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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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#jtba「欲の炎」~感覚が捕えて離さない~----協会のfbより紹介です。





協会のfbより紹介です。





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日本テーラワーダ仏教協会
 

#jtba「欲の炎」~感覚が捕えて離さない~

 「好き」という人間の感情について、続けて説明したいと思います。この概念を明確に理解すると、生命のからくりが明らかになるのです。「好き」と言えば、反対に「嫌い」という感情もあります。

 生きるということは、不可思議なものでも、神秘的なものでもありません。尊いものだ、生きることには大事な目的があるのだ、というのは単なる人間の主観的な感情にすぎないのです。生きるということは、「嫌い」を避けて「好き」を追うことです。とても単純な構成なのです。しかし、人は生きることを過剰評価するので、わからなくなっているだけです。

 ブッダが、生きることは苦である、空しいものである、執着するに値しないものだと説かれても、人には、全く理解できない難しい話のように聞こえるので す。それは、自分の頭の中で「生」を過剰評価する感情的な妄想が錯綜しているからです。客観的にものごとを観る余裕がないからです。

 「生きる」ことは、「嫌い」を避けて「好き」を追うという、あまりにも単純な機能なのです。従って、「好き」という感情について詳しく分析して、理解す る必要があります。それによって、生きる苦しみを乗り越える方法を発見できるのです。今月は「好き」(piya)の、性欲(rati)という側面を考えて みましょう。

 俗世間では、性欲/rati はとても自然的な本能として、正当化している感情なのです。しかし性欲が社会に与えているトラブルは、想像を絶するものです。精神病の大半は、歪んだ性欲 が生んだものです。社会で起こる犯罪の、大半の原因は性欲なのです。幼児虐待、誘拐、殺人、放火などが、毎日のように起こります。

 性欲のせいで、非難されて政治の世界から閉め出される政治家もいますし、会社を倒産させる人々もいます。家庭を崩壊に追い込む人々の数は膨大です。諜報 活動にも性欲が大事な役割を果たしています。治療不可能のHIV感染は、世界的な問題となっています。貧しい国々の子供たちに売春を強いるので、子供たち が人権どころか、生きる権利まで奪われているのは、性欲のせいなのです。

 人間社会にいくら不幸を与えても、俗世間は性欲を正当化する。性欲は自然な本能だと思う。必要不可欠なものだと思う。しかし、この考えは単なる主観的な 感情であり、客観的な事実ではありません。「子孫を残す」ということに人間も他の生命も必死なのです。それは客観的な事実です。しかし、子孫を作ること で、その生命が得るものは何かあるのでしょうか?
 
 食欲も欲ですが、それは満たせないと命を失います。ですから、必然的に満たさなくてはならない欲なのです。しかし、性欲を満たせないからといって、命を落とすことは決してあり得ないのです。それなのに、なぜ性欲は断言的に正当化しているのでしょうか。

 それは性欲が、生命の追う様々な「好き」の中で、かなり強烈なものだからです。ですから皆、性欲が満たされることを期待するのです。「子孫を残す」とい うのも、実は表向きの言い訳に過ぎません。人間の間では、結婚にも異性との関係にも興味はないが、子供を欲しがる人もいます。その人々は子孫を残したいと いう気持ちではなく、子育てが「好き」で、それを喜びたいのです。

 現代社会では子供を作ることを完全に否定して、性欲だけ満たして生きていきたいと思う人々の数が多いのです。性欲は決して生きることに欠かせない本能ではありません。音楽を聴く、贅沢をするなどのように、もう一つの強烈な欲なのです。

 性欲を満たすことで命が延びるというよりは、縮みます。体力・精神力・財力を大量に費やすことになります。人は、性行為から得る快楽に強烈に執着します。猛烈に依存するのです。ですから、その快楽を得るために費やすエネルギーの量は全然気にしないのです。

 日常生活の中で様々な問題が起こるとき、楽しみや充実感を得られないとき、人はその苦しみのはけ口として性的快楽に依存することもあります。そのような 人々は、愛することこそが人生の楽しみだ、神様が与えてくれたお恵みだと思うのです。愛する家族がいるからこそ日常の苦しみを乗り越えることができるのだ と言うのです。

 その上、性欲は必ず独占欲を生み出す。独占欲はあらゆる問題、苦しみを引き起こします。性欲の対象を独占するためには、かなり苦労しなくてはならないのです。なにかと闘う羽目になる。闘うことによって、負けることも損害を受けることも味わわなくてはならないのです。

