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5月 10日 (木曜日)
【愛知】愛知 栄中日文化センター公開講座 「もう迷わなくなる最良の選択」(講師:スマナサーラ長老)
【愛知】愛知 栄中日文化センター公開講座 「もう迷わなくなる最良の選択」(講師:スマナサーラ長老)
日時5月 10日 (木), 15:30 ~ 17:00
場所〒460-0008 愛知県名古屋市中区栄4-1-1中日ビル4階 (地図)
説明
【タイトル】「もう迷わなくなる最良の選択」~人生を後悔しない決断思考の磨き方~
【内容】 人生の岐路に立つたびに、私たちは優柔不断になってしまいます。「あの時、ああしていれば……」捨てたはずの選択を悔やんで悩み続けたりもします。そもそも、人はなぜ選択に迷って悩むのでしょうか? 自分で決断したことに後悔するのでしょうか? それには人間誰もが抱え込んでいる「心の弱点」が関わっています。この講義では、心のエキスパートであるブッダ本来の教え(初期仏教)を参考にして、人生の節目
【講師】 スマナサーラ長老
【会場】 栄中日文化センター 中日ビル4階
【受講料】 一般 3,132円/会員 2,916円
※講座 紹介ページ
【交通】 地下鉄東山線または、名城線「栄
【お問
HP:http://
※受付時間:月曜~土
日時 | 2018/05/10 (木) 15:30 ~ 17:00 東京 |
場所 | 〒460-0008 愛知県名古屋市中区栄4-1-1中日ビル4階 (地図) |
協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
<大仏とやっさんとやさしい教え>
先週土曜日、クサラダンマ長老がインドネシアにご帰国されました。事前に「見送りは不要」とお聞きしていたのですが、早起きをして関空へお見送りに行きました。たったひとりで来日されたので、同じようにひとり静かに日本を発ちたいという思いがクサラダンマ長老にはお有りになられたのかもしれませんが、親交が深かった人たちと一緒にお見送りさせて頂きました。
誰かと別れる際に、なんとなくフェードアウトするような離れ方もあります。でも僕は、大切な人とは直接サヨナラを交わしたいと思うのです。過去に、大切な人との別離を経験しました。彼は『今までありがとう』とわずかなメッセージを残しただけで、去っていきました。僕には伝えたいことがたくさんあったのですが、何も伝えることが出来ないままで、それが今でも残念に感じてならないのです。もっとも、彼が僕と同じ気持ちだったかはわからないことで、今はそれを知る術がありません。ただ、その時わずかにでも話すことが出来たのなら、きっと違う選択肢が作れていたはずだといつも考えてしまいます。
ともあれ、短い時間でしたが、日本を発たれるクサラダンマ長老にお目にかかれたことは、とても良かったと感じています。
昨日のお休みにスマナサーラ長老の本を読みました。
『ものごとを自分の思い通りに操れるなんてあり得ない、不可能なことだから苦しいのです。みんな不可能なことをやろうとして、精神的にすごい悩み苦しみに陥っているのです』
確かに。生きることの総体はドゥッカだということが、最近、少しだけどわかるような気がしてきています。
テーラワーダ仏教情報版のfbより紹介です。
スマナサーラ長老との質疑応答から『感謝と慈悲の関係』
質問
「ありがとう」と感謝することは慈悲喜捨の心のどれに相当するのでしょうか?
答え
慈悲喜捨とは他人に対する自分のアプローチです。自分から放つ波動です。他人から受けた恩恵に対するお返しではありません。お返し気分の慈悲は未熟なものです。自分と何の関係のない生命に対して実践出来ない、しないことにもなるし、自分に関係のある生命は数が決まっていてそれ程大きくありません。従って「無量」とは程遠いのです。
“ありがとう”とは自分が他人から受けた恩恵に対するお返しです。野蛮人でない限り誰でも行う行為です。動物であっても、餌をあげて面倒を見ると、自分たちのやり方で相手に感謝をするものです。これが、偉大なる釈尊の明らかにした大事な修行法だと言えるのでしょうか?仏道は全て釈尊の発見なのです。本能として誰でも行っていることは修行にはならないのだと思います。
しかし何故、一部の人間に“ありがとう”と感謝する習慣が難しいのでしょうか?何故それを嫌々ながら学ばなくてはいけなくなっているのでしょうか?それは、動物よりも人間に場合は自我意識、エゴ、わがままが強烈だからではないでしょうか?
