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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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1月13日に発売されますムック本「新しい葬儀の本」の取材です。






協会の記事ではありません。
木下全雄  さんの ブログの紹介です




先日、宝島社さんから取材を受けました。
1月13日に発売されますムック本「新しい葬儀の本」の取材です。

私なりのお葬儀やお戒名についての意見を掲載して頂けることになっています。

仕上がりは私にも「お楽しみに」ということで、教えてもらっていません(笑)

基本的に日本のお寺は4種類に分類されているように思います。

一般的な「檀家寺」
皆さんの菩提寺と言われるお寺ですね。ご先祖さんのご供養と回向を担っているお寺さんです。檀家さんのお布施によって支えられています。

一度はお参りしたことがある「祈祷寺」
祈願、祈祷をしてくれるお寺さんです。厄除けや病気平癒、合格祈願や商売繁盛を願って、皆様も一度はお参りされたことがあると思います。こちらでは、檀家さんによって支えられているのではなく、お参りに来て下さる信者さんによって支えられています。

観光名所となっている「観光寺」
信仰と観光の融合したお寺ですね。修学旅行でもお参りされるようなお寺さんです。宗教色よりも文化財としての存在を重視されている、万人に開かれたお寺さんです。檀家さんや信者さんではなく、拝観料によって支えられています。

私のようなお寺の出身者ではない僧侶が私的建立した「在野寺」
僧侶の資格はありますが、お寺の生まれではないために、私財でお堂を建てています。他のお寺さんのお手伝いや霊園さんからのご法事の依頼などによって生活しています。

その中の在野寺僧侶の私の一意見ですので、伝統的なご寺院のご住職とはかなり意見の隔たりがあるかも知れません。そんな私からの発信ですが、もしよろしければご一読下さいませ。

先日、宝島社さんから取材を受けました。<br />1月13日に発売されますムック本「新しい葬儀の本」の取材です。<br /><br />私なりのお葬儀やお戒名についての意見を掲載して頂けることになっています。<br /><br />仕上がりは私にも「お楽しみに」ということで、教えてもらっていません(笑)<br /><br />基本的に日本のお寺は4種類に分類されているように思います。<br /><br />一般的な「檀家寺」<br />皆さんの菩提寺と言われるお寺ですね。ご先祖さんのご供養と回向を担っているお寺さんです。檀家さんのお布施によって支えられています。<br /><br />一度はお参りしたことがある「祈祷寺」<br />祈願、祈祷をしてくれるお寺さんです。厄除けや病気平癒、合格祈願や商売繁盛を願って、皆様も一度はお参りされたことがあると思います。こちらでは、檀家さんによって支えられているのではなく、お参りに来て下さる信者さんによって支えられています。<br /><br />観光名所となっている「観光寺」<br />信仰と観光の融合したお寺ですね。修学旅行でもお参りされるようなお寺さんです。宗教色よりも文化財としての存在を重視されている、万人に開かれたお寺さんです。檀家さんや信者さんではなく、拝観料によって支えられています。<br /><br />私のようなお寺の出身者ではない僧侶が私的建立した「在野寺」<br />僧侶の資格はありますが、お寺の生まれではないために、私財でお堂を建てています。他のお寺さんのお手伝いや霊園さんからのご法事の依頼などによって生活しています。<br /><br />その中の在野寺僧侶の私の一意見ですので、伝統的なご寺院のご住職とはかなり意見の隔たりがあるかも知れません。そんな私からの発信ですが、もしよろしければご一読下さいませ。









Be Happy! | 15:30:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
▼怒りに慈しみで勝つ





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬ 今年も当協会のFBページをご覧いただき、誠にありがとうございました。現在1400「いいね!」を超えました。来年もお釈迦様の教えを、より多くの方に 知っていただき、一人ひとりの人生が幸福になっていきますよう務めていきたいと存じます。今後とも、よろしくお願いいたします。

皆様、良いお年をお迎えください。

Akkodhena jine kodhaṃ,
Asādhuṃ sādhunā jine;
Jine kadariyaṃ dānena,
Saccena alikavādinaṃ. (Dhammapada 223)

怒らぬことで瞋(じん)に勝ち
善き行いで悪に勝ち
施すことで貪(とん)に勝ち
真実(まこと)で嘘に勝てよかし(江原通子 訳)

▼怒りに慈しみで勝つ
http://www.j-theravada.net/howa/howa129.html

♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

#jtba 今年も当協会のFBページをご覧いただき、誠にありがとうございました。現在1400「いいね!」を超えました。来年もお釈迦様の教えを、より多くの方に知っていただき、一人ひとりの人生が幸福になっていきますよう務めていきたいと存じます。今後とも、よろしくお願いいたします。<br /><br />皆様、良いお年をお迎えください。<br /><br />Akkodhena jine kodhaṃ,<br />Asādhuṃ sādhunā jine;<br />Jine kadariyaṃ dānena,<br />Saccena alikavādinaṃ. (Dhammapada 223)<br /><br />怒らぬことで瞋(じん)に勝ち<br />善き行いで悪に勝ち<br />施すことで貪(とん)に勝ち<br />真実(まこと)で嘘に勝てよかし(江原通子 訳)<br /><br />▼怒りに慈しみで勝つ<br />http://www.j-theravada.net/howa/howa129.html<br /><br />♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪









facebook | 16:23:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
ダンマサークル活動のガイドライン(概要版)





協会のfbより紹介です。





ダンマサークル活動のガイドライン(概要版)

仏紀2558年(西暦2014年)12月26日 掲載


ダンマサークル活動のガイドラインの発行にあたって

 

宗教法人日本テーラワーダ仏教協会は、釈迦牟尼仏陀の教えを社会に伝え広め、法を学び、修行できる環境を提供することを目的とする団体です。

そしてその活動は、お坊様方の法話や冥想指導会などにおいて会場でご喜捨いただくお布施と、当協会へ直接いただくお布施などにより賄われています。

協会で行う、“法話と冥想実践会”・“講演会”・“合宿”などの企画運営から、機関誌パティパダーの制作に至るまで、その活動は多くのボランティアの皆様に支えられています。

また、各地方で開催されているダンマサークルもその一環であり、主催者の皆様のご協力によって成り立っており、未だお釈迦様の教えが届いていない地域への布教活動の礎となっています。

 

活動が盛んになる一方で、ダンマサークルの運営方法がわからない、講師を呼んで講演会をしたいが適切な選出方法がわからない、主催者だけでは大きな講演会を実行するだけの資金が賄えない等、様々なご質問を協会事務局へお寄せいただくようになりました。

そ こで今回、ダンマサークル活動の円滑・活発な運営が行えるよう、「ダンマサークル活動のガイドライン」としてまとめました。この中では、ダンマサークルの 運営、講演会の実施、お釈迦様の本来の教えを教えていただくことのできる講師の選び方などについて、現在の当協会の考え方を盛り込みました。

ダンマサークル活動のガイドライン発行にあたり、その内容の概要をご紹介させていただきます。今後ダンマサークル活動を行いたいという皆さんはご参考にしていただければと存じます。なお、詳細な内容は事務局にお問い合わせください。

 

お互いを慈しむ心を育て、仏道の実践、布教活動を行っていけるよう、一緒に協力して参りましょう。

(宗)日本テーラワーダ仏教協会

 

