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 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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解脱は理解できない ~仏教徒は、仏陀の道を歩んでいるのか?~
 




協会の記事です。





パティパダー巻頭法話
Sabbe satta bhavantu sukhitatta
HOMEパティパダー巻頭法話→解脱は理解できない
No.125 (2005年 7月)
解脱は理解できない
~仏教徒は、仏陀の道を歩んでいるのか?~
 Conflict of objectives
A・スマナサーラ長老

 涅槃は仏教が語る最終的な境地です。その境地を目指して仏教徒は修行してきたのです。しかし現代においては、仏教徒が皆その涅槃を目指して励んでいるのかは、疑問です。個人的に聞いてみると、皆それぞれ、目的や訳があって仏教を学んだり、実践したりしているのではないかと思われます。明確に言えば、釈尊が推薦している目的と、現代の仏教に興味を抱く方々の目的には隔たりがあります。

 それには二つの理由が考えられます。一つ目の理由は、生きる目的は何なのかということを、自分自身で決めていることです。二つ目の理由は、涅槃とは何なのかと、全く理解できていないことです。

 まず、一つ目の理由である「生きる目的」について考えてみましょう。

 社会は、仏陀の時代と全く変わっています。科学という学問がありまして、自然の働きを探究しているのです。そして、いろいろなものを開発、発明していきます。それによって、生きることは大変楽になったと思っているのです。経済、政治状況も、複雑になってきました。この環境に適合するために、現代人は必死で、あらゆることを学ばなくてはなりません。また、激しく他人と競争しなくてはいけないのです。現代文明は、競争文明です。誰かと競争しないと、何も成り立たないのです。科学者も、他人と競争して、日夜研究に励みます。開発者も、他の開発者と競争しているのです。これは、「早い者が勝ち」という生き方です。遅れた者は大損するのです。生きていられなくなるのです。教育でも、仕事でも、競争です。挙げ句の果て、日常の生き方さえも、他人との競争なのです。生まれて、ものの理解を始めたときから死ぬまで、絶えず競争しなくてはいけないのです。競争概念が入っていないものは、この世には何一つありません。家族の中でさえも、様々な競争があるのです。

 競争という戦場に生きている現代人は、激しい戦いに挑まなくてはならないのです。負ける人には、生き甲斐どころか、生きる権利さえもなくなるのです。人の頭は、ライバルに勝つための策略をこねることで一杯です。高度な次元でものごとを考える余裕などありません。このような世界なので、各個人は自分の競争範囲を決めるのです。何に挑戦するか、何を目的として生きるのかと、自分で決めます。すべての思考も、努力も、その目的のために費やすのです。このような環境で、たまたま仏陀の教えに出会っても、興味があるのは仏陀が何を語っているのかではなく、自分の競争や策略に、何か役に立つ、効果的なアドバイスがあるかないかです。面白いことに、冥想実践している方々も、互いに激しく競争しているのです。

 解脱とは何なのかということに、興味はありません。仏教を学んだら、商売繁盛できるか、人間関係が良くなるのか、仕事は上手く捗るのか、子供はおとなしく勉強してくれるのか、試験に合格できるのか、健康でいられるのか、長生きできるのか、痩せてスマートになれるのか、皆に好かれるのか、人生で成功できるのかなどは、大いに興味があるのです。このような競争目的を達せられると約束してくれるならば、気持ちよく仏教にしがみついてくるのです。しかし、釈尊は、そのような目的のために悟りをひらいて説法なさったのでしょうか?

 仏教も、人々が関心を持つ生きる目的を、独断的に否定することはしないので、誤解や問題が生じるのかもしれません。一言で言えば、仏陀の教えは「因縁論」なのです。この世で、何が起きても、それはそれなりの原因の結果であるという話になります。そうなると、試験に合格したいと思うならば、それなりの原因を揃えなくてはならないのです。心の中の雑念が減り、集中力が増すならば、ものごとを理解できます。また繰り返すことで、明確に覚えられます。それなら、合格は当然の結果になるのです。その他の問題についても、仏教には答えがあります。家庭円満を期待するならば、互いのことを心配する、思いやりの心をもつ、怠けないこと、我が儘にならないことで充分だと思います。皆に好かれたいと思う人は、嫉妬と怒りを抑えて謙虚な心で、他人に対して慈しみの気持ちでいれば、成功します。

 このように、各個人が期待する目的に、仏教は答えを出すのです。神秘・儀式・行事・迷信などに足を引っ張られることなく、人々が自分の目的に達することができるように、具体的な答えを出す仏陀の教えは、間違いなく役に立ちます。従って、現代人が自分の個人的な目的を果たすために仏教に興味を抱くことも、避けられない現状です。しかし、それは仏陀自身が語りたかった目的とは違うのです。

