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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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#‎jtba‬ ジャータカ物語「死者への供え物の話」





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬ ジャータカ物語「死者への供え物の話」

 この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、死者への供え物についてお説きになったものです。その頃人々は、多くのヤギや羊を殺し亡くなった親族への供え物として捧げていました。

 比丘達は人々がそういう行いをしているのを見て、お釈迦さまに、「このようなことをして利益があるのでしょうか?」とたずねました。

 お釈迦さまは、「比丘達よ、たとえ死者への供え物であったとしても、生き物を殺したならば、いかなる利益もない。過去においても賢者達が説法をし、ジャ ンブ洲(インド)の全住民に、このような行為をやめさせたことがある。しかし時が経つにつれ、再びこのような悪習が現れたのだ」と言われて、過去のことを 話されました。

▼物語
 その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、三つのヴェーダの奥義を究めた一人のバラモンが、「死者への供え物を捧げよう」 と、一匹の羊を捕らえさせ、弟子達に、「おい、この羊を川で沐浴させ、首に花環をかけ、神への供え物の印をつけ、飾りたててから連れてきなさい」と命じま した。

 彼らが言われたとおりにすると、その羊は自分の前世の行為を見て、「自分は今日こそ、このような苦しみから逃れることが出来るのだ」と喜びの心が生じ大声で笑いました。

 そしてさらに、「このバラモンは、私を殺すことによって、私が受けてきたような苦しみを得ることなるだろう」とバラモンに対する憐れみが生じ、大声で泣きました。

 それを見ていたバラモンの弟子達は、「羊よ。なぜ大声で、笑ったり泣いたりしたのか?」とたずねました。

 すると羊は、「その問いは、あなた達の師匠の前でなさって下さい」と言ったので、彼らは羊を師匠の前に連れて行き、いきさつを報告しました。

 今度は師匠が、「羊よ、お前は、なぜ笑ったり泣いたりしたのか?」とたずねました。

 羊は前世を思い起こす智慧の力によってバラモンに語りました。「バラモンよ、私は前世で、あなたと同じく聖典を読誦するバラモンでしたが、死者への供え 物を捧げようとして一頭の羊を殺したために、499の生涯において首を切られました。そして今度が私にとって最後にあたる500番目の生涯なのです。
 
 この苦しみから逃れられると思うと、喜びが生じ笑ったのです。また、私を殺せば、あなたは以前の私のように今後500の生涯において首を切られる苦しみを得ることになるだろうと思うと、あなたへの憐れみが生じ泣いたのです」 と。

 「羊よ、恐れることはない、私はお前を殺したりはしない」

 「バラモンよ、何をおっしゃるのですか?あなたが殺す殺さないにかかわらず、私は今日死から逃れられないようになっているのです」

 「羊よ、恐れることはない、私はお前を保護して付き添っていることにしよう」

 「バラモンよ、あなたの保護はささやかなものですが、私の犯した悪事は強大なのです」

 こうした会話を交わした後、バラモンは羊を解放し、「この羊を誰も殺してはならないぞ」と言って、弟子達とともに羊についてまわり保護していました。

 羊は、ある岩の頂き近くの茂みに首をもたげて葉を食べ始めましたが、丁度そのとき雷が落ちて、岩の一角が崩れて羊の伸ばした首に落ち、頭を断ち切りまし た。そこに大勢の人々が集まって来ましたが、その場所に樹の神として生まれていた菩薩は、人々の見ている前で空中に足を組んで坐り、

 「これらの生ける者たちは、このような悪事のもたらす結果を知るならば、おそらく生き物を殺すことはしなくなるであろう」と、妙なる声で説法をして、次のような詩句を唱えました。

 もし、生きとし生けるものが
「生をもつことは苦しみである」と知るならば、
 生き物が生き物を殺すことはなくなるであろう
 生き物を殺す者は、必ず悲しむことになる

 こうして菩薩である樹の神は、地獄に対する畏怖心を起こさせて説法をしました。

 人々は地獄の恐ろしさにおびえ、生き物を殺すことをやめました。菩薩は説法をして大勢の人々に戒めを守らせ、業に従って生まれ変わって行きました。人々は菩薩の訓戒を守り、布施などの善行為を行って天界に生まれました。

 お釈迦さまはこの物語を話されて、 「そのときの樹の神は実に私であった」 と説かれました。

●スマナサーラ長老の解説
 死者のための供養、豊作などの感謝、結婚、出産など、人間にとってのお祝い事は数多くあります。お祝いだといって殺生することや飲酒に溺れることを言い 訳にするのです。感謝祭といって七面鳥の丸焼きを食べるのです。クリスマス、お正月などをお祝いするときも、殺される豚、鳥などの数には限りがないので す。

 人間のお祝い事、お祭りなどは、動物たちにしてみれば、この上ない恐怖の原因になるものです。人間にとってはお祝いですが、他の生き物にとっては呪いで す。昔の宗教の世界では、豊作、繁栄などを希望して、動物や処女を生けにえにする習慣がありました。動物ばかりではなく、人間さえ「供え物」にしたので す。エジプトのピラミッドに、王の遺体を安置するときには、死者の復活を希望して幾人もの人々を生けにえにしたのです。

 これは、「自分の幸福を希望して他の誰かを不幸にする」という無知で愚かな行為です。安らぎを希望して、脅威を与える。平和を希望して、戦いを挑むよう な生き方は、仏教から見れば、利口な生き方ではありません。お釈迦さまは、苦しみを与えるものは苦しみを受ける、恐怖を与える者は恐怖を受けるという立場 で、幸せを望むなら幸せを与えるべきと説かれました。

 殺されることほど、生命が嫌がるものはありません。最大の恐怖は殺されることです。すべての生命にとって「幸せになりたい」という思いは、普遍的な感情 です。であるならば、いかなる理由があっても他を殺すことは不幸を招くことになるとお釈迦さまは説かれ、一切の生命に対して慈しみの心を育てるようにと教 えられました。

 慈しみこそが、生命として幸福を実現できる唯一の方法です。生きることさえも大変苦しいものです。誰の生き方にしても、「やっと生きているのだ」と言った方が正しい。それを知る人が他の生命を慈しみで思うのであって、殺す気にはならないでしょう。

●photo:Ovelhas by Maurício Fanfa(flickr)
▼参考テキスト
「死者への供え物の話」
http://www.j-theravada.net/jataka/jataka-0102.html
生きとし生けるものが幸せでありますように

日本テーラワーダ仏教協会さんの写真









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facebook | 16:50:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
再稿です。----日本仏教サンガ主催★第一回 スマナサーラ長老によるセミナー  

再稿です。





日本仏教 サンガ
 より紹介です。


タイトル★お寺で活かすお釈迦様の智慧
「お坊さんの悩み解決!檀家さんに仏教を伝えるコツ」





兼ねてより告知しておりました
日本仏教サンガ主催★第一回
スマナサーラ長老によるセミナー
詳細です!

2015年10月30日友引!
13:00-15:00 東京渋谷区幡ヶ谷のゴータミー精舎にて。
http://www.j-theravada.net/gotami.html

タイトル★お寺で活かすお釈迦様の智慧
「お坊さんの悩み解決!檀家さんに仏教を伝えるコツ」

参加費無料!申し込み不要!
参加対象:
日本仏教の将来を担う、我こそは!と思わん人。
もちろんお坊さん以外でも!
お待ちしております!

