2015-07-23 Thu
東海ダンマサークルの自主勉強会です。
皆様へ
7月の自主勉強会報告をさせていただきます。
7月17日(日)ガイシフォーラム和室にて、8名の方に集まっていただきました。
今回も、貴重なご意見が出されたのですが、一時間という時間の制限があり、充分な検討を重ねることはできませんでした。せっかくですので、ご意見一つ一つに対して、長老の著書「無我の見方」を参照しつつ、私の感想を加筆させていただきました。
冒頭からいきなり、「苦、苦しみの原因は何か?」を皆様に話していただきました。
大体、皆様の答えは自我ということで共通しています。そこで、また、「自我とはどういうことですか?どういう時に自我と意識しますか?」という問いについて話し合いました。結果以下のように6つの意見が出ました
1.「自分の好き嫌いにより周りとの関係が自分が思うようにいかななかったとき」
・まさにその通りです。でも、どうしょうもなく自分にある一番基本的な問題ですね。
・長老の著書「無我の見方」p44~
人がなぜ怒るのかといえば、自我のせいです。なんで欲張れるのかといえば、これも自我のせいです。つまり、自分に貪瞋痴の感情が表れた時のことです。
・p45~
「普通の人は、自分という確固としたものがあるという前提(=自分は正しい)で、行動します。(ですから、ケンカもします、戦争もします。また落ち込んだりします。・・)
2.「何か感覚でものを感じた時に現れるもの」感覚(受)→認識・概念、感情=自我。
・いくら知識として知っていても、自我が感覚から生まれてくるとはなかなか答えられません。気づきの実践、瞑想をしっかりやっていればこそ、即座に、このような答えが出てくるのではないでしょうか。
・長老の著書「無我の見方」p179~
仏教で教える「無常」の話しは、知識の刺激を目指しているものではない。無常・苦・無我とは、経験するものです。実践するものです。
3.「親しい人とは同じ思いであるはずだという思い込みから、違いを知っていくことが自我の発見につながっていくのでは?」
・このような場面は日常的にあります。夫婦間でも見られます。現にこの場でもありました(笑)。決して特定の人を指して言っているのではありません。誤解しないでください。
仏教の凄いところは、子供、大人、老若男女を問わず、すべてに共通したことを一切もれなく完璧に説いているということです。そこには年代による如何なる隔たりも存在しません。しかし、私たちは、日常において「若い人には若い人の考えがあるし、話題もそれに沿ったテーマでないと通じない」とか、「年配の人は、分かりきったことをくどくど言うから、いやだ」とか勝手に思ってしまいがちです。そこには、隔たりを感じずにいられません。それが私たちの日常になっていないでしょうか。仏教を長く共に学んできた人のなかにも「もう、私たちのような年寄りが出る幕ではない、若い人に任せよう」と言われる方もいます。
確かに、学び方も、考え方もその人それぞれであると思います。しかし、私たちが目指すのは本当の幸福になるという一点だけではないでしょうか。
長老は言われます。「世の中には、科学、哲学、医学、政治、色々な文化、学問、権威が存在しています。だが、どれも中途半端で人々を真の幸福に導いたことが一度もない。」と。何故こんなに多くの知識や形態が出来てしまうのでしょうか。何故、隣の人と心から理解し合えないのでしょうか。どうして、このようなすれ違いが生まれるのでしょうか。
4.「自我はないけど、自分は居る」
・これについても、長老の著書を参照します。「無我の見方」p118~
「無我」は、誤解しやすい言葉です。仏教は、単純に「私はない」という意味で、「無我」を語っているのではありません。生命には、常に「ああ、自分がいるんだ」という実感をつくっているのです。仏教は、こうした素朴な意味の「自分」を否定しているわけではありません。「自分がいる」のは、ごく当たり前で、普通なことです。
・p122~
「私がいる」ということを仏教的に説明すれば、様々な因縁によって変化していく、自分、自己と表現できる流れがあるということです。朝から晩まで、常に変化し続けている「自分」がいるのです。
・<私>まったく正しい見解ですね。
5.「結局は、サンカーラ、無明に辿りつくのではないか」という意見がでました。
とても、根本的なお答えです。仏教的にすごく勉強されているのだと思いました。サンカーラと私、自分がいる実感、自我との連携がありのままに理解できれば、それは智慧ではないでしょうか。
6.「自我について話しても『我儘、自分がいる、アートマン』と三つのパターンを理解しないと、全体が理解できない」
「我儘」は感情であり、これは自分の貪瞋痴、自我が表に現れていることだと思います。また、
「自分がいる」は、普段の私たちの実感のことであり自我とは言い切れないように思われます。
「アートマン」これこそが、永遠に変わらない魂のようなものがあるという自我でしょう。正確に捉えられています。確かに、この三つの違いの理解がないと、本当の意味での自我が見えてこない気がします。
以上、ご意見に対する検討を終わります。
私たちには、陥りやすい間違いがあります。「自我は錯覚=無我=自分がいるも錯覚」という。つまり自分という存在を否定してしまう。そうなると、自分へのいたわりだけでなく、周りの人や他者へのいたわりや思いやりが疎かになっていく傾向にあります。これは、ちょっと危険です。一生懸命学ぼうとすればするほど、こうした間違った知識や概念に陥りやすいことも事実であります。
だからこそ、このような場で正しい知識を持った身近な仲間と意見交換することがとても大切なことと思います。
今回は、「自我は錯覚である」と発見することを皆さんと共に考えてみたかったのです。
私たちは「無我」は真理であると知っています。しかし、どこかで「変わらない自分がいる」と思ってしまっているところがあります。俗世間の貪瞋痴の流れの中にどっぷりとつかっている私たちにとって「無我」は実用的でないように思えて、結果、単なる知識で終わっています。
そういった状態であることを自覚しながらも、私たちの存在、立場を認め、否定することなく、慈悲喜捨の心をもって自他をながめ、執着による、「自分がいる」という実感に隠れている自我を発見していかなければならないと思います。そこが、分かれ道のような気がします。
今回も多くを学ばせていただきました。列席して頂いた皆様に改めて感謝申し上げます。
最後に、即席で作文しましたので、不明な点やご指摘するところも多々あるかと思います。遠慮のないご批判をお待ちしております。
皆様が健やかに過ごされますように~ 三谷