 では、問題を作っているのは仏教ではないでしょうか? だってそうでしょう。答えなかったら、質問を断ったら、良かったのに…。なのに、なぜ人の世俗的な問題に仏教は淡々と答えるのでしょうか。それは、仏教が「因果論」だからです。また、仏陀自身が智慧の完成者だからです。智慧の完成者に答えることができない問題は何一つも存在しないのです。人の質問に答えるのは、断ることが智慧の完成者として相応しくないからです。いかなる問題にも、ズバリと答えます。だからといって、それこそ人生の最終目的だと、仏陀自身は説かれません。勘違いするのは、一般人なのです。仏道は幸福を目指す完全なる道なのです。わざわざ小さな目的を立てなくても、涅槃という最終目的を目指して仏道を歩むならば、損をすることは全くありません。俗世間的な目的などは、いとも簡単に達成しながら、さらに上の幸福へと進んでいくのです。ところが、涅槃のみを目指しても充分なのに、競争の渦巻きに巻き込まれている現代人の思考は、自分個人の問題・目的だけに限っているので、涅槃という仏陀が説く目的に興味を抱く余裕がないのです。

 次に、二つ目の理由について考えてみましょう。

「涅槃とは何なのか、全く分からない」ということです。人間は競争の渦巻きに巻き込まれているので、ただでさえ苦しい生き方を何十倍、何百倍にも増幅して苦しんでいることに気付きません。とにかく競争に勝ちたいという、それだけに必死なのです。仏教は、競争主義の生き方に賛成しません。共存主義を語るのです。しかし、現代人には「共存主義」は理解できません。相手のことを気にすると、心配すると、自分が負けてしまうのではないかと思うのです。弱者の、負け組の、泣き声など聞いていられないと思うのです。すべて競争原理で成り立っているこの世界で、共存論が理解されないのは、当然のことです。

 競争主義的な生き方では、必ず負け組と勝ち組が生じる。負け組は、当然不幸になる。勝ち組になっても、一生攻撃を受けなくてはならない。競争自体も、苦しい生き方です。勝って幸せを感じても、それは相手の不幸の上に成り立っているものです。みな幸福になることは、決してあり得ない生き方なのです。欲、怒り、憎しみなどは、あったほうが競争しやすいのです。しかし、この感情は、勝利より敗北の原因にもなるものです。競争主義では、決して心はきれいになりません。物質的な富を得ても、心の安らぎはないのです。本当の幸福は、心の安らぎなのです。競争主義者は、幸福を売って、富、名誉、権力などの世俗的なゴミをコレクションします。ですから、この理屈を理解するのは、現代人にはなかなか難しいのです。冥想するときでさえも、競争する気持ちが割り込むので、話になりません。仏教で説く競争は、たった一つです。「自分の心の汚れと闘いなさい。その勝利は、この世にあるいかなる勝利よりも優れている。」

 共存論さえも、人間の理解できる範囲を超えているようです。しかし、それは客観的に考えるならば理解できる話です。ところが、最終目的である涅槃がどういうものであるかは、頭で理解することはできないのです。涅槃の状況を語る言葉さえ見つかりません。涅槃という語さえも「なにもない」というような意味なのです。炎が消えた状態、煩悩が亡くなった状態と言う定義です。とにかく、否定形の単語ばかり使っているのです。というわけで、涅槃の状況は理解できないのです。

 それでは、一般の人々は困るので、「最高な幸福、最高な安らぎ、不死なる境地、一切の苦しみの終焉」などの言葉も使っています。それでも、理解できるとは思えないのです。涅槃とは、一切の次元を超越した状態です。ある、存在する、という理解できる範囲を超越しています。それ以上、目指すべきところはありません。

 我々は、有の世界にいるのです。有・有るということは、因縁によって現れた、変化生滅していく、一時的な現象の世界です。神の次元も、梵天の次元も、有の世界です。有は、無常なのです。有に対立して、人間は「無」の状態も想像しますが、実感があるとは思えません。どちらかというと、虚無主義に陥りやすい概念なのです。仏教の世界でも、「無」「空」という概念は人気があります。それは、虚無主義ではなく、我々が経験している現象の世界は、実は実体のないものです、という意味です。この存在は、「空」というのです。しかし、涅槃は「空」だというと、正しくないのです。そうなると、輪廻も涅槃も同じものになるのです。であるならば、修行しなくても、努力しなくても良いことになるのです。釈尊は、涅槃を anakkhâta (ineffable)表現不可能だと説かれているので、涅槃を「空」とは言わないのです。しかし、「有」でもないのです。その境地は観念的なものではなく、経験できるものです。

 涅槃は最終的な目的だと理解するために、消去法を使用するのです。たとえば、いかなる存在でも無常で、一時的なものであると、たとえ、天界、梵天などの幸福な境地に生まれても、そちらには寿命があるので、最終的な境地ではないと理解することです。それを乗り越えた境地は、涅槃だと理解する。