お問い合わせは
誓教寺 ariya@d4.dion.ne.jp
0833-46-14-13
木下全雄 sati-1844@s6.dion.ne.jp
まで

日本仏教 サンガさんの写真



https://www.facebook.com/profile.php?id=100009458020640&fref=photo






10月30日(金)「友引」13:00~15:00、東京渋谷の日本テーラワーダ仏教協会ゴータミー精舎にて、日本仏教サンガ(英語ならJapan Buddhist Samgha?)の今年度第1回の講演会が開催されます。どなたもご自由にご参加ください。
ご講師はスマナサーラ長老。演題は、未確定?ですが、ブッダの智慧による運営の仕方で日本仏教も速攻で元気になりやるべきことが見えてくるような内容になると思います。どうぞお楽しみに。

素敵な電子ポスターが、もうすぐ大分あたりから複数?出ると思います。皆さまも貼りまくって、真宗式に言えば「自信教人信」?、同じ志を持つ同朋を誘ってお気軽においでください。

「友引」を選んだのはわけがあって、このサンガが日本仏教各宗派の僧侶や寺院関係者がまず核になって始めたものなので、まず彼らが集まりやすいように、ということなのです。平日なのも僧侶に都合がよくて……

◎今は各宗派バラバラだけど、同じ釈尊の弟子だから力を合わせて何とかしたい。
◎日本仏教が何となく行き詰っているのを肌で感じて、なんとかしたい。
◎僧侶として個人として自分が持っている得意技で世の中に貢献したい。

そういう人同士が、各地で各自がんばりつつ緩く結びついて「サンガになって」、宗派もよいけどその根本にあるブッダ釈尊の教えを広めつつ自分の得意技で世の中のために貢献する、真宗式に言えば「仏法広まれ、世の中安穏なれ」を実践できるようがんばりましょう。










ひとり言 | 14:05:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
・参加条件:スマナサーラ長老の初心者瞑想指導受講者





東海ダンマサークルの主催行事です。





仏道修行の皆様へ
少し参考になるかと思い、先日行われました守谷合宿での長老のお話を掲載しました。
~~~~~~~~
 仏陀の教える瞑想というのは、何か神秘的な精神世界のサブカルチャーでもカルチャーでもなくて、純粋な科学の世界なのです。それを納得いかないと修業はあまり上手く行かないのです。

 人間が作るものはカルチャーです。科学というものは、人間が発見するものであって、人間が作ったものではないのです。例えば皆様の携帯(電話)はカルチャーなのです。文明なのです。しかし、携帯が仕事してくれる法則は科学なのです。それは人間がいじることはできません。そこは人間が発見する。それをいくらか利用する。利用するところがカルチャーなのです。

 法則を発見するのが科学。だから瞑想は科学なのですカルチャーではないのです。カルチャー的に瞑想をやると、どこかで止まってしまっているのです。「生きるとは何か?」という法則を発見すること、それについて、いじったり管理することは不可能です。

 で、法則を発見した人が、「自分がこういうことを発見したのだけど、どうすればいいのか」と、言葉では言い表せない状況で、「こんなのは放っておいたほうがいいや!」と結論に達するのです。発見した人が放っておいたらそれは本物なのです。(法則を発見していない)我々が放っておいても本物ではないのです。「生きるとは何か?」という法則を発見した人が、「あぁ、こんなものか!」と。その瞬間ですべてのものごとに対する執着を捨てる、放っておくという気持ちが生まれる。それを覚ったというのです。

 覚ったということは、その人は、(覚った)という言葉を使いませんけど、社会のカルチャーから言うとその人に「覚っている」というラベルを張らなければならなくなるだけです。それはカルチャーなのです。だから「(覚って)人間が変わりました。」といのはカルチャーなのです。どのように変わったかは一般人にはわからないのです。

 カルチャー的に言えば、何にも執着しない人は、「何にも悩まない」「何の愁いもない」「俗世間のものには何のかかわりを持たない完全な自由」とか、あれやこれやと単語を使って言います。心は何にも揺らがないのであれば、安穏ならばそれは「至福だ!」というしかほかの言葉はないのです。

 そういう単語があったからと、私たちはすぐ誤解する。我々は、単語で、カルチャーで理解するのです。「涅槃は究極の至福である。安穏である。」「一切の苦しみを超えた状態である。」とかいうのはカルチャーの解説なのです。ややこしいです。めんどうくさいのだけど、真剣に修行する場面では、このような言葉だましでものごとを済ませてはならないのです。しっかりと本当のところを見てほしいのです。

 だから、お釈迦様の教えを学ぶ時でも、そのようになるのです。カルチャー的に言葉を使っていながら法則も何となく語っている。その区別をつけてもらわないと、学者の方々、あるいは、がり勉される方々は、すごい態度で、えらく仏教を解ったつもりでよくしゃべるのです。・・・。
~~~~~~~~2015/10/10 守谷合宿瞑想にて

     今月も、瞑想実践に励みましょう。自主瞑想会の日程です。
                          記
11月の日程
・11月15日 日曜日12時~18時(半日瞑想会)参加費:1000円
  ↓ 誤: ・11月22日 日曜日 9時~18時(一日瞑想会)
       正: ・11月29日 日曜日 9時~18時(一日瞑想会)1500円※互助会員無料。
12月の予定
 12月 6日 日曜日 9時~18時(一日瞑想会)
 12月20日 日曜日 9時~18時(一日瞑想会or自主勉強会)
 12月27日 日曜日 9時~18時(一日瞑想会)

1月の予定
  1月 9日 土曜日 9時~18時(半日か一日瞑想会:変更可)
  1月23日 土曜日 9時~18時(一日瞑想会)

※半日瞑想会、一日瞑想会とも、毎月開催します。
※連絡不要、直接会場へお越しください。初めての方には説明いたしますので、安心して参加ください。
※途中参加・退出可能です。(当日、会場入り口に掲示します連絡事項を必読のこと。)
※1月は、日曜日空室皆無のため、土曜日開催となることをご了承ください。 

・参加条件:ス・マナサーラ長老の初心者瞑想指導受講者
・場所 :刈谷市総合文化センター和室(3階)
   URL : http://www.kariya.hall-info.jp/index.php?menuID=5
・交通 : JR名古屋駅~刈谷駅(新快速17分)南口から西へ徒歩3分
      名鉄名古屋駅~知立駅(乗換)~刈谷駅(38分)南口から西へ徒歩3分
  車 : 総合文化センター駐車場が隣接しています。
     隣のショッピングセンター「みなくる」の駐車場入口と間違いのないように注意ください。
・連絡先:三谷 携帯 090ー9897ー2882
    メール:mj888jp@ybb.ne.jp
      生きとし生けるものが幸せでありますように~       東海ダンマサークル 三谷







一日瞑想会要領

平成27年9月14日改訂

この要領は修行の中心を瞑想と定め、互いの道の成就を目指す志しを同じくする者が適所に集い、互いに助け合うことを目的とし、一日瞑想会およびその互助会について取り纏めたものである。

