終わらないでしょう? 次には違うものを欲しがってしまうのです。暖かくなったところで、それでは煎餅でも食べてお茶でも 飲もうと、次のものを欲しがってしまうのです。そして、煎餅を食べてお茶を飲んだところで終わるのかと思えば、そうじゃないでしょう。時間も経ったし疲れ てきたから、寝ようと。あるいはお風呂に入ろうということになる。そうやって次から次へと欲しがるものは生まれてきます。

 それだから探すことには終わりがなく、生命の苦しみには終わりがない。そして死ぬときにも、もっと生きていたいという、欲しがる気持ちで死んでしまう。 そうなると、死んでもそのエネルギーは消えない、ということで輪廻するだろうということが推測できるのです。現在の我々の生き方を見ていると我々はぜんぜ んストップしませんね。考えるということもそのひとつです。ひとつ考えると、考えたくて考えたくて、考えるのです。考えたいことを考えて、終わったらやめ ればいいのに、こころは止まりません。考えて終わったら、それから次、というふうになってしまうのです。

 読みたい本を読む。しかし、読んでいる途中で、これが終わったら他の本を読みたいなあという気持ちがすでに生まれているのです。そんなふうに、我々の活 動は止まりません。活動を続けることで、生きているということになります。死ぬときも同じ気持ちだから、そこで活動は止まらないだろうと。いつでも何か欲 しがって、欲しがって、そこで生きている、その欲しがる気持ちを渇愛といいます。

Q:もう少し具体的に教えてください。
A:欲しがる気持ちといっても、顕微鏡で見ると3種類の欲しがる気持ちがあって、それら3本の糸が組み合わさって1本のひもが編み上がっている、3本の糸が1本に巻いているような感じの気持ちなのです。

 1つ目は、ものを欲しがる気持ち。煎餅を食べたい、テレビを見たい。音楽を聴きたい、服を着たい、暖房をつけたいと。からだに触れるものを欲しがる気持 ちです。からだに触れるものといえば、目に見えるもの、耳で聞こえるもの、舌や鼻で感じるもの、からだで感じるもの、その5つですね。その欲しい気持ちに 従って、食べたり買ったりしますが、おいしいものを食べれば、次には何を食べようと考え、CDを買って音楽を聴いても、今度はどんなCDを買おうかなと、 ずーっと終わらないのです、ものを欲しがることは。

 2つ目の欲は、死にたくないという気持ち。生きていたいという気持ちなんですね。1番目のように、ものを欲しがるのは、生きるためなんですね。生きてい ても満足しませんね、だから今までも生きてきたのですけれど、まだ満足していない、もっと生きていたいと。すごく存在欲があるのです。だから人間というの は、歳なんか聞かれると、あまり気分が良くないでしょう。若いときは元気に返事しますけれど、歳をとるに従って、何か聞かない方がいいことのようになって きます。まだまだ満足していないから、まだまだがんばりたいからね。

 そして問題の3つ目です。3本目の糸は「破壊欲」です。ここまで理解できれば、破壊欲も理解できるでしょう。生きていたいという気持ちがあれば、生きる こと自体がものすごい競争ですし、欲しいものがすべて手にはいるわけではありませんから、欲しいものというのはすごく苦労して競争して、戦って得なくては いけないのです。この3本の糸が1本に編み上がったものを渇愛といいます。

 ですから、存在というのは、私たちの希望とは反対の方向へ動いているのです。私たちは生きていきたいのだけれど、置かれている環境を、我々は壊そうとし ているのです。我々は自分のからだがすごく好きで大切なんですが、じーっと置いて動かさないでおくとからだはどうなりますか? 壊れていって、死んでしま うのです。ということは、からだ自体も我々を殺そうとしているのです。

 ですから、がんばって、苦労して、競争して、戦うのです。水を飲み、ご飯を食べ、運動し、服を着て、暖房をつけ、本を読み…。我々の頭だって、どんどん 暗くなって落ち込んでいっちゃったら体は壊れていってしまいます。ですから、頭をいつでも楽しく、明るい状態に、動いている状態にしておかないと。だから みんな、芸術に触れたり、見たり聞いたりふざけたり遊んだりしている。そういうふうに必死で活動しないと、死んでしまうのです。

Q:破壊欲についてもう少し教えてください。
A:私たちは生きていたい、そしてものを欲しがるのですが、生命は破壊欲もなければ生きていられないのです。我々は、自分のプラスにならないものを破壊し ていくのです。そしていつしか自分の置かれている環境を壊そうとするのです。壊したい気持ちも欲なのです。ですから、私たちの生き方というのは、あるもの を育て、あるものを壊す。

 たとえば私たちは、害虫なんかは殺してやろうと思っているじゃないですか。ウィルスや細菌を殺してやろうと思っているでしょう。そのように、いろいろなところで、いやなものを壊そうとして行動している。戦争も、結局は同じ欲求の延長線上にあります。

 会社に行っても、自分の邪魔をしようとする連中には、すごく怒りを感じ、何とか邪魔しようという気持ちが生まれてくるのです。その人を放っておけば自分 がダメージを受ける。女性が嫁に行ったら、姑がいろいろなことを言って行動を規制する。そこで、この人はいやだと怒りが生まれ、当然ながら破壊欲が生まれ てくるのです。

 我々は誰でも、悪い条件を壊して、良い条件を揃えるということで生きているのです。じゃがいも1個を持ってきても、洗って、悪くなっているところを包丁 で取って、皮をむいて、それからゆでたりして食べますからね。じゃがいも1個を見ても、食べたいからと、そのままぱくっと食べるわけにはいきません。どこ か一部を壊さなければならないのです。ここにもやはり3本の糸がからみあっています。じゃがいもが欲しいという1番目の欲、これを食べて元気になりたいと いう2番目の欲、そして洗ってきれいにしてゆでて食べましょうという3番目の破壊欲、そうやって渇愛は3本セットで動いているのです。

●photo:Golden Rope, A Gleam in the Night by cobalt123
▼参考テキスト
【74】 渇愛~とくに破壊欲に関して
http://www.j-theravada.net/qa/gimon75.html
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

