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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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#‎jtba‬ 電書新刊:スマナサーラ長老『充実感こそ最高の財産: 今、この瞬間を生き切ればいい』シリーズ心を育てる本 [Kindle版]





協会のfbより紹介です。





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facebook | 17:18:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
#‎jtba‬「与えられた場所で」---協会のfbより紹介です。





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬「与えられた場所で」

◇「今できること」は二つしかない
 前の項目で「やりたい仕事」があるなら、上司なり、先輩なりにはっきり伝えればいい、という話をしました。そして、それが「実現されない」のは、あなた 自身にその能力が欠けているからだと述べました。これは転職についてもまったく同じで、「今の仕事がつまらない」「もっと自分を生かせる仕事がしたい」と 思うなら、そんな会社さっさと辞めて、違う会社へ行けばいいと私は思います。

 実際、本当に能力のある人は、すでにそれをやっています。「自分にはもっと違う能力がある」「もっと高い評価を得ていいはずだ」と感じる人(そして、本 当にその実力のある人)は、すぐに別の会社の面接を受けに行き、「自分の能力を生かせる仕事」「納得のいく評価を得られる会社」へと移っていきます。それ ができないというのは、やはり、そこまでの能力がないからです。

 そんな状況にありながら、ただ「仕事がつまらない…」「もっと違う仕事がしたい…」と文句を言い続けているなんて、無益な時間の使い方だと思いませんか。ここでとるべき選択肢は二つしかありません。

 一つは、自分が与えられている仕事・ポジションで精一杯がんばって、誰にも文句を言われないレベルの仕事をすること。

 もう一つは、「自分に足りない能力」(身につけたい能力)を勉強するなり、訓練して、周囲に認められるレベルにまで自分を持っていくこと。結局、そのどちらかしかないのです。

◇妄想では物事は好転しない
 世の中には、自分の置かれている状況、自分に与えられている仕事やポジションに不満を持っている人は大勢います。40代ともなれば、「同僚は課長や部長になっていくのに、自分はまだ平社員のままだ」と不満を抱えている人もいるでしょう。

 あるいは、大学時代の同期たちは、ものすごく楽しそうな仕事をしているのに「自分は、誰にでもできるようなルーティーンワークをしていてつまらない」と 愚痴を言っている人もいるかもしれません。しかし、そんな人にこそ理解して欲しいのは「どんな人も、自分の能力が生かせるところで止まっている」という現 実です。

 あなたは「自分に与えられている仕事やポジション」に不満を持っているかもしれませんが、その「今いるその場所」こそが、あなたの能力を一番発揮できる 場所なのです。いかにあなたが「別の仕事」「別の立場」を望んだところで、それを与えられていないという時点で「それだけのものがあなたにない」という証 明なのです。

 だからますは、今いる場所で、目一杯能力を発揮してみることです。そこからしか何も始まりません。自分に与えられた仕事に対して全力で取り組むこともせ ず、「こんな仕事はしたくない」「オレにはもっと別の能力がある」なんて妄想にとりつかれていても、物事は決して好転しません。

 あなたが今そこにいる、ということは、そこで能力を発揮できる(あるいは、発揮するべき)と誰かが判断したわけです。まずはその「自分に与えられた場 所」で、周囲の人が文句を言えないほどの仕事をしてみることです。そうすれば、あなたは自分自身の能力に気づくでしょうし、仕事のおもしろさにも出会うは ずです。

 あるいは、その仕事内容が評価されれば、もっとハイレベルの仕事や別の種類の仕事を与えられるようになるのです。あれこれ文句を言う前に、まずは「目の前の仕事」で結果を出すことです。

●photo:Empty Office by Daniel Tuttle〈flickr〉
▼参考テキスト
「40歳からを悔いなく生きるブッダの智慧」
http://amzn.to/1ObHizA

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

日本テーラワーダ仏教協会さんの写真









facebook | 17:16:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
「世界の平和は我が手の中に」---協会の記事ではありません。 サークル仲間の徒然日記です。




協会の記事ではありません。
サークル仲間の徒然日記です。





「世界の平和は我が手の中に」

昨日は刈谷市で開催された名古屋初期仏教デ-に参加した。

冒頭から人間の脳は肉体を守る為に知識を使う。話題になっている新惑星の研究も材料にして、知識が考えることが不幸の原因というところを解説してもらった。

長老の本を読んで始め来たという方が質問した。

戦争反対なんですが、仏教徒だったら戦場に行ったら敵を殺しますか?どうしますか?

