
協会のfbより紹介です。
日本テーラワーダ仏教協会
#jtba「知識を分別してみましょう」~無駄に溜めこむ危険性~
仏教は宗教ではなく、心の科学ですから、皆さんにもブッダの教えをありがたがるのではなく、その教えが事実か否か、立証できるか否かを調べてほしいのです。仏教は、皆さんが漠然とイメージしているような、ありがたいお話などではないのです。
仏教では、他の宗教でよく言うような「信仰しなさい」などということは一切言いません。むしろ逆に、「仏教の教えが間違っていないか、自分で調べて検証してみなさい」と言うのです。
そうして勉強していくと、どんどん知識が溜まっていくことと思います。世間では「雑学」などと言って、知識の多いことが良いように言っていますが、仏教ではそうは考えません。無駄な知識が多いと、かえって頭がぼやけて愚か者になると考えているのです。ですから、知識が溜まってきたら、その知識を有用なものと不要なものに分別する必要があります。
知識を分別する際に、基準となるものは次のようになります。
①「自分にとって関係がある、ない」
②「社会にとって役に立つ、立たない」
③「立証できる、できない」
④「心が清らかになる、ならない」
⑤「人格向上につながる、つながらない」
この五つの項目に基づいて、自分の知識を整理してみてください。無駄な知識が減ると、頭の中がスッキリして、智慧が生まれてきます。皆さんが普段妄想ばかりしていて、ちっとも生産的でないのは、決して頭が悪いからではありません。原因は、無駄な知識を頭に溜めこみ過ぎていることにあるのです。ですから、この五つの基準に基づいて無駄な知識を捨て去れば、賢く生きることが可能となるのです。
●photo:Fog-Rain by jeffrey montes<flickr>
▼引用テキスト
「ひとりで生きるということ」(Kindle版)
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~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
<大仏とやっさんとやさしい教え>
結髪経(相応部:ジャタスッタ)
神が世尊に問う。
「内にも外にも縺れあり
人は縺れにまどわされている
ゴータマよ、それゆえそれを問う
誰がこの縺れを解きうるか」
世尊は答える。
「智慧人として戒(五戒)を保ち
心と慧とを修習する
賢明にして、熱心な比丘
かれはこの縺れを解きうる
貧も瞋もさらにまた
無明をも離れ脱したる
漏尽にして阿羅漢なる
かれらの縺れは解かれている
名も色も残りなく
また有対も色想も
消滅しているところには
その縺れは断ち切られる」
先週の日曜日、ちょっとだけ早起きをして、クサラダンマ長老の法話を聞きに、アラナ精舎に行きました。結髪経の解説。クサラダンマ長老の経典解説は、とても素晴らしい。
長老はいつも、経典に何が書かれているかを解説されるのではなく、経典に書かれていることを、日常にどう取り入れ実践していくかを説かれる。素晴らしいものだと飾っておくのではなく、記されていることを日々の生活に取り入れてこそ、経典は意味を持つのだと教えてくれる。
今回もいくつもの教えを頂きましたが、やはり五戒を守ることがすべての礎。そこに熱心さ、賢明さ、智慧を加え、貪欲・ケチ・怒りを脱し、清らかに生きることを目指す。それで人は縺れを解く。
方法はしっかり教わったのだから、あとはかる~く実践するのみです。
協会のfbより紹介です。
日本テーラワーダ仏教協会
#jtba「人生で出合うこと」~四門出遊は作られたエピソード~
シッダッタ王子が出家したのはなぜか、ということを語る有名な物語があります。ある日、王子が公園に遊びに出かけたとき、ボロぞうきんのようになった老人が目に入りました。王子が驚いて、「これは何の生きものですか?」と、御者のチャンナに聞きました。なんと、王子は老いた人をそれまで見たこともなかったのです。御者のチャンナが、「すべての人々は必ず老いるのです」と王子に教えてあげました。その日は、遊ぶことに飽きた王子は、宮殿に戻ってしまいました。
また別のある日、遊びに出かけた王子は、見ていられないほど苦しんでいる病人に会いました。ショックを受ける王子に御者チャンナはまた、「誰でも同じように病気になるのですよ」と説法されました。そしてまた別のある日、王子は死んだ人(死体)に出くわします。それでまた、「人は誰でも必ず死ぬのです」と、御者チャンナに説法されます。
王子が最後に出会ったのは、修行者でした。「この人は何ですか?」と問う王子に、御者チャンナは「老病死という生きる苦しみから脱出して、永遠な安らぎを求めて出家して修行する人ですよ」と説法されたのです。それでシッダッタ王子は、「出家することしか自分にも選ぶ道はない」と決めたのです。