写真: #jtba「破壊」~3つのうちのひとつ~<br><br>Q:渇愛とは何でしょうか?<br>A:生命には渇愛があります。渇愛があるから、終わりなく生き続けていくのです。死んでもそこで終わらないというのは、仏教の考え方です。<br><br> 渇愛というのは、文字通りに渇いている状態。欲しがる状態。「トゥルシュナー」というのはパーリ語、サンスクリット語で、日常の渇く状態にも使っているし、何かをすごく欲しがるときにも、「トゥルシュナー、タンハー」といいます。それが日本語で「渇愛」となっているんですね。<br><br> 生命は皆、いつでもこの「欲しがる状態」でいるのです。我々のこころの中ではいつも、この「欲しい」「欲しい」という欲しがるエネルギーがあって、それは消えないのです。あれもやりたい、これもやりたい、あれを聞きたい、これを聞きたい、あれを見たい、これも見たいと、いつでもその欲しがるエネルギーが働いているのです。人間ばかりでなく、どんな生命でも、欲しいものを得よう、得ようとしてしまうのです。欲しいものを得たら、もう探求するのをやめた方がいいでしょう?<br> <br> それがやめられないのです。それは不思議な働きなのです。欲しいものを得たら次にはまた違うものが欲しくなる。さらにまた違うものを欲しくなる。この、欲しがる感覚、気持ちは消えません。<br><br> たとえば寒いなら暖房をつける。そうすると暖かくなる。暖かい空気が欲しいと思って、暖房をつけたら暖かい空気が入ってきて、その「欲しい」という渇愛は消えるのです。でも、それでは終わらないでしょう? 次には違うものを欲しがってしまうのです。暖かくなったところで、それでは煎餅でも食べてお茶でも飲もうと、次のものを欲しがってしまうのです。そして、煎餅を食べてお茶を飲んだところで終わるのかと思えば、そうじゃないでしょう。時間も経ったし疲れてきたから、寝ようと。あるいはお風呂に入ろうということになる。そうやって次から次へと欲しがるものは生まれてきます。<br><br> それだから探すことには終わりがなく、生命の苦しみには終わりがない。そして死ぬときにも、もっと生きていたいという、欲しがる気持ちで死んでしまう。そうなると、死んでもそのエネルギーは消えない、ということで輪廻するだろうということが推測できるのです。現在の我々の生き方を見ていると我々はぜんぜんストップしませんね。考えるということもそのひとつです。ひとつ考えると、考えたくて考えたくて、考えるのです。考えたいことを考えて、終わったらやめればいいのに、こころは止まりません。考えて終わったら、それから次、というふうになってしまうのです。<br><br> 読みたい本を読む。しかし、読んでいる途中で、これが終わったら他の本を読みたいなあという気持ちがすでに生まれているのです。そんなふうに、我々の活動は止まりません。活動を続けることで、生きているということになります。死ぬときも同じ気持ちだから、そこで活動は止まらないだろうと。いつでも何か欲しがって、欲しがって、そこで生きている、その欲しがる気持ちを渇愛といいます。<br><br>Q:もう少し具体的に教えてください。<br>A:欲しがる気持ちといっても、顕微鏡で見ると3種類の欲しがる気持ちがあって、それら3本の糸が組み合わさって1本のひもが編み上がっている、3本の糸が1本に巻いているような感じの気持ちなのです。<br><br> 1つ目は、ものを欲しがる気持ち。煎餅を食べたい、テレビを見たい。音楽を聴きたい、服を着たい、暖房をつけたいと。からだに触れるものを欲しがる気持ちです。からだに触れるものといえば、目に見えるもの、耳で聞こえるもの、舌や鼻で感じるもの、からだで感じるもの、その5つですね。その欲しい気持ちに従って、食べたり買ったりしますが、おいしいものを食べれば、次には何を食べようと考え、CDを買って音楽を聴いても、今度はどんなCDを買おうかなと、ずーっと終わらないのです、ものを欲しがることは。<br><br> 2つ目の欲は、死にたくないという気持ち。生きていたいという気持ちなんですね。1番目のように、ものを欲しがるのは、生きるためなんですね。生きていても満足しませんね、だから今までも生きてきたのですけれど、まだ満足していない、もっと生きていたいと。すごく存在欲があるのです。だから人間というのは、歳なんか聞かれると、あまり気分が良くないでしょう。若いときは元気に返事しますけれど、歳をとるに従って、何か聞かない方がいいことのようになってきます。まだまだ満足していないから、まだまだがんばりたいからね。<br><br> そして問題の3つ目です。3本目の糸は「破壊欲」です。ここまで理解できれば、破壊欲も理解できるでしょう。生きていたいという気持ちがあれば、生きること自体がものすごい競争ですし、欲しいものがすべて手にはいるわけではありませんから、欲しいものというのはすごく苦労して競争して、戦って得なくてはいけないのです。この3本の糸が1本に編み上がったものを渇愛といいます。<br><br> ですから、存在というのは、私たちの希望とは反対の方向へ動いているのです。私たちは生きていきたいのだけれど、置かれている環境を、我々は壊そうとしているのです。我々は自分のからだがすごく好きで大切なんですが、じーっと置いて動かさないでおくとからだはどうなりますか? 壊れていって、死んでしまうのです。ということは、からだ自体も我々を殺そうとしているのです。<br><br> ですから、がんばって、苦労して、競争して、戦うのです。水を飲み、ご飯を食べ、運動し、服を着て、暖房をつけ、本を読み…。我々の頭だって、どんどん暗くなって落ち込んでいっちゃったら体は壊れていってしまいます。ですから、頭をいつでも楽しく、明るい状態に、動いている状態にしておかないと。だからみんな、芸術に触れたり、見たり聞いたりふざけたり遊んだりしている。そういうふうに必死で活動しないと、死んでしまうのです。<br><br>Q:破壊欲についてもう少し教えてください。<br>A:私たちは生きていたい、そしてものを欲しがるのですが、生命は破壊欲もなければ生きていられないのです。我々は、自分のプラスにならないものを破壊していくのです。そしていつしか自分の置かれている環境を壊そうとするのです。壊したい気持ちも欲なのです。ですから、私たちの生き方というのは、あるものを育て、あるものを壊す。<br><br> たとえば私たちは、害虫なんかは殺してやろうと思っているじゃないですか。ウィルスや細菌を殺してやろうと思っているでしょう。そのように、いろいろなところで、いやなものを壊そうとして行動している。戦争も、結局は同じ欲求の延長線上にあります。<br><br> 会社に行っても、自分の邪魔をしようとする連中には、すごく怒りを感じ、何とか邪魔しようという気持ちが生まれてくるのです。その人を放っておけば自分がダメージを受ける。女性が嫁に行ったら、姑がいろいろなことを言って行動を規制する。そこで、この人はいやだと怒りが生まれ、当然ながら破壊欲が生まれてくるのです。<br><br> 我々は誰でも、悪い条件を壊して、良い条件を揃えるということで生きているのです。じゃがいも1個を持ってきても、洗って、悪くなっているところを包丁で取って、皮をむいて、それからゆでたりして食べますからね。じゃがいも1個を見ても、食べたいからと、そのままぱくっと食べるわけにはいきません。どこか一部を壊さなければならないのです。ここにもやはり3本の糸がからみあっています。じゃがいもが欲しいという1番目の欲、これを食べて元気になりたいという2番目の欲、そして洗ってきれいにしてゆでて食べましょうという3番目の破壊欲、そうやって渇愛は3本セットで動いているのです。<br><br>●photo:Golden Rope, A Gleam in the Night by cobalt123<br>▼参考テキスト<br>【74】 渇愛~とくに破壊欲に関して<br>http://www.j-theravada.net/qa/gimon75.html<br>♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪









facebook | 12:23:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「とめどない欲求」~根本を探る~





協会の記事ではありません。
きょうかいのfbより紹介です。





#jtba「とめどない欲求」~根本を探る~

 仏陀が明かされた真理は、人類にとって初めてのもので、未だかつて誰にも発見できなかったものであると釈尊が説かれています。この真理こそすべての生命に究極の幸福をもたらすものだと、宣言なさったのです。

 また、この真理を事実ではないと否定することは、人間にも神々にも梵天にも決してできないのだと、獅子吼をなさいました。いま現在も、釈尊の説かれた言葉に、論理的に具体的に異論を立てられる人は出てきません。仏説は常に空中に輝く太陽の如く、人々に、無明の闇を破り完全なる智慧を現し、幸福への道案内をしているのです。

 仏陀が発見された真理は、通常「四聖諦」と呼ばれます。なぜ「聖」という字が入ったのでしょうか。この事実を理解できれば、人の心が清らかになります。 心の汚れがなくなる。罪から解放される。無限の苦しみから脱出できるのです。無明が破れ、智慧が現れます。従って、生命が知るべき唯一の事実なのです。で すから、俗世間の事実真理とレベルが違います。ただの真理ではなく、聖なる真理なのです。

 今月も「好き」というテーマで考察してみたいと思います。今月の「好き」は、釈尊が発見された四聖諦の二番目、苦しみの原因(集諦)です。お金が好き、 伴侶のことが好き、我が子が好き、ペットのワンちゃんが好き、悪人を倒して勝つのが好きなど、人間の「好き」は色々です。「好き」と一言で言っても、何を 好きかということによってその感情が変わるのです。敵に勝ちたいという気持ちと、我が子を愛する気持ちは、同一のものではありません。

 真理のレベルで「好き」とは、どんな意味でしょうか? 真理のレベルで…と言うのは、最終的な事実という意味です。それが普遍的なもので、客観的な事実 だということです。四聖諦の二番目では、真理のレベルの「好き」が説明されています。ここで使用している語は、「タンハー」です。日本語では、「渇愛」と 呼ばれています。この「タンハー(渇愛)」について考えてみましょう。

 一切は無常であると理解する人は、渇愛を発見できます。心の中に普遍的に流れる「好き」という衝動がありますが、それはなかなか自覚できません。「ペッ トが大好き」という場合は、明らかに自覚があって、それを認めているのです。しかし様々な「好き」を作り出して人を苦しめ、依存を引き起こす、根源的な 「好き」の発見は、無知がある限りはできません。渇愛は、この根源的な「好き」という感情なのです。それは、一切が無常だから絶えず現れるものです。

 無常が欲「好き」を作り出すといっても、理解できないかもしれません。家を欲しい人は、テントやプレハブで満足はしない。百年でも保てそうな耐震性が抜 群な家なら、好きで飛びつくでしょう。品物を買うときでも、ちゃちなものよりは、品質を厳しく管理しているブランドのものが好きになるでしょう。

 このような例で考えると、すぐ壊れるものに対して「好き」という感情ではなく、不要という気持ちが現れるのは当然だと思います。そうなると、無常が渇愛 の原因だというのは、あべこべで、事実ではないと思われてしまうのも無理のない話です。しかし、釈尊の説かれた言葉に偽りはありません。これからその説明 をいたします。