長老は仏教徒は戦場に行きません,だった。

質問、 徴兵制だったら困るでしょう?刑務所に。殺される。・・!

この辺りから私の心はぐっと集中してきて、他を慈しむ われひととと共にの光りが射し込んできて自分を丸ごと手放す世界に案内してくれた。

私のいない人は。肉体に執着心のない心は自分が殺されるのはNO problem。誰のものでもないタダの肉体はどのように用いられてもいい。しかし他を殺すことはしません。戦争はしません。

戦争反対は私の脱肉体尊重思考の実践が共なつていないと、ここという自分が不利になると他を抹殺する獣性思考になると思った。

長年心の奥にあった「獣性から眞の人間性へ」が具体化した。

その後スマナサーラ長老が、
ガンジーさんは棒一本持たなかったでしょう!杖は持ったけどね。・・
この辺りの奥深い軽さがなんとも心地よい。

外は寒波で冷えて寒かったが心の底を揺さぶ振られた。それに反応して我が奥深いエネルギーが吹きだしてきて いた。

今やらねば何時やれる。世界平和は我が手のうちにあり。

平和な世界は先ずわたしの実践からから。しっかりと思えてとても元気になり身も軽くなりました。










徒然日記 | 10:49:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
  1月24日に開催されます名古屋初期仏教デーの会場についてお知らせいたします。





  1月24日に開催されます名古屋初期仏教デーの会場についてお知らせいたします。





皆様
  1月24日に開催されます名古屋初期仏教デーの会場についてお知らせいたします。
  今回は、いつもの日本ガイシフォーラムではなく刈谷市産業振興センターでの開催となりますので、お間違いのないように願います。
                  記
1.使用会場の配置は、次の通りです。 9:45開場
  ・メイン会場(法話・瞑想実践) → 401会議室(4階・定員176名)
  ・初心者瞑想指導        → 和 室       (3階・18畳) 
  
2.座る瞑想について
  メイン会場の床はカーペット敷きで、畳ではありません。また、座布団などの用意がありませんので、座る瞑想では座布を持参されるか、椅子での実践になります。また、直接床に座るのを嫌う方は、簡易な敷物を用意されればよいかと思います。
  参考に、メイン会場、および和室の写真を添付しておきます。
3.車で来場される方へ、
  産業振興センター専用駐車場「相生駐車場」が隣接しております。無料割引がありますので、駐車券を受付に提出ください。
     以上
    生きとし生けるものが幸せで ありますように。













お知らせ | 13:03:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
 <注意 いつもと会場が違います>  場所 刈谷産業振興センター 





 <注意 いつもと会場が違います>





< ★「茶話会(親睦会)」のお知らせ >3階和室です。
   午前10時から、法友のみなさんの集いがあります。
     花祭り行事に関しても相談事あります。
   皆さんなるべく出席お願いします。
   ※自由参加、昼食は各自ご用意ください


  名古屋初期仏教デー

13:00-----------受付開始
13:30-----------開始  前半経典読誦・法話・質疑応答
15:30前後-------休憩15分程度
15:45-----------初心者冥想指導<途中休憩無し> 
                  各自冥想実践

19:00
~19:30----------後半経典読誦(7ページ)+
          祝福のお経授受  
       後 終了予定 (都合によります)。

【参加費】
ご喜捨 (参加当日、受付にお渡し下さい)


 ------------------------------------------
--------------------------------------------------
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  会場   刈谷産業振興センター 
https://www.city.kariya.lg.jp/shisetsu/sangyokeizai/sangyokoshinsenta/
名古屋駅からJRで約20分と交通アクセスに恵まれた環境にあり、コンベンションセンターとしてあいおいホール(展示場)、小ホール、12名から176名までの大小会議室など充実した施設を備えています。