この話は「四門出遊」のエピソードとしてよく知られているお話ですが、結局は作られた物語です。理論が成り立たないところがいくつかあります。天才的な能力の持ち主で、インドの学者さえ驚かせたシッダッタ王子が、人が老いることを知らなかったというのは、余りにもおかしいからです。
作者はこのポイントをちゃんと知っていました。ですから父王が、「老人・病人・死体・修行者の姿が息子の目に触れぬようにと、シッダッタ王子を決して町に入れないように命じていたのだ」と書いていますが、それでも、あり得ないことです。
物語の作者たちは私たちを何とか納得させるために、さらに工夫します。王子が見た老人・病人・死体・修行者は本物ではなく、神々が「王子はそろそろ出家する時期になった。遊びにふけっていてはダメだ」と思って見せた幻想だとも言うのです。天才的な能力を持っている王子が、学問をしたこともない御者チャンナに説法されるのはおかしい、という点については、「神々がチャンナの口を借りて説明した」と言って見事につじつまを合わせました。
物語として、このエピソードは面白いと思います。私も子どもの頃、喜んで読んだものです。しかし、大事なのは物語ではなく、この物語が言わんとするポイントです。王子は生きる苦しみや幸福について、ふつうの人間の思考範囲に入らないレベルまで考察したのです。そして、「すべての生命は老い、病み、死ぬ。俗世間にしがみついて欲におぼれて生活すると、老病死の苦しみの渦巻きのまれる」と、とてもわかりやすい結論をまとめました。
出家してから、シッダッタ王子は天才的な能力を働かせました。この「苦しみ」をなくす別な道を探すために、様々な研究や修行に打ち込んだのです。そして、出家してから六年余りが経った時、シッダッタ王子はついに「苦しみをなくすための方法」を見つけました。それから、シッダッタ王子は「ブッダ(悟った人・発見者)」「如来(真理に達した人)」と呼ばれるようになったのです。
釈迦(シャカ)族から現れた仙人という意味で、「釈迦牟尼(しゃかむに)」「釈迦牟尼仏陀」とも言います。それらの言葉を普通の日本語で略して、「お釈迦さま」と読んでいるのです。
▼解説
この有名な「四門出遊」の話は、先に引いたお釈迦さまの「老病死」への考察(増支部 三集 38)、『聖求経』(中部26)などの、自らの出家から成道までを振り返りつつ語った生々しい回想などを、神格化したものにすぎません。
釈迦国は王国といっても小さな国でしたから、王族もしょっちゅう国民とふれあって、一緒に田畑を耕したりしていました。ですから、城門から出ずに、ずっと老人や病人、死者と遭うことがなかったというのは、あり得ません。四門出遊は過去仏であるヴィパッシー・ブッダの伝承に現れるエピソード(『大譬喩経』)を、お釈迦さまにも当てはめたものなのです。
●photo:Encounter... by Thomas Leuthard<flickr>
▼引用テキスト
「ブッダ―大人になる道」(Kindle版)
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「日本人が知らないブッダの話」
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~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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日本テーラワーダ仏教協会
#jtba「この世のすべて」~現前にある不完全という真理~
すべてのものは不完全。我々は十分満足できないし、すぐに飽きてしまいます。このLiving systems・生命法則を、そのまま表現するものとして、お釈迦様は「ドゥッカ(Dukkha)」という言葉を使ったのです。dukkhaは「苦」と訳されることが多いですが、四つの意味が入っています。「不完全」「虚しい」「苦しみ」「無常」、この四つです。ですから、dukkhaとは「苦しみ」という意味だけではないのです。
苦がなければ、生命がいません。不完全でなければ、生命はいません。今、私の身体は不完全だから呼吸し、ごはんを食べ、水を飲み、身体を動かし、寝たり起きたり、いろいろなことをしています。そうしないと死んでしまいます。遺伝子にしても、遺伝子そのものが不完全だから、どんどんどんどん、コピーしてコピーしていくのです。安定しません。
なぜ、昼と夜があるのでしょうか。昼だけでいいと思いませんか?あるいは夜だけでもいいと思いませんか?考えたことがありますか? ぜひ、昼と夜があるか。皆さんが知っている知識では、地球が自転しているからだとなりますね。我々が住んでいるところが太陽のほうに向くと昼で、太陽に背を向けると夜になります。
