協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
<大仏とやっさんとやさしい教え>
『エ ベレスト』を見て来ました。美しいヒマラヤの山々を3D画像で見せてくれるのかも、と期待して出かけたのですが、想像していたものとは全く違う内容でし た。それでもすぐに引き込まれ、最後までドキドキしながら見入ってしまいました。世界最高峰の頂を目指して集まった人たちが、その目的を達成した後、急変 した天候によって遭難してしまった実話をもとに作られたストーリーは、山に登ることの厳しさを十分に示してくれましたが、やはりちょっと重かった。
判断の誤りは死に直結する。それなのに何故、苦労して山に登るのか?「そこに山があるから」なんてカッコよく言われると、そんなものかと感じるけれど、山に登ってみようとは考えない僕には、実のところはよくわからない。
数年前ネパールに出掛けた際、ヒマラヤの近くのホテルで中国人の女性と知り合った。彼女は20日間ほどヒマラヤをトレッキングしてきたと話してくれた。 (うろ覚えだけど)6千メートルを超えると、世界は一変するそうで、話を聞かせて頂いた時はその風景を感じてみたいと思った。でも僕はまだヒマラヤを歩い ていないし、今そうしないのは心の中で強くそれを願ってはいないから。
人間の欲求は単純で簡単なものだと、スマナサーラ長老から伺ったことがある。人間が望むのは「食べたい、もう少し眠りたい、時々散歩をしたい」程度。最近 は便利な道具があるおかげで、散歩も少々遠くまで行くことができるようになった。近所を散策するのも、エベレストの頂きにふれるのも、実はそれほど差があ ることではないのかもしれない。結局はそこに行こうと足を踏み出すかどうか、それだけのことのようにも感じる。
皆様へ
いつもお世話になっております。
プログ、メーリングリストにて案内しています、東海ダンマサークル一日瞑想会の日程に誤りがありました。
訂正をお願いいたします。
誤: ・11月22日 日曜日 9時~18時(一日瞑想会)
↓
正: ・11月29日 日曜日 9時~18時(一日瞑想会)
ご迷惑をお掛けしまして誠に申し訳ありません。当日は、日時の間違いないようお出かけください。
自主瞑想会幹事:三谷 順一
協会のfbより紹介です。
#jtba ジャータカ物語「偉大な猿王物語」
『偉大な猿王物語』Mahākapi-jātaka(No.407)
監修:アルボムッレ・スマナサーラ長老/編集:早川瑞生
これは、釈迦牟尼仏陀が、ジェータワナという町で語られたお話です。
あ る時比丘たちが、お釈迦さまが日々衆生の解脱のために休むことなく憐れみをもって心配なさっているにもかかわらず、自分の親族のためにも行うべき義務を果 たされていることを話していました。するとそこにお釈迦さまが来られ、「何を話しているのか」とおたずねになりました。比丘たちがお答えすると、お釈迦さ まは、「如来は、過去生でも一族のために行動したのだ」と、過去の物語をお話しになりました。
昔々、バーラーナシーでブラ フマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は猿として生まれました。強くて立派な猿に成長した菩薩は、八万匹の猿たちのボス猿になってヒマラヤに住んでいまし た。ヒマラヤ山に流れるガンガー河のほとりには、小山のように大きくてフサフサと葉が生い茂るマンゴーの大木がありました。その木には、ほっぺたがとろけ るほどおいしくて水ガメみたいに大きなマンゴーの実が、あふれんばかりに実るのでした。
賢いボス猿は、他の猿たちとマン ゴーを食べながら、「もしも川の中に実が落ちて流され、それを人間が見つけたならば、たいへんなことが起きるだろう」と考えました。そして、川の中に実が 落ちないよう注意して、皆にもよく注意させ、川にせり出した枝の実を小さいうちにつみ取るように気をつけていました。
とこ ろが皆で気をつけていたにもかかわらず、熟れたマンゴーの実が一つ、川に落ちて流されてしまったのです。ちょうど川の下流では、王様が川遊びをして魚を捕 らせていました。マンゴーは魚の網にかかり、漁師がそれを王に差し上げました。王はマンゴーを食べてその最高の味にとりつかれ、「この実がなっている木を 探せ」と大臣に命じました。
家来たちは方々を探し、ヒマラヤ山中のガンガー河上流にその木があることをつきとめました。王 はたくさんの筏(いかだ)を作り、大勢の家来を引き連れて川を遡(さかのぼ)りました。マンゴーの大木を見つけた王は熟れた実を拾い、思う存分食べまし た。満足した王は、その夜はそこに泊まることにして食事をとり、眠くなって木のそばに立派な寝床をつくらせて寝てしまいました。
菩 薩の猿は、猿たちと夜中にマンゴーの木にもどり、皆で果実を食べていました。その時王が目を覚ましました。王は猿たちがおいしい果物を食べているのを見て 腹を立て、猿肉も食べてやろうと思いつき、「この猿どもを取り囲め。明日の朝、射殺して猿鍋にするのだ」と家来たちに命じました。
弓矢を持った人間に狙われていることに気づいた猿たちは震えあがり、「ボス、たいへんです!我々は恐ろしい人間たちに取り囲まれています」とひどく怯えながら訴えました。
