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 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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パーリ経典講義『在家を尋ねる』経,『老い』経 マハーカッサパ尊者に学ぶ出家者の生きかた(スマナサーラ長老の法話より)





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佐藤哲朗さんのブログの紹介です。





パーリ経典講義『在家を尋ねる』経,『老い』経 マハーカッサパ尊者に学ぶ出家者の生きかた(スマナサーラ長老の法話より)

スマナサーラ長老 ひじる日々 法話メモ

2011年12月13日ゴータミー精舎パーリ経典講義

講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老

 

Saṃyuttanikāyo Nidānavaggo 5. Kassapasaṃyuttaṃ

相応部経典 因縁篇 5.カッサパ相応
http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0302m.mul4.xml

4. Kulūpakasuttaṃ 在家に入る (出家が)在家の家を尋ねる、という内容の経典。

 

釈尊:在家の家を訪ねるにふさわしい比丘とは、どのような比丘でしょうか? 在家を訪ねるに相応しくない比丘とは、どのような比丘でしょうか?

 

比丘たち:我々の師はお釈迦様ですので、お釈迦さまから説明してください。

 

(解説:見事に逃げる)

 

釈尊:もし比丘が、このような考えがあって在家の家族を訪ねるならば……

 

(解説:比丘はただ托鉢するために村に入る。家の前で少々の時間立っているだけ。それにしてもそれに相応しい比丘と相応しくない比丘がいると説いているのです。)

 

ー このように考えるー『必ず、私にお布施(食)を貰えますように、貰えないことがないように』と期待希望する。『くれるならば、ほんのちょっとではなく、た くさんお布施を頂けますように』と期待希望する。『もらえるならば、不味いものではなく美味しいものを貰えますように』と期待希望する。『さっさと待たせ ずにお布施してくれるように』と期待希望する。『ぞんざいではなく、丁寧に礼儀正しくお布施をしてくれますように』と期待希望する。ーこんな事を考えた比 丘が家々を訪ねると、もし何も貰えないと、その比丘は不機嫌・不快を感じて、苦しみ悩みを心で味わうはめになります。少量しか貰えないと……、粗末なもと しか貰えないと……、ゆっくり貰うことにあると……、丁寧に対応されないと……、その比丘は不機嫌・不快を感じて、苦しみ悩みを心で味わうはめになりま す。こんなふうな比丘は托鉢にでるに相応しくないのだ。

も し比丘が、このような考えがあって在家の家族を訪ねるならどうでしょうか? 赤の他人の家だから、『托鉢を貰えるように』と期待することはあり得ないの だ。赤の他人の家だから、『沢山貰えるように』と期待することはあり得ないのだ。『…美味しいものを…』『…待たせずに…』『…丁寧に…』ということは何 も期待をしないでただ訪ねる。そこで比丘が行った家々で、(上記のような対応を受けても、)何の不機嫌・不快も感じない、苦しみ悩みを心で味わうことはな い。こんなふうな比丘は托鉢にでるに相応しいのだ。

 

以下解説:『ぞんざいではなく、丁寧に礼儀正しくお布施をしてくれますように』という項目がなぜ入っているか。当時のインドで托鉢はたいへんだった。ご利益目当てで誰でもお布施する人もいるし、断固拒否する人もいるし、バラモン教の人から罵倒・攻撃される場合もある。たとえくれても、さっさと出て行けと追い出される場合もある。

 

この経典はこれで終わりなんですけど……釈尊の弟子はだいたい出家でしたから、いろんなことがあります。道徳の範囲は広い。在家の方々に『乞食の正しいやり方』というノウハウはいらない。しかし出家は托鉢で生活するのが決まり。釈尊がカピラ城に行った時、堂々と托鉢行をして大騒ぎになった。『なんでこの人は他人からご飯を貰おうとしているんでしょうか?』と。そこで父の浄飯王が走ってきて『貴方はなんでこんなに釈迦族の家に迷惑をかけるのか? 我々の民族では他人から食い物をもらうのは恥ですよ』と。釈尊は、『あなたの民族(釈迦族)ではそうですか。しかし我々の民族(過去のブッダたちの歩んだ道)ではこれが正しい生き方ですよ。』と。それで浄飯王が負けて、翌日から釈尊に 布施するようになった。この托鉢ということに道徳が入っている。托鉢の場合はその一日の一食しかもらってはいけない。余分にもらってはいけない。もし頼ん でもいないのにもらってしまったら、他のお坊さんに分けないといけない。あまったら、すぐ処分しないといけない。明日にとっておいてはいけない。托鉢の決 まりはとても厳しい。たくさんの道徳・しきたりが托鉢にもあるのです。

 

この経典で言っているポイントは何でしょうか。出家した比丘は、貰えても、貰えなくても、托鉢という行で生きないといけない。何一つ期待も希望も持たずに、何の執着も起こさず、托鉢する。その気持ちだけでも持って生きれば、すごく気持ちが楽になりますよ。

 

バラモン教でも、時々、托鉢に出る。現代ヒンドゥー教のバラモンは結婚式などの儀式で高額の料金を取る。バラモンは性格的になにもできてない。ただヴェーダ聖典をだらだら暗記しているだけ。欧米人はやたら有り難がるが、金になるなら宗教家ぶって何か教えたりするだけ。バラモンも時々、村を回ってあれこれ村人からもらったりする。作物や家畜、金品、時には子どもまで召使としてもらったりする。インド社会では、バラモン人が年に何回かでも托鉢に来たら、困ったなぁということになる。派手に贅沢なものを上げないといけない。

 

そ ういう習慣があったから、お釈迦さまは托鉢の道徳を説いたのです。(保存のきく)穀物を受けない、生肉などは受けない、土地・金品・財産などは受けない、 動物などは受けない、人間(召使・奴隷)は受けない。結局、調理した食事だけしか受け取らない。薬も病気になってないと貰わない。そういう厳しい道徳を定 めたのは、それとは違うバラモンの托鉢習慣があったから。

 

経典の続きでは、マハーカッサパ尊者こそ、そのような托鉢に相応しい比丘であると讃えています。『托鉢に出る時は、カッサパ尊者のように托鉢に相応しい人間になって出ていってください』とモデルケースとして示している。

 

モデルケースというのは大切な事で、ただ理想ばっかり話しても意味が無いんです。やらないし。理想はそうだけど、無理だよということになる。宗教ではよくある話。イスラム教ではさんざん悪いことしておいて、文句を言うと『本当のイスラム教とは素晴らしいもの、本当のイスラムはテロみたいなことはしない』という。それって、結局、誰もイスラムの教えを実行してないんだよということ。キリスト教もそう。現代の仏教も同じことです。お釈迦さまは弟子の中でモデルケースを取って、実際にやってますよ、貴方がたもこのようにやりなさいよと、教えたのです。

 

マハーカッサパ尊者はムチャ金持ちの出身でした。バラモンではトップの家柄だったのに、すべて捨てて出家した。夫婦とも在家生活にぜんぜん興味がなかった(奥さんも出家して聖者になった)。だから他の人々にも『私は家柄があるからちょっと……』などと、文句を言えないんです。

 

次の経典。5. Jiṇṇasuttaṃ 老い

 

釈尊王舎城の竹林精舎にいたときの話です。(解説:前の経典は祇園精舎因縁)釈尊が傍らに坐ったマハーカッサパ尊者にこのように語る。

 

釈尊:『あなたも、もうだいぶ歳でしょう。(解説:釈尊と カッサパ尊者はほぼ同い年)あなたには、この麻の糞掃衣はすごく重いでしょう。(解説:カッサパ尊者が出家した時に着ていたカーシー産の絹の衣をお釈迦さ まの糞掃衣と交換した。それからずっと、カッサパ尊者は糞掃衣で生活した。)ですから、あなたは在家の人々のお布施の衣を貰ってください。(解説:これま で、釈尊の衣を貰って、出家のモデルケースとして厳しい生活をしていた。でも、仏教もだいぶ広まったことだし、お年でしょうし、釈尊も、 もうそろそろカッサパ尊者の役割を解除してあげたいと思ったのです。)在家の方々の招待を受けてください。(解説:前日の残り物である托鉢食ではなく、作 りたての食事を招待で受ける。それは当時の出家には特別なことだった。)私と一緒に生活してください。(解説:この言葉は、釈尊は 誰にも云わないこと。お釈迦さまは、マハーカッサパ尊者が近くにいたらいいなぁ、という気持ちがあった。お釈迦さまの直々の願いだから、これは断れません ね……。しかしカッサパ尊者はすべて断るんです。この二人はすごいんです。仏教の歴史上、お釈迦さまの願いを断った人は他にいません。)

 

マハーカッサパ尊者:『お釈迦さま、私は長いあいだ森林行で森に暮らしていました。森の中に生活することが、とても良いことであると、束縛なく、心清らかにする修行であると、褒め称えてきました。」

 

以下解説:森林行とは、人々が住まない所に住まうこと。森でなくても、洞窟でも山の上でもいい。ただ、人々のいる集落ではない。何の束縛もなく、気兼ねなく生活できる。

 

仏 教では、『生きることは根本的に悪』なんです。これは言ってはマズイんだから言っていないことです。生きることは尊いではなく、『生きることは苦である』 というのは中道的な真理です。それは哲学。では倫理の立場から言えばどうでしょうか? それは『生きることは悪』ということになる。でもこれは言ってはマズイから仏教で言っていない。しかし丁寧に仏教を学ぶと、簡単にわかることです。生きる こと自体が、「真理としては苦であり、道徳としては悪」なんです。植物は根から水や養分を取って光合成で 成長している。しかし生物は必ず他の生命を捕食しないと生きられない。カエルは蛇に食われるが、決してカエルは『私の人生のモットーは蛇に食われること だ』と思っていないんです。残酷です。しかしそのカエルも他の昆虫を食べている。昆虫はだったら、カエルの餌食になるために生まれたんですね。生物は誰も 他の生物の餌食になるために生まれたわけじゃないんです。

 

いま、海では韓国や中国と争っています。排他的経済水域と いって海に線を引いたりして……でも魚の立場から考えたらどうですかね? たまたま魚に生まれたから、日本の経済水域に生まれたら日本人の餌にならなきゃ いけないんだよと。誰も、誰かの餌食になるために生まれたのではない。我々はそういうどうにもならないことをして生きている。社会の経済活動って何ですか ね? 人の弱味を握ってるだけ。人が困ってる時に儲かるというのは道徳でしょうか?

