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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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#jtba ジャータカ物語「ウドゥンバラ樹とオウムの話」





協会のfbより紹介です。





日本テーラワーダ仏教協会

『ウドゥンバラ樹とオウムの話』 Mahāsuka-jātaka(No.429)
監修:アルボムッレ・スマナサーラ長老/編集:高橋清次
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ある比丘について語られたものです。
...









facebook | 11:59:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
12月20日(自主瞑想と お話し会 )のスケジュール





東海ダンマサークルの主催行事です。





皆様いかがお過ごしでしょうか?
 早や12月も半ばが過ぎ、東海ダンマサークルの行事も残すは自主活動ばかりとなりました。そこで、この20日(日曜日)は自主瞑想会に加え、お話し会を設けることにしました。内容とスケジュールは次の通りです。ご都合がよろしければぜひ参加ください。
                記
12月20日(自主瞑想とお話し会)のスケジュール
     9:00~13:00  自主瞑想
    13:30~15:00  ス・マナサーラ長老講演「妄想をやめたとき」鑑賞
15:00~17:30  上記講演の感想とお話し会
・場所 :刈谷市総合文化センター和室(3階)
   URL : http://www.kariya.hall-info.jp/index.php?menuID=5
・交通 : JR名古屋駅~刈谷駅(新快速17分)南口から西へ徒歩3分
      名鉄名古屋駅~知立駅(乗換)~刈谷駅(38分)南口から西へ徒歩3分
  車 : 総合文化センター駐車場が隣接しています。
   ※隣のショッピングセンター「みなくる」の駐車場入口と間違いのないように注意ください。
・連絡先:三谷   携帯:090ー9897ー2882
  メール:mj888jp@ybb.ne.jp

 講演テーマ「妄想をやめたとき」は、USTREAMで配信されていますので、すでに観られた方もおられるかと思いますが、改めて皆様と鑑賞し感想などをお話しできればと思います。

 講演では、妄想を止める基本的心得が語られています。妄想と思考の違い、妄想のからくりについて。実践ではとても難しいことであり意味深いことでありますが、わかり易く誰にもすぐ実践できるように語られています。必見のテーマです。

 なお、参加費は必要ありません。また瞑想だけ、お話し会だけ、でも結構です。出入りの時間は自由ですので、瞑想会には参加したことのない方も、「どんな場所か?」と一度、見学がてらに気軽に参加されてはいかがでしょうか。興味のある方は、この機会に万事繰り合わせのうえお越しください。お待ちしております。

                                三谷









刈谷自主冥想会 | 08:41:01 | トラックバック(0) | コメント(0)
#‎jtba‬「怒りがあるとき、怒りのないとき」~素直に聞く難しさ~





協会のfbより紹介です。





日本テーラワーダ仏教協会さんの写真
日本テーラワーダ仏教協会

‪#‎jtba‬「怒りがあるとき、怒りのないとき」~素直に聞く難しさ~

 人間ですから、判断に間違うこともあります。理性を働かせていても、いつも必ず正しい判断ができるわけではありません。ミスや失敗は起こります。間違ったのですから、その結果はよくありません。それは当然のことです。自分がやったことに対するそれなりの結果がついてきただけです。

 だから、べつに感情的になるような話ではないのです。ところが、自我に囚われていると、結果に文句を言いたくなるのです。もっともはっきり表れる感情が 「怒り」です。たとえば、あなたが車を運転していて、交差点で信号待ちをしていたとします。後ろの車の人がクラクションを鳴らしました。青信号に変わって いるのに、あなたがすぐ発信しなかったからです。

 そのクラクションを、「青信号なのに何しているんだよ、さっさと行けよ」というふうに受けとめてしまうと、カッとなります。「なんだよ、ほんのちょっと気づくのが遅れただけじゃないか、うるさいな」と相手に対して怒りの感情を抱いてしまいます。

 些細な出来事なのに、人間はクラクションの音ひとつで「自分を否定された」と激しく思い込んで怒り、大ゲンカをしたりすることがあるんですね。でも、 「あっ、青信号にかわっているのを教えてくれているんだ」と思えば、バックミラーを見ながら「悪い、悪い。教えてくれてありがとう」と手を上げて挨拶して 終わりです。

 どちらが自分にとっていい結果かといえば、怒らずに、和やかに対応するほうに決まっています。怒りがなければ苦しみがないのです。ブッダの言葉にこういうものがあります。

 欲があるとき、苦しみがある。
 欲がなければ、苦しみがない。
 怒りが生まれたら、苦しみが生まれる。
 怒りが消えれば、苦しみが消える。
 悪い行為をすれば、悪い結果がある。
 善い行為をすれば、善い結果がある。

 怒るというのは自我に囚われた状態です。どんな理由があろうとも、正当な怒りというものはありません。怒りは悪、悪い結果しかもたらしません。自我に囚 われた状態というのは、自分サイドからの一方的な視点でしかものが見えていない視野狭窄の状況です。事実がきちんと見えていない。見えていないのですか ら、他の人が教えてくれていることを素直な気持ちで聞く必要があります。

