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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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#‎jtba‬【ご紹介】巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」その②





協会のfbより紹介です。





仏教協会さんの写真をシェアしました。
日本テーラワーダ仏教協会さんの写真
日本テーラワーダ仏教協会

‪#‎jtba‬【ご紹介】巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」その②

◆生きるとは感覚器官の働きです
 身体には、眼耳鼻舌身という五つの感覚器官があります。それに、色声香味触という五種類の情報が触れるのです。それによって認識が生まれて、続くのです。これが生きることです。ここまでは、意思があっても無くても起こるのです。ここまでは、自然に生きていると言えます。

 しかし、眼でものが見えるだけで、耳で音が聴こえるだけで、鼻で匂いを感じるだけで、舌で味を感じるだけで、身体でものを感じる能力があるだけで、生きていられません。意思を働かせて、色声香味触を選んで取り入れなければいけないのです。

 見たいもの・聴きたいもの・嗅ぎたいもの・味わいたいもの・触れたいものを選んで、取り入れるのです。そのために私たちは、料理をしたり、家を建てた り、仕事をしたり、などなどの様々な行為をしているのです。どんな行為をやっても、最終的には自分が選んだ色声香味触を取り入れることになるのです。必要 だとする色声香味触を取り入れることは、意図的に行わなくてはいけないのです。それが、生きるという行為なのです。

 というわけで、生きるという行為のなかに、自然に起こる一面もあります。意図的に行わなくてはいけない一面もあります。この二つをまとめてみると、眼耳鼻舌身に色声香味触がふれて認識が続くことだけだと分かります。

◆必死で生きるとは?
 もう一つ、問題があります。ひとには「これを見たい。これは見たくない」という判断をする意識が必要です。死を避けて生きることを支える色声香味触を取 り入れたいのです。生きることの妨げになる色声香味触から離れたいのです。要するに、俗にいう「好き嫌い」です。色声香味触は物質です。この物質が身体に 触れると、認識が生まれます。認識機能があることが、生きていることになります。

 ですから、生きていきたがる生命は、色声香味触に依存するのです。色声香味触に仏教用語でkāmaまたはkāmaguṇaと言います。欲にもkāmaと いうので、誤解しやすい用語なのです。この場合は、欲・貪欲・愛欲という意味よりは、「好まれる対象」という意味になります。好まれる対象に対して欲が生 じるのは自然の流れなので、誤解しやすいという問題があるにも関わらず、色声香味触という五つの対象にkāma,kāmagunaという言葉を使っている のです。

◆妄想の力
 ひとの命は、五つの対象が認識器官に触れるだけで終了するものではありません。考えるという機能もあるのです。物事を判断したり、喜び・怒り・恐怖感な どを感じたりする必要もあるのです。人間に限っては、勉強したり、知識を増やしたり、新たなものを開発したりする必要もあるのです。それだけでは、必死で 生きるために必要なエネルギーが充分起こらないので、妄想して感情をかき回して増やすのです。

 妄想して欲を増やすと、その分、色声香味触を得るために頑張ることができる。妄想して怒りを増やすと、嫌な・好ましくない色声香味触を避けること・壊す ことができるようになります。ここで五つのkāmaにもう一つ、認識対象が入ります。仏教用語で法・dhammaと言います。この場合の法の意味は、「な んでも」という程度の意味です。眼耳鼻舌身という五つに意という感覚器官も入れて、六つの感覚器官になります。

◆五欲の意味
 最終的な定義に入りましょう。ひとには眼耳鼻舌身意という六つの感覚器官があります。それに色声香味触法という六つの情報が触れて、認識が起きて続きま す。それが生きることです。意識の場合も、自然に起こる意識と、意図的に作る意識という二つがあります。色声香味触は物質的な働きなので、pañca kāmaguṇaと言います。意とその対象になる法は入りません。眼耳鼻舌身の制御方法と意の制御方法は異なるので、この分け方をするのです。

 人間は、色声香味触という五つのkāmaだけに依存しているわけではないのです。自分の思考・妄想・感情に対して、五つのkāmaとは比較できないほど 強烈に依存しているのです。例えば、自分が食べたかった弁当を誰かが持って行ったとしても、少々機嫌は悪くなるかもしれませんが、忘れてしまうこともでき ます。しかし自分の考えを否定されたら、自分の気持ち・感情を否定されたら、激怒するのです。忘れることはできないのです。

◆生きることの意義
 生きるという行為は、以上です。これに加えるべきものは、他に何もありません。生きることに目的はありません。ただ死にたくないので、必死になって生き ていなくてはいけないだけのことです。その生き方も、生存欲と怯えという二つの感情に管理されているのです。では、生存欲と怯えだけに支配されて生きるこ とは、すごいことでしょうか? 尊いことでしょうか? 何か価値のあるものなのでしょうか?