では、なぜ自転するのでしょう。なぜ、回るのでしょうか?じっとしていればいいのに。それは、不安定だからです。回らずにはいられない。回るわ、回るわ、限がなく回ります。さらに公転もします。なぜ、公転するのかといえば、太陽と地球のエネルギーが対立して、アンバランスが生まれるからです。
我々は太陽の自転・公転の中でいきているので、アンバランスをバランスにしようと、太陽に合わせて、あれやこれやと調整するのです。不完全だから、調整する。それが生きることなのです。
●photo:Twilight by Colin Poellot<flickr>
▼引用テキスト
「苦の見方」(Kindle版)
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~生きとし生けるものが幸せでありますように~
五宝寺はなまつり法話「楽に生きるための真理」
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現代の諸問題にブッダの智慧で答えます。
提供: 日本テーラワーダ仏教協会
五宝寺はなまつり法話「楽に生きるための真理」(Dhammacast)
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日本テーラワーダ仏教協会
#jtba「マインドコントロールを解除するために」(後篇)
真理はこのようなものです。注射薬は、ある病気に特効薬であるならば、その病気にかかっている誰が試してみても、一向に構わないのです。しかし、塗ったり飲んだりしてはいけません。ブッダの教えも、誰が試しても真理であることは発見できます。幸福になることが確実です。しかし、自分のバイアスでやってみても、同じ結果は出ない可能性があるのです。
我々は思考の自由、事実を知る権利を大事にするならば、やるべきことは心からバイアスの基準を捨てることです。自分でバイアスを捨ててしまって、心を自由にすると、マスコミ・インターネットなどで限りなく流れる如何なるデータであっても、どこまで事実かと発見することができるのです。情報によって操られることがなくなるのです。マインドコントロールが解除されるのです。バイアスを無くしてはじめて、「理性」のある人間になるのです。お釈迦さまが理性のある人、知識人、というのは、バイアスの膜が薄い人のことです。
いくら学者であっても、北伝南伝の経典通であっても、世界的に認められる知識人であっても、「我は知っている」というバイアスで、乱暴に、いい加減にブッダの言葉を解説しても、ブッダの教えを知る人にならないのです。人は有名であればあるほど、世界はその人の言葉を信じるのです。これもバイアスですが、仕方がありません。社会のリーダーシップを取っている知識人・思想家たちは、とても気楽にものごとを解説したり自分の意見を述べたりする。
ブッダの教えについても、とても気楽に解説したり知る。この知識人の方々は、「私は知識人である。物事をよく学んでいる。ですから、私の意見に間違いあるはずがありません」という立場なので、結局はバイアスなのです。バイアスがないオープンな心で、ブッダの教えを解説することは、たいへんなことなのです。
科学の理想的な立場は、主観はいけない、ということです。データのみを客観的に調べることです。自分の意見は、決して科学の見解にはなりません、データによって、自然に導かれる結論が、科学の見解です。
ブッダの教えを解説して、他人にも理解してもらいたいと思う人々は、必ずこの科学の立場をとらなくてはならないのです。その人が、真理に依って立つ者と言われるのです。解りやすくいえば、正真正銘の科学者、ということです。
ここで科学の例を出して説明しましたが、昔の世界では、科学なんかはなかったのです。昔の人々は、より解りやすい例で、バイアスの無い状態を理解したのです。それは裁判の例なのです。裁判の場合は、裁判官がいる。原告側がいる。被告側がいる。原告側に自分が言うことを立証するために、証拠・証人などがいる。被告側にも自分の無罪を立証するために、証拠・証人がいる。判決は裁判官が出すのです。
正しい裁判官なら、自分の気持ち、自分の好みなどを微塵も使用しない。原告側もまた被告側の社会的立場、権力なども気にしない。誰の肩も持たない。立証されたら有罪。立証できなかったら無罪。裁判官の理想的な心構えを、バイアスのない心構えとして昔は理解したのです。ですから、仏教では、裁判に対しても、「法に依って立つ」という単語を使うのです。
もし裁判官が、袖の下で賄賂を取っているならば、どうなることでしょうか。わいろの額が原告側の方が多ければ有罪で、被告側の方が多ければ無罪になるでしょう。また、真剣に証人のはなしを聞く必要もないでしょう。封筒の中に入っている枚数だけ数えれば、判決は下せるのです。
