協会の記事ではありません。
誓教寺 Seikyojiの<誓教寺報つきなみ>より抜粋です。
仏教と文化①宗派は文化
藤本 慈照
日本仏教、インド仏教、スリランカ仏教?
スマナサーラ長老は永年にわたって「スリランカの仏教ではなくお釈迦様の仏教を日本に伝えます」と言い続けておられます。それがどういう意味なのか、私はこれまでまったく分かっていませんでした。スマナサーラ長老は、仏教の本質的な部分とインドや中国や日本など各地の仏教文化の違いをしっかり見極めて、そして仏教の本質と各地の仏教文化との切り離しにくい関係についても最初から分かったうえでおっしゃっていたのだと、私は最近やっと気づき始めました。
仏教の文化といって分かりにくければ、仏教の宗教的な部分といってもよいかもしれません。たとえば仏教式の葬式といっても、インドや中国や日本など各地域でやり方はバラバラです。日本では宗派ごとにも違うありさまです。先祖供養とか施餓鬼とかお盆などのどの地域にもある仏教行事も、各地域でやり方や考え方は違います。そういう日常の実践や儀礼を含む「宗教」とか仏教文化としての仏教ではなく「お釈迦様の仏教を伝えます」とスマナサーラ長老はおっしゃっているのです。
大学の学問のように「仏教思想」を教えるという意味でもありません。それは私にも分かっていました。大学では、「悟りとは何か」とか「悟りへの道を実践する」などという生の仏教はやらないのです。仏教を「思想」としてだけ教えるのです。スマナサーラ長老が取り組んでおられるのは、そういう、大学の授業のように思想を教えるのでもなく、文化とか宗教としてのスリランカ式の仏教を教えるのでもなく、仏教の真髄を教えるという意味なのです。
しかしそれは、そんなに単純な話ではないようです。スリランカ人が日本人に「仏教」を教える場合、お互いの文化の部分はきれいに切り捨てて、「仏教」だけが素直に伝わらないといけません。教えるスマナサーラ長老は、スリランカ文化を抑えて教えておられます。しかし受け取る日本人が日本文化の染み込んだ日本仏教の視点を持って受け取ろうとすると、うまくいかないでしょう。もともと自分たちが持っている日本仏教の物差しを持ってきて「これは好き、これは嫌い」などと選り好みしたら、仏教をそのまま受け取ったとは言えなくなってしまいます。受け取る日本人も、日本文化を抑えて仏教の純粋な部分を素直に吸収しないといけません。仏教を正しく理解し吸収した後で、それを日本文化に合うようにアレンジして「日本仏教」をつくれば、よりしっくりと日本人向きの、しかもお釈迦様の「仏教」になるでしょう。これまでの日本仏教は、お釈迦様の仏教の部分よりも日本文化の部分が幅を利かせていたように思えます。
言うのは簡単です。しかし文化は理屈ではありません。身体と心の隅々にまで染み込む、抜きがたいものです。言葉とか行動パターンとかものの考え方は変えにくいものです。相手の文化を理解するのも大変です。食べ物の好みなんかは生涯変わらないどころか、相手の好みを理解もできないでしょう。仏教にも、日本仏教とかインド仏教というように、各文化の好みに合わせて変わってしまっている部分があるのです。そんな日本の仏教文化にどっぷり浸かっている私たち日本人がお釈迦様の仏教を聞いたら、どのように反応するでしょうか。スマナサーラ長老はそこまで考えて、日本人が受け入れやすいアプローチの仕方で、インド仏教でもスリランカ仏教でもない仏教の要の部分だけを教えておられるのです。大変なことだと思います。
仏教と文化
明治になって西洋の影響で始まった「仏教学」では、便利なので、仏教を輪切りにして日本仏教、中国仏教、インド仏教などと区分けしています。とりあえず地域ごとに分けるのです。しかし、分けられているのは地域だけではありません。それぞれの○○仏教ごとに、同じ仏教のはずなのに、明確な色合いの違いが感じられます。たとえばインド仏教と中国仏教では、言葉が違うだけではありません。「唱えて聞いて覚える文化」と「書いて読む文化」の違いなので、お坊さんの弟子の育て方からもう違います。気候風土や食べ物が違うので、着るものから住む処まで人々の生活スタイルが違います。それがどうしてもお坊さんにも在家信者にも影響を与えます。インド仏教と中国仏教の、このお互いに違う部分がもう「文化」の違いなのです。
葬儀や先祖供養をして功徳を積むやり方やそれに対する思いも、インドと中国では違います。それは「仏教の教え」の部分でもあるのですが、倫理道徳や来世観を含む日常生活に関わる「文化としての仏教」とも言えます。「仏教」の実践活動の部分は、「仏教」と「文化」が混ざっているのです。
では、悟りと、悟りに至る方法は、インド仏教と中国仏教では違いがあるでしょうか。修行法は多少違うように見えても、インド仏教ではこういう悟り、中国仏教ではああいう悟りなどと、悟りそのものが違っていては話になりませんね。悟りはインドでも中国でもまったく同じです。そして、その同じ悟りに至るのなら、悟る方法・道筋も同じなのです。つまりインド仏教とか中国仏教などと区分けしていますが、そのインドや中国などという「文化」の部分ではなく、肝心の「仏教」の部分はどれも同じなのです。「仏教」の最初の最初から、お釈迦様がはっきりと教えておられるのです。
