協会のfbより紹介です。
#jtba ネットショップ「心を育てる初期仏教法話」新着ビデオ
”「無我」について――自分がいるのに、ブッダはなぜ「無我」と言うのか?(MP4動画zip圧縮)”
初期仏教の教えから、「無我」とはどういうものか、それを学ぶことは我々にとってどのように役に立つのかと、学んでみましょう。
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「気づき」の迷宮 サティの実践とは何か?(MP4動画zip圧縮)
¥1,080 税込
V-219_2012_0114_sati.zip
591MB
【概要】初期仏教では「解脱・涅槃」への一本道として四念処の実践(気づきの実践、ヴィパッサナー瞑想)を指導します。それは「いま・ここ」の瞬間に何が起こっているかに気づくサティ(sati 念,気づき)の実践として説明されています。
このサティには複数の意味があります。大きくは、A.瞬間瞬間の気づき・注意・不放逸、B.特定の(冥想)対象・法に心をかける、C.単なる記憶作用、にわかれます。日本などの北伝仏教では、サティ(サンスクリット語ではsmṛti)はBやCの意味で取られることが多く、テーラワーダ仏教の「気づきの実践」が紹介されるまで、「気づき」としてのサティは忘れられていました。むしろ「念仏」という言葉にみられるような、仏教に関連したイメージや言葉を繰り返し想起し続ける(念じ続ける)ことがサティの実践と解釈されてきたのです。
一方、「気づきの冥想」を伝えてきた南伝のテーラワーダ仏教にも、いわゆる「念仏」に相当する仏随念などの実践が伝えられています。これらはどのように関連付けられるべきなのでしょうか?
サティが「気づき」と訳されたことは多くの人々にとって福音でしたが、一方で新たな弊害も起きています。いわゆるスピリチュアル系の教えや、自己啓発セミナーなどでも盛んに「気づき」という言葉が用いられていることです。英語でサティがawareness,mindfulnessなどと訳され、その訳語に乗っかった形で神秘主義的な、また欲にまみれた「気づき」の大安売りが始まっているのです。
今回の初期仏教講演会では、長い仏教の歴史の中でさまざまに用いられてきた「サティ」の意味を様々な角度から分析して、お釈迦様が語られた「サティ」の真髄に迫っていきたいと思います。(2012年1月14日 国立オリンピック記念青少年総合センターにて収録 商品番号:V-219)
協会の記事ではありません。
佐藤哲郎さんのInstagram インスタグラムより紹介です。
ゴータミー精舎お越しの際はよしなに。#寺猫 #募金 #猫 #catstagram #templecats #donationbox
協会の記事ではありません。
吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。
道徳と嘘
先日私より若い世代の坊さん仲間と、「戒め・道徳・生き方」について話し合う機会があり、その中で、いくつか気づいたことがありました。
私が企画したテーマですが、若い世代の仲間に、まずお坊さんである以前に、一人の人間として、親としての道徳や生き方を確立して欲しいと思ったからです。
いくら、立派な戒名を授かり中興上人と讃えられても、まわりの人からあまり尊敬されていな人も実際にいます。けっきょくその人の生き方を周囲の人はありのままに見ているのだと思います。
話し合いの中で、五戒が話題になったとき、ある人は五戒を自分なりに解釈して変形させて理解しているという発言がありました。例えば「生あるものを殺さないという戒めを私は受けて守ります」を「なるべく殺さないようにしています」とかいうように。
私は戒を自分なりに解釈することはとんでもない危険なことに通じると思いました。そもそも、なぜその人は戒を自分なりに変形させるのでしょうか? これはよくありそうな話ですが心理の深奥を理解するにならば大問題だと思います。たいそうですが生死の一大事だと思うのです。
さて、この問題の根本にそもそも、「戒」とは何なのか? という問題があります。この理解も本当に人によって千差万別です。私は自分の著書にも書きましたが、若い頃から「戒」は規則であり、守らないものには罰があるという理解をしていました。なるほど守らなければ、因果法則でそれなりの結果をまねくことは間違いありません。
私は初期仏教に出会って、「戒」をそのような罰則のともなう規則ととらえるのはとんでもない間違いだと、考えるようになり、そのことは自分の人生の転機となり、つまり生き方が変わりました。
① しない方がいいですよ。 (殺さない方がいいですよ)
② してはいけません。 (殺してはいけません)
確かに、この二つを並べたら、多くの人は不殺生戒を「殺してはいけません」と理解すると思います。しかし、「殺してはいけません」には、自由意志が無いという問題があります。現実の私たちの暮らしでは、戒には常に選択の自由があります。実際の人生の場面で人が不殺生・不妄語・不邪淫・不飲酒に接するときには、ならず選択があります。
私の「戒」の理解は、お釈迦さまは私の人生のあらゆる場面で、「あなた幸せになりたいのなら、殺さない方がいいですよ」と、慈しみのこころで私の自由意志に働きかけておられるのだと私は思うのです。私は「戒」を守れないときがありますが、その時に大切なことは、「私は今戒をまもれません」と、嘘をつかないことです。
戒を自分流に変形させる心理は、このときに葛藤・罪悪感が伴いそれと向き合うことの辛さから逃げているのだと思うのです。いったい誰が私を責めているのでしょうか?