もしそうなったら、この世で法律なんかは成り立たなくなるのです。この世で、政治家の、権力者の、好みに合わせて判決をしてしまう裁判もいないとはいえないでしょう。しかし、裁判官には、バイアスは猛毒です。
我々人間は、物事を理解する上で、他人に情報を伝える上で、賄賂を取る裁判官のような生き方をしているのです。それでは話にならないのです。我々の生き方は、「自分の理解」に基づいたものでしょう。だから、それで正しく生きていると、胸を張って言えるのでしょうか。
もしブッダの教えを理解するならば、こころをバイアスから解放して、理想的な裁判官のように、正しく物事を理解して、正しく生きていって、真の幸福に達することができるでしょう。終わり
●photo:Dec 10, 2014 by California Courts<flickr>
▼引用テキスト
「思考さえも自由にならない」~人間皆バイアスを持っている~
http://www.j-theravada.net/howa/howa149.html
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会のfbより紹介です。
#jtba「マインドコントロールを解除するために」(中篇)
人間の意見、というものは、結局はそれぞれの人の主観に過ぎない、というのが、ブッダの立場なのです。主観はすべて間違い、という意味ではありません。
例えばある人が「生命は死後、生まれ変わるのだ」と言う。またある人が「生命は死後、生まれ変わらない」と言う。この二つの意見とも主観です。もし実際に生命が死後生まれ変わることが事実であるならば、前者の主観がウソにならないのです。後者の意見はウソになるのです。もし生命が死後生まれ変わらないことが事実であるならば、前者の意見がウソで、後者の意見は真理になるのです。
仏教は世の中の様々な意見について、誰が正か、誰が邪か、ともう一つの偏見で二分化しないのです。人の意見は、事実に、真理に合っているか合っていないのか、また、どの程度で合っているのか、というところを気にするのです。事実に合っていても、主観は主観です。
真理を発見するためには、人の話に乗るのではなく、自分で経験しなくてはいけないのです。それでも、その実験する方法を人から学ばなくてはならないのです。人の話は主観でしょうし、それを聞く自分が、また自分の主観を作るでしょう。これが問題になります。
また我々は、日常生活をする上では様々な他人の意見を聞き入れなければならないのです。その場合は、単純に鵜呑みにする、自分の好みで一人の意見を取り入れてもう一人の意見を却下する、言っている相手の迫力に抑えられて信じる、皆の意見に合わせる、などのバイアスが入ります。
しかし人は、事実・真理を知るべきです。正しい行動、正しい生き方をするべきです。でもここまでバイアスに攻撃されたなら、事実を知ることはできそうもないのです。
お釈迦さまが悟りをひらいて間もないうちに、この大きな問題が気がかりになったのです。悟りそのものが言葉に、概念に、イメージにならない、すべてを乗り越えた境地なのです。
真理そのものにしても、いまだかつて誰も発見しなかったものなので、俗世間の思考パターンでは理解できないものです。語っても相手には理解しにくいものになるのです。自分が解っていることを相手にしゃべると、使う言語によって充分表現できない可能性があります。
それから、聞く人は自分の能力で理解するので、言われたことをそのまま理解しない可能性もあります。それによって事実はけっこう偏向してしまうのです。お釈迦さまが説法するときは、この問題を解決して語られたので、「法についてよく語られている。正しく語られている」という形容詞を使うのです。法は相手に充分理解できなくても、誤解することは不可能です。
しかし、ブッダの聖なる教えは、よく変わったものです。聖なる優れた教えは、俗的一般論にまで、時代によって変わってしまったのです。それは釈尊が厳密に注意したところを無視されたことの結果ではないかと思います。いわゆるバイアスの問題なのです。
我々一般人は、バイアスの塊なのです。客観的である、科学的である、実証されている云々の理由が、無意識的にバイアスなのです。興味あるものしか調べないのは、我々の生き様です。ブッダの言葉を自分で理解するとき、また、他人に教えるとき、自分の主観で解説する。自分で理解できる範囲だけが正しいと思ったりもする。
また、自分の主義に合わせて解説する。論理学者は論理の立場で、哲学者は哲学の立場で、科学者は科学の見解で、神秘家は神秘主義の立場で、宗教家がそれぞれの宗教の立場で解説するのです。それで、お釈迦さまが伝えたかったことと、解説は変わってしまうのです。ですから仏教では、解説の仕方(解説学)まで教えなくてはならなくなっているのです。