ボ ス猿はまず、「みんな、恐れなくてもいい。私がおまえたちを助けよう」と力強く言って、皆を落ち着かせました。川向こうに飛び越えると矢は届きませんが、 川幅はとても広いのです。普通の猿が飛び越えるのはとても無理です。しかしボス猿には強い脚の力があったので、すぐに向こう岸にビューンと飛び移りまし た。
ボス猿は丈夫な蔓(つる)を探し、「私が飛んだ河の幅はこの長さ、木に結ぶためにはこれだけ必要」とちょうどの長さに 切ろうとしました。そのために忙しくて自分の足に結ぶ長さを足すのを忘れました。ボス猿は、丈夫な木と自分の足に蔓の端をそれぞれしっかりと結びつけ、川 を素早く飛び戻りました。ところが、足に結んだ分の長さが足りず、木にたどり着くことができません。
それでも、菩薩である ボス猿は慌てません。両手でマンゴーの枝をしっかりとつかみました。そしてそのままで、「さあ、みんな早く、私の背中を橋にして、私を踏んで蔓の上を渡っ て向こう岸へと逃げなさい」と言ったのです。八万匹の猿たちは、「お頭(かしら)、本当に申し訳ない、申し訳ない」と許しを請いながら、言われたとおりに 次々と向こう岸に渡りました。
猿の群のナンバー2がこれを見て、密かに喜びました。「これは俺の邪魔者のボスを追い払う良 いチャンスだ」と思ったのです。その猿はわざと最後まで残って高い枝に登り、そこからボス猿の背中に思いっきり飛び降りました。勢いをつけてひどく蹴りつ けたのです。ボス猿の内蔵は破裂し、耐えられないほどの苦痛がボス猿を襲いました。ボス猿を蹴りつけた猿は、そのままそこを立ち去りました。
ブ ラフマダッタ王は、その一部始終をしっかりと見ていました。王は、「あのボス猿は、動物ではありながら、自分の命も顧みずに仲間たちを助けたのだ」と感動 し、「この猿の王を死なせてはならない。ちゃんと手当をするように」と家来たちに命じました。ボス猿はゆっくりと木の枝から下ろされ、ガンガー河で丁寧に 沐浴させられました。そして、高価な薬油を塗られ、砂糖水を与えられ、油引きの革の上に黄色い衣をかけて横たえられました。
ブラフマダッタ王はボス猿の下座に座り、詩でボス猿に問いかけました。
みずからを、踏ませてまでも
河を渡らせ、皆を救う
あなたは彼らの何なのですか
彼らはあなたの何なのですか
大猿よ
これを聞いた猿の王も、詩で答え返しました。
私は王で、彼らを治める頭(かしら)です
恐れ怯えて泣き崩れる
彼らを決して見放すものか
後ろ足に蔓(つる)をしばり
百本の矢を巧みに避け
風に飛ぶ雲のように
河をひらりと飛び越えた
マンゴーの幹にはたどりつかぬが
両手で枝をしっかりと捉えた
蔓と私を橋にして、
猿たちは無事に河を渡った
蔓の枷(かせ)は私を痛めつけず
死も私を苦しめない
彼らに平和をもたらして
王の務めを果たしたのです
王よ、これはあなたにも良い例えである
王たるものは、国、国民、兵隊、村
すべてのものに、幸せを与えるべきです
それは、政治家の務めである
こ のように王を諭す詩を唱えた後、ボス猿は亡くなりました。ブラフマダッタ王は深く感銘を受け、大臣たちを集め、猿の王の葬儀を国王と同じように盛大に執り 行うよう命じました。大臣たちは車百台分の薪の山をつくり、ボス猿をそこで荼毘(だび)に付した後、その頭骨を王に渡しました。
ブラフマダッタ王は、ボス猿の頭骨に黄金をちりばめさせました。ボス猿の火葬場にはストゥーパが建てられて灯火を灯され、香料や花が供養されました。王はきれいに飾った頭骨を槍の先につけて先頭にたて、香料や花で供養しつつバーラーナシーに戻りました。
ボ ス猿の頭骨は城内の廟(びょう)に安置され、街はきれいに飾られて、七日間のあいだ国中で喪の供養が行われました。ブラフマダッタ王は一生涯、菩薩の猿の 廟を香料や花で供養しました。そして、その戒めの教えに基づいて徳行を行い、国を公正に治めました。王はその徳により、死後、天界に生まれました。
お釈迦さまは過去の物語を終えられ、「その時の王はアーナンダであり、ボス猿を蹴りつけた猿はデーヴァダッタでした。八万匹の猿たちはブッダの弟子たちであり、猿の王は私でした」とお話しになりました。
<スマナサーラ長老のコメント>
この物語の教訓 仏教が理想と考えている政治論があります。その複雑な政治論のまとめを、このエピソードで簡単に表現してあります。王といえば、現代語では「政府・国家」になります。現代の国々が議員制度で統治されていても、最高責任者は必ずいます。
世 界中の政治家は、国より先に、自分の権力を安定させることを第一にします。第二の義務は、自分と仲間達の懐を肥やすことです。その二つの目的を全うする上 で、国民にも何か良いことが起きる可能性があります。が、ほとんどの場合は、ろくな結果にはなりません。こういう政治体制を、仏教は昔からも批判してきた のです。
仏教が批判したのは、現代のように言論の自由がある民主主義的な政治政党ではなかったのです。政府は王でしたから、専制君主なのです。批判するのは、とても危険なことなのです。
し かし仏陀は、怒り憎しみではなく政治家と国民の幸福を切願して論理的におっしゃるので、仏陀に逆らった王はいなかったのです。このエピソードでは、猿のボ スさえも、自分の命を犠牲にしてでも群の幸福と平和を守ってあげるのです。「苦しい目にあって、私は何を得るのか」とは、決して考えない。
