協会の記事ではありません。
吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。
ブッダの冥想より、洗濯物を干すほうが大事!
ブッダの冥想はありのままの自分を観察することです。それは理想の自分を見るのでもなく、なりたい自分の姿を見ることでもありません。今朝、坐る冥想していたのですが何時になくこころが落ち着きません。思考が多くておさまりがつかず、呼吸に集中できません。50分も経過しているのにどうしたことだろうと少し焦っていました。そのとき、「あっまたしてもありのままの自分の姿を見るのではなく、こうであって欲しいという、今ここにない理想を追っている。」と、静かに気づきました。
実は今朝、坐るときに洗濯物のことが気になっていました。いい天気になってきたので洗濯物を干したいと思っていました。しかし、冥想に比べたらつまらないことなので、そんな私の考えを無視して坐りはじめていました。そのときにはじめて、「私はブッダの冥想より、洗濯物を干したい!」と思っているありのままの自分に気づきました。そして、それを認めたらその欲はものの見事に消えて、こころが静まりました。
皆さんは、私のことをアホな坊さんと思いますか? 十年、初期仏教の冥想を続けている私のありのままの姿です。
そういえば、ニャーナラトー師が初めて私の寺に来てくださって法話をされた時に、チョコレートの話をしてくださいました。タイの田舎の僧院に誰かが布施でチョコレートをくださって、タイの田舎でチョコレートはたいへん珍しくて、みんなで割って分けて、一人一欠片のチョコを食べられたそうです。それが美味しくて、居間にあと二欠片ほど残っていたらしいです。師が次の朝に冥想をしていた時に、その残ったチョコのことが気になって、こころが落ち着かなかった…、たしかそんな感じの温かいエピソードでした。
冥想で気づくありのままの自分の姿は、決してブッタの姿のようなかっこいいものではないようです。いつでも、たとえそれがどんな姿であっても、ありのままの自分を認めることが、ブッダの冥想のいろはのいのようです。
Q:一年前くらいに初期仏教を知りました。書店で見ると大乗仏教が主流で、お釈迦様が貶められているようで怒りを抱いてしまいます。大乗仏教と付き合っていくにはどうしたらいいでしょうか?
スマナサーラ長老の仏教法話
@jtba_talk 9月23日
A:気に入らんものがいらんと思ったら、この世で生きていられません。この世は嫌いなものばかりです。いろんな理由があって、いろんなもの[ごと]が起きているのだから、落ち着いているしかないんです。
中国や朝鮮半島、日本など[インド文化と]まったく違った環境で、仏教が生き伸びていかないといけなかったんだから。モンゴリアなどの仏教も全然違うし。それらは、お釈迦様の教えと比べたら違うというだけで。世の中は気に入らんものだらけですよ。それにいちいち怒っていたら自分が潰れてしまいます。
仏教の『慈悲の瞑想』で培うのは、それぞれの生き方を認めて放っておくということです。たとえば「お化粧好きの男性はおかしい」と腹を立てることはないのです。相手からかかってこない限り、放っておけばいいのです。関わり合いにならないのが一番だけど。
私も、大乗仏教の人が変なこといって批判して来たら対応しますけど。世の中では悪いこととされることをしてる人も、「悪いことしてる」と思ってないんです。麻薬やってる人も、コンビニ強盗する人も、それなりに自分を正当化する理屈がある[ものです]。
「これはよくない」とホントに思っていたら、できないんです。人がやっていることに、これは正しい・間違っていると突っかかると、自分が潰れます。「勝手にやってください、私は知りません」という態度でいるしかないのです。
バイクで暴走する人がいます。迷惑だけど、スピード出したければ、人がいない山でも行ってハチャメチャ走れば。暴走族を完全に禁止する、とかまで行かなくてもいい。彼らは無茶スピード出して走るのがかっこいい、と思っているんです。周りはハタ迷惑。それを理解してくれれば、何とかなるんですけど。
