8/27 クサラダンマ長老 「仏教法話会」
法話のテーマが、『転法輪経』
法話は数回にわたるとも聞きました.
駐車上料金について
4時間までしか、無料になりません。以降30分150円です。
皆様出来るだけ電車で来ましょう。
+食事御布施会
法話会③開催場所:刈谷市総合文化センター 503講座室(5階)
※同日開催の自主冥想会と同じ施
★「茶話会(親睦会)」のお知らせ
午前10時から法友のみなさんの集いがあります。
※自由参加、昼食は各自ご用意ください。
10時から11時までに集合
11:15~12:00
(11:30までが準備時間です。
11:30頃よりお食事を始めていただきます。)
【場所】 刈谷市総合文化センター 503講座室(5階)
【食事御布施会の紹介】
今 回より勉強会の時、食事のお布施をさせていただくことになりました。 テーラワーダの国では、2550年前から今迄変わらず、在家がサンガの皆様の食を支えてきました。 東海ダンマサークルでも、みんなで持ち寄ったお弁当の中から、ひと匙の食事を差し上げたいと思います。 遠くから、お釈迦様の教えを伝えに来て下 さるお坊様を、この一口のお布施が支えるのです。 とても意義のある行為です。 どうぞ皆さんも食事のお布施にご参加ください。 なぜかとても元気になれます。 しあわせな気分になります。 卵焼き一切れ、おむすび一つでかまいません。 皆さんでサンガの命をつなぎましょう。 お布施という善行為を体験してみてください。
法話会(クサラダンマ長老) 説明【内容】
①講師:クサラダンマ長老
法話のテーマが、『転法輪経』
法話は数回にわたるとも聞きました.
②内容:法話会+食事のお布施
③開催場所:刈谷市総合文化センター 503講座室(5階)
※同日開催の自主冥想会と同じ施
〒448-0858 愛知県刈谷市若松町2-104 電話0566-21-7430
http://www.kari
④時間:13:00~16:30 退場5時
④参加費:喜捨
⑤開催日:08/27
⑥初心者冥想指導はありません
※英語での法話となる為、通訳を介しての 法話会となります。
【お問い合わせ】 東海ダンマサークル
電話:090-7316-634
電話:090-2133-049
メール quiet-place.366
【講師】 クサラダンマ長老 Kusaladhamma Thero
【参加費】 喜捨
【場所】 刈谷市総合文化センター 503講座室(5階) ※同日開催の自主冥想会と同じ施
【交通アクセス】 電車:JR名古屋駅~刈谷駅(新
【詳細情報】 東海ダンマサークルの公式サイト
【お問い合わせ】 東海ダンマサークル 電話:090-7316-634
転法輪経
1 このように私は聞きました。ある時世尊はべナレスの昔仙人が降りてきたところであると伝えられた鹿野苑(ろくやおん)において住んでおられました。そこで世尊は五人の比丘に説かれました。
2 比丘たちよ、これら二つの極端は出家者のなすべきことではない。二つの極端とは欲における卑俗な、凡欲な、聖者の行うものではない、利益を伴わない娯楽に執着し耽けること、及び苦しい聖者の行うものでない利益を伴わない肉体を苦しめる苦行に努めることである。比丘たちよ、如来はこれら二つの極端に従わず中道をよく覚えられた。(中道は智慧の)眼を生じさせ智慧を生じさせるもので、寂滅、勝智、正覚、涅槃に導くものである。
3 如来によって、よく覚えられたかの中道「(智慧の)眼を生じさせ、智慧を生じさせ、寂滅、勝智、正覚、涅槃に導くものである」とは何であるか。それは八つの聖なる道である。即ち正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。比丘たちよ、これが如来によって覚られた中道であって、眼を 生じさせ、智慧を正じさせ寂滅、勝智、正覚、涅槃び導くものである。
4 比丘たちよ 、これが苦の聖なる真理である 。生も苦である。老も苦である。病も苦である。死も苦である。心配、悲泣、苦しみ、憂い、苦悩も苦である。嫌いなものと結ばれるのも苦である。愛するものと結ばれないのも苦である。求めて得られないのも苦である。要するに五つの固執される集まり(五固執蘊)は苦である。
5 比丘たちよ、これが苦因の聖なる真理である。これは再生を起こし、歓楽愛着を伴い、ここかしこで歓楽する渇愛である。この渇愛とは何であるか。五欲の渇愛(常見を伴う)存在への渇愛、(断見を伴う)虚無への渇愛である。
6 比丘たちよ、これが苦滅の聖なる真理である。これはかの渇愛の完全な離貧、滅、捨棄、捨離、解放、無執着である。
7 比丘たちよ、これが苦滅に至る道の聖なる真理である。これは八つの聖なる道である。即ち、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正精進、正念、正定である。
8 比丘たちよ、「これが苦の聖なる真理である」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じたのである。
9 比丘たちよ、「その苦 の 聖なる真理遍知されねばならない」と以前は聞いたことのない諸法 に おいて私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
10 比丘たちよ、「その苦の聖なる真理は編知された」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
11 比丘たちよ、「これが苦因の聖なる真理である」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
12 比丘たちよ、「その苦因の聖なる真理は捨断せられるべきである」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