何故人間が落第したのかと言うと人間は考えるからです。考えると妄想することになるのです。妄想という悪行為をしているからです。ですから基本的には“ありがとう”は慈悲喜捨のどちらにも入らないのです。しかし悪行為でもないのです。“ありがとう”と言う人が、その時、相手に対してどのような感情を持っているのかという基準で判断しなくてはいけないのです。
もし、相手に対する気持ちが慈悲喜捨のひとつに合うならば、それで判断出来ます。“”ありがとう”と言う時、相手が仲間、友人、親しい人だと感じたならば「慈」です。大変苦労しただろう、私の要求に応じる為に無理をしただろうという気分の“ありがとう”なら「悲」です。
相手が喜んで何かをしてくれたのです。自分も恩恵を受けて喜んでいる。二人の喜びを合体させる気持ちで“ありがとう”と言う場合は「喜」です。“ありがとう”は「捨」にもなるはずです。しかし、具体的な場面を考えられないので、現実的には起こらないでしょう。
聖者、出家が布施を受ける時、慈悲喜捨の気持ちのひとつを持たなくてはならないのです。しかし、釈尊も出家も“ありがとう”とは言わないのです。その代わりに❝幸福でありますように❞と祝福するので「悲」になります。
次に“ありがとう”が慈悲喜捨のどちらにも入らないケースを考えましょう。より仲良くしたい気持ちの“ありがとう”。感謝して恩恵をゼロにしたい気持ちの“ありがとう”。将来的にもお世話になりたい気持ちの“ありがとう”。礼儀正しく言わなければ大変だという気持ちの“ありがとう”などは貪瞋痴の行為です。慈悲喜捨とは何の縁もない不善心が起きているのです。ですから「ありがとう」は慈悲喜捨になったり不善心になったりする行為です。
残念 突然ですが 最後の法話会です。
03/04-- クサラダンマ長老 「仏教法話会」
日本ガイシフォーラム 注-第1和室午後+延長
<17時までに退場> 終了時間未定です。 遅くなるかも?
+食事御布施会
法話のテーマが、『転法輪経』
法話は数回にわたるとも聞きました.
★「茶話会(親睦会)」のお知らせ
午前10時から法友のみなさんの集いがあります。
※自由参加、昼食は各自ご用意ください。
10時から11時までに集合
11:15~12:00
(11:30までが準備時間です。
11:30頃よりお食事を始めていただきます。)
【場所】 日本ガイシフォーラム
【食事御布施会の紹介】
今 回より勉強会の時、食事のお布施をさせていただくことになりました。 テーラワーダの国では、2550年前から今迄変わらず、在家がサンガの皆様の食を支えてきました。 東海ダンマサークルでも、みんなで持ち寄ったお弁当の中から、ひと匙の食事を差し上げたいと思います。 遠くから、お釈迦様の教えを伝えに来て下 さるお坊様を、この一口のお布施が支えるのです。 とても意義のある行為です。 どうぞ皆さんも食事のお布施にご参加ください。 なぜかとても元気になれます。 しあわせな気分になります。 卵焼き一切れ、おむすび一つでかまいません。 皆さんでサンガの命をつなぎましょう。 お布施という善行為を体験してみてください。
法話会(クサラダンマ長老) 説明【内容】
①講師:クサラダンマ長老
法話のテーマが、『転法輪経』
法話は数回にわたるとも聞きました.