 ダンマサークル活動のガイドライン(概要版) 

 

1. ダンマサークルの定義

 

・ダンマサークルは宗教法人日本テーラワーダ仏教協会の会員有志を中心とした自主的な仏教サークル活動です。

 

2. ダンマサークルの運営と担当者について

 

・ダンマサークルの担当者(世話人、会計、協会機関誌へのスケジュール情報連絡担当、月次活動報告担当など)は、協会の現役会員が担当することとします。

・ダンマサークルの運営は各々のダンマサークルで担当者が主体となり行います。

・ダンマサークルの開催にあたり、勉強方法や資料、イベントの開催など不明な点やアドバイスの必要がございましたら、随時協会事務局にご相談ください。

・ダンマサークルの運営に関する会議を開く場合は、必ず2/3以上の参加者が協会の現役会員となるように調整してください。

 

3. 活動報告

 

・毎月の活動報告を必ず行うようお願いいたします。

 

4. 法話と冥想実践会、講演会、合宿などの開催について

 

・ 各ダンマサークルで講師を招いての“法話と冥想実践会”・“講演会”・“合宿”などを企画する場合は事前に協会事務局へご連絡ください。

・講師を招かない小規模な勉強会や冥想会は各ダンマサークルで適宜行ってください。

 

5. 講師について

 

・各ダンマサークルで講師を招いての勉強会などを企画する場合、日本テーラワーダ仏教協会より講師派遣や講師紹介をすることができます。ぜひお問い合わせください。

・各地のダンマサークルが独自にゲスト講師(テーラワーダの出家者、在家の研究者等)を招いて勉強会などを行う場合は、講師候補のプロフィールを添えて協会事務局に届け出てください。

・ 日本テーラワーダ仏教協会では冥想実践をされる皆様に、協会の長老方が指導されているヴィパッサナー実践を推奨しています。協会会員を中心とした活動であ ることに鑑み、その他のさまざまな冥想法を紹介する講師の冥想指導の会をダンマサークルで主催することはお控えください。

 

 

以上










テーラワーダ仏教とは? | 10:08:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
今年もあと1週間となりました。師走の忙しい中ですが、今年最後の冥想会「1day of the meditation」のご案内を申し上げます。





東海ダンマサークルの主催行事です。





仏道修行の皆様へ

 皆様、年の瀬を如何お過ごしでしょうか。今年もあと1週間となりました。師走の忙しい中ですが、今年最後の冥想会「1day of the meditation」のご案内を申し上げます。
 いつも利用しています和室の全室を借り切って広々とした空間で、終日冥想を行います。ご都合の良い方はぜひご参加下さい。
 詳しくは以下の通りです。

                 記

・日時:2014年12月28日(日) 9時~18時
   ※途中参加、退席可。

・会費:¥1500
但し全室、一日貸し切りのため、途中でのキャンセルできませんので、申込みされて急用等で当日不参加でも会費は後日徴収させて頂きます事をご了承ください。

・場所 :刈谷市中央生涯学習センター和室1~3(刈谷市総合文化センター内3階)
 電話:0566-21-7430
 URL:: http://www.kariya.hall-info.jp/index.php?menuID=5
   ※和室には、座布団、および少し高めの座椅子などが常備されており、膝の不自由な方も参加可能と思います。

・交通 : JR名古屋駅~刈谷駅(新快速17分)南口から西へ徒歩3分
  車: 駐車場(文化センター駐車場)が隣接。(参加者:4時間無料)

・連絡先:三谷 携帯:090ー9897ー2882
      メール:mj888jp@ybb.ne.jp

では、お待ちしております。 

皆様が健やかに過ごされるように~。 










刈谷自主冥想会 | 09:35:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
本日の「仏教への招待状」 献血できることは有り難い!生きていることは、生きとし生けるもののお陰で成り立っています!
 




協会の記事ではありません。
木下全雄  さんの ブログの紹介です






四万十川にて先日、110回目の献血が出来ました。
こんなにもお役に立てる機会を頂けたことに感謝しております。本当にありがとうございました!

師僧のお一人のスマナサーラ長老にもこの喜びをご報告(笑)
「そんなにも献血している人はいないでしょうね。」とのお褒めの言葉を頂いてしまいました(笑)

もちろんもっとたくさん献血経験がある方はたくさんいらっしゃいます(笑)

私の身体から採れる血液量はわずかですが、輸血が必要な方が皆さん幸せでありますように、と祈っております。自分の身体の一部を使って人様の健康のお役に立てるのは、本当に嬉しいことです。


席を譲ること、寄付をすること、仕事をすること、ゴミを拾うこと、人の役に立つこと、これら全てが私達の身体を使った善行為です。

善行為をすることで、人の世が平和になるのですから、喜んで実践して行きたいものです。

さらに、私は仏教徒ですから、回向(えこう)もします。

回向とは、なんでしょうか?

善行為が出来ると、私達はとても嬉しくなりますよね。
でも、その善行為が出来たのは、実は様々な生命のお陰なのです。
こちらが申し出た支援を受け入れてくれる方がいらっしゃらなければ、そもそも善行為が出来ません。
また、させて頂く側と受ける側の間に入って下さる方もいらっしゃいます。

ですから、善行為は自分一人では出来ないのですね。

そういう訳で、善行為が出来た時の喜びは、生きとし生けるものに感謝としてちゃんと伝えることが、仏教徒的な礼儀なのです。

とはいえ、こうしてブログには書けても、みんなに言って回ることは出来ませんから(笑)、さて、どのようにして生きとし生けるものに伝えれば良いでしょうか?

ズバリ、その方法が回向です!

この度私が善行為をして喜べたのは、生きとし生けるもののお陰ですよ、有難うね、生きとし生けるものも幸せでありますようにね~、と心の中で宣言すること、これが回向の方法です。

善行為が出来て、私達の心が嬉しくなった時には、必ず「生きとし生けるものも幸せでありますように」と、感謝と喜びを分かち合う宣言をして頂きたいと思います。

それは私達の先祖にまでも届く、明るくて優しくて嬉しいプレゼントです、と言われていますから、毎日一回は善行為をして、回向をしたいものです。

あっ、今日はゴロゴロ昼寝をして、何も善行為をしていなかった(笑)
ヤバい、ヤバい(笑)

でもそんなヤバい時にも「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じて下さい(笑)

なぜかって?

私達が今人間として生きているのは、やっぱり多くの生命のお陰ですね。家族、先祖、仕事仲間、お客さん、み~んなのお陰で、今生きていています。食べ物も住むところも、電気も空気も、生きとし生けるもののお陰で成り立っています。

ですから、今穏やかに生活できているのは、生きとし生けるもののお陰です、有難うね、生きとし生けるものも幸せでありますように、そう念じて頂きたいのです。

こうしてちゃんと毎日感謝をして、新しい年を迎えたいものだ、と思います。
生きとし生けるものが幸せでありますように!
皆様がお幸せでありますように!