13 比丘 たちよ、「その苦因の聖なる真理は捨断された」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
14 比丘たちよ、「これが苦滅の聖なる真理である」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
15 比丘たちよ、「その苦滅の聖なる真理は覚られるべきである」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
16 比丘たちよ、「その苦滅 の聖なる真理は覚られた」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
17 比丘たちよ、「これが苦滅に至る道の聖なる真理である」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
18 比丘たちよ、「その苦滅に到る道の聖なる真理は修習されねばならない」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
19 比丘たちよ、「その苦滅に到る道の聖なる真理は修習された」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
20 比丘たちよ、これら四つの聖なる真理において、このように三転十二行相のあるがままの智見が、私に清浄とならなかった間は、比丘たちよ、天、魔、梵天と倶なる(天の)世界、沙門、婆羅門、王、人々の人間界において、私は無上の正覚者をよく覚ったとは自称しなかった。
21 比丘たちよ、これら四つの聖なる真理において、このように三転十二行相のあるがままの智見が、私に清浄となったのであるから、比丘たちよ、天、魔、梵天と倶なる(天の)世界、沙門、婆羅門、王、人々の人間界において、私は無上の正覚者をよく覚ったとは自称したのである。私の(阿羅漢果の)解脱は壊れることはない。これが最後の生であり、今や再び生を享けることのない智見が私に生じた。世尊はこれを説かれました。満足した五比丘は世尊の教説を心から喜んで受けました。
22 この説教が説かれているうちに、尊者コンダンニャに「生ずるものはすべて滅するものである」と遠塵(埃のない)離垢(汚れのない)の法眼が生じたのでした。
続く...........
協会の行事ではありません。
誓教寺のfbより紹介です。

Sabbe sattā bhavantu sukhitattā.
生きとし生けるものが幸せでありますように
常栄山 誓教寺 Seikyoji in spring. Cherry trees are in full brossom
〒744-0042
山口県下松市切山 347
TEL.0833-46-1413
FAX.0833-46-3149
協会のfbより紹介です。
#jtba【紹介】「回向の文」えこうのもん~供養とは心を向けること~
皆様、お盆休みゆっくりお過ごしください。
供養には基本的な法則があります。まず、それを覚えておいてください。供養とは、亡くなった人に自分の徳を供与することです。お布施したり、冥想したり、人助けをしたり、ボランティア活動したりなど、自分が何か善行為をして、それによって得られた善いエネルギーを回向するのです。徳というのは、幸福になるためのエネルギーです。供養とは、亡くなった方に幸せになるためのエネルギーを与えるということなのです。
自動的には届きません。相手にあげる必要があります。そこはお金と同じようなものです。いくら自分にお金があっても、「これを誰々にあげます。どうぞ使ってください」と言わないと、あげたことにはならないでしょう。そのように、自分が善いことをして、「この功徳を誰々にあげます」という気持ちを作るのです。あるいはちゃんと言葉で言う。その方が、もっとしっかりします。
回向というのは、死んだ人ではなくても、生きている人にすることもできます。自分が善いことをして、「喜んでください」と回向の言葉を唱える。それで相手が回向を受け取ったなら、回向が成立します。
●回向(えこう)の文
『仏法僧の三宝に礼拝(らいはい)・帰依し、戒を守り、慈悲の冥想とヴィパッサナーによって積まれたこの功徳を、神々、先祖、祖父母、両親、親族、恩師をはじめとし、一切の生きとし生けるものに回向いたします。この功徳によってすべての生きとし生けるものが幸福に暮らせますように。そして解脱が得られますように』
▼参考ページURL
【104】 供養は福を呼ぶ
http://www.j-theravada.net/qa/gimon104.html
ANUMODANA:回向
http://www.j-theravada.net/pali/key-anumodana.html
「供養ってなに?」(誓教寺 藤本晃 氏)
https://goo.gl/A168QW
●photo:Graves near Kazagashira Park by Jennifer Morrow<flickr>
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会のfbより紹介です。

日本テーラワーダ仏教協会
#jtba【音声】『箭経』Salla sutta
アニミッタン アナンニャータン マッチャーナミダ ジーヴィタン
Animittaṃ anaññātaṃ,maccānaṃ idha jīvitaṃ;
カシラン チャ パリッタン チャ タン チャ ドゥッケーナ サンニュタン
Kasirañ ca parittañ ca,tañ ca dukkhena saññutaṃ.