 

生 きるということは、精密に考えると悪以外の何でもないんです。(完全に)善的な生活できるかというと、不可能です。水だけです、飲めるのは。他のすべては 生命との関係があります。植物であれ、動物であれ、食べられないようにといろいろ工夫します。工夫しても、……結局、食われます。(キリンと植物の攻防に ついて)実を守るために必死ですが、それでも食べられる。仕合せで幸福に長生きしたってことは、それだけ残酷なことをしてきた、ということ。生きるという ことは、本来、悪なんです。そこは仏教では云わないんだけど、分かって欲しいんです、仏教は。言うことは、道徳的にはできないんです。生きることは悪、と 言ったら、誰も生きていけなくなる。人を殺すことになる。それは極限の悪だから、決して言わない。しかし教えを通してわかってほしいこと。精密に教えを聞 けば、そうだと分かる。だから、お釈迦さまの時代、説法を聴いた人は、その場ですぐに出家したんです。そこで人間の経済活動の世界とは全く別の出家サンガ の世界を作ったんです。経済活動や政治活動に関わることは悪行為になる。托鉢で生活しなさいと。昨日の余り物が残っているならば、ちょっと貰います。その 場合も「下さい」とは云わないんです。もらった場合も「ありがとうございます」とは云わない。微妙に道徳にふれないように気をつける。「幸せでありますよ うに」とは言う。出家が「昨日、あなたお布施してくれましたね」とか言うと、またお布施しなくてはいけない、という微妙な気分が生まれる。そうすると、奥 さんは翌日、余計に一合、コメを炊くことになる。だから、「ありがとう」とは絶対に言わない。「美味しかったです」と言ったら、喜んで腕を奮ってしまうで しょう。微妙にでも、自分のために他の生命が損なわれないようにと、気をつける。それは皆さん、決して気づかないところでしょう。大さじ一杯のご飯なら、 もう死んでいる。誰かが食べたほうがいい。だったら、捨てて虫に食べさせるか、人間に食べさせるかと。虫はご飯たべなくても他に餌があるが、人間は御飯食 べないと死んでしまう。だったら、お坊さんに上げましょう、ということになる。

 

そ ういうわけで、托鉢なんです。「貴方も堂々と生きているだろう」と言えない。長生きしてるんだから、そうとう悪してるだろう、と出家に対しては言えない。 理想的な生き方というのは、人工的なシステムの中でしか成り立たない。だから出家サンガというのは人工的な組織なんです。それに繋げて、森林に生活するこ ととは何なのか。村に住んだら、村人は出家のために庵を作ってあげないといけない。仏教ではそこまではOKにしている。しかし精密に悪を犯さない生き方を しようとしたら、森の中に身を隠して生きるしか無い。どこか雨に打たれないところに身を寄せる。マハーカッサパ尊者もどこかの洞窟に住んでいた。尊者の洞 窟はピッパリーワナという名前で知られていた。森林生活というのは、仏教が説く道徳的な生き方。しかし実践しようとしたら、人工的なシステムの中でしかで きない。しかしサンガの中でも大多数はとても実践できない。一部の人が自ら選んで森林行に入ったのです。マハーカッサパ尊者は、仏教の理想の生き方、お釈 迦さまが直接は云わなかったけれど、理想とする生き方を、皆に分かるように実践したのです。

 

マ ハーカッサパ尊者:私は托鉢行のみで生活してきました。それこそが素晴らしい生き方(解説:微妙にでも生命に迷惑をかけない慈しみの生き方)だと賞賛して きました。糞掃衣(解説:捨てられた布を縫い合わせた衣)のみを着て生活してきました。それこそが素晴らしい生き方だと賞賛してきました。

 

以 下解説:衣を一着つくるために、どれだけ生物に迷惑をかけているでしょうか?絹の生糸を取るために、蚕の幼虫を生きたまま煮殺さないといけない。どれだけ 生命が犠牲になるかと。しかし捨てられた絹の布を拾ったところで、微塵にも他の生命の迷惑にならない。だから、出家するときには『理想的な衣は糞掃衣であ る』と言う。仏教は見事に、生きることは悪であるというスタンスで、出家儀式を決めている。マハーカッサパ尊者は麻でできた糞掃衣を着ていた。麻はよく落 ちている。貧しい人しか麻は着ないし、モノを入れる麻袋としてもよく使われていた。ボロボロになるとすぐ捨てられる。簡単に手に入るが、麻の生地は肌触り が最悪。

糞掃衣というのは、貧しい格好していると見せびらかすためではない。捨ててあれば絹でも使う。しかし捨てられたものをいましばらく使わせて貰います、ということ。それから、

 

マハーカッサパ尊者:私は三衣のみで生活してきました。それこそが素晴らしい生き方だと賞賛してきました。

 

解説:戒律で定められた三衣【衣一セット】がボロボロになるまで使う。他の衣を決して受けない。ケチではなく、出来る限り無駄遣いしないようにする。マハーカッサパ尊者は模範的に、釈尊の説かれた道徳にぴったり合うように、行として実践した。

 

マハーカッサパ尊者:私は少欲で appiccho 生活してきました。それこそが素晴らしい生き方だと賞賛してきました。

 

解説:少「欲」というと分かりづらいが、これはneeds需要・必要ということ。必要なものだけで生きる。必要性を外れたものを集めれば集めるほど、人生は残酷なものになるのです。

 

マハーカッサパ尊者:私は満足して santuṭṭho 生活してきました。それこそが素晴らしい生き方だと賞賛してきました。

 

以 下解説と経典を交えて記述:生き物にとって、満足できないことが苦しい。満足できないことで、残酷な生き方をするんです。もっと欲しい、もっと欲しいと。 いくらあっても、精神的な安らぎを感じない。何かもらったら「ああ、よかった」と何で思わないんでしょうか?「私はついてるんだ」と。そういうふうに精神 的に訓練すると、ものすごく幸せになるんです。心理学的に説明すると、生命がなぜ苦しんでいるかというと、満足できないことからなんです。飼っている動物 にしても、何あげても満足しない、くれるならもっと食べるぞという態度。できるならもっと美味いものがないかと探す。どんな生命にもその病気がある。もっ といいものないのかという。もっといいものないかと探している時点で、満足がないし、不幸せを感じているんです。

 

俗世間では、人間が満足しないから社会が発展しているという。満足してはいけないという。しかし、仏教では逆のことを言っている。発展すればするほど、残酷な社会になっていくんです。原子力発 電は最たるものでしょう。世界中の誰も、廃棄物の処理をどうするか解決していない。満足しないという病気だから、ひどい事になっている。人類は病気が嵩じ て、他の生命を殺しまくるどころか、人類そのものが自滅するところまで来ているんだから。では、それで幸せになったんですか?原発を 開発することで。農業開発で。結局、幸せに放ってないでしょう。俗世間は、「生きることほど有難い事はない」というでしょう?有難い事だと誰か調べたんで すかね?誰も調べてないし、証拠もない。あまりにも可笑しい。ただ欲が語っているだけ。「尊い命」も、「永遠の魂」も、自分が生きていきたい、なんとして も生きていきたい、という恐ろしい我欲が語っているだけ。まったく証拠がないことをダラダラ語っている。仏教は証拠に基づいて説明しているんです、満足しないという病気が恐ろしい病気です。ブッダが発見したことであって、他宗教には発見できない、儲かれば有難いと思っているんです。

 

修 行完成のために命をつなぐ。そのために食べるものを得られれば、それが何であれ、それに満足する。そのような思考パターンを作らなければいけない。それを 理想的な形でマハーカッサパ尊者が実践していた。雨風をしのぐためには、樹の下にいられれば充分、よかったよかったと満足する。俗世間では、ポジティブシ ンキングとかネガティブシンキングと言っているけど、あれは仏教的ではない。Santuṭṭhi(サントゥッティ)満足することが、仏教で言うポジティブシンキングなんです。自分が置かれた状況において、満足することが、本格的なポジティブシンキングなんです。俗世間のポジティブシンキングは、欲をかき回しなさい、ということ。あれは実際はネガティブシンキングなんです。