王 になったのは、贅沢三昧で民を搾取して生きるためではなく、その民を我が子のように愛し、守ってあげる為なのです。ですから、楽な仕事ではない。国の命が 自分に委ねられているのです。菩薩の猿王が人間の王に言った「これはあなたに対しても良い例えです」という言葉が、仏教が政治家に言いたいことをダイレク トに、インパクト強く表現しているところです。
政治家が国を守った、平和にしてあげた、国民の生活を楽にしてあげた、皆を幸福にしたと言えるならば、その充実感こそが、唯一の報償なのです。政治とは、国民に痛みを伴う政治をやることではなく、自分が苦難を受けながらでも国民を幸せにしてあげる、菩薩行なのです。
◎photo:Black Howler Monkey (adult male) #2 by Ryan Poplin
▼元ページURL http://www.j-theravada.net/jataka/jataka-0407.html
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会のfbより紹介です。
#jtba「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)【55】謝罪の仕方
「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
【55】 謝罪の仕方
(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)
Q:過去に人間関係で人を傷つけたことがあります。その方に対して、これからは慈悲の心でお付き合いしていこうと思うのですが、過去においてその人が私の言動によって傷ついたことに対しては、どのようなことをしていけばいいのでしょうか。
A: 仏教は、過去にあまりこだわらない主義なんですよ。過去にこだわると生きていられないんです。過去をほじくると無数の過ちや失敗が見えてきます。過ちを犯 さない人はこの世には存在しない。問題は、過ちを犯したかどうかではなく、それに足を引っ張られてこれからの人生が不幸になることです。すべての人が過ち を犯すので、それらを悩んだり後悔したりしていると、たまったものじゃないんです。
この世に必要なのは、過ちを後悔するこ とではなく、それをバネにして、より正しく、明るく、二度と同じ過ちを犯さないように努力することです。過去は終わったことだから今更どうにもならないの です。過去の過ちに何とかしようとすることは、無理なことをしようとするのだから時間の無駄です。
もし人に対して過ちを犯したならば、それを処理する方法はいくつかあります。損害を与えたならば、それを弁償する。人を傷つけたならば、心を込めて謝る。弁償をしたくてもできないことや、それは不可能な場合もあります。その時は、正直に謝るしかないのです。
もしも相手がその過ちを全く忘れているならば、わざわざ思い出させて謝ることには注意した方がいいのです。なぜならば、せっかくそのイヤな思い出を忘れているのに、またそれを甦らせてしまって不愉快な気持ちにするおそれがあるからです。
闇雲に謝ればいいというわけではありません。相手が本当にそのことが気になっている場合に謝ればいいのです。その他の無数の過ちに対しては、それはなかったことにして、明るく行動すればいいのではないでしょうか。
Q:謝っても、相手としては、「そんなケロッと忘れられないよ」ということにならないですか。
A:忘れられない場合もあります。謝っただけでは納得がいかない執念深い人もいます。その場合は、その人の気持ちをよく理解して、相手が喜びを感じられるように色々と協力をしてあげたりなどの工夫をすることも、ひとつの方法です。
Q:「ごめんなさい」と単純に謝っても、効き目がないことが多いと思います。
A:「謝る」という行為は生きる上でたいへん大事なことです。我々が挨拶代わりに言う「ごめんなさい」とは違います。
出 家同士では、謝ることは、とても大切に真剣に行う法事のひとつです。「私は自分で気づかずに色々な過ちを犯してきたこと、さまざまな迷惑をかけてきたこと と存じます。それらすべての過ちをここサンガの前で認め、謝罪申し上げます。これからも何か過ちを犯したならば、その場で注意していただけるようにお願い 申しあげます」と、一人ひとりが謝りの儀式を行うのです。
このように真剣なしきたりに沿って謝った人に対して恨み憎しみを抱き続けることなどは、できなくなるのです。その上で過ちを忘れてあげないことは禁止されています。
こ の儀式の大事なポイントは、「これからも自分の行動に対して注意してください」と自分の生き方の主導権を相手に与えることです。それによって、我がまま奔 放に生きることはなくなるのです。また、つまらないことまで心配すると生き苦しくなりますが、それもなくなるのです。何か失敗をしようとしたところで、す ぐ注意してくれるので、気楽になります。
在家の方々も、いくらかこの生き方を真似た方がいいと思います。「何か変なことでもしたら遠慮しないでしっかりと注意してください」と、自分の主導権を社会に返した方が、幸福に生きられると思います。