所在地

〒448-0027
刈谷市相生町1丁目1番地6
電話:0566-28-0555
sanshin@toshikyo.jp



駐車 は東の隣接 相生駐車場をご利用ください。
https://www.city.kariya.lg.jp/shisetsu/sangyokeizai/asochusyajo/index.html
割引があります。 スタッフにお申し出ください。 
駐車場から会場に行くのに、わかりにくいです。
近くのどなたかに お聞きになることをおすすめします。

詳細は相生駐車場にお尋ねください。(30分100円、電話:0566-23-9800)】





 
  写真 4
写真 1 写真 3 写真 2








行事予定 | 00:46:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
「餌をもらって喜ぶ、餌をもらえると思って擦り寄る、この程度のことで良いのですか?」





協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
 <
大仏とやっさんとやさしい教え>





「餌をもらって喜ぶ、餌をもらえると思って擦り寄る、この程度のことで良いのですか?」
(1月17日 マーヤーデーヴィー精舎 新年関西月例冥想会)

いつの頃からか、人前で話をする際には、当たり障りのないやわらかな言葉を使って、聞く側の気分を害さないように努めることが、話し手としての常識のよう になってきている。やんわり、ふんわり。しっかりした心を持つ人たちにはそれできちんと届くのでしょうけれど、困ったことに僕の怠惰な心は、そんなものを 真剣に受け止めようとする奇特さは持ち得ないのです。

有り難いことにスマナサーラ長老は、いつも鋭くガツンとした言葉を投げてくれるので、怠慢な僕の心にも響きます。

「人間の期待や希望なんてものは、くだらない欲望であることが多い」
「ご利益を求めない、神々へのおねだりをやめて、生命としてのレベルを上げなくてはいけない」

あれが欲しい、これが欲しいと願うことが多いけれど、長老が言われる通り、価値あるものなど何もない。すべてがろくでもないものであることに気がつきます。

「生存欲と執着が不幸をもたらすのだから、それらを捨てよう」

生存欲は、生きることには尊い意味があるという勘違を生んでしまう。生きることへの執着は無知を生じさせる。もともと生きるとは幻覚に過ぎない。以前に長老の本で読みました。

人はなんとか自らの人生に意味を持たそうと必死にもがき続けるけれど、もともと意味を持たない人生に意味を持たすなど出来ることではない。そのことに気がつけるのは、たぶん、ものすごく幸運だと思える。ただ、気がつけなくても何の問題もない。

加納 康彦さんの写真









大仏とやっさんとやさしい教え | 10:53:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
東海ダンマサークルの主催行事です。----2月の日程--刈谷自主冥想会





東海ダンマサークルの主催行事です。----2月の日程--刈谷自主冥想会





仏道修行の皆様へ
     
 雪が積もるなど、真冬をしみじみ感じる日々です。風邪など引かれないように休養と食事に気を配り健康に留意ください。
 とは言うものの、つい家に閉じこもりがちな今日この頃です。そんな時こそ、気づきの時間を見つけましょう。

 自主瞑想会の日程です。
                          記
2月の日程
・2月21日 日曜日12時~18時(半日瞑想会)参加費:1000円
・2月28日 日曜日 9時~18時(一日瞑想会)参加費:1500円※互助会員無料。



3月の予定
  3月20日 日曜日12時~18時(半日瞑想会)
  3月27日 日曜日 9時~18時(一日瞑想会)
4月の予定
  4月 3日か10日 日曜日 9時~18時(半日か一日瞑想会:変更あり)
  4月24日 日曜日 9時~18時(一日瞑想会)

・参加条件:ス・マナサーラ長老の初心者瞑想指導受講者
・場所 :刈谷市総合文化センター和室(3階)
   URL : http://www.kariya.hall-info.jp/index.php?menuID=5
・交通 : JR名古屋駅~刈谷駅(新快速17分)南口から西へ徒歩3分
      名鉄名古屋駅~知立駅(乗換)~刈谷駅(38分)南口から西へ徒歩3分
  車 : 総合文化センター駐車場が隣接しています。
   ※隣のショッピングセンター「バロー」の駐車場入口と間違いのないように注意ください。
・連絡先:三谷   携帯:090ー9897ー2882  メール:mj888jp@ybb.ne.jp