 

次 のポイント。pavivitto ひとりで生活すること。誰かにお世話されるということは、世話している生命の自由が奪われるということでしょう。微妙にでも他の生命に迷惑をかけない。俗 世間では社会的な生活をしているけれど、お互いにかなり迷惑を欠けているでしょう。楽だと思ってやっているけど、結局自分は食われているし、自分も相手を 食っているんです。自分の環境が大きいほど、搾取や迷惑が増えるんです。大家族でいると、大人が子どもに罰を加えたり、殴ったりもする。精密論で生命に迷 惑をかけないで生きようとしたら、ひとりで生活することになる。asaṃsaṭṭho コネクションを持たない。コネを持つことも、生命にとっては迷惑なんです。例えばマハーカッサパ尊者は偉大なる智慧者。しかし「王様に説法するならばぜひ マハーカッサパ尊者に…」というようなコネは絶対に持たなかった。最後は、āraddhavīriyo ceva vīriyārambhassa ca vaṇṇavādī 『私は精進努力で生活してきました。それこそが素晴らしい生き方だと賞賛してきました。』仏教でいう精進努力とは、気づき(sati,サティ)の実践です。

この生き方は、お釈迦さまにさえ変えられません。そこでお釈迦さまは、『貴方はどのような利益を考えて、このような生き方をしているのですか?』と訊く。

 

マハーカッサパ尊者:利益は二つあります。1)私はこの生き方によって、現実的に心安らかに生活している。2)後輩(これから現れるすべての仏弟子)のことを心配して実践していますよ。これから出家する人々も私の生き方を知るならば、それに倣って修行しようと奮起するでしょう。そうすることで、後世の人々にも覚りの扉が開きますよ。

 

で すから、すごい方ですよ、マハーカッサパ尊者は。いまだにその生き方で、出家を脅しているんだから。……お釈迦さまは、マハーカッサパ尊者を賞賛します。 『あなたは神々・人間、すべての生命の幸福を目指して生きているのは貴方ですよ』と。わかりますか? 社会から極端に離れて生きていたマハーカッサパ尊者こそが、一切生命の役に立っているんです。俗世間で言っていることと、本物の世界はずいぶん違うんで す。

 

お釈迦さまは『それならカッサパよ、麻の衣を着なさい。糞掃衣を着なさい。森の中で生活しなさい』と、マハーカッサパ尊者の生き方を認めたのです。これで経典は終わりです。

 

 ※Facebookのノートにメモしていた文章をブログで順次公開していきます。 
やめたいことは、やめられる。

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紙書籍の新刊です。順を追って読み進めることで「やめたい/やめられない」という心理的葛藤からスーッと解放されることでしょう。

電子書籍新刊です。高野山大学での講演録など、初期仏教における「真理の見方」を示した三つのテキストを収録しています。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~









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ひとり言 | 15:30:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
協会の記事ではありません。 サークル仲間の徒然日記です。







協会の記事ではありません。
サークル仲間の徒然日記です。





運転手が瞑想を、即ち自分が今
なにをしているかを観察するよう
になると、運転が劇的に変わる。

自分の経験では一旦停止が自分の
認識とはまったく違っていたこと
です。

車を停止しているつもりが実は
車は少し動いているのです。
しっかり止めていないことに
気づきます。

^_^心が一旦停止していないと、
車が止まらないんだということ
を発見しました。自分を知って
いるようでまったく運転している
実態を理解していないのです。

頭が先を急いでいますね。
大方の人にあることだと
思います。










徒然日記 | 12:00:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)【106】「懺悔(さんげ)の力」





協会のfbより紹介です。





#jtba「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)【106】「懺悔(さんげ)の力」


釈迦尊の教え・あなたとの対話 疑問・質問・反論のページ 

【106】「懺悔(さんげ)の力」

 

Q:「懺悔」と「後悔」とは、どう違うのですか?

 

A: 後悔とは、自分に対する怒りで、自分を不幸にする悪行為です。懺悔は、自分の過ちを認めるという善行為です。自分の過ちを認めずに正当化するのも、すごい 罪なのです。何か失敗したら、「すみませんでした、私が悪かった」と認めて、「やはりこういう失敗をしてはいけない、これからは気をつけて明るくがんばろ う」と自分を戒める。それは道徳的で立派な行いです。

 

Q:クヨクヨ後悔することは暗いし、良くない。過ちを犯しても無関心でいるのもダメです。ブッダが説く「懺悔」は、一般的に言う「反省」に似ていると思います。懺悔によって、心はどのように変わりますか?

 

A:それは、その「反省」の意味・内容によります。悪事をはたらいても、平気な顔をして「私は何回も人をなぐってケガをさせたり、包丁で刺したことまであるんだぞ」と自慢するような人がいたら、そういう怖ろしい人からは逃げるしかありませんね。

 

け れども時々、「私は昔はひどい人間で、こんなことまでしていましたよ」と自分の過去の失敗について明るく話す人がいます。その人は「これからは、そんな恥 ずかしいことはもうやらないぞ」という強い覚悟があった上で、堂々と自分の過失を話しているのです。その人は明るく前向きに生きている立派な人です。

 

も うひとつ、例えば自分がネズミなどを殺したとします。それで「ああ、自分は殺生をしてしまった、私は罪を犯した」と暗く考えてばかりいるならば、その悪行 為の印象を何度も自分のこころに刻み込んでいるのです。その人は「反省している」と思っているかもしれませんが、「後悔」という罪を犯しています。後悔と いうのは、社会的な立場であろうが何であろうが、強力な爆弾みたいに壊してドン底に落とすような、たいへん危険なエネルギーです。

 

Q:我々は懺悔と後悔の区別ができないように思います。例えば、世の中では「ごめんなさい」と髪を振り乱して、泣きながら謝れば素晴らしいと褒めるような風潮があります。それは後悔になりますか?懺悔になりますか?

 

A: 善行為は明るく活発で前向きな行為で、悪行為はその逆で、暗くて後ろ向きな行為です。それでこの例の場合は、涙を流しながらでも「ごめんなさい」と謝って いるのだから、その人はがんばっているでしょう? 何とかその問題を解決したいと思って行動しているのだから明るい。ポジティブです。

 

後悔というのは、「悪いことをしてしまった、またやってしまった」と、一人でクヨクヨ悩んでいるようなことです。そうやって泣いていても、暗くなるばかりで何の意味もないのです。大胆に「悪かった、謝ります」と行動するのは、懺悔の世界です。

 

誰 かに過ちを犯したならば、その人に謝ればいいのです。謝ってもまだ怒っていたら、またがんばって、工夫して、何とかしようとすればいいでしょう。仏教で は、正直にがんばることは奨励します。間違いを犯さない人はいないのだから、自分の失敗に悲観的になることはないのです。失敗するのはしょうがない。では どうするのか、という対処法が問題です。間違いを謝ることは、一番手っ取り早い対処法なのです。

 

Q:懺悔というのは謝罪ということですか。しかし、懺悔する場合は、謝罪する相手は誰ですか?

 

A: 確かに、我々には知らず知らずに犯してしまう間違いがたくさんあります。貪瞋痴で行動すること自体が間違いなのだから、欲や怒りがある限り、我々は間違い からは逃れられないのです。そういうのは何かすごい過ちを犯したというところまではいかないかもしれませんが、だからといって、その生き方が正しいわけ じゃないでしょう? また、我々が輪廻の中で犯してきた過ちというのは、あまりにも多いのです。

 

ですから仏教では、罪を謝 る気持ちを作って、しょっちゅう懺悔の文言を唱えるのです。朝に夜に、読経の時や瞑想する前など、いろいろな場面で懺悔します。「智慧がなかったから、た くさんの過ちを犯しました。懺悔します。謝罪します」ということですね。だから別に「謝罪」と言ってもかまいません。謝る相手がいる場合は、その人に謝罪 すればいいのです。でも我々には対象のいない過ちの方がずっと多いのです。だから対象なしの謝罪である懺悔をしょっちゅうするということになります。

 

Q:懺悔する意味について、もう少し詳しく教えてください。

 

A: 人間の一番基本的なエネルギーは「無明」です。「無知」です。我々は無知のまま、ものを見るわ、人としゃべるわ、いろいろと判断するわ、ありとあらゆる行 動をしているのです。これは車の運転ができない人が運転するようなもので、ちゃんと生きられるはずがありません。ギアとは何か、アクセルは何のためにある かがさっぱりわからない人が運転したら、たいへんなことになるでしょう?

