協会の記事ではありません。
nāgita のnoteより紹介です。
スマナサーラ長老 ”さまざまな「日々是好日」経” 講義メモ
“さまざまな「日々是好日」経”講義メモ
2014年01月23日
新宿朝日カルチャーセンター講義
スマナサーラ長老
■『「日々是好日」偈』
Atītaṃ nānvāgameyya, nappaṭikaṅkhe anāgataṃ;
Yadatītaṃ pahīnaṃ taṃ, appattañca anāgataṃ.
Paccuppannañca yo dhammaṃ, tattha tattha vipassati;
Asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ, taṃ vidvā manubrūhaye.過去を追いゆくことなく また未来を願いゆくことなし
過去はすでに過ぎ去りしもの 未来は未だ来ぬものゆえに
現に存在している現象を その場その場で観察し
揺らぐ(執着する)ことなく動じることなく 智者はそを修するがよい
(以下後述)
■阿羅漢方の解説
サミッディ尊者のエピソード:パーリ経蔵の中部(マッジマ・ニカーヤ)には、131.Bhaddekaratta-suttaのほかに、登場キャラを変えた「日々是好日」偈に関する経典が3パターン(132.Ānandabhaddekaratta-sutta,133.Mahākaccānabhaddekaratta-sutta,134.Lomasakaṅgiyabhaddekaratta-sutta)出てきます。なぜでしょうか? もしや、大事なので必ず憶えなさいという意味じゃないでしょうか? 因果法則に関する経典は繰り返しが大量で、3回どころじゃないありません。「日々是好日」偈はマッジマ・ニカーヤで四回も繰り返し取り上げられています。つまり、これはとても重要な経典(偈)なのです。今日は133 Mahākaccānabhaddekaratta-suttaを取り上げます。
■マハ―カッチャーナ「日々是好日」経(Mahākaccānabhaddekaratta-sutta)
早朝、沐浴中のサミッディ(Samiddhi)長老のところにある神が現れます。
神:「あなたは、「日々是好日」偈とその分析を憶えていますか?」
サミッディ長老:「知りません」
神:「私も知りません。でもあなたは聴いて憶えておきなさい。解脱(精神の解放、自由)に達する教えですよ」
ここで「憶えておく」というのは、教えと一体になるくらい脳に叩き込むことです。だから繰り返し唱える。それで心がどんどん変わって解脱に達するのです。
サミッディ長老は、釈尊に偈を教えてもらいます。しかし、お釈迦さまは詳しい説明なしに帰ってしまいます。そこでサミッディ長老は、マハーカッチャーナ(Mahākaccāna)尊者に解説を頼むのです。
マハーカッチャーナ長老:「法主釈尊から直々教えを受け取っておいて、なぜ解説を頼まなかったのか?」
サミッディ長老:「でも尊者は釈尊にも認められている方ですから。もったいぶらずに解説してください。」
■過去を追いゆく とは?
ここから、マハ―カッチャーナ尊者が「日々是好日」偈について解説します。
「かつて私の眼はこのようなものであった。色(見られるもの)はこのようなものであった」と想います(妄想します)。
過去の眼と色(見たもの)についてあれこれ妄想するのです。
「彼の認識は愛欲(chandarāga)と繋がります。」
いくら過去を思い出しても、その時に比べていまの感覚は衰えています。だから過去の認識に対して愛欲(chandarāga)を感じてしまう。引っかかってしまう。昔は良かったなぁ、という気持ちが起きてしまうのです。
「認識が愛欲と繋がったので、《そこに》喜び・愛着(abhinandanā)をおぼえる。」
聖者は過去を忘れるということではありません。記憶に気持ち(感情)が入っているかどうかで、聖者と凡夫が分かれるのです。無執着の人は、過去のデータ・経験を思い出しても、それに伴う感情は起こらないのです。
「《そこに》愛着をおぼえるとは、過去を追いゆくことです。」
過去の眼と色 → 愛欲
愛欲 → 喜び・愛着
喜び・愛着 → 過去を追う
以上のように、耳と声、鼻と香、舌と味、身体と触(硬さ・熱)、意と法(諸現象)の関係も説明します。
■過去を追わない とは?
眼耳鼻舌身意それぞれの識について思い出しても、それらに対する認識が愛欲と繋がらないのです。愛欲が無い場合は喜び・愛着もありません。過去の感情を蘇らせないのです。
■未来に期待する とは?