<一日瞑想会>

1.            この要領は、一日瞑想会に限るものとし半日および時間単位の瞑想会は対象外とする。

2.            会場は、刈谷市総合文化センター和室を拠点とし、定期的に開催する。

3.            参加資格は、長老による初心者瞑想指導の受講者とする。

4.            互助会を設け下記の<互助会の運営>のとおりとする。

5.            参加費は、互助会員は<互助会の運営>により、互助会員以外は1500円/回とし必要に応じて見直す。

 

<互助会発足の主旨>

1.           瞑想に対する個々のモチベーションを向上し維持することを目的とする。

2.            定期開催することで参加者の定着化と、施設側に直近での変更による負担を課さないよう努める。

3.            瞑想に適した会場を拠点とすることで落ち着いて冥想に集中できる場所を確保する。

4.            個人負担にならない運営方法を確立する。

5.           将来、名古屋を中心とした冥想拠点が出来るまでの一助となることを目指す。

<互助会の運営>

1.            参加資格は、東海ダンマサークル参加者とする。

2.            会費について

1)          一日瞑想会参加費として、500円/月/人を6ヶ月分まとめて半年毎に徴収する。

但し、参加出来なかった月分の会費の返金は無いものとする。

2)          徴収方法は、現金または、郵便振り込みとする。

郵便振込先=記号番号:12190-82762981 名前:ミタニ ジュンイチ

3)          会費は半年毎に見直す。余剰金は必要に応じ利用目的を明確にして利用するものとする。

3.            開催日は、長老達の来名日以外の日曜日とし、月一回程度開催する。

4.            幹事を三谷順一とし、幹事による会計報告を3月と9月に行う。

5.            会員は互助会員である前に東海ダンマサークルの一員であり、他の行事への参加や開催の妨げとならないよう努め、会員相互の信頼を損なわないように言動、行動に注意すること。また幹事および会員は必要以上に会員情報(個人情報)を他言しないこと。

<その他>

名の通り一日を瞑想対象とすることを意識して、会場での時間だけでなく起床してから会場へ来るまでの間、また帰宅して就寝するまでを瞑想会と考え、できる限り終日気付きを絶やさないように心掛けてください。       

幹事:三谷 順一 電話:090-9897-2882 メール:mj888jp@ybb.ne.jp











刈谷自主冥想会 | 15:01:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
2011年 9/17「アラナ精舎改修落慶記念法要」質疑応答 Q1.幸せとは?





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬【法話】スマナサーラ長老「幸せとは?」

Q1.慈悲の瞑想でふと思ったが、「幸せ」とは何をもって幸せなのか?
▼法話ダウンロード(約6分)
https://drive.google.com/…/0B59ftD8hZk1UYzc2NDhkMjItZ…/view…#

Q2.上記質問の続き。以前「幸せには定義がない」とおっしゃった。震災等で国の政策として「幸福度」を掲げたりしている。自分はある時、何もしたくない し、何もほしくないときがあり、これは幸せか?と長老に質問したとき「それは単に悩みがないだけ」とおっしゃられた...
▼法話ダウンロード(約30分)
https://drive.google.com/…/0B59ftD8hZk1UN2E5Njk5ZTgtN…/view…

●参考ページURL「β関西活動報告」
2011年 9/17 アラナ精舎改修落慶記念法要
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1574082.html
~生きとし生けるものが幸せでありますように~










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人類のゆくえ(スマナサーラ長老の法話より)





協会の記事ではありません。
佐藤哲朗さんのブログの紹介です。





人類のゆくえ(スマナサーラ長老の法話より)

ひじる日々 スマナサーラ長老 法話メモ

2012年10月27日(土)午前
スマナサーラ長老 幡ヶ谷・ゴータミー精舎 法話と実践会
※以下、講義中のメモから構成しました。

 

Q:これまで、競争こそが人間を成長させる道だと思っていました。先生の著作に、人間社会が、人類が共存から競争へと変わった途端に人間破滅の幕が開いてしまったと。仏教はその破滅を一日でも先送りするために頑張っている、とありました。お釈迦様は人類の行き先をどう語っているか。自分は競争、競争の生き方を変えていきたいと考えています。

 

釈尊は人間社会を心配していた

A:お釈迦様の過去世=ジャータカ物語を読むと、お釈迦様がずっと人間社会を心配していたと読み取れるのです。釈尊が 悟る前の認識は、「生きることは苦しいことで大変である。しかし苦しみを忘れて、悩みを押さえて、幸福になろうとしている。誰もそうなっていないのではな いか?」というものでした。これはお釈迦様を含めて、という意味です。人々は、幸福になろうとして幸福になれない。ちっぽけな幸福のために多大な苦労をし ないといけない。

生まれることからトラブルです 

生きるとは、どう頑張ってもあらゆる現象が生まれてくる。「生まれる」ということがトラブルです。子供が生まれたら楽しみはわずか。大変な苦しみが 待ち構えている。責任感とか。誰でも人間なら、子供かわいいし、見たらニコッと笑ってしまうけど、責任感ってどれほど大変か。子供のためにどれほど悩んで いるか、苦しんでいるか、失望感に落ち込むか。それでも親は頑張り続ける。自分に暗示をかけながら、踏ん張って頑張っている。それでも大変。

「これから楽」にはなりません 

あらゆる現象が起こる。子供が生まれたとか、結婚したとか、幸福だという現象があるんだけど、結婚にたどり着いて幸せだ、おめでとうございます。本当ですか?結婚した途端大変な苦労が待ち構えている。これから楽です、という世界は生まれませんよ。地方議員になって、国会議員になって、総理大臣。最高の地位に達しましたね。楽?日本人一幸福でしょう。人間トップの地位。喜ぶべき。違いますね。そこから地獄待っている。釈尊は分かりやすく「生まれることは苦である。生は苦である」。津波も生なんです、生まれること。生まれたら死ぬまで生きて行かないといけない。逃げられない。子供を世界一幸せにしたいと思うのは親だけ。生まれたものが頑張らないといけない。

わたしたちは日々、老いていく 

それから、老いること。結婚は楽しいんだけど、その気持ちは日々、老いていくんです。これはどうにもならないこと。私たちは日々、老いていく。だか ら将来は怖い。明るい未来というのはとんでもないうそ。誰にも明るい未来が待ち構えているわけではない。日々、老いて、老いて、苦しみが増えていく。老い ることは苦である。老は苦である。どうしようもない真理。

病気からは逃げられない 

病気になること。病院にかかるような病気にならずに80歳まで生きることはできる。しかし、病気からは逃げられません。仏教の定義では、身体そのも のが病によって成り立つ。生きるということは、壊れていく身体を修復すること。病が生きること。病こそが生きることなんです。みな観察能力がないから、医 者のところに行く時だけ病気だという。本当はいつでも調子が悪い。それを修復している。呼吸も病気なんです。呼吸は修復作業です。やめたら、たちまち死に ます。御飯食べること、用をたすこと、やめたら死にます。世間は観察能力が乏しいから、おいしいご飯を食べて生きていて良かったというでしょう。私は怖気 がたちます。なんと無知な人々でしょうかと。何か食っただけで、日本人に生まれてよかったと。そこまで感動するほど苦労したのかいと。人生でろくなものを 食べていない。だから、あの感動なんです。

苦しみを誤魔化して生きている 

我々は生きることは苦しみだから、誤魔化すんです。家族団らんは幸せですとか、化粧して作品作って世間だましたら幸せですとか。心のなかでごまかし しているんです。化粧に騙される男も馬鹿で、騙している女もバカで、お互いごまかし遭っている。それでゴマ櫂アイで、ああ幸せだというのは、本当の幸せで すかね。そういうことに人間は必死なんです。10階建てのデパートがあったら、8階までは女性服。そこまでごまかしている。騙し騙され。なぜか。そこまで しないと人生は生きていられない。そのくらい大変なことなんです。騙しがないとどうにもならない。音楽がなければ、映画ドラマがなければ、現代ではゲーム がなければ、生きられませんよ。苦しいんです。ですから、ゲームをやる人は自分を騙しているんです、ああ楽しいと。病イコール命です、病とは生きることな んです。血液がさらさら流れないと死んでしまう。流れるためにはあれこれしないと。命は病で成り立っている。やばいもの。ちょっと油断すると死んでしまい ます。

生老病死の問題をどう解決するのか? 