Q:謝るのは勇気がいるというか、「そっちも悪いのに何で俺が謝らなきゃいけないのか」「俺も悪いけど、むしろそっちの方が悪いんじゃないか」という気持ちになるのが、ほとんどだといってもいいと思うんです。
A: 人の悪い部分については、いくらそれが大きくてもおいといて、自分の悪いところを謝ってください。それこそ人格者です。こちらで「相手の方が悪い」と勝手 に思っても、相手がそう思わないならば〈諍いの種〉〈争いの種〉になるだけです。仲良くしようとしたところが、余計なケンカで終わる羽目にもなります。
相手の悪いところだけ見えてしまう性格が、人間を品のない卑しい存在にしてしまうのです。自分は自分の悪い部分を謝って、すがすがしい気持ちで生きていれば十分です。
誰 の悪い部分が大きい(問題)かということは、わかったものではありません。第三者が事実に基づいた客観的な判断をすればわかるかもしれませんが、当事者の 判断は単なる主観に過ぎないのです。誰でも「私より相手の悪い部分の方が大きいのではないか」と思ってしまうのです。その卑しい性格をやめてください。
Q:自分が悪いということを、なかなか認めたくないところがあります。
A:普通は皆そうだと思いますよ。だからこそ仏教は、「人格者になりなさい」と奨めているのです。
勇 気を持たない人間には無理かもしれません。素直に謝ることは勇気のいる行為です。また、謝ると勇気が湧いてくるのです。自分の弱い性格がこの行為によって 直るので、仏教では謝るという行為自体を「善行為」「功徳」と言っているのです。「相手も悪かったではないか」と言って謝らない人は、自分の弱みから逃げ ているだけです。
Q:勇気を出して相手に謝っても、相手がムスッとしていて、それですごく気分が悪くなって、さらに落ち込んで暗くなる。そういう結果になるのが普通なのではないかと思ってしまうのですが。
A:そういうことで気持ちが悪くなってクヨクヨと落ち込むのであれば、それは謝ったことにはならないんです。
「自分はそれなりに頑張った。まあ、うまくいかなかったみたいだ。他の方法はないかな」と、また何か他の方法を捜せばよろしいんです。その生き方は行動的でしょう。明るいんですね。暗くなるのは悪行為で、明るくなるのが善行為なんです。
仏 教では、本当は謝るのは3回までなんです。3回謝っても許してくれなかったら「まあいいや」と終わる。もう謝る必要はない。3回謝ったら、それで自分の問 題は済んだことになります。向こうが許してくれてもくれなくても、それは向こうの問題で、こちらには関係ないということなんですね。
相 手が「許す」と言ってくれるまで、10年間もがんばって、がんばって、許してもらうまで謝り続けるということは、あんまりしない。そんなにしつこく謝りつ づけることは、どちらにとってもイヤなことです。まあ親子関係などの場合は別ですけど、普通の人間関係では、一応、3回で十分です。
1回やってみてうまくいかなかったら、また色々と工夫して2回目もやってみる。それでもうまくいかなかったら、また色々と工夫して3回目もやってみる。で、3回誠実に謝っても向こうに許す気持ちがなかったら、もう忘れたらいいのです。
「許 さない」「許す気持ちにならない」とは何ですか。それは執念深いというか、性格が恐ろしいということです。過ちを許さない人と付き合うのは、猛獣を飼って いるようなものです。「許してあげる」行為は、人格者の立派な行動です。私たちは他人の過ちを気楽に許してあげる性格を育てなくてはならないのです。
Q:懺悔誓願の文の中で「自分が受けた他の人々の過ちも許します」という言葉がありますが、それはケロッと忘れるということですか。
A:「もう済んだことなのだから、自分の足を引っぱられないようにしなさい」ということです。
過去の出来事を覚えているかいないかは記憶能力の問題です。明確に過去の出来事を覚えているならば、記憶力が素晴らしいとしか言えないのです。
普 通は人の記憶力は曖昧で、理性ではなく感情に支配されている。それが問題です。ある人は自分の過ちや失敗だけを覚えておいて、成功した経験を忘れる。ある 人は自分が成功したことだけ覚えていて、何も失敗したことはなかったような高慢な生き方をする。覚えておくならば、すべて、明確に覚えておくことです。
他 人のことになると、もっと酷いのです。人が自分にしてくれたよいことは簡単に忘れて、何か悪いことでもしたならば、それだけは何十年も覚えておく。そし て、恨み憎しみの自己破壊への道を選ぶのです。一生仲良くしてきた人でも、一回だけでも失敗したらそれでその人と縁を切るくらい、我々の性格は残酷です。
仏教は、『他人が自分に対してしてくれたことは、たとえ小さなよいことでも忘れないようにする。それに感謝をする。他人が自分にした過ちは簡単に許してあげる』そういう性格が人格者の性格だと言っているのです。
●photo:Reflection by Fe Ilya(flickr)
◎URL:http://www.j-theravada.net/qa/gimon39.html
生きとし生けるものが幸せでありますように
協会の記事ではありません。
木下全雄 さんの fb の紹介です