 「執着」という語からも、消去法を使用できます。人は、執着という機能をよく知っている。あらゆるものに執着して、それらを得るときに競争することが、生きることなのです。欲しいものは得たとき楽しいが、得たものは無常なので消えます。得たものを守るために、無くなったらまた得るために、絶えず苦労しなくてはいけない。変わらない自分がいるならば、それでも構わないと思われるかもしれません。しかし、自分に対する執着は、何よりも強いのです。自分に対する執着があるからこそ、他のものにも執着するのです。自分も無常で、やがて老いて死にます。結局は、競争して生きてきた苦労は全て無駄になるのです。空しくなるのです。そして死で全て終わるわけでもない。生命は転生する。また苦しい循環が続く。さらに執着は束縛になる。執着するものから離れられなくなる。人の思考、努力の全て、執着するものの範囲を超えられなくなる。それでは成長も、智慧の開発も、自由もあり得ないのです。

 そこで、仏陀は無執着ということを説かれます。無執着になると、心は自由なのです。一切の現象、無常なるもの、有に対する執着から離れることが、涅槃という境地なのです。我々の概念、言葉、全て有の世界と執着に関わるものなので、無執着状態である涅槃はどういうものかと、その境地は経験しない限り理解などできません。言葉も存在しないのです。執着する癖は、輪廻転生する生命の根本的な問題です。瞬時に全てに対する執着を捨てることは、簡単ではないのです。順番でまず、変わらない自我があるという、自分に対する執着を捨てる。次に、どうせ無常であるものごとにきつく囚われる必要はないと理解して、欲と怒りを控えられる境地になる。次に、五欲に完全に執着しない状態を得る。最後に、如何なる存在にも執着しない境地に達する。固定した自我がないと発見するだけで、解脱の世界に入るので、遅くても七回転生する間に、完全に悟るのです。欲を捨てて三番目の段階に達する覚者は、死後梵天に生まれそこで涅槃に入るのです。

今回のポイント

  • 仏道を歩む人は、俗世間的でも成功を収める。
  • 世間で成功することは、仏陀が説く目的ではありません。
  • 涅槃という境地は、人間に理解できないのです。
  • 涅槃とは、最終的な最高な幸福の境地です。
◎経典の言葉
 Chandajâto anakkhâte,
 Manasâ ca phuto siyâ;
 Kâmesu ca appatibaddha citto,
 Uddhamsoto'ti vuccati. (Dhammapada 218)
 言詮の及ばぬ境地志し
 心にそれを体得し
 五欲に著することなくば
 世は呼んで言うその卿を
 「流れをのぼる方(不還果)」とこそ (ダンマパダ 218) (江原通子 訳)








ひとり言 | 09:08:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
全ては神様のお手柄ですか😁❓



 
協会の記事ではありません。
木下全雄  さんの ブログより紹介です




全ては神様のお手柄ですか😁❓

ご法要で中・高生とお話ししました。

神様っていると思う?と聞くと全員、いる!と答えてくれました‼️
今どきの若者がこれならば、怪しげな宗教もまだまだ儲けるチャンスはありそうですね🤣🤣🤣

いきなり「神様はいる」と鵜呑みにするのではなくて、本当に世話になっているかどうかを確認しましょう、と話を進めました。

実生活において、私達は
神様にお小遣いをもらったことはありません
神様にご飯を作ってもらったことはありません
神様に部屋の掃除をしてもらったこともありません
神様に洗濯物を干してもらったこともありません
神様に食材を買い物して来てもらったこともありません
神様に病気を治してもらったこともありません
神様に勉強を教えてもらったこともありません

要は、神様がいようがいなかろうが、私達の生活には全く役に立っていません😅
もしかすると、神様は私達のことを見守ってくださっているかもしれません😁しかし、役に立たないなら、見守ってもらう必要もないし、信仰する必要もないでしょうにねぇ😁

神様に願いごとをすれば叶う、ということがあるならば、自分の努力は無駄ですから、ずっと祈っておいた方が良いのです🤣万が一そんなことをすれば、それこそ人生を捨てることになりますがね😅

神様が許してくださるならば全ての罪が許されるとすると、道徳は守る必要がなくなります。まぁお陰でテロが起こり放題な訳ですがね😱

また、神様がいると思っている人からすると、他の人がお手伝いしたことも神様に感謝を捧げるのですから、全て神様の手柄になっています😅本当にお世話になった人にこそ感謝をするべきなのに、どこにいるかもわからない神様にいきなり感謝してしまうような自分勝手な信仰を持った人を信頼できますかね😅❓

神様を信仰するのは自由ですが、私からするとそんな恥ずかしいことは黙ってひっそりと自分だけで信仰しておくべきだと思います😁ちょっと言い過ぎかな😅❓でも21世紀だからねぇ。
ちなみに私は山の神は大切に敬っています😁😁❤️



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Be Happy! | 15:10:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
◆日本テーラワーダ仏教協会 第一回「一時出家修道会」実施要項