この、インドでも中国でもない「仏教」の部分、悟りと悟りに至る方法だけを教えます、という意味で、「スリランカの仏教ではなくお釈迦様の仏教を日本に伝えます」と長老はおっしゃっていたのです。日本仏教には、日本文化の部分がすでにたっぷりあります。スリランカの仏教には、スリランカ文化の部分が、こちらも濃厚にあります。日本文化の中にスリランカ文化を持ってきても、そこはなかなかうまくいきません。また、文化を押し着せるようなことはしなくてよいでしょう。異文化の紹介は物産展のように物珍しさや新奇さがあって楽しいのですが、日本人にスリランカ文化が取って替わることがあるでしょうか。緑茶の代わりに紅茶を飲んで、香辛料の効いた食べ物を手で食べて、トイレの後は紙で拭くのでなく水で洗う……(トイレは、日本でも水で洗う良さが広まりつつありますが)。ちょっと考えにくいですね。
「文化」は、好きな人が好きなものを取り入れればいいのです。好みの問題であって、人の生死に関わるものではありません。
しかし「仏教」はどうでしょうか。これは生死の道に関わる重大問題です。果てしなく続く輪廻の苦しみを脱出して解脱・悟りに至るのが仏教の教えで、目的で、お釈迦様はみずから悟り、その悟りに至る方法を人々にも教えたのです。仏教というからには、その「仏教」でないと困ります。仏教でないものを仏教だと思い込んで教えたり学んだりしていては、いつまでも悟りに近づかないし、何よりも「看板に偽り」ありです。「たい焼き」屋の看板を挙げながら「たこ焼き」を売って、「名前も同じようなものだからいいじゃん」というわけにはいかないのです。
日本仏教の悟りと修行
日本仏教では、現在に至るまでこの「仏教」の部分がどれだけ真剣に探求されてきたでしょうか。
日本仏教界には最近の百五十年間に劇的な、良くない変化がありました。明治に始まり現代に続く「仏教学」は、最初から「仏教」を除外していました。悟りとは何か、そして悟りに至るにはどうすればよいのか、その求道というかみずから体験する実践の部分、つまり「仏教」の本質が、「仏教学」には最初からなかったのです。「仏教学」が目指す目的は、学問として机上の書物だけを読み、そこに書かれている「仏教思想」を他の哲学や宗教と同様に研究することです。大学で学ぶ哲学とか思想と同じ扱いなのです。ですから「仏教学」をどれだけ学んでも、大学の偉い教授になっても、それでは悟れません。仏教=悟りを体得するには別の道が必要なのです。
では、修行して悟りを目指すはずの日本仏教の現場では、この「仏教」の部分は正しくおこなわれていたでしょうか。
少なくとも明治からこっちの百五十年間は、「仏教思想」を学ぶだけの「仏教学」に押されて、現場の仏教界でもどんどん悟りと悟りに至る努力が廃れていったように思えます。終戦までの八十年間は、それでもまだ必死でした。国家神道が幅を利かせ廃仏毀釈で虐げられる中で、日本仏教界は存在意義を示さないといけませんでした。
しかし戦後はどうでしょうか。「政教分離」といえば聞こえは良いですが、仏教をはじめとして宗教の出番が、公の場になくなったのです。必要ないなら、存在意義もありません。仏教は急速に力を落として行きました。しかし、文化の移り変わりのように人々の行事や心から仏教(文化)が消えていくのはまだしも、悟りへの道という「仏教」の部分まで顧みられなくなるのは寂しいものです。また、仏教文化というものがここまで脆いというのもちょっとびっくりです。お盆やお彼岸や寺のお参りなど、伝統ある仏教文化でも必要がなければ簡単に消えていくものなのです。
そういう戦後から四十年近く経った頃に、スマナサーラ長老が日本に来られました。スリランカの文化の香りはカットして悟りを目指す「仏教」の部分だけを伝えるためです。現代の日本仏教には、やはり「仏教」の部分がかなり欠けていたのです。一般の人々のみならずお坊さんまで、悟りや悟りに至る方法をほとんど忘れかけていたのです。もっと以前から知らなかったかもしれません。「日本仏教」に対する「スリランカ仏教」ではなく、「お釈迦様の仏教」を伝えるために、わざわざ来られたのです。
国と文化
日本仏教、つまり「仏教の日本文化的展開」の最大の特徴は何でしょうか。明治になって僧侶が正式に結婚して世俗化したのも問題かもしれませんが、それ自体は在家者が仏教を実践するというだけのことです。仏教は出家も在家も合わせて全人類のためにあるのですから、「仏教」としては問題ありません。世俗化は仏教の日本文化的展開の一つに過ぎないのです。
日本仏教を外国に輸出するときは、文化の違いに注意が必要です。日本文化の部分を出しても違う文化を持つ他国では受け入れられないのです。日本仏教というか「仏教の日本文化的展開」は、戦時中は朝鮮や台湾など占領した国々に進出しました。が、終戦と共にすべて引き揚げになりました。朝鮮にも台湾や旧満州(中国東北部)にも自国の仏教があります。仏教の日本文化の部分は他国の仏教文化には合わないのですから広まらなくて当然でしょう。日本の神道も同じです。あれは日本だけの宗教ですから、他国に持っていくだけで無意味になります。外国を一時的に占領して法的には「今日からここは日本です」といっても、文化はそう簡単には変わらないのです。押しつけても無理です。
悟りと悟りに至る方法という仏教の根幹は全仏教共通で、それは悪いものではなく文化の匂いもしないので、それならば受け入れられただろうと思います。しかし日本仏教に、日本文化の匂いのない純粋な悟りと修行があったでしょうか。そもそも、占領した国々に対して日本文化の匂いがプンプンする日本仏教を意図的に輸出したとも言えます。
「宗派」が日本仏教の特徴
日本仏教文化の最大の特徴は、仏教が多種多様な宗派に分立していることでしょう。宗派が分立した歴史も古いです。仏教が日本に入って二百年足らずの奈良時代にはすでに南都六宗などといって、まだ宗派というより学派みたいなものでしたが各寺院の特徴を出し始めています。平安時代には天台宗と真言宗が設立され、続く鎌倉時代には浄土系や禅、法華など多様な宗派が花開きます。その宗派がさらに内部で分立して、戦前までに十三宗五十六派にもなりました。