仏教は他宗教と違って、完全オープンな教えなのです。誰が学んでもよいのです。批判することも、挑戦することも、比較することも、できるのです。恨み憎しみをもって、根拠のない言葉で仏法を侮辱することは、悪いに決まっている。それは悪業です。それ以外の批判は、悪業になりません。
しかし「仏教は自由な教えだ。オープンな教えだ。批判することも自分なりに解説して理解することも自由だ」と思って仏教を解説しても、たいへんな問題が起きます。彼らが真理を自分の主観で偏向させてしまうのです。なぜならば、物事を理解する自分の立場(自分のバイアス)に基づいて理解するからです。
本当のところ、オープンの意味は、バイアスで解説することではなく、客観的に理解することなのです。自分の好きなように科学実験したからと言って、科学の真理は発見できないのです。注射するべき薬を、自分は注射がイヤだからといって、身体に塗ったり、飲んでみたりしてもダメなのです。そこで、自分のバイアスは通らないのです。つづく
●photo:Virtual Reality Demonstrations by Knight Center for Journalism in the Americas<flickr>
▼引用テキスト
「思考さえも自由にならない」~人間皆バイアスを持っている~
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~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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#jtba 佼成出版社の月刊誌『やくしん』2017年3月号にスマナサーラ長老のインタビュー記事「過去や未来は考えない!”いま”を生きることが何よりも大事。」が掲載されました。
https://www.kosei-shuppan.co.jp
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#jtba「マインドコントロールを解除するために」(前篇)
マスコミのワイドショーなどは、この世で起こる色々な出来事の真相究明に必死です。犯罪容疑で人が逮捕されると、その人が何をやったかと、きめ細かく報道しますが、実際は拘置所で容疑者が何を喋っているか、検察側がどんな情報を調べているかは、外の世界には知られないはずです。何でもかんでも発表すると、正しく捜査することができなくなる。
なのに、マスコミでは容疑者の態度や気持ちまで、報道するのです。どこから得た情報で、このように真相究明しているのかと、よく解らないのです。裁判で判決を出すためには何年もかかるが、マスコミは次の事件が起きた時点で、前の事件の判決まで出して終わるのです。犯罪だけではなく様々な問題について、マスコミの倫理にしたがって、ありのままの事実をそのまま発表するという名目で報道されるのです。
たとえば報道については、自由と責任、正確と公正、独立と寛容、人権の尊重、品格と節度を守るという約束事があります。実際、倫理綱領が守られているのでしょうか?
マスコミは決して倫理綱領を意図的に破ろうとはしません。むしろ、ついうっかりして破ってしまうケースの方が多いのです。現代マスコミの気になるところは、倫理綱領ではなく、何かをしてスクープを探し出して一般社会にアピールすることです。皆に見て欲しい、皆に読んで欲しい、という気持ちが強すぎて、情報は単なる娯楽番組に変身するのです。
ジャーナリストは実際何が起きたか、ではなくて、自分の手に入ったわずかなデータに基づいて、いかに感動的な作品を作るのかということに、必死なのです。というわけで、公正も正確さも、独立も寛容も希薄になってしまうのです。たとえば日本で流れる北朝鮮の情報は、まったくワンパターンです。良いことは微塵も報じないのです。北朝鮮で流す日本に関わる情報も、恐らく似ているでしょう。
オリンピック試合などはそのまま生放送する約束ですが、実際、番組を観ると、放送してくれるのは自国の選手たちが参加するところだけです。それはアメリカにしても同じ方針です。各国の日常の生き方、文化などを放送するときも、基本的なパターンがあるのです。ヨーロッパの日常習慣とアジア・アフリカの日常習慣が、同じ基準で放送されることはないのです。一般大衆が突然、韓国のドラマなどに釘付けになると、マスコミも韓国のものなら何でもすごいというアプローチで、様々な情報を放送することになるのです。
ここまで書いたのは、マスコミを批判するためではありません。「事実を語る」場合、起こる問題を明確にするためです。人は事実を語ろうとしても、結局はバイアスが入るのです。色眼鏡で見たものは、正しく見えたとは言えないのです。バイアスもいろいろです。