協会活動スローガン『こころを清らかにする人が幸せである』

みなさま こんにちは
いつもお世話になっております。

 8月号パティパダーにも記事が掲載されていますが、来月8月にマーヤーデーヴィー精舎にて
一時出家の体験として「第一回一時出家修道会」が行われます。指導はスマナサーラ長老です。
挑戦してみようと思われる方は(参加条件あり)、下記詳細をご確認いただきご連絡ください。
参加申し込み書をお送りいたします。不明な点は、お問合せください。


◆日本テーラワーダ仏教協会 第一回「一時出家修道会」実施要項

 日本で次の世代にお釈迦さま本来の教え(初期仏教)を根づかせるために、出家比丘サンガ
の存在は欠かせません。現在、日本人比丘は少数しかおりませんが、日本で初期仏教を学ぶ
人々のあいだで出家に対する理解を深め、将来的に出家比丘サンガが活動する環境を整える
ことを目的として、一時出家修道会を企画しました。個人的な修行に留まらず、日本に初期
仏教を伝えるために貢献したいという若い世代の積極的な参加も期待しています。

 一時出家修道会は、出家と在家が両方参加して協力し合って初めて成り立つ行事です。
一部が出家の役をして、他の人が在家の役をするということであって、両者は一体です。
今回、出家役として参加する方々は終了後に全員還俗しますが、その体験を活かして、
より広く深い知見をもって日本の初期仏教を支えて頂きたいと願っています。

*指導:アルボムッレ・スマナサーラ長老
*会場:マーヤーデーヴィー精舎(兵庫県三田市)

*日程:8 月17 日(金)~25 日(土)8 泊9 日
集合:8 月17 日(金)13:00(※初日はオリエンテーション、18 日朝から出家儀式)
解散:8 月25 日(土)17:30
※現地集合・現地解散とします。

*参加資格
①協会会員(家族会員含む)の男性であること。
②協会主催の初心者瞑想指導を受講していること。
③開催期間を通して参加できること。
④心身ともに健康であること。

*実施人数:最大10 名(一時出家者)

*参加費用
お布施(お気持ち)

*注意事項
・比丘見習いである沙弥として十戒を受け、修行生活を送ります。
・袈裟などは貸与します。※自己調達の場合はお店を紹介します。
・事前に剃髪(眉毛は剃らなくて可)しておいてください。
・戒の規定により正午以降は食事を摂りません 。
・一時出家の修行期間終了時に、必ず還俗して袈裟等を返却してください。
・一時出家の修行期間中は、指導者の指示に従ってください。
・ご不明点等ございましたら、協会スタッフまでお問い合わせください。

*事務局
電話:03-5738-5526 FAX:03-5738-5527
メール:
info@j-theravada.net

*申込時に必要な情報
・名前(本名)
・年齢
・現住所
・電話番号
・メールアドレス
・勤務先/通学先
・緊急時の連絡先(親類など)
・協会の宿泊瞑想会への参加経験

※申込多数の場合はお断りする場合がありますのでご了承ください。
以上


お幸せでありますように Mayadevi office 松原
生きとし生けるものが幸せでありますように

――――――――――――――――――――――
宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会
マーヤーデーヴィー精舎
〒669-1525 兵庫県三田市対中町21-2
Tel&Fax:079-506-0003
Mail:mayadevi@zeus.eonet.ne.jp
協会HP:http://www.j-theravada.net
精舎blog:http://mayadevi.hatenablog.com
――――――――――――――――――――――







お知らせ | 11:34:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
(皆様にも一時出家に挑戦する機会が?!)。8月17日(金)~25日(土)8泊9日の期間





 
817日(金)~25日(土)89日の期間
比丘サンガが一時出家(比丘/沙弥)する方を受け入れ






丘サンガが一時出家(比丘/沙弥)する方を受け入れ

817日(金)~25日(土)89日の期間

 さて、嬉しいお知らせがあります。今年(2018年)の8月にマーヤーデーヴィー精舎にて、一時出家(法要)が行われることが決まりました。

  詳細にはまだわかっていないことが多いですが、817日(金)~25日(土)89日の期間で、比丘サンガが一時出家(比丘/沙弥)する方を受け入れ、スマナサーラ長老が指導され修行生活されることになりました。一時出家される方の人数などは、まだ確定しておりません(皆様にも一時出家に挑戦する機会が?!)。

  今回は一時出家という形になりますが、今後も継続して行われることになれば、近い将来、日本にお釈迦さまの真理の教えが根付くため、日本人による出家比丘サンガ(組織)が誕生するきっかけ、第一歩になる出来事だと思います。日本にお釈迦さまの教えが根付くことほど、これ以上の喜ばしい慶事はありません。次の世代にも幸福の道が受け継がれていくことを切に願います。

   ということで、一時出家の法要(受戒儀式・袈裟お布施など)、その期間の毎日の食事お布施、法話会や冥想実践など、皆さんが参加できる行事・機会もたくさんあると思われます。日本にも出家比丘サンガを誕生することを期待し、是非今回の一時出家 法要に皆様のお力をお貸して下さい。何卒、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。

  7月の大阪「人生に役立つ講演会」も控えておりますが、また一時出家の件についても随時お知らせさせていただきます。どうなるか楽しみですね。簡単ではありますが、先にお知らせしておきます。