日本仏教の源流である中国でも朝鮮でも最初はいろいろ宗派に分かれましたが、やがて禅系統と浄土系統の二流派に、そしてそれらを合わせて修行する一流派にほぼ再統合されています。分立しているグループは、主流派に比べて圧倒的に小さいです。チベットは大きく四つくらいの流派に分かれていますが、どれも同じチベット語訳大蔵経のすべてのお経を使っています。密教中心か普通の大乗中心かで大蔵経典のどの教えをアピールするかという違いがあります。戒律など生活面での違いも少しあります。しかし全宗派が並んでも、なんとなくどれも同じという雰囲気があります。日本仏教の宗派だけが、他の仏教の宗派とか学派と違うように見えます。そもそも並んだり一緒に活動したり、他宗派と混ざりたがりません。そして日本仏教で宗派といえば、雰囲気以前に教えの根幹に、お互いに大きな違いがあるのです。
日本仏教の宗派は、もはや仏教の中の一宗派というよりは、それぞれが○○宗ではなく○○教のような、仏教を基にしてはいるけどお互いが別々の宗教のようにさえ見えます。なにしろ戒律がそれぞれ違います(浄土系のように戒律がない宗派さえあります)。漢訳大蔵経から選び取ったお経がそれぞれ違います。それに基づく教えも違います。その教えを唱えた開祖が違うのはいいのですが、開祖を崇めて崇めて、「お釈迦様はどこに行ったの?」というほどです。「仏教」というより「親鸞教」とか「日蓮教」とか「空海教」などといった方が良いような「開祖教」なのです。
「浄土真宗にはお釈迦様は必要ありません」とまで言った布教使がいました。「仏教はお釈迦様の仏教だけではない。阿弥陀仏の仏教もあるのだ」などという、これまた浄土真宗の布教使さえいます。仏教じゃなくて良いなら、むしろお釈迦様が邪魔なら、仏教という看板は諦めて「親鸞教」などを別に創立した方がすっきりすると思います。これほど何から何まで宗派ごとに異なる「仏教」は、日本仏教以外に例がないでしょう。日本では各宗派のお坊さんや信者が集まっても、一緒に法要もできないのです。読むお経が違うし作法も違いますから。
各宗派の開祖が大きく前に出過ぎているのが良くないのです。「我が宗派は○○師が何歳のとき大悟して~」とか「我が宗派の本山は~」とかいうのは良いのですが、それら開祖様の遠いお師匠であるお釈迦様を忘れたり、あまつさえ邪魔扱いするようでは、もはや仏教とは言えません。「宗派」という日本の仏教文化だけの特徴は、威張れるものではないのです。むしろ恥ずべきものなのです。
日本仏教の落し物
そんな各宗派にこだわる日本仏教に、お釈迦様の悟りと悟りに至る道は正しく伝わっているでしょうか。つまり「日本仏教」の日本文化の要素を取り除いた後に、きちんと「仏教」が輝いているでしょうか。
それがかなりあやしいのです。日本の宗派仏教ではお釈迦様の教えよりも各宗派の開祖の教えの方が大事なのですから、まず、日本仏教にはお釈迦様とその教え(悟りと悟りに至る道)がはっきり見えにくいのです。見えにくいだけならいいのですが、何百年も千年以上もその調子で開祖の教えだけ学び伝えていると、自分の宗派の中ではそれしか必要ないので、それしか学ばなくなります。その偏った学びが一生涯続けばその人は、さらには何世代も続けばその宗派全体が、いつの間にか「お釈迦様って誰?」というくらい、お釈迦様とその教えをすっかり忘れてしまうことになります。
実際にそうなっていないでしょうか。仏教の枠の外から「ブッダは実在しない」などと言っても責任も重くないので構いませんが、肝心の仏教学者やお坊さんが「お釈迦様は関係ない」なんて言うようでは、日本仏教は終わりです。「日本宗教」とか「日本親鸞教」とか、仏教以外の名前をつけなければいけません。しかも、日本の仏教学者やお坊さんは、このような現状を危機とも異常とも感じてさえいないかのように平然としているのです。
戦後の「仏教は必要ない」という風潮にもまんまと乗せられているように見えます。「必要ない」と言われると慌てて「人寄せ」できるテーマを探すのですが、これがまた的外れになりかねません。今また仏教がさりげなくブームに見えますが、その中身は「終活」とか「墓じまい」とか仏壇や位牌の処分などの「文化」的なことがほとんどでしょう。それはまだ日本仏教に関わるので良いのですが、「美坊主コンテスト」とか「お寺で飲み会」なんて言い始めたら、もう開いた口がふさがりません。
そのような日本仏教界に、スマナサーラ長老は悟りと悟りに至る道を教えに来られたのです。日本仏教が「仏教」を落としてしまって宙ぶらりんな状況になっていたところへ、また仏教を根付かせてあげようとしているのです。
不思議なことに、仏教学者や各宗派のお坊さんが、なかなかその一番大事な落し物を取りにきません。自分が「仏教」を落としてしまったことに気づいてもいないかもしれません。日本「文化」を日本「仏教」だと思ったまま、儀礼や法要を同じやり方で続けているだけです。
悟りと悟りに至る道を「これこそが仏教だ。正しい道だ」と理解してみずから選び取り心を成長させるのは、むしろ一般の仏教愛好者です。この人々は仏教が好きなのに、道を求めて日本のお寺に行っても、日本のお坊さんに尋ねても、どうも求めるものがなさそうだと感じて失望して、「ではどこに行けばいいの?」と探してスマナサーラ長老に出会うのです。日本仏教の中に日本文化ではなく仏教を探していたので、なかなか見つからなかったのです。今やっと見つけました。
歴史は繰り返す?