Be Happy! | 09:39:51 | トラックバック(0) | コメント(0)
「仲よしすることが人生の目的」----徒然日記






協会の記事ではありません。
サークル仲間の徒然日記です。





「仲よしすることが人生の目的」

 仲よしすることが人生の目的。どんな時でも仲よしできる元
の心を育てることが日々のやること。人生の成功と幸福は仲良
しが齎す。

 何をするにも先ず仲良しをする場にする。仲よしをするしか
ないから社会の一役をする。

 自分を放すことが仲良しすること。いま・この瞬間には過去
に捉われず未来にも束縛されない法(自然界・趣旨・会旨)に
調和していく世界がある。

 いま・今を観察すると仲よしの世界になる。

 強い怒りと強い自己主張は仲良い世界の破壊者と心して居り
ます。










徒然日記 | 10:54:16 | トラックバック(0) | コメント(0)
#‎jtba‬「どういうつもり~エゴに気づく~」





協会のfbより紹介です。





#jtba「どういうつもり~エゴに気づく~」<br /><br />◆ブッダの説く人間関係<br /> 「生きている」ということは、人間と死ぬまでつきあうことなのです。他人と上手くつきあう方法を知る人が、この世で幸福に生きていられるのです。人間関係を無視することは、誰であっても絶対にできることではありません。お釈迦さまが語る人間関係について様々な角度で考えてみましょう。まず、なぜ人間関係がスムーズにいかないのかと見てみましょう。<br /><br />◆人間はみんなエゴイスト<br /> スッタニパータという経典に、次のようなお釈迦さまの偈(詩句)があります。『人は、何かの目的があって、つきあったり仲良くしたりしている。今の世の中では、自分が何か得をしようという目的のない友人はめったにいない。人間は自分のことしか考えないし、汚れている。だから(聖者は)独りで生活をする。犀の角のごとく孤独でいる』(スッタニパータ 75)<br /><br /> この偈は二千五百年前の遠い昔から、修行をして心を清らかにしようとする行者たちの間で、ひとつの歌のように暗唱されてきた偈のひとつです。「人間はお互いに仲良くしているようですが、自分の都合を考えないで純粋な気持ちで仲良くつきあってくれる本物の友人というのは、まず世の中にはいません」と、お釈迦さまはおっしゃるのですね。<br /><br /> 犀という動物は、当時のインドにはたくさんいました。犀は群を作らずに一匹だけで孤独に生活します。心を清らかにした人には独りでも生きていられるという真理を明示するために、犀がたとえに用いられたのです。犀をたとえに聖者の独立主義が語られているのです。<br /><br /> 上の偈によると、「人間はみんなわがままでエゴイストだ」と極端に決めつけていることになります。エゴイストというのは、自分中心で「自分さえよければいい」としか考えない人ですね。自分だけの小さな世界で生きている、すごく暗い人です。ですからエゴイストというのは、一般的に良く思われていません。我々は普通、自分自分と考えているばかりの自己中心的で我の強い人とはつきあいたくありません。はっきり言って、エゴイストは嫌いです。自分もエゴイストのレッテルを貼られないように気をつけています。<br /><br /> けれどもお釈迦さまの言葉によると、「人間はみんなエゴイストだ」ということになるのですね。それが事実であるならば他人事のように「エゴイストは嫌いだ」と言っていられないのです。自分もエゴイストで、人から嫌われる身分になるのです。「あなたとはつきあいたくない」と言ったら、「こちらこそ、ごめんですよ」と言い返されることになります。<br /><br />◆全ての知識はエゴへ向かう<br /> お釈迦さまに「あなたはエゴイストですよ」と言われても、嫌悪感を感じる必要はないのです。実は、悟らない限り、私たちはエゴイストになってしまうプロセスの中にいるのです。なぜならば、必ずエゴが成り立ってしまうメカニズムがこころの中にあるからです。それは認識のメカニズムです。“生きている”ということの意味は、外の世界を認識することです。見る、聞く、味わう、嗅ぐ、苦しみや楽しみなどを感じる、ものごとを考える、感情を抱く。これが「生きる」ということです。<br /><br /> それを言い換えれば、「外の世界を認識する」ということになります。その認識システム自体が、極端に自己中心というか、自分だけの世界を作ってしまうのです。私たちは自分の目でものを見て、自分の耳で聞いて、自分の鼻で嗅いで、自分の舌で味わって、自分の身体で感じて、外の世界を認識しています。それ以外に外の世界を知る方法はないのです。<br /><br /> この認識システムについて、もう少し詳しく見てみましょう。たとえば〈見る〉といっても、目に建物や花などが映るわけではありません。ただ、光が色々と変化しながら波動として目に触れるのみです。光の波動が目に触れて何を感じるかというと、変化を感じるのです。「変わった、変わった、変わった…」ということだけを、情報として受け取るのです。<br /><br /> 脳は、瞬間瞬間の変化の情報を、そのままでは認識しないのです。ある程度の情報量が脳に伝わってから、それに基づいて頭の中で適当なイメージを作るのです。いわゆるシミュレーションするのですね。目から入った光の変化という情報と、頭の中でシミュレーションしたイメージは一致しません。ですから、誰かと一緒に同じ絵を見ていても、それぞれが頭の中で作っている映像は同じものではないのです。同じ絵を見ても、人それぞれに感じるものは違うのです。<br /><br /> 人は自分の認識器官によって、見て、聞いて、味わって、嗅いで、身体で感じて、瞬時に頭の中でイメージを作って認識します。「知った」というのは、イメージを頭の中で組み立てたということなのです。私たちは、事実を知っていると思っていますが、それははっきり言って勘違いです。認識することは「頭の中で自分だけの幻覚を作ってしまった」ということなのです。<br /><br /> 私が「きれい」と言うものに、他の人は「きれいではない」と言う。人が「おいしい」というものに、私が「まずい」と思う。「落ち着く音楽だ」と私が思う音に対して、人が「イライラする音楽だ」言う。我々はこのような世界で生きているのです。「同感」なんか全く成り立たない世界なのです。<br /><br /> しかし私たちは、自分が間違っているとは決して思えないのです。私が感動した音楽は、私にとって美しい音楽です。相手に「うるさい雑音だ」と言われると、相手のことを「変な人だなぁ」と思ってしまうのです。我々は自分のことしか知らない世界で生きているのです。<br /><br /> この認識のシステムはどうしようもありません。いくら誰かに説教されても、私にとって美味しいものがたちまち不味く感じるはずはないのです。ですから、すべての生命は、自分の世界以外は何も知らないのです。たとえば誰かと一緒におにぎりを食べて、「おいしいね」「そうだね」と互いにわかったような気持ちになったとしても、相手がどんな味を味わっているか本当に知っている人がいますか? いないと思います。他人が何を見ているか、何を聞いているか、何を味わっているか、それを知ることは不可能なのです。<br /><br /> そのように、人は皆、自分のことしか知らないのです。自分の世界しか知らないのだから、自分中心にならざるを得ないのです。なぜかというと、他の人のことは何もわからないのだから。どうしても、自分の知っている世界から自分が判断して、考えたりしゃべったり行動したりするようになります。それは避けられません。<br /><br />◆人は孤独で泣いている<br /> 自分のこころで何かを認識してイメージを作ったら、そこに〈エゴ〉という物の怪がすでに現れているのです。その〈エゴ〉というものが生まれたら、「自分は独りだ」と感じて寂しくなります。そこで人は味方を作ろうと頑張るのです。自分の見解、自分の認識に賛成する人を捜す。そういう人を「仲間だ」と好んで、その人を守ろうとする。当然、自分の見解に反対する人もいるのですが、そういう反対者を「敵だ」と思って潰そうとするのですね。そこに執着の世界、欲と怒りの苦しみの世界が現れてきます。<br /><br /> 本当は、「この人は味方だ」と思うのも「敵だ」と思うのも錯覚です。とにかくエゴが現れた時点からは、コミュニケーションというものは全くありません。人と気持ちが通じたと思っても、それは言葉のカラクリで理解したつもりになっているだけなのです。たとえば「これはすばらしいことですね」「本当にすばらしいですね」という会話から「この人はわかってくれた」と思うのは大きな誤解で、その「すばらしい」という言葉の内容は、一人一人違うはずなのです。<br /><br /> ですから、私たちが生きている世界はどんな世界か、落ち着いて厳密に考えてみた方がいいと思います。よく観察すると、「コミュニケーションなんか成り立つものなのだろうか」と疑問が生じるのです。<br /><br /> そういうことだから、人間は本来、ひどく孤独なのです。家族がいる、友達がいる、と思っていても、本当のコミュニケーションは成り立っていません。その孤独感はかなりきついのです。よく「全然私の気持ちを分かってくれない」と文句を言うでしょう。「親はわかってくれない」「ダンナは理解してくれない」「本当の友達がいない」などと深刻に悩んでいる人が多いのではないですか。<br /><br /> みんな「私の気持ちを理解してくれ」と希望しているのです。ところが、コミュニケーションなどは、これまでもずっとなかったし、今もないし、これからもない。人間は、自分のことしか知り得ない認識のメカニズムの被害者で、実は厳密に孤独なのです。これが「人間は皆エゴイストだ」という意味です。<br /><br />●photo:You're it! Tagged by Sudhamshu Hebbar(flickr)<br />▼参考テキスト<br />(1)エゴイストは後を絶たない<br />http://www.j-theravada.net/kogi/kogi83.html<br />♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