  参加条件

①協会会員(家族含む)で男性であること

②スマナサーラ長老の瞑想指導を受けていること

③開催期間を通して参加できること

④心身共に健康であること

 

 お幸せでありますように Mayadevi office 松原

生きとし生けるものが幸せでありますように

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宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会  マーヤーデーヴィー精舎 

669-1525 兵庫県三田市対中町21-2 Tel&Fax079-506-0003

 Mailmayadevi@zeus.eonet.ne.jp 協会HPhttp://www.j-theravada.net 

精舎bloghttp://mayadevi.hatenablog.com

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お知らせ | 09:08:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
 7/15 名古屋初期仏教デー
  



★「茶話会(親睦会)」のお知らせ
午前10時
から法友のみなさんの集いがあります。
今後の東海の行事の事で皆さんに相談があります。
スタッフもそうでない方も、ぜひ出席お願いします。


※自由参加、昼食は各自ご用意ください。






 7/15 名古屋初期仏教デー
 
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日本ガイシホーラム 】    和室   スマナサーラ長老
12:30-----------受付開始
13:00-----------開始  前半経典読誦・法話・質疑応答
15:30前後-------休憩15分程度
15:45-----------初心者冥想指導<途中休憩無し> 
            
     各自冥想実践
19:00
~20:00----------後半経典読誦(7ページ)+
   祝福のお経授受後 
終了予定 (都合によります)。

【参加費】
ご喜捨 (参加当日、受付にお渡し下さい)

(地図)

日本ガイシフォーラム 交通アクセス

http://www.nespa.or.jp/shisetsu/bunka/access.html

 ------------------------------------------

 茶話会(親睦会)※自由参加---和室
 法友のみなさまとの交流会です
ぜひご参加ください
 10:00-----開場(開始)---和室
 ※昼食は各自ご用意下さい

--------------------------------------------------
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行事予定 | 15:30:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
東海ダンマサークル#テスト
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未分類 | 18:20:32
  バリカンと坊主頭の福楽 【 捨てると楽!】




 
協会の記事ではありません。
吉水 秀樹  安養寺住職 のfbより紹介です。




  バリカンと坊主頭の福楽 【 捨てると楽!】

 坊さんと言えば坊主頭。坊主頭は福楽です。どれくらい私の人生のエネルギーをセーブし、福楽を与えているか量りしれません。さらに文明の進化でバリカンの威力はすさまじいです。

★お金をセーブする
★時間をセーブする
★労力をセーブする
★もろもろの欲をセーブする

☆一番目のお金に関しては、バリカンの価格は七千円くらいです。充電式で、簡単な手入れで壊れにくいです。あとは電気代くらいですが、微々たるものです。もし、散髪屋さんや美容院に通えば、人によって差はあるものの一年では、少なくても2万円~10万円はかかると思われます。

☆お金より、二番目の時間の方が利益は大きいと思います。時は金なりと言いますが、簡単に済ませる男性でも自宅から散髪屋に行く時間、待つ時間、刈ってもらう時間、帰り道の時間、そう考えると一回でも約2時間、一年ではけっこうな手間と時間がかかります。私の散髪は、お風呂に入って0.1ミリ仕様の電動バリカンでします。所要時間は約5分間です。掃除まですべてが5分間で終わります。

☆労力のセーブとは、例えば散髪屋行きません。自宅の風呂場ですから、10秒で行けます。待ち時間や掃除の手間も極小です。もともと短い髪なので、お風呂でそのまま流します。移動時間・散髪時間・掃除時間を合わせて、5分ですから労力も少ないです。それに、セットに悩む時間はありません。ドライヤーも必要ありません。乾燥とセットを合わせて、2秒ほどで終わります。ヘアースタイルを考えることもありません。女性は人生のどれほどの時間と労力を自分の髪の為に使っているでしょうか? その労力と時間とは、実は次の「欲」のことです。つまり、人から良く思われたい、異性に良く見られたい。キレイ・カワイイと自己満足したい。「髪」のために、「欲」のために、とんでもない時間と労力とお金を費やしている人も少なくありません。

☆一番の福楽は「離欲」の道であることです。もともと出家者は世俗の暮らしから離れるために、剃髪したのです。私も若い頃は僧侶の資格をとった後も髪にこだわって、いろいろなヘアースタイルをしていました。それほどの執着はありませんでしたが、やはり異性にもてたいとという欲があったと思います。
 十年ほどまえに、そのような欲から離れる証として、坊主頭の決心をしました。ヴィパッサナー冥想に出会った時期です。ほんとうに離欲の道を歩みはじめた訳です。今朝も頭を丸めましたが、頭髪のごとくこころも爽やかで持っているものがありません。これ以上の福楽はありません。