スマナサーラ長老の初来日から四十年近く経ちました。日本仏教は少しは変わったでしょうか。文化ではない悟りとそこに至る道の「仏教」は正しく伝わったでしょうか。
一方では正しく伝わっていると私は胸を張れます。少なくない数の日本仏教のお坊さんが、自分の宗派の教えの上に大本のお釈迦様の悟りの教えがあるのだと思い出しつつあります。
日本の仏教文化は、世間が急速に変えつつあります。戦前までの、戦後もしばらく続いていた日本仏教文化の伝統は、ガラガラと音を立てて崩れつつあります。家族葬とかゼロ葬とかいう一方で、寺や神社や山や滝がパワースポットなんですって。そちらは妙な人気で、行けばご利益があるのでしょう。
せっかくスマナサーラ長老が文化の匂いを削ぎ取った仏教の真髄だけを伝えてこられたのですが、最近、二つ、困った現象も目につきます。一つは、仏教の真髄の理解できるところだけを選り好みしようとする現象。もう一つは、せっかくの仏教の真髄にまた文化の匂いをつけようとする現象です。
一つ目の、理解できるところだけ選り好みする現象は、最近大流行の「マインドフルネス」です。仏教の悟りに導く修行法から一般的なところだけ盗まれました。しかしお釈迦様は最初から著作権なんか放棄して、「誰でも自由にこの修行法で悟りに挑戦してください」と開放しておられますので構いません。みんな好き勝手に使っています。
悟ってもいない一般人が「マインドフルネスだ」などと言っていろいろ修行してみても、それなりに効果は出ます。修行法は正しいのですから。しかし時速三百kmで走れるポルシェを近所のスーパーに買い物に行くためだけに使うのは、ちょっともったいない話です。「マインドフルネス」の正しい使い方を、それを知っている人からきちんと教わる方が良いと思います。
もう一つの困った現象は、本当に困ります。
スマナサーラ長老の真似をしているつもりなのでしょうけど、スリランカや東南アジアの文化をプンプン匂わせながら日本で「これが本物の仏教ですよ。日本仏教はダメですよ」とばかりに活動するお坊さんやその信者さんが出てきたのです。異国の文化が好きな日本人はむしろこちらを喜ぶでしょう。肌に合うならそれでもよいのですが、そのお坊さんや信者さんに、まず確かめてほしいのです。「ここに悟りはありますか?悟りに導く道はありますか?」と。「日本仏教がダメでテーラワーダ仏教が良い」と思うのは構いませんが、大事なのは日本とかインドとか東南アジアではありません。仏教の真髄、悟りの部分です。悟りを忘れて「文化」で道に迷わないようにしてほしいのです。
仏教も人が身に付けるものですからその人の文化をどうしても背負います。仏教だけを伝えようと苦労してきた先人の横で異国文化を売り物にするのは各人の好みです。しかし文化を仏教だと言って売ってはいけません。区別は必要です。受け取る側も、仏教と文化の違いが分かっていないと危険です。仏教も文化も同じく人間が扱うものですが、たい焼きとたこ焼きは別物なのです。いや、もっと違いますね。仏教は、つまり悟りと悟りに導く道は、その資質を身に付けた人だけが扱えるものです。よくよく注意して、本物の仏教が日本仏教にも根づくように頑張りたいものです。
協会の記事ではありません。
fbより紹介です。
スマナサーラ長老年末法話の過去ログです。

「部屋を掃除しても、その瞬間から汚くなります。そこで一つのPrincipleが見えるでしょう。自然にしておくと汚れるんだと。汚れないためには、自然を超えることが必要なんだと。掃除をして、きれいになっちゃった!というのは自分騙しです。自分の眼には汚れが見えない、それだけ。気分的には掃除機をかけて、きれいになった気になった、ということ。我々も俗世間のレベルで掃除をします。ではほんとにキレイになるのかと。ならないんです。そこで、自然法則とは何かというと、汚れることなんです。キレイという境地は、この世の次元で存在するものではないんです。これが心の法則です。お釈迦さまは、キレイという言葉を物質には入れていないんです。もちろん仏教では、身の回りのすべて整理整頓して調えることを厳しく言います。仏教では誰が掃除するかというと、汚れを見つけた人。汚れているなぁと思ったら、掃除するのはその人の義務なんです。沙弥がやれとか、長老がやれ、ということはない。それこそ民主主義でしょう。
物質に関して、キレイ、キタナイ、ということは成り立たないんです。性質的には、心が汚れるんです。心の法則は、汚れることが心の法則なんです。何かやったからといって、いい気分になるだけ。また汚れます。それは掃除する時に観察することなんです。手洗いをキレイにしてピカピカだと。しかしひとり入ったら終わりです。それぐらい、早く汚れます。でも物質世界で汚れていると言えるのか。それは人間の主観です。だから各人の家の状況は違うでしょう。それぞれの人のキレイ・キタナイの判断で掃除する。
汚れることは自然の流れであって、たまたま人助けして、いい気分になっても、それで心が清らかになったわけじゃないんです。年に一度、いいことをしたからといって。我々は日々、善いことをすべきなのは当たり前ですが、それでも心は汚れます。ブッダの瞑想修行をして、実践をして、心を清らかにしたら、それは自然ではないんです。汚れない心は自然の心じゃないんです。その心に至った人は自然を乗り越えている。だから、仏教は超人法(ウッタリマヌッサダンマ)と言うんです。
そういうことを理解して、皆様、明るい気持ちで。皆さん平等ですからね、それぞれの能力を出して、明るく活動したほうがいいと思います。皆さんは誰にもできないような得を積んでいるんです。では、お経でもあげて……クリスマスの法要でもいたしましょう(爆笑)」スマナサーラ(終わり)