 苦しみたくないのなら、理性的な人間になって正しい選択をしたいなら、つねに怒りの感情をも持たないように心がけることが大事なのです。

●photo:RAF Firefighter by Defence Images〈flickr〉
▼参考テキスト
新刊「もう迷わなくなる最良の選択」
http://amzn.to/1MVHRso

~生きとし生けるものが幸せでありますように~










facebook | 15:07:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
#‎jtba‬【法話】「真理と道徳は分けられない」(Dhammacast)





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬【法話】「真理と道徳は分けられない」(Dhammacast)

▼「真理と道徳は分けられない」(120分)
http://www.j-theravada.net/pod…/2009_1027gotami_an_4-185.mp3

2009年10月27日、ゴータミー精舎で行われたスマナサーラ長老のパーリ経典解説の音声をpodcast配信いたします。

 今回のテキストは、Aṅguttaranikāyo Catukkanipātapāḷi 5. Brāhmaṇasaccasuttaṃ 増支部4集「婆羅門真諦経」です。異教の遊行者との対話を通じて、ブッダの説かれた真理の偉大さが浮き彫りにな るスリリングな経典講義です。

 ......バラモン人がみな「殺生するなかれ」と言っているわけではないのです。しかし「殺生してはいけない」というバラモンもいた。それは本当のこ とを言っているんだよと、釈尊は超越した悟りの智慧で語るのです。一般人は「殺生してはならない」と(ただ)いう。釈尊は、それが真理であると発見する。
 
 ポイントは、生命に害を与えてはならないということは誰でも言っていることですが、ある修行者は瞑想して得た覚りの智慧で、「あ、この人たちは本当のこ とを言っているんだ」と発見することです。かといって、その人は自分がエライ宗教家だと思っていない。バラモンだと思っていない。優れた人間だとも思って いない。私の智慧は皆と同じになったとも思わない。他人よりレベルが低いとも思わない。しかし、発見した事実・真理があるから、その真理によって、生命に は一切害意を持たずに憐みを持って生活する。
 
 それは、釈尊のことを言っているのです。すごいことを発見したからと言って、自分がエライ修行者だとは思わない。そんなような気持ちは一欠けらもない。 ただ真理を発見した。その発見した真理によって生きている。生命に対する憐みをもって......。それが本物の生き方なんです。
 
 釈尊にはまったく自我が無い。「あなたは何者ですか?」と問われても、答えが無いんです。「われは神である」とか「我こそは仏陀である」とか、そういう 人々は誇大妄想という病気なんです。ほんとは治療すべきなんですけど......その代わりに、皆で拝んでいるんですね。
 
 釈尊はこれほどの真理を発見しているのに、自分、という立場が消えている。自我が無い、実体がない境地に達しているんです。......(スマナサーラ長老の講義メモより 文責:佐藤哲朗)

パーリ語のテキストは、以下のリンク先からダウンロードしてください。
http://gotami.j-theravada.net/2009_1027gotami_sutta_AN_4-18…

◇元ページURL
http://gotami.j-theravada.net/2009/10/dhammacast-92.html

~生きとし生けるものが幸せでありますように~










facebook | 14:08:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
2015年に出たスマナサーラ長老の本





協会の記事ではありません。
佐藤哲朗さんのブログの紹介です。





2015年に出たスマナサーラ長老の本

本の話題

もう師走なので、今年(2015年)に刊行したスマナサーラ長老の本をまとめておきたいと思います。特に力を入れたキンドル作品については別記事を用意します。新刊と文庫化(新書化)、新装版の刊行など。

 

 無我の見方―「私」から自由になる生き方 (サンガ新書 64)

2012年に出た同名書の新書化。単行本として出た当初はあまり話題になりませんでしたが、本書は間違いなく長老の代表作の一つになります。知的な読み物として面白い上に、日本語で仏教の「無我」を論じる際の基準点になる、非常に高度な内容が論じられています。テーラワーダ仏教のみならず、大乗仏教で展開される複雑な空解釈に分け入ろうとする人にとっても、本書は「命綱」のような役割を果たしてくれるでしょう。

 

[新版]13歳へ 13歳のチカラが世界を変える
 

[新版]13歳へ 13歳のチカラが世界を変える

2010年刊『13歳へ――よい親も、よい先生も、あなた次第』を大幅に改訂した作品です。底本は兵庫県宝塚市の雲雀丘学園中学校での講演を収録しましたが、新版には兵庫県洲本市の柳学園中学校での講演(第一部)と、書き下ろしのまえがきも追加しました。長老が若者向けに書き下ろした著作には、自由の森学園高等学校での講演などをまとめた『ブッダ―大人になる道 (ちくまプリマー新書)』(ちくまプリマー新書)が読み継がれています。本書もロングセラーになってほしいものです。

 

 老いを自由に生きる~とらわれない・持たないブッダの智慧~ (だいわ文庫 B 176-2)