 

我々も、こころとは何なのか、体とは何なのか、命 とは何なのかとさっぱりわかってないのです。当然、全部ムチャクチャです。間違うことは当たり前で、間違わなかったら不思議なのです。正しいことをしたな らば、あり得ないようなことが起こったと驚いた方がいい。それぐらい珍しいのです。

 

人間が正しい行動をするのがそれほど難 しいことであるならば、人間に一番必要なことは何でしょうか。まず、自分は無知であるという事実を知って、それを認めることです。世の中は「私は正しい」 と胸を張っている人ばかりですが、「自分が正しい」「私が正しく知っている」と思うことほど危なくて、醜いことはないのです。

 

け れども人は、「自分が正しい」と、皆、思っているのではないですか? 正直に懺悔する気持ちなど、さっぱりないのです。テレビを見ていると「お詫び申し上げます」とか「誠に申し訳ございませんでした」とかよく聞こえてきます が、全部、大嘘でしょう。その証拠に、そんなこといくら言っても、何も直そうとしないのです。たいがいそんなものです。

 

本 当は、そういう「自分が正しいんだ」と思うことは、数ある罪の中でも、特に大きな罪なんです。そういう態度でいたら、修行が進まないどころか、悟りと逆方 向に行くことになるのです。例えば修行して出家までした人がいたとします。その人がもし「自分が正しい」と思ってしまったならば、私はそれよりはどこかで 銀行強盗でもやった方が、まだましだと思います。なぜならその場合は「自分は悪い」と知っているのだから、立ち直る可能性があるのです。「自分が正しい」 と思ってしまうことは、強盗より恐ろしい。わずかでもこころが成長できなくなるのです。

 

では、もう一度自分のこころに聞い てみて下さい。いくらそういう話を聞いても、やはり「自分は正しい」と思っているでしょう? 実際、たとえ人を殺してさえ「自分は正しい」と言い張るくらい、人間というのは無知でバカなんです。それは特定の人々だけではありません。私も他の人々 も、皆同じです。

 

「私は正しい」という気持ちこそ、自分の成長を妨げる巨大な山です。壁じゃないんです。ヒマラヤ山脈みたいに、自分の前にドーンとあって、なかなか乗り越えられません。ですからちょっとトンネルでも掘っておかないと、決して向こうには行けないんです。

 

だ から仏教では、懺悔は決して欠かせません。必ず真剣にやらないといけないことになっています。こころを込めて懺悔して、自我を捨てるのです。高慢を捨てる のです。そうしないと、その人に悟りの道が現れないのです。「自分は正しい」と思う人は成長しようと思わない。結局、そのまんまで終わってしまうのです。

 

「私 は、しゃべると間違う、行動すると間違う、考えるとそれまた間違う。そういうふうに限りない間違いを、いつでも犯している。だから朝も昼も晩も、しょっ ちゅう仏法僧に懺悔しないといけない」という気持ちで正直に懺悔すると、間違いながらでも、何とかして自分を正そうとするようになります。それが修行にな るのです。「今のままではではダメだ」とわかることが成長への第一歩なのです。それによって生き方が正しい方向に変わるのです。

 

で すから仏教では、懺悔は出家だけでなく在家にも、皆に教えている大切な教えです。お経をあげるときにも、懺悔の文句はたくさん出てきます。スリランカで は、子供たちは、毎晩寝る前に両親にちゃんと礼をして懺悔します。子供たちが簡単に懺悔できるように、そのための短い文章が作ってあって、昔からの習慣と して根付いているのです。でも懺悔がただの習慣になってしまったら、本当の気持ちが消えてしまいます。何となくちょっとした儀式になってしまうと効果がな いのです。

 

懺悔は、本当に正直なこころでやらなくてはいけません。懺悔はただの文言ではありません。「自分が正しい」と思うエゴをなくす、大事な修行なのです。

 

◆ 『懺悔誓願の文(さんげせいがんのもん)』「懺悔いたします。無明の闇におおわれて、身口意の三業によって犯してしまった過ちがあります。仏法僧に対する 過ち、恩師に対する過ち、生きとし生けるものに対する過ち、これら一切の過ちを懺悔いたします。また、自分が受けた他の人々の過ちもゆるします。 このよ うに雑事を離れ、ひとり静かに自己の心身を念をもって観つめるとき、瞬間瞬間、変化生滅しつづける現象を、ヴィパッサナーによって洞察し、真の幸福を得 て、解脱の道へ導かれますようにと、ここに誓願をいたします。」

 

●photo:4th Window by Christian Scheja(flickr)

生きとし生けるものが幸せでありますように










facebook | 11:16:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
#‎jtba‬【Youtube動画】9/21(月・祝) 「関西月例冥想会」





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬【Youtube動画】9/21(月・祝) 「関西月例冥想会」

★スマナサーラ長老 法話(約1時間30分)
https://www.youtube.com/watch?v=R7k8_Fvqueg
どうぞ、ご覧になってみてください!

「β関西活動報告」※音声データ、後日アップロード
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/

▼質疑の内容
Q:先祖供養と、慈悲の冥想で死者を対象にしないことの理解について?
Q:仕事で上司との関係について?
Q:結婚という制度についての見解を教えてほしい。
Q:人に悪口を言われると傷ついてしまう。平気でいるには?
Q:いまの世の中、仏教の教えと反対の方向へ行っていると思うが?
Q:痛みの感覚について?

♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪

こ ちらのchからの映像・音声の公開配信については、スマナサーラ長老より了解を頂いております。また、関西冥想会においても了承を頂いております。 関西月例冥想会の動画の一部。毎月の月例冥想会終了後、おおよそ2週間をめどに追差し替えもしくは追加更新。 編集結合箇所に一部聞き取りにくい部分があります。 申し訳ありません。...
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協会の記事ではありません。 サークル仲間の徒然日記です。





協会の記事ではありません。
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スマナサーラ長老の話しを聞
くときに聞き流しや、聞くに聴くがある。

宿泊仏教実践会でのレポ-トを
書いた。校正してもらって、
そこをもう少し書き直してというやり取りで、

自分はいい話しを聞いていても
大半記憶していないことに気づいた。
それも興味深く真剣に聞い
ていた場面でのことなのに!

記憶の引き出しに入れる。
これも聞くと聴くがあると思う。

生きるとは「苦」なんて、人類
の歴史を否定するような仏教の
概念には、自分の知性が揺さぶ
られて、受け留める引き出しが
無いのかなとおもった。

それで受ける?というので
やっているのかなとも思った。

話しの整理ができず記憶領域
が狭い。そこで心の内側の概念
置場のようなところに、丸ごと
納めるというのをやっている
のかなと思う。

話しのエネルギーには同化して
いるので、その場で反芻できる
言葉が出なくても、それがあと
で芽吹いてくる。こういう実感
が私を元気にする。










徒然日記 | 15:35:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
浮かれない生きかた(スマナサーラ長老の法話より)





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浮かれない生きかた(スマナサーラ長老の法話より)

ひじる日々 スマナサーラ長老 法話メモ

Q先日の経典解説で仰っていた「褒められると調子に乗る」以外に、日本社会のウイークポイントは何か?

 

A 別にそういうことをわざわざ調べていない。興味もない。ただ困っている人がいたら、何とかしてあげたいと思うだけ。あるかもしれないけど、そんなに私は気 にしない。日本、ではなく人間一人ひとり違うし。そんなの放っておけばいい。ほんとうにダメになってくると国民が自ら気づくんです。われわれはこういう所 がまずい、なんとかしなくちゃ、と自分たちで行動するのが正しい。ただアメリカに言われたから、私に言われたから、というのは良くないんです。

 

以前、ミャンマーで修行した女性が、現地のことをあれこれ私に批判してきた。女性は差別されているんだと。でも、ミャンマーに比べても、日本の女性には何の立場もないのに。それを棚に上げて外国の批判をする。「ミャンマー人に任せてください、あなたがミャンマーで革命を起こす必要はないんだよ」と。アメリカ人が日本の批判をギャーギャー言うのは失礼。日本人が自ら気づいて行動すべきです。私も困った人がいたら助けますけど、いちいちリストは作ってないんです。

 

 

Q褒められて調子に乗ってはいけないとわかっていても、やはり浮かれてしまう。なかなか心の反応パターンが取れない、というのはどういう仕組み何でしょうか?

 

Aそれは大きな問題ですね。人間は弱いんですね。だから褒めて欲しいと思う。褒められると元気になる。批判されると立ち上がれないくらい壊れてしまう。ですから、もともと自分が精神的に弱いということ。そこを治さないといけない。そのための方法を仏教はずっと教えている。

 

質問に即した答えを出します。

 

1)自分に素直、自分に正直に生きる。頼まれたことはしっかりやりますよ、しっかりやらなくては自分のプライドが傷つきますよと。よい意味でプライドを持って、人から頼まれたことをしっかりやる。他人の評価ではなく、自分に素直に、自分に正直に生きる。

 

2) 人から評価されるかどうか、というのは、相手の性格による。あまり人を褒めない性格の人もいる。「私が批判された」「私が褒められた」ではなく、この人は よく褒める性格なのだ、あの人は何をしても何か批判するという性格なのだ、と相手の性格によって評価しているのだと理解すること。純金を差し出しても「な んで銀が入っていないんだ」と批判する人もいます。

 

3)社会に評価されるようにと生きることは成り立たない。社会は好き勝手に持ち上げたり批判したりする。いい加減なもの。釈尊は「社会にではなく、理性ある人に非難されないように気をつけなさい」と仰った。それでいい加減な社会のことを気にせずとも、しっかりした人間として生きることができる。人の話を聞く場合は、本当に自分のことを心配してくれる人、両親や、学校の先生、職場の先輩などのいうことを聞いてください。それでうまく行きます。

 

まとめ。人から言われることで心は揺らいでしまう。それはもともと心が弱いということです。

1)自分に正直になる、よい意味のプライドを持つことで心は強くなる。それから。

2)人からほめられたり批判されたり何かを言われる場合は、言ってくる相手の性格であると客観化する。自分でぜんぶ受けて悩んで、被害者にならないでもいい。

3)社会にではなく、理性ある人に、自分のことを心配する人に批判されないようにと気をつける。

それでその問題は解決します。

 

 

Q仏縁というのはあるものなのでしょうか?