‪#‎jtba‬「どういうつもり~エゴに気づく~」

◆ブッダの説く人間関係
 「生きている」ということは、人間と死ぬまでつきあうことなのです。他人と上手くつきあう方法を知る人が、この世で幸福に生きていられるのです。人間関係を無視することは、誰であっても絶対にできることではありません。お釈迦さまが語る人間関係について様々な角度で考えてみましょう。まず、なぜ人間関係がスムーズにいかないのかと見てみましょう。

◆人間はみんなエゴイスト
 スッタニパータという経典に、次のようなお釈迦さまの偈(詩句)があります。『人は、何かの目的があって、つきあったり仲良くしたりしている。今の世の 中では、自分が何か得をしようという目的のない友人はめったにいない。人間は自分のことしか考えないし、汚れている。だから(聖者は)独りで生活をする。 犀の角のごとく孤独でいる』(スッタニパータ 75)

 この偈は二千五百年前の遠い昔から、修行をして心を清らかにしようとする行者たちの間で、ひとつの歌のように暗唱されてきた偈のひとつです。「人間はお 互いに仲良くしているようですが、自分の都合を考えないで純粋な気持ちで仲良くつきあってくれる本物の友人というのは、まず世の中にはいません」と、お釈 迦さまはおっしゃるのですね。

 犀という動物は、当時のインドにはたくさんいました。犀は群を作らずに一匹だけで孤独に生活します。心を清らかにした人には独りでも生きていられるという真理を明示するために、犀がたとえに用いられたのです。犀をたとえに聖者の独立主義が語られているのです。

 上の偈によると、「人間はみんなわがままでエゴイストだ」と極端に決めつけていることになります。エゴイストというのは、自分中心で「自分さえよければ いい」としか考えない人ですね。自分だけの小さな世界で生きている、すごく暗い人です。ですからエゴイストというのは、一般的に良く思われていません。 我々は普通、自分自分と考えているばかりの自己中心的で我の強い人とはつきあいたくありません。はっきり言って、エゴイストは嫌いです。自分もエゴイスト のレッテルを貼られないように気をつけています。

 けれどもお釈迦さまの言葉によると、「人間はみんなエゴイストだ」ということになるのですね。それが事実であるならば他人事のように「エゴイストは嫌い だ」と言っていられないのです。自分もエゴイストで、人から嫌われる身分になるのです。「あなたとはつきあいたくない」と言ったら、「こちらこそ、ごめん ですよ」と言い返されることになります。

◆全ての知識はエゴへ向かう
 お釈迦さまに「あなたはエゴイストですよ」と言われても、嫌悪感を感じる必要はないのです。実は、悟らない限り、私たちはエゴイストになってしまうプロ セスの中にいるのです。なぜならば、必ずエゴが成り立ってしまうメカニズムがこころの中にあるからです。それは認識のメカニズムです。“生きている”とい うことの意味は、外の世界を認識することです。見る、聞く、味わう、嗅ぐ、苦しみや楽しみなどを感じる、ものごとを考える、感情を抱く。これが「生きる」 ということです。

 それを言い換えれば、「外の世界を認識する」ということになります。その認識システム自体が、極端に自己中心というか、自分だけの世界を作ってしまうの です。私たちは自分の目でものを見て、自分の耳で聞いて、自分の鼻で嗅いで、自分の舌で味わって、自分の身体で感じて、外の世界を認識しています。それ以 外に外の世界を知る方法はないのです。

 この認識システムについて、もう少し詳しく見てみましょう。たとえば〈見る〉といっても、目に建物や花などが映るわけではありません。ただ、光が色々と 変化しながら波動として目に触れるのみです。光の波動が目に触れて何を感じるかというと、変化を感じるのです。「変わった、変わった、変わった…」という ことだけを、情報として受け取るのです。

 脳は、瞬間瞬間の変化の情報を、そのままでは認識しないのです。ある程度の情報量が脳に伝わってから、それに基づいて頭の中で適当なイメージを作るので す。いわゆるシミュレーションするのですね。目から入った光の変化という情報と、頭の中でシミュレーションしたイメージは一致しません。ですから、誰かと 一緒に同じ絵を見ていても、それぞれが頭の中で作っている映像は同じものではないのです。同じ絵を見ても、人それぞれに感じるものは違うのです。

 人は自分の認識器官によって、見て、聞いて、味わって、嗅いで、身体で感じて、瞬時に頭の中でイメージを作って認識します。「知った」というのは、イ メージを頭の中で組み立てたということなのです。私たちは、事実を知っていると思っていますが、それははっきり言って勘違いです。認識することは「頭の中 で自分だけの幻覚を作ってしまった」ということなのです。

 私が「きれい」と言うものに、他の人は「きれいではない」と言う。人が「おいしい」というものに、私が「まずい」と思う。「落ち着く音楽だ」と私が思う 音に対して、人が「イライラする音楽だ」言う。我々はこのような世界で生きているのです。「同感」なんか全く成り立たない世界なのです。

 しかし私たちは、自分が間違っているとは決して思えないのです。私が感動した音楽は、私にとって美しい音楽です。相手に「うるさい雑音だ」と言われると、相手のことを「変な人だなぁ」と思ってしまうのです。我々は自分のことしか知らない世界で生きているのです。

 この認識のシステムはどうしようもありません。いくら誰かに説教されても、私にとって美味しいものがたちまち不味く感じるはずはないのです。ですから、 すべての生命は、自分の世界以外は何も知らないのです。たとえば誰かと一緒におにぎりを食べて、「おいしいね」「そうだね」と互いにわかったような気持ち になったとしても、相手がどんな味を味わっているか本当に知っている人がいますか? いないと思います。他人が何を見ているか、何を聞いているか、何を味 わっているか、それを知ることは不可能なのです。