木下全雄
10 月30日金曜日、一般社団法人日本仏教サンガ主催の初めての勉強会が渋谷区幡ヶ谷の日本テーラワーダ仏教協会さんの本堂をお借りして開かれました。私達日 本仏教サンガは、仏教の開祖のお釈迦さまの下に集うことで、各宗派の伝統を守りつつ各宗派との和合をも尊ぶ道が開かれるのではないか、と考えて設立した新 しい団体です。私達はそのように、お釈迦さまと大乗仏教とをつなぐ道を歩み始めた伝統仏教の僧侶並びに善男善女の仏教徒の集いなのです。
記念すべき第1回目のご講演は「お寺で活かすお釈迦さまの智慧」という内容でスリランカ仏教界の重鎮スマナサーラ大長老にお話していただきました。このと ころ活気を失いつつある日本の仏教界ですが、社会に必要とされるお寺作りということでスマナサーラ大長老は10の提言をお示しくださいました。13時から 15時の予定でしたが、途中議論が白熱して終了は16時頃でした。スマナサーラ大長老、大変貴重なご講演ありがとうございました。
終了後さらに3時間ほど僧侶メンバーが残り、現状報告と意見交換をしました。その時に僧侶の中からは、早速実践に移せそうなヒントをたくさんいただけた、 という喜びの声が聞かれました。また「私は獅子舞の公演や演技指導ができます。一緒に獅子舞やりませんか?」という伝統芸能技術保持者の方からありがたい お申し出も講演会の後にあり、仏教のある明るい社会作りに向けて着実な一歩を踏み出せた勉強会となりました。
ご参加くださった方のうち、ご芳名をいただけた方は36名様。ご寺院関係の方も15名様ほどご参加くださいました。全体を通して一部参加の方も入れると 60名様ほどがご参加くださっていらしたようです。またご参加の方々よりたくさんのご喜捨を頂き、総額は84,000円となりました。この場をお借りして 御礼申し上げます。また会場を快くお貸しくださり、さらにお食事までもご準備くださり、慣れない日本仏教サンガのメンバーに的確なご指示をくださり、終始 協力を惜しまずに全面にわたりサポートしてくださいました日本テーラワーダ仏教協会さんの皆さまにも心より感謝申し上げます。
これからも仏教のある幸せな社会作りをしていきたいと思っておりますので、日本仏教サンガの活動にご協力くださいますようお願い申し上げます。
一般社団法人日本仏教サンガ 代表 木下全雄
協会のfbより紹介です。
#jtba 電子書籍(AmazonKindle)新刊:スマナサーラ長老『「宝経」法話: Ratanasuttaṃ』
「宝経 Ratanasuttaṃ(ラタナスッタン)」は仏法僧の三宝たる由縁を語る仏教の基本経典のひとつです。釈尊在世当時から護経として人々に親しまれ、現 在でもテーラワーダ仏教圏の法要では必ず唱えられています。本書ではこの「宝経」をパーリ語の原典に即してスマナサーラ長老が一偈ずつ丁寧に解説します。 ブッダの教えのエッセンスを知ることができる最適の入門書です。
※ただいま予約受付中です。
協会のfbより紹介です。
『来たれ、見よ Ehi passiko』~どんな人にもチャレンジできる仏教実践~
『来たれ、見よ Ehi passiko』~どんな人にもチャレンジできる仏教実践~
はじめに
仏 教は誰にでも理解でき、誰にでも実践することができる教えです。だからといって、仏教の話しをいい加減に聞かれたら困ります。というのも、「誰にでも理解 できる」ということは、つまり「並大抵のことではない」という意味なのだから。高い教育を受けた人も、受けていない人も、男性も、女性も、高齢者も、子供 も、大企業の社長も、ホームレスも、誰にでも理解できるというのだから、これには何か深い意味があるのです。あまり軽々しく、いい加減に理解するのはよく ないという意味でもあります。
先に結論を申しますと、なぜ「誰にでも理解できる」と言うのかというと、仏教はどんな人にも 関係があり、すべての人に共通することを教えているからです。人だけではなく、生命全体に共通することを説いているのです。すべての生命に関係があること ですから、誰にでも「分かりやすいはず」です。「分かりやすい」ではなく、理解しようとしない人には理解できませんから、「分かりやすいはず」なのです。
第1章 仏教は平等である
Ehi passiko ― 来たれ見よ
Come and See 「来て、見てください」。これは仏教の有名なスローガンです。パーリ語では、Ehipassiko。いわゆる仏教は世間の人たちに向かって自由に話しかけ ています。すごい教えだから信じなさい と強引に押し付けるのではなく、ちょっと試してみたらいかがでしょうか、見てみたらどうでしょうか、という自由な態度をとっています。誰が来て、何を調べ ても、こちらは大丈夫です、というかなり強気の態度でもあります。誰でも "Come and See" 来て見てください。どうでしょうか、と。教えには自信がありますし、万が一欠陥があるということはありません。それで、これはどういう意味なの かと話を進めていきたいと思います。
差別社会の中で現れた仏教
なぜ仏教は "Come and See" 「誰でも来て見てください」と言うのでしょうか? それは仏教が 「平等の概念」を持っているからです。では、平等とはどういう意味でしょうか?