「未来、私の眼はこのように、色はこのようになることでしょう、と、未経験の、得ていないものを経験するために、得るために心を働かせるのです。」
「こころを働かせると、そのことについて喜び・感情が起こる。」
例:「マイホームを作るぞ」と思った時点でマイホームができたような気分に浸ることです。実行できるか否かは関係ありません。食べてないのに美味しく感じる、という話です。できるかどうかわからないことに欲・怒り・憎しみなどをつくって心が汚れるのです。
「喜び・愛着が起こるとは、未来に願いをかけることです。」
以上のように、耳と声、鼻と香、舌と味、身体と触(硬さ・熱)、意と法(諸現象)の関係も説明します。
過去や未来について感情をつくることで「いま」のこころが汚れるのです。いつでもダメージを受けるのは「いま」のこころです。そういう危険なカラクリについて説明しているのです。
■未来に期待しない とは?
「眼耳鼻舌身意が色声香味触法に触れて起ころうとする認識に対して、《このようになればよい》と期待しない、願わないことです。」
「(これから)○○します」はOKです。でも感情をつくらないこと。
■現在(の状態)に執着する とは?
「この眼、この色(見えるもの)は現在です。この現在に対して、認識が愛欲で汚れる(結ばれる・繋がる)。」
「愛欲に染まった認識はそこに喜び・愛着をおぼえる。愛着が起こるとは現在に執着することです。」
欲だけではなく、怒り・憎しみ・恨み・嫉妬なども同じ接着剤なのです。
以上のように、耳と声、鼻と香、舌と味、身体と触(硬さ・熱)、意と法(諸現象)の関係も説明します。
現在においても、六つのチャンネルで、あらゆる処から接着されるのです。
■現在(の状態)に執着しない とは?
眼耳鼻舌身意と色声香味触法の関係という現在の現象に対して、こころは愛欲を作らない……。
現在に愛欲→喜び・愛着をつくっても、現在はすぐに消えてしまうものです。執着できないのです。(執着したら、)今を生きられないのです。
Asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ, taṃ vidvā manubrūhaye.
揺らぐ(執着する)ことなく動じることなく 智者はそを修するがよい
過去・未来・現在に執着をつくることなく、元気いっぱいに今を生きてみましょう、という教えです。
Ajjeva kiccaṃ ātappaṃ, ko jaññā maraṇaṃ suve;
今日こそ努め励むべきなり だれが明日の死を知ろう
これができると、頭がものすごく鋭くなります。
Na hi no saṅgaraṃ tena, mahāsenena maccunā.
されば死の大軍に 我ら煩うことなし
死の大軍:我々に死をもたらす原因は無数にあります。生きられる原因はほんのちょっとしかない。そういうわけで「死の大軍」というのです。
瞑想の言葉:「生は極めて不確かなもの。死だけが確実です。」確かなものとは、「私は瞬間瞬間、歳をとります、そして死にます」という事実だけです。
Evaṃ vihāriṃ ātāpiṃ, ahorattamatanditaṃ;
昼夜怠ることなく かのように住み、励む
Taṃ ve bhaddekarattoti, santo ācikkhate muni.
こはまさに「日々是好日」と 寂静者なる牟尼は説く
これが聖者の生き方です。
こころに感情が生まれないから、自由・安穏なのです。
■補足
「日々是好日」偈について、釈尊の説明は《自我の錯覚でひっかかるなかれ》という「哲学的」な解説でした。マハーカッチャーナ尊者の説明は《認識する時にひっかかるなかれ》という認識論的な解説になっています。尊者の解説について、釈尊も後でそのとおりと認めました。仏教では両方から説明しますが、後者の説明が多いのです。結局は「認識」ですからね。
こころが動じない(asaṃkuppaṃ)とは、「こころが汚れない」ということです。認識によって、常にこころは揺らいでいる=汚れている=感情をつくっているのです。区別は知識能力によるものです。差別は感情が入っています。(英語だとどちらもdiscriminate という単語を使うので困ってしまいます。)
仕事に対して「興奮しない」とは、「しっかりやっている」ということなのです。動じない、揺らがない、というのは素晴らしいことです。(終わり)
~生きとし生けるものが幸せでありますように~