でも必ず死ぬ。死なない人はいません。釈尊は、 この「生・老・病・死」に人生を見事にまとめてみたんです。そこで、あわれみという、心配の気持ちが生まれたんですね。これは汝らを憐れむぞという偉そう な気持ちではない。そうではなく、「生きとし生けるもの」が苦しんでいるんだと。「生きとし生けるもの」には、お釈迦様自身も入っています。汝ではなく、 生きとし生けるものを心配する。そこで生老病死をどうするか? 釈尊は、 家を捨てて出家して、八正道を発見して覚ったんです。生老病死を解脱したんです。それから、解脱に達する方法を誰にも隠すことなく教えてあげたのです。こ れは一般的な思考とはかなり違う立場。ただ慈しみがあるだけで、主語はないんです。心配する。それだけ。主語はないんです。「我は」はない。これはけっこ う理解難しいと思います。

認識過程に問題がある 

それからお釈迦様は原因を探すんですよ。なぜ命が病になったのか。生まれること自体がそうとう怖いものになったのかと。認識する過程で問題があるの です。認識する過程、プロセスに何か問題がある。われわれは騙し騙されの世界を喜んでいる。本当ならばデパートに行ったら腹をたてて出ていくべきでしょ う。歌の世界というのも嘘ばかり。十五六歳の女の子たちが偉そうに恋の歌、別れの歌を歌ってもいい加減にしろと。まだ男の子の友達もいないでしょうに。あ れも訓練させて、だましの世界のプロになる。それで人々は喜んで騙される。そういうことを見ても、我々の認識過程には何か問題がある。つねに騙し、現実を ごまかしということを発見する。

執着を捨てれば問題は消える

そこで、生きることへの執着を捨てたところで、問題が消える。病気になって慌てるのも、執着があるから。子供が死んでものすごく悲しいのも、執着な んです。私の子供ではなく、人間である。生まれたものは必ず死にますよ、と思っちゃえばその執着は綺麗に消えます。金が無くなったらすごい苦しいでしょ う。それも執着。執着さえなければ、ものすごく穏やかな心でいられます。それは目の前で経験できます。死後も、この恐ろしい「存在」というものを作らない んです。

「我はいる」という心の汚れ 

心のトラブルについて釈尊は 様々な例を出して語る。心のトラブル惹き起こすものは煩悩という。原文は「汚れ」です。心の汚れ。リストアップして、これこれを捨てなさいと。それだけだ と。リストはその都度いろいろありますけど、すべてまとめると三つなんです。貪瞋痴。生命は騙しの世界にいるんだから、真理の世界に生活しない。嘘の世 界、幻覚の世界に生きている。一つの心の汚れというのは「自我」ですね。「我はいる」という考え。これは幻覚なんです。あなたが我という場合は何を指して いますかと。大雑把で中途半端で明確な定義もなく、単語を使っていますね。「私は」「我は」しかし単語生まれたということは何かを指しているはずなんで す。それは何かと調べなさいよと。すると、それは幻覚だったと発見する。それだけで煩悩が終わります。

病気の心がつくる宗教の世界 

解脱に達する方法はいろいろありますが、ひとつは、「我とは何か?」と調べてみることです。すると我とは成り立たない、大雑把で非論理的に使われて きた単語に過ぎないと分かるのです。「我」とは、ただの一般人が作った単語です。それにおかしいのは、知識人たちが「これこそが我である」と大まじめに論 じること。知識人の幻覚は、皆さん一般人の幻覚よりも、とんでもない幻覚なんです。私の魂は、私の霊魂は、とかいうと治らない幻覚です。詐欺師のマインド コントロールです。詐欺師が自分の商売のためにつくったマインドコントロール以外の何ものでもない。権力欲支配欲など病気の心で作られた宗教の世界なんで す。

どうして私は生きているのか? 

そこで、競争について話します。健康になりたい、と思うのは健康でない人々。痩せたいと思うのは痩せていない人。生きていきたいと思うならば、生き るとはどうやって成り立っているのか、それを無視したら結果を得られない。痩せたい人が、なぜ体重増えるのかと調べないとダメでしょう。それはどうでもい い、私は痩せたいだけ、と思ったら痩せるわけがない。同じく生きていきたいと思うならば、どうやって私は生きているのかと調べなくてはいけない。調べてい ない。

共存しているからこそ私は生きている 

そこの答えは、「他の生命がいなければ、自分は生きていられない」です。たちまち死にます。砂漠では生きていられませんよ。他の生命がいて、生きて いるんです。この身体のなかで、細胞の数よりもはるかに、数えられないくらいの他の生命が生きているんです。これらの生命の排泄物で、自分の身体が成り 立っていますよ。腸内細菌の排泄物をビタミンだのなんだの言って、元気に生きている。皮膚がこれだけ厳しい環境で元気なのは、皮膚の上にたくさん菌がいき ている。なのに日本社会はいつでも抗菌抗菌。それで金をはらって身体にあれこれ塗りたくっている。自然の中で生きている人々は年取っても身体がつやつやし てますよ。あれは抗菌ではないんだから。

共存に気づかない無知 

私たちは他の生命がいないと生きていられないということを知らない。他の生命に対して一欠片も親切ではない。ある日、子供を連れて品川水族館に行き ました。中学生がたくさんいてうるさかったのです。水族館では生命の生き方を学ぶところでしょうに。それなのに彼らは、カニを見ても「これが美味しい」 と。同じ生命だという気持ちがまったくない。獣とおなじです。しかし、獣は腹が減った時に食べるだけ。空腹でないライオンの前をガゼルが通っても、相手に しません。獣だってそうなのに、水族館に遊びに行って、生命が食い物にしか見えないというのはどういうことか。

生きる歓びを感じるために 

我々はエゴイストになって、他の生命に残酷な態度を取る。他の生命に残酷な態度を取ると、自分は生きていられないんです。ただでさえ生きることは苦 しいのに、エゴイストで残酷な生き方をする人は恐ろしい生き方をその上に味わってしまうのです。ですから穏やかで、安全で、気持よく、明るく生きたけれ ば、生命に対して慈しみを育てなさいよと、慈しみを教えるんです。それが法則だよと。他の生命がいないとあなたは生きていられないでしょうと。他の生命に 慈しみを感じなさいと。それでたちまちあなたは安らぎを感じますよ、生きる歓びを感じますよと。