仏 教は、差別が激しい社会のなかで現れました。お釈迦さまの時代、インド社会にはひどい差別があり、裕福な人は極端に豊か、貧しい人は極端に貧しかったので す。金持ちは地方一つぐらいの土地を持っていましたし、貧しい人は何も持っていませんでしたから他人の土地を借りるか、奴隷として生活するか、あるいは路 上で生活しなければなりませんでした。このようにインド社会には激しい差別があったのです。
宗教にも激しい差別がありまし た。とくにバラモン教は極端に差別主義で、「バラモン教という神の教えはバラモン人だけの特権であり、一般人には知る権利がない。だからヴェーダ聖典を読 んではならない」と言い、すごい差別をしていました。神にお供えすることは、バラモン人以外の人にはできないのです。今の時代でもこれは変わらず、もしイ ンドに行く機会がありましたら試しにヒンドゥー寺院に行って、お供えをしたいと言ってみてください。いくら豪華な供え物を持って行っても、自分でお供えす ることはできません。そちらにいる専門化のバラモン人が神に捧げないと、神は受け取らないそうです。
このように、社会には激しい差別があったのです。このような差別主義のまっただ中で、仏教は貴賤の別なく、「平等」ということを説いたのです。
...協会のfbより紹介です。
#jtba【法話】「死んだら終わりですか?」スマナサーラ長老 質疑応答
Q:ガンになって抗がん剤治療を受けた。つらいので死んでもいいと思った。自分の考えだと死んだら終わりだと思っていた。スマナサーラ長老の本を読んでたらどうも違うらしいと...悟らないとまた同じことの苦しみが続くんじゃないかとこのごろ思ってる…。
◎法話ダウンロード(約1時間)
https://drive.google.com/…/0B59ftD8hZk1URUFob3B0aGVjcDQ/view
※ダウンロードしてお聞きください。
※クリックすると「No preview available」と表示されることがありますが、右上にDownload ボタンが出てきます。クリック後[The file exceeds the maximum size that we scan.] or(ファイルがスキャンの上限サイズを超えています)と出ますので「Download anyway」をクリック(出ないときはそのまま続けてください)。gmai等IDをお持ちの方はログインするとダウンロード、保存ファイル名など調子が いいようです。
▼元ページURL「β関西活動報告」
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/1803866.html
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会の記事ではありません。
木下全雄 さんの fb の紹介です
木下全雄
ど んな神様を信仰しても良いと思います。が、私達の身の回りの物何一つとして自分で作った物はありません。様々な国の様々な生命のお陰で私達の命が成り立っ ているのです。信仰の違いということだけで殺し合うならば、その当たり前の事実を否定しています。動物のようなおびえた洞窟暮らしの原始時代に戻れという のでしょうか?生きとし生けるものが幸せでありますように、という仏教の教えに全ての信仰を持った人が耳を傾けてくれたならば嬉しいです。
協会の記事ではありません。
サークル仲間の一日一誤日記です。
葛原 良和さん
スマナサーラ長老ご指導
誓教寺仏道実践会
瀬戸内海に浮かぶ島々のパノラマを一望できる岩国市銭壷山山頂の宿泊施設において、合宿仏道実践会を開催します。
緑に包まれた静寂な環境での 6 泊 7 日。世俗の世界を離れ、ひたすらヴィパッサナーに専念できる稀有な機会です。
というキャッチコピーに乗って山口県由宇青少年自然の家にての一週間の合宿に行ってきました。
朝・夕の読経の時間以外はプログラム・フリーにて、電話やメールやネットに繋がることの無い、集団生活ですが、無言にての自由行動での一人生活でした。
生きているということはいったいどういうことなんだろう、どうなっているんだろうと、瞬間、瞬間、自分のこころと身体に生じる現象を観察し、確かめ調べることのできる環境を用意していただきました。
スマナサーラ長老、誓教寺さん、スタッフのみなさん、ありがとうございました。
協会のfbより紹介です。
#jtba「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)【61】 おかあさんは不思議だ
「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)
(皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)
今回も前回につづき、小学校三年生の女の子からの9つの質問に答えていきましょう。質問のリストは下の通りです。今月は5番目の質問です。
1.私は何のために生まれてきたのですか?
2.今何をすればいいのですか?
3.今はどんな生活をすればいいのですか?
4.今の人気があるのはなんでですか?
5.お母さんはどんなに大切なのですか?