2012年に刊行された『老いと死について』の文庫版です。単行本からの変更はありませんが、文庫読者層の中心である四〇代にアピールしたいとの版元の要請で改題しました。

 

沙門果経―仏道を歩む人は瞬時に幸福になる(サンガ文庫)

2009年に出た単行本を文庫化したものです。沙門果経(長部2)は釈尊が阿闍王の問いに答えて仏道実践の概略を壮大なスケールで語ったパーリ経典です。前半部は釈尊在世のインド思想入門、後半は釈尊自らが語る仏教入門、といった構成になっています。この大部の経典を哲学的な教養の宝庫として、また実践の確かな手引きとして魅力たっぷりに解説されたスマナサーラ長老の力量には改めて感嘆せざるを得ません。文庫化にあたっては、細部に加筆修正を施しました。

 

苦の見方 「生命の法則」を理解し「苦しみ」を乗り越える (サンガ新書 65)

既刊『無常の見方―「聖なる真理」と「私」の幸福 (サンガ新書)』『無我の見方―「私」から自由になる生き方(サンガ新書) (サンガ新書 64)』に続いて、真理の三相(無常苦無我)のひとつ、苦(dukkha)について詳しく解説した新書書下ろし作品です。苦(dukkha)=苦しみという誤解を正しながら、「自分が昔も今も語ったのは『苦』と『苦を滅する方法』である」というブッダの言葉の真髄に迫ります。

 

やめたいことは、やめられる。

やめたいことは、やめられる。

 

 やめたいことは、やめられる。

「やめたいけど、やめられない」という人間の葛藤をいかに解決してゆくか? というアプローチで、冥想という言葉すらも用いずに、仏道実践のスター ト地点からゴールまでを次第説法の手法で緻密に説き明かした新機軸の書下ろし著作です。仏教の根本概念である「中道」についても、さらりとすごいことが書 かれています。

 

ブッダの言葉 (インプレスカレンダー2016)

今年も刊行されました。ダンマパダから厳選した珠玉のことばを書家が筆書きし、スマナサーラ長老が解説を加えた月めくりカレンダーです。プレゼントなどにもどうぞ。

 

 [新装版]ブッダの日常読誦経典[完全版 CD BOOK]

2011年に出た同名読経CDブックの新装版です(経典本がビニール表紙からハードカバーに変更)。よりお求めやすい価格になったのでお持ちでない方はぜひ。

 

もう迷わなくなる最良の選択: 人生を後悔しない決断思考の磨き方

書下ろし新刊です。人生の岐路に立って、私たちは優柔不断になったり、捨てた選択に後悔したりします。人はなぜ選択に迷ったり、後悔したりするのでしょうか? 本書は、最良の選択をして心穏やかに幸福に生きていくための極めて実践的なレッスンを紹介します。養老孟司先生推薦。売れてま~す。(^^♪

 

ブッダが教える意志力の鍛え方 (だいわ文庫)

2013年に大和書房から刊行された『人生を変える練習。~ブッダの「意志」強化術~』の改題文庫化です。意志の弱さや根気のなさを克服するお釈迦様の処方箋が明快に語られた本です。文庫化を期に新たな読者と出会えますように。

 

以上です。今年は電子書籍の 新刊のほうが多い印象でしたが、紙の本もけっこう出ていましたね。そんで来年1月末には今年一年の編集者としての労力のほとんどを注ぎ込んだ(気分的に は)大作『「大念処経」講義』が刊行される予定です。いま鋭意校正中ですけど、編集してる本人がいちばん楽しみにしています。

 

~生きとし生けるものが幸せでありますように~










お知らせ | 09:03:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
「自分自身を考える」------サークル仲間の徒然日記です。





協会の記事ではありません。
サークル仲間の徒然日記です。





「自分自身を考える」

人助けで活躍した早川一光医師が病人になって夜が怖い、自分がこんなに弱いとは思ってもいなかったと言われている。

人生の土壇場になると自信の陰に隠れていた弱い心が現れる。実は私は孤独に耐えられない。どうにもなりません・・・

さて二つの道がある。感情思考で生きていく。理性思考を育てながら悔いのない人生をやろう。

誰でも悔いなきようにとは願う。ここで二つあり。

やっぱり自分発想でやりい。
否自分は頼りない。

心のことは無知なので強い心を育む智慧の道で自分自身を考え人生を大事にしてやる。









徒然日記 | 14:54:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
前回に引き続き「中日文化センターさん」での講義資料でした。お読みくださり、ありがとうございました。