※半日瞑想会、一日瞑想会とも、毎月開催しています。ご都合のよいときにお越しください。
※当日、会場入り口掲示の注意・連絡事項(添付ファイル参照)を遵守頂ければ、途中参加・退場も可能です。また、初めての方には説明を致しますのでご気軽に参加ください。
※連絡不要、直接会場へお越しください。

      生きとし生けるものが幸せでありますように~       東海ダンマサークル 三谷









刈谷自主冥想会 | 11:48:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
#‎jtba‬【再掲】2016年1/17(日)『新年 関西月例冥想会』





Mayadevi office    お知らせ





‪#‎jtba‬【再掲】2016年1/17(日)『新年 関西月例冥想会』

 関西では2016年1月17日(日)午前9時30分 マーヤーデーヴィー精舎にて「新年 関西月例冥想会」がございます。いつものスケジュールではなく、一年のスタートとして、比丘サンガのお坊様に祝福をしていただき、修行の励みになればと考えております。

 ということで、午前中は新年ご挨拶と記念法話、続いて皆様でお釈迦さまとお坊様に食事お布施をいたしたいと存じます。午後からは冥想指導もあり、それぞれ仏道実践に励みましょう。皆様のご参加をお待ち申しております。またご協力のほど、宜しくお願い致します。

▼2016年1月17日(日)スケジュール
 09:30 お経・新年ご挨拶・記念法話
 11:00 お釈迦様へ食事のお供え・お昼休憩
 14:00 初めての方へ冥想指導・各自冥想
 18:30 終了
※予約・申込みなく、どなたでも参加していただけます。
※参加費:ご喜捨(お気持ち)

◇お布施 受付ご案内
 お釈迦さまへお供え、お坊様へのお布施も随時受付けております。当日、お布施の品をご持参ください。また当日参加できないという方は、前日1月16日 (土)までにお布施の品をマーヤーデーヴィー精舎までお送りいただくか、同封の振込用紙に「新年 関西月例冥想会」と明記しご喜捨をお送りください。※詳細は下記をご覧いただくか、不明な点がございましたら電話・メールにてお問い合わせください。
 
 当日、一般には駐車場はご利用いただけません。お車でお越しの方は、各自で周辺の駐車場をご利用ください。また近隣へのご迷惑にならないよう、ご注意ください。よろしくお願いいたします。

●地図:http://www.j-theravada.net/tizu-mayadevi2.pdf
(〒669-1525 兵庫県三田市対中町21-2)

▼お問い合わせ「マーヤーデーヴィー精舎」
 電話:079-506-0003  
 メール:mayadevi@zeus.eonet.ne.jp

【ダンマウエスト(メーリングリスト)】 
 関西ダンマサークルその他、関西の最新活動状況がわかります。行事の変更があった場合の連絡網としても使われますので、参加されると便利です。登録をご 希望の方はマーヤーデーヴィー精舎までメールでご連絡ください。件名を「ML 登録希望」とし ①アドレス ②フルネーム ③会員or非会員をお知らせください。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

日本テーラワーダ仏教協会さんの写真








Māyādevī Vihāra blog | 08:59:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
「人生川を渡る」-----サークル仲間の徒然日記





協会の記事ではありません。
サークル仲間の徒然日記です。





「人生川を渡る」

随分練習した。儲けものは声を出しているので毎朝唱える「MetaSutam 慈経」の声の出が良 い。

やってみて思う。歌も瞑想も自己流では歌にならず瞑想にならずです。

「幸不幸は各生命の業の力による」と学んでいる。こ歌の素質もこの管理を受けているのではと思う。

瞑想はスマナサーラ長老というプロに師事して10年。我が来し方を褒めてやる♫
人生川を渡る道。

今回やってみて五欲を刺激する実践と瞑想実践の熱の入れ方がどうしてこうも違うのか?

それは歌のステージが1月18日夜。

死ぬというステージは先なるものとしている。この妄想力の違い。

うん?それまでに死ぬ⁉︎・

生きねばならぬせつなさよ
瞑想で艶よく生きて 今ここに 。ありがとう♫!