6.なんで人は笑うんですか?
7.なんで人は泣くんですか?
8.お金はどんなものですか?
9.今何を勉強すればいいのですか?
Q:5.おかあさんはどんなに大切なのですか?
A: 「おかあさん」は、この世で替えることの出来ないたった一人の人物です。我々のことを正直に、こころの底から心配してくれる唯一の人です。自分のことより も子供のことを大事に考えてくれる。正直に応援してくれる。励ましてくれる。時々子供が大人になってから、母のことをイヤになったり、ケンカをして別れて ひとりで生活するようになったりしても、母のこころは変わりません。母は真剣に子供のことを心配する。「幸せでいてほしい」と日々願っているのです。
親 を殴る恐ろしい子供も、たまにこの世にいますね。オッパイをあげて、オムツを替えて、一生懸命育てた子供に殴られて怪我をしても、殺されかけても、母は心 の中で、「どうか、この子は幸福で、真面目な人間になるように」と思うのです。どんな人にもこの大事な人がいます。誰にでもおかあさんが一人いることは、 最高に幸福なことです。友達はイヤになったり、邪魔をしたり迷惑をかけたりするなら、つきあいを止めて他の人と友達になれば良いのです。しかしおかあさん は絶対替えられません。
★なぜおかあさんは怒るのか
子供のことをそんなに心配しているならば、なぜおかあさ んはしょっちゅう怒ったりガミガミ言ったりするのですかね。それはおかあさんが自分の大切な仕事だと思ってやっているのです。誤解してはいけません。決し ておかあさんは子供のことを怒っているわけでも、嫌になっているわけでもないのです。我々のことを心配している。私達の性格は私達自身よりもおかあさんが 知っている。どんな苦労をしてでも子供を立派な人間として育て上げるのはおかあさんの仕事です。おかあさんは怒っているのではなく、自分の仕事を一生懸命 やっているだけです。
雷が落ちたように怒っていても、おかあさんのこころはまったく違います。自分が死んででも子供を守り たいのです。母は子供が危険なことに遭わないように、必死で見張りをしているのです。この大事な母がいるからこそ、私達はわがまま放題で生きていられるの です。母は自分に命を与えた神さまで、何でも教えてくれる大先生で、苦しいときは一緒にいてくれる第一の友達です。間違いを直してくれる、世の中で恥をか かないで生活できるように指導してくれる先輩でもあります。ですから、おかあさんがいくら怒っても誰も気にしないのです。母の怒った顔なんかは2,3秒で 優しい笑顔に変わるものです。
★でもおかあさんはうるさすぎる、と思う
「おかあさんは何でも知っていて、疲 れない、力持ちだ」と子供たちは思っていますが、おかあさんも普通の人間です。一人の赤ちゃんを立派な大人にしてあげるという、この世で一番難しい仕事を まかされているのです。ですから、すごく心配する。間違っていないかといつも独りで悩む。子供を叱っても、ひとりでこころの中で泣くのです。
赤 ちゃんの育て方なんか教えてもらっている訳ではないのです。若い女の人は、子供を産んで初めておかあさんになるのです。子育ての経験もなく、抱き方さえ も、あまりわからないのです。誰も代わりに赤ちゃんを育ててくれるわけでもありません。赤ちゃんも自分を産んだ母親以外の人は、それほど好きではないので す。そこで何も知らないおかあさんが、一人で夜も寝ないでがんばるのです。
それでも、おかあさんは失敗しません。おかあさ んには「愛情」というすごい味方がいるのです。愛情があるからがんばっているのです。愛情があるからそんなに失敗はしないのです。この世には悪い人間はと ても少ないでしょう。それより真面目に生きている人間の方がはるかに多いでしょう。それは世の中のおかあさんたちの成果です。
し かし忘れてはいけません。おかあさんも普通の人間です。母も失敗する、間違いもある、誤解もする、疲れる、ストレスもたまる、たまにやってはいけないこと もやってしまう。普通の人間だからしょうがないのです。子供はわがままで、おかあさんの弱いところは見ようとしないのです。何でも完璧にやってくれると 思っているのです。それは無理な話です。おかあさんは完璧でなくても良い。たまに間違いをしてもいい。完璧な母よりは、ときどき失敗するおかあさんがかわ いい。子供には、おかあさんの絶対的な愛情だけあれば充分だと思います。
母親の失敗や、怒ることなど、気にしない方が正し いのです。母の失敗だったらいつも許してあげることは子供の責任です。完璧な母はいません。しかし、自分のことを絶対的に愛してくれる、心配してくれる人 も母しかいません。母というのは一生感謝をしても足りない存在なのです。母だけではありません。父親も同じです。この二人は神様より大事にしなさいとお釈 迦さまがおっしゃるのです。「おかあさんとおとうさんは完璧であってほしい」と子供たちはおかしなことを思っているから、時々おかあさんもおとうさんもう るさいと思うのです。
★おかあさんに逆らうのは悪いこと?