世の中を観たら、気に入らないものがたくさんあります。役柄として批判する役周りの人がいるし、黙っている人もいるし。私は大乗仏教とお釈迦様の教えを比較して、「これが間違っている」とかいうかもしれないが、それは私の仕事であって、皆さんの仕事ではないのです。
暴走族を取り締まるのは警察の役割です。我々の役割は「なんとかしてくれ」と苦情をいうだけ。「世の中の間違いを正すべき」と断言的には言えないのです。みんな間違いを犯しているんだから、キリが無くなります。しかし大勢に迷惑かけている人がいたら、それに対処する役割の人がいるんですね。
自分が警察官になる必要はないのです。子供が悪いことしたら、正すのは親の役目です。我々は自分の役柄を理解すること[が肝心です]。世の中みんな間違いを犯しているんですから、「まぁまぁ、勝手にやってください」と、穏やかな気分でいないといけないんですね。
大乗仏教も、教えはおかしいところがたくさんあるけど、社会には迷惑かけないんです。真言密教から出てくる怪しい坊さんはいるが、個人的にやっている[だけ]。真言密教の本山(高野山)が認めているわけではなくて、個人が悪いだけです。
時々、葬儀で高額のお布施を取る坊主もいます。その個人の坊主を批判すればいいだけ[でしょう]。本山で高額の布施を取れと言っているわけではないんです。「布施は気持ちです。気持ちは500万円です」とかね。それは大乗仏教でもテーラワーダ仏教でも、教えに反しています。
相場を気にしたら、それは[お布施ではなく]商売です。どこかの宗派の本山が「布施の額はこれだけ」とか決めたら、それは布施ではなくなってしまう。でも、[どの宗派の本山も]そんなことはしていないんです。
世の中では自分の気に入らんことがほとんどです。気に入ることはホンのわずか。それにいちいち腹を立てたら自分が潰れますよ。だから、「それぞれの生き方を認めて放っておく」ということが大切なんです。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
<大仏とやっさんとやさしい教え>
9月24日 金沢 スマナサーラ長老講演
「身体の症状は緩和、心の病は完治」
石川県立音楽堂へ、スマナサーラ長老のお話を聞きに行って来ました。
「私は何を言うかわかりませんですから…」といつも通りに始まった講演。
難しそうなテーマでしたが、長老のお話はそれ以上に難しいような…聞く側(僕自身)の問題かな。
多くの人が、完全に健康でないと困ると思っている。
けれど、人は病気になるもので、病気と付き合って生きるしかない。
私たちは日々、壊れる身体を修復しながら生きているに過ぎない。
身体はとっても健康なのに、
その管理者である心が病んでいる人は、とても多い。
心が病むと、身体まで病んでしまう。
だから大馬鹿者である心の病をなくし、正しく修復させる必要がある。
人は現状維持を強く望むけれど、この世は無常なのだから、不変に執着すべきではない。
常に変化を受け入れなくてはいけない。病むこと、そして老いることを受け入れ、それを楽しむ。
心は、変化が理解できない、無常が理解できない。すべては瞬間瞬間変化していくものであり、固定されるものはない。変化を認め、変化に対して臨機応変に挑戦しながら、死へ向かう。
自我を捨て去れば、病という概念もなくなるかも。
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秋彼岸 十波羅蜜
2018年9月 安養寺住職 吉水秀樹
今年の秋彼岸は、原点に帰って「波羅蜜」について法話します。初期仏教を学んで、大乗の六波羅蜜の教えを、まったく新しい新鮮な角度から見ることができるようになりました。今回はその大筋をお話します。
そもそも、彼岸のことを「パーラミター」pāramitā と言います。これが「波羅蜜・波羅蜜多」と漢訳されました。所説ありますが、簡単に言うと。「波羅蜜」とは、人格の完成・人格の最上の状態・涅槃のことです。「パーラ」Pāraが、向こう岸という意味を持っているので、「彼岸」とか「到彼岸」とも訳せます。