ナ ヒ ソー ウパッカモー アッティ イェーナ ジャーター ナ ミッヤレー
Na hi so upakkamo atthi,yena jātā na miyyare;
ジャラン ピ パトゥワー マラナン エーワン ダンマー ヒ パーニノー
Jarampi patvā maraṇaṃ,evaṃdhammā hi pāṇino.
パラーナミワ パッカーナン パートー パタナトー バヤン
Phalānamiva pakkānaṃ,pāto patanato bhayaṃ;
エーワン ジャーターナ マッチャーナン ニッチャン マラナトー バヤン
Evaṃ jātāna maccānaṃ,niccaṃ maraṇato bhayaṃ.
ヤター ピ クンバカーラッサ カター マッティカ バージャナー
Yathāpi kumbhakārassa,katā mattikabhājanā;
サッベー ベーダナパリヤンター エーワン マッチャーナ ジーヴィタン
Sabbe bhedanapariyantā,evaṃ maccāna jīvitaṃ.
ダハラー チャ マハンター チャ イェー バーラー イェー チャ パンディター
Daharā ca mahantā ca,ye bālā ye ca paṇḍitā;
サッベー マッチュ ワサン ヤンティ サッベー マッチュ パラーヤナー
Sabbe maccuvasaṃ yanti,sabbe maccuparāyaṇā.
テーサン マッチュパレーターナン ガッチャタン パラローカトー
Tesaṃ maccuparetānaṃ,gacchataṃ paralokato;
ナ ピター ターヤテー プッタン ニャーティー ワー パナ ニャータケー
Na pitā tāyate puttaṃ,ñātī vā pana ñātake.
ペッカタン イェーワ ニャーティーナン パッサ ラーラパタン プトゥ
Pekkhataṃ yeva ñātīnaṃ,passa lālapataṃ puthu;
エーカメーコー ワ マッチャーナン ゴー ワッジョー ヴィヤ ニッヤティ
Ekamekova maccānaṃ,govajjho viya niyyati.
エーワン アッバーハトー ローコー マッチュナー チャ ジャラーヤ チャ
Evaṃ abbhāhato loko,maccunā ca jarāya ca;
タスマー ディーラー ナ ソーチャンティ ヴィディトゥワー ローカパリヤーヤン
Tasmā dhīrā na socanti,viditvā lokapariyāyaṃ.
ヤッサ マッガン ナ ジャーナースィ アーガタッサ ガタッサ ワー
Yassa maggaṃ na jānāsi,āgatassa gatassa vā;
ウボー アンテー アサンパッスィン ニラッタン パリデーワスィ
Ubho ante asampassaṃ,niratthaṃ paridevasi.
パリデーワヤマーノー チェー カンチダッタン ウダッバヘー
Paridevayamāno ce,kiñcidatthaṃ udabbahe;
サンムールホー ヒンサマッターナン カイラー チェー ナン ヴィチャッカノー
Sammūḷho hiṃsamattānaṃ,kayirā ce naṃ vicakkhaṇo.
ナ ヒ ルンネーナ ソーケーナ サンティン パッポーティ チェータソー
Na hi ruṇṇena sokena,santiṃ pappoti cetaso;
ビィヤッスッパッジャテー ドゥッカン サリーラン チュパハンニャティ
Bhiyyassuppajjate dukkhaṃ,sarīraṃ cupahaññati.
キソー ヴィワンノー バワティ ヒンサマッターナマッタナー
Kiso vivaṇṇo bhavati,hiṃsamattānamattanā;
ナ テーナ ペーター パーレンティ ニラッター パリデーワナー
Na tena petā pālenti,niratthā paridevanā.
