新年度ということで、この機会に日本テーラワーダ仏教協会の入会についてご案内
みなさま
失礼いたします。
新年度ということで、この機会に日本テーラワーダ仏教協会の入会についてご案内
いたします。まだ会員にはなっていない方や、現在ご検討中の方など、もし宜しけれ
ば下記をご確認いただき、どうぞ当協会へご入会ください。よろしくお願いいたしま
す。
少し補足説明いたします。当協会の行事などは大体が、会員/非会員に関わらず参
加していただけます。もちろんお布施なども、会員しかできないというものではあり
ません。仏道修行をすることも、会員/非会員の有無は関係ありません。入退会も自
由です。
会員になるメリット・特典というのは、あまり明確ではないかもしれませんが、ま
ず仏教専門誌として、毎月『パティパダー』が送られてきます。そのほか関西では、
宿泊仏教実践会の参加優先(日帰り参加)・精舎宿泊などがあります。
すでに会員になっている方の動機も様々にあり、また会員にならないお考え・事情
もいろいろとあるかと思いますが、それはそれとして、ぜひ入会をお勧めしたいと思
います。
大きな理由は、当協会はこれまでスマナサーラ長老をはじめ比丘サンガの指導に
よって、釈尊の教えを広める活動をしてきました。諸先輩方が何とか日本に釈尊の真
理の教え・正しい生き方を根付かせようと地道に活動してきました。そして、現在も
協会活動が続けられているわけです。これは、そんな簡単なことではないと考えま
す。
大袈裟かもしれませんが文明・文化が発展し、経済や物質が豊かで、現代的で優れ
た生き方をしているつもりの私たちですが、心のことなど何もわかってはいません。
幸福になる方法すら曖昧で、不確かです。生きることが楽になるどころか、結構窮屈
で苦しく、大変だと感じることの方が多いかもしれません。
唯一、その問題を解決できるのが釈尊の真理の教え・正しい生き方です。生命に
とってこれ以上の宝物は、有り得ない。その教えは比丘サンガによって2500年以上も
受け継がれ、現在にも残り、受け伝えられている。いつ壊れて消えてしまうかもしれ
ないこの掛け替えのない財宝を大事に、何とか元のまま守っていくために、私たち一
人ひとりがその教えを実践し、苦しみにを減らし、幸福になることを自ら証明してい
かなくてはいけないと思います。
ちょっと偉そうな文章になってしまいましたが、「釈尊が説かれた幸福に至る教え
を伝える活動をサポートしている、自分もその一員なんだ」「入会することで、その
一助となる」という気持ちを少し感じ、入会しようと思っていただければ幸いです
(気持ちの問題だけじゃないか、と言われれば困ってしまうのですが…)。ご検討い
ただけければ有り難いです。
●入会のご案内 http://bit.ly/17GSDnr
日本テーラワーダ仏教協会に入会されますと、スマナサーラ長老をはじめとした長
老方のご法話やパーリ経典の和訳、各種行事情報などが掲載された月刊機関誌『パ
ティパダー』や施本等が送付されます。新規入会の方には、パーリ日常経典などの入
会セットを進呈いたします。
しかし、何よりの特典は、仏法を学び・実践する集いに参加することで得られるこ
ころの喜びです。自らのこころを育て、お釈迦様の教えを日本で花開かせるための活
動に、あなたも参加してみませんか?ブッダの教えのサポーターとして共に歩みま
しょう。
▼入会方法
初年度の会費として、7,000円(次年度から年間5,000円)を下記の郵便口座までお
振込みください。お振込みには、必ず氏名・連絡先・電話番号、通信欄/通信文に
「入会希望」とご記入ください。ゆうちょダイレクト、他行からのお振込みされた場
合には、協会事務局までメールでその旨(氏名・連絡先・電話番号)をお知らせ下さ
い。その他ご不明な点は協会事務局まで、お電話かメールでお問い合わせください。
※協会への入退会は自由です。
▽入会お問い合わせ
電話:03-5738-5526
メール:info@j-theravada.net
①郵便口座
口座番号:00120-5-763914
加入者名:宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会
②【他の金融機関からのお振込みの場合】
銀行名:ゆうちょ銀行 〇一九 店(ゼロ イチ キユウ店)
口座番号:当座 0763914
口座名:宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会
※氏名・連絡先・電話番号、通信欄/通信文に「入会希望」のご記入をお忘れなく!