競争は根深い問題 

競争というのは、根が深い問題です。日本の社会は競争社会といっても、その問題はもっと根深いんです。たとえば水の中で生きている生命というのは、 あらゆる他の生命に食われますね。他の魚、鳥、いちばん恐ろしいのは人間ですね。大量に捕る。みなさまがたは、例えばタイという魚を食べたくなる。タイ一 匹が、どうぞ私を食べてください、と出てきますか?生命は食べられたくない。そこで競争が始まるんです。人間はあれこれ工夫して、魚を取ろうとする。競争 に負けた時点で、命までなくなってしまう。我々が生きているということは、強者であること、残酷な生き方をしているということ。

人間という凶暴な生命 

人間はあらゆる生命のなかでもっとも凶暴です。自分が生きていたいがために地球まで破壊するんです。競争というのは根深い、根本的なところ。森に 入ったら、クマに出会うと、そこで、競争が始まる。お互い怖いんだから。クマは人間を見ると恐ろしくていてもたってもいられなくなる。自分のいのちを守る ために攻撃しないといけない。どちらが勝つかというと強者が勝つ。人間が手ぶらだったらクマが勝つ。猟銃でももっていたら、クマが死にます。それでわれわ れ人間が、人間の社会を作る。一人ひとりが、自分が生きていたいために社会を作る。自我、エゴイスト。自分が生きていきたいためにあらゆるシステムを作 る。人間には教育というものがある。教育のなかで、我は生きていくために、あんたはどうでもいいや、という気持ちでやっているから、競争が出てきます。た だ必要なことを学べばいいのに、敵と味方に分かれて競争するのです。それで、教育はとことん苦しい世界になっている。商品の交換が経済で、別に大したこと はない。経済学という大げさな学問にするほどのものではない。しかしこれが、我々に耐え難い競争になっている。

人類が破滅に向かう理由 

結果として、他の生命を攻撃すると自分には生きていけない状況になる。私たちは、幸福に生きたい、楽しく生きていきたいと思うんだけど、方法を知らないのです。競争すると幸福になるのかと。なれません。民主党が政権を取ってすぐに、自民党が 徹底攻撃。仕事させない。それで良い国ができますかね? 国民のためになりませんよ。この世の中で何ひとつもうまく言っていないんです。あらゆる組織が無 数にありますけど、すべて競争という原理に変わっていまう。なぜ人類が破滅に向かってまっしぐらで走っているか。これ、競争のためでしょう。一つの国が経 済的に豊かになると、他の国がガタガタに壊れてしまう。中国が世界一の経済大国になったら、どうなるかわからない。これまではアメリカが世界一の経済大国 で、世界中に迷惑をかけまくっていた。

競争原理で不幸になる 

人が経済的に豊かになるのはいっこうにかまわないが、競争の原理で成り立っているから、大勢の人々を不幸に落としているんです。100人を踏みつけて、自分が美味しいご馳走を贅沢に食べている。それに万々歳素晴らしいことというべき?

競争ではなく共存が繁栄を呼ぶ 

そこでお釈迦様が、競争ではないんだと。生きていきたければ共存だ よと。生かして生きる。生命を生かしてあげると、生命も自分を生かしてくれます。レストランでも、先に自分が客に、喜び・充実感・安らぎを与えるならば、 自動的に繁栄するんです。これ実行が難しくなっているのは、人類が全体的に競争になっていて、根深い問題だから。鶏を食いたいけど、鶏は食われるために生 まれていない。だから鶏の自由を奪って、身体を動かせないようにして、機械で餌をあげて、そこにいろんな成長ホルモンなどを入れて、毒にして、殺して皆さ んに売っているんです。自分さえよければいいという恐ろしい世界が広がっているんです。

赤ちゃんさえ、先に与えている 

慈しみで生きていると、まるっきり想像できない社会が成り立つんです。私がGive & take という言葉を少し、give & receive と言っているのです。先にgiveなんです。先に何かしなさいと。赤ちゃんだって、先にお母さんを見て笑うんです。それで母親は喜んでおっぱいをあげる。 赤ちゃんがまるっきり笑わないで恐ろしく泣き叫ぶだけだと、親も育児ストレスが溜まって子供を捨ててしまいますよ。赤ちゃんが先にニコッと笑うと、問題が 起きない。児童虐待をやっているお母さんもやりたくてやっているわけではない。どうにもならなくてやっている。(赤ちゃんもお母さんも)どちらもエゴイス トですからね。

貪瞋痴の心にあう教えが拡がる 

ブッダの教えが世界に広がればまったく問題ないんですけど、世界に広まっているのはイスラム教の教えですからね……。キリスト教ならまだ「汝の隣人を愛しなさい」くらいの教えはありますけど、彼らには、それすらない。それでも広まっているのは、貪瞋痴で成り立っている私たちの心に合っているからなんです。

正しい教えは個人で実行するもの 

ブッダが教える正しい教えは個人でやらないといけない。競争の世界で私は競争なしに穏やかに生きる。怒りに狂っているこの世の中で私は怒りなく生きますと。憎しみ争いの世の中で私は私は……、競争の世の中で私は共存の 気持ちで穏やかに生きています、と自分で先延ばしにしても、どうにもならない。存在というのは維持しようとしても壊れるもの。人類がいくら頑張って生きて いても、自然の条件が変われば、消えてしまいます。しかし我々は頑張れば目の前で破壊が起こることは先延ばしに出来ます。とはいえ、これは個人で実行する しかないんです。自分は怒りに狂った世の中で怒らないようにしますよ、とすれば、周りの人々もそれを学ぶんです。

自分がまず何を与えるのか? 

夫婦関係でも、自分がしてもらうことばかり考える。それでハチャメチャになる。結婚したら、自分が相手に何をしてあげればいいのかと考えれば、仲良く年取れます。「自分がまず何を与えるのか?」という生き方をすることで、幸福に生きられるのです。

 

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~生きとし生けるものが幸せでありますように~










ひとり言 | 10:50:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
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徒然日記---「心の青空」





協会の記事ではありません。
サークル仲間の徒然日記です。





「心の青空」

他とは比べない。比べていても
アホやな。クヨクヨしないでやる。
人の嫌がることはしない。

何があっても潰れないでしのいで
いける自分だ。自分を信頼してやる。

悪いことはしない。素直にいく。
自分を育てる勉強を続ける。

反省するけれど悔やまない、
気にしない。

人生道中を振り返ると、心にある
頼りなくもチョボチョボの
澄んだ青空が私を支えてくれた。

青空さんにありがとう。‼︎

私の青空はダンマ(dhamma.法)
を学び真の幸福の自灯明になる。

吉田 牧生さんの写真









徒然日記 | 09:56:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
白い実から黒い実で変化 して行き、最後はポトンです。---サークル仲間の徒然日記





協会の記事ではありません。
サークル仲間の徒然日記です。





吉田 牧生
------徒然日記

今の畑にあるツルグリーンの
実が老いていく様子です。
白い実から黒い実で変化
して行き、最後はポトンです。

肉体は誰れでも若い人も年寄りも平等に老化します。
心の方はその人の生き方でくすんだエネルギーにも、
今を生きる元気な人生にもなる。

欲の刺激では今はやれないと心すべし!