 坊主頭にしているからと言って、離欲の道を歩んでいるかどうかは、ブッダが仰ったように外見ではわかりません。笑い話ですが、綺麗に剃ってピカピカに光った頭に執着しているお坊さんもおられます。袈裟などの持ち物に執着して、何十万・何百万円も費やしている欲に執着したお坊さんもいるので笑えません。

 坊さんには、日本仏教でも、テーラワーダ仏教でも、ホンモノとニセモノがいますが、外見ではわかりません。日本仏教のことは皆さんご存知でしょうが、テーラワーダの世界でも、サマタ冥想の神秘体験にこ執した怪しい坊さんがいるように思います。見た目や肩書には要注意です。仏道は離欲の道です。

『剃りたきは、こころの中の乱れ髪 つむりの髪は、とにもかくにも』

自動代替テキストはありません。
自動代替テキストはありません。








ひとり言 | 10:31:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
   ヴィパッサナー冥想で自我の錯覚を破る




協会の記事ではありません。
吉水 秀樹  安養寺住職 のfbより紹介です。
 



   ヴィパッサナー冥想で自我の錯覚を破る

 冥想を始めたころはわかりませんでしたが、思考はすべて過去のものでヴィパッサナー冥想には思考は要りません。ただ今の瞬間、ありのままを観察する直観だけがたよりです。だから、毎日挑戦しますが、毎日ゼロからのスタートです。慣れたり、テクニックの上達もありません。

 たとえば「私は誰?」という問いかけがあるとして、その問いに思考(過去)を交えずにただ観察で挑みます。普段、私としている名前や職業、肩書年齢は「知識や過去」に起因するもので、名称は「かぶりもの」です。それはイメージや妄想でつくられたものです。今ここの直観だけで見るとき、普段「私は日本人」と考えているような事実はありません。それがほんとうの事実なら、誰が見ても、犬が見ても日本人と判るはずですが、それはあり得ません。名前や性別も今ここでは見つかりません。

...

 ブッダは先ず、私を五つの塊りに分けました。色と受想行識の五蘊です。確かに、痛みや足の痺れは今ここで発見できます。これを「感覚」受vedanāといいます。しかし、この感覚は刻々と変化して実態はありません。鳥の鳴声をきいて「カラス」と想念が浮かぶように、自分の名前や仕事も浮かびますが、これは記憶であり、今ここにあるものではありません。
それを想saññāと呼びます。記憶や知識です。これも「かぶりもの」であって、いくつでも都合のいいように現れますが、そもそも記憶や知識はいい加減なものです。それは冥想で発見できる真実ではありません。

 興味深いことに、冥想では自分の性別も発見できません。自分が日本人でもない、性別も判らないと達観したとき、言いようのない楽があります。身体が浮いたように軽くて楽です。自我の妄想が壊れてきたのです。持ったら重い、手放せば軽いです。

 心地よい、蒸し暑い、嬉しいなどの感情も発見できます。これを行sankhāraといいます。感情のことです。感情こそ刻々と変わります。感覚と知識と感情を織り交ぜて、思考(妄想)します。これを識viññānaといいます。普段している思考認識のことです。思考は今こことは無関係に脳裏に浮かぶものなので、相手にしません。
 冥想をつづけると、思考しているときに同時に時間が経っていることに気づきます。時間とは思考の産物であり、思考のないとき、時間もないことが理解されます。時間が妄想の産物だという意味がわかるでしょうか?
 ほんとうにあるのは、今ここの瞬間だけである。過去や未来は実在しないことは理解できるでしょう。

 修行を正しくつづけると、妄想が減ります。感覚や想念だけがただ生まれては消えていきます。妄想は簡単にはなくなりませんが、相手にしないと落ち着いて丁寧に観察されるので、その場でそのまま因果法則で消えていきます。妄想にちょっかいを出すと、妄想はエネルギーを得てしばらく因果法則で継続します。
 
 放っておくことが智慧です。放っておくことは、何事にも無関心で生きることではありません。痛みや不快感を感受しても、痛み・不快感と観察して悩みません。ヴィパッサナー冥想では、何が起きても放っておく能力を育てます。放っておくこと自体が智慧の働きです。長老はあっさりと、一切の現象に対して放っておく能力が現れたら、それを仏教用語で「解脱」と言うのですと説かれました。

画像に含まれている可能性があるもの:花、植物、自然





自動代替テキストはありません。




ひとり言 | 15:25:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
 『執着を捨てる』 安養寺みんなの仏教 1月~6月レポート 吉水秀樹
 




会の記事ではありません。
吉水 秀樹  安養寺住職 のfbより紹介です。







 『執着を捨てる』 安養寺みんなの仏教 1月~6月レポート 吉水秀樹

 春から、「欲望」と「執着」をテーマに学びの会を進めてきました。6月でひと区切りとして完結しました。私自身がこの間に学んだことをまとめてみます。
 まず、ブッダの言葉によると『すべての人間の悩み苦しみの原因は、執着であること』。それはつまり、執着を捨てることが仏道であり、仏教は遠離の道、離欲の道であること。
 言葉にすればいとも簡単ですが、この言葉を自分に引きつけて、できるできないに関わらず、自分の生き方にすることが肝心です。
 誰のどんな悩み苦しみも、「その原因は執着であること」を信じるのではなく、理解することがはじめの一歩です。それが理解されれば、これは大きな一歩になります。
 普通の人は「執着することが幸福」だと考えています。だからこそ執着するのです。それを「執着が苦しみ」とありのままを見る革命が必要なのです。