 一日中ご飯を食べることができなくて、お腹が空いている人がいるとします。その人に好物のご馳走を見せて、味見だけさせる。舌に微妙に食べ物が触れただ けです。食べさせて貰えない、自分のものでもない食べ物だから、その人にその食べ物に対して「食べたい」という欲が全く現れないと思われますか? そうで はありません。無性に食べたくなるのです。強烈に食欲が湧いてくるのです。また同じ人の前に、気の済むまで食べてくださいとご馳走をひろげた場合は、また 違う感情が現れます。

 食べたいという欲はあるが、食べると同時にその欲が満足していきます。ケース1の場合は、食べ物は自分の前からすぐ消えるので、食べたい人にとっては無 常なものです。相手を攻撃してでも、奪ってでも食べたいくらい、欲が湧いてきます。ケース2の場合は、食べ物は長い時間自分の前にある。充分味わえる。食 べられる。欲を満たしますから、心が落ち着く。これは不完全な例ではありますが、「すぐ消える」ことは、強烈な渇愛を生み出すと理解できるでしょう。

 万物の無常は、我々が考える文学的な無常とは違うものです。花が散った、火事で家がなくなった、親しい人が亡くなったなどの現象は、俗世間が考える無常 です。「ある日突然変わりました」という意味なのです。しかし実際には、変わらないままでいて、ある日突然変わるわけではないのです。一瞬たりとも止まる ことなく、変わり続けているのです。

 恋人がある日突然別れるのではありません。日々愛情が薄れていって、一緒にいることさえも耐えられなくなった時点で別れるのです。突然別れたと勘違いす るからこそ、激しいショックを受ける。悲しくなるのです。自然の流れだと理解している人は、精神的なショックを受けません。

 瞬間瞬間、絶えず起こる変化・無常は、渇愛となるのです。心が眼・耳・鼻・舌・身・意の六門から刺激を受けて回転する。それが、生きているという意味に もなります。刺激を受けて、喜びを感じたいのです。しかし、六門にいつでも喜ばしい刺激(色・声・香・味・触・法)が入るわけではありません。ですから、 必死で喜ばしい刺激を探すのです。

 人間が想う生きる楽しみとは、「好き」な色声香味触法に触れて、楽しい刺激を受けることです。うまく行けばありがたい話ですが、決してうまく行くもので はありません。小量の楽しい刺激を受けるために、大量の楽しくない刺激を受けなくてはいけないのです。死に物狂いで努力しないと、希望が叶わないというの は、このことです。たまたま幸福感を感じても、それを得るために割に合わない苦労をしなくてはいけないのです。だからこそ、生きることが執着するに値しな いと説かれたのです。

 人が人生を成功して、苦労を味わうことなく、豊かで、贅沢をしながら生きていると仮定しましょう。その人から冨が簡単に逃げないので、落ち着いて、生き ることを楽しめる。であるならば、その人に強烈な渇愛・欲がない筈です。しかし事実は違います。渇愛は苦労して生きている人と、ほとんど同じなのです。そ れが、すべては無常だから必然的に起こる現象なのです。

 渇愛の意味は、日常使う言葉の中ででも理解できます。「もっと遊びたかった、もっと食べたかった、夏休みがもう一週間延びてほしかった、60歳まで仕事 をしたかった、母親があと1年でも生きていて欲しかった」などの言葉をよく口にします。納得がいく前に、状況が変わってしまったので、「惜しかった」とい う感情を現している言葉です。単純ですが、これが渇愛です。無常が作り出した、ということも明白です。生きている上で、物事は納得する以前に消えてしまう のです。最後に、死にたくないのに、もっと生きていきたいのに、やりたいことがまだいっぱいあるのに、惜しんで死ぬのです。

 この渇愛のエネルギーが、輪廻転生の原因になるのです。色声香味触法によって、快楽の刺激を得たいと想ってはいるが、期待する刺激を充分得る前に、色声 香味触法が消えていくのです。もっと見たいのに、あるいは、充分見ていないのに、見られるものは変わるのです。もっと聞きたいのに、充分聞いていないの に、美しい音が消えるのです。もっと味わいたいのに、充分味わっていないのに、味わうものがなくなるのです。味わうものが充分あるときでさえ、お腹が一杯 になって食べられなくなるのです。

 このように、何でもかんでも飽きる前に、納得する前に、充分楽しむ前に消えてしまうのです。心に残るのは、「もっとやりたかった」という気持ちだけです。これが、渇愛です。人は何をしても心に残るのは、たった一つ、「もっとやりたかった」という、渇愛だけです。

 目耳鼻舌身意を色声香味触法で刺激したいが、決して納得できない、満足できない状態は、渇愛の一つの働きです。「カーマ タンハー(Kâma tanhâ)」といいます。死にたくないという気持ちは、生きている生命に本来付随しているものです。今生で死んだ経験もないのに、死にたくないと思う。 まずい何かを食べてしまって二度と食べたくないと思うのは、合理的な話ですが、経験したことのない死を嫌がることは、非論理的です。しかし死にたくないと いう気持ちは、強烈にある。これが本能です。

 無始なる過去で生きていて、無限に死んだ経験があるのです。死ぬたびに、「もっと生きていたかった」という渇愛が蓄積されてきたのです。ですから、生ま れると同時に死の恐怖感は刷り込まれているのです。「死にたくない、生き続けたい」という気持ちは、渇愛の二番目の働きです。「バワ タンハー(Bhava tanhâ)」といいます。

 「好き」なものに出会うと、欲も渇愛も生まれるというならば、嫌なものに出会うときは渇愛が現れないだろうと思われるかも知れません。まずいものを食べ て、また食べたいと思う人はいません。うるさい音楽を強引に聴かされて、また聴きたいとは思わない。性格が合わない人と嫌々で付き合うはめになった人は、 長く付き合いたいとは思わない。

 しかし面白いことに、この場合も渇愛は見事に牙を出します。この状況は嫌だ、何とか違う状況、環境が欲しい。何としてでもこの状況を変えたい、という渇 愛なのです。まずいものを食べると、無性においしいものを食べたくなるものです。生きること、死ぬことを、避けられない、我慢できないと思う人々は、天国 ででも永遠に生き続けたいと思うのです。このように、自分が置かれている環境をどうしても変えたくなる気持ち・渇愛は、「ヴィバワ タンハー (vibhava tanhâ)」といいます。

 「ヴィバワ タンハー」は、「バワ タンハー」とは対称的です。ただ不景気の今の環境、状況を何とか変えたいと思うことは、「ヴィバワ タンハー」になりません。「バワ タンハー」です。この世で生きることの厳しさ、空しさ、恐ろしさ、不公平を感じる人は、生きることそのものに逆らおうとするのです。それが「ヴィバワ タ ンハー」です。渇愛は、一切の「好き」の親分で、生きる苦しみの大元です。

●photo:Buttress roots by Tatters ❀
▼参考テキスト
仏陀が発見された真理―渇愛
~ものごとに納得いかないことで、苦しみが続く~
http://www.j-theravada.net/howa/howa123.html
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