以上です。
長文、失礼いたしました。
お幸せでありますように Mayadevi office 趙拝
生きとし生けるものが幸せでありますように
MLホームページ: http://www.freeml.com/dhammawest
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協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
<大仏とやっさんとやさしい教え>
加納 康彦-------- <大仏とやっさんとやさしい教え>
明日4月8日はお釈迦様がお生まれになった大切な日。
日本において、信仰を持っていると言うと、馬鹿にされるか、異端視される。宗教はすべての悪の根源であるから、宗教を持たないことが、そして宗教に触れな いことがナチュラルなコスモポリタンである証だと、この国では多くの人が考えているらしい。けれど世界のどの地域であっても、宗教は決して無視出来ない存 在であり、むしろその宗教が中心となって世界を動かしているもの。日本では多くの人がそれに気づかずにいるか、気づいていながら知らないフリをしていて、 基礎的な知識さえも得ようとはしない。このことはとても残念だけれど、宗教についての感じ方、捕らえ方は多様で難しい。
仏教徒である僕は、仏教を宗教としてとらえることはほとんどなく、仏教は単なる生き方に過ぎないと考える。仏教には「してはいけないこと」と「しなければ ならないこと」の2つを明確にしてもらっているだけで、仏にすがったり、祈ったりするということはあまりない。また指導的立場にある誰かのやり方が間違っ ているとか、その行動や教えがおかしいなどと、批判をすることもない。教えは、生き方 について示してくれているに過ぎないのだから、守っても守らなくても、自由でいいはず。別の言い方をすれば、自らの生き方は自らが考えることで、そこに他 者を介在させる必要はないし、何に対してもやりたければやればいいし、やりたくなければやらないでおけばいい。すべてにおいて、誰かに、そして何かに強制 されるものではないはず。
あの人の教えに従ったら酷い目にあったとか、あのやり方では成長しないとか、批判的な話を聞くことがあるけれど、そんなことはどうでもいいことだと僕はい つも感じている。違うと思えば、見切りをつけ、やめてしまうとか、他を探すとかすればいいだけのことで、ああだこうだと言い続けることは貴重な時間を無駄 にするだけ。それで何かが生まれることは絶対にない。すべては自分だけの、他者には関係のない問題。何に対しても、とらわれないで生きることが重要だと思 うのです。
でも、
こういうことを書くことは、自分自身が何かしらかにとらわれているのかも。いろいろと考えながら、今年も4月8日を迎えます。来年の4月8日は今日よりまともになっていることを願いつつ、一日いちにちすべきことをしていきましょう。
協会のfbより紹介です。
日本テーラワーダ仏教協会
#jtba「お釈迦さまの『正しい損得勘定』」
■人はネットワークの中で「生かされている」
人がなんらかの行動をするとき、まず考えるのはどんなことでしょうか。ごく一般的にいえば、それが自分にとって「損か、得か」ということでしょう。行動原理の大元は「損得」にある。それが、一般的な考え方といってもそれほど間違ってはいないでしょう。
では、人は何を損、何を得と受け取るのでしょうか。
自分が与えるものよりいただくものが少ない場合には損、逆に与えるつもりよりいただくものが多い場合には得、と受け取るのではないでしょうか。そうすると、できるだけ与えるものを少なくして、どっさりいただくのが「得な生き方」、与えるものばかり多く、いただくものが少ないのは「損な生き方」ということになります。
しかし、それはあまりにも自我中心的な考え方です。いうまでもないことが、私たちは一人で生きているのではありません。他の人たちの「ネットワーク」の中で、もっといえば、人ばかりではなく他の生命体とのネットワークの中で「生かされている」のです。
自分の命をつなぐために動物や植物を食糧としていることを思えば、そのネットワークなしには生きられないことは明らかでしょう。ネットワークによって生かされているのですから、私たち一人ひとりに、ネットワークの中ではたすべき役割があります。「与えるべきものがある」といってもいいでしょう。
「与えるべきものを与えて、それに見合うだけのものをいただく」「生きる」とはそういうことです。たとえば、仕事でいえば、仕事のために能力や知識、体力や時間を使うのが与えること、そのことによって収入を得るのは、文字どおり、いただくことになるわけです。
大事なのは両者のバランスです。バランスが取れているうちはいいのですが、それがどちらかに傾いたときに、「自我中心的な損得」という感情が生まれてくるのです。仏教的にいえば、いただくことに汲々としているのは「悪い行為」、与えてばかりいるのは「愚かな行為」ということになります。
■「正しく与える」こと、「正しくいただく」こと
ここで疑問を持つ人がいるかもしれません。自分を犠牲にして社会に貢献する、すなわち、与えることに重きを置いた生き方は、“愚か”ところか、“よいこと”ではないか、というのがその疑問の中身でしょう。たしかに、大乗仏教では、自己犠牲を厭わず、他人に貢献することが「菩薩行」であるかのような良い方をすることがあります。
しかし、私は、この考え方には批判的です。はっきりいって、自己犠牲のうえに成り立っている貢献など、かっこよい菩薩行ではないのです。自分を犠牲にするということは、見合っているべき“与える”“いただく”というバランスを崩すということです。ネットワークで一人ひとりが生かされている中で、誰かがバランスを崩せば、ネットワーク自体のバランスの崩れにつながります。さて、それがよいことでしょうか?