 いいえ、そうではありません。ただ生まれたから、死にたくないから、生きているだけなのです。人生を客観的に観察するならば、理性のある人は誰でも、こ の結論に達するはずです。お釈迦様は、生きているというカラクリをこのように科学的に観察して説かれたのです。しかし、これだけの話では役に立たないで しょう。地球は太陽の周りを回っている。この事実を誰かが明確に一般人に教えてあげる。しかし、「だから何ですか?」という疑問が残るのです。<つづく>

●photo:Cinema São Luiz by Direitos Urbanos〈flickr〉
▼参考テキスト
パティパダー巻頭法話
「生きているのに生きることを知らない」~生きるとは感覚依存症です~
http://www.j-theravada.net/howa/howa228.html

~生きとし生けるものが幸せでありますように~










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#‎jtba‬【ご紹介】巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」その①





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬【ご紹介】巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」その①

◆何かとよく分からない「生きる」という行為
 「生きる」ということは、人間にとって最大のテーマです。しかし、どのように生きるべきか、どの生き方が正しいのか、などの問題に、それほど真剣に取り組まないのです。結局は皆、なんとなく生きているのです。

 自分の希望通りに生きることができれば、幸福に生きている、明るく生きている、楽しく生きている、などの言葉を使うのです。人生が希望通りに行かない場 合は、苦労して生きている、必死で頑張って生きている、何があっても苦労を乗り越えて生きるべき、などの言葉を使うのです。

◆生きることは自然ではない
 生きるとは不思議な働きです。自然に生きることはできないのです。自然に起こるのは、生まれることと死ぬことです。生きるとは、生と死のあいだの働きで す。それは努力しないと成り立たないのです。生命は自然に生まれて自然に死ぬが、意図的に努力して生きていかないといけないのです。それなら、「生きるこ とは不自然な行為である」と言っても構わないのです。

 人間の生き方を見ると、あえて不自然に生きているということが分かります。文明・文化に達すること。科学技術・芸術・政治・経済などが現れてくること。 それは決して自然の流れであると言えないものです。自然が壊されてゆくのです。他の生命は、餌を探すことと子孫をつくることだけを目的にして生きています が、他の生命もその目的に用いた分の自然を破壊しているのです。

◆叶わぬ希望に挑戦する
 死は自然に必ず訪れます。決して避けられません。ですから生命は必死になって、生きていきたいという希望を抱えているのです。希望というのは、叶う時、 楽しいのです。決して叶わぬ希望を抱いていることで、誰だって生きる上で失望感・不満・怯えを感じるようになっているのです。生きていきたいという希望が 強ければ強いほど、生きる上で感じる失望感などもそれに合わせて強くなってしまうのです。

◆何をやっているのでしょうか?
 もう一つ、面白い現象があります。誰でも、「私は生きているのだ」と言うのです。しかし、生きているとはどういうこと? 生きると言って何をやっている のか?という問いには、明確な答えを持っていないのです。もしかすると、勉強する、仕事をする、子育てをしている、社会福祉活動をやっている、芸術活動を している、自然を保護する活動をやっている、食事を摂っている、運動している、遊んでいる、などの答えが思い浮かぶかもしれません。しかし、これらの行為 は、生きることと言うよりは、「生きているからやっている」ものなのです。生きているとはどんな行為かとも知らず、必死で生きたがるというのは、面白い現 象です。

◆宗教家の勘違い
 世にある全ての宗教のメインテーマは、生きるとは何か、生きる目的は何か、なぜ生きていくのか、死後はどうなるのか・どうなるべきか、です。しかし、宗 教家はその答えを全く見つけていないのです。神話的な物語を持ち出すのです。信仰で人を束縛しようとするのです。人間がやりたがらないことを無理強いする のです。信仰・迷信・神話などに頼っていたら、「生きるとはどういうことか?」という問題には、決して正しい答えが見つからないのです。

 「生きていきたい」という気持ちはみな持っているのに、「生きるとはどういうことか?」と理解しないのはおかしな話です。客観的に少々観察すると、いと も簡単に発見できるのです。お釈迦様は人々に信仰を勧めないのです。神話物語を持ちだして、自分の言っていることが正しいと証明しようとはしないのです。 お釈迦様は、客観的な観察を勧めているのです。誰にだって、生きることに関する真理を発見できるのだと説かれるのです。観察能力によって切り開かれた釈尊 の智慧を拝借して、生きるとはどういう行為なのかと調べてみましょう。<つづく>

●photo:Chaos by George Alexander Ishida Newman〈flickr〉
▼参考テキスト
パティパダー巻頭法話
「生きているのに生きることを知らない」~生きるとは感覚依存症です~
http://www.j-theravada.net/howa/howa228.html

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

日本テーラワーダ仏教協会さんの写真









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