 独占欲というものは、制御しておかないと大変危険です。そのために、結婚と家族という文化が現れたのです。結婚、家族制度は、国によって宗教によって変 わります。社会で「不倫は良くない」と言うのは、道徳を説いているのではありません。不倫は独占欲にチャレンジを仕掛けるからです。

 仏教も、「不倫は良くない」と言いますが、でもこれは道徳なのです。ブッダは、性欲は割に合わないほど不幸を招くもので、心の成長を妨げるもの、人を苦しみに徹底的に依存させるものであると説くのです。

 ですから、個人は自分の幸福を目指して心の成長を目指し、様々なトラブルや苦難を避けるために、不倫をやめるのです。自分の快楽のために他人の命を弄ぶ ことは人権侵害であって、慈しみの正反対だと理解し不倫を止めるのです。ですから、仏教で不倫は良くないと言っているのは、道徳なのです。人の独占欲を正 当化するためではないのです。

●photo:FIre by pwjamro<flickr>
▼参考テキスト
「美しく燃える欲の炎」~性欲は危険と苦しみにかぶる目隠し~
http://www.j-theravada.net/howa/howa122.html
~生きとし生けるものが幸福に暮せますように~










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facebook | 11:40:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
正田先生の初期仏教勉強会第9回の告知です。





東海ダンマサークルの主催行事です





今週、土曜日 正田先生の初期仏教勉強会第9回の告知です。

何も準備なく、どなたでも参加できます。

経典と解説の二部構成
第8回のテーマは、ブッダを知る十のキーワードの8.「いつくしみ」です。

日時:2016年8月27日(土) 13:00から16:30まで
場所:名古屋 南生涯学習センター 第2集会室 (JR笠寺駅 西へ500m)
 参加費は、会場利用料の他に講師の交通費等、必要経費を参加人数で割った金額になります。  (ご参考:参加者10名の場合、約 ¥1500)

第10回の予定は、2016年 9月24日(土) 13:00から16:30 南生涯学習センター第1和室
第11回の予定は、2016年10月22日(土) 13:00から16:30 イーブルなごや(女性会館)第3集会室

問合せ先 東海ダンマサークル 船橋 sokichi2784@gmail.com










正田先生の初期仏教勉強会 | 09:02:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
1.釈尊の根本的教え (8)仏教と仏教の違い





協会のホームページからの紹介です。





根本仏教講義
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOME根本仏教講義→1.釈尊の根本的教え (8)仏教と仏教の違い (No8)
1.釈尊の根本的教え
(8)仏教と仏教の違い
A・スマナサーラ長老

 私たちはいま現在二十世紀の最後の部分を生きているわけですが、考えてみるとこれは実は大変な時代なのです。というのも、十年前、いや五年前にく らべても情報網の驚異的な発展でいまはニューメディアと呼ばれる時代で、世界中の情報が一瞬のうちに入ってきて、まるでそれは地球上の排泄物がぜんぶ流れ こんでくるような様相を呈している有り様です。さまざまな情報がお茶の間で手にとるように分かることは一見大変便利で、いい時代のように錯覚しますが、実 は情報公害とでも言えばいいのか、私たち人間には入ってくる情報のどれが正しくてどれが間違っているものなのかの判断がなかなかつかないで困っているとい う事態もまた多く出てきているのです。

 特に日本はマスコミが非常に発達していますから、世界中の出来事がリアルタイムにテレビなどで報道されます。ニュースや事件ならまだありがたいの ですが、例えば、今は心の時代だからとかなんとか理屈をつけて、チベットの山のなかで修行僧を映し出しては、これが密教であるとやられる。違うチャンネル では、中国の深山幽谷で悟りを開いたとかいう僧を紹介して真の仏教はこれだなどと特集番組を組む。見せられる人たちはもちろん専門家ではないので、一知半 解な頭のなかへ次々といろいろな情報が詰めこまれ、いったいどれが本当なのか、どれを信じていいのか、自分だけの判断では情報の交通整理が出来なくなって しまうのです。物はあるけれど、いったいその物の実体は何なのか分からなくなってしまい、極端に言えば頭のなかはパニック状態なのです。

 いちばん大切なことは、我々は何を信じて、どう生きるべきかということであり、何のために生きるのかの回答を得るために情報を求めているのに、こ れではますます混乱してしまいます。しかも、間違った選択によって社会問題までひき起こす結果も生まれてきてさえいるのですから、こうなると我々はマスコ ミのおもちゃという由々しき立場に追いやられているということもできるでしょう。これからの我々は、何とかして情報を自分で判断する能力を身につけなけれ ば、目の前に来ている二十一世紀を生き抜くことが出来ないのではないかとさえ思います。ただ発展していくことを凄いと思うのではなくて、情報過多の時代性 に危険を感じるべきなのです。