彼岸とは涅槃のことで仏教の理想です。反対の此岸が、私たちが暮らす迷いの世界です。間にある川とは私たちの人生です。少し厳しいですが、この世で普通に社会生活をする、良き夫として仕事をし、良き妻として子どもを育て家事をする、善良に生活することは実は川の流れのままに流されることです。決して向こう岸には行けません。スポーツで世界王者になっても、あり余る富と権勢を得ても、それは川の流れの中の話し、輪廻の中の話しです。ですから、仏道を歩む者は、そのような世俗の価値観を離れて、川の流れに関係なく向こう岸に渡らなくてはなりません。その川を渡って彼岸に至る為に必要な十の項目を十波羅蜜(六波羅蜜)と言います。
多くの日本の仏教者は、六波羅蜜を努力目標とか、修行項目のようにとらえていると思います。これは間違いとは言えませんが、ともすれば、「それはできる。それはできない。」と言うような、表面的な理解に陥ってしまいます。
まず、肝心なことは、「波羅蜜とは性質のこと」と理解することです。性質ですから、できるできないに関わらず、そのような資質を自分で意識して育てるのです。なぜ、これが肝心なことなのかは、実際に仏道を歩む修行をすれば自ずと理解されます。このような性質が正しいヴィパッサナー冥想の実践で自然にあらわれてきて、修行を後押しする自分の性質として備わって行くからです。これがこころの成長、修行に違いありません。
それでは、項目について簡単に説明します。なお、この項目じたいに所説がありますので、参考程度として、詳しくは自分で調べてください。
波羅蜜 Pāramitā 彼岸 pāra
① 布施波羅蜜(dānaダーナ)=他人を助ける。他に優しくする性格。
② 持戒波羅蜜(sîlaシーラ)=道徳を守ること。道徳を守るという性質。
③ 忍辱波羅蜜(khantîカンティー)=あきらめない。やり遂げる性質。
何か目標に向かうと、必ずそれを妨げるものが現れます。たいては「欲」です。そのような欲望や「怒り」に負けずに、邪魔するものを振り払う性質です。そうして、目的に達するまで着々と進むのが次の精進波羅蜜と言えます。
④ 精進波羅蜜(viriyaヴィリヤ)=目的を達するまで着々と進む性質。
⑤ 捨波羅蜜・禅定波羅蜜(upekkhā)=感情に左右されない。こころの落ち着きこそが大切と理解する性質。
⑥ 智慧波羅蜜(paññāパンニャー)=真理を発見すること。 般若波羅蜜 知識とは似て非なる物です。知識は蓄えられますが、智慧は蓄えることも持つこともできません。知識は便利な道具ですが、知識がありのままの叡智を邪魔します。世界にある「美しさ」が見えないのは知識のせいです。知識は残忍さに対する感性を失わせます。知識をどんなに積み上げても、幸福には至ることができません。教育とは知性を鋭くして抜け目のない、欲深い人間を育ててしまいます。
⑦ 離欲・厭離波羅蜜(nekkhamma nikāma-ya)=世俗の欲に未練を感じないこと。若い頃好きだった、バイクや車への関心は捨てました。趣味も私から離れて行きました。離欲が幸福と見えてきます。そのような性質です。
⑧ 真実波羅蜜(sacca)=いかなる場合でも嘘をつかない性質。仏道を歩むと、嘘がつけなくなります。嘘をつかないという努力目標ではなくて、嘘がつけなくなる性質を育てることです。
⑨ 確立・決定波羅蜜(adhṭṭhāna)=優柔不断を克服。何かを決められる性質。タバコを止めると決めたら止める。お酒を飲んだら、運転しないと決める。浮気をしていたが間違いと気づいたら止める。そのように軽やかに決めたら、あと戻りしない性質です。
⑩ 慈悲波羅蜜(mettāメッター)=生命を慈しむ。これは説明不要ですね。生きとし生けるものが幸せでありますようにと常に念じる、そのように性質を育てる。
お彼岸は四季のハッキリした日本独特の仏教行事です。日本の仏教にもこのような素晴らしい、仏教週間があることを誇りに思います。
南無帰依三宝 吉水秀樹 拝
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<大仏とやっさんとやさしい教え>
2562年9月16日 マーヤーデーヴィ精舎
『人生はお気楽に、やるべきことをやればいい。自分勝手に無謀なプログラムを作り上げ、その通りに事を進めようとするから無理が生じてしまうのです。自然の流れに従いながら、自分に課された義務を果たしていれば、それなりにうまくいくのです。結局「まぁまぁかな…」くらいでいいんです』