 

Aそういうことは、あまり気にしないんですけど……釈尊の時代、祇園精舎の近くに住んでいたがまったく仏教に興味を持たず、お釈迦様の説法を聞こうともせず、残酷に動物(家畜)を殺していた人もいた。現代のヨーロッパでキリスト教文化に育っても、これは何かおかしいと、仏教になって出家までする人もいる。ユダヤ人でもけっこう出家して立派なお坊さんになったりしている。また、仏教国に生まれてもイスラム教になったりキリスト教にある人もいる。そういう性格は過去(過去生)から持ってきたものだと思います。過去の経験で仏教にどうしても出会っちゃう人もいますよ。

(冥想会での質疑応答メモ 2011年12月03日東京・ゴータミー精舎にて)

 

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仏教は宗教ではない~お釈迦様が教えた完成された科学~ (合冊版)

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~生きとし生けるものが幸せでありますように~











ひとり言 | 15:11:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
パーリ経典講義『月喩経』 マハーカッサパ尊者と布施の話(スマナサーラ長老の法話より)





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パーリ経典講義『月喩経』 マハーカッサパ尊者と布施の話(スマナサーラ長老の法話より)

ひじる日々 スマナサーラ長老 法話メモ

2011年11月29日ゴータミー精舎パーリ経典講義

講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老

 

Saṃyuttanikāyo Nidānavaggo 5.Kassapasaṃyuttaṃ 3. Candūpamasuttaṃ

パーリ相応部 因縁篇 5.カッサパ相応 3.月喩経

http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0302m.mul4.xml

 

舎 衛城因縁。candūpamā, bhikkhave, kulāni upasaṅkamatha – apakasseva kāyaṃ, apakassa cittaṃ, niccanavakā kulesu appagabbhā.これは出家に語られた経典です。出家とは俗世間からきれいに離れる存在。人間関係まで切っちゃったわけではない。お布施という習慣 は出家があるところになりたつこと。出家が何も持っていないから、ご飯もないし住むところもない。在家は財産持っているからその日その日のものを与えてあ げる。それが布施。いまは……宗教団体がお金集めしてますから……それってお布施にはならないかもしれませんね。

 

この経典は出家が托鉢に出たりして在家とコンタクト取る時は「月の喩え」を憶えておきなさいと。「月の喩え」について経典は何も解説していません。注釈書でいくらか、こうではないかという解釈をしている。満月のように円満に人格を整えて戒律を守って下を見て村に入りなさいと。

 

そ れから、月の光は誰でも照らす。しかし月は誰にも挨拶もしない。誰かの何処かの場所を「ここが気に入った」と特別に照らすこともない。何のこともなく空を 照らす。挨拶もしてくれないのに、人間は月が好きです。月を見て安らぎを感じるんです。月の光を見ると気分がよくなる、楽しくなる。

 

比 丘たちを見ると一般の人々はそういう気分にならないといけないんですね。だから、私の方を観ないでくださいw 鬼を見た気分になるかもしれません。出家は 行儀作法を整えてきちんとしていないといけない。しかし、微塵も好ききらいがあってはいけない。いかなる関わりも持ってはいけない。しかし自分のサービス はしっかりする。皆に平等に、差別なく区別なく安らぎを与える。

 

当 時の時代背景からいえば、出家が自分の家の前に来たらお布施する。来なかったらそれで終わり。突然、家の前に月が現れたように、心に安らぎを感じてお布施 して、終わり。日本文化とは対極。ペコペコとお礼しまくることはない。しかし黙っていても、観ただけで気分良くなるような人格者にならないといけない。微 妙にでも人々の機嫌を取ることは、仏教では道徳違反。

 

apakasseva kāyaṃ, apakassa cittaṃ 身を整え、心を調え (Seyyathāpi , bhikkhave, puriso jarudapānaṃ vā olokeyya pabbatavisamaṃ vā nadīviduggaṃ vā – )

喩 え:古井戸(jarudapāna )、山の崖(pabbatavisama)、川の淵(nadīvidugga)を覗こうとするときは、相当気をつける。そのような心境で在家と接する。 (在家生活に)惹かれてはならない、というふうに自分の心を戒めておかないといけない。これは……訳せない単語。関係を作らない。かといって、無関係とい う単語はよくない。深い井戸を覗いているような気分で注意して心を調えるんです。喩えで憶えておけばいい。垂直の崖から下を見る、引っ張られて落ちないよ うに、自分を引き離す気持ちで見る。そのような気持ちで在家と接しないといけない。

 

apakasseva kāyaṃ, apakassa cittaṃ 身を整え、心を調え ………初期仏教では在家の生活に合わせることはしない。服装も釈尊の ころからそのままです。そのように身体を整えておく。それから、心を調える。注釈書によれば、ある比丘が森に住む。森にいたらその人は当然、身体が俗から 離れている。それでも心で欲やら怒りや害意で妄想していたら、心は俗から離れていない。心も俗から離れなくてはいけない。両方整えないといけない。

 

niccanavakā kulesu appagabbhā 在家に対していつも、『今日初めて会った』という気分でいないといけない。注釈書:インドの客(旅人)は食事をもらって食べて自分の器を持ってそのまま帰 る。家の仕事を手伝ったりするのは「仲間」です。※インドでは客は自分の器を持っていかないといけなかった。カースト制度があるので、家の器を使わない。出家はその旅人の気分、新人の気分でいないといけない。いつも行く家で托鉢しても、関わりを持つなよと。nicca常にnavaka新人の気持ちでいる。

 

そ れから、appagabbha 控えめでいること。ぜったい調子に乗ってはいけない。行儀作法よく、謙虚に大人しくしている。出しゃばってしゃべらない。在家が出家に質問することがあ る。その場合はいちばん長老が応える。目上の人が、能力がある人に答えなさいと指名することもある。しかしいくら能力があっても、長老から指名されるまで は喋らない。時々、自分からしゃしゃり出て答える比丘もいる。これは出家には禁止。

 

出 家は人の話に割り込んだり、質問をさえぎったりしない。返事すべき人が相手の話が終ったところで話をする。同時に二人がしゃべらない。出家の世界はいつも 静かです。誰かがしゃべっていたとしても、静か。最近の出家とはずいぶん違います。話す時だけではなく、思考にも行儀作法があります。なんでも考えていい わけではない。正思惟を考えるのであって、無常について考える、俗世間の事をあれこれ考えてはいけない。心まで調えなくはいけない。それをパーリ語でappagabbhaという。慈経mettasutta でもその言葉が出てきます。

 

釈尊は道徳を設定して語ったが、皆が完璧に守っていたわけではない。わざわざ仰るということは、何か問題があったから。提婆達多は 一つも守っていなかった。在家(アジャセ王)とぴったりコネを作って、一般人に気に入られるようにふるまった。在家の機嫌をとったり、自分の顔や名前が知 られるようにしたり、それはブッダの薦める生き方とは違う。お釈迦さまは、Kassapo, bhikkhave, candūpamo kulāni upasaṅkamati マハーカッサパ尊者は月の喩えのとおり托鉢しますよ……と、マハーカッサパ尊者を模範例として出したのです。

 

マハーカッサパ尊者はアーナンダ尊者をよく叱った。アーナンダ尊者の直接の師匠はマハーカッサパ尊者。アーナンダ尊者は釈尊の 側近で秘書だったので、在家とよく接触しました。マハーカッサパ尊者はそれが気に入らなかった。『君はだらしない』と叱った。アーナンダ尊者は黙って聞く しかなかったんです。マハーカッサパ尊者は厳しく道徳を守った。村に入らず、洞窟に住んだ。他のお坊さんのところにも行かなかった。面会に来た若い僧侶が 洞窟の天井の装飾に気づいて褒めると、一言「君たちに目があって良かったね」と。カッサパ尊者は全く無関心だった。道徳的な生き方はただ項目を守ればいい ということではない。月の喩えのように、心身を調え、いつでも新人の気持ちで、けっして調子に乗らない。マハーカッサパ尊者はそれを完璧に実践していたの です。

 

釈尊:どのような比丘が在家に会うに相応しいのでしょうか?

