
宿題 「慈悲の冥想」
2週間連続で行います。1日でもサボったら、また1日目として始めて下さい。
1日1回、30分間、朝か晩に行う。または、1日2回、15分間ずつ、朝と晩に分けて行う。
布団の中でも、椅子に座ってでも、声を出しても出さなくても結構です。
「慈悲の瞑想」
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(三回唱えた後、心の中で繰り返し念じます)
私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願いごとが叶えられますように
私の親しい人々にも悟りの光が現れますように
私の親しい人々が幸せでありますように(三回唱えた後、繰り返し念じます)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(三回唱えた後、繰り返し念じます)
私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように
私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(三回唱えた後、繰り返し念じます)
仏教は、とにかく実践あるのみです。頑張って下さい。私も、師僧に何度も厳しく叱られながら、何とかやり遂げることが出来ました(笑)
人間は、なぜか自分が幸せでありますように、というのをためらう傾向があります。
でも、仏教では、私達は、幸せになっていいのです。
とは言っても、何でもかんでも願い事が叶う、という幸せは、単なる妄想です。
健康で、平和で、穏やかな人生を歩みたい、という気持ちは、恥ずかしいものではなく、大切に持っていて頂きたいものです。
自分の幸せを純粋に祈れるようになると、自分の周りの人々の幸せが自分の幸せに直結していることに気付きます。
さらに、身の回りのものを見回すと…。様々な生命のお陰で人生が回っていることに気付かされます。
それで、「生きとし生けるものが幸せでありますように」という祈りが生まれます。
初めは誰でも、写真の「鬼の念仏像」にあるように、慈悲の心が完全には育っていないので、慈悲の冥想をしても心がこもっていないものです。しかし、それでいいのです。2週間繰り返すと、鬼の右側の角が折れている様に、私達の自我の角が折れて来るのです。
私の嫌いな人の幸せや、私のことを嫌っている人の幸せまで祈るとなると、もう誰でも鬼の形相になるのです(笑)
しかし、それを2週間続けることで、私達の心にはしっかりと慈悲の心が育ちます。
嫌いな人に対しても、見えないところで幸せでいてくれたらいいや、嫌なことをされたのは過去であり今現在とは関係がないのだから不快な気持ちを思い出すのはやめよう、と、慈しみのある現実と向き合う心が生まれて来るのです。
私のことを嫌っている人に対しても、犬に噛まれても犬の足を噛み返さない様に、私はあなたに敵意は持ちません、という気持ちが生まれるのです。
さらに、慈悲の気持ちが育つと、私達の人生は矛盾だらけである、と見えて来ます。
生きとし生けるものの幸せを祈りながらも…
生き物を食べている…
私が仕事をすると、他の人の仕事がなくなる…
私が生きていると、限られた地球上の資源を使ってしまう…。
その様に慈悲の冥想を続けると、私達は、生き続けることに執着するのではなく、生き続けていることに執着しない様になるのです。
それは、もっと長生きしたい、ではありません。
長生きしたくない、早く死にたい、でもありません。
生きている間は、大切に生きよう、という感じです。
その人の心からは、余計な欲望も、個人の希望を叶える祈りも出て来ません。
占いに頼りますかねぇ?法力に依存しますかねぇ?超能力が人生に必要ですかねぇ?
慈悲の心が生まれるだけで、このどれもが実に馬鹿馬鹿しい依存であることが分かるのです。
生きとし生けるものが幸せでありますように、その実現のために私達の命は使うべきなのではないでしょうか?という生き方をしなければならないことが自分自身の力で見えて来るのです。