協会の記事ではありません。
木下全雄 さんの fb の紹介です
マインドフルネスを学べば、ヴィパッサナー実践で全てやっていることだと気付くと思います。そのマインドフルネスという立場を使えば、医療現場でも教育現場でも他宗教の布教現場でさえも、現代人に相応しい理性的で道徳的な生き方を提案することができるのです。それならば、私達は人々の幸せのための新しい布教の在り方としてマインドフルネスから始めても良いのではないか、と思っています。
自己を客観視する仕組み
仏教では、私はない、という無我の教えですね。刻々と変化する無常であるが故に、私という実体は本来成り立たないのです。しかし誰でも西洋哲学の「我思う、ゆえに我あり(デカルト)」のように変わらない私は居るだろうと思っているのです。そこでそれに待ったをかけて、その思考もその感覚もその肉体も変化をして変化を感じているのが事実ではないのか?と問うているのが仏教の立場です。
そこでその無我の観察・確認・証拠集め作業のために、仏教の修行では自分がしている動作、自分の感覚、自分の心境など、自分自身を拠り所として、自分を観察します。これはヴィパッサナー実践において「実況中継」として顕著に見られる観察方法です(自分を変える気づきの瞑想法 A・スマナサーラ長老)。
動作ならば、伸ばす・曲げる・上げる・つかむ・下げる・しゃがむ・回す・歩く・吸う・吐くなど、現実世界でやっていることを動詞で確認します。
感覚ならば、立っている・座っている・横たわっている・見ている・味わう・痛み・かゆみ・暑さ・寒気・しびれ・硬いと感じる・冷たいと感じるなどと、「〜と思っています」というように自我の主観を弱めた形で観察します。
心境ならば、怒り、落ち込み、妄想している、眠気、喜び、など好き嫌いや善悪という判断をせずに自分の心境さえも客観的に観察するだけで十分なのです。
協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
<大仏とやっさんとやさしい教え>
さて、僕の感覚は正しいでしょうか。
常に、ケータイのワイヤレスヘッドセットをつけ、訪問してくる人がいる。その姿は「私は目前の人よりも、かかってくるかもしれない電話を優先します」とアピールされているかのようで、いつも違和感を持ってしまう。自ら「デキルヒト」を演出したいのかもしれないけれど、僕は、彼がデキルヒトなのかどうかを知らない。ただ、ほんとうに「デキルヒト」なら、僕に違和感を持たせることはないはずだとも感じる。
こんなふうに、他人がすることに一々反応することは、実に馬鹿らしいことだけれど、雑多な感情は常に生じるもの。先日、四六時中怒ってしまう、という相談が新聞に載っていた。相談者は職場で常に怒っているとか。それに気がついているのだから、怒りを消すことは大変ではないと考えるのだけれど、対処することは難しいらしい。
スマナサーラ長老の著書「ついに悟りをひらく」に怒りについての項目があった。
『怒る場面や原因があるのだから怒るのは当然だと思うことがあるかもしれませんが、そうではありません。その人は怒るべくして怒ったのだと考える。その人は自分で勝手に怒りたいと思って怒っているのです。意識がそこにあるのです。その人は怒ることもできるし、怒らないこともできるのです』
ある意味、怒りは娯楽のひとつだと最近、僕は考えるようになってきた。多くが、相手が反撃してこないことを知った上で怒る。その怒りで、他人が困ったり、狼狽したりする反応を見て楽しむ。そして自分が優位な存在だとして喜ぶ。
長老が言われるように、怒るかどうかは、その対象となる事象が生じる前に、既に自ら決めている。こんなことがあったら怒ってやろうとか、こう言われたらキレてやろうとか、人はそんな決まりごとをいくつも心の中に忍ばせている。怒りたくなければ、そのような決めごとを一つずつキャンセルしていけばいいだけのこと。世の中には、娯楽はたくさんあるのだから、怒りにそれを委ねなくてもいいように、僕は思うのです。
『怒ろうか、気持ちよくなろうか、暗くなろうか、落ち込もうか、すべてがその本人の勝手で自分の意思でやっているのです。自分の責任で。それも因果関係です』とか。