 そのように、人は皆、自分のことしか知らないのです。自分の世界しか知らないのだから、自分中心にならざるを得ないのです。なぜかというと、他の人のこ とは何もわからないのだから。どうしても、自分の知っている世界から自分が判断して、考えたりしゃべったり行動したりするようになります。それは避けられ ません。

◆人は孤独で泣いている
 自分のこころで何かを認識してイメージを作ったら、そこに〈エゴ〉という物の怪がすでに現れているのです。その〈エゴ〉というものが生まれたら、「自分 は独りだ」と感じて寂しくなります。そこで人は味方を作ろうと頑張るのです。自分の見解、自分の認識に賛成する人を捜す。そういう人を「仲間だ」と好ん で、その人を守ろうとする。当然、自分の見解に反対する人もいるのですが、そういう反対者を「敵だ」と思って潰そうとするのですね。そこに執着の世界、欲 と怒りの苦しみの世界が現れてきます。

 本当は、「この人は味方だ」と思うのも「敵だ」と思うのも錯覚です。とにかくエゴが現れた時点からは、コミュニケーションというものは全くありません。 人と気持ちが通じたと思っても、それは言葉のカラクリで理解したつもりになっているだけなのです。たとえば「これはすばらしいことですね」「本当にすばら しいですね」という会話から「この人はわかってくれた」と思うのは大きな誤解で、その「すばらしい」という言葉の内容は、一人一人違うはずなのです。

 ですから、私たちが生きている世界はどんな世界か、落ち着いて厳密に考えてみた方がいいと思います。よく観察すると、「コミュニケーションなんか成り立つものなのだろうか」と疑問が生じるのです。

 そういうことだから、人間は本来、ひどく孤独なのです。家族がいる、友達がいる、と思っていても、本当のコミュニケーションは成り立っていません。その 孤独感はかなりきついのです。よく「全然私の気持ちを分かってくれない」と文句を言うでしょう。「親はわかってくれない」「ダンナは理解してくれない」 「本当の友達がいない」などと深刻に悩んでいる人が多いのではないですか。

 みんな「私の気持ちを理解してくれ」と希望しているのです。ところが、コミュニケーションなどは、これまでもずっとなかったし、今もないし、これからも ない。人間は、自分のことしか知り得ない認識のメカニズムの被害者で、実は厳密に孤独なのです。これが「人間は皆エゴイストだ」という意味です。

●photo:You're it! Tagged by Sudhamshu Hebbar(flickr)
▼参考テキスト
(1)エゴイストは後を絶たない
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi83.html
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪










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#‎jtba‬「自分さえよければ~善はどこに~」




協会のfbより紹介です。





#jtba「自分さえよければ~善はどこに~」<br /><br />Q:「善とは幸せな結果を出す行為だ」と聞きました。善行為による幸福というのも頭ではわかるのですが、怠ける心地よさも捨てがたく、つい怠けてしまいます。<br /><br />A:確かに怠けるのは心地いいかもしれません。でも、だから怠けてしまうというならば、「大学に受かりたいけれども勉強はしたくない」というようなもので、話になりません。欲による快楽は新たな不幸の原因になるだけです。穏やかで、落ち着いて、楽しく安楽に暮らせるのが幸せなのです。<br /><br /> でも、人々は大概、目先の快楽を求める道を歩んでいますね。だからわざわざ善悪のことを言われる必要が出てくるのです。因果法則が見えると、あれこれ言われなくても、善行為をすることが当たり前になります。だから心が成長したら、もう善だ悪だと言う必要もなくなっています。<br /><br /> 例えば、ご飯を食べることや呼吸することについては、善だとか悪だとか、誰も考えないでしょう? それは当たり前のことだと、皆、知ってるんです。お腹がすいたらご飯を食べること、息を吸ったら吐くことについては、誰も悩みません。そこには「法則に沿って行動する」という理性が働いているのです。<br /><br /> 因果法則は、すべての善行為に当てはまるのです。殺さないことも、盗まないことも、よこしまな行為をしないことも、息を吸うことと同じく、幸せに生きるための当たり前のことなのです。それを理解しているならば、理性がある人だと言えるでしょう。その人は別に善悪に悩むこともないし、善を行おうと踏ん張ることもない。悪をやめようと苦労することもありません。呼吸するごとく、普通に善行為をしているのです。<br /><br /> すべての生命は本来「幸福になりたい」と思っているのです。だから理性があるならば、善行為をするのは、生命として当たり前の生き方です。しかし、皆、幸福になりたいくせに、自分の感情に操られてわがままな生き方をしてしまう。それが無知ということです。「不幸になる道を歩いて幸福な結果がほしい」というのはおかしい。もっと理性的になる必要があります。<br /><br /> 理性ある人は、感情ではなく法則に沿って行動するから、悪行為はしません。「こういう原因は苦しみを作る、こういう原因は幸福を作る」とわかって行動するのが理性ある生き方です。誰も法則には逆らえません。そういう意味では、誰も自由ではないのです。<br /><br />Q:智慧がある人は必ず善行為をするということになるわけですね。<br /><br />A:まあそうなのですが、智慧がある人は、とりたてて「善行為」だとか思わないのです。呼吸するような自然な感じでいるのです。「私は呼吸しています」と胸を張る人は誰もいないでしょう? そのように、智慧が現れると善悪の対極性が消えて、善行為が当たり前のことになってしまうのです。だから「善行為をしなさい、悪を行ってはいけない」というのは因果法則を理解するまでです。それまでは善悪が対極的に感じられるのです。<br /><br />Q:善悪は、対極的ではなく相対的ではないのですか? これは善、これは悪と決められるのかどうか疑問に思います。<br /><br />A:対極的というのは白黒がはっきりしていることです。善も悪もきっちりあるという立場です。相対的というのは、白黒はっきりしません。長いものも、より短いものがあってはじめて長いということになるのだからね。相対的な考え方の方が何となくカッコよく感じるかもしれません。しかし相対的に道徳を論じると、善悪が論理学になってしまって、実際的ではなくなるのです。相対的に捉えると、全部が仲間になってしまう。<br /> <br /> 例えば、「何でもすべては空だ」というと、結局、善も悪も存在しないということになる。道徳は成り立ちません。輪廻の世界も涅槃も差がないということになって、わけがわからなくなるのです。善悪を対極的に語ると「煩悩を減らして悟りを目指すべきだ」と簡単にわかります。道徳が成り立つし、修行も成り立つのです。<br /><br /> お釈迦さまの道徳論は、実践という立場をとります。人は進化しないといけない、向上しないといけない、努力しないといけない、というモラルを徹底的に語られます。ですからお釈迦さまは、対極的に道徳を語られました。しかし、悪を絶対化することはしません。悪を実在する「悪魔」としては捉えない。すべては現象であって、一時的なものであって、原因がある限りにおいて物事は存在する。そこは徹底しています。<br /> <br /> 誰かが怒っても、永久的に怒りの種をもっているわけではないのです。ある条件の下では怒りが爆発する。別の条件の下ではニコニコしている。善も悪も実体としてあるのではなく、その時その時の、単なる「反応」です。心の機能をちゃんと見ると、ただの「反応」だとわかるのです。ある条件で落ち込む。しかし「永久的に落ち込む魂」などはないのです。<br /><br />Q:悪行為というのは簡単にわかるのですが、善行為というのはいつどういう時にどのようなことをすれば善になるのか、考えるとよくわからなくなります。<br /><br />A:それは素晴らしいことを疑問に思ったと思います。善行為とは何か、それが我々にわからないのが当たり前なのです。偽善的に考えればいくらでも思いつくでしょうが、まじめに考えると、わからないはずなのです。なぜかというと、人間は本来、悪(貪瞋痴)しか知らないからです。いくら「善いことをしているんだ」と胸を張っている人でも、実際には、悪いことばかりすると上手くいかないから善行為らしきことをしているだけで、本物の善は知らないのです。<br /><br /> 悪という材料で善をつくっている状態です。だから人間のやることは世界中迷惑ばかりで、よく見ると生命の役には立ってないでしょう? 皆、本当は「自分さえ良ければそれで十分だ」と思っているのです。自分の役に立つならば親切にするが、役に立たない人なんかはどうでもいいと。その本音を出すとうまくいかないんだから、本音は言わないだけです。<br /><br /> そういう心で「善」を考えて何かをしても、汚れた思考や概念で考えた行為なのだから、すごい臭いゴミで芸術作品をつくるようなことになるのです。芸術作品だからそれなりの形はあるかもしれませんが、ゴミだから汚くて臭い。家には飾れません。では本当の善は何なのか、それを聞いても我々には理解さえできないと思います。今自分の頭にある概念で理解しようとしても無理なのです。<br /><br /> それでお釈迦さまは、否定形を使って具体的に説かれるのです。「悪は貪・瞋・痴、善は不貪・不瞋・不痴だよ」と。それを見ると、「不」という否定形を入れただけです。それがすごい智慧なんです。ブッダ以外には語れない真理です。「施し」「慈しみ」と言うより、「不貪」「不瞋」と言った方が、いちばん具体的なんです。<br /><br /> 自分が生きている上で、欲が出てくる、怒りが出てくる。それと戦ってみなさい、ということなんです。怒りが出そうになると、怒りが現れないようにがんばる。欲を抑えようとがんばる。だから本物の善行為は派手ではない。ずいぶん質素です。自分の不善との戦いなんです。他は何もする必要ないんです。それだけでたいへんです。善いことをしようとがんばるのではなく、悪いことをしないようにがんばる。そうすると、私たちに本物の善が経験できるのです。それが善になるのです。<br /><br /> 人に嫌なことを言われた場合は、自然に嫌な気持ちがこみ上げてくるでしょう? それを抑えるのです。嫌なことがあった時、私たちに自然に出てくる感情(一次的な感情)は、すべて悪い感情だと思って間違いありません。その一次的な最初の感情を出さないようにするのです。それは顔つきや言葉など表面的なことではなく、内心の、心の深いところで、怒りの感情が出ないようにがんばるのです。<br /><br /> もちろん簡単ではありません。苦しいけれども、それで自分の悪と戦ったことになるのです。それが素晴らしい善になるのです。その行為は汚れてないのです。「私が善いことをやるぞ」と思ってやる行為は、たいがい汚れています。名誉欲や、慢心や、競争心などが隠れているのです。だから、自己観察をしないと、人には善いことはできないはずなんです。<br /><br /> 感情は生きるエネルギーです。怒ると、「怒り」が生きるエネルギーになるんです。怒りが出ないようにしたら、「怒らないこと」が生きるエネルギーになるんです。それがどういうものか、自分でやってみないとわからないんです。でも、「怒らない」エネルギーで生きると、「怒る」エネルギーで生きるより、すごく元気で明るくなるということは言えます。すごく大人になれるのです。<br /><br /> その精神的な強さが善なんです。その心の修行をする人しか、「善」は知らないんです。自分の悪を落とす道。仏教で目指すのは、その道です。それは、自分で経験して、理解するのです。善徳は自分で経験する。派手に、人にわかるようにやることではないんです。<br /><br /> 仏教を実践する人にしても、「善とは何か?」と聞かれると、なかなか正しく答えられないと思います。お経を唱えたり法事や先祖供養をすること、お布施したり、冥想することでさえ、すべて形にすぎません。それらはやりやすいんです。心がいくら汚れていても、お経をあげてお布施をして格好つけることなどは簡単にできます。それが善だと思うと真理にはならない。<br /><br /> 善と悪は、己の心を中心にして理解するものです。汚れた心は悪で、清らかな心は善です。しかし、智慧が完成していない我々の心は汚れているので、悪しか理解できないと思った方が良いのです。魚が陸の世界を知り得ないことと同じです。それで我々は、心に絶えず生まれてくる悪の感情をなくす努力をする。その努力によって、何か新たなことを経験するでしょう。それが「善」というものです。<br /><br />●photo:8-00 PM at the park(and a door)by =Nahemoth=(absent for a while)<br />▼参考テキスト<br />【88】善行為を身近に<br />http://www.j-theravada.net/qa/gimon88.html<br />♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

‪#‎jtba‬「自分さえよければ~善はどこに~」

Q:「善とは幸せな結果を出す行為だ」と聞きました。善行為による幸福というのも頭ではわかるのですが、怠ける心地よさも捨てがたく、つい怠けてしまいます。

A:確かに怠けるのは心地いいかもしれません。でも、だから怠けてしまうというならば、「大学に受かりたいけれども勉強はしたくない」というようなもので、話になりません。欲による快楽は新たな不幸の原因になるだけです。穏やかで、落ち着いて、楽しく安楽に暮らせるのが幸せなのです。

 でも、人々は大概、目先の快楽を求める道を歩んでいますね。だからわざわざ善悪のことを言われる必要が出てくるのです。因果法則が見えると、あれこれ言 われなくても、善行為をすることが当たり前になります。だから心が成長したら、もう善だ悪だと言う必要もなくなっています。

 例えば、ご飯を食べることや呼吸することについては、善だとか悪だとか、誰も考えないでしょう? それは当たり前のことだと、皆、知ってるんです。お腹がすいたらご飯を食べること、息を吸ったら吐くことについては、誰も悩みません。そこには「法則に 沿って行動する」という理性が働いているのです。

 因果法則は、すべての善行為に当てはまるのです。殺さないことも、盗まないことも、よこしまな行為をしないことも、息を吸うことと同じく、幸せに生きる ための当たり前のことなのです。それを理解しているならば、理性がある人だと言えるでしょう。その人は別に善悪に悩むこともないし、善を行おうと踏ん張る こともない。悪をやめようと苦労することもありません。呼吸するごとく、普通に善行為をしているのです。

 すべての生命は本来「幸福になりたい」と思っているのです。だから理性があるならば、善行為をするのは、生命として当たり前の生き方です。しかし、皆、 幸福になりたいくせに、自分の感情に操られてわがままな生き方をしてしまう。それが無知ということです。「不幸になる道を歩いて幸福な結果がほしい」とい うのはおかしい。もっと理性的になる必要があります。

 理性ある人は、感情ではなく法則に沿って行動するから、悪行為はしません。「こういう原因は苦しみを作る、こういう原因は幸福を作る」とわかって行動するのが理性ある生き方です。誰も法則には逆らえません。そういう意味では、誰も自由ではないのです。