なんだか最近、いろいろと忙し過ぎて嫌になります。でもそんな忙しさは、自分自身が演出したものではないのかって疑たがってみました。忙しくない仕事は仕事じゃないって自分で決めつけてはいないか考えてみました。それは意味のない執着なのかも知れません。
『ユニコーンの角に執着する意味は、どこにもないのです。執着する対象そのものが、実は存在していないただの幻に過ぎないのです。その考えを捨て去れることで執着は消えてしまいます』
日々、勘違いしていることが、意外に多いと感じます。自分は正しいとする妄想がいつまでたっても消えません。これは由々しき問題です。
『世俗的道徳と仏教的道徳は違います。世俗的には、破壊をした ⇒ 仏に対して失礼なことをした ⇒ 地獄に落ちて苦しむ。でも仏教的には ⇒ 破壊した ⇒ (もともとダメな人だったんだから)今度はがんばりましょう、で終わり』
仏教はとてもやさしいです。
私は不善な行為をしてしまうものだから、不善をしないよう努め、善に励むこと。それだけです。
今回の法話もとっても楽しかったです。
そしてよく学べました。
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「なぜ息をするのか?」
普通に考えたら、「酸素をすうため」と答える人が多いと思います。しかし、私は「酸素をすうぞ!」と考えて息をしているわけではありません。もちろん、苦しいから息をしているという自覚もありません。知識のない赤ちゃんでも、肺のない生命でも呼吸をしています。
素潜りが好きで今年も海に潜りに行きましたが、深く潜りすぎて危険な目に合うことがあります。苦しくて、水面にたどり着く前に海水を飲んでしまって苦しみをとおり越して、恐怖を感じることもたまにあります。そのときは、息をすることで死の恐怖から逃れられたと実感する瞬間です。
自殺を希望している人でも、息ができなくなったら苦しくて、息をするだろうと思います。「死にたくない」というのは、思考の領域を越えた生命に共通する何かだと思います。
長老の言葉に、『生命ははじめから惨めなもので、「なぜ食べるのか?」「なぜ呼吸するのか?」「なぜイスから立ち上がったのか?」「なぜまばたきしたのか?」…、すべての行為は苦しみから逃れるためなのです。』とあります。
アミーバの細胞の伸縮も、私の筋肉の膨らみと縮みもどうやら、同じルーツのようです。世の中の人々のすべてのいとなみも、この苦しみから逃れるための伸縮と観察できます。
地球の公転などの天体運動は何が原動力なのでしょうか? よくわかりませんが、「老死jara-maraṇaṃ → 無明 avijjā → 行 saṇkhārā 」の絡みとまったく無関係ではないように思います。というわけで、この世を支配しているのは、「愛」というより、「苦」dukkha だと私は思います。
※「みーんな生きとし生けるもの!」参考
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無常偈
諸行無常 aniccā vata saṅkhārā 色は匂えど散りぬるを
是生滅法 uppādavayadhammino わが世誰ぞ常ならむ
生滅滅已 uppajjitvā nirujjhanti 有為の奥山今日越えて
寂滅為楽 tesaṃ vūpasamo sukho 浅き夢見し酔ひもせず
無常偈は言うまでもなく、仏教思想の根本となる偈文です。最近知ったことですが、テーラワーダ仏教では葬儀式の時に必ず読まれるそうです。私の寺では先代から口伝された告別式の引導文があるのですが、実はその中にもこの無常偈が使われています。テーラワーダ仏教と日本の浄土宗の寺にもちゃんとブッダの教えの共通項があったわけです。
その部分は私も暗記しています。
『嗚呼、無常なり諸行は生と滅とは一致する、生じては滅し、滅しては生ず。この寂滅がすなわち安楽なり。』です。
漢訳の漢字16文字では見えない内容が、元のパーリ語を読むと理解できます。
たとえば、一文字目の「諸」はどこから来ているのでしょうか?