吉田 牧生さんの写真








徒然日記 | 13:22:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
魔とその克服法~自分にとっての魔とは何か?~(スマナサーラ長老の法話より)





協会の記事ではありません。
佐藤哲朗さんのブログの紹介です。





魔とその克服法~自分にとっての魔とは何か?~(スマナサーラ長老の法話より)

ひじる日々 スマナサーラ長老 法話メモ

『魔とその克服法 自分にとっての魔とは何か?』

 

日時:2012年9月23日午前 

講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老

主催:F.E.ヨガライフ協会

 

マー ラ、悪魔、悪しき者などなど、世界中で「魔」という言葉を使います。日本語にも「魔が差した」 という言葉があります。これは、かっこいい用法だと思いますよ。普段なら自分はやらないだろうこと、なぜやってしまったか分からないことについて、「魔が さした」と言うのです。

 

宗教の世界では、神がいると必ず悪魔もいるの です。神は人間を慈しんで守るはずですが、その約束を守らないのです。神に守られているはずの世の中はすごく生き苦しい。身体はいくら面倒を見ても壊れて しまう。生命のなかでも、食べるものを見つけるのが難しいのは人間です。朝から晩まで働いているのも、結局は食べるため。私たちは、(神の恩寵ではなく) 弱肉強食の社会に生きています。

 

人間は、やるべきでないことは喜んでやる、やるべきことは脅さないとやらない、のです。

世 の中に悪いこと起きるたびに、なんでも悪魔のせいにすればいいから楽です。たまさかいい事があると神を讃える。不況になると世界経済状況のせい。好況にな るとアメリカのおかげです。自分で責任取りたくないからだれかのせいにする。自分の努力・行為の結果とは言わないのです。

 

バチカンには悪魔学まである。イエスもエクソシストだった。私はそういう悪魔の話は真っ赤な嘘だと断言的にいうのです。「他人を指差したい」という悪い性格のために世界中に大量に悪魔の観念が生まれている。また、悪魔にも民族性があるようです。

 

悪魔とは、客観的に見ると誰にでもある「人のせい」にしたがる性格の産物なのです。

 

人 間は誰でも失敗するのです。そこで「人のせい」にしないで、素直に謝ればいいのに。懺悔するという習慣があります。仏典では懺悔を厳しく言うのです。(他 宗教は見えない神に懺悔する。それで性格が更正するのか。私は、人間が失敗したら造物主の神の責任でしょう?なんで人間が神にあやまるのか?と文句を言い ます。)仏教では短い法要文句にも懺悔が入っている。誰でも失敗するのですから、懺悔してまた前に進むことです。

 

……(ここのあたり眠気が出たので不正確^^;)

 

悪魔の十軍(スッタニパータ3章) 悪魔とは、やるべき事をやらないで不幸になる原因です。自分の精神的な弱味を指すのです。

 

仏典には神霊の悪魔も出てくるが、釈尊の邪魔(いたずら)する程度。

 

経典で釈尊と対話する悪魔は、俗世間の価値観を正当化する立場を代表しています(例:相応部マーラ相応など)。

 

釈尊は人生の表だけでなく裏を見なさいと言っている。現代的にいえば、原発が電気作って便利な事は否定しない。しかし事故起こしたらどうするの?廃棄物はどうするの?と。悪魔は人生の表だけを見て正当化しようとする。

 

ほんとうの悪魔は、私たち一人ひとりが持っている。ヤバイことしたら隠したくなること。喧嘩したらあいつが悪いと思う、「自分が正しい」と思う。それも相当、悪魔にやられてることです。人のせいにしたくなったら、自分の魔にやられてるのです。

 

自分の弱みを発見できないようにする心の働きが「悪魔」です。

 

世界一優秀な先生が教えても、子供が学ばなければ勉強できない。自分の弱みを発見することが学びです。「自分にはこれができない」と、自分の弱みを見つけて何とかしようと思うところから、「これをできるようにならなければ」と思うところからが学びの始まり。

 

人間にとって大切なことは、自分の弱みに気づくことです。人間はそれを却下するのです。我は正しいと思うのです。それに釈尊は「魔」という。「それで人生は終わりだよ。成長はそこでストップして、みるみる壊れて行くんだよ」と。

 

仏教ではすべては変化し続けるといいます(無常)。変化は二種類。向上か、堕落か、です。残念ながら現状維持はないのです。進むか後退するかしかない。なぜ、あえて後退する道を選ぶのか。それが魔です。皆さんは家族の誰よりも魔と仲良く生きている。だから脅さないと善いことをしないでしょう?

 

では、魔の克服法は? それは「つねに自分の弱みの気づきましょう」ということです。気づいたとたん、何とかしましょうという気持ちが起こる。

 

時々、「しょうがない」と思うでしょう?「しょうがない」というのは(自分の)魔が言っていることなんです。自分の性格に関しては、決して「しょうがない」と言ってはいけない。魔がはっきり「あんたは成長しなくていいんだよ」と唆しているのですから。

 

私たちは魔に負けっぱなしです。

 

でかい大脳あるのに、人間はそれをほとんど使ってない。人間にとって大脳が無用なら退化するはずです。人間の大脳が大きいのはそれが人間にとって必要だからなのです。

 

大脳に覆われた原始脳には考える能力がない。生きていきたいという衝動のみです。それで大脳にあれこれ感情を引き起こします。「生きていきたい」という渇愛と、 それに反する(生きていけないという)情報への恐れ。生命はこの二つに支配されて生きているのです。私たちは対象を認識する時、まず対象を「敵か、味方 か」と判断します。原始脳に理屈はない、データを処理する能力がないのです。頭がいい人間も、そうでない人間も、原始脳に支配されて生きています。だか ら、優秀な知識人も大量破壊兵器を開発するのです。ただ「敵を潰す」という原始脳の衝動で生きているのです。

 

核兵器も、「私は持ちますけど、貴方は持ってはいけません」という態度(核不拡散条約体制)。

 

原始脳は魔が住んでいる場所です。だから人間は何をやっても矛盾で終わるのです。根本的に、魔に支配されて、魔の支配下に生きているのです。ですから私たちは、渇愛に打ち勝たなければいけない。恐怖感に打ち勝たないといけない。「どうせ壊れる身体だ」と、肉体への執着を捨てるのです。原始脳の命令を聞かないことにするのです。

 

(*ヨーガをする人たちに向けて)「健康な身体はのために健康な心を」というのはアベコベです。なによりも健康な心をつくらなくてはいけない。身体のことは放っておくこと。どうせ壊れるものだよと。我々はビニール袋が欲しくて買い物するわけではないでしょう? やっていることが変ですよ。

 

美味しいもの贅沢を探し求めて寿命が縮む、病気になる。原始脳は理性がないから、刺激を求めて自己破壊してしまう。身体は機械・道具だと理解して、肉体への執着を捨てれば、身体は植物だから寿命までスムーズに使えるのです。

 

仏教の瞑想法は脳科学と一緒にしてはいけないのです。仏教は心というもっと大きな世界を扱っています。しかし、分かりやすくするためにあえて脳の構造で説明すれば、それは「原始脳の言うことを聞かないようにすること」です。そうすれば失敗しない。(瞑想で)悪魔を潰すんです。悪魔を折伏すれば理性がすべてを担うようになります。瞑想に成功した人の心には、欲・怒り・嫉妬は入らない。その代わりに慈しみが入るのです。生命に対して心配する気持ち、協力する気持ちが起こる。物事を貫いて見られる、ものすごい智慧が生まれるのです。