比丘たち:教えはお釈迦様から頂くものです。お釈迦様が私たちの帰依所です。……ですから、ぜひお釈迦様が教えてください。お釈迦様から聞いて私たちは憶えておきます。

Atha kho bhagavā ākāse pāṇiṃ cālesi.その時、釈尊は手を空(虚空)に振って、こう仰った。

釈尊:この手を空(虚空)に振っても何にもぶつからない。そのように比丘が在家に会っても決してぶつからない心でいる。…

 ‘labhantu lābhakāmā, puññakāmā karontu puññānī’ti; 

「利益が必要な人々は利益を得てください。功徳を必要とする人々は功徳を得てください」と(念じて托鉢する)。どんなわずかであっても得たものに満足し、他人が得たものにも喜び満足する。そのような比丘が在家に会うに相応しい。

……しかしそういう比丘にはなかなか巡り合えない。マハーカッサパ尊者はそのような方ですよ、と。

 

比 丘たちよ、汚れた説法とは何か? 清らかな説法とは何か? ある比丘が、『私の説法を聞いてほしい、説法を聞いて喜んで欲しい、私にも何か(便宜を)示し て欲しい』という説法は汚れた説法である。ある比丘が、svākkhāto bhagavatā dhammo sandiṭṭhiko akāliko ehipassiko opaneyyiko paccattaṃ veditabbo viññūhīti六つの徳があるブッダの教え(法)をよく聴いて欲しい、聴いてよく理解してほしい、その通りによく実践してほしい、そのように教えの素 晴らしさを考えて、それだけ気にして他人に説法する。人々に対して慈しみをもって・憐みをもって、心配して・心を痛めて、説法を始める。それが清らかな説 法である。

 

……微塵も(自分を称賛してほしい、好んでほしいという)期待はない。期待は、真理を実践してほしい、ということだけ。マハーカッサパ尊者の説法はそのような説法だよと。

 

…… ある時、アーナンダ尊者が尼さんたちに説法していた。尼さんたちの心は汚れていたんです。アーナンダ尊者は美男子だったので、口をあけてうっとり見ていた だけ。そこにボロボロの老人のマハーカッサパ尊者が来て説法を始めたので、尼さんたちが怒った。アーナンダ尊者はカッサパ尊者に平謝り。『この女たちは愚 か者なので……』カッサパ尊者は出ていった。カッサパ尊者の説法を聞いても面白いとは限らない。みじんも他の人々の機嫌を取るつもりはなくて、ただ人々を 心配して説法しているだけ。釈尊の他にそんな方はいない。人格的には、マハーカッサパ尊者はほぼ釈尊と同等の方でした。

 

この経典では、聖者の徳について、一般人にはわかりづらい徳について、お釈迦様が掘り下げて発表したのです。

皆さんにも関係ある教訓はないけれど、仏教はいかに尊い品格のある教えかということを説いている。

 

出 家は食事をもらってもお礼も言わないし、日本文化のようにやたら褒めない。日本では、おかしなことに、相手が自分を褒めることを期待する。日本社会では褒 めてあげると無茶苦茶やってくれます。でも、私はそれは良い性格とは思えない。この人々はあまりにもシンプルですぐやられちゃうでしょうと。褒められると 調子に乗ってバンバンやってしまう。簡単に詐欺師たちに騙される。これは私から見ると日本の方々のダメだなぁと思うところ。

 

親 子関係でも気をつけた方がいい。子供はちょっと褒めてあげると有頂天になって何でもする。そこは気をつけないとあかんですよ。自分の利益を考える汚い思考 ではなくて、人間関係としてもちょっとまずい。子供に褒められたからとお母さんが何でもやっちゃったら、子育てにならない。親は「そんなおだてに乗りませ んよ」と言わないといけない。それは気をつけた方が、皆さんの生きている社会にとってもいいことだと思います。

 

詐 欺師もまず褒める。それでおばあちゃんたち騙されて印鑑も通帳も詐欺師に渡してしまう。マニュアル通りにほめておだてて、儲け話を持ってきて騙す。常識で 考えれば、ボロ儲け話などあやしいと思うが、褒められたところで舞い上がってしまう。これは気をつけた方がいい日本社会の特色なんです。

 

仏教の出家は、人々が悩んでいたら、そこは解消してあげるようにちゃんと仕事する。終わったら、それで終わり。そのように厳しい道徳がある。

 

なぜ出家は、在家からお布施をもらっているくせに個人的にガチャガチャ関係を持たないというのは、道徳的なポイントがあるんです。利害関係があると、純粋な布施ではなくなってしまう。せっかく功徳を積む機会なのに、お布施の功徳が減ってしまう。それを心配して、お釈迦さまは出家に厳しく道徳を説いたのです。

 

(経典解説終り。以下、質疑応答より)

 

*「身を整え、心を調え」について

 

自分の心を汚しながら、社会のために尽くす、という変な考えがある。それはいい加減な考え。自分が泥沼に嵌りながら、人々を助けるというのは仏教ではダメというのです。出家は自分の心が清らかでなければ、在家の方々の役に立ちません。

 

在 家の方々も、流行りに乗ったりする前にまず自分の安全を考えて行動することです。これは極端に警戒心を持つということではなくて、危険を認識しましょうと いうこと。たとえ冥想しているお坊さんでも、ちょっとお祭の雑踏に入ったりすると、在家生活が恋しくなって還俗してしまうというケースはけっこうあった。

 

皆 様にしても、世界の事に関係を持たなくてはいけないし、流行りを調べなくてはいけないし、しかしいきなり飛び付くのではなく、どうかな?ほんとにそうか な?と考えた方がいい。流行りのラーメン屋にわざわざ何時間も並ぶものですかね。私は情けないと思っちゃいます。他にやることないのかもしれませんが、そ れもTVCMなどに惹かれて行くのであって……ラーメンくらいなら大丈夫ですが、ひどい目に会うこともあります。

 

家族関係でも、まったく評価されないならストライキしてもいい。毎日ご飯作っているのに家族がわがままだらけとか。それだったら家事を放棄してもいい。それは躾であって。かといって、子供の褒めに乗ったらいけない。そこは微妙に調整して気をつけないといけない。

 

Qお布施の功徳の高低とは?

 

在家は自分を喜ばしてくれる出家を求めています。それに応える出家は当然、人気者です。在家に人気のある坊主というのは特色がある。(スリランカで も)散々見てきましたからw そういう坊主はどんな仕事があっても在家の人が来ると走って出ていって案内する。ものすごく丁寧に面倒を見てあげて、喜ばし てあげる。人の名前やプロフィールを事細かに憶えている。データバンクのよう。しかしそれは仏教の世界と関係ないんです。在家が感情で喜ぶか喜ばないかは功徳と関係ない。業の働きと、俗の感情はずいぶん違いますよ。

 

お布施は個人が行うことだから、個人が自分の欲を無くすことだから。どんな人に対しても、動物に対しても、困っているなら助けてあげれば功徳になります。徳の高いお布施をしたい、というのはちょっとケチな考えなんですね。

 

スリランカで も『自分たちは徳の高い僧侶を探しているんだ』と威張る在家はいますが、例外なく詐欺師に引っかかるんです……。はじめから心が汚れているんだから。業の はたらき、心のはたらき、というのは、私たちの好き勝手な気分で動くものではないんです。ただ私にはある。この人にはない。だがこの人には必要だから、差 し上げますと。その場合は欲が無いんですね。善業としてはたらくんです。それで差し上げた人にとって大いに助かったなら大きな功徳になる。徳を積むためには自分を戒めるしかないんですね、相手を選ぶのではなく。

 

(徳 の高い人の)波長を感じる、ということはあります。そのために月の喩えを出しています。月のような清らかな人が来たら、たとえ悪人でも穏やかな気分になり ます。でも……それを感じる能力が無いでしょうね。私はお布施を宣伝する人ではない。布施とは善行為の一つです。それで終わり。執着しているものから離れ る力を持ちなさいと。死んでも幽霊になってウロウロするんじゃないんだよ!と。離れる気持ちを持つパワーが、徳というものなんですね。

 

マハーカッサパ尊者はブッダに近い徳を持つ方で、お布施するチャンスはほとんどなかった。しかしマハーカッサパ尊者は極端に貧しい不可触民の村をわざわざ選んで托鉢したそうです。その方々はすごい徳を積んだでしょうね。

 

質疑応答 終り)

 

 ※Facebookのノートにメモしていた文章をブログで順次公開していきます。 
やめたいことは、やめられる。

やめたいことは、やめられる。

 

紙書籍の新刊です。順を追って読み進めることで「やめたい/やめられない」という心理的葛藤からスーッと解放されることでしょう。

電子書籍新刊です。高野山大学での講演録など、初期仏教における「真理の見方」を示した三つのテキストを収録しています。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~








ひとり言 | 16:05:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
#‎jtba‬【ご紹介】11/14(土)~20(金) スマナサーラ長老 山口県誓教寺「仏道実践会」





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬【ご紹介】11/14(土)~20(金) スマナサーラ長老 山口県誓教寺「仏道実践会」