Q:智慧がある人は必ず善行為をするということになるわけですね。

A:まあそうなのですが、智慧がある人は、とりたてて「善行為」だとか思わないのです。呼吸するような自然な感じでいるのです。「私は呼吸しています」と 胸を張る人は誰もいないでしょう? そのように、智慧が現れると善悪の対極性が消えて、善行為が当たり前のことになってしまうのです。だから「善行為をしなさい、悪を行ってはいけない」とい うのは因果法則を理解するまでです。それまでは善悪が対極的に感じられるのです。

Q:善悪は、対極的ではなく相対的ではないのですか? これは善、これは悪と決められるのかどうか疑問に思います。

A:対極的というのは白黒がはっきりしていることです。善も悪もきっちりあるという立場です。相対的というのは、白黒はっきりしません。長いものも、より 短いものがあってはじめて長いということになるのだからね。相対的な考え方の方が何となくカッコよく感じるかもしれません。しかし相対的に道徳を論じる と、善悪が論理学になってしまって、実際的ではなくなるのです。相対的に捉えると、全部が仲間になってしまう。
 
 例えば、「何でもすべては空だ」というと、結局、善も悪も存在しないということになる。道徳は成り立ちません。輪廻の世界も涅槃も差がないということに なって、わけがわからなくなるのです。善悪を対極的に語ると「煩悩を減らして悟りを目指すべきだ」と簡単にわかります。道徳が成り立つし、修行も成り立つ のです。

 お釈迦さまの道徳論は、実践という立場をとります。人は進化しないといけない、向上しないといけない、努力しないといけない、というモラルを徹底的に語 られます。ですからお釈迦さまは、対極的に道徳を語られました。しかし、悪を絶対化することはしません。悪を実在する「悪魔」としては捉えない。すべては 現象であって、一時的なものであって、原因がある限りにおいて物事は存在する。そこは徹底しています。
 
 誰かが怒っても、永久的に怒りの種をもっているわけではないのです。ある条件の下では怒りが爆発する。別の条件の下ではニコニコしている。善も悪も実体 としてあるのではなく、その時その時の、単なる「反応」です。心の機能をちゃんと見ると、ただの「反応」だとわかるのです。ある条件で落ち込む。しかし 「永久的に落ち込む魂」などはないのです。

Q:悪行為というのは簡単にわかるのですが、善行為というのはいつどういう時にどのようなことをすれば善になるのか、考えるとよくわからなくなります。

A:それは素晴らしいことを疑問に思ったと思います。善行為とは何か、それが我々にわからないのが当たり前なのです。偽善的に考えればいくらでも思いつく でしょうが、まじめに考えると、わからないはずなのです。なぜかというと、人間は本来、悪(貪瞋痴)しか知らないからです。いくら「善いことをしているん だ」と胸を張っている人でも、実際には、悪いことばかりすると上手くいかないから善行為らしきことをしているだけで、本物の善は知らないのです。

 悪という材料で善をつくっている状態です。だから人間のやることは世界中迷惑ばかりで、よく見ると生命の役には立ってないでしょう? 皆、本当は「自分さえ良ければそれで十分だ」と思っているのです。自分の役に立つならば親切にするが、役に立たない人なんかはどうでもいいと。その本音を 出すとうまくいかないんだから、本音は言わないだけです。

 そういう心で「善」を考えて何かをしても、汚れた思考や概念で考えた行為なのだから、すごい臭いゴミで芸術作品をつくるようなことになるのです。芸術作 品だからそれなりの形はあるかもしれませんが、ゴミだから汚くて臭い。家には飾れません。では本当の善は何なのか、それを聞いても我々には理解さえできな いと思います。今自分の頭にある概念で理解しようとしても無理なのです。

 それでお釈迦さまは、否定形を使って具体的に説かれるのです。「悪は貪・瞋・痴、善は不貪・不瞋・不痴だよ」と。それを見ると、「不」という否定形を入 れただけです。それがすごい智慧なんです。ブッダ以外には語れない真理です。「施し」「慈しみ」と言うより、「不貪」「不瞋」と言った方が、いちばん具体 的なんです。

 自分が生きている上で、欲が出てくる、怒りが出てくる。それと戦ってみなさい、ということなんです。怒りが出そうになると、怒りが現れないようにがんば る。欲を抑えようとがんばる。だから本物の善行為は派手ではない。ずいぶん質素です。自分の不善との戦いなんです。他は何もする必要ないんです。それだけ でたいへんです。善いことをしようとがんばるのではなく、悪いことをしないようにがんばる。そうすると、私たちに本物の善が経験できるのです。それが善に なるのです。

 人に嫌なことを言われた場合は、自然に嫌な気持ちがこみ上げてくるでしょう? それを抑えるのです。嫌なことがあった時、私たちに自然に出てくる感情(一次的な感情)は、すべて悪い感情だと思って間違いありません。その一次的な最初 の感情を出さないようにするのです。それは顔つきや言葉など表面的なことではなく、内心の、心の深いところで、怒りの感情が出ないようにがんばるのです。

 もちろん簡単ではありません。苦しいけれども、それで自分の悪と戦ったことになるのです。それが素晴らしい善になるのです。その行為は汚れてないので す。「私が善いことをやるぞ」と思ってやる行為は、たいがい汚れています。名誉欲や、慢心や、競争心などが隠れているのです。だから、自己観察をしない と、人には善いことはできないはずなんです。

 感情は生きるエネルギーです。怒ると、「怒り」が生きるエネルギーになるんです。怒りが出ないようにしたら、「怒らないこと」が生きるエネルギーになる んです。それがどういうものか、自分でやってみないとわからないんです。でも、「怒らない」エネルギーで生きると、「怒る」エネルギーで生きるより、すご く元気で明るくなるということは言えます。すごく大人になれるのです。

 その精神的な強さが善なんです。その心の修行をする人しか、「善」は知らないんです。自分の悪を落とす道。仏教で目指すのは、その道です。それは、自分で経験して、理解するのです。善徳は自分で経験する。派手に、人にわかるようにやることではないんです。

 仏教を実践する人にしても、「善とは何か?」と聞かれると、なかなか正しく答えられないと思います。お経を唱えたり法事や先祖供養をすること、お布施し たり、冥想することでさえ、すべて形にすぎません。それらはやりやすいんです。心がいくら汚れていても、お経をあげてお布施をして格好つけることなどは簡 単にできます。それが善だと思うと真理にはならない。

 善と悪は、己の心を中心にして理解するものです。汚れた心は悪で、清らかな心は善です。しかし、智慧が完成していない我々の心は汚れているので、悪しか 理解できないと思った方が良いのです。魚が陸の世界を知り得ないことと同じです。それで我々は、心に絶えず生まれてくる悪の感情をなくす努力をする。その 努力によって、何か新たなことを経験するでしょう。それが「善」というものです。

●photo:8-00 PM at the park(and a door)by =Nahemoth=(absent for a while)
▼参考テキスト
【88】善行為を身近に
http://www.j-theravada.net/qa/gimon88.html
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私が思う故にそれは正しい、という主観から私達が自力で抜け出すことは至難の技です。