ソーカマッパジャハン ジャントゥ ビッヨー ドゥッカン ニガッチャティ
Sokamappajahaṃ jantu,bhiyyo dukkhaṃ nigacchati;
アヌットゥナントー カーラカタン ソーカッサ ワサマンワグー
Anutthunanto kālaṅkataṃ,sokassa vasamanvagū.
アンニェー ピ パッサ ガミネー ヤター カンムーパゲー ナレー
Aññepi passa gamine,yathā kammupage nare;
マッチュノー ワサマーガンマ パンダンテー ヴィダ パーニネー
Maccuno vasamāgamma,phandante vidha pāṇine.
イェーナ イェーナ ヒ マンニャンティ タトー タン ホーティ アンニャター
Yena yena hi maññanti,tato taṃ hoti aññathā;
エーターディソー ヴィナーバーヴォー パッサ ローカッサ パリヤーヤン
Etādiso vinābhāvo,passa lokassa pariyāyaṃ.
アピ チェー ワッササタン ジーヴェー ビッヨー ワー パナ マーナヴォー
Api vassasataṃ jīve,bhiyyo vā pana māṇavo;
ニャーティサンガー ヴィナー ホーティ ジャハーティ イダ ジーヴィタン
Ñātisaṅghā vinā hoti,jahāti idha jīvitaṃ.
タスマー アラハトー ストゥワー ヴィネッヤ パリデーヴィタン
Tasmā arahato sutvā,vineyya paridevitaṃ;
ペータン カーラカタン ディスワー ナ ソー ラッバー マヤー イティ
Petaṃ kālaṅkataṃ disvā,neso labbhā mayā iti.
ヤター サラナマーディッタン ワーリナー パリニッバイェー
Yathā saraṇamādittaṃ,vārinā parinibbaye;
エーワン ピ ディーロー サッパンニョー パンディトー クサロー ナロー
Evampi dhīro sapañño,paṇḍito kusalo naro;
キッパムッパティタン ソーカン ワートー トゥーラン ワ ダンサイェー
Khippamuppatitaṃ sokaṃ,vāto tūlaṃva dhaṃsaye.
パリデーワン パジャッパン チャ ドーマナッサン チャ アッタノー
Paridevaṃ pajappañ ca,domanassañ ca attano;
アッタノー スカメーサーノー アッバヘー サッラマッタノー
Attano sukhamesāno,abbahe sallamattano.
アッブールハ サッロー アスィトー サンティン パップッヤ チェータソー
Abbūḷhasallo asito,santiṃ pappuyya cetaso;
サッバソーカン アティッカントー アソーコー ホーティ ニッブトー ティ
Sabbasokaṃ atikkanto,asoko hoti nibbutoti.
1 徴(しるし)もなし。予告もなし。この世の人の命というものは、惨めなもの。儚いもの。その上、苦しみに陥っている。
2 生まれた者が死なずにすむ、その手立ては何もなし。「老いて老いて、死に至る」生きるものにはこのきまり。
3 たわわに実った果実なら、夜明けとともに落ちるやも。生まれた人も同じこと。死の恐れ、常にあり。
4 陶工の作る土の器が、最後は必ず壊れる。人の命もそんなもの。
5 子供であれ大人であれ、愚者であれ賢者であれ、みんな死の力に征服されている。死はみなの行き着くところ。
6 死があの世にさらって行くのに、父でも息子を救えない。親族も親族を救えない。
7 泣きわめく親族の目の前で、さらわれていくのを見よ。人は孤独で死に至る。屠場に牽かれる牛のように。
8 老いと死が常にこの世を攻撃する。世のこの理を知る賢者には悲しみなし。
9 どこから来た者か、またどこへ逝ったか、それをあなたは知らない。両辺も見えないその人のために、あなたは無意味に嘆く。
10 泣き叫ぶことで得する何かがあるならば、それは頭の混乱、そして自己いじめ。智慧のある人ならこのように知る。
11 こころの安らぎは、泣き崩れること、嘆き悲しむことでは得られない。苦しみだけは増すばかり。身体はますます損なわれる。