吉田 牧生さんの写真









徒然日記 | 10:45:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
#‎jtba‬【ご紹介】巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」その③





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬【ご紹介】巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」その③

◆正しい生き方の発見
 お釈迦様は、感情に支配・管理されて、感情のままに、感情の奴隷で生きることに対して、「正しい生き方」というべき新たな方法を見つけたのです。奴隷と して生きるのではなく、自由に生きられる方法・生きることを乗り越える方法を見つけたのです。その方法に、「仏道」と言うのです。

 苦しみを乗り越えるために、仏道を実践しなくてはいけないのです。仏道を実践することが人間にとって唯一の幸福の道であると理解するために、仏道を歩むべきだという意欲を作るために、生きることのカラクリを説明するのです。

 お釈迦様が推薦する正しい生き方とは何でしょうか? それは決して死を避ける目的の生き方ではないのです。世間は死を避ける目的のみで生きているので す。皆、失敗するのです。お釈迦様は、生死を乗り越える方法を推薦するのです。それなら、生存欲と怯えの感情に押されて五欲に依存する、自分の思考・妄想 に依存するだけの生き方をやめなくてはいけないのです。生きるための努力を最低限にするか、ほどほどにするかです。

 それから、生きるとは何かと客観的に観察するのです。感情の奴隷になって生きることをやめるのです。慣れてないことだから初めは難しい作業だと感じるか もしれませんが、やってみれば、奴隷になって生きている生き方よりとても楽な生き方であると発見します。普通の人は決してやらない「いまの自分を観察す る」という実践に、修行とも冥想とも言うのです。

 実践という言葉は正しいのですが、感情に支配されている認識の流れを変えるので、冥想修行であるとも言えるのです。しかし仏教の冥想は、他宗教で説かれている冥想と似ていないのです。似ているのは単語だけです。中身ではありません。

◆流されて生きること
 自分を観察しないでいることは何を意味しますか? 感情のまま、眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法に依存していることになります。流れるままに生きている ことになります。誰でもやっていることなので、何の努力も要りません。生きるために人間が努力しているように見えますが、それは本物の努力ではありませ ん。

 お腹が空いたら、誰だって必死になって食べ物を探すのです。褒めるに値する行為ではありません。国王・大統領・総理などのお偉い人々をはじめ、ホームレ スの方々まで、同じ生き方をしているのです。皆それなりに頑張っているつもりです。しかし生存欲と怯えに流されている生き方です。

 ですから、一般人の生き方はpamāda・放逸と言うのです。生きるとは何かと観察するならば、その行為はappamāda・不放逸と言うのです。お釈 迦様は「比丘たちよ、修行しなさい、放逸に陥ることをやめなさい(jhāya bhikkhu mā pamādo)」と説かれる。

◆自由を目指して精進する
 生きることを観察しようと始めても、簡単に進むわけではないのです。人間のこころに元々、自己観察する能力は無いのです。無始なる過去から、五欲に依存することで、思考・妄想・感情に依存することで生きてきたのです。依存する癖が強すぎなのです。

 そこで、覚悟して精進する必要があります。色声香味触の情報がこころのなかに入ると、こころは酔いつぶれたような感じで混乱するのです。五根に情報が触 れるたびに、こころは揺れ動く・混乱する・冷静さが無くなるのです。これは癖になっているのです。修行を始めた比丘は、「五欲によってこころが振り回され ないように、気をつけなくてはいけない(mā te kamāguṇe bhamassu cittaṃ)」と、お釈迦様が説かれます。

◆計画を立てて苦しむ必要はありません
 次にお釈迦様は、喩えを出して自分の戒めを理解しやすくしています。「不注意で真っ赤に燃えた鉄丸を呑み込んで、内臓が焼けてしまう時、『苦しい、苦し い』と泣くことになってはならない(mā lohagulam gilī pamatto mā kandi “dukkhamida”nti dayhamāno)」と説かれます。私が不注意と書いたのは、「放逸」のことです。生存欲と怯えに押されて、眼耳鼻舌身に色声香味触が触れたい放題触れ るようにすると、こころはどんどん悩み苦しみを感じて、堕落してゆくのです。それに加えて、激しい妄想も回転するので、苦しみが増える一方です。