◇詳細は資料
https://drive.google.com/…/0B3dIZsObQcC7cWNfQUVaOUgyRGs/view

【内容】瀬戸内海に浮かぶ島々のパノラマを一望できる岩国市銭壷山山頂の宿泊施設において、合宿仏道実践会を開催します。緑に包まれた静寂な環境での6 泊7 日。世俗の世界を離れ、ひたすらヴィパッサナーに専念できる稀有な機会です(申し込み制)。短期間の参加、日帰り参加も可能ですが、できるならば全日程の 参加にチャレンジしてみてください。自己を変革するチャンスです。みなさまのご参加をお待ちしております。

【会場】http://www.furepaku.com/
山口県立由宇青少年自然の家 ふれあいパーク
〒740-1432 山口県岩国市由宇町字深山2273-2

【主催・お問い合わせ】誓教寺
誓教寺ホームページ http://seikyoji.jimdo.com/
参加費・日程詳細・交通手段などについての詳細は誓教寺HPをご覧ください。
電話:0833-46-1413 Fax:0833-46-3149
メール:ariya@d4.dion.ne.jp

日本テーラワーダ仏教協会さんの写真









誓教寺 | 15:58:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
協会の記事ではありません。 サークル仲間の徒然日記です。





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自分という心の社会では、
政権を握っているのは、貪瞋痴
(欲、怒り、無知)です。

この政府は感情で政策を立てる
ので困ります。思いつきで
一喜一憂でやっています。

幸せを願う立場からは、今生も
来世も終局も幸福でありたいのです。
主導権奪還です。これが
世界平和の源泉だと思います。










徒然日記 | 15:13:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
横浜朝日カルチャー講義「イラッとした時の5つの処方箋」(スマナサーラ長老の法話より)





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横浜朝日カルチャー講義「イラッとした時の5つの処方箋」(スマナサーラ長老の法話より)

ひじる日々 スマナサーラ長老 法話メモ

今日は「イラっとした時の五つの処方箋」というタイトルでお話しします。

 

こ れは人間関係についての教えです。人間関係のトラブルは、誰にでもあることです。ないというなら、人間じゃないと思います。動物の中では人間関係のような トラブルはない。人間だけに、この問題がある。これは難問です。勉強した方がいいのです。問題のない人間関係はありません。トラブルがないはずはないので す。だからこんな話を聞いても無駄なので、クリスマスパーティーでもやった方がいいですけど、……今日はケーキを用意してないんです。※この講演は12月に開かれた。 

 

お釈迦様も人間関係で問題があったんです。(コーサンビーの僧侶達が論争しサンガが内紛。釈尊の調停も聞きいれなかった。あきれた釈尊は誰にも言わずに出て行って森で三ヶ月、一人で暮らした。)釈尊は「問題なく生きたければ、一人で生活しなさい」と仰った。一人で暮らすことの安らぎを歌った詩もある。これは経典に記録されている大きな事件ですが、もっと細かいトラブルはたくさんあったのです。

 

独 りで生活する独住は精神的に強い人の生き方です。人間は自分が弱いから他と暮らしている。それを忘れて、自我を張ってしまう。関係持っている他者にわがま まを言う。当然、トラブルになる。我々には、そういう問題があるのです。我々は自分に弱点があるから他と暮らしてる。他が自分の弱点を補ってくれるのに、 それを忘れて自我を張ってしまうということです。

 

お釈迦様は独住の安らぎを説きながら、人々の悩み苦しみを助けてあげるために社会に入った。性格が弱いからではないのです。社会の側から釈尊に条件をつけることは成り立たないことです。

 

人間関係のポイントをひとつ。「他人を正さない。説教しない」ということです。

 

子 供であっても、正そうとしないでください。たとえ家族でも、人に説教しないでください。子供にはただ知らないことを教えてるんであって、「コラ何をやって るんだ!」と正そうとしないで下さい。他人に自分の理想を求めないことです。代わりに自分の心を戒めるのです。どうすれば自分が悩まないのかと、自分の心 配をすればいい。夫婦喧嘩で自分が正しいと相手に認めさせるために何ヶ月も喧嘩するよりは、どうすれば苦しみを脱して自分が楽しくいられる方法を考えるこ とです。自分が怒りで悩まないようにすることです。

 

今回ご紹介する経典は比丘たちへの教え。 イライラした気持ち、相手を許せない気持ちをどうやって無くすのか? 5項目を教えています。修行者は苛立ちがあるとまったく修行にならないのです。イライラは出家の命に関わる問題です。出家失格になってしまう。苛立ちを引きずって生きることは、仏教の学校に入学したが授業に一度も出ないで終わることと同じ。出家にとって苛立ちは致命的なのです。

 

では、イラッとした時の5つの処方箋を経典からご紹介します。

 

1 もし誰かにたいして苛立ちが生じたら、その人に慈しみmettā を実践する。friendship 仲間という気持ち を育てて欲しい。自分を措いて、相手を心配する気持ち育てること。

 

2‥‥憐れみの気持ち(悲 karuṇā )を育てる。瞑想として、相手の悩み苦しみが無くなるように、と念じることで心が変わるのです。

 

3‥‥upekkhā 捨の気持ちを育てる。生命は平等でそれぞれ別々であるという理解。他 の生命の権利・人格を侵害しない。理性をもって、いつでも落ち着いて冷静でいること。何かトラブルがあっても、あいつが悪いと犯人探しして他人を直そうと しない。仏教では自分が落ち着いていることにする。それで苛立ちが消えるのです。家族の誰かが間違いをおかして、他の家族が苦しみを受けるのはおかしい。 本人以外は冷静にいればいい。問題おこしている本人が「余所者」になりたくなければ自分を改めるしかない。そうでなければ、出ていくことです。在家はこれ はなかなか難しい。出家は「大人の社会」だから、upekkhā 捨も成り立つんです。

 

4 ‥‥(苛立ちの対象の人の事に)気づかない、思考の対象にしない。考 えないことにする。管轄外、相手のことに無関心でいる。「あ、いたの?」という感じで無視する。我々は相手の事を考え続けて苦しんでいるのです。無かった ことにすれば、随分気持ちは楽です。相手の事を考えて腹立てるのは、毒針を呑んだのと同じこと。延々と苦しみ続けることになります。相手を正すのではない んです。自分が心の安らぎを得ることです。自分は別なことで集中するんです。出家は瞑想に集中すれば、綺麗さっぱり忘れられます。

 

5‥‥ 各生命は業を所有しているのだという法則を念じるのです。

こ れって、かなり難しいが決定的な効き目ある方法です。業は個人財産です。業は他人と共有はできない。「あの人の業で自分がこうなった」という事はできな い。「他人の業で自分が不幸になった」ということは起こり得ない。個々の業は別々です。交差しないし共有できません。人とは業である。「人」と言っても、 すべて業なんです。身体も思考パターンも業による。遺伝子の組み合わせも業が決める。行儀のいい家族の処に犯罪者が生まれることもあるし、逆もある。犯罪 者の家系だなんて、言い加減な話でしかない。好き嫌いも性格も、ひっくるめてすべて「業」なんです。

だ から他人の性格や態度や振る舞いが気に入らないと腹立てても仕方ない。業でそうなっているんだから、本人にはどうしようも無い。認めて面白がるしかない。 食べ物の好き嫌いも業です。体にいいか悪いかで決めているわけではない。「自分」というものが存在しているわけではない。業とは機能 function です。行為と結果のかたまりです。悩む必要はない。それぞれの個人の業はそれぞれ違います。だから、無理に合わせようとせず、それぞれの世界で頑張ればい いんです。

他人に腹が立つこと自体成り立たない。放っておけばいいんです。このように観察します。「◯◯さんは業を所有しているんだ。業を相続しているんだ。業から生まれたんだ。業が親族です。業を拠り所にしてる。◯◯さんが行う行為の結果は、良いことも悪いことも、本人が受けるのです。」生命とは業そのものだと憶えておけば、けっこう楽に生きていられます。

 

サーリプッタ尊者の指導:人は色々です。

1.体の行為は悪いが喋る時は立派。

2.行為は良いが言葉は汚い。

3.行いも言葉も悪い。しかしたまに心を開く、たまに良い思考もする。

4.行いも言葉も悪い。たまにも心を開かない、たまにでも良い思考をしない。

5.行為も言葉も良い。心を開く、良い思考もする。

(譬え話 略)

‥‥これら5種類の人々に、いずれも怒ることが成り立たない。怒った人がバカなんです。自分を管理することです。人間関係=トラブルですが、幸福に生きるのはすべて自分次第です。自我中心の生き方を改めることで、人間関係は好転するのです。

(横浜朝日カルチャー講義「イラッとした時の5つの処方箋」2011年12月06日より)

 

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怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

 
怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)

怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)

 
怒らない練習

怒らない練習

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~










ひとり言 | 14:09:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
気にいらない教えとの付き合い方(スマナサーラ長老の法話より) ---(冥想会での質疑応答メモ 2011年12月03日東京・ゴータミー精舎にて)





協会の記事ではありません。
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気にいらない教えとの付き合い方(スマナサーラ長老の法話より)

ひじる日々 法話メモ スマナサーラ長老

Q一年前くらいに初期仏教知った。書店で見ると大乗仏教が主流で、お釈迦様が貶められているようで怒りを抱いてしまう。大乗仏教と付き合っていくにはどうしたらいいのか?