協会の記事ではありません。
木下全雄  さんの fb の紹介です





悟りの世界を目指す
この世の全てのものは無常です。しかし私達は、あの人が悪い、あの人は間違っていると思ってしまいます。大切な人も物も失いたくはないのです。無常ですか ら「あの人」も「私の大切な◯◯」ということがそもそも成り立たないのですが、それを忘れて「人がいる」「物はある」という大前提で考えてしまい、主観を 強化し自我を強化しているのが私達の現状です。その結果、欲や怒りや悩みや落ち込みが生まれます。
実際には「人がいる」と思ってしまった時点で、無常がわかっていない、ということです。人様の意見も「真理」ではなく「主観」ですから、何かを否定されても「人間として否定された」のではなく、単なる「主観」の違いですし「否定された人」さえもいないのです。
あるがままを知るならば、「見ています」とか「◯◯と思っています」で止めるしかないのです。そしてその状況に対してどのように対応すれば良いかだけを理 性的に道徳的に、状況に応じて考えて決めれば良いのです。なぜならば全てが刻々と変化しているのだから、希望も執着も依存も感情も絶対的な真理としては成 り立たないです。怒る相手も欲の対象も刻々と変化していることを当然のこととして受け入れるしかありません。しかし「主観」が邪魔をするので、その理性的な判断がすぐには誰もできないのです。
あらゆるものが無常であり、私という自我さえも成り立たないという事実が体験として分かるためには、少しずつ主観を、つまり希望・執着・依存・感情といっ た「渇愛」を薄めなければなりません。そのためにヴィパッサナー実践では、実況中継を行い主観がしゃしゃり出ないようにするのです。「無常のありのままの 観察」こそが、悟りの世界と言えると思います。

仏教を生活に生かす
一切は無常であることがわかると、今の瞬間になすべきことをするだけだと分かります。生きとし生けるものに対する慈しみの心も「慈悲の冥想(宿題その 1)」で育てます。五戒も努力して道徳も身につけたいものです。家族だけでなく全ての生命が平等であると分かると、義務感よりも慈しみの人間関係を大切に して、課題の分離も考えるゆとりが生まれます。人生を目的へと向かう過程と考えてしまうと焦りや落ち込みが生まれます。しかしヴィパッサナー実践によって 今していることを目的とすることで、一切の苦しみを乗り越えることまでもできるのです。

妄想を絶ってこそ光が見える
私達はしばしば、人生に行き詰ると智慧で解決するのではなく、拝むことで乗り越えようとします。手助けしてくれてかつ正しく幸せな道に導いてくれるような 神様や仏様がどこかにいてくださいますかね。神様や仏様が私達のどんな自己中心的な願い事も聞いてくださるならば、なんて私達の人生は安泰なのでしょう か。しかしもちろん、そんな仏様はいらっしゃいません(笑)しかも残念なことに、どれだけ真剣に拝んでも智慧が生まれる事はないのです。
人生の様々な問題に対する根本解決は、妄想を切る、というお釈迦さまが教えて下さった修行しかありません。私達は普通、自分が妄想している事に気付きませ ん。妄想を止めようとしてみると、実は頭の中は妄想だらけだ、という事実に気付きます。妄想は勝手に生まれています。しかも止めようとしてもなかなか止ま りません。そして、その妄想のために、私達の心は振り回されて人生は行き詰まり苦しんでいるのです。この妄想をシャットアウトすると智慧は勝手に生まれま す。無常がわかり、無我がわかり、一切皆苦を体験していくのですから、その結果真理と向き合える智慧が育つのです。智慧を開発し現実を生きる道、これが ヴィパッサナー瞑想です。

前回に引き続き「中日文化センターさん」での講義資料でした。お読みくださり、ありがとうございました。

木下全雄さんの写真
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Be Happy! | 09:01:37 | トラックバック(0) | コメント(0)
#‎jtba‬【Ustream動画】スマナサーラ長老『妄想をやめたとき』※期間限定公開





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬【Ustream動画】スマナサーラ長老『妄想をやめたとき』※期間限定公開

2015月12月04日(金)18:30~21:00
「妄想をやめたとき」~実践の効果とは~
講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老

◎前半(約85分)
http://www.ustream.tv/recorded/79383309

◎後半(約43分)
http://www.ustream.tv/recorded/79387130

思考のチェックポイント:
①この考えは役に立ちますか?
②結論のある思考ですか?
③日常生活に邪魔ですか?
④感情をかき回しますか?鎮めますか?

皆やってるのに、なぜ妄想は悪い?
・大量の時間が浪費する
・正しい判断できなくなって、主観・感情で判断して実行するので、すべて失敗で終わる。(妄想の結果は万に一にも正しくならない)
・妄想は貪瞋痴の感情が引き起こすので、それ自体が悪を犯すことになります。
・事実、現実、真理に背くために妄想に隠れる。
・理性が破壊する、脳が壊れる。
・自己破壊以外、生産性は皆無です。

 次回は、年が明けて2016年1月9日(土)13:30~初期仏教〈新春〉講演会『どっちがホンモノ?』~正しいことの真偽を問う~ 会場:なかのzero小ホール

~生きとし生けるものが幸せでありますように~










facebook | 10:51:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
最新刊:もう迷わなくなる最良の選択: 人生を後悔しない決断思考の磨き方





最新刊:もう迷わなくなる最良の選択: 人生を後悔しない決断思考の磨き方

もう迷わなくなる最良の選択: 人生を後悔しない決断思考の磨き方
アルボムッレ・スマナサーラ
誠文堂新光社
進学、就職、結婚、人間関係……人生は分岐点の連続。岐路に立って、私たちは優柔不断になったり、捨てた選択に後悔したり。人はなぜ選択に迷うのか? 後悔するのか?