 しかし、見たいものを見る、味わいたいものを味わう、考えたいことを考える、などは、自分で判断して行うことです。自分が好きでやっている行為なのに、 その結果は悩み苦しみばかりを作るのです。お釈迦様がイメージした喩えは、真っ赤に燃えている鉄の球を喜んで呑み込むことです。呑み込んだら、次の結果 (内蔵が焼けて死に至る苦しみを感じること)は決して避けられません。ということは、放逸で意のままに生きる人の道は、真っ赤に燃えている鉄丸を喜んで呑 み込むような生き方です。

◆修行を勧めるために脅しは要りません
 註釈書では、右のような解説はしていません。放逸で生きている人々は、罪を犯して死後、地獄に堕ちる。地獄では無理やり、溶岩の球を呑み込ませる。その時、地獄に堕ちた生命は「苦しい、苦しい」と泣き叫ぶ。これが註釈書の説明です。

 しかし、「真面目に修行しなかったら死後、地獄に堕ちて苦しむはめになりますよ」という言葉は、人々に修行する勇気を与えるのでしょうか? 一般人は地 獄のことを経験できないので、人の話を聴いて「信じなくてはいけない」のです。信仰をもとにして修行しても、正しく智慧が現れない可能性もあります。仏教 では、輪廻の話があるかもしれません。お釈迦様が説かれたから、輪廻の話は事実かもしれません。悪行為する人々は、地獄に堕ちるかもしれません。

 しかし、一般の方々に、それを確かめる知識能力はありません。地獄の概念を持ちだして修行を勧めることは、他宗教でも行っている「永遠の地獄」の脅しと似ているのです。お釈迦様のこの教えを理解するために、地獄に堕ちることを怯える必要は無いのです。

 いま私たちは、六根に依存して、色声香味触法という対象に振り回されて、奴隷のように生きているのです。生きているのではなく、生存欲と怯えに生かされ ているのです。極端に無知な生き方なのに、私たちはこの生き方を喜んで営んでいるのです。「これこそ、真っ赤に燃える鉄の球を自ら取って喜んで呑み込むこ とである」と理解すれば、修行する勇気が充分に起きてくるのです。無始なる過去からの悪い癖をなくすためには、強い意志が必要です。ですからお釈迦様は、 見事に鉄の球の喩えを出されたのです。<終わり>

●photo:Plutonium pellet by Fastfission~commonswiki〈wikipedia〉
▼参考テキスト
パティパダー巻頭法話
「生きているのに生きることを知らない」~生きるとは感覚依存症です~
http://www.j-theravada.net/howa/howa228.html

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

日本テーラワーダ仏教協会さんの写真









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#‎jtba‬【ご紹介】巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」その②





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日本テーラワーダ仏教協会さんの写真
日本テーラワーダ仏教協会

‪#‎jtba‬【ご紹介】巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」その②

◆生きるとは感覚器官の働きです
 身体には、眼耳鼻舌身という五つの感覚器官があります。それに、色声香味触という五種類の情報が触れるのです。それによって認識が生まれて、続くのです。これが生きることです。ここまでは、意思があっても無くても起こるのです。ここまでは、自然に生きていると言えます。

 しかし、眼でものが見えるだけで、耳で音が聴こえるだけで、鼻で匂いを感じるだけで、舌で味を感じるだけで、身体でものを感じる能力があるだけで、生きていられません。意思を働かせて、色声香味触を選んで取り入れなければいけないのです。

 見たいもの・聴きたいもの・嗅ぎたいもの・味わいたいもの・触れたいものを選んで、取り入れるのです。そのために私たちは、料理をしたり、家を建てた り、仕事をしたり、などなどの様々な行為をしているのです。どんな行為をやっても、最終的には自分が選んだ色声香味触を取り入れることになるのです。必要 だとする色声香味触を取り入れることは、意図的に行わなくてはいけないのです。それが、生きるという行為なのです。