 

感情でやったことは99.9%まちがっています。比丘は何のために食べるのかと、よく理解して食べる。決して欲で食べない。そうすると一日一食でもからだを維持できるのです。

 

我々 はなぜ、食べることで病気になるのか。そこには心の問題があるんです。心が悪魔に占領されているんだから、身体を維持するためではなく欲で刺激を求めて食 べているから、食べ物によって病気になるのです。心を落ち着けて、悪魔に負けないようにすることです。自然の食べ物は、身体が受け入れます。悪魔が割り込 むから、マズイと思ってしまう。子供はちゃんと自然のものも美味しさを見分けます。

 

(講演おわり。以下質疑応答より。助手をしたので、メモ断片的です。)

 

Q 日常生活の気持ちの変化とどう付き合えばいいのか? ある時点の気持ちの状態と一体化して、なかなか離れられない。

 

私 たちは、ずっと楽しい気持ちでいたいと思っていますが、気持ちには波があるんです。嫌な気持ちになるのは嫌だけど、なってしまう。一生いい気分でいようと いうのは答えじゃないんです。そうではなく、気持ちの波は放っておいて、リラックスしましょう。変化し続ける気持ちを相手にすると、どうなるか分からな い。感情が足枷にならないようにして、自分の気持ちはどうでもいいから、これをやりますと。やるべきことをやるのだと、自分を戒めることです。感情は自分で育てない限り、さっさと死にます。暗い気持ちになっても、「ちょっと待て」と放っておくと、その感情は死にます。

 

……

 

(依存症の恐ろしさについて)

 

私たちは、善悪の間で揺れる優柔不断によって助かっています。生き方が曖昧なうちは、まだ治療可能性があるんです。依存症の人はやりたいけどこれはマズいなぁ、と気持ちが揺らがない。悪いことに開きなおったような状態です。何があっても気にせずに、悪い方向に進んでしまう。その人は、人格向上のチャンスを失ったということです。悩んでいるうちは見込みがあるんです。

 

……

 

(時間配分について)

 

時間よりも大事なのは「優先順位」です。優先順位をつけたやることリストを作っても、時間がなくて一生やらない事があるかもしれない。それでーもOK。いますべき事をやっていれば、魔に支配されていないのです。人生は時計に操られるのではなく、優先順位に操られるべきです。

 

……

 

(人を判断するなかれ)

 

自分で相手のことをあれこれ判断する。それも魔の仕業です。基準は自分なんです。そ れで気持ち悪くなったり怒ったり嫌な気分になったりする。マナー違反の人を見ても、「自分の基準からしたらとんでもないことしてるけど、この人にもそれな りの理由があるんでしょう」と落ち着く。注意する場合も、判断して腹を立てるのではなく、相手の振る舞いを冗談・漫才にしてみることです。そうすると、相 手の頭にも注意されてる内容が入るのです。感情で人を貶さないことはすごく大事です。他人は放っておいてください。嫌だったら、自分が避ければいい。人を 判断するのは良くないのです。

 

(質疑応答 終わり)

 

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心を整える8つの脳開発プログラム

心を整える8つの脳開発プログラム

 

生きとし生けるものが幸せでありますように。










ひとり言 | 10:21:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
#‎jtba‬【Ustream動画】10/18(日)『徳のある人ない人、あなたはどっち?』





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‪#‎jtba‬【Ustream動画】10/18(日)『徳のある人ない人、あなたはどっち?』
 
講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老

▼動画
http://www.ustream.tv/recorded/75731876
http://www.ustream.tv/recorded/75736008

▼法話メモ
 http://twilog.org/jtba_talk/date-151018/asc

生きとし生けるものが幸せでありますように










facebook | 09:25:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
[新装版]ブッダの日常読誦経典[完全版 CD BOOK]2015/9/26 アルボムッレ・スマナサーラ CD-ROM





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ひとり言 | 17:03:02 | トラックバック(0) | コメント(0)
ひじる日々 スマナサーラ長老 法話メモ





協会の記事ではありません。
佐藤哲朗さんのブログの紹介です。





渇愛と目標・意欲の関係/ブッダの言葉は脳にパンチを浴びせる(スマナサーラ長老の法話より)

ひじる日々 スマナサーラ長老 法話メモ

Q:渇愛はよくないというが、人生の目標・意欲は必要ではないかという疑問が起こる。渇愛と目標・意欲の関係について教えていただきたい。

A:これは大切なポイントです。生命は生存欲で生きている。「生きていきたい」と意欲が起こると、そこに恐怖感と怒りが出てくる。生命は認識対象を 敵・味方で区別するのです。自分に有効だと思ったら好きになるし、害があると思ったら敵意を抱く。本当に害があるかどうかは分からないが。敵か味方かとい う見方を捨てれば、蛾や虫もかわいくみえるのです。

何が私たちを生かしているのか? 神ではない。それは渇愛というのです。ブッダは渇愛を 三種類に分けています。欲愛、有愛、非有愛です。人間には昆虫と違って、ものごとを考える能力がある。概念をつくってしまう。しかし、大したこと無い能力 です。概念がなくても、他の生命はちゃんと判断して生きている。人間は動物と違って、もっとややこしい世界を作る。存在欲を肯定するために、より安心して 生きるために、いかに死を避けるために、ありとあらゆる工夫する。薬作ったり、家作ったり、飛行機作ったり。そんなのはシロモノで大したことないと思いま すが。だって、津波があっても野生動物は死なないでしょう、人間が死ぬんです。人間が自分を守ろうと築いた文明は、その目的に役立っているか分からないけど。

建物をたてること、会社をつくって経営すること、商品開発すること、勉強すること、それらの中で希望・願望・ああなりたいこうなりたいということが 人間社会に出てくるのです。その根本を探したら何なのか? 私は科学者になりたい、画家になりたい、金を儲けて家族を幸せにしたい、表面的にはぜんぜん悪 くない。裏を観ると、見えるのは生存欲と恐怖感なんです。だからややこしい。勉強していい職についてまともな人間として行きたいというのは悪いことではないが、生命は全て生存欲の衝動で生きているという厳然たる事実があるのです。

我々は夢を求めて頑張ってもトラブル続きです。人間は夢がないと元気が出てこない。夢が叶う確率は低い。人間社会は競争社会です。動物と違ってお互 い殺し合いして共喰いして生きているのです。人間同士、やるかやられるかという世界です。人間に生まれたせいなのだから、私に文句言わないでください。こ の競争社会で生き延びなくてはいけない。その程度で、必要な量を知って、適当な夢や目標を作っても構わない。しかし自分が立てた夢や目標にしがみついて、 「それこそが人生だ」と思わないでください。それは生命共通の生存欲から発しているのです。原発と同じです。人間社会には電気は必要だが、こんな地震国でわざわざ活断層を探して原発作るってどういうことか。結局、自分を守ろうとして、自分を破壊して殺して終わってしまう。それを考えたうえでの夢を持ったほうがいいのです。いつでも好き勝手な夢を描いて追いかけるのではなくて、理性をつねに働かせるのです。