もちろん、生きている間には、自分が犠牲にならざるを得ないような状況もあります。そこで必要になるのが「智恵」です。「自分にとって悪い状況の中で何をしたら、どのような行動を取ったら、自分が犠牲になるのを少しでも軽減することができるか」ということにありったけの考えをめぐらせることが大切です。
そのようにして悪い状況を乗り越えたら、そのたびに智恵が一つずつ蓄積されていくのです。仏教ではその智恵のことを「方便」といいます。方便というと、「嘘も方便」といった使われ方をすることが多く、どちらかといえばマイナスイメージがあるかもしれませんが、それは間違いです。生きる中で何度となく直面するさまざまな問題を解決し、乗り越えていく智恵こそ、方便が真に意味するところなのです。
誰かに犠牲を強いることにならざるを得ないような状況でも、それを少しでも減らす手立てを考える。そこでもまた方便が必要となる。こうして、方便を使うことによって、自分が生かされているネットワークのバランスを整えるのです。いついかなるときでも、「自分が正しく与えているか」。そして、「正しくいただいているか」。それをチェックするのが、仏教の「損得の智恵」です。この智恵は、生きるうえで、おおいに働かせなければいけません。
▼参考テキスト
ブッダが教える損する人生、得する人生:幸せに、「一人勝ち」なんてない
http://amzn.to/1bQ5TZu
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪
協会の記事ではありません。
木下全雄 さんの fb の紹介です
麻生川桜まつりの写真とともに、朝日カルチャーセンター湘南教室の講義資料の一部をご紹介させていただきます。
これによって、ヴィパッサナー実践とマインドフルネスに少しでも興味を持っていただけたら嬉しいです。
マインドフルネスの流行
最近の精神医学界では、マインドフルネスという治療実践法が流行しているようです。また、一般社会においてもグーグル社員の10人に1人がこのマインドフルネスを実践している(グーグルのマインドフルネス革命 サンガ編集部)と言われています。日本社会においてもその影響が広がり始めています。資生堂さんが新エクササイズとして「マインドフルネス洗顔」というのをネットや電車内の広告などで紹介しています。
先日、数多くのマインドフルネス関連本の翻訳をしていらっしゃる出村佳子さんという方とお会いして、マインドフルネスについて詳しく教えていただくことができました。また、出村様はテーラワーダ仏教のヴィパッサナー冥想についてもとてもよく理解と実践をしていらっしゃるので、私としましては本当にありがたい勉強会になりました。
その勉強会を通して私は下記の見解を持つに至りました。また、今後の勉強によっては理解が変わる可能性はありますが、ここで一先ずまとめておきたいと思います。
瞑想とマインドフルネス
マインドフルネスとは、仏教の行のことです(マインドフルネスを始めたいあなたへ ジョンカバットジン)。そしてそのマインドフルネスという言葉の意味は「心で満ちた性質」や「心いっぱいの状態」と訳されています(マインドフルネス–基礎と実践– 貝谷久宣 熊野宏昭 越川房子)。
仏教の伝統的な瞑想法には、「止と観」と呼ばれる二種類があります。
マインドフルネス瞑想法では、「止観」の止の部分の集中力と、観の部分の注意力を合わせた〝注意集中力″を高めるためのトレーニングを体系的に組み立てています。そして、アジアの仏教にルーツを持つ瞑想の一つの形式を基本としています(マインドフルネスストレス低減法 J.カバットジン)、と明言されているのですから、マインドフルネスと仏教とは兄弟関係にあるようです。
一般的なマインドフルネスの実践と言えば、呼吸に集中する3分間呼吸空間法、静座瞑想法、ボディスキャン練習、気づきをもってレーズンを食べる(マインドフルネス認知療法入門 レベッカ・クレーン)、ヨーガ瞑想法、歩行瞑想法(マインドフルネスストレス低減法)などがあげられます。また、マインドフルネスストレス低減法の一部には、慈悲の瞑想が組み込まれることもあるようです(マインドフルネス–基礎と実践–)。
これらはほぼ全て当講義でも学んでいただく項目になっています。一つ目の止観の止に当たる止瞑想つまりサマタ瞑想は、対象に心を集中させる集中瞑想ですが、それは慈悲の瞑想で体験していただきます。二つ目の、止観の内の観に当たる観察瞑想では、外部と自己を客観的に観察し、無常、苦、無我を発見します。これはヴィパッサナー瞑想として体験していただきます。そういう意味で、当講座は、お釈迦様の教えのマインドフルネス体験と言うことができると思います。
マインドフルネスとヴィパッサナー実践
しかしながら、さらに厳密に調べていくと、マインドフルネスとヴィパッサナー実践に若干の違いを見ることもできます。その違いを十分に理解した上で、これはマインドフルネスです、と言ったりこれはヴィパッサナーです、と言ったり、状況に応じて呼称を使い分けしていただきたいと思います。