 なぜこういうことを申し上げたかというと、仏教とブッダの教えに対してもいまこの日本で、また世界のあちらこちらで、さまざまな情報が飛びかい、 これから謙虚にブッダの教えを学ぼうとしている多くの人々の頭を混乱させているからに他なりません。正しい仏教とは-、正しいブッダの教えとは-、情報過 多が真実を歪めている現状のなかで、私たちが心して正しい道へと嚮導(きょうどう)していかなくてはいけないとしみじみその責任の重要さを思うのです。

 どんな宗教もそうでしょうが、もし仏教を信仰してその教えを実践しているならば、どういう方法が自分にふさわしいのかを判断するということは極めて大切なことです。

 まず、仏教は釈迦牟尼仏陀が説いた教えであるということです。当たり前のことのように思われるかもしれませんがこれが基本です。そして、仏教には この釈迦尊の教えと世の中で仏教と呼んでいる二つに分けて定義するべきです。なぜ二つに分けるのでしょう。それはこの世の中のいろいろな場所で信仰されて いる仏教をみると、あきらかに釈迦尊の教えとは思われない、つまりそれぞれのリーダーと目される人が自分なりの解釈や編集や訂正を加えて、独自の宗教とし て作っている。
それを私はべつに悪いことであるとは思いませんが、リーダーが作ったその宗教を信奉する現代人は自分に情報処理能力がない故にそれもまた仏教であると信じ こんでいる、これは違うと知るべきだと思うのです。先程仏教は釈迦尊の説いた教えという認識が基本であると言いましたが、この基本の情報さえきちんと認識 していれば、どんな宗教を信仰したとしても、つねにこの基本を判断のメルクマール(物差し)としていれば、判断を誤ることは決してないのです。自分の信仰 している仏教団体の根本真理はすぐ分かるでしょうから、それに釈迦尊の教えを照らしあわせてみる。釈迦尊の教えを知っている人であれば、仏教に似ている教 えを見抜く目は必ずあるはずです。また、他の宗教であろうとも、釈迦尊の教えを知っていれば、その宗教が自分にとってどういう必要があるかどうかを判断す る恰好の目安になるはずです。そういう意味においても、正しい情報処理能力というものが現代人にとって必要不可欠であるかとがお分かりでしょう。

 とくに現代は、精神世界への勧誘が一種のブームになっているようですが、精神世界を追い求めていくと、たいていは超能力という世界に魅せられて いってしまうのです。超能力の世界は一歩間違うとそれこそ取り返しのつかない大変危険な状態になる可能性がありますから、その意味から言ってもきちんと何 でも区別して判断できる能力を身につけなければなりません。そこで、ブッダの教えを考えてほしいのです。遠い昔にこの世に現れたブッダが何を教えたかった のか、この根本的な、かつ最重要の問題にいまの仏教はきちんと答えていないのです。

 2500年以上経っていても、もし暇のある方が丁寧に釈迦尊の語った言葉を忠実に写し取ったとしてそれを読むとしたら恐らく光輝く現代的な鼓動が 聞こえてくるに違いありません。釈迦尊は、堅苦しいルールなど一切言ってはいません。葬式はこうせよとか、祈り方の方法とか、法要の必要などそんな信仰の システムなど全くの無視です。もしそういうことが釈迦尊の教えの根本と考えている人がいたらそこからもう間違っています。そういうシステムは、後世の宗教 関係者が勝手に作ったものです。釈迦尊の教えは、まさに自由そのものでした。だれでも自由に勉強したり、批判したり較べたり、何でも出来なければならない というのが釈迦尊の考え方の基本になっているのです。

 釈迦尊はこう仰言られる。「自分の話していることは決して時代に左右されるものではない。時代によって古くはならない、普遍的な教えである」どんな時代を迎えようと、どんな人間であろうともいつでもだれにでも理解が出来、実践できる教えであることを強調されるのです。