協会のfbより紹介です。
皆様へ 『慈悲の冥想』の改訂について
「親しい人々」から「親しい生命」へ
『慈悲の冥想』改訂版

東海ダンマサークルの行事です。
日時:2016年12月24日(土) 13:00から16:30まで
今週の土曜日、正田先生の初期仏教勉強会第13回(最終回)の告知です。
何も準備なく、どなたでも参加できます。
経典と解説の二部構成
※会場が以前とは変わっていますので注意してください。
日時:2016年12月24日(土) 13:00から16:30まで
場所:イーブルなごや(女性会館) 1F 第3集会室(地下鉄 名城線「東別院」下車1番出口から東へ徒歩3分
参加費は¥1500
問合せ先 東海ダンマサークル 船橋 sokichi2784@gmail.com
東海ダンマサークルの主催行事です
※会場が今までとは変わっていますので注意してください。
今週、土曜日 正田先生の初期仏教勉強会第11回の告知です。
何も準備なく、どなたでも参加できます。
経典と解説の二部構成
※会場が今までとは変わっていますので注意してください。
2016年12月24日(土) 13:00から16:30 イーブルなごや(女性会館)第3集会室
問合せ先 東海ダンマサークル 船橋 sokichi2784@gmail.com
MLホームページ: http://www.freeml.com/toukai-dhamma
協会のfbより紹介です。
日本テーラワーダ仏教協会
#jtba 『日めくりブッダの教え』アプリをリリースしました。
スマナサーラ長老の仏教格言&しりあがり寿先生のイラストによる「日めくりカレンダー」アプリです。目覚ましアラーム付き。
Android版を配信中/iOS版は12月下旬以降に配信予定。

Tetsuro Satoさんが日本テーラワーダ仏教協会さんの写真をシェアしました。
スマナサーラ長老&しりあがり寿先生の『日めくりブッダの教え』アプリ版出ました。まだAndroid版だけで、iOSは審査待ちのようですが……よかったらDLしてご活用ください。
協会の記事ではありません。
nāgita のnoteより紹介です。
スマナサーラ長老ベストブックガイド 100冊から厳選!これだけは読んでおきたい
(初出:学研ムック『ブッダの贈り物』2011年1月刊)
月刊ペースで出版され続ける長老本。どれを読めばいいのか、読者としては悩ましいところだ。5つのジャンルに分けて、ガイドしてみよう。※追記:リンク先は2016年12月現在の最新版(文庫化に伴う改題,増補改訂を含む)とした。
初期仏教と出会う
『ブッダ―大人になる道』
筑摩書房 (ちくまプリマー新書) 2006年
埼玉県にある私立自由の森学園高等学校で行われた特別講演と授業を中心に編集された青少年向けの新書本。「生きる意味」に迷う前に「生きるとは何か?」と調べましょう、という呼び掛けが長老らしい。人生の指針となる本、という実用的なスタンスを保ちつつ、本格的な仏教書でも口を濁してしまうような仏教の核心(出家論、成道論、一切智者論、パパンチャ論など)も平明に説明される。
『テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え』
大法輪閣 2010年
仏教月刊誌『大法輪』誌の連載を単行本化。「自ら確かめる」というフレーズが示すように、信仰に反対し、聖典の言葉も徹底的に調べて吟味することを推奨したブッダの言葉を引き、「反宗教の宗教」たる初期仏教の思想を明らかにしている。各論では釈尊による在家生活のマネジメント論、社会の繁栄のための条件、五戒の実践などが示され、在家仏教を実践するための「教科書」として使える。
こころを育てる
『怒らないこと(役立つ初期仏教法話1)』
サンガ(サンガ新書) 2006年
長老の著書では断トツの人気を誇り2010年10月現在二〇万部を売り上げている。怒りについて、悩んでいる人は多い。世の中で怒るトラブルや争いごとの多くは怒りの連鎖によりって拡大している。仏教で「不瞋恚」を説くことを知られるが、本書のように初期仏教の心理分析を駆使して「怒り」の正体を分析し、明解な処方箋を示した一般書は皆無だった。韓国で翻訳出版され、英語版も準備中とのこと。※追記:2015年にWISDOM PUBLICATIONSより『FREEDOM FROM ANGER』として刊行された。
『心の中はどうなってるの?(役立つ初期仏教法話5)』
サンガ(サンガ新書) 2007年
一言で要約すれば、「ポケットに入るアビダンマ」である。初期仏教の実践心理学として注目されるアビダンマ(アビダルマ)の核心であり、現代の心理学とも親和性の高い「心所(心の中身)」を詳しく解説している。ブッダの教えとは「解脱」に向けた心理学体系でもある。「心を育てる」とは、具体的にどういうことなのか、本書を通読することでかなり精密な見取り図を描けるのではないか。
『ありのままの自分 ――アイデンティティの常識を超える』
サンガ 2007年
人は誰でも、複数の「顔(性格)」を使い分けている。貪瞋癡に動かされ、破綻を避けようとして本音と建前を切り替えて生きている。煩悩と体裁の間で同様し続ける我々が、「善を行うつもりで善を“演じる”」心の騙し機能に迫った講義録。修行する人は多くても成長する人が少ないという現実の裏側を容赦なく暴く筆致には鬼気迫る。偽善と自己欺瞞を超えて、本気で心を育てたい人の必読書。
もっと読みたい!とっておきガイド