 というわけで、生きるという行為のなかに、自然に起こる一面もあります。意図的に行わなくてはいけない一面もあります。この二つをまとめてみると、眼耳鼻舌身に色声香味触がふれて認識が続くことだけだと分かります。

◆必死で生きるとは?
 もう一つ、問題があります。ひとには「これを見たい。これは見たくない」という判断をする意識が必要です。死を避けて生きることを支える色声香味触を取 り入れたいのです。生きることの妨げになる色声香味触から離れたいのです。要するに、俗にいう「好き嫌い」です。色声香味触は物質です。この物質が身体に 触れると、認識が生まれます。認識機能があることが、生きていることになります。

 ですから、生きていきたがる生命は、色声香味触に依存するのです。色声香味触に仏教用語でkāmaまたはkāmaguṇaと言います。欲にもkāmaと いうので、誤解しやすい用語なのです。この場合は、欲・貪欲・愛欲という意味よりは、「好まれる対象」という意味になります。好まれる対象に対して欲が生 じるのは自然の流れなので、誤解しやすいという問題があるにも関わらず、色声香味触という五つの対象にkāma,kāmagunaという言葉を使っている のです。

◆妄想の力
 ひとの命は、五つの対象が認識器官に触れるだけで終了するものではありません。考えるという機能もあるのです。物事を判断したり、喜び・怒り・恐怖感な どを感じたりする必要もあるのです。人間に限っては、勉強したり、知識を増やしたり、新たなものを開発したりする必要もあるのです。それだけでは、必死で 生きるために必要なエネルギーが充分起こらないので、妄想して感情をかき回して増やすのです。

 妄想して欲を増やすと、その分、色声香味触を得るために頑張ることができる。妄想して怒りを増やすと、嫌な・好ましくない色声香味触を避けること・壊す ことができるようになります。ここで五つのkāmaにもう一つ、認識対象が入ります。仏教用語で法・dhammaと言います。この場合の法の意味は、「な んでも」という程度の意味です。眼耳鼻舌身という五つに意という感覚器官も入れて、六つの感覚器官になります。

◆五欲の意味
 最終的な定義に入りましょう。ひとには眼耳鼻舌身意という六つの感覚器官があります。それに色声香味触法という六つの情報が触れて、認識が起きて続きま す。それが生きることです。意識の場合も、自然に起こる意識と、意図的に作る意識という二つがあります。色声香味触は物質的な働きなので、pañca kāmaguṇaと言います。意とその対象になる法は入りません。眼耳鼻舌身の制御方法と意の制御方法は異なるので、この分け方をするのです。

 人間は、色声香味触という五つのkāmaだけに依存しているわけではないのです。自分の思考・妄想・感情に対して、五つのkāmaとは比較できないほど 強烈に依存しているのです。例えば、自分が食べたかった弁当を誰かが持って行ったとしても、少々機嫌は悪くなるかもしれませんが、忘れてしまうこともでき ます。しかし自分の考えを否定されたら、自分の気持ち・感情を否定されたら、激怒するのです。忘れることはできないのです。

◆生きることの意義
 生きるという行為は、以上です。これに加えるべきものは、他に何もありません。生きることに目的はありません。ただ死にたくないので、必死になって生き ていなくてはいけないだけのことです。その生き方も、生存欲と怯えという二つの感情に管理されているのです。では、生存欲と怯えだけに支配されて生きるこ とは、すごいことでしょうか? 尊いことでしょうか? 何か価値のあるものなのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。ただ生まれたから、死にたくないから、生きているだけなのです。人生を客観的に観察するならば、理性のある人は誰でも、こ の結論に達するはずです。お釈迦様は、生きているというカラクリをこのように科学的に観察して説かれたのです。しかし、これだけの話では役に立たないで しょう。地球は太陽の周りを回っている。この事実を誰かが明確に一般人に教えてあげる。しかし、「だから何ですか?」という疑問が残るのです。<つづく>

●photo:Cinema São Luiz by Direitos Urbanos〈flickr〉
▼参考テキスト
パティパダー巻頭法話
「生きているのに生きることを知らない」~生きるとは感覚依存症です~
http://www.j-theravada.net/howa/howa228.html