商品の説明

内容紹介

◆◆養老孟司氏(東京大学名誉教授)推薦! ◆◆

「変わりたい人は読むべきだ。
あなたはきっと変わる。
そのための知恵が詰まった本です」

進学、就職、結婚、人間関係……人生は分岐点の連続。
岐路に立って、私たちは優柔不断になったり、捨てた選択に後悔したり。

人はなぜ選択に迷うのか? 後悔するのか?
それは、自分の中に確かな基準がないから。
「怒る」「ねたむ」という不毛な選択をしてしまうのも同じこと。
私たちは一時の「感情」に流されてしまい、
「迷わない」「捨てた選択に悩まない」「怒らない」ことがもたらす心の平穏を知らない。
だから、間違った選択をしてしまうのだ。

自我(=感情)とは錯覚であり、選択には理性だけが必要なのである。
そして理性は、世の中を知ることで誰でも蓄積していくことができる。
理性を活かせば、誰でも、最良の選択をすることができるのだ。

本書は、初期仏教の教えに裏づけされた、
心穏やかに幸福に生きていくための実践的なレッスンを紹介します。

【目次抜粋】

□第1章 人生は選択の連続である ―「悩みの種」はどこから来るのか?
・人間は生まれた瞬間から「生きるため」に選択をする ほか

□第2章 正しい判断は「理性」から生まれる ―なぜ感情で判断してはダメなのか?
・感情でする判断は99.9パーセント間違い ほか

□第3章 自我に気づくための思考レッスン ―人のふり見てわが自我を知れ?
・「囚われ」から自由になる練習 ほか

□第4章 正しい意欲と正しい知識を持つ ―「もっと……したい」は欲なのか?
・「意志」「意欲」が変化のエネルギーになる ほか

□第5章 捨てた選択に悩まない ―「こんなはずじゃなかった」はなぜ起きる?
・選ばなかった道のことは忘れなさい ほか

□第6章 「愛している」は錯覚だ ―愛が幸せを遠ざけていた?
・愛の代わりに理性で「慈しみ」を持つ ほか

□第7章 優柔不断から脱する方法 ―なぜ「決められない」のか? どうすれば変われるのか?
・本当に必要だったら迷わない ほか

□第8章 みんな社会のひとつのピース ―後悔のない最良の選択をするには?
・いまのことならリカバリーできる ほか

内容(「BOOK」データベースより)

進学、就職、結婚、人間関係…人生は分岐点の連続。「優柔不断」「後悔」をきっぱり捨てるブッダの知恵を実践しましょう。

著者について

アルボムッレ・スマナサーラ:スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年、スリランカ生まれ。13歳で出家得 度。国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭をとったのち、1980年に国費留学生として来日。駒澤大学大学院博士課程で道元の思想を研究。現在、宗教法人日本 テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事し、ブッダの根本の教えを説きつづけている。朝日カルチャーセンター(東京)の講師を務めるほか、 NHKテレビ「こころの時代」などにも出演。著書に『自分を変える気づきの瞑想法【第3版】』『ブッダの実践心理学』全8巻(藤本晃氏との共著、以上、サ ンガ)、『怒らないこと』『無常の見方』『無我の見方』(以上、サンガ新書)、『執着の捨て方』(大和書房)など多数。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

スマナサーラ,アルボムッレ
スリランカ上座仏教(テーラワーダ仏教)長老。1945年スリランカ生まれ。13歳で出家得度。国立ケラニヤ大学で仏教哲学の教鞭をとったのち、80年に 国費留学生として来日。駒澤大学大学院博士課程で道元の思想を研究。現在、宗教法人日本テーラワーダ仏教協会で初期仏教の伝道と瞑想指導に従事し、ブッダ の根本の教えを説きつづけている。朝日カルチャーセンター(東京)の講師を務めるほか、NHKテレビ「こころの時代」などにも出演(本データはこの書籍が 刊行された当時に掲載されていたものです)

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ひとり言 | 17:43:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)【97】本当の「願い事」