 どういうことか、もう少し詳しく考えてみましょう。釈迦尊は、自分はただ真理を語っているだけだと言っているのです。真理そのものはだれが語って も、いつの時代でも変わるはずがないというものです。真理を語る場合、また真理を知る場合に絶対的な法則が出てきます。例えば、ある宗教団体が「我々の宗 教団体に人らなければ尊い教えを得ることは出来ませんよ」と言ったとしましょう。しかし、真理が絶対である以上、そんな制限はニセものであるということに なります。なぜならば、科学上の真理が人の目から隠すことが出来ないように、仏教の真理、というか人間の心の真理もまた隠すことは不可能なのです。真理 は、だれがどんな角度でどんな立場から見ても必ず一つ見つかるはずです。ですから、真理の前には何の怖がることも、恐れることもないのです。なるひとが見いだした真理と、な る人間が掴んだ真理とが違ったり、矛盾があってはそれは真理とは言えないのです。ですから、自分のところの宗教の教える真理は他の宗教とは違うのだという のでは、信仰する側は困ってしまうわけです。しかも、批判も、比較もすべて自由である! こんなことをいう仏教が現在あるでしょうか。どこの宗教をとって も、「どうぞ私のところの宗教を勉強して思う存分批判してください。哲学や倫理学、道徳などともどうぞ比較して検分してください」などと言う宗教が存在し ますか? どちらかと言えば、現代の宗教というと入信した信者だけを優遇する秘密主義的なところがあり、そういう意味では閉鎖的で、宗教本来の存在理由か ら離反していると言わねばなりますまい。

 仏教の有名な言葉に、Ehipassikaという表現があります。「来てください、見てください、自由に」と いった意味で、束縛をしないということですね。いまの宗教は、信者として束縛をしているでしょう。私のところの宗教はこういうことをしなければいけないと か、こういうことは絶対にやってはいけないとか、いろいろな制約を設定していますね。その代償? として、幸せな生き方が出来ます、みんなが仲良く生きら れます、心の安寧と平安が得られます、というのはまだいいとしても、果ては病気が治りますか、お金持ちになれますとか、もっともっと偉い人間になれますな どという個人の利益をちらつかせ、また信者のほうも仏教を信奉すれば、そういう自分の人生における得(徳ではなく)が身につくと、誤った情報によって踊ら されているというところが現状でしょう。こういうのはまともではないということを、釈迦尊は言われているのです。真理を知りたければ、まず自分でものごと の真贋を見抜き、解釈し、判断できる能力をもったまともな人間になることである、と。

 とくにここで私が言いたいことは、もし釈迦尊の教えを仏教と定義するなら、日本をはじめ中国などで仏教と呼んでいるものは仏教でないということで す。最澄の興した天台宗、空海の真言宗、法然の説く浄土宗、親鸞の説く浄土真宗、日蓮の説いた日蓮宗など、ふつうのひとはみんなこれを仏教と思っています がそれはとんでもない大間違いだということです。これは当時の新興宗教であって、分かりやすく言えば最澄宗、空海宗、法然宗、親鸞宗、と解釈すべきなので す。仏教は読んで字の如くブッダの教えです。釈迦以外にはだれも説けない教えなのです。マスコミもこういう正しい情報は提供してくれません。しかも、現代 ではすべてが受け売り文化です。自分で勉強しなくても、わざわざ修行など苦しい思いをしなくともチャンネルをひねれば情報が飛び込んでくる時代です。この 受け身の文化が実は、ものごとの本質を見抜くことを出来なくする元凶だったのです。

 釈迦尊の言われる、まともな人間であるためのもっとも大切なことは、この体験ということなのです。真理を知りたければ、釈迦尊の説かれることを自 ら実践する以外方法がないのです。釈迦尊の教えは、頭で聞くだけの観念的な教えではないのです。実践して自分で、「ああ、そういうことなのか。なるほど、 よく分かった」と実感できるものこそ真理であるというのです。しかも、真理は時代の変化に動かされることもないし、人間の違いによって左右されるものでも ない、絶対のものであるからこそ、2500年以上経過した今でも、だれもが釈迦尊の教えを不変なものとして学ぶことができるのです。ですからあなたもぜひ 釈迦尊の教えをご自分の体験として確認してほしいのです。あなた自身がまともな人間であるためにも。

(スマナサーラ師講演録から構成しました)

HOME根本仏教講義→1.釈尊の根本的教え (8)仏教と仏教の違い (No8)









テーラワーダ仏教とは? | 14:20:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
#‎jtba‬「自他の存在を比較すると」





協会のfbより紹介です。





画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、1人以上、自然
.
日本テーラワーダ仏教協会

‪#‎jtba‬「自他の存在を比較すると」

「私は他より優れている」と感じることは高慢です。
「私は他と同等だ」と思うことは同等慢です。
「私は他より卑しい存在である」と思うことは卑下慢です。

慢とは、私のエゴの錯覚から起こるのです。
私は、エゴの錯覚がこころに現れないように、と精進します。
私は、慢により現れる対立・悩み・争いから離れるように、と精進します。

▽補足
 仏教用語で「慢(māna)」といいます。慢とは自分を評価することです。計ることです。誰にでも「自分」という自覚があります。何も悪くない、自然な 意識である自覚は、自我意識に化けるのです。人は無知のせいで、一切は瞬間瞬間変化してゆく一時的な現象であると理解できません。