まず現状認識をしっかりしましょう。皆様は自分のことしか考えてないのです。どんな夢も自分のことばかり。自分を助けてくれるから家族のことも考え る。まず自分の幸せを優先する。自分が幸せになってから、親のことも嫌々考えてみる。だから、周りはそれを壊そうとするのです。といっても、人間を恨んで はいけないのです。人間社会は共喰い社会だから。人間の作った社会は、誰かが不幸になってその文誰かが幸福になる社会。誰かが不幸にならなくてはいけない 世界というのは、人間が作った世界の仕組みです。これも生存欲と恐怖感という動物的衝動でつくったものでたいしたことない。

ではどうすればいいのでしょうか? 仏教の提案は「誰かに貢献してみてはどうですか?」ということです。夢や目標を持つならば、「誰かに貢献できる人間になってみよう」と決めること。自然を守ることでもいいんです。それには誰も反対しません。足を引っ張ることもしないし、何のことなく応援してくれるのです。気持ちを貢献することにする。この人間社会で、自分が殺されてないだけでもめっけものです。殺し合い社会で、殺されてないだけで人類に感謝しないといけないんですよ。世界の核兵器の数を考えたら……。またそれを振りかざしている国々の凶暴さを考えたら(北朝鮮のことではないですよ。皆さんが拝んでいる西洋の国のことです)……。

誰か一人でも貢献しようと思うと、その人にあまりライバルは出てこないのです。協力者は出てきます。あまり足を引っ張られないのです。夢・目標を作るなら、渇愛と 違った、貢献する方向の夢を作ったほうがいいと思います。若者が音楽をつくるなら、音楽を通じて人々に安らぎをあたえましょう、元気になってもらいましょ うと。そうすると人気が出ます。みんなの幸せを願うと売れます。みんな自分のことしか考えてないところで、誰かが「あなたの幸せを願います」と歌ったら、 みな飛びつきますよ。そうやって、何か貢献します、という気持ちで医者を目指すならば、勉強も身につきます。勉強できるような気持ちになる。

これは、勉強する時の秘密でもあります。勉強しながら、「これがどのように人類の役に立つのか?」という気持ちを入れておくと、内容をびしっと憶えていられる。夢と希望は渇愛です。しかし夢と希望なしに生きるのも難しい。夢と希望を持つとみなライバルになって、足引っ張ろうとする。このジレンマを解決するためには、違う形の夢をつくる。それは、みなに貢献する夢をつくることなのです。

  

Q:(質問というか自分の求道人生について語ったご年配の方の言葉を受けて)

A:何か知りたければ生意気であったほうがいい。疑問があったらぶつけてきたほうがいい。自分が知りたいことをビシッと質問しなさ いというのがブッダの立場です。経典の四分の三くらいは誰かの質問に答える対話。一方的に喋る場合は、必ず相手は出家弟子。在家相手の場合は相手の質問に 答える。どんな質問が来るかわからないから、「自由に質問をしてください」ということは、ブッダにしかできない。「これは神の言葉だよ」と押し付けない。ブッダは調べなさい、考えなさい、疑問を出しなさいと、いうことで各人の命・人生を大事にするんです。命に価値はない、一切皆苦といいながら、とことん一人一人を尊重するんです。疑問があったら、ぶつけてみなさいよと。学校でも、子供にどんどん質問させると抜群に能力が伸びます(能力のない教師にはできませんけど……)。

宗教は信仰するものです。信仰する自分の立場が低いんです。仏教はブッダの教えを自分で勉強して、納得して自分がやってみる。それで自分が幸せになる。なぜやってみるのを嫌がるのか。幸福になりたいといいつつ、ブッダの言うことは嫌だと。世界の七割は神を信じているが、神様はおにぎり一個でもくれたことがあるのでしょうか? だれでも飢えている他人がいたらご飯あげますよ。それを神がくれたというのはどういうことか。(スリランカの子守唄のエピソード:「あなたの飲んでるおっぱいは天使がくれたものよ」という本歌を「あなたが飲んでるおっぱいは、天使でも神でもなく、私(母)があげているのよ」と本当のことを述べる替え歌にした女性歌手が話題を集めた)みな本当のことをいうのは嫌がる。聴きたくないのです。

渇愛が あって、生きていきたいと思う。しかし幸福に生きる方法には、みな反対するのです。必ず、自己破壊の方向に歩くんです。それが人間の生き方です。幸せにな りたい目的をつくって、それと反対の道を歩む。それをお釈迦さまは直している。それも「オレがブッダだ、言うことを聴け」ではなく、「私は教師です」と 言っている。しかし形容詞は「偉大なる」師匠であると明言するのです。宗教家はみな神の言葉をかたる。ブッダはご自身を「神々と人間の教師である」とい う。神の言葉をかたって人々を騙している人々に対して、「私はその神様の教師ですけど、なにか?」と大胆なことを宣言している。ブッダはそうやって、他の 宗教をとことんバカにしているんです。

世界の宗教が何をやっているのかというと、渇愛をさらに強化しているだけです。人間に根拠のない罪悪感を植え付けて、その上で神には愛があるんだと。屁理屈ばかり。それでも人間は鵜呑みにする。それは渇愛に燃料を与えているからです(永遠の魂、天国)。怒りに燃料を与えているんです(異端者だ!異端者は殺せ!と。現在のイスラムの 国々をみてください)。皆さんブッダの教えに違和感をかんじるかもしれませんが、これが自由への道、やすらぎの道なんです。自由に解放された生き方をお釈 迦さまは推薦していますよ。ブッダの教えを実践して心の邪魔者をなくすとものすごい能力を発揮します。しかしそれは生命のために使う、金儲けのために使う のではない。素晴しい世界が現れますよ。ブッダを偉大なる師匠と認めて、人類が学ぶならば。

私はとにかく、みなさんにお釈迦さまを紹介したい。日本では仏教、仏教と言いながら、仏教はお釈迦さまの教えだと知らないんですね。日蓮こ そがブッダだとか、最近は「我こそはブッダの生まれ変わりだ」と言っている人までいる。(ブッダは2500年前に二度と生まれ変わらないと言ったのに。生 まれ変わったならブッダは嘘つきだということ。だったら、いま言っていることも信頼出来ないでしょう。また、ブッダは魂はあり得ないといったのに、生まれ 変わったブッダという人は、人間に偉大なる魂があるんだと言っている。めちゃくちゃです。)

ちょっと理性があれば、そんな与太話にはさようならと言えるのに。宗教の話なんか、怖くないのに。仏教の世界は、すべての束縛から解放されて、すべての能力を発揮して堂々と生きていられる世界なんです。信仰は必要ない。実践すればいいんです。(たとえ実践しなくても、)学んだだけでも心はしっかりしますよ。ブッダには、誰もかなわないんだからね。日本では、増谷文雄先生や中村元先生、最近は片山一良先生など、たくさんの学者がパーリ経典を翻訳しているが、学問の世界ではハンディが入る。翻訳ではパーリ語の生き生きとした意味が死んでしまうし、研究者の立場では、臨機応変に説法することはできない。学者の方々ができないことを私はやっているんです。

ブッダの言葉は厳しいのです。脳にパンチを浴びせる。目覚めるためには、ガツンと言わないと脳が回転してくれないんです。目覚めるためには、われわれの脳の働きを逆にしないといけない。そのために冥想があるのです。

(2012年5月5日 ゴータミー精舎法話と実践会Q&Aメモより)

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ありのままの自分(サンガ選書) (アイデンティティの常識を超える)
 

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