私は五戒も満足に守れませんが、守れない自分をさらに責めるようなことだけはしません。(このことは戒を軽く見ることとは違います)
しかし、お釈迦さまから授かるべき戒はそのまま授かることにしています。「戒」に対して、自分なりの理解をして変形させる人は、心理的に二重の負担が伴うと思います。
スマナサーラ長老は以下のように説法されました。
「罪を犯したくない、悪いことはしたくない、清らかな生き方をしたい、平安で幸福で生きていたいと希望する人は、世の中にある無数の悪い行為について悩まなくても結構です。『嘘をつかない』という一行を守れば善人になれます。」
この言葉はまことに慈悲深いです。「戒」なんていい加減にしておけばよいという考えとは根本的に違います。私のような凡俗にはわかり難いのですが、「戒」はそもそも楽に幸せに生きるためのもののようです。
このテーマについて考えたときに、ダンマパダの176が浮かびました。唯一の真理が何を意味するのかは謎ですが、
① どんな生命ににも自己愛がある
② お釈迦さまの教え
③ 嘘をつかないこと
私は、「嘘をつかないこと」も含まれるのではないかと思うのです。
ダンマパダ176 13.9 チンチャ・マーナヴィカーの事例
唯一の真理を犯して、嘘をつく人にとって、来世を否定する人にとって、為せない悪はない。
Ekaṃ dhammaṃ atītassa, 唯一の真理を犯して、
musāvādissa jantuno; 嘘をつく人にとって、
Vitiṇṇaparalokassa, 来世を否定する人にとって、
natthi pāpaṃ akāriyaṃ. 為せない悪はない。
Pāṇātipātā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi
Adinnādānā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi
Kāmesu micchācārā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi
Musāvādā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi
Surā-meraya-majja-pamādaṭṭhānā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi
①「生き物を殺すことから離れる」という戒を受けて守ります
②「与えられていないものを取ることから離れる」という戒を受けて守ります
③「淫らな行為から離れる」という戒を受けて守ります
④「嘘をつくことから離れる」という戒を受けて守ります
⑤「酔わせるもの、酒・麻薬など、放逸の原因となることから離れる」という戒を受けて守ります
①生き物をそまつに扱うことで満足を得ない
②与えられたのでもないのに、他の財産を取ることで満足を得ない
③性的な裏切りで満足を得ない
④失礼で乱暴な発言で満足を得ない
⑤精神状態を変える薬物を摂取することで満足を得ない
fb-テーラワーダ仏教情報版からの紹介です。
☸️スマナサーラ長老との質疑応答から「五蘊の心所はなぜ三つ?」前編
質問
五蘊の中には心所が三つ(受、想、行)入っていますが
アビダンマの心所は全部で五十二あります。どうして五蘊の中
には心所が三つしかないのですか?