『13歳へ よい親も、よい先生も、あなた次第』(サンガ)中学生への講演を元にした掌編。「大人たちを育てるのは、子供である貴方がたの仕事です」など、意表をつかれるフレーズが飛び出す。先入見のない子供たちの質問も鋭い。『ブッダの幸福論』(ちくまプリマー新書)こちらも中高生向けの本。「生命との関係」という視座から「生き方」の原則が語られる。さらに「生きることを乗り越える」に至る、心を育てるロードマップも示される。『人生はゲームです―ブッダが教える幸せの設計図』(大法輪閣)タイトルの言葉は長老が説法で一貫して説く幸福論のキーワード。俗世間に対するクールで執着しない真剣さ、とでも言うべき仏教徒のマニフェスト。『仕事でいちばん大切なこと』(マガジンハウス)ビジネス書スタイルの作品。同僚が苦手、毎朝起きるのがつらい、目的意識が持てない、いまの仕事が天職と思えない、といった働く人の悩みや疑問に、仏教的に処方箋を出す。『怒らないこと2』(サンガ)は、怒りを「生命の根源的な反応」ととらえ、怒りの克服こそが究極の自由(解脱)だと説く。
智慧をみがく
『般若心経は間違い?』
宝島社(宝島SUGOI文庫) 2008年(新書版は2007年刊)
日本で最も有名なお経『般若心経』に初期仏教の立場から批判を展開。前半は般若心経の全文をサンスクリット語に遡って分析し、「仏説と言えるのは色即是空まで。空即是色は成り立たない、間違い」と喝破する。後半は釈尊が「空」をどう語ったかという視点でパーリ経典を読み込んでいく。論理がシャープな分、仏教に薄ぼんやりした癒しを求めるスピ系の人々には蛇蝎のごとく嫌われている。
『日本人が知らないブッダの話』
(エソテリカ・セレクション)学研パブリッシング 2010年
釈尊(ブッダ)の生涯を、パーリ経典を一次資料に、パーリ注釈書の伝承も交えながら解き明かした作品。後世に加上された神話的要素を除きつつ、現代の知見も絶対視せず、パーリ仏典に即した読解で釈迦牟尼仏陀の実像に迫る。仏伝エピソード一つ一つの背景に込められたメッセージを丹念に拾い上げ、ブッダの伝記を通して、「ブッダの教え」に対する理解も深められるように構成されている。
『無常の見方 ――「聖なる真理」と「私」の幸福』
サンガ (サンガ新書) 2009年(単行本は2006年刊)
日本人が好んで使う仏教語のひとつに「無常」がある。日本文化の根底には仏教をルーツにした「無常の見方」があるとさえ言われる。では我々が慣れ親しんだ「無常」は、ブッダが説かれた「無常」と果たして同じなのだろうか。この問題を手がかりに聖なる真理「無常」に切り込んだ長老の代表作。宮崎哲弥氏は「『無常』がいかにラジカルな世界認識か、論じ尽くした稀有の書」と絶賛。
もっと読みたい!とっておきガイド
『仏教は心の科学』(宝島社文庫)日本テーラワーダ仏教協会機関誌『パティパダー』連載を元に編集。これ一冊でテーラワーダ仏教の考え方、身につけ方がかなり網羅的にわかる。『ブッダのユーモア活性術』(サンガ新書)パーリ経典を「ユーモア」という切り口で読み解く。ブッダのユーモアの特徴を詳述しながら、仏教徒の微笑みの背景にある「無常の見方」へと読者を導く。『なぜ人生は、うまくいかないのか?』(宝島社)自己啓発系の本にありがちなタイトルと表紙イラストからは想像もつかないが、初期仏教経典に登場する「悪魔(マーラ)」とは何者なのか? というかなり本格的な論及。『こころは原子爆弾―その巨大なパワーを有効に使う方法』(国書刊行会)長老がヴィパッサナー冥想指導の際の「本気」の法話を収録。燃え立つような説法集。『自立への道 ブッダはひとりだちを応援します』(サンガ)自立した人間とは何か?依存をキーワードとした生命論・社会論を入り口に、依存からの独立=解脱までの道のりを明らめる。「自灯明・法灯明」の解釈も一読の価値あり。
対話の海へ
『希望のしくみ』――×養老孟司
宝島社 2004年(2006年刊の新書版は現在絶版)
刊行当時『バカの壁』などのベストセラーを連発していた養老氏との対談。スマナサーラ長老にとって、書籍の世界での事実上の出世作。対談というより、二人の賢者がインタビュアーの設定したテーマについてそれぞれの立場でコメントする、といった風情。養老氏の「さかさメガネ」論と初期仏教の「アベコベ思考」(顚倒)論など、異なる道を歩んできた二人の絶妙な共鳴ぶりがじつに面白い。
『仏弟子の世間話』――×玄侑宗久
サンガ(サンガ新書) 2007年(単行本版『なぜ、悩む!』は2005年刊)
芥川賞作家で臨済宗僧侶でもある玄侑師との対談。『般若心経は間違い?』で展開される長老の般若心経批判がはじめて開陳された作品である。僧侶としてははるかに先輩である長老の舌鋒にたじろぎつつも、落ち着いた口調で禅仏教と日本文化の見方を提示し、重要な論点を浮き彫りにする玄侑師の聞き上手ぶりも見事だ。菩提達磨の評価、「山川草木悉皆成仏」の解釈など目から鱗の発見も多い。
『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』――×南直哉
サンガ 2009年
臨済禅の玄侑師に続き、曹洞宗の気鋭の禅僧との対話を単行本化。お互いの出家の経緯から仏道の修行、そして組織としての教団との関わりなど、南師が長老の胸を借りて、日本仏教の抱える構造的問題とその打開策を探り、翻って日本社会の病巣に仏教がいかに取り組むべきかという指針を示す。また、第三章「悟るということ、知るということ」に横溢する緊張感は、現代の禅問答のごとき迫力。
もっと読みたい!とっておきガイド