12 身はやつれ、顔色が悪くなる。自分で自分を傷つける。死者の供養にもならない悲しむことは、無駄なだけ。
13 悲しみを断ち切らない者が、なおさら苦悩に陥る。亡き人を嘆く人は、悲しみに呑み込まれる。
14 摂理によって死んでいく他の人々も見るがよい。死期が近づくと、生命は震えるもの。
15 どのように思い願っても、起こることはその逆です(死なないようにと思っても、必ず死は訪れる)。無常とはそういうこと。世間の有様を観てごらん。
16 もし百年、あるいはもっと長く人が生きるとしても、親族と死別する。ついに自分も命を捨てる。
17 それゆえ、覚者に学び、悲嘆を克服しよう。逝った死者を見て、「この人はもはや得られない」と〔知ろう〕。
18 家についた火を水で消し去るように、智慧に満ちた賢者、巧みな人は、湧き起った悲しみを、風が綿花を吹き払うように、即座に消す。
19 自分の憂い・未練・悲しみを引き抜くこと。自分の幸福を求める者は、刺さった〔悲しみの〕箭(矢)を引き抜くのである。
20 箭を引き抜き、涼やかになり、こころの安らぎを得る。一切の悲しみを乗り越えて、悩みなき寂静に達する。
(Sutta-nipāta 小部 経集III-8)
▼経典テキストURL
http://gotami.j-theravada.net/sallasutta.pdf
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
佐藤哲郎さんのfb より 紹介です。
仏弟子たちのダメダメ事件簿――知られざる律蔵の世界
パーリ三蔵読破への道 連載第二回
佐藤哲朗
●日の当たらない「律蔵」
パーリ三蔵中の律蔵(ヴィナヤ・ピタカ)は、ちょっと「不遇」な仏典です。専門的な研究書は数々ありますが、原典の全訳は旧漢字・旧仮名遣いの『南伝大蔵経』(一巻~五巻)のみ。律蔵は出家の領分だから、在家者が読んでも面白くないと思われているようです。でも、それって偏見ですよ。むしろ、読み物としてこれほど魅力的な仏典はないといっても過言ではありません。
文献としての律蔵は経分別(スッタヴィバンガ)と犍度部(カンダカ)、附随(パリワーラ)に別れており、我々がイメージする「~なかれ」という罰則を伴った戒律は経分別(南伝大蔵経の一巻と二巻)に収録。じつは、釈尊が伝道活動をはじめた当初、明文化された戒律はなかったのです。戒律は、比丘サンガで煩悩にまつわる諸問題が起きてから順次、定められました(随犯随制)。仏伝では釈尊成道から十二年後からとしています。釈尊在世中、戒律は次々に定められ、出家比丘サンガでは二二七項目にまで増えました。
律蔵には、戒律制定のきっかけとなった事件の記録や具体的な判例集が付記されています。俗世間を離れて出家しながら欲望にかられてトラブルを起こしたダメ僧侶たちの赤裸々な記録は、そこらの小説やノンフィクションよりずっと面白い。サーリプッタ尊者やマハーカッサパ尊者といった「偉大なる人々」の影で、教団でトラブルを起こして戒律の制定にのみ名を残した「その他大勢」の比丘たちに思いを馳せるのも一興かと思います。
●教団追放の罪
二二七項目の出家の戒律には様々なランクがあります。その中でも最も重い戒律はパーラージカ(波羅夷)、一般の社会では死刑にあたる罪です。これを犯した比丘はサンガから追放され、二度と出家することはできません。ちなみにサンガの戒律は、条文が制定される前に犯したもの、精神錯乱で犯したものは無罪、とされます。これは現在の法制度とも通じる規定ですね。さて、パーラージカは四つあります。
一、婬戒。比丘は誰であれ、戒律を捨てる手続きをしないで、異性であれ同性であれ、相手が動物であっても、性交を行ったならば、教団追放。
二、盗戒。比丘は誰であれ、俗世間で法的に罰せられる程度のものを、自分に与えられていないのに、盗もうという心を起こして(故意に)盗んだならば、教団追放。(仏教では与えられていないものを取ることは一切禁止だが、この場合は教団追放罪になる重い窃盗のこと。)
三、絶人命戒。比丘は誰であれ、故意に人の命を断ち、またはそのために殺す道具を持つものを求めれば、または死を賛嘆したり自殺を勧めたりしたら、教団追放。
四、大妄語戒。比丘は誰であれ、自ら覚りを得たり超越的な禅定体験を得たりしていないのに、それを得たかのごとく嘘を付いたならば、教団追放。増上慢(覚ったという勘違い)は除く。(冗談でも嘘を禁じるのは普通の戒律だが、超人法に関する嘘は教団追放罪。)