政治的なところで言うと、アメリカや西洋の政治に対して限りなく持ち上げたくなるバイアス、中国やロシア・北朝鮮について批判的なバイアス、アフリカなどの国々について無関心なバイアスなどが必ず入ります。事実はどうであろうとも、大衆の意見に合わせることもバイアスです。よく売れるように、視聴率を上げるように、放送するときは、金を儲ける目的というバイアスが入っているのです。自分が好きな有名人を褒め称える、好きではない有名人のいけないところだけ流す、などのバイアスもあるのです。
権力者におびえて、また権力者の機嫌を取るために、情報を変えるというバイアスもあるのです。それは「恐怖」のバイアスです。問題は、人間にこころをバイアスから開放して事実を伝えることが可能なのか、ということです。ほとんど不可能だと思います。しかし、政党機関紙のように様々な組織が発表する新聞雑誌などのバイアスは、はっきりしていますから、問題にはなりません。問題は、バイアスはもってのほかだと言いつつ、情報を流す世界のことです。
研究世界においても、バイアスが派手に機能するのです。相手より先に発表したい、先に特許をとりたい、儲かりたい、などの気持ちが入ると、研究の客観性が弱くなるのです。データのごまかしも起こるのです。歴史、考古学の分野でも、「好み」というバイアスが入るので、たいへん困るのです。
好みによって、データの解説が変わるのです。中国の子供たちが学ぶ日本の歴史と、日本の子供が学ぶ日本の歴史は、派手に違うものです。考古学の場合は、何かを発見したら「一般人を感動させる」というバイアスが入るので、ひとかけらの破片を見て、当時の状況をビデオで観ていたような感じで発表するのです。
哲学や宗教の研究の場合は、決まってバイアスなのです。研究者には、自分が好きな哲学思考があるので、その方向に傾けて哲学研究をする。宗教の場合は、自分の信仰があるので、研究成果はそのバイアスで塗り固める。聖書の言葉の解説にしても、説明はそれぞれの宗派によって変わるのです。
これは仏教の研究についても同じことです。同じブッダの言葉であっても、解説は宗派によって変わる。宗教・哲学を解説する人々は、自分たちがバイアスでやっていると絶対言わないのです。そのように思ってもいないのです。自分こそが本当の意義を理解しているとまじめに思っているのです。そこで何が起こるのでしょうか?
自分の宗派で新たに語っているアイデアがあります。それは元のブッダの教えに合うかもしれません。合わないかもしれません。合うか合わないか、どうでもいいのです。自分の宗派の論点が正しいと立証したいのです。そのためにブッダの言葉を引用するのです。
ですから、解説は、自論を立証できるように偏向してしまう。このようなことは皆、悪気があって人を騙す目的でやっていると、決して言えないのです。誰でも正直なつもりです。誰でも、客観的に事実を調べているつもりです。誰でも学術的に研究しているつもりです。自分の力いっぱい、努力しているのです。しかし誰にも解説がバイアスによって偏向することを変えられないのです。つづく
●photo:Reporters by M M<flickr>
▼引用テキスト
「思考さえも自由にならない」~人間皆バイアスを持っている~
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~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会のfbより紹介です。

日本テーラワーダ仏教協会#jtba「小さな灯火となる」~落ち着きと安らぎ~
慈しみを持ってすべての生命に接することを、仏教では「ともしび」にたとえています。「ともしび」は、それがあるだけで、その周辺が明るくなります。そうした存在は「ともしび」だけに限りません。たとえば、私たちは花を見たときに、「キレイだな」と感じます。見ているだけで楽しい気分になります。
でも、花は「みんなにキレイと思われなきゃ」「みんなに楽しんでもらうのに、私はへとへとだわ」などと思って咲いているわけではありません。ただ勝手に咲いているだけです。私たちはそれを見て、とても楽しい気持ちになるのです。
人間もそうした生き方ができます。その人がいるだけで、まわりの人たちも明るい気持ちになれる。こうした生き方をするのは、決して難しいことではありません。それには、あらゆる生命に対して慈しみの心を持つことです。まわりがあなたにどんな態度をとろうと、あなた自身はまわりにほほえみかける。あなた自身の心は常に安らぎを持つ。
これを繰り返していると、まわりの人たちの様子も変わっていきます。お父さん、お母さんが落ち着いた心でいれば、子どもの心も落ち着いていきます。夫(あるいは妻)が安らかな心でいれば、パートナーの心も安らいでいきます。ほほえむ人のまわりには、ほほえむ人が集まってきます。これが「ともしび」となって生きていくことなのです。