写真: #jtba「とめどない欲求」~根本を探る~<br><br> 仏陀が明かされた真理は、人類にとって初めてのもので、未だかつて誰にも発見できなかったものであると釈尊が説かれています。この真理こそすべての生命に究極の幸福をもたらすものだと、宣言なさったのです。<br><br> また、この真理を事実ではないと否定することは、人間にも神々にも梵天にも決してできないのだと、獅子吼をなさいました。いま現在も、釈尊の説かれた言葉に、論理的に具体的に異論を立てられる人は出てきません。仏説は常に空中に輝く太陽の如く、人々に、無明の闇を破り完全なる智慧を現し、幸福への道案内をしているのです。<br><br> 仏陀が発見された真理は、通常「四聖諦」と呼ばれます。なぜ「聖」という字が入ったのでしょうか。この事実を理解できれば、人の心が清らかになります。心の汚れがなくなる。罪から解放される。無限の苦しみから脱出できるのです。無明が破れ、智慧が現れます。従って、生命が知るべき唯一の事実なのです。ですから、俗世間の事実真理とレベルが違います。ただの真理ではなく、聖なる真理なのです。<br><br> 今月も「好き」というテーマで考察してみたいと思います。今月の「好き」は、釈尊が発見された四聖諦の二番目、苦しみの原因(集諦)です。お金が好き、伴侶のことが好き、我が子が好き、ペットのワンちゃんが好き、悪人を倒して勝つのが好きなど、人間の「好き」は色々です。「好き」と一言で言っても、何を好きかということによってその感情が変わるのです。敵に勝ちたいという気持ちと、我が子を愛する気持ちは、同一のものではありません。<br><br> 真理のレベルで「好き」とは、どんな意味でしょうか? 真理のレベルで…と言うのは、最終的な事実という意味です。それが普遍的なもので、客観的な事実だということです。四聖諦の二番目では、真理のレベルの「好き」が説明されています。ここで使用している語は、「タンハー」です。日本語では、「渇愛」と呼ばれています。この「タンハー(渇愛)」について考えてみましょう。<br><br> 一切は無常であると理解する人は、渇愛を発見できます。心の中に普遍的に流れる「好き」という衝動がありますが、それはなかなか自覚できません。「ペットが大好き」という場合は、明らかに自覚があって、それを認めているのです。しかし様々な「好き」を作り出して人を苦しめ、依存を引き起こす、根源的な「好き」の発見は、無知がある限りはできません。渇愛は、この根源的な「好き」という感情なのです。それは、一切が無常だから絶えず現れるものです。<br><br> 無常が欲「好き」を作り出すといっても、理解できないかもしれません。家を欲しい人は、テントやプレハブで満足はしない。百年でも保てそうな耐震性が抜群な家なら、好きで飛びつくでしょう。品物を買うときでも、ちゃちなものよりは、品質を厳しく管理しているブランドのものが好きになるでしょう。<br><br> このような例で考えると、すぐ壊れるものに対して「好き」という感情ではなく、不要という気持ちが現れるのは当然だと思います。そうなると、無常が渇愛の原因だというのは、あべこべで、事実ではないと思われてしまうのも無理のない話です。しかし、釈尊の説かれた言葉に偽りはありません。これからその説明をいたします。<br><br> 一日中ご飯を食べることができなくて、お腹が空いている人がいるとします。その人に好物のご馳走を見せて、味見だけさせる。舌に微妙に食べ物が触れただけです。食べさせて貰えない、自分のものでもない食べ物だから、その人にその食べ物に対して「食べたい」という欲が全く現れないと思われますか? そうではありません。無性に食べたくなるのです。強烈に食欲が湧いてくるのです。また同じ人の前に、気の済むまで食べてくださいとご馳走をひろげた場合は、また違う感情が現れます。<br><br> 食べたいという欲はあるが、食べると同時にその欲が満足していきます。ケース1の場合は、食べ物は自分の前からすぐ消えるので、食べたい人にとっては無常なものです。相手を攻撃してでも、奪ってでも食べたいくらい、欲が湧いてきます。ケース2の場合は、食べ物は長い時間自分の前にある。充分味わえる。食べられる。欲を満たしますから、心が落ち着く。これは不完全な例ではありますが、「すぐ消える」ことは、強烈な渇愛を生み出すと理解できるでしょう。<br><br> 万物の無常は、我々が考える文学的な無常とは違うものです。花が散った、火事で家がなくなった、親しい人が亡くなったなどの現象は、俗世間が考える無常です。「ある日突然変わりました」という意味なのです。しかし実際には、変わらないままでいて、ある日突然変わるわけではないのです。一瞬たりとも止まることなく、変わり続けているのです。<br><br> 恋人がある日突然別れるのではありません。日々愛情が薄れていって、一緒にいることさえも耐えられなくなった時点で別れるのです。突然別れたと勘違いするからこそ、激しいショックを受ける。悲しくなるのです。自然の流れだと理解している人は、精神的なショックを受けません。<br><br> 瞬間瞬間、絶えず起こる変化・無常は、渇愛となるのです。心が眼・耳・鼻・舌・身・意の六門から刺激を受けて回転する。それが、生きているという意味にもなります。刺激を受けて、喜びを感じたいのです。しかし、六門にいつでも喜ばしい刺激(色・声・香・味・触・法)が入るわけではありません。ですから、必死で喜ばしい刺激を探すのです。<br><br> 人間が想う生きる楽しみとは、「好き」な色声香味触法に触れて、楽しい刺激を受けることです。うまく行けばありがたい話ですが、決してうまく行くものではありません。小量の楽しい刺激を受けるために、大量の楽しくない刺激を受けなくてはいけないのです。死に物狂いで努力しないと、希望が叶わないというのは、このことです。たまたま幸福感を感じても、それを得るために割に合わない苦労をしなくてはいけないのです。だからこそ、生きることが執着するに値しないと説かれたのです。<br><br> 人が人生を成功して、苦労を味わうことなく、豊かで、贅沢をしながら生きていると仮定しましょう。その人から冨が簡単に逃げないので、落ち着いて、生きることを楽しめる。であるならば、その人に強烈な渇愛・欲がない筈です。しかし事実は違います。渇愛は苦労して生きている人と、ほとんど同じなのです。それが、すべては無常だから必然的に起こる現象なのです。<br><br> 渇愛の意味は、日常使う言葉の中ででも理解できます。「もっと遊びたかった、もっと食べたかった、夏休みがもう一週間延びてほしかった、60歳まで仕事をしたかった、母親があと1年でも生きていて欲しかった」などの言葉をよく口にします。納得がいく前に、状況が変わってしまったので、「惜しかった」という感情を現している言葉です。単純ですが、これが渇愛です。無常が作り出した、ということも明白です。生きている上で、物事は納得する以前に消えてしまうのです。最後に、死にたくないのに、もっと生きていきたいのに、やりたいことがまだいっぱいあるのに、惜しんで死ぬのです。<br><br> この渇愛のエネルギーが、輪廻転生の原因になるのです。色声香味触法によって、快楽の刺激を得たいと想ってはいるが、期待する刺激を充分得る前に、色声香味触法が消えていくのです。もっと見たいのに、あるいは、充分見ていないのに、見られるものは変わるのです。もっと聞きたいのに、充分聞いていないのに、美しい音が消えるのです。もっと味わいたいのに、充分味わっていないのに、味わうものがなくなるのです。味わうものが充分あるときでさえ、お腹が一杯になって食べられなくなるのです。<br><br> このように、何でもかんでも飽きる前に、納得する前に、充分楽しむ前に消えてしまうのです。心に残るのは、「もっとやりたかった」という気持ちだけです。これが、渇愛です。人は何をしても心に残るのは、たった一つ、「もっとやりたかった」という、渇愛だけです。<br><br> 目耳鼻舌身意を色声香味触法で刺激したいが、決して納得できない、満足できない状態は、渇愛の一つの働きです。「カーマ タンハー(Kâma tanhâ)」といいます。死にたくないという気持ちは、生きている生命に本来付随しているものです。今生で死んだ経験もないのに、死にたくないと思う。まずい何かを食べてしまって二度と食べたくないと思うのは、合理的な話ですが、経験したことのない死を嫌がることは、非論理的です。しかし死にたくないという気持ちは、強烈にある。これが本能です。<br><br> 無始なる過去で生きていて、無限に死んだ経験があるのです。死ぬたびに、「もっと生きていたかった」という渇愛が蓄積されてきたのです。ですから、生まれると同時に死の恐怖感は刷り込まれているのです。「死にたくない、生き続けたい」という気持ちは、渇愛の二番目の働きです。「バワ タンハー(Bhava tanhâ)」といいます。<br><br> 「好き」なものに出会うと、欲も渇愛も生まれるというならば、嫌なものに出会うときは渇愛が現れないだろうと思われるかも知れません。まずいものを食べて、また食べたいと思う人はいません。うるさい音楽を強引に聴かされて、また聴きたいとは思わない。性格が合わない人と嫌々で付き合うはめになった人は、長く付き合いたいとは思わない。<br><br> しかし面白いことに、この場合も渇愛は見事に牙を出します。この状況は嫌だ、何とか違う状況、環境が欲しい。何としてでもこの状況を変えたい、という渇愛なのです。まずいものを食べると、無性においしいものを食べたくなるものです。生きること、死ぬことを、避けられない、我慢できないと思う人々は、天国ででも永遠に生き続けたいと思うのです。このように、自分が置かれている環境をどうしても変えたくなる気持ち・渇愛は、「ヴィバワ タンハー(vibhava tanhâ)」といいます。<br><br> 「ヴィバワ タンハー」は、「バワ タンハー」とは対称的です。ただ不景気の今の環境、状況を何とか変えたいと思うことは、「ヴィバワ タンハー」になりません。「バワ タンハー」です。この世で生きることの厳しさ、空しさ、恐ろしさ、不公平を感じる人は、生きることそのものに逆らおうとするのです。それが「ヴィバワ タンハー」です。渇愛は、一切の「好き」の親分で、生きる苦しみの大元です。<br><br>●photo:Buttress roots by Tatters ❀<br>▼参考テキスト<br>仏陀が発見された真理―渇愛<br>~ものごとに納得いかないことで、苦しみが続く~<br>http://www.j-theravada.net/howa/howa123.html<br>♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪









facebook | 09:31:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「目先のこと」~本質はどうか?~