●婬戒の因縁
ヴェーサーリー近郊カランダ村の富豪の息子スディンナが、跡継ぎを残さないままで出家しました。その後、故郷に托鉢に訪れたスディンナは、家の両親と妻から跡継ぎの子供を作ることを強く要請され、出家のままで元の妻と性交して妊娠させたのです。スディンナは「義務を果たした」ことでようやく家から解放されたのですが、自分の行為は出家に相応しくなかったと後悔して激しく悩みました。スディンナから告白を受けた釈尊は彼を厳しく叱責し、婬戒を制定されたそうです。
いささか同情を禁じ得ないスディンナ比丘のエピソードの直後には、餌付けした猿と獣姦した某比丘の話が出てきます……。さらに古代インドには、出家とのセックスを「布施」とする奇妙な習慣があったようで、そのような性的布施を志願した女性に押しまくられて射精に至った比丘の話も載っています。また、チンピラの集団に捕まった比丘と比丘尼が衆人環視のなか性行為を強いられた事件、比丘尼がレイプされた事件など、出家が犯罪行為に巻き込まれた際の判例も記録されており、釈尊教団が置かれていた厳しい環境も垣間見えます。
ちなみにパーラージカの次に重い戒律であるサンガーディセーサ(僧残)は、十三項目中、五つの項目が性(セックス)の問題にまつわる規定になっています。そちらで大活躍?しているのは釈尊教団を代表する問題児、ウダーイー(ラールダーイー)比丘です。
●盗戒の因縁
盗戒が制定されたのは、マガダ国の王舎城にいた陶工出身のダニヤ比丘が起こした事件がきっかけ。自分の庵を作るための資材を探していたダニヤ比丘は、災害時に城塞を修理する目的で備蓄されていた材木に目をつけ、管理人に「王から許可を受けたから」と言って、譲り受けたのです。マガダ国のビンビサーラ王は釈尊教団を保護することを布告していたので、国の財産である材木もサンガで自由に使っても構わないと、勝手な解釈をしたのですね。この行為によって、材木の管理人は逮捕され、ダニヤ比丘もビンビサーラ王から尋問されました。当然、釈尊教団全体もマガダ国の国民から強い非難を浴びました。そこで、釈尊は盗戒を制定したのです。律蔵には、盗戒の解釈について詳細な「判例」が記録されています。
●絶人命戒の因縁
絶人命戒のきっかけはかなり変わっています。釈尊がヴェーサーリー大林の重閣講堂に居られた時、様々な方便をもって不浄に関する説法をなし、不浄観の瞑想を賛嘆しました。それから釈尊は、自らが半月間、禅定に入って過ごすことを比丘たちに告げ、一日に一度食事を持ち来る者以外は、禅定に入っている場所に立ち入らないように申し付けました。
釈尊が不浄観の瞑想を賛嘆したのを聞いた比丘たちは、指導者である釈尊のいない間に、不浄観の瞑想に専念しました。彼らは自分の身体を厭い、恥じ、嫌悪して、ついには自ら命を絶ち、また相互に命を絶ち(殺し合い)、ついには袈裟をまとってサンガの残飯を漁っていた似非沙門(ミガランディカ・サマナクッタカ、「鹿の糞・似非修行者」という意味)のところに行って、「どうか自分を殺してくれ、殺してくれれば、私の衣や鉢は君のものになるから」と頼みました。そこで似非沙門は、衣と鉢のために自殺志望の比丘たちを次々と殺してまわったのです。
似非沙門はいったん自分の行為を後悔しますが、悪魔に唆されてさらに多くの比丘を殺しました。自殺・他殺の入り乱れた血生臭い混乱によって、釈尊が半月の禅定から戻られたときには、多くの比丘は死に絶え、ヴェーサーリー大林の重閣講堂は閑散となっていました。事情を尋ねた釈尊に、アーナンダ尊者は、比丘たちが不浄観の瞑想によって、次々命を断ち、あるいは他に頼んで殺して貰ったりして、こんなに比丘の数が減ってしまったと説明しました。「願わくば世尊、比丘たちに不浄観以外の修行法を授けて下さい」というアーナンダ尊者の懇願を受けて、釈尊は残った比丘たちを集め、呼吸観察の瞑想を指導したのです。そして、「比丘は誰であれ、故意に人の命を断ち、またはそのために殺す道具を持つものを求めれば(他人に殺させれば)、教団追放」という戒律を定めたと言います。