 次に、自分が「何に執着しているか」を知ることです。これも、観念的にではなく、逐一今ここで、たとえ小さなことでも自分で確認することが大切です。自分のお気に入りの時計など持ち物を見たら、自分はそれに執着していると正直にありのままに気づくことです。

 勉強会に参加した人全員に、「執着とは何か?」を自分で考えてもらい、「あなたが執着しているものは何ですか?」と問って、それに答えてもらいました。人の答えは面白いです。
・夜寝る時刻や睡眠時間、睡眠に執着している。
・夕食の作り方に執着している。食べ物に執着している。
・娘夫婦との同居を控えて、今の暮らしに執着している。
・いつ死んでもいいが、死に方には執着している。
・空き家になった実家に草が生えその苦情と、家族間の不仲に悩まされ、それらに執着している。

 他人が語る執着は笑えます。そんなものに何で執着するのかと。私の例は「夜中に鹿がやって来てスイレンの葉を根こそぎ食べて、悲しみと憤りに苦しんだ…、」スイレンへの執着です。それを、聞いた人は笑っていました。「何でそんなものに執着するのか?」。人が執着する姿はヒントにはなりますが、自分の執着に気づいて、それを捨てなければ問題の解決にはなりません。
 他人の例を聞いているとよくわかるのですが、「執着が捨てられない」というのは、間違いで「執着そのものが幻想や妄想」「執着が苦しみ」です。それは「自我を捨てるなんて私にはできない」と言っている人がいたとして、その人の言っている自我が幻想であって、もともと有りもしない妄想であるという意味です。

 また、執着とは、何かが足りない、満足していないということです。そこからさまざまな不平不満などの悪感情が生まれます。しかし、そもそもその欲求が満たされることはあり得ません。もし、完全に満たされ状態があったとすれば、それは生命としての成長も終わってしまいます。あなたのまわりに完全に満たされた人など存在しないはずです。「苦聖諦」の真理がそこに見え隠れしています。

 「すべてを捨てるなんて、ほんとうにできるのでしょうか?」と問う人がいます。しかし、逆に「捨てないで持ってられるものが何かあるのでしようか?」
生きることは捨てることです。健全に生きるとは、明るく捨てながら生きることです。
 自分が執着しているものをよく見たら、そもそも執着できないものに執着している姿が見えてくるはずです。執着は妄想です。
 美味しいものを食べたいと食べ物に執着している人がいたとして、美味しいものを食べることが幸福だと思っているのですが、「美味しいものを食べたい」ということ自体が苦しみです。そもそも「美味しいもの」など存在しません。それは、私たちがよく知っていることです。最高に美味しい料理を用意されたとして、それをたらふく食べました。満腹になった時に、それと同じ料理をもう一度用意されたらどうなるでしょうか?「美味しいもの」が存在するなら、きっと何時でも美味しいはずですが、それはあり得ません。「美味しいは何処にあるの?」という根本問題を問うべきです。真理は「美味しいものを食べたい」、それ自体が苦しみ以外の何ものでもありません。最初に苦があるのです。苦こそが真理です。
 自分自身が何かに悩んでいるのなら、その背後に執着があります。悩んでいると気づいたなら、真理を理解するチャンスです。
 何か、悩んでいる、苦しんでいるときに、「自分は〇〇に執着しているのだ。」と理解することが大切です。解決できようができまいが、これが最初の一歩です。大きな一歩です。

 ★執着を捨てる実践
◎執着が苦しみのもとであると理解する
◎自分が何に執着しているのかを理解する 
◎どんな小さなことでも、今ここで執着していると気づく
◎必要という基準で生きる
 「欲しいもの」はなかなか手に入りませんが「必要なもの」は簡単に手に入ります。
◎「少欲」 少欲とは欲が少ないことではなく、必要が少ないこと。必要が少ないと楽に生きられます。
◎「知足」 欲を満たそうとしても、疲れて壊れていくだけです。幸福とはズバリ「知足」です。知足とは、欲しいものがなく満ち足りていることです。何も欲しくないことが幸福で「楽」です。気づきの冥想で、この幸福を知るべきです。何もいらない。何ものにもなる必要がない、ただ今のワタシ。Doing nothing.