協会の記事ではありません。
木下全雄  さんの ブログの紹介です







棘のある写真「一意見として」お読み頂けたら、と思います。

私が思う故にそれは正しい、という主観から私達が自力で抜け出すことは至難の技です。

仏教の修行をすると、感覚の変化はあるけれど、どこを探してもそもそも「私」が見つからない、という結論に至ります。

自分が思うように見てしまう「主観」から、あるがままを見る「客観」への変化には、お釈迦さまの教えを学び、自我を停止させる必要がどうしてもあります。

初めは耳の痛い話に聞こえるかもしれませんが、その努力の結果は、私達が初めて経験する「安らぎと悟りの世界」への仲間入りです。

私達僧侶は皆様に、その世界への招待状を届けるために、日々法話を考えています。ま、あまりブログは更新していませんが(笑)

≪頂いたコメント≫
素敵です。がんばってください。

こちらのコメントは、10回は読みました(笑)これだけ何度も何度も読ませて頂いたコメントは初めてです!!それ位に嬉しかったです。本当に有難うございます。

ちょっと方針転換します。人間は瞬間瞬間変化しているものですから、方針転換しようと思った時が、変化の時です。
批判ではなく、仏教への招待状、という事を一番に心掛けてブログを続けて行きたいと思います。本当に、素敵なコメント、有難うございました!!

実は、キツイ言葉を書いているだけであまり皆様に仏教が伝わっていないのではないか、洗脳されていることを非難するだけでは人の心は開かないのではないか、と反省して、ちょっとへこんでいました。
もう、ブログもフェイスブックもやめて、ボランティア活動や僧侶としての仕事だけを熱心にしようかなぁ、とも考えていました。
が、やっぱり、皆様に幸せになって頂きたいので、仏教への招待状、として、全く新たな気持ちでやって行こうと思います。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。









Be Happy! | 09:53:32 | トラックバック(0) | コメント(0)





協会の記事ではありません。
木下全雄  さんの ブログの紹介です





木喰作「木魚僧」クリスマスが近づいて、処女懐胎の賛美歌が聞こえる季節になりました。
きよしこの夜「Silent night」に出て来る、Virgin Mother and Childという処女懐胎は、まぁ、人間的には全く理解できません。が、それが信仰の力ですね。
しかし、全く理解不能の歌詞であっても、プロの歌手が歌うと、とてもかっこよく聞こえます!私も歌いたくなっちゃいます(笑)

さて、非科学的なこと、例えば神への信仰・法力・霊能力・占い・パワーストーン・パワースポット・スピリチュアルメッセージなど、私は大変苦手です。

でも、それを信じている人が周りに多くて、残念でした。よくそんな非科学的な思考になれるもんだなぁ、と本当に不思議でたまりませんでした!
否、自分がその世界の住人だったことに、嫌悪感があったからかもしれません。

本心を言うと、非科学的な思考にのめり込んでいることは、理性ある人間として生まれて来たのに時間の無駄だ、と思っていたのです。

そして、皆様になんとか正しい仏教を学んでもらいたい、と強く思って来ました。
道徳を守り、慈しみの心を持って、理性的に、無常の世の中に自分を合わせて生きる道、それこそを学んで頂きたいと思って来ました。

が、ちょっと疲れたのか、落ち着いたのか、その熱が冷めて来ました(笑)
いくら理性的な生き方の話をしても、どうしても受け入れられない人はいるんですね。最後まで神様や不思議な力を信じることを止められず、どれだけ話し合ったところで全くの時間の無駄になることはしばしばでした。最近もありました(笑)

その様な経験を通して、仲良く、前向きに、明るく人生を歩んでいるならば、それはそれで、他の方が何を信じていようが、私がとやかく言うことではないのだ、ということがわかってきました(笑)
たった一回の人生だから、人様に生き方を強要することは良くないことだ、と、今日夕日を見ながら散歩をしていて思いました。

私、ちょっと成長出来たのかも知れません(笑)どうやら、仏教と出会えたことで舞い上がって、調子に乗って、勝手に熱を上げていただけのようです(笑)

どうやら、間違っていたのは、この私の方でした(笑)
ようやく、慈悲の心が育って来たのかなぁ(笑)?

<今後の人生方針(備忘録)>
一、皆様に幸せになって頂きたいので、発信はさせて頂くけれど、個人的な趣味の様なものでもある(慈悲の心は忘れない)。
一、どの様な人であろうが、人間として尊重する(ちょっかいを出さない)。
一、仏教を強要しない(仏教の尊厳を守る)。
一、尋ねられたら、お応えする(出しゃばらない)。









Be Happy! | 14:04:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
「歩くのは奥が深い」----徒然日記
 




協会の記事ではありません。
サークル仲間の徒然日記です。




「歩くのは奥が深い」

 この12月は果樹公園で剪定作業をしている。寒波のとき
も防寒着を着込んでアッという間に時間が過ぎる。外作業
は楽しい。これは好きなことなので心が喜ぶ。

 室内での歩く作業の方は取り組みエネルギーがかなり要
る。先ずは物の準備として12畳の部屋にエアコン&オイル
ヒーター。それに加湿器や厚手の靴下。

 戸外を歩いていると楽しいが、室内で歩くと今は直ぐに眠
くなってくる。テレビを見るとすっきりする。何しろ内なる
心が何かと理由を付けて耳元で囁いてくるのでこれとの闘い
になる。

 度々あるのが一時間のタイム設定が作動してないのでは
と云ってくる。以前はこれは自分そのものの声だと誤解して
いた。

 自分の心が自分を攻撃して、大事な人生を無益なものに
してしまうサイクルに取り込まれているという現実を全く理
解していなかった。

 それでも頑張って一時間歩くと自分というものの実態を少
しづつ理解出来る。なにより生きているカラクリに挑戦でき
る。

 奥底の自分とは?自分の心の景色を観察するという
「ブッダの実践心理学」に出会えたこの幸運に感謝して
いる。









徒然日記 | 18:01:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
 今年もあと2週間となりました。そこで、この土曜日に三河方面自主冥想会では、いつも利用している和室の全室を借り切って広々とした空間で冥想会を催します。ご都合の良い方はぜひお参加下さい。l





東海ダンマサークルの主催行事です。





仏道修行の皆様へ

 皆様如何お過ごしでしょうか。今日は9年ぶりの大雪と言われています。どうか皆様足元にはご注意して無事でありますように願います。

 今年もあと2週間となりました。そこで、この土曜日に三河方面自主冥想会では、いつも利用している和室の全室を借り切って広々とした空間で冥想会を催します。ご都合の良い方はぜひお参加下さい。l

 詳しくは以下の通りです。

 また、28日も和室を貸し切りで朝から晩まで、冥想したいという思います。こちらも合わせて参加下さい。

 

・日時:2014年12月20日  土曜日15時~22時、
  ※途中参加・退出可。

・場所 :刈谷市中央生涯学習センター和室1~3(刈谷市総合文化センター内3階)
URL : http://www.kariya.hall-info.jp/index.php?menuID=5

・交通 : JR名古屋駅~刈谷駅(新快速17分)南口から西へ徒歩3分
   車 : 駐車場(文化センター駐車場)が隣接。(参加者:4時間無料)

・参加費:会場代/参加者数(途中参加・退出者一律500円也)

・連絡先:三谷 携帯:090ー9897ー2882
         メール:mj888jp@ybb.ne.jp









刈谷自主冥想会 | 10:35:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
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