協会の記事ではありません。
きょうかいのfbより紹介です。





#jtba「目先のこと」~本質はどうか?~

 人はよく過ちを犯します。過ちを犯さない人間は世の中にいないのですから、過ちを犯すことが人間の特色だということもできます。人間は必ず間違いを起こ すのだというこの事実を理解すると、自分の過ちについて極度に落ち込むことをしないで済むようになります。そしてまた他人も自分と同じ間違いをしますか ら、より立派な人間になりたいと思えばそれを理解して許すこともできるようになります。それは、立派な人間の生き方だといえます。

 一方世の中には、人間と してふさわしくないタイプの人々もいます。彼らは、自分の過ちをごまかしたり認めなかったりします。過ちを知られたら、許して欲しいと思ったりもします。 ところが一転して、他人の過ちとなると断固として許さず、それを非難するのです。このような性格は、人間関係を悪くします。

 社会の一員としてスムースな人間関係を作りたい人は、まず自分がよく過ちを犯すということ、それを他人が許してくれたら心がいかに楽になるかということ を理解すべきです。それから、他人も同じ人間ですから、過ちを犯すことが当然だと理解し、自分もそれを許す義務があると知るべきです。人の過ちをどこまで 許すべきかというのはケースバイケースですが、私たちは、人が過ちを犯す限り、許してあげなくてはならないと決心しなくてはいけません。

 それでは、なぜ人が過ちを犯すのかを考えてみましょう。人が過ちを犯すということは、実に不可思議な現象です。間違いを犯したい、失敗したいと思う人は 一人もいません。誰もがしっかりと正しく行動したいと思っているのに、どこかでミスを犯してしまいます。防衛策はいくらでもありますが、それでも過ちを人 類から完全になくすということは、ありえないことです。

 これは人間の本質的な問題です。人というのは自分中心に物事を考えて行動しますので、客観的に物事を考えて理解することは不可能だといってもいいほど 『無理』なことです。痛みを感じたことがない人に、他人の痛みはわかりません。人の悩みや苦しみを理解できるという人は、結局は自分が味わった悩み苦しみ の経験を、他人に投影して他人の悩み苦しみを理解できるということなのです。その場合でも、自己中心になることは避けられない事実です。

 でもこの現象は、私たちに、過ちの少ない生き方を教えてくれます。常に他人の中に自分を見いだす、発見する、それができると、人間関係におけるいろいろ な問題が理解できるはずです。また自分が何かをするとき、それを他人に投影してみる、そうすると自分の行動は間違いが少なくて済むようになります。

 たとえば、他人に忠告することになったとする。その場合も、すぐ忠告するのではなくて、自分がこれから使おうとする言葉、自分の態度を他人に投影して、 もし他人がこのような言葉で、このような態度で自分に忠告したなら、自分がどんな気持ちで受け取るだろうかと考えてみる。自分ならやさしく忠告して欲しい のは当然ですから、「これは自分に言われていることだ」と思って忠告すれば上手くいくのです。

 人は自己中心だから過ちを犯すと前に言いました。自己中心で自分の都合によって物事を判断して行動します。しかし、それは確実に過ちを犯す道です。とき どき、欲、怒り、嫉妬、倣慢、ライバル意識、表層心理等の感情で、我を忘れてしまうときもあります。そのときの行動も、すべて過ちです。必ず後に後悔する ことになります。

 ここまでのことはわかりやすいのですが、もうひとつわからないことがあります。

 お釈迦様と僧団に多大なお布施をして、支えてくれた、アナー夕ピンディカという長者がいました。人を助けることが彼の性格そのものでしたから、僧団以外 にも、他の宗教の行者たちや貧しい人々に寄付をして、助けていました。あるとき突然、商売から入るぺき収入が入らなくて、彼の財産は底を尽きました。商売 の立場から考えると、寄付は財を生まない無駄な行為です。彼の守り神は彼のことを心配して、僧団へのお布施をやめて楽になりなさいと言われたのですが、彼 は逆に自分の守り神を家から追い出しました。

 自分の誤った考え方に気づいた神は、大変苦労して彼の商売を軌道に乗るようにしてあげ、自分の失言に許しを乞うたのです。この物語は長いのでここでは書けませんが要点だけ考えてみましょう。

 商売の立場から考えると、寄付は財産の無駄遣いです。世の中誰でも、すぐそのように考えます。智慧を持って考えると、人を助けることは自分の幸福を確定 する行為です。人には目先の結果しか見えません。それで行動して大損をし、大失敗をします。これは子供が、学校に行きたくない、勉強がおもしろくない、友 達と遊ぶのが楽しい、と言うことと同じです。逆に目先ではいいことには見えないが、長期的な視点では素晴らしい結果を生む行為がかなりあります。人間に、 そういうことを理解できる智慧があるならば、決して不幸にはならないだろうと思います。目先の結果に目がくらむことが、人間の不幸と失敗の原因です。

 我々にとって、本当によいことは、大変無意味で面白くないことと見えてしまいます。我々を不幸と破壊に導く行為は、とても面白く感じます。麻薬、酒にお ぼれること、遊びにふけることなどは、わかりやすい例だと思います。この法則は、人類にとって残念な現実です。目先の面白い結果だけ考えて行動することこ そが、人間の過ちの根本的な原因なのです。

●photo:Carrot and stick by Bruce Thomson(flickr)
▼参考テキスト
「目先の楽しみは、後の落とし穴」人類の本質は過ちを犯すこと
http://www.j-theravada.net/howa/howa46.html
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