故・立松和平氏との『ブッダの道の歩き方』は立松氏の母の介護経験から「生きる苦しみ」を語り合い、生存からの「解脱」にまで導かれる経典のような構成。同じ文学者である夢枕獏氏との『幻想を超えて』は、「私がミリンダ王で、長老にナーガセーナ尊者の役を」と二人の対話を『ミリンダ王の問い』になぞらえた夢枕氏の姿勢にも助けられ、一冊を通して、初期仏教の概要から生命観、修行論までを見通せる構成に。山折哲雄氏との『迷いと確信』は本誌掲載の山折氏エッセイ(※P50)に詳しい。聖心会シスター・鈴木秀子氏との『いまここに生きる智慧』は瞑想指導も経験した鈴木氏の謙虚な「傾聴」ぶりが長老から数々の含蓄ある智慧の言葉を引き出している。脳科学者・有田秀穂氏との『仏教と脳科学 うつ病治療・セロトニンから呼吸法・坐禅、瞑想・解脱まで』では、有田氏の仮説を長老が否定する箇所もあり「脳科学の知見と仏教の教えは一致する」という予定調和に収まらない、硬派な対話が味わえる。小飼弾『働かざるもの、飢えるべからず。』では長老が著者とベーシックインカムについて議論。*すべてサンガ刊。
仏教の核心へ
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』
佼成出版社 2009年
最古の仏典とも謂われるスッタニパータ(経集)冒頭の「蛇経」17偈すべてに詳細な解説を加えた注釈書。難解な仏教語をなるべく排して、現代日本語の日常語彙を用いて、釈尊が詩の形で遺した「覚り」の諸相を明らかにする。日本仏教の千数百年の歴史を通じて、このような本が書かれたことはなかっただろう。仏教のど真ん中を貫き、我々を果てしない「覚りの世界」の高みへと誘う驚異の書。
『沙門果経 ――仏道を歩む人は瞬時に幸福になる』
(初期仏教経典解説シリーズ1)サンガ 2009年
日本でも「王舎城の悲劇」で知られる阿闍世王との問答を通して、釈尊が仏教の全体像をプレゼンテーションした長編経典に、長老が詳細な解説を加えた、重厚な「仏教概論」。前半では、古代インド宗教を代表する思想家「六師外道」の教えが解明され、後半で、仏教の概要が戒・定・慧のステージ順に語られる。他宗教との比較を踏まえて、仏教の独自性、卓越性がくっきり分かる見事な構成だ。
『ブッダの実践心理学(アビダンマ講義シリーズ)』
サンガ 2005年~(全7巻で第5巻まで刊行/藤本晃氏との共著)
テーラワーダ仏教のアビダンマ(論)の綱要書として知られる『アビダンマッタサンガハ』を批判的に読み解き、難解な煩瑣哲学と呼ばれてきたアビダンマ(阿毘達磨)を「ブッダの実践心理学」として復活させた作品。テーラワーダという宗派の枠からも時に踏み出して、釈尊の教え(経典)を最重視する立場から、伝統的なアビダンマから現代人にも有益な心理学体系を汲み出そうと試みている。※追記:2013年に全8巻で完結した。
もっと読みたい!とっておきガイド
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一悟』(佼成出版社)東洋の聖書とされるも実際ほとんど読まれてなかった法句経。長老の自在な解説は「真理の言葉」の真の輝きを顕にする。『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』 (日本テーラワーダ仏教協会)釈尊が一切衆生への無量の慈しみを説いた『慈経(Metta sutta)』を逐語解説。上座仏教国では『般若心経』並に知られているので、ぜひ憶えたい。CD付。『悩みと縁のない生き方 「日々是好日」経』(サンガ)自己啓発の本などで生ぬるく語られる「いまを生きる」とは本当は如何なる境地か、このパーリ経典の四偈の解説に尽きるはず。『ブッダの智慧で答えます 生き方編』(創元社)全国から寄せられた77に及ぶ質問への答えと6つのコラムで構成された一冊丸ごとQ&Aという異色作。『死後はどうなるの?』(国書刊行会)輪廻転生をテーマにした作品。仏教サイドからの「靖国問題」への見解も掲載。『自殺と「いじめ」の仏教カウンセリング』(宝島社新書)自殺といじめという、現代の二大病理に切り込んだ力作だが、驚くほど売れなかった。(佐藤哲朗)
協会のfbより紹介です。
予約URL:http://kokucheese.com/event/index/444546/
日本テーラワーダ仏教協会
#jtba 2017年1/15(日)スマナサーラ長老 新春講演会『「莫妄想」と考える力~思考能力をアップグレードするブッダの智慧~ 』予約受付
予約URL:http://kokucheese.com/event/index/444546/
講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老
「莫妄想【まくもうぞう】」とは仏教で強調される言葉です。ヴィパッサナー実践においては、妄想しないこと、思考を止めることが最重要のポイントと説かれます。しかし俗世間では、自分で考えて判断することこそが人間の尊厳だと言われています。妄想や思考をやめたら、主体性の乏しい、面白みのないロボットのような人間になってしまう、と懸念を抱く人も少なくないようです。しかし、仏教は智慧の教えです。真理の教えを体系化し、巧みな比喩で表現したブッダの能力とは、俗世間の人々が評価する「思考能力」の完成形といえるでしょう。仏弟子たちもまた、抜群のプレゼンテーションで人々を導く達人ぞろいでした。どうやらブッダの説く「思考停止」には、実は人間の思考能力をアップグレードする秘密が隠されているようです。今回の月例講演会では、「妄想しないこと」で逆に「考える力」が育ってしまう、という不思議な法則について学んでみましょう。