 自分という自覚は絶えず起こるので、変わらない自分がいると錯覚を引き起こします。それから自分(自我)を評価する、計る。これが慢なのです。自分が正しいと評価することは、「高慢(ati māna)」です。

 自分がダメだと思うことは、「卑下慢(hīna māna)です。「慢病」で悩んでいる限りは、怒りは絶えません。

 「良いことを発見しました。自分が他人より偉いとも、卑しいとも思わなければいいのだ」とひらめくでしょう。残念なことに、それは違います。自分も他人 も同じだ、平等だ、と思ってもダメです。それも自我意識でしょう。仏教では「同等慢(sadisa māna)」といいます。

 しかし同等慢の人は、滅多には怒りません。肺炎に比べれば、風邪は軽症かもしれません。しかし風邪を引いて良いわけでも、面白いわけでもありません。風 邪をこじらせたら肺炎にもなります。同等慢の人も、他人の差別的な生き方を見て、とくに自分をあまりにも軽視されると怒ってしまうのです。ということは、 慢(自我意識)がある限り、怒りは付いて回るのです。

●photo:Seesaw by antony_mayfield<flickr>
▼参考テキスト
「釈迦牟尼仏陀の世界」(慈悲の実践フルバージョン)
https://www.facebook.com/note.php?note_id=964254363636433

「怒りは心の自動発火装置」~怒りは簡単に消えないもの~
http://www.j-theravada.net/howa/howa127.html

~生きとし生けるものが幸福に暮せますように~









facebook | 14:07:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
#‎jtba‬「夫婦円満の秘訣」~信頼は努力して築くもの~





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬「夫婦円満の秘訣」~信頼は努力して築くもの~

 社会では人間関係に困っているという人は多いようです。円滑な人間関係を築くために、いろいろと勉強もします。しかし、人間関係といえば皆、社会との関係、会社の同僚との関係のみを考えるのです。家族は、人間関係という枠に入らないのです。

 これはとんでもない間違いです。家族との関係も、人間関係です。家族との関係さえも円滑でない人に社会での人間関係がうまくいくわけがありません。伴侶の気持ちがわからず、子供の気持ちがわからなくても、社会ではリーダー格でいる人もいます。

 しかしこれは、「社会では恐いほど厳しいが、家に帰ったら奥さんの尻に敷かれている」と笑い話で済ませる問題ではないのです。このようなリーダーは、社会に対しても危険な存在です。

 円滑な人間関係を築きたい人は、まず、家族との円満な関係をつくるべきです。この場合は、子供というよりも、伴侶との関係が何よりも大事です。この経典は、シンガーラという若者に説かれたものなので、先に奥さんとの関係が説明してあります。

 円滑な夫婦関係のために必要な条件は五つです。

 一つ目は sammānanā/奥さんを誉めること。
 二つ目は avimānanā/奥さんを軽蔑しないこと。
 三つ目は anaticariyā/奥さんを裏切らないこと、不倫しないことです。
 四つ目は issariya - vossagga/家の権利を任せること。
 五つ目は alamkārānuppâdana/奥さんがおしゃれもできるように、服や装飾品などを与えてあげること。

 「何だ、そんな単純なことか。それぐらいなら私達も知っている」という気がするでしょう。しかし2500年前のインドの社会では、女性にも平等な立場があったかどうかわかりません。

 女は家の附属品だと思われていたのではないでしょうか。これは釈尊が女性の心理をお分かりになって教えたものではないかと思います。今の社会における夫婦関係も悪くなるとすれば、上の五つの条件の一つなり二つなりを破った時に起こるのではないでしょうか。

 次に、奥さんが夫に対して守るべき五つの条件です。

 一つ目は susamvihita - kammantā/仕事を良く処理する。
 二つ目は susamgahita - parijanā/両家の親族を大切にする。
 三つ目は anaticārinī/不倫しないことです。
 四つ目は sambhatam anurakkhati/家の財を守ることです。
 五つ目は dakkhā ca hoti analasā sabbakiccesu/勤勉になすべき事を上手にこなすことです。

 説明しなくても意味は分かると思います。現代社会では、家事をしないで外で仕事だけしたがる女性もいます。また逆に、夫婦共働きなのに、家事は女性だけの責任だと思う男性もいます。釈尊は夫婦のことを平等だと見ているのです。

 男性が仕事するのなら、家事は女性の仕事だとここではいっているのではないかと思います。昔は「会社で仕事」という形はなかったので、家の収入を得るた めに、女性も手伝いしたことでしょう。ですから、家の財を守ること、管理することなどに女性の参加は不可欠だったと思います。