 

A気に入らんものがいらんと思ったら、この世で生きていられない。この世は嫌いなものばかり。いろんな理由があって、いろんなものが起きているんだから、落ち着いているしかないんです。仏教が中国や朝鮮半島、日本などまったく違った環境で生き伸びていかないといけなかったんだから。モンゴリアなどの仏教も全然違うし。それらはお釈迦様の教えと比べたら違うというだけで。世の中は気に入らんものだらけですよ。それにいちいち怒っていたら自分が潰れてしまう。

 

仏教の『慈悲の冥想』で培うのは、それぞれの生き方を認めて放っておくということ。たとえばお化粧好きの男性がおかしい、と腹を立てることはない。相手からかかってこない限り放っておけばいい。関わり合いにならないのが一番だけど。

 

私も大乗仏教の 人が変なこといって批判して来たら対応しますけど。世の中では悪いこととされることをしてる人も、「悪いことしてる」と思ってない。麻薬やってる人も、コ ンビニ強盗する人も、それなりに自分を正当化する理屈がある。「これはよくない」とホントに思っていたら、できないんです。

 

人 がやっていることに、これは正しい、間違っていると突っかかると自分が潰れる。勝手にやってください、私は知りません、という態度でいるしかない。バイク に乗って暴走する人がいる。迷惑だけど、スピード出したければ、人がいない山でも行ってハチャメチャやればいいでしょう。暴走族を完全に禁止する、とかま で行かなくてもいい。彼らは無茶スピード出して走るのがかっこいい、と思っている。周りはハタ迷惑。それを理解してくれれば、何とかなるんですけど。

 

世の中観たら、気に入らないものがたくさんある。役柄として批判する役周りの人がいるし、黙っている人もいるし。私は大乗仏教とお釈迦様の教えを比較して、これが間違っているとかいうかもしれないが、それは私の仕事であって、皆さんの仕事ではない。暴走族を取り締まるのは警察の役割。我々の役割は「なんとかしてくれ」と苦情いうだけ。

 

世 の中の間違いを正すべきと断言的には言えない。みんな間違いを犯しているんだから、きりが無くなる。しかし大勢に迷惑かけている人がいたら、それに対処す る役割の人がいるんですね。自分が警察官になる必要はない。子供が悪いことしたら他出すのは親の役で。我々は自分の役柄を理解すること。世の中みんな間違 いを犯しているんですから、まぁまぁ、勝手にやってくださいと、穏やかな気分でいないといけないんですね。

 

大乗仏教が気持ち悪い、許せない、と思っても、大乗仏教が世の中に迷惑をかけているわけではない。彼らは彼らの伝統を大切に守ってやっているだけで、もっと現代的に分かりやすく仏教を教えようと思っても、本山に怒られて手足を縛られているだけで。世界のどこを見ても、大乗仏教が社会に迷惑をかけているということはない。社会に迷惑をかけているなら、対処しないといけない。カルト宗教や新興宗教を作って若者を誘っているなら、親たちが立ち上がらないといけない。

 

大乗仏教も、教えはおかしいところたくさんあるが、社会には迷惑かけない。真言密教から出てくる怪しい坊さんはいるが、個人的にやっている。真言密教の本山(高野山)が認めているわけではない。個人が悪いだけ。高野山ではふつうに自分たちの修行して、伝統守って頑張っているだけ。基本的には社会に迷惑かけてないんだから、その辺は評価すべきです。イスラム教キリスト教がどれだけ社会に迷惑をかけてきたかと。それと比較すると、大乗仏教はずいぶん人間には優しいんです。

 

時々、葬儀で高額のお布施を取る坊主もいる。その個人の坊主を批判すればいいだけ。本山で高額の布施を取れと言っているわけではないんです。「布施は気持ちです。気持ちは500万円です」とかねw それは大乗仏教でもテーラワーダ仏教で も、教えに反している。自発的に差し上げるものでなければ、布施にならない。商売になってしまう。出家の僧侶は人々の役に立つために無償ではたらく存在で あって、在家の人々も自由な気持ちで、布施をする。自分でこれだけ差し上げます、と決めなければ布施ではない。相場を気にしたら、それは商売です。どこか の宗派の本山が布施の額はこれだけ、とか決めたら、それは布施ではなくなってしまう。でもそんなことはしていないんです。

 

世の中では自分の気に入らんことがほとんどです。気に入ることは本のわずか。それにいちいち腹を立てたら自分が潰れますよ。だから、それぞれの生き方を認めて放っておく、ということが大切なんです。

(冥想会での質疑応答メモ 2011年12月03日東京・ゴータミー精舎にて)

 

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ひとり言 | 15:03:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
「一日瞑想会の上期報告と下期のご案内」---東海ダンマサークルの主催行事です。





東海ダンマサークルの主催行事です。





                            「一日瞑想会の上期報告と下期のご案内」
                                                            記
  皆様のご尽力により、27年度上期(4月~9月) 自主瞑想会も、全日程を予定通りに定期開催することが出来ました。誠にありがとうございました。

一日瞑想会への参加状況は、8月末時点で、延べ33名。平均6名/回と、多くの皆様に参加いただきました。互助会員も15名まで増え、順調に運営しております。

まず感謝申し上げねばならないのは、一度も参加機会がなくてもご支援いただいた方が5名、そのうち2名の方は遠方で参加困難にもかかわらず上期会費全額ご支援いただきました。このように寛容な方たちに支えられ運営できたことは、誠に、仏縁のありがたさと幸福を感じております。誠にありがとうございました。

つきましては、下期(10月~3月)においても、一人でも多くの方に瞑想実践していただけるように、一日瞑想会の定期開催に向け尽力していきますので、変わらぬご支援と参加をお願い致します。

現在、一日瞑想互助会員の方は、引き続き会員継続されるようお願いするとともに、お手数ですが以下のどちらかの要領で手続きをお願い致します。

1) 郵便振り込み : 下記口座に10月20日までに¥3,000をお願いします。
郵便振込先=記号番号:12190-82762981 名前:ミタニ ジュンイチ
      ※「ご依頼人欄」へのお名前の記入をお忘れなく!
2) 現金払い : 9月27日(日)の一日瞑想会にて¥3,000徴収。

新たに「一日瞑想互助会」入会希望の方は、下記の「一日瞑想会要領」を一読いただき、下記まで連絡ください。
連絡先:三谷 順一  電話:090-9897-2882  メール:mj888jp@ybb.ne.jp

  瞑想実践を、一人でも多くの方に経験していただくために、ご賛同いただきますように、重ねてお願い申し上げます。 皆様が幸せでありますように。
                                                                平成27年9月 吉日
三谷順一 拝







一日瞑想会要領

平成27年9月14日改訂

この要領は修行の中心を瞑想と定め、互いの道の成就を目指す志しを同じくする者が適所に集い、互いに助け合うことを目的とし、一日瞑想会およびその互助会について取り纏めたものである。

<一日瞑想会>

1.            この要領は、一日瞑想会に限るものとし半日および時間単位の瞑想会は対象外とする。

2.            会場は、刈谷市総合文化センター和室を拠点とし、定期的に開催する。

3.            参加資格は、長老による初心者瞑想指導の受講者とする。

4.            互助会を設け下記の<互助会の運営>のとおりとする。

5.            参加費は、互助会員は<互助会の運営>により、互助会員以外は1500円/回とし必要に応じて見直す。

 

<互助会発足の主旨>

1.           瞑想に対する個々のモチベーションを向上し維持することを目的とする。

2.            定期開催することで参加者の定着化と、施設側に直近での変更による負担を課さないよう努める。

3.            瞑想に適した会場を拠点とすることで落ち着いて冥想に集中できる場所を確保する。

4.            個人負担にならない運営方法を確立する。

5.           将来、名古屋を中心とした冥想拠点が出来るまでの一助となることを目指す。

<互助会の運営>

1.            参加資格は、東海ダンマサークル参加者とする。

2.            会費について

1)          一日瞑想会参加費として、500円/月/人を6ヶ月分まとめて半年毎に徴収する。

但し、参加出来なかった月分の会費の返金は無いものとする。

2)          徴収方法は、現金または、郵便振り込みとする。

郵便振込先=記号番号:12190-82762981 名前:ミタニ ジュンイチ

3)          会費は半年毎に見直す。余剰金は必要に応じ利用目的を明確にして利用するものとする。

3.            開催日は、長老達の来名日以外の日曜日とし、月一回程度開催する。

4.            幹事を三谷順一とし、幹事による会計報告を3月と9月に行う。

5.            会員は互助会員である前に東海ダンマサークルの一員であり、他の行事への参加や開催の妨げとならないよう努め、会員相互の信頼を損なわないように言動、行動に注意すること。また幹事および会員は必要以上に会員情報(個人情報)を他言しないこと。

<その他>

名の通り一日を瞑想対象とすることを意識して、会場での時間だけでなく起床してから会場へ来るまでの間、また帰宅して就寝するまでを瞑想会と考え、できる限り終日気付きを絶やさないように心掛けてください。       

幹事:三谷 順一 電話:090-9897-2882 メール:mj888jp@ybb.ne.jp










刈谷自主冥想会 | 11:06:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
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