写真: #jtba「目先のこと」~本質はどうか?~<br><br> 人はよく過ちを犯します。過ちを犯さない人間は世の中にいないのですから、過ちを犯すことが人間の特色だということもできます。人間は必ず間違いを起こすのだというこの事実を理解すると、自分の過ちについて極度に落ち込むことをしないで済むようになります。そしてまた他人も自分と同じ間違いをしますから、より立派な人間になりたいと思えばそれを理解して許すこともできるようになります。それは、立派な人間の生き方だといえます。<br><br> 一方世の中には、人間としてふさわしくないタイプの人々もいます。彼らは、自分の過ちをごまかしたり認めなかったりします。過ちを知られたら、許して欲しいと思ったりもします。ところが一転して、他人の過ちとなると断固として許さず、それを非難するのです。このような性格は、人間関係を悪くします。<br><br> 社会の一員としてスムースな人間関係を作りたい人は、まず自分がよく過ちを犯すということ、それを他人が許してくれたら心がいかに楽になるかということを理解すべきです。それから、他人も同じ人間ですから、過ちを犯すことが当然だと理解し、自分もそれを許す義務があると知るべきです。人の過ちをどこまで許すべきかというのはケースバイケースですが、私たちは、人が過ちを犯す限り、許してあげなくてはならないと決心しなくてはいけません。<br><br> それでは、なぜ人が過ちを犯すのかを考えてみましょう。人が過ちを犯すということは、実に不可思議な現象です。間違いを犯したい、失敗したいと思う人は一人もいません。誰もがしっかりと正しく行動したいと思っているのに、どこかでミスを犯してしまいます。防衛策はいくらでもありますが、それでも過ちを人類から完全になくすということは、ありえないことです。<br><br> これは人間の本質的な問題です。人というのは自分中心に物事を考えて行動しますので、客観的に物事を考えて理解することは不可能だといってもいいほど『無理』なことです。痛みを感じたことがない人に、他人の痛みはわかりません。人の悩みや苦しみを理解できるという人は、結局は自分が味わった悩み苦しみの経験を、他人に投影して他人の悩み苦しみを理解できるということなのです。その場合でも、自己中心になることは避けられない事実です。<br><br> でもこの現象は、私たちに、過ちの少ない生き方を教えてくれます。常に他人の中に自分を見いだす、発見する、それができると、人間関係におけるいろいろな問題が理解できるはずです。また自分が何かをするとき、それを他人に投影してみる、そうすると自分の行動は間違いが少なくて済むようになります。<br><br> たとえば、他人に忠告することになったとする。その場合も、すぐ忠告するのではなくて、自分がこれから使おうとする言葉、自分の態度を他人に投影して、もし他人がこのような言葉で、このような態度で自分に忠告したなら、自分がどんな気持ちで受け取るだろうかと考えてみる。自分ならやさしく忠告して欲しいのは当然ですから、「これは自分に言われていることだ」と思って忠告すれば上手くいくのです。<br><br> 人は自己中心だから過ちを犯すと前に言いました。自己中心で自分の都合によって物事を判断して行動します。しかし、それは確実に過ちを犯す道です。ときどき、欲、怒り、嫉妬、倣慢、ライバル意識、表層心理等の感情で、我を忘れてしまうときもあります。そのときの行動も、すべて過ちです。必ず後に後悔することになります。<br><br> ここまでのことはわかりやすいのですが、もうひとつわからないことがあります。<br><br> お釈迦様と僧団に多大なお布施をして、支えてくれた、アナー夕ピンディカという長者がいました。人を助けることが彼の性格そのものでしたから、僧団以外にも、他の宗教の行者たちや貧しい人々に寄付をして、助けていました。あるとき突然、商売から入るぺき収入が入らなくて、彼の財産は底を尽きました。商売の立場から考えると、寄付は財を生まない無駄な行為です。彼の守り神は彼のことを心配して、僧団へのお布施をやめて楽になりなさいと言われたのですが、彼は逆に自分の守り神を家から追い出しました。<br><br> 自分の誤った考え方に気づいた神は、大変苦労して彼の商売を軌道に乗るようにしてあげ、自分の失言に許しを乞うたのです。この物語は長いのでここでは書けませんが要点だけ考えてみましょう。<br><br> 商売の立場から考えると、寄付は財産の無駄遣いです。世の中誰でも、すぐそのように考えます。智慧を持って考えると、人を助けることは自分の幸福を確定する行為です。人には目先の結果しか見えません。それで行動して大損をし、大失敗をします。これは子供が、学校に行きたくない、勉強がおもしろくない、友達と遊ぶのが楽しい、と言うことと同じです。逆に目先ではいいことには見えないが、長期的な視点では素晴らしい結果を生む行為がかなりあります。人間に、そういうことを理解できる智慧があるならば、決して不幸にはならないだろうと思います。目先の結果に目がくらむことが、人間の不幸と失敗の原因です。<br><br> 我々にとって、本当によいことは、大変無意味で面白くないことと見えてしまいます。我々を不幸と破壊に導く行為は、とても面白く感じます。麻薬、酒におぼれること、遊びにふけることなどは、わかりやすい例だと思います。この法則は、人類にとって残念な現実です。目先の面白い結果だけ考えて行動することこそが、人間の過ちの根本的な原因なのです。<br><br>●photo:Carrot and stick by Bruce Thomson(flickr)<br>▼参考テキスト<br>「目先の楽しみは、後の落とし穴」人類の本質は過ちを犯すこと<br>http://www.j-theravada.net/howa/howa46.html<br>♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪








facebook | 09:28:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)-----【4】 身体を観るヴィパッサナーの効果と難しさ




協会のホームページより紹介です。
【4】 身体を観るヴィパッサナーの効果と難しさ





「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOME「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)→【4】 身体を観るヴィパッサナーの効果と難しさ
釈迦尊の教え・あなたとの対話 疑問・質問・反論のページ

Q: ヴィパッサナー冥想に関する質 問を続けさせていただきます。ある方からの質問で、妄想が出やすく、先生に相談したところ、「そういう人は、普通歩くくらいのスピードで1時間くらい歩く といい」 と言われ実践していたら大変良いようなのだが、一方腰や足の具合があまり良くなくて、ぎっくり腰などもときどきやってしまう。そのようなときは歩くことが 難しいので、それに代わるやり方を教えてほしいとのことです。

A:
 代わるやり方を考えない方がいいと思いますね。なぜなら、妄想が出る性格というのは、やっていることに集中しないで他のことを考えてしまう性格ということです。
考える性格というのは本人は 「自分は物事をよく考える人間だ」 と自慢に思っているのです。でも客観的に見ると 「落ちついていない」 ということなんですね。そういう人は、やっているつもりの仕事をちゃんとやっていないのです。そのような考え方の深い人に仕事を頼んだら、うまくやってく れない、時間がかかる、また時間をかけてやってくれたとしても、仕事はガタガタとか、結果が良くないのです。そういう人は焦っている人とか、落ちついてい ない人とも言うことができます。

 体の調子が悪くなるのもそういうところに原因があります。ぎっくり腰なども、他のことを考えてしまった瞬間に体を動かしてしまうんですね。体自体 に、意志の流れ、心のエネルギーがちゃんと流れていない間に、他の部分で体を動かそうとしているんですね。それでそういう結果になるんです。

 ですから他の方法をとってしまうと自分が逃げることになるんですね。だから続けた方がいい。
歩くときも、それから体を動かすときも、体を動かすたびにちゃんと気づいて体を動かすということが必要なんです。

Q: しかし、そういう人が、自分はよく考える人間だと 「自慢」 に思っているということはないのではないでしょうか。

A:
 どんな人間でも、自分の性格には未練というか、執着があるのです。
いくら良くないと思っているとクチにしたところで、執着はあるのです。たとえば、鈍い人がいて、「自分は鈍いので良くない」 と言うかもしれませんが、実は心のどこかで 「私はゆっくりと物事を考える性格だ」 と肯定し、執着している部分があるのです。だから性格というのは一朝一夕で変わるものではありません。
私たちも、いきなり性格を変えろと言っているわけではなくて、今持っている性格を良い方向に持っていきたいだけなのです。

Q: お話を聞いていると、性格を変えることは難しそうですが、どうすれば良い方向に変わっていけるのでしょうか。

A:
 とにかく人それぞれにいろいろな問題が出てきますから、体を動かすことが一番いいのです。
心のことをいろいろ考えるよりは、体を観ることです。歩けないというくらいに具合が良くなくても、ちゃんと体全体をよく認識して歩くとよいと思います。その場合は、走るようにすばやく歩くのではなく、程良くゆっくりと気をつけて歩く。本当の意味でサティ(気づくこと) しながら歩いたら決して問題は起こりません。サティを使って歩く場合は、体のどんな行勤にもちゃんと気づいているわけですから 「うっかりしてどうにかなった」 ということはないんです。

Q: 体を動かして体を観ることで、いろいろと付随するメリットもありそうですが、いかがでしょうか。

A:
 そうですね。姿勢よく行儀よく歩くので、体の筋肉の構成などもきれいに治ってしまいます。筋肉というのは不思議なもので、きちんと意識するとその意識に沿ってすぐ変わってしまうのです。
たとえばスジが曲がらないという人でもその曲がらないというところに意識を集中してゆっくりゆっくり曲げると曲がってしまいます。筋肉というのはすぐ言う ことを聞いてくれるものなのです。体の構造や健康状態、筋肉の付き方、そういうものもヴイパッサナーで変わっていきます。

Q: 別の方からですが、ヴイパッサ ナーの方法論みたいなものは納得できてやっているのだがなかなか目標に対する現実の差が大きく、ギャップが埋まらないとのことです。友人も同様のことを 言っていて、みんな自己流で不安があり、厳密な意味でのヴィパッサナーのプロセスというのがどういうものなのか知りたいということです。

A:
 とにかく自分で発見するしかないのです。たとえ私が言っても、それがひとつの「概念」になってしまって、そのとおりにしようとする。それはある面ではしょうがないかもしれませんが、どんどん自分で発見していくしか方法はありません。

 たとえば 「目を閉じて手を伸ばしてください」 とある人に言います。その人が目を閉じ、それから手を伸ばす。そこで 「手を伸ばしましたか」 と聞くと 「伸ばしました」 と答えますね。それは何かを感じて、伸ばしたことを知っているんですね。それを確認してほしいのです。そのときは目では見ていないのだけれど感じた。実感があるんですね。

Q: それをどこまで認識すべきかということが聞きたいのです。全体的に感じるのか、一点集中で感じるのか。

A:
 それは集中力によるのです。自分の集中力以上には観られませんし、逆に自分の集中力より少なく観てほしくない。観られるだけ観てほしいのです。また集中 力というのはいつも同じ状態ではありません。たまにものすごい集中力があるときもあれば、ときには全く消えてしまうこともあります。集中力がなく、マンネ リで 「伸ばします。曲げます」 とただロにしているだけのことがあってもいいんです。そのときは集中力がありませんが、集中力が出てくると見えてきます。