~生きとし生けるものが幸せでありますように~










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#‎jtba‬【ご紹介】巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」その①





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬【ご紹介】巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」その①

◆何かとよく分からない「生きる」という行為
 「生きる」ということは、人間にとって最大のテーマです。しかし、どのように生きるべきか、どの生き方が正しいのか、などの問題に、それほど真剣に取り組まないのです。結局は皆、なんとなく生きているのです。

 自分の希望通りに生きることができれば、幸福に生きている、明るく生きている、楽しく生きている、などの言葉を使うのです。人生が希望通りに行かない場 合は、苦労して生きている、必死で頑張って生きている、何があっても苦労を乗り越えて生きるべき、などの言葉を使うのです。

◆生きることは自然ではない
 生きるとは不思議な働きです。自然に生きることはできないのです。自然に起こるのは、生まれることと死ぬことです。生きるとは、生と死のあいだの働きで す。それは努力しないと成り立たないのです。生命は自然に生まれて自然に死ぬが、意図的に努力して生きていかないといけないのです。それなら、「生きるこ とは不自然な行為である」と言っても構わないのです。

 人間の生き方を見ると、あえて不自然に生きているということが分かります。文明・文化に達すること。科学技術・芸術・政治・経済などが現れてくること。 それは決して自然の流れであると言えないものです。自然が壊されてゆくのです。他の生命は、餌を探すことと子孫をつくることだけを目的にして生きています が、他の生命もその目的に用いた分の自然を破壊しているのです。

◆叶わぬ希望に挑戦する
 死は自然に必ず訪れます。決して避けられません。ですから生命は必死になって、生きていきたいという希望を抱えているのです。希望というのは、叶う時、 楽しいのです。決して叶わぬ希望を抱いていることで、誰だって生きる上で失望感・不満・怯えを感じるようになっているのです。生きていきたいという希望が 強ければ強いほど、生きる上で感じる失望感などもそれに合わせて強くなってしまうのです。

◆何をやっているのでしょうか?
 もう一つ、面白い現象があります。誰でも、「私は生きているのだ」と言うのです。しかし、生きているとはどういうこと? 生きると言って何をやっている のか?という問いには、明確な答えを持っていないのです。もしかすると、勉強する、仕事をする、子育てをしている、社会福祉活動をやっている、芸術活動を している、自然を保護する活動をやっている、食事を摂っている、運動している、遊んでいる、などの答えが思い浮かぶかもしれません。しかし、これらの行為 は、生きることと言うよりは、「生きているからやっている」ものなのです。生きているとはどんな行為かとも知らず、必死で生きたがるというのは、面白い現 象です。

◆宗教家の勘違い
 世にある全ての宗教のメインテーマは、生きるとは何か、生きる目的は何か、なぜ生きていくのか、死後はどうなるのか・どうなるべきか、です。しかし、宗 教家はその答えを全く見つけていないのです。神話的な物語を持ち出すのです。信仰で人を束縛しようとするのです。人間がやりたがらないことを無理強いする のです。信仰・迷信・神話などに頼っていたら、「生きるとはどういうことか?」という問題には、決して正しい答えが見つからないのです。

 「生きていきたい」という気持ちはみな持っているのに、「生きるとはどういうことか?」と理解しないのはおかしな話です。客観的に少々観察すると、いと も簡単に発見できるのです。お釈迦様は人々に信仰を勧めないのです。神話物語を持ちだして、自分の言っていることが正しいと証明しようとはしないのです。 お釈迦様は、客観的な観察を勧めているのです。誰にだって、生きることに関する真理を発見できるのだと説かれるのです。観察能力によって切り開かれた釈尊 の智慧を拝借して、生きるとはどういう行為なのかと調べてみましょう。<つづく>

●photo:Chaos by George Alexander Ishida Newman〈flickr〉
▼参考テキスト
パティパダー巻頭法話
「生きているのに生きることを知らない」~生きるとは感覚依存症です~
http://www.j-theravada.net/howa/howa228.html

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

日本テーラワーダ仏教協会さんの写真









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