さらに、こんな事件も起こりました。ある不良比丘のグループ(六群比丘)が病人の在家信者を見舞った際、彼らはその妻の美貌に心奪われました。「この病人が生きている限り、我々がこの女をものにすることはできない。我々はこの在家信者に向かって死の甘美さを賛嘆しよう」と考えて、在家信者に向けて「あなたは様々な善行為を行ってきた。この厭わしい生があなたにとって何の意味があるでしょう。死こそあなたにとって生よりも勝るものです。はやく死んで、天界に生まれ変わりなさい。そこで天上の五欲を享受して楽しみなさい」と唆したのです。その話を真に受けた在家信者は、死の魅力にとりつかれて、ろくに食べ物をとらなくなり、病気もどんどん重くなり、ついに亡くなってしまったのです。
死亡した信者の妻は激怒し、不良比丘たちを非難したため、釈尊教団で大きな問題となりました。そこで釈尊は、「比丘は誰であれ、故意に人の命を断ち、またはそのために殺す道具を持つものを求めれば、または死を賛嘆したり自殺を勧めたりしたら、教団追放」という形に戒律をバージョンアップされたのです。
この絶人命戒の前半の因縁については、首を傾げてしまうところがあります。瞑想指導者である釈尊が、不浄観についてレクチャーを行った後で弟子たちを放置して禅定に入ったのもおかしいし、集団自殺という結果を予期できなかったのもおかしい。サンガの留守を預かるアーナンダ尊者らがそれに手をこまねいていたのもおかしいし、いくら止められているといっても事件を釈尊に伝える者が誰もいない(食事は持っていっているのに)ということはおかし過ぎる。戒律の制定には具体的な因縁話が必要なことから、無理やりストーリーをつなげたのかもしれません。しかし、不浄観を修行した比丘の集団自殺という事件は、ディテールは違いますが、相応部経典にも記録がある(S54-8)ので、実際に起きた悲劇かもしれません。
●大妄語戒の因縁
大妄語戒は、ワッジー国のワッグムダー河の畔で雨安居に入っていた比丘たちが起こした事件がもとで制定されたそうです。その時ヴァッジー国は大飢饉に見まわれ、比丘たちは托鉢により生活するのが困難でした。そこで比丘たちは、お互いに「あの比丘は禅定の体得者である」「あの比丘は阿羅漢果に達している」などと宣伝しあえば、在家の者たちからたくさんの布施を集められるだろうと考えて、実行したのです。すると案の定、在家者たちは「このような比丘方が安居に入っているとは素晴らしいことだ。一生懸命お布施をしなければ」と、自分たちが食べるものも食べずに、食べ物をその比丘たちに布施したのです。おかげで比丘たちは、飢饉の土地に暮らしていたのに丸々と太り、肌もツヤツヤになりました。
雨安居が終了すると、修行の結果を報告するために釈尊のところを訪ねるのが、比丘サンガの決まりでした。ワッグムダー河の畔で安居に入った比丘たちも、釈尊のいるヴェーサーリー大林の重閣講堂に集まりました。飢饉でやせ細っていた他の比丘たちに比べて、ワッグムダー河畔にいた比丘たちだけは太って肌もツヤツヤでした。釈尊が彼らに安居中の過ごし方を問いただすと、比丘たちは事の経緯を話しました。釈尊はさらに質問しました。「では、君たちがふれ回ったそれ(禅定や覚り)は、実際にあるのか、ないのか?」比丘たちは正直に「ありません、世尊」と答えました。釈尊は激しい言葉で比丘たちを叱責しました。
「愚か者、お前たちは出家が絶対にしてはならないことをしたのだ。愚か者、お前たちはなぜ食い物のために、在家者に互いの超人法(世俗を超越した境地)を賛嘆し説いたのだ。愚か者、お前たちはむしろ鋭利な牛刀で腹を割かれたとしても、食い物のために在家者に互いの超人法を賛嘆し説いてはならない。牛刀で腹を割かれて死ぬか死に等しい苦を受けたところで、地獄に生まれることはない。しかし、お前たちがしたその行為によっては、死後、地獄に堕ちるのだ」と。さらに釈尊は世間にいる五種類の大悪人を列挙して、その最後に、「比丘たちよ、天界・魔界・梵天界を含む世界において、沙門・バラモン・神々と人間のなかで、最大の悪党は、自分にありもしない超人法をあるかのごとく説く者である。彼らは、盗み心をもって社会の布施を食している大悪人である」と断じ、「比丘は誰であれ、自ら覚りを得たり、超越的な禅定体験を得たりしていないのに、それを得たかのごとく嘘を付いたならば、教団追放」と戒律を定めたのです。
しかし、釈尊がこの律を定めたことで、教団には深刻な悩みに陥る者が続出しました。「私はかつて、禅定に達してもいないのに達したと思い、覚りに達してもいないのに達したと思い、増上慢(覚ったという勘違い)によって他にこれを説いたことがある。ああ、なんと恥ずかしいことだろう」と。後悔に打ちひしがれた比丘たちは、アーナンダ尊者に相談しました。尊者が釈尊に比丘たちの困惑を伝えたところ、釈尊によって「増上慢は除く」という例外が加えられたのです。