 夫婦がこの10項目をよく理解して守って生活するならば、円満な家庭環境を築くことはたやすいのではないでしょうか。

●photo:Shopping mall Escalators by My name's axel<flickr>
▼参考テキスト
17.人とのつきあい方 (8)師弟関係・夫婦関係
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi90.html

成功する生き方 「シガーラ教誡経」の実践
http://amzn.to/2bu9JLm

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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#‎jtba‬「比丘サンガ(僧団)とは無上の福田」~よき友に近づく~





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬「比丘サンガ(僧団)とは無上の福田」~よき友に近づく~

 サンガという語は「集い、団体、組合」など何かのグループを意味する言葉です。お釈迦さまは当時のインドで出家サンガグループという悟った人々の集団、一般の人々の規範となるモデル集団をつくられました。

 仏教の出家サンガというのは無執着の世界で、人を差別してはいけない世界です。無条件で慈悲を実践しなくてはいけない世界なのです。

 そのモデル集団のすばらしさは、二千五百年経った現代でも、スリランカやミャンマーやタイなど、上座仏教を奉ずる国々で生きています。ですからその国の人々は、サンガに対してはたいへん尊敬し、信頼しています。

 初期仏教におけるサンガは、真理を目指して仏教の教えを実践しようと思って集まるグループでした。もとの定義では、出家・在家というよりも、真理を体験しようと思って努力する人々のことです。つまり仏教徒は皆サンガのメンバーだということができます。

 でもサンガの資格が完全に確定されるのは、預流果(ヨルカ/sotāpatti)以上に悟りを開いた人々です。ですから資格を取った人々と、これから資 格を得ようとがんばっている人々の、二種類のサンガがあります。もうひとつのサンガの定義は、仏教の出家者のグループで、それもサンガと呼んでいます。

 人々に帰依されるサンガの資格として、経典にはまず、supatipanno(スパティパンノ)、ujupatipanno(ウジュパティパンノ)、 ñāyapatipanno(ニャーヤパティパンノ)、sāmīcipatipanno(サーミーチパティパンノ)という四つが挙げられています。

 su(ス)は善き、uju(ウジュ)は正しい、ñāya(ニャーヤ)は解脱、涅槃、sāmīci(サーミーチ)は方正で尊敬されるべきという意味で、そ れぞれに -patipanno(パティパンノー)…実践して終わった、という語がついています。つまり「正しく仏道、中道、解脱の道を実践し終えた人々」という意 味になります。

 次に yadidaṃ cattāri purisayugāni aṭṭha purisa puggalā(ヤディダン チャッターリ プリサユガーニ アッタプリサ プッガラー)という句文があります。これは「四双八輩」と訳されている語で、 預流道、預流果、一来道、一来果、不還道、不還果、阿羅漢道、阿羅漢果、という八つの悟りの段階のどれかにすでに入っている人々のことです。

 ~道と~果というのは原因と結果を表します。たとえば預流道は、預流果になるための道 (原因)です。四つの悟りの段階を原因と結果に分けているわけですが、この原因と結果には時間的な差というのはありません。風船に針を刺すと割れるよう に、原因ができればそこに結果も出るということです。

 そういう悟りを開いた人々であるサンガは、仏(buddha)・法(dhamma)・僧(sangha)の僧であり、仏教徒が帰依する(たよる)対象です。帰依をするということは、いわゆる信仰とは違います。

 仏教では仏・法・僧を目指して自分自身が努力するのであって、お釈迦さまは、「私と同じくなりなさい、がんばってここまで上がってきなさい」ということを言っておられます。そしてご自分のことを、「善き友」だとおっしゃっているのです。

「比丘たちよ、あなた方は朝日が昇る様子を知っているでしょう。朝日が昇る時には、まず東の空が明るくなります。東の空が明るくなるのは太陽がのぼる前兆だと言うことができるでしょう。
 
 それと同じように、比丘たちが聖なる八支の道に入るときにはその前兆があります。それは善き友がいることです。
 
 善き友を持つ修行者は、聖なる八支の道を修めて成就することを期して待つことができます。」(出典:相応部経典49「善友」)

 サンガはブッダの教えを実行し、その教えが真実であることを世間に示し、法を次代に伝える役目をします。サンガが滅びてしまえば、仏教も滅びることになります。

 本当に清らかな人々のグループが社会にあると、皆ほっとできるのです。ですからサンガというシステムはどの社会にもあった方がいいと思います。サンガができて、初めて仏教がその国に根付いたということができます。

●photo:monks by Flightspeed<flickr>
▼参考テキスト
SANGHA:僧、僧団
http://www.j-theravada.net/pali/key-sangha.html
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