*****
日時:2017月01月15日(土)14:00~16:30(終了予定)
(受付開始13:40~)
場所 日暮里サニーホール
定員 400名(先着順)
参加費 ご喜捨(お気持ち)
☆★☆会場のお間違えの無いよう、ご確認お願いいたします。☆★☆
*事前にお申し込みの上ご参加下さい。
(申込締切01月13日12:00pm)
*受付返信がない方は、予約が取れておりません。再度お申し込み手続きをお取り下さい。
*会場の日暮里サニーホールへのお問い合わせはご遠慮ください。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会のfbより紹介です
名古屋で行われるスマナサーラ長老指導の「法話と冥想
日時:2017年1月22日(日)13:30~19:0
会場:日本ガイシフォーラム 和室
〒457-0833 愛知県名古屋市南区東又兵ヱ町5-
参加費:ご喜捨(参加当日、受付にお渡し下さい)
▼スケジュール
13:00 受付開始
13:30 お経・法話・質疑応答
15:30 休憩(15分程度)
15:45 初心者冥想指導
各自冥想実践
19:00 お経・祝福
19:30 終了予定
●交通アクセス
http://www.nespa.or.jp/
★「茶話会(親睦会)」のお知らせ
午前10時から、法友のみなさんの集いがあります。
※自由参加、昼食は各自ご用意ください。
●東海ダンマサークル
http://
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会のfbより紹介です
#jtba【youtube動画】12/4(日)『関西月例冥想会』スマナサーラ長老指導
▼12/4(日)『関西月例冥想会』(約1時間30分)
http://bit.ly/2h6GFe3
法話の概要
・感覚について
・人間関係について
・ワンポイントアドバイス「慈悲でこころを輝かせる」
▼説明
限定配信です。このchからの映像・音声の著作権は、日本テーラワーダ仏教協会に属します。私的使用の範囲でご活用ください。内容の一部、または全部を転用、二次利用することはお控えください。
また、何らかの形でご紹介いただく場合は、動画、音声の直接リンクでなく、元blogの記事URLをお貼りくださいますようお願いいたします。
●音声データは、後日アップロードされます。
「β関西活動報告」 http://www.voiceblog.jp/najiorepo/
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会の記事ではありません。
nāgita のnoteより紹介です。
仏教を知るキーワード【18】六波羅蜜 ~大乗仏教に特有の修行体系~
大乗仏教では、ブッダになるための特別な能力完成をめざす「波羅蜜」が修行の中心に
六波羅蜜(ろくはらみつ)は大乗仏教の修行体系である。大乗仏教では菩薩道を歩んでブッダ(正等覚者)となることを目標としたため、ゴータマ・ブッダが示した修行法である三十七菩提分法ではなく、ブッダとなるための特別な能力完成を目指す「波羅蜜(パーラミー、パーラミター)」を修行の中心に据えた。上座部仏教では菩薩の修行は十波羅蜜...
仏教を知るキーワード【19】密教 ~大衆の求めに応じた仏教的呪法儀礼~
ブッダは密教を否定したが、人々にとって仏教は神秘に満ちた教えだった
ブッダ(釈尊)はこう述べた。「隠したほうが効果があり、あらわにすると効果がなくなるものが三つある。女性(の身体)と、バラモンたちの呪文、そして邪見だ。この三つは隠したほうが効果があり、あらわにすると効果がなくなる。」ブッダは続けてこう断言する。月と太陽と如来(ブッダ)の説いた真理と実践(法と律)は、明らかにしてこそ光輝くと。ブッ...
仏教を知るキーワード【20】ジャータカ ~ブッダの前生物語~
8つの特徴
ジャータカ(本生)はブッダの前生での波羅蜜行を記録したとされる説話文学集である。ジャータカというとすぐに「物語」が連想されるが、パーリ三蔵の場合は、経典の扱いをされているのは偈(ガーター)という詩の部分のみ。この詩を「注釈」する形で綴られたのが、いわゆる『ジャータカ物語』となっている。ジャータカの偈だけ羅列しても意味が通らない箇所も多いので、ジャータカは必ず、注釈書を併せて読むことに...
仏教を知るキーワード【21】ブッダの生涯 ~人類の燈火~(完)
ブッダ(釈迦牟尼仏陀)は古代インドに実在した人物である。仏教の開祖として、いまも何億人という人々から慕われている。連載の終わりに、ブッダの生涯を駆け足で紹介したい。
小国の王子に生まれて
およそ二千六百年前。インド亜大陸の北、ヒマラヤ南麓にあった釈迦国という小国に一人の王子が生まれた。場所はルンビニーという花園だった。スッドーダナ国王の王子として生を受けた赤ん坊は「目的を成就させる」という意味...
協会のfbより紹介です
#jtba 電書新刊:スマナサーラ長老『自殺と「いじめ」の仏教カウンセリング』Kindle版
仏教では、自殺願望を当然と考えます。しかし、つらいから、いじめられたからと自殺する人を「腰抜け」ともいうのです。人生をサバイバルするために、ブッダの智慧を借りましょう。
※2007年刊の同名書(宝島社新書228)を電子書籍化
主要目次
はじめに:自殺したいのは当たり前
第1章:なぜ死にたくなるのか
第2章:自殺と罪
第3章:事実による教育
第4章:いじめカウンセリング
おわりに:生きることを卒業する道