協会のfbより紹介です。





#jtba「ブッダの智慧で答えます」(Q&A)【97】本当の「願い事」
「ブッダの智慧で答えます」(Q&A) 【97】本当の「願い事」 (皆さんからの質問を、スマナサーラ長老にお聞きしました)
Q:慈悲の冥想の言葉ですが、「苦しみがなくなりますように」と唱えると、例えばライオンは鹿を食べないと生きられないし、苦しみがなくなることなどあり得ないじゃないか等と思ってしまいます。「願い事が叶えられますように」というのも、自分に危害を加えそうな人の願い事が叶うことを考えると抵抗があります。そういうことは、どう考えたらいいのでしょうか。
A:まず、「慈悲」はブッダの智慧で説かれた世界ですので、なかなか理解するのは難しいということがあります。私も日本でかなり長いこと、あらゆる方面から、これ以上できないぐらい慈悲について語っていますが、本当にこれを理解してもらうのは難しいことだと感じます。人は、慈悲とは何なのか全然知らないのです。経験したこともありません。推測もできません。 だから自分の理解でいろいろと慈悲の冥想について考えてしまうと、必ずと言っていいほど間違います。それで慈悲を育てることはできなくなってしまうのです。
 慈悲の冥想をする時は、素直に、単純に、慈悲の言葉を念じるのがいちばんいいのです。正直に、素朴にがんばると、じわじわと慈悲の人間になっていくのです。慈悲の生き方ができるようになったら、自分の人生は、驚くほど幸福で豊かになります。たとえそれで自分自身が幸せになってさえ、なぜそうなったのかということは、考えてもわからないと思います。こころの仕組みというのは、そう簡単にわかるものではないのです。
 お釈迦さまは、「生きることはたいへんでしょう? では、君たちはこれをやってみなさい」と、慈悲の冥想を教えられました。みんな、生きるのがたいへんだということは、わかっているでしょう? しかし、慈悲とはどういうものか、どういう育て方がいいのかと、我々の知識で考えてもわからないのです。だからこころを育てる方法を自分で考えると、間違ってしまうのです。 とにかく、冥想実践の時は、考えることを止めることが必要です。あれこれ考えることは、結局は妄想なのです。考えることは置いておいて、シンプルに実践に集中することです。
 それが慈悲の冥想の基本なのですが、「苦しみがなくなりますように」という言葉に納得いかないと思う人は、その逆を思ってみてください。「私が苦しみますように」「親しい人々が苦しみますように」と(笑)。おかしいでしょう? やはり「苦しみがなくなりますように」という方が正しいのです。そういう風にシンプルに理解した方がいいと思います。
Q:願い事というのは、良いことばかりではなく、色んな願い事がありますよね。
A:そういうことは置いておいて、そちらも慈悲の言葉を逆にしてみてください。「私の願い事は失敗しますように」と(笑)。やはり、それは変でしょうしね。だから、慈悲を主観で考えると、すごくおかしなことになるのです。
 お釈迦さまは、生命とは何なのかということをはっきりと具体的に発見されて、その智慧によって適薬を与えているのです。薬の機能とか成分を分析しようとすることは、できないわけではないのだけれど、病気で苦しんでいる人には「まず薬を飲んでください」と言った方が正しいのです。薬の成分を分析して、自分で実験したり、サンプルを取ったりすることは、ふつうの人にできることではありません。ですから私は、まずやってみたらどうですか、と言うのです。やってみて健康をとりもどして、やはり研究したい、もっと知りたいということであれば、それから成分なども説明することはできます。
Q:「願い事」と聞くと、ついあれこれ頭に浮かんでしまいます。
A:妄想の世界で考える願い事と、仏教で考える願い事は違うのです。
 私たちには、「お金がいっぱいあったらいいな」とか、「すごくきれいな人と一緒になりたい」とか、「歳を取りたくない、病気になりたくない」などの願い事がありますね。しかし、真理の立場から見ると、それらは全部、ただの妄想にすぎません。どれ一つ具体的な願い事ではないのです。
 仏教の世界では、徹底的に具体的に人生を見るのです。具体的に見ると、私たちには、まず生まれた瞬間があります。死ぬ瞬間もあります。その二つは確実にあるでしょう? いつだとはっきり知っているかどうかは別として、我々がその二つの瞬間の間で生きていることは確かなのです。だから、論理的には、自分の人生は何秒間なのか、いとも簡単に電卓で計算できるのです。 「すごい美人になりたい」とか「全国に一万軒のフランチャイズ店を作りたい」というのは、ただの頭の中の観念だけで、そんなことが実現できるかどうかわかったものではないのです。
 そんな妄想とは関係なく、自分が具体的に、秒単位で寿命を縮めながら生きているということだけは、確かです。命の秒数は決して延びません。縮むのです。誰でも必ず死ぬ。死ぬ瞬間までの秒数はしっかりと決まっている。それは一秒単位で減っていく。今も、一秒ずつ時計が進むたびに、自分の寿命が縮んでいる。それが本当の確実な自分なのです。皆、そのことを「忘れよう、忘れよう」としています。
 そして、「世界旅行をしたい」とか、「やがては独立して自分の会社を作りたい」とか、あれこれ妄想ばかりの世界に住んでいるのです。