 6月のパーリ語勉強会で学んだブッダの言葉で締めくくります。

 スッタニパータ 第五 彼岸に至るものの章 12 ジャトゥカンニの問い 1098-1099

かくのごとく、ブッダは答えた。ジャトゥカンニさん、諸々の執着を捨てなさい。離欲を『幸福である』と見て、執着するものも、執着の対象として捨て去るものも、何ものも見い出されてはなりません。

それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい。未来においては、何ものも、あなたにとって、有ってはなりません。もし、その中間の現在において、何ものも収め取らないなら、あなたは寂静なる者として、世を歩むでしょう。

1098“Kāmesu vinaya gedhaṃ, 
    欲望に対する貪りを律せよ
(jatukaṇṇīti bhagavā) 
         ジャトゥカンニさんよと世尊は答えた
Nekkhammaṃ daṭṭhu khemato;  
         出離を幸福と見よ
Uggahītaṃ nirattaṃ vā,  
         執着するものも、捨てるものも、あるいわ
Mā te vijjittha kiñcanaṃ.  
         何ものもあなたにあってはならない

Yaṃ pubbe taṃ visosehi,  
     それが過去にあるなら、それを干上がらせなさい
pacchā te māhu kiñcanaṃ;  
      未来はあなたにとって何もありません
Majjhe ce no gahessasi,  
     もし、その中間も取らないなら
upasanto carissasi. 1099  
      静寂になるでしょう。

   ※参考資料『執着の捨て方』A・スマナサーラ長老

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ひとり言 | 09:25:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
 子育てと苦聖諦






会の記事ではありません。
吉水 秀樹  安養寺住職 のfbより紹介です。
 




 子育てと苦聖諦

 
 私はもうすぐ60歳になります。私の子育て人間の子育てを見ると『苦聖諦』の意味がよくわかると思います。私は三人の子どもを育てましたがいったいどれくらいのエネルギーを使ったでしょうか? これはシャレになりません。20代に子どもが生まれて、50代子どもが一人前に近づくまで、使ったエネルギーは私の総エネルギーの80%は優に越えていると感じます。気がついたら私は60歳になっています。もし、その苦労して育てた子どもが、新聞で報道されているような犯罪者になったら、親としての苦労はさらに死ぬまで続きます。

 ブッダの言葉に、「欲しいものはなかなか得られない。しかして、苦労して得たもので人は苦しむ」とあります。

...

 さて、子どもを育てているお母さん、お父さん、それでもまた子どもが欲しいですか? 冷静に考えたら割が合いません。この質問は、もう一度生命として生まれ、輪廻したいですか? と同じ質問です。「ハイ私はそうしたいです。」と即答する人は智慧がないと思います。
 しかし、この連鎖が止められるかは疑問が残ります。何故なら、私は美しい異性に出会ったら、このような苦しみを忘れて、求め交尾してまた子どもつくって、愛の名において、一生懸命子育てするだろうと思うからです。

 これは無智のなせる業です。無智から渇愛が生じる、そして老死へと、苦しみの連鎖はそう簡単に止みません。毎日、懲りずに夕食の支度をして食べます。少しの満足が得られますが、満腹苦やさまざまな苦も確実に生まれます。総じて苦しむ時間の方が長いのはまぎれもない事実です。快楽はほんの一瞬、苦しみが消える刹那です。それでも、懲りずに毎日食事を求めます。これも、無明のなせる業です。

 Facebookで現役子育てしている女性のため息のような日記を見て、妙に共感しました。子どものために一生懸命働く、しかし働くことは動物でいう「餌探し」です。仕事で大成して地位やお金を得ても、餌探しが上手なだけで、自慢できたものではありません。自慢げに高級車に乗って、自分も高級と勘違いしてる輩は、哀れとさえ見えます。砂上の楼閣でほろ酔い寿ぎ宴を楽しんでいる人には、迫りくる危険が見えていません。ほんとうにたいせつなことが見えていないのでしょう。
 ブッダが「苦は聖なる真理です」と説いた、その真意を理解して、もう二度と母体に宿ることのない世界へ、自我の終焉へと成長したいものです。

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7月-8月-9月-10月-11月-12月-1月 行事予定




7

7/15--名古屋初期仏教デー スマナサーラ長老-
日本ガイシホーラム 】    和室   
12:30-----------受付開始
13:00-----------開始  前半経典読誦・法話・質疑応答
15:30前後-------休憩15分程度
15:45-----------初心者冥想指導<途中休憩無し> 
            
     各自冥想実践
19:00
~20:00----------後半経典読誦(7ページ)+
          祝福のお経授受  
       後 終了予定 
(都合によります)。





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8月-9月-10月-11月-12月

みんなの冥想会 以外行事予定なし。

<2018-6-26 現在>







 2019年1月14日<月>祝日--
 
名古屋初期仏教デー スマナサーラ長老-
   会場 ガイシフォーラム <決定 2018-07-03>
        【日本ガイシホーラム 】    和室   
  12:30-----------受付開始
  13:00-----------開始  前半経典読誦・法話・質疑応答
  15:30前後-------休憩15分程度
  15:45-----------初心者冥想指導<途中休憩無し> 
            
     各自冥想実践
  19:00 ~20:00----------後半経典読誦(7ページ)+
       祝福のお経授受後 終了予定 
(都合によります)







以上
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