かなり端折りましたが、以上がパーリ律蔵経分別のパーラージカ(波羅夷)因縁です。正確には比丘(男性出家者)の波羅夷で、比丘尼(女性出家者)に対しては別途さらに四つの波羅夷が定められています。これもまた「人情」の機微に触れる上で興味深いですが、誌面の制約もあるので省きます。次号では律蔵の犍度部(カンダカ)を紹介します。こちらは釈尊教団の成立史に関わる重要な文献です。
(初出:サンガジャパン Vol.2(2010Summer),サンガ,2010/6/28)協会のfbより紹介です。
#jtba【案内】東京 9/24(日) 初期仏教月例講演会 『計画する人生』予約受付中✨
初期仏教公開講座
『計画する人生』~流されるように生きていませんか?~
講師:アルボムッレ・スマナサーラ長老
▼予約申し込みページ
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あなたは自分の人生の計画書を持っていますか? まわりに流されるように、なんとなく生きていませんか? 自分の判断を保留し、時間切れで現状維持の判子を押して失敗していませんか? 感情的に条件反射で対応し、信頼を失っていませんか? お釈迦様の人生は、困難の連続でした。誰も成功したことのない目標を設定し、プランを立て、条件を整え、決断し、行動し、そして見事にゴールに達したのでした。お釈迦様に、人生を主体的に生き、見事に成功するコツを教わりましょう。
*****
日時:2017年9月24日(日)14:00~16:30(終了予定)
(受付開始13:40~)
場所 日暮里サニーホール
定員 400名(先着順)
参加費 ご喜捨(お気持ち)
☆★☆会場のお間違えの無いよう、ご確認お願いいたします。☆★☆
*事前にお申し込みの上ご参加下さい。
(申込締切9月22日12:00pm)
*受付返信がない方は、予約が取れておりません。再度お申し込み手続きをお取り下さい。
*会場の日暮里サニーホールへのお問い合わせはご遠慮ください。
~生きとし生けるものが幸せでありますように
協会のfbより紹介です。
①講師:クサラダンマ長老
②内容:法話会+食事のお布施
③開催場所:日本ガイシフォーラム 第一和室
④時間:13:00~16:30 退場5時
④参加費:喜捨
⑤開催日:
⑥初心者冥想指導はありません
※英語での法話となる為、通訳を介しての 法話会となります。
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アシン・クサラダンマ 長老 (Ashin Kusaladhamma) 略歴
出生 : インドネシア中部ジャワ州テマングン, 1966年生
国籍 : 中国系のインドネシア
比丘出家: 2001
著書:「ブッダ年代記」
The Illustrated Chronicle of the Buddha (English),
インドネシア語、ミャンマー語の翻訳書あり
Kronologi Hidup Buddha (Bahasa Indonesia),
Poun Pya Buddhawin (Myanmar)
講義録:アビダンマ「法集論」・三法及び二法の要点講義
Lecture Summary of Abhidhamma Dhammasaṅgani
– Tika Mātikā & Duka Mātikā
編集:「アビダンマッタサンガハ」教科書用解説書
Editing the commentary book of Abhidhammatthasaṅgaha
2001 ~2004 ミャンマー国際仏教大学 首席(金メダル獲得)卒業
2011 インドネシア帰国
インドネシア ケルタラジャサ仏教大学(東ジャワ、バトゥ)でアビダンマ講義
同大学の教科書として「アビダンマッタサンガハ」の編集
2012 -インドネシア・サティパッターナ冥想センター
同センター、他の僧院で、在家信者、修行者に対して
アビダンマ講義、法話、冥想指導.
----------------------------------------協会の記事ではありません。
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