人間関係で完全な勝利を得るために、いかなる生命をもすべて自分の味方にするために、たった一つの呪文があります。それは「慈悲」という言葉です。では、「慈悲」とは何でしょうか。仏教では心の優しさを「慈悲」と言うことはご存じだと思います。しかし、単純な「優しさ」という言葉では慈悲の説明にはなりません。慈悲というのは一切の生命に、母が我が子に対するのと同じ優しさで接することです。「隣人に優しい、友人に優しい、家族に優しい、人間に優しい、動物も可愛いなら優しい」というようなことではありません。
慈悲という状態は、誰かから教えてもらわなければ、見たことも味わったことも経験したこともないものなのです。釈尊に教えてもらわない限り、慈悲を知っている人はいません。見たことも味わったこともないのだから、「慈悲」と聞いても、我々にはよくわからないのです。「慈悲を実践すると人間関係が上手くいきますよ」と言われると、慈悲を自分流に小さく変えて理解して、「私はどうも人づき合いが上手くできない。自分に自信がない。だから慈悲の心を育てたい」と思ったりします。
それでその人が慈悲を育てて幸福になるならば、それはありがたいことなのですが、目的があまりにも小さすぎると慈悲から得られる偉大なる結果を見落としてしまいます。ほんのちょっとだけ海水を手にとって、「海って本当にすごいものですね」と言っても、それは海の説明にも理解にもなりません。なめてみたら塩辛いとか、海のにおいがするとか、いくつかのことはわかるかもしれません。けれどもそんなちっぽけなものが海だということはできないでしょう?海のことはわからないのです。
慈悲は、強力な力で、すべての心の汚れを清らかにしてくれるのです。強烈な精神的エネルギーです。生命に対するすべての差別意識を捨てて、広々とした宇宙レベルの大きな見方で命を見られるようになることです。慈悲はそれぐらいすごい働きなのです。実際に生きているすべての生命にかかわる普遍的で欠かすことのできない生き方なのです。
アリでもミミズでも、微生物でさえ、苦しみを嫌がって、「より幸福な生き方はないか」と探し求めながら生きています。「自分にとってより良い環境で生きていきたい」と日々思っているのです。生命は、皆それぞれ、自分の命を維持するため、死を避けるため、苦しみをできるだけ控えるために、一生懸命に努力しています。皆、生きている限り幸せになりたい。その気持ちは同じです。そこに生命としての普遍的な真理があります。
それをありのままの事実として理解することができれば、、差別意識が全くなくなります。大きな見方で世の中を見ることができるようになります。慈悲は、すごく小さな自分を、全生命を平等に感じさせる大きな人間にしてくれるのです。慈悲を実践すれば、我々が抱えている様々な問題は、泡のごとく弾けて消えるのです。
釈尊は単純な理屈だけで慈悲を説かれたわけではありません。すべての真理を発見した悟りの智慧で、我々の生き様を観察して、「慈しみで生きてみなさい」とおっしゃっているのです。完全に恵まれた生き方をするためには、それしか道はありません。世間には慈悲の見方はないのです。ややこしい、わけもわからない理屈をつけて、怒りや憎しみで、仕返しや殺しを正当化しようとするのです。敵を倒さないと自分が幸せにならないと思っているのです。
慈悲は生まれつき人間に備わっているものではありません。本来我々はわがままで、自分のことしか考えない生き物なのです。自分さえよければそれで十分だ、と思っているのです。だから他人を攻撃するのです。他人とどのように調和するべきかがわからないのです。なんとかして、この小さな自我中心的な心を大きく育てなくてはなりません。今はまだ小さくても、がんばって、大地や大空のように大きな慈しみの心をつくることが、我々の努めなのです。
その方法はいたって簡単です。「すべての生命が幸福でありますように(生きとし生けるものが幸せでありますように)」と日夜真剣な気持ちで念じてみるのです。心の中でこの呪文を念じ始めた時から、悩みは消えていくのです。試してみてください。慈悲の言葉を念じる時は、声を上げて唱える必要はありません。お金も、時間もかかりません。宗教的な修行・儀式など、何一つもいらない方法です。最高に幸せになるために、これほど優れた手段はないのです。
●photo:Butterfly by Calvin Teh<flickr>
▼引用テキスト
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~生きとし生けるものが幸せでありますように~