画像に含まれている可能性があるもの:2人、子供、屋外









facebook | 13:18:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
今年は休みの一部をアラナ精舎で“自主冥想合宿” と決めていたのでした。--- <大仏とやっさんとやさしい教え>
 





協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
 <
大仏とやっさんとやさしい教え>





加納 康彦--- <大仏とやっさんとやさしい教え>

今年の夏休みもあっという間に終わってしまいました (T_T)

休みはいつも無計画にダラダラしてる間に終ちゃっうので、今年は休みの一部をアラナ精舎で“自主冥想合宿” と決めていたのでした。

実際には、冥想合宿とは言えないものでしたが、今まで経験したことのなかったテーラーワーダでの追善供養に参加させて頂くことも出来て、有意義な時間を過ごさせて頂きました。

日頃、自ら仏教徒であると公言しながらも、宗教色がもっともでる法要についての知識を持っていないことを残念に感じていたのですが、追善供養に参加させて頂いたことで、少し理解することが出来ました。

当然のことですが、追善供養は自らが行うもの。日常で経験するような、お坊さまに意味もわからない経典を読み上げて頂き、それを静かに聞くだけというものではありません。つまり供養を依頼するだけで、実際に行動するのは他人ということでは成り立たないもの。自ら徳を積み、それを回向します。

ところで大切な人を亡くす悲しみは人それぞれで、悲しみの大きさは他人が測れるものではないということも、今回の追善供養で感じ取ることができました。

「愛別離苦」という苦があることは誰もが知っていることでしょうけれど、自分以外の人が感じるその苦しみの大きさを理解することは非常に難しいものです。別離の悲しみを時間をかけずに消化できる人、悲しみと共に生きることに多くの時間を要する人、悲しみを隠さず表現する人、内に閉じ込めてしまう人。いろんな人がいらっしゃいますが、それぞれの人がどれほどの悲しみを有しているのかなんてわかるものではないですね。

悲しむ人はその癒し方を自ら学び対応するしかないのですが、わたしたちは悲しむ人を見るとき、それを上手に伝えなければいけないと思うのです。それはお悔やみを伝えたり、優しい言葉をかけるよりも、ずっとずっと難しいこと。でも、その難しいことを行う準備を常にしておくことも、生きる務めの一つのような気がしました。








未分類 | 13:12:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
お釈迦の教えに導かれて心の汚れも徐々に減っています。-----------サークル仲間の徒然日記
 





協会の記事ではありません。
サークル仲間の徒然日記です。





吉田 牧生---サークル仲間の徒然日記

「あれから40年」
40数年前に社用で初のヨーロッパ出張。海外駐在員にお任せの1か月の長旅だった。その合間にグリンデルワルトにも行けた。

当時は体力バッチリだったがお世話されっぱなし。今回はじじばばカップル。長年お世話になつている妻にお礼の気持ちを込めて彼女のエスコートをする立場をやろうと思う。

ワガママ亭主の方は只今調御中です。共に白髪の生えるまででやってきたがその白髪も残り少なくなりました。

しかしお釈迦の教えに導かれて心の汚れも徐々に減っています。これで夫婦愛和し世界平和の一役です。

感謝を込めてグリンデルワルトへ案内します。!!

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徒然日記 | 15:22:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
冥想中に襲ってくる睡魔に、先日習ったばかりの「居眠り経」を役立たせます(^∇^)
 




協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
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大仏とやっさんとやさしい教え>





加納 康彦大仏とやっさんとやさしい教え>
 

連休を頂いて、アラナ精舎へ行ってきました。お坊さまにお食事のお布施をさせて頂こうと、朝早くに車で家を出たのですが、ナビがあるにもかかわらず道に迷い、さらに渋滞に巻き込まれ、3時間半の予定が到着まで4時間半もかかってしまいました(T ^ T)

途中、お食事の時間に間に合わないかもと焦りましたが、日頃の行いの良さが出たのでしょう(?) なんとか時間までに到着出来ました。

自宅ではなかなかすすまない冥想も、精舎ではすることが出来ます。いつも通り、冥想中に襲ってくる睡魔に、先日習ったばかりの「居眠り経」を役立たせます(^∇^)

ところで、自分自身を観察するようになって、自分が如何に何も出来ないかがわかるようになりました。以前は何もなしていないにもかかわらず、なんでも出来る気がしていたのですから、今考えると不思議でなりません。

スマナサーラ長老も著書の中で言っておられました。
『我々は、根拠がないのに自分にすごく価値を入れている。確固とした価値の証拠もないのに価値を入れてしまうと、どこまで拡張するかわかったものではありません』