●photo:Smile by Takashi Hososhima<flickr>
▼引用テキスト
「執着しないこと」(中経出版、kindle版)
http://amzn.to/2igvHnw
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
日本テーラワーダ仏教協会
#jtba「小さな灯火となる」~落ち着きと安らぎ~
慈しみを持ってすべての生命に接することを、仏教では「ともしび」にたとえています。「ともしび」は、それがあるだけで、その周辺が明るくなります。そうした存在は「ともしび」だけに限りません。たとえば、私たちは花を見たときに、「キレイだな」と感じます。見ているだけで楽しい気分になります。
でも、花は「みんなにキレイと思われなきゃ」「みんなに楽しんでもらうのに、私はへとへとだわ」などと思って咲いているわけではありません。ただ勝手に咲いているだけです。私たちはそれを見て、とても楽しい気持ちになるのです。
人間もそうした生き方ができます。その人がいるだけで、まわりの人たちも明るい気持ちになれる。こうした生き方をするのは、決して難しいことではありません。それには、あらゆる生命に対して慈しみの心を持つことです。まわりがあなたにどんな態度をとろうと、あなた自身はまわりにほほえみかける。あなた自身の心は常に安らぎを持つ。
これを繰り返していると、まわりの人たちの様子も変わっていきます。お父さん、お母さんが落ち着いた心でいれば、子どもの心も落ち着いていきます。夫(あるいは妻)が安らかな心でいれば、パートナーの心も安らいでいきます。ほほえむ人のまわりには、ほほえむ人が集まってきます。これが「ともしび」となって生きていくことなのです。
●photo:Smile by Takashi Hososhima<flickr>
▼引用テキスト
「執着しないこと」(中経出版、kindle版)
http://amzn.to/2igvHnw
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会の記事ではありません。
ポンタ丸さんのブログより紹介です。
心を洗う

瞑想~それは眠気との闘い
ずっと眠気と闘ってきた
今も眠気と闘っている
先日、私がいつもお世話になっている誓教寺で2泊3日の女性限定の瞑想ミニ合宿が行われました(詳しくは誓教寺のHPでどうぞ)。
私は仕事の都合で2日しか参加できませんでしたが、やはり瞑想はできるだけ長時間したほうがいいので、こういう機会があるときは、できるだけ時間をつくって参加するようにしています。
【どうやって生きていったらいいかわからない~そんなときは】で最後に少し書きましたが、瞑想すると様々な「気づき」が起こります。
続きはここの中
http://ponta-maru.com/meisou-nemuke-tatakai/β関西活動報告 の紹介です。
午前の法話音声は↓こちら
■法話-怠け取り除く 直面■
マーヤーデーヴィー精舎で行われました。
プログラムは以下の通り。
9:35--
礼拝-三帰依-読経、慈悲の瞑想
スマナサーラ長老より法話(音声あり)
11:25--
お釈迦様へお食事等のお供え
11:40--
お昼休み
(12:40--ミーティング)
午後の部
13:20--
読経、慈悲の瞑想
初心者は、スマナサーラ長老より瞑想初心者指導
(1階ダイニングホール)
経験者は、各自で瞑想
(座禅-戒壇堂、歩行瞑想-2F 他)
18:25--
全員瞑想を終了し、2Fホールへ集合
慈悲の瞑想、読経、回向
18:40--
瞑想会終了
午前の法話音声は↓こちら
■法話-怠け取り除く 直面■
当日の法話動画はこちら↓で見ることが出来ます。
◇【youtube動画】2017年1月29日(日)『関西月例冥想会』スマナサーラ長老指導 ◇ http://mayadevi.hatenablog.com/entry/2017/02/05/142457
音声の著作権は、日本テーラワーダ仏教協会に属します。私的使用の範囲でご活用ください。
内容の一部、または全部を転用、二次利用することはお控えください。
内容をテキスト化して『公開』をすることは、転用、二次利用に含まれます。
音声、映像の配信については、関西冥想会の了承を得ております。
また、何らかの形でご紹介いただく場合は、動画、音声の直接リンクでなく、
元blogの記事URLをお貼りくださいますようお願いいたします。
http://www.voiceblog.jp/najiorepo/2241027.html
私的使用の範囲でお願いしております。
ご参考に
https://www.bengo4.com/houmu/17/n_556/
読者の皆様 参考にお目通しを