②内容:法話会+食事のお布施
③開催場所:日本ガイシフォーラム
④時間:13:00~17:00 退場17時
④参加費:喜捨
⑥初心者冥想指導はありません
※英語での法話となる為、通訳を介しての 法話会となります。
【お問い合わせ】 東海ダンマサークル
電話: 090-8079-6361 船橋壯吉
メール sajipura@lake.ocn.ne.jp <佐治正幸>
転法輪経
1 このように私は聞きました。ある時世尊はべナレスの昔仙人が降りてきたところであると伝えられた鹿野苑(ろくやおん)において住んでおられました。そこで世尊は五人の比丘に説かれました。
2 比丘たちよ、これら二つの極端は出家者のなすべきことではない。二つの極端とは欲における卑俗な、凡欲な、聖者の行うものではない、利益を伴わない娯楽に執着し耽けること、及び苦しい聖者の行うものでない利益を伴わない肉体を苦しめる苦行に努めることである。比丘たちよ、如来はこれら二つの極端に従わず中道をよく覚えられた。(中道は智慧の)眼を生じさせ智慧を生じさせるもので、寂滅、勝智、正覚、涅槃に導くものである。
3 如来によって、よく覚えられたかの中道「(智慧の)眼を生じさせ、智慧を生じさせ、寂滅、勝智、正覚、涅槃に導くものである」とは何であるか。それは八つの聖なる道である。即ち正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。比丘たちよ、これが如来によって覚られた中道であって、眼を 生じさせ、智慧を正じさせ寂滅、勝智、正覚、涅槃び導くものである。
4 比丘たちよ 、これが苦の聖なる真理である 。生も苦である。老も苦である。病も苦である。死も苦である。心配、悲泣、苦しみ、憂い、苦悩も苦である。嫌いなものと結ばれるのも苦である。愛するものと結ばれないのも苦である。求めて得られないのも苦である。要するに五つの固執される集まり(五固執蘊)は苦である。
5 比丘たちよ、これが苦因の聖なる真理である。これは再生を起こし、歓楽愛着を伴い、ここかしこで歓楽する渇愛である。この渇愛とは何であるか。五欲の渇愛(常見を伴う)存在への渇愛、(断見を伴う)虚無への渇愛である。
6 比丘たちよ、これが苦滅の聖なる真理である。これはかの渇愛の完全な離貧、滅、捨棄、捨離、解放、無執着である。
7 比丘たちよ、これが苦滅に至る道の聖なる真理である。これは八つの聖なる道である。即ち、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正精進、正念、正定である。
8 比丘たちよ、「これが苦の聖なる真理である」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じたのである。
9 比丘たちよ、「その苦 の 聖なる真理遍知されねばならない」と以前は聞いたことのない諸法 に おいて私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
10 比丘たちよ、「その苦の聖なる真理は編知された」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
11 比丘たちよ、「これが苦因の聖なる真理である」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
12 比丘たちよ、「その苦因の聖なる真理は捨断せられるべきである」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
13 比丘 たちよ、「その苦因の聖なる真理は捨断された」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
14 比丘たちよ、「これが苦滅の聖なる真理である」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
15 比丘たちよ、「その苦滅の聖なる真理は覚られるべきである」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
16 比丘たちよ、「その苦滅 の聖なる真理は覚られた」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
17 比丘たちよ、「これが苦滅に至る道の聖なる真理である」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
18 比丘たちよ、「その苦滅に到る道の聖なる真理は修習されねばならない」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
19 比丘たちよ、「その苦滅に到る道の聖なる真理は修習された」と以前には聞いたことのない諸法において私に(智慧の)眼が生じ、智が生じ、慧が生じ、明が生じ、光明が生じたのである。
20 比丘たちよ、これら四つの聖なる真理において、このように三転十二行相のあるがままの智見が、私に清浄とならなかった間は、比丘たちよ、天、魔、梵天と倶なる(天の)世界、沙門、婆羅門、王、人々の人間界において、私は無上の正覚者をよく覚ったとは自称しなかった。
21 比丘たちよ、これら四つの聖なる真理において、このように三転十二行相のあるがままの智見が、私に清浄となったのであるから、比丘たちよ、天、魔、梵天と倶なる(天の)世界、沙門、婆羅門、王、人々の人間界において、私は無上の正覚者をよく覚ったとは自称したのである。私の(阿羅漢果の)解脱は壊れることはない。これが最後の生であり、今や再び生を享けることのない智見が私に生じた。世尊はこれを説かれました。満足した五比丘は世尊の教説を心から喜んで受けました。
22 この説教が説かれているうちに、尊者コンダンニャに「生ずるものはすべて滅するものである」と遠塵(埃のない)離垢(汚れのない)の法眼が生じたのでした。
続く...........