生まれてきた人間は皆自由です。何でもかんでも母 が言うとうりにする必要はないのです。母はすべてを知っているわけではありません。自分の生き方は自分で決めなくてはなりません。何をしても母が賛成して くれるなら、必ず成功します。そう簡単に賛成してくれないときもあります。そのときは、泣きながらでも話し合ってみることですね。「私は反対ですが、やり たければ勝手にやりなさい」と言う場合もあります。それも本当は賛成ということです。そのとき「ありがとうございます」と言ってやってみると、成功すると 思います。母は絶対的に大事ですが、子供は母の奴隷ではない、ということも覚えておきましょう。母は子供が自分に適した人生を築くために、全面的に協力し てくれる後援者なのです。
★おとうさんはどこに行ったの?
おかあさんがつきっきりで子供の面倒を見るからと いって、子供たちがおとうさんのことをあまり気にしないのは良くないことです。おかあさんとおとうさんはワンセットで考えなくてはなりません。おとうさん もおかあさんに負けないほど、子供のことを心配するのです。おとうさんの応援がなければ、おかあさん一人では子育てはうまくいかないのです。
今 までおかあさんはどれほど大切かと長く書きましたが、その説明はおとうさんについても同じです。ですから、おとうさんとおかあさんはワンセットで考えて、 大事にするのです。この二人は上手に協力し合って子育てをするのです。おかあさんが怒るとおとうさんは優しくしてくれる。おとうさんが怒るとおかあさんが 慰めてくれる。おかあさんでは子供が手に負えないときは、おとうさんに任せる。おとうさんの言うことを聞かない場合は、おかあさんに任せる。子供が一人前 になるまで、このように、この二人は互いに協力してがんばるのです。
子供たちのこころに、おとうさんのことがそれほど大きく見えないことは悲しいです。生きる楽しみが半分に減るのです。世の中が明確に見えるように、人には目が二つあります。こころの中におかあさんもおとうさんも一緒に住んでいるならば、その人はたいへん幸福です。
★大人にはおかあさんがいらないの?
こ れは大きな問題です。大人になったら両親がいなくてもいいという態度で生活する大人は、優しい人間ではありません。恩知らずです。両親のことを忘れるな ら、その分大人の幸福も減っていくのです。親のありがたさは、自分が死ぬまでつづくものです。どんな大人もこれを忘れてはいけないのです。
子供と違って大人は、親に甘えてはいけないのです。大人の仕事は、親の面倒を見ることです。親孝行をすることです。今月号の「根本仏教教義」に親孝行について詳しく説明してあります。親孝行をする大人は、信頼できる立派な人間です。
仕 事を探したり、家族の世話で精一杯、田舎は遠い、お金の余裕がない、などと言って、親の面倒を見るのをサボる大人もいます。その人々は、親のことで手を焼 くと自分が損すると思っているようです。しかし真理は逆です。親の面倒を見ないと損するのです。親の面倒を見ない人は、幸福になろうと踏ん張っても、努力 が割に合わない結果になるのです。自分の子育ても失敗するのです。
仕事というのは難しいものです。競争も激しいものです。裏切りも、詐欺も、騙しも多いのです。生きる戦いで誰もが疲れています。ストレスが溜まって、病気にもなります。このような時は、たとえ歳をとっても、親は精神的な安らぎを与えてくれるのです。
●photo:Sjoerd Lammers street photography by Sjoerd Lammers(flickr)
生きとし生けるものが幸せでありますように
協会のfbより紹介です。
#jtba【法話】「輪廻転生と因果法則」(Dhammacast)
▼「輪廻転生と因果法則」~幸福になるための心の管理法~(64分)
http://www.j-theravada.net/podcast/2011_0910gotami_howa.MP3
2011年9月10日、法話と冥想の会(ゴータミー精舎)でのスマナサーラ長老ご法話を配信いたします。
「輪廻転生、業、宇宙のこと、心の働き。この四つは人間の知識範囲では、いくら調べても知り尽くすことができない、とお釈迦さまは説かれました。この四項目は放っておいて下さいと。
では我々は何を調べるべきなのかというと、お釈迦さまは『自分の人生を調べて下さい』と説かれたのです。
私は何者か、何をやっているのか、何を考えているのか、いったい生きているとはどういうことか、とかね。そこで自分を知り尽くしたところで、自分を乗り越えて解脱に達することができますよと。それをできれば全部知ったことになりますよと。
自分が何者かと調べる人にとっては、お釈迦さまが放っておけと言った四項目についても、よくわかってきます。なるほど、こういうことかと理解できるのです。
お釈迦さまは因果法則、因縁論というものを説いたのです。この因果法則に、すべてが入っているのです。輪廻転生は人間には知り得るものではありませんと説いたのですが、輪廻転生も業も、因果法則なのです。
ですから私たちは何をするのかというと、因果法則を学んでみるのです。学んでみると証明できるものは自分で実証してみるし、理論で達せるものは理論で達してみるのです。」(法話メモより)
◇元ページURL
http://gotami.j-theravada.net/2011/09/dhammacast-105.html
~生きとし生けるものが幸せでありますように~