答え
お釈迦様は、心所の数は五十二だよとはおっしゃってはいないのだから、もっと少なくなっても、多くなっても構いません。
五十二という数は阿羅漢たちや、いろいろなお坊さんたちが考えてリストアップしたものだから、完全にならなくてもいいんです。
五蘊は、お釈迦様の教えなんです。
それは、アビダンマ心所の話よりもちょっと気を付けたほうがいいいです。それに、あまりケチをつけないほうがいいんです。
これはもう仏説だから、我々に判らなくても完璧であることは確かなんです。それは何とか理解するのであってあれこれ付け加えたりはしません。
私は、アビダンマにはいろいろ文句を言ったり、異論を言ったりするのですけれど、仏説のところには何も言いません。
もし、分からなかったならば、それは、私の間違いであって、お釈迦様の間違いではないんです。
経典に出てくる、五蘊というのは、我々の感じる自分の構成なんですね。それは、普通には感じないかも知れませんけど、まあちょっと考えてみれば、この五つだと分かる。
それから、経典を読んでみると、当たり前で、みんな知っているというスタンスで語っているのですね。受蘊はこういうものであると言ってしまうと、最初から仏教を紹介することになってしまいますが、そうはしていないんですね。いきなり話をもってくる。ということは、相手も知っているという前提なんですね。
瞑想する場合は、五蘊の分析がとても大切なことであって、肉体は物質で見て、物資でないところは感覚で受(ヴェーダナー)でしょ。
感覚だけでは何もやってくれませんよ。ただ感じるだけだからね。しかし、感覚が生まれると、そこで次に想(サンニャー)が生まれるんですね。これはあれだとかね。そこから、それについて何をするのかという騒動、行(サンカーラ)が生まれているんです。そこで、識(ヴィンニャーナ)とは、それを認識することなんですね。
だから、瞬間にその四つが瞬間に、一遍に動くだけで別々に感じる事は出来ないのです。
大雑把にまとめると、別々だと見えてきます。
例えば、いろいろなことをやりたいとか、いろいろな感情や、欲や怒りが出てくると、じっとしていられないでしょう。何とかしたいというね。そこは全部、行(サンカーラ)にしているんですね。だから、アビダンマでは、受(ヴェーダナー)、想(サンニャー)は心所一個で残りは全部、行(サンカーラ)に入れているんですね。
何か、数字的には、ちょっとどうかなという気持ちもあるかも知れませんですけど、アビダンマで心所を五蘊に入れるとそうなるんであって、だからといって、五蘊には何も手を加えてはいけません。五蘊は仏説です。
続く
スマナサーラ長老との質疑応答から「五蘊の心所はなぜ三つ?」後編
そして私は、想(サンニャー)はアビダンマと違ってかなり大きく取ってます。概念そのものが想(サンニャー)であると。
私たちが頭の中で持っている概念といえば、数え切れないほどあるんですね。そこで、いつも新しい概念が生まれるんですよ。生まれて初めてパッと何か見ただけでも、脳の中で落ち着かないから何か作ってしまうんですね。
これが何だろうということではいられません。はっきりと何かにしないと。
例えば、何となくドアが音を立てていて、一人で住んでいると、その音が何なのか判らないと、かなり不安なんです。
だから何かにするんです。やっぱりこれは、何か心霊のいる家だと!そんな事思ったら、なおさら大変ですけど。それでもいいんです。こころが落ち着く為には。この家には幽霊がいる。怖くてたまらない。ということで落ち着いているんです。あるいは、逆に、徹底的に調べて、そういうことかと判ったならば、それでもいい。
時々、私の住んでいる建物も音を立てますけど、ああいう音っていうのは、そんなに大きくはないけれど、何か音が体に入ると、振動が体全細胞に入るんです。ほんのわずかなペチッという音なんですよ。それで、私は、何だこれぐらいの音にこんなに驚いてという気持ちにもなるし、だから、まあ温度の変化でしょうと思ったところで落ち着くんです。そこは、想(サンニャー)を作っちゃたんです。
そういうことをしない限りは、なかなか認識がしっかりしない。
だから、ずっと大量に概念があるんです。
それは、巨大ですから蘊という。塊、山という意味です。
2008.9.27 ゴータミ精舎にて