 しかし、実際に具体的な一秒の命を見ると、我々には秒単位で色んな願い事があるのです。一秒の命には何か願い事があって、次の一秒に進んでいる。仏教で「願い事」というのは、その秒単位の願い事のことなのです。お腹がすいたら何か食べたくなる。そこにあるバナナを取ろうとする、取ると皮をむきたい、口に入れたい、口に入れると噛みたい、味わいたい、呑み込みたい。我々にはそういう具体的な願い事が、常にあるのです。それをなんとかしようと、次の一秒でがんばるのです。それが本当の、願いの流れなのです。
 その願いはずっと流れています。その願いが失敗ばかりだと、生きていられないのです。息を吸ったら、吐きたい。吐くと、吸いたい。それが叶わないとすごく困るでしょう? 人が金持ちになってもならなくても、それほど困ることはないのです。世界旅行がしたかったけれどもできなかったというのは、大したことではありません。そんなことよりも、本当の、生きるのに必要な願い事があるのです。そちらにスポットを当ててみてください。一秒も失敗しない人生というのはそこに現れてくるのです。具体的にものごとを考えない人は、頭の中で夢ばかり見ているのだから、成功はできません。人生の勝者には決してなれないのです。
 ですから最初の質問にあった、「私に危害を加えようとする人の願い事が叶うと…云々」というのは、全くの妄想の世界です。心配しなくても、そんな願い事は叶うはずがないのです。すごい美人になるぞとか、世界記録を作るぞとか、そういう妄想的な願い事というのは、まず叶いません。自分が頭で考えることなどは、百分の一も叶わないでしょう? そういうものなのです。
 一秒単位の具体的な計画であれば、実現させることができます。喉が渇いたら水を飲む。それはしっかりした具体性があることです。そういうことが叶わなかったら、たいへんなのです。そういう願い事は、成功できます。
 いくら嫌な人でも、その人の一秒が成功したならば、決して迷惑ではありません。一秒単位で成功している人は、嫌なことはしません。落ち着いています。人に迷惑をかけるのは、我慢できないほど何かが溜まっているからです。妄想ばかりして今の一秒をちゃんと生きてない人は、ストレスが溜まって、嫌なことをするのです。ストレスが溜まるのは、一秒単位で成功してないということです。
 ですから、皆、大きく考えないで、「この一秒だけを成功する」という生き方をした方がいいと思います。人生に成功する必要はありません。「人生」というのもただの観念的な言葉です。具体的には今の一秒しかないのです。今の一秒は、自分で握ることができます。今の一秒というのは、厳密に、今の一秒です。例えば「私は成功した」と言ったら、それを言ったとたん、それはもうすでに過去の話です。過去だからもう終わったことで、それはもう存在しないのです。我々は、すでに、次の「今の一秒」にいるのです。
Q:「願い事」の意味がわかりました。ありがとうございました。
A:いいえ、まだはっきりとわかっていないと思います。
「私の願い事、親しい人々の願い事、生きとし生けるものの願い事、嫌いな人々、嫌っている人々の願い事が叶えられますように」と念じる時の「願い事」って何ですか? 私の願い事と、私を嫌いな人の願い事は正反対ではないのですか? 私の願い事が叶ったらその人の願い事は叶わないし、私を嫌いな人の願い事が叶ったら私の願い事は叶わない。ゆえに慈悲の冥想は矛盾だ。成り立たない。実践する気にならない。皆、このように考えていると思います。それらの思考はすべて妄想で、不善なのです。
 正直に言うと、自分にとって何が最善かは私にはわからない。同じく、私を嫌いな人にとって何が最善なのかもわからない。「願い事がかなえられますように」と慈悲の実践で念じる場合は、好き勝手に妄想する汚れた不全な願い事ではありません。私にとって、他人にとって、最善な願い事なのです。「(自覚はないが)最善たる願い事が叶えられますように」という意味で実践してほしいのです。
 私を嫌いな人にとって最善の願い事は私の足を引っ張ることではないか、と妄想するかもしれません。しかしそんな願い事は、その人にとって最善ではない。最悪なのです。各個人が、あらゆる悩み苦しみに絡まれているのです。幸福になりたいとやみくもにもがいているのです。全ての生命の悩み苦しみが消えて幸福に達することが、最善たる願い事なのです。慈悲の実践をする仏教徒は、最上の清らかな聖なるこころを育てようと精進するのです。
 まとめて言うと、慈悲の冥想の言葉は、「皆、穏やかで、落ち着いて、ストレスなく生きていってほしい」という気持ちなのです。たとえ敵であっても、その人が穏やかで落ち着いた人になったならば、自分にも良いでしょう?私たちは、慈悲の冥想で、自分自身が何もストレスがない穏やかで落ち着いた生き方ができる人になることを目指すのです。それこそ、力強い生き方なのです。いつも穏やかでいるならば、常に人生の勝利者として生きているのです。
 だから仏教の人々は、観念的な目的などよりも、日々のことをしつこくがんばるのです。今のことを絶対に成功するぞ、と生きるのです。一秒くらいのチャレンジは、大したことないから成功できます。たとえ失敗しても、一秒だから大したことはない。次の一秒をがんばればいいのです。それで一生幸福でいられます。頭から妄想概念を捨ててしまえば、すごく楽に、楽しく生きることができるのです。慈悲というのは、そういう、人間の真実の生き方なのです。 ですから、私は、とにかくこれをやってみなさい。人生は好転するんだよ、うまくいくんだよ、とはっきりと言うのです。
●photo:Streets of Kyoto by Leonardo Hwan〈flickr〉 ◎URL:http://www.j-theravada.net/qa/gimon...