Q: 集中力が相当必要なようですね。ゆっくりじっくり体を動かし、それを観るようにした方がいいのでしょうか。

A:
 本来のことを言えば、たとえゆっくり手を伸ばしてみても、もし 「私は手を伸ばしている」 という概念が背景にあるならば、それがある限りはうまくいっているとは言えません。 たとえばゆっくり手を伸ばして冥想すると 「私はゆっくり手を伸ばしているのだから、よく冥想できているのだろう」 と思うかもしれませんが、その場合は 「手を伸ばしている」 という概念がいつも頭の中に隠れているんですね。それがなくなって、ただ動きとそれを観察する心、それだけになったとき、それは本当の客観的な見方なので す。それは強引にやるべきものではなく、集中力によって自然と出てくるものです。

(みなさんからのご質問等をスマナサーラ長老にお聞きし、PATIPADÂ 編集部でまとめました)

HOME「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)→【4】 身体を観るヴィパッサナーの効果と難しさ









ひとり言 | 11:09:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
人間は理性によって、信仰から生まれる差別を避けるべきです。 非道徳的な行為の原因を神様になすりつけるのではダメです。






協会の記事ではありません。
木下全雄  さんの ブログの紹介です





宗教というのは、生活習慣みたいなものである、と私は思います。
その国の、その民族の伝統行事みたいなものである、と思っています。

エボラ出血熱を神様が治してくれることはありません。神様が奇跡を起こして、病人を助けてくれるのではありません。
科学者が努力して、それを企業が支援して、エボラ出血熱に対するワクチンを開発するのです。
関係各国や、国境なき医師団、様々な医療従事者、今ではアメリカ軍までもが協力し合って、体感温度50℃と言われるくらいに暑い防護服を着てまでして看病して下さるから、私達は守られています。

テング熱も、神様が解決してくれるのではありません。日本の医療従事者の方、薬剤散布して下さる方、サンプリングによって媒介蚊の正確な分布を調べる方、 などの総合的な努力によって、解決を図って行くのです。患者さんのウソの無い報告によって、次の一手が正しく打たれるのです。

そう考えると、私達を今一番脅かしている「エボラ出血熱」に対しても「テング熱」に対しても、神様は全く関係がありません。

神様が悪いわけでもないし、神様が助けてくれるわけでもないのです。

人間がお互いに助け合うのです。

それなのになぜ、「神様がこう言った」ということで、お互いに憎しみ合い、傷付け合い、殺し合うのでしょうか?

生活習慣や伝統行事は、非難されるものではありません。みんなが幸せになるための祈りに、私も文句を言うつもりはありません。

人間は理性によって、信仰から生まれる差別を避けるべきです。

非道徳的な行為の原因を神様になすりつけるのではダメです。

私達一人ひとりは、慈しみの心を、全ての人類、全ての生命に対して持てるように、心を育てなければならないのです。

今日の写真も三宝庵所蔵の幽霊画ですが、きれいなお顔ですよね(笑)

宗教というのは、生活習慣みたいなものである、と私は思います。<br>その国の、その民族の伝統行事みたいなものである、と思っています。<br><br>エボラ出血熱を神様が治してくれることはありません。神様が奇跡を起こして、病人を助けてくれるのではありません。<br>科学者が努力して、それを企業が支援して、エボラ出血熱に対するワクチンを開発するのです。<br>関係各国や、国境なき医師団、様々な医療従事者、今ではアメリカ軍までもが協力し合って、体感温度50℃と言われるくらいに暑い防護服を着てまでして看病して下さるから、私達は守られています。<br><br>テング熱も、神様が解決してくれるのではありません。日本の医療従事者の方、薬剤散布して下さる方、サンプリングによって媒介蚊の正確な分布を調べる方、などの総合的な努力によって、解決を図って行くのです。患者さんのウソの無い報告によって、次の一手が正しく打たれるのです。<br><br>そう考えると、私達を今一番脅かしている「エボラ出血熱」に対しても「テング熱」に対しても、神様は全く関係がありません。<br><br>神様が悪いわけでもないし、神様が助けてくれるわけでもないのです。<br><br>人間がお互いに助け合うのです。<br><br>それなのになぜ、「神様がこう言った」ということで、お互いに憎しみ合い、傷付け合い、殺し合うのでしょうか?<br><br>生活習慣や伝統行事は、非難されるものではありません。みんなが幸せになるための祈りに、私も文句を言うつもりはありません。<br><br>人間は理性によって、信仰から生まれる差別を避けるべきです。<br><br>非道徳的な行為の原因を神様になすりつけるのではダメです。<br><br>私達一人ひとりは、慈しみの心を、全ての人類、全ての生命に対して持てるように、心を育てなければならないのです。<br><br>今日の写真も三宝庵所蔵の幽霊画ですが、きれいなお顔ですよね(笑)









Be Happy! | 09:47:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
21日(日)  名古屋初期仏教デー (スマナサーラ長老)-






【ご案内】スマナサーラ長老『名古屋初期仏教デー』(愛知 日本ガイシフォーラム)

21日(日)  名古屋初期仏教デー (スマナサーラ長老)-
             初めて冥想会へ参加される方へのご案内-


★「茶話会(親睦会)」のお知らせ
午前10時から、法友のみなさんの集いがあります。
※自由参加、昼食は各自ご用意ください。






スマナサーラ長老『名古屋初期仏教デー』(愛知 日本ガイシフォーラム)

 名古屋で行われるスマナサーラ長老指導の「法話と冥想」の会です。午後1時半から始まります。法話・質疑応答ののち、ヴィパッサナー冥想の初心者指導が ございます。「仏教って一体なに?」「怒るのは悪いことって本当?」「どうすれば幸せになれるの?」などなど、どんな疑問・質問でもぶつけてみてくださ い。お釈迦さまの教えに触れ、自分自身で納得し、悩み苦しみのない、心の落ち着きを築いてみてください。※予約不要、どなたでも参加していただけます。

日時:13:30~19:30
会場:日本ガイシフォーラム 和室
(〒457-0833 愛知県名古屋市南区東又兵ヱ町5-1-16)
参加費:ご喜捨(参加当日、受付にお渡し下さい)

▼スケジュール
13:00 受付開始
13:30 お経・法話・質疑応答
15:30 休憩(15分程度)
15:45 初心者冥想指導
    各自冥想実践
19:00 お経・祝福
19:30 終了予定

●交通アクセス
http://www.nespa.or.jp/shisetsu/bunka/access.html

★「茶話会(親睦会)」のお知らせ
午前10時から、法友のみなさんの集いがあります。
※自由参加、昼食は各自ご用意ください。

●東海ダンマサークル

~生きとし生けるものが幸せでありますように~


写真: #jtba【ご案内】10/20(日)スマナサーラ長老『名古屋初期仏教デー』(愛知 日本ガイシフォーラム)<br /><br /> 名古屋で行われるスマナサーラ長老指導の「法話と冥想」の会です。午後1時半から始まります。法話・質疑応答ののち、ヴィパッサナー冥想の初心者指導がございます。「仏教って一体なに?」「怒るのは悪いことって本当?」「どうすれば幸せになれるの?」などなど、どんな疑問・質問でもぶつけてみてください。お釈迦さまの教えに触れ、自分自身で納得し、悩み苦しみのない、心の落ち着きを築いてみてください。※予約不要、どなたでも参加していただけます。<br /><br />日時:10月20日(日) 13:30~19:00<br />会場:日本ガイシフォーラム 和室<br />(〒457-0833 愛知県名古屋市南区東又兵ヱ町5-1-16)<br />参加費:ご喜捨(参加当日、受付にお渡し下さい)<br /><br />▼スケジュール<br />13:00 受付開始<br />13:30 お経・法話・質疑応答<br />15:30 休憩(15分程度)<br />15:45 初心者冥想指導<br />    各自冥想実践<br />19:00 お経・祝福<br />19:30 終了予定<br /><br />●交通アクセス<br />http://www.nespa.or.jp/shisetsu/bunka/access.html<br /><br />★「茶話会(親睦会)」のお知らせ<br />午前10時から、法友のみなさんの集いがあります。<br />※自由参加、昼食は各自ご用意ください。<br /><br />●東海ダンマサークル<br />http://toukaidhammam.blog72.fc2.com/<br />~生きとし生けるものが幸せでありますように~