人は放っておくと際限なくのぼせ上がってしまうもの。だから、どこかで歯止めをかけないといけないんだけれど、自分自信を戒めるのは、易しいようでとっても難しいこと。

また、『皆さんは「自分がすごく偉い」と思っていますが、ずっと一人きりでお山の大将気どりでいることはできませんね。周りの人といっしょにいますから、ずっと偉いままではいられません。結局は「それほど偉くない」という現実を突きつけられます』とも長老はおっしゃられます。

自分は偉いという傲慢な振舞いは、他人を苦しめ辛い思いをさせること。なのに誰かを苦しめることに喜びを感じたり、苦しんでいる姿を見ることを娯楽のようにしている人は意外と多くいるのかも。

こうして他人事のように書いている自分自身がまず、傲慢になって他人を苦しめてはいないかよく観察しないといけないなぁ、とアラナ精舎で考えるのでした。
「仏教で生きる!(スマナサーラ長老)」

 
http://76263383.at.webry.info/201608/article_11.html アラナ精舎雨安居日記

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大仏とやっさんとやさしい教え | 17:04:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
根本仏教講義 目次
 





協会のホームページからの紹介です。





根本仏教講義 目次

パティパダー連載 『根本仏教講義』 A.スマナサーラ述

1.釈尊の根本的教え
(1)四聖諦(2)四聖諦(続き)
(3)八正道(4)心のカウンセリング
(5)慈悲喜捨の冥想(6)冥想法の基本
(7)真理を知る慈と愛の心(8)仏教と仏教の違い
(9)心はこんなに汚れている







テーラワーダ仏教とは? | 11:13:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
今回の法話のテーマは、お釈迦様がマハーモッガラーナ尊者に説かれた居眠りをしない方法『居眠り経』です。
 




協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
 <
大仏とやっさんとやさしい教え>





加納 康彦------- <大仏とやっさんとやさしい教え>

東海ダンマサークル ヤサ長老法話会

突然ですが・・・、
僕は冥想が好きではないです o(T^T)o

「晴れやかな気持ちになれる」「リラックスできる」と伺う冥想ですが、僕は半日しただけで、ずいぶん疲れてしまいます。それ以前に坐る冥想をしていて居眠り、なんてこともあって・・・。だから、冥想会などで長時間、姿勢を崩さずしっかり坐っておられる方を拝見する度に、感心しています。

法話の中、ヤサ長老が「お釈迦様の十大弟子の一人、神通第一と言われたマハーモッガラーナ尊者が冥想中に居眠りをしたことがありました」と話されました。マハーモッガラーナ尊者ですら居眠りをするのであれば、僕が居眠りするのは当然だ! と不思議な自信が湧いてきましたが、冥想中の居眠りはすべきものではないのです。

今回の法話のテーマは、お釈迦様がマハーモッガラーナ尊者に説かれた居眠りをしない方法『居眠り経』です。

経典で示めされた冥想中に居眠りをしない方法とは、
1 居眠りをする直前の思考に気づく。
2 ダンマについて考察する。
3 学んだ真理を暗唱する
4 耳を引っ張る。
5 立ち上がって眼を洗う(そして星空を見る)。
6 光をイメージする。
7 歩く瞑想をする。   

やる気を回復させ、真理で脳を活性化させれば、眠気はなくなるということです。ヤサ長老からは、自らを鼓舞する言葉を常に用意しておくようにと、締め切り付きで課題が出されました。

「今日、探し出して下さい。今日しないと今後することはないです」

おっしゃられる通り、今日しなければ絶対にしない。家に帰るとすぐ長老に言われた通り、ダンマパダから偈をひとつ選択しました(選択した偈は内緒です)。

最後に、歩く冥想をしても眠気が取れない場合の対処法を教えて頂きました。

8 眠る! 
もちろん、念(気づき)を持って時間を限って眠ります。

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大仏とやっさんとやさしい教え | 10:12:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
‪#‎jtba‬【法話】「寂しさは誰も隠せない」
 




協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬【法話】「寂しさは誰も隠せない」

質問:自分の人生のバックグラウンドは「寂しさ」があるのではないかと思う。「寂しさ」というのは、怒りの一部なのか、それともこれが「苦(ドゥッカ)」というものなのか、どうなのでしょうか?(2010年12/12 関西月例冥想会)

◎法話ダウンロード(約1時間)
前半 http://bit.ly/2b6PiFW
後半 http://bit.ly/2bdf8FE

▼元ページURL「β関西活動報告」
http://www.voiceblog.jp/sandarepo/1294974.html

~生きとし生けるものが幸せでありますように~







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