~生きとし生けるものが幸せでありますように~










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本物の仏教に出会う----木下全雄  さんの fb の紹介です





協会の記事ではありません。
木下全雄  さんの fb の紹介です





本物の仏教に出会う
仏教は今少しでもゆとりがあるならば、今からすぐに学んで実践して欲しい教えです。何か問題が起こって心が不安定な時には学ぶゆとりがありません。また、 死後仏教で救われようと思っていても、遅すぎる可能性があります。しかも人生は刻々と変化していくので、体力的にも時間的にも精神的にも私達のゆとりとい うものはすぐに消え去る可能性があるのです。そのために、今少しでもゆとりがあるならば、そのチャンスを逃さずに正しい仏教を見つけ出して、学んでいただ きたいと思います。ただし、一言で仏教と言いましても、理性的な教えから洗脳的な教えまで様々ですから見極めるのは大変だと思います。
正しい仏教は、道徳と理性と正しい努力で智慧を育てながら人生に成功して、人格者を目指して、主観を破って、真理を体験して、最終的には悟りまで目指して人生を乗り越えようというかなり壮大なスケールです。

ありのままを気持ちで見てしまう
私達は眼から「視覚」、耳から「聴覚」、鼻から「嗅覚」、舌から「味覚」、皮膚から「触覚」という感覚を受け取ります。その結果誰でも、こうした感覚から「私がいる」「物はある」という結論を導き出しています。私が感じたのだ、物は存在するのだ、という具合です。
しかし、仏教では「無常」を説きます。私も物も全てが瞬間に変化しているのだ、という教えです。
そんなことは誰でも知っている、と思いますね。そう、誰でも世の中は「無常」であることは理解できるのです。常に変化して変わっているということは頭では 理解できるのですね。そこで多くの人は、仏教は偉大なる当たり前のことしか説いていないのだから学ぶ必要はない、とバカにして自分のタダシイ判断で結論を 下してしまうのです。しかし、待ってください!
無常だと知っている割には「私がいる」「物はある」「私は常にタダシイ」という結論は変えていないのですよね。無常で変化しているならば、私も物も変化していて「いる」とか「ある」というよりも「常に変わっている存在」ということなのですがね。
「常に変わる」のに、執着が成り立つのでしょうか?感情で「私がいる」「物はある」という結論に達していますが、その気持ちを打ち破る方法はあるのでしょうか?無常なのに自我から生まれた「私は正しい」という判断が正しいのでしょうか?

ありのままを観る
見たものは見たままで止めると「見ています」になります。変化し続けているものに対して「これは◯◯である」という結論は主観です。聞いたものは聞いたま まで止めると「音・音・音」になります。瞬間瞬間の音を拾うだけならば「音楽」にはなりませんね。匂ったものを匂ったままで止めると「匂い」というひと言 葉です。これを「好ましい匂い」と「嫌いな臭い」に分けるのは個人的な判断であり、真理ではありませんね。味わったものは味わったままで止めると「味わ う」となります。「美味しい」とか「不味い」というのは主観です。触れたものをその瞬間の感覚で止めると「熱さ」「冷たさ」「痛み」「柔らかさ」「硬さ」 などの「触覚」になります。その瞬間には「好き嫌い」は生まれません。心の中に浮んできたものを感じたままに止めると「不安」「喜び」「恐れ」「怒り」 「悩み」「眠気」「落ち込み」「欲望」などの「主観」が見つかりますね。心の中に生まれる「自我の主観」も「気持ち」も「妄想」も状況が変わると変化しま すのでやはり心も無常であることに変わりはありません。ですから「今は◯◯と思っています」というのが正しい心の観察になります。
自分自身も周りの物も無常であるが故に、このように瞬間に生まれた感覚のみで止めてしまうのが正しい「ありのままの観察」になります。この実践方法がヴィパッサナー実践です。

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Be Happy! | 09:01:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
人生はうまくいっていますか?---木下全雄  さんの fb の紹介です






協会の記事ではありません。
木下全雄  さんの fb の紹介です





人生はうまくいっていますか?
仕事や学校での勉強も順調ですか?
何よりも、あなたは今幸せですか?

人を差別したり、見下したりする心では幸せにはなれません。自分の身の回りを見れば、様々な生命のおかげで自分の命が成り立っていることが見えるのです。自分の命を下支えしてくれている様々な生命を馬鹿にすることが成り立たない話なのです。

先の問いに対して、NO!もあるでしょう。人生は思い通りには行かないものですからね。

しかし仏教徒は知っています。笑顔で過ごす生き方を!洗脳的信仰ではなく、理性的・道徳的な生き方によってそれが実現できることを!
恨みや憎しみ、不安や恐怖を抱えることなく、生きとし生けるものの幸せを祈りつつ、笑顔で過ごせているならばあなたはかなり上品な仏教徒です(笑)

木下全雄さんの写真








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