テーラワーダ仏教とは? | 10:01:47 | トラックバック(0) | コメント(3)
徒然日記------ 「どっちの道を歩いている?」③




協会の記事ではありません。
サークル仲間の徒然日記です。





 「どっちの道を歩いている?」③

 「如何なる場合でも腹の立たない人になる」という目標を持って
30年になる。そして自分自分と言っている自我を何とかしないとそ
の実現はないと願う大勢の仲間にも恵まれて大家族生活をして
いる。

 しかし自我といものの成り立ちとか、心と云うものについての深
い学識や冥想実践で真理を体得した人は誰一人いないという現実が
ある。

 自分というものをもっとよく知りたいとウツウツとしてる頃合いに
お釈迦さまの説かれる真理への道即ち仏教に出会った。その案内人
がスマナサーラ長老。

 あんた方は生きた振りをした生きていない人です。真理からみた
らそういうところです。それを軽く流し聞きして10年になる。

 残り時間が少なくなってきて、少しは生きねばと、先ず「生きる
とはどういうことか?」と学びたくなっている。頭の先の知識では
さっぱり実践に役立たず。久さしぶりに「仏教は心の科学」を手に
して「生きるとは」を噛みしめているところ!。













徒然日記 | 13:31:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
HOME→「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)→【3】 冥想に取り組んでぶつかる璧





協会のホームページより紹介です。
【3】 冥想に取り組んでぶつかる璧





HOME「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)→【3】 冥想に取り組んでぶつかる璧
釈迦尊の教え・あなたとの対話 疑問・質問・反論のページ

Q: 先月は、冥想中の眠気と妄想についてお聞きしていました。ただからだが疲れているから出る眠気は、2~3度冥想を続ければなくなるということでした。眠気には、もう一種類あるとおっしゃっていましたが、それはどういう眠気でしょうか。

A:
 2つ目の眠気は、からだが疲れて睡眠不足であるせいでなく生まれる眠気です。人には、行動したくない、励みたくない、という心の弱みがあります。いわゆ る怠け現象です。これは修行によって直さなければならない煩悩の一種です。この眠気とは戦わなければなりません。この煩悩の眠気に負けて寝てしまうように なったら、ずっと性格が変わることはありません。眠気に負けずにヴイパッサナーを続けること、ヴィパッサナーの効果を理解することから、2番目の眠気は消 えていきます。加えて言うと、からだが疲れて出てくる眠気は自然なもので、その場合は寝てもかまいません。

Q: では、次に妄想について聞かせてください。妄想というのは、いくら確認してもラベリングしても、次から次へと出てくるものだと、先月おっしゃっていました。

A:
 そうです。それは、心の問題で、心の中にどれくらい余計な概念、余計な考え方がたまっているかということが問題なのです。たとえば、大変よく勉強してい る、仏教のプロ中のプロが冥想を始めたら、みなさまより一億倍もきついんですよ。それくらい概念がつまっているのです。それを全部外へ出して、心が清らか になるまでは、全部妄想として出てくるのです。
また、冥想に入る前に、突然知らない人に 「あなたどこへ行くのですか」 と話しかけられたら、あるいは何かとんでもないことを言われたとしたら、それは頭に残ってしまうのです。残ったまま冥想を始めると、それが妄想となって出 てくるのです。あとに残ったということは、やっぱりエネルギーとして、たまったということなのです。たまったエネルギーは、どんどん出て、出て、出て、確 認するとそのエネルギーは消えてしまうのです。言葉できちんと確認すると、悪いエネルギーは良い方向へ変わっていくのです。ですから確認が上手になってく ると、夢の中であってもだまされません。しっかりと生きていることができるのです。

Q: 妄想は、冥想を始めると出てきて、気がつきますが、今のお話ですと、エネルギーとしてからだにたまったものだということですので、冥想をしない場合はどこへ行くのでしょう。

A:
 仕事中や、いろいろなときに疲れが出てきますね。この疲れが出たということは、いろいろな妄想が働いていたということなのです。仕事をしていていろいろ なことを考えたり、悩んだりすると、その時間には疲れがたまるのです。からだそのものが疲れるということはそれほどないのです。
からだが疲れたというのもまた、ひとつの誤解なのです。歩いて疲れた、がんばって疲れたというようなことはね。からだは疲れたら死んでしまいますからね。死ぬまでからだは活動しているのです。
 「疲れた」 ということは、意外に思われるかもしれませんが、悩んでいらっしゃることなのです。自然の流れを、自我意識が、バラバラにしてしまっているということなん です。いろいろなことを考えて、自然の流れを何とかいじろう、いじろう、とした結果なのです。それで疲れてしまう。

 わかりやすく言えば、たとえば走る場合、走る前に、2キロ走る、3キロ走ると、決めてしまうでしょ。それは大変な妄想概念なのです。2キロというのは、自分のからだには関係のないことです。 「自分」 という存在にはまったく関係のない、「世の中のこと」 なのです。それは頭の中の妄想概念です。それを何とかして達成しようと努力する、それは不自然なことですから疲れてしまう。
ですから走る場合、たとえば健康のために走ろうと思うなら、まあ、走れる距離くらい走ろうと走ればいいのであって、たとえば筋肉がもうこれ以上ダメですよというところまで走ればいいし、そこで終わったら疲れていないのです。それから休めばいいのです。

休むと、疲れがどっと出るのではと思うと、そうでなく、とても元気になるのです。でも毎日3キロ走りましょうと決めたら、それは妄想概念で決めたこ とだから、からだに合わず、ものすごく疲れるのです。その場合、キロという目印が気になっているだけで、体のことが気になっているわけではありません。キ ロを気にしても、修行にもならなければ健康にもならない。気にしてほしいのは、からだの方です。走るときも、歩くときも、からだを見て進む。
距離ではなくてね。

 そういうことで、からだを基準にして行動していると、からだは疲れません。疲れるのは心の方なのです。

Q: 話は変わりますが、健康のために、たとえばいろいろと病気があるという人も、ヴィパッサナーに取り組めば治るでしょうか。

A:
 ヴィパッサナーには、変えていく力があるのですが、何かを目的にしてしまうと、逆にものすごく時間がかかります。
それは人間の自我のせいなのです。
何かこういうものを得たいと思ったら、それはものすごく遠い目的になってしまうのです。それは心の法則なのです。
今おっしゃったように、たとえばいろいろ健康にトラブルがあって、薬が効かないような病気を持っている人がいて、健康のためにヴィパッサナーでもやってみ ようかと思ったら、これはものすごく時間がかかるのです。なかなか治らないのです。治らない理由は、目的を作ったということです。
 たとえば、私はこの境地に行きます、と思うとそれはその人の一生の仕事になるんですよ。心の悩みがあったとしても、ヴイパッサナーは瞬時に治すことがで きるのですが、それを目的にすると残念ながら、2年、3年、ときには5年も6年もかかってしまうのです。だから、私から見ると本当にもったいないことなの です。そんなこと置いておけば、たった一日でその段階に進んでしまうのです。ですからこの、「すべての放棄」 「責任の放棄」 ということは、とことん覚えておいてください。我々は何もする必要はないのだと。

 ですから、冥想は自由に気軽に、遊びにでもやってみてください。どんな結果があるのかなあ、とかね。
ゲーム感覚で遊んでみてください。遊んだら仏教に失礼じゃないかとか、そういうことはないのです。
自分の気持次第です。いい結果が出てくるとどんどんできるようになってくるのです。すると自分にすごくいいことだとわかるようになると思います。そうなれば、いつでも常に気づきながら仕事したり、生きていったりできるようになると思います。

(みなさんからのご質問等をスマナサーラ長老にお聞きし、PATIPADÂ 編集部でまとめました)










ひとり言 | 11:31:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
徒然日記----「どっちの道を歩いている?」②




協会の記事ではありません。
サークル仲間の徒然日記です。





「どっちの道を歩いている?」②

 「いま いきているのが まんま こたえかと」 と
いう書き込みがある。

 先ずはこのいきているという「生きる」というのはどういうこと
なのかと考えてみようと思う。

 「生きる」とはどういうことなのか?生まれて以来止まることな
く今まで、そして今に生きている。

 「生きる」とはどういうことか?

 ブッダの教えはここから始まると思う。まったく知らない世界が
今そこにある。










徒然日記 | 09:46:22 | トラックバック(0) | コメント(0)
次のページ