saṅkhārā が「行」に当たります。saṅkhāra が元の語です。āとなっているのは複数形を意味します。そこで「もろもろのサンカーラ」なので「諸」という漢字が当てられたのです。もっともsaṅkhārā「行」の意味がとても広いくて深いです。この場合の「行」はおそらく最も広い意味で使われています。目に見えるものや認識の対象となるすべて、つまりこの世のすべてという意味でしょう。ただし、そこは実際に冥想によって、すべての現象を観察する実践をしないと空論になってしまいます。
aniccā は元の形は、niccaであって、「常」です。aは否定の接頭語で「無」です。「常で無い」という意味で「無常」となります。vataは副詞で「実に」という意味です。そこで、「もろもろの現象は実にうつろい壊れゆく」といった日本語訳がすんなりと理解できます。
さて、この無常偈は「いろは歌」としても有名です。いろは歌はお釈迦さまの前世物語の「雪山童子」の物語として語り継がれています。お釈迦さまの前世で雪山童子であったとき、ヒマラヤの奥で修行されていました。冥想していたら、羅刹(人を喰う妖怪)が歌を詠みます。これが無常偈の前半です。
「色は匂えど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ…」
童子はこの偈がただの詩句ではなく真理を説くものと直観し、羅刹に偈の続きを聞かせてくれと頼みます。羅刹は教えてやるが「教えたらおまえを喰いたいので命をくれ」と言います。童子はこの偈の後半を聞けば解脱に至ることを直観し、真理を知らば身体に対する執着も消えるので羅刹に後半の偈を聞かせてくれればこの身をおまえにやると言います。
羅刹は後半の偈を読みます。
「有為の奥山今日越えて 浅き夢見し酔ひもせず」
すべての偈を聞いた童子はその場で真理を理解します。そこで、羅刹に無駄な殺生をさせない為に、自ら崖から投身します。そのとたんに、羅刹は帝釈天に姿を変えて童子を救い取り、後生にこの真理を人々に説くように雪山童子に頼んだというお話です。このような歴史があって、現在私たちが無常偈に触れることが出きるのかと思うと感慨深いです。
さて、後半の偈は、生じては滅し、滅しては生じるこの有為の世界では、得した損した、儲かった損した、美味しかった不味かったの感情の流転(輪廻)に終始し、そこには本当の幸福などはない。ほんとうの幸福とは、この生じては滅する、滅しては生じる、生滅の連鎖反応が完全に終止した、もう二度と母体に宿らない寂滅(涅槃)にある。これこそが真の幸福であると説かれてあります。なるほど仏教思想の根幹に違いありません。
※お彼岸の法話の抜粋です。
安養寺住職 吉水秀樹
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冥想 ―思考と記憶―
先日、台風21号のあとの落葉を焼却炉で焼いていたら、煙が多かったせいで誰かが通報したらしく、警察と市役所の方が注意に来ました。正直不愉快な出来事でした。とくに若い役所の職員の態度が横柄に感じて、私は内心いらだっていました。翌朝の冥想で気づいたこと…。
日常では気づき難いですが、思考妄想はひっきりなしに続くものではなく、思考と思考の間に空間があります。冥想では、この一見無価値な刹那の空間を見つけることが大切です。「気づき」とか「観察」と呼んでいる実際は、この空間の発見が入口です。この空間を発見したら、一つの思考が明確に見えてきます。つまり、その思考がどのようにして現れたのかという因縁が見えてきます。
たいてい私たちの思考は過去の不完全な記憶、感情に基づいて現れます。そうして、その過去を容認したら未来も容認してしまいます。
そのときの私の妄想は完全なゴミであり、その思考妄想の元になっている記憶(感情)も百%のゴミだと納得しました。納得したら捨てることもできます。納得しないとゴミに価値見出して、大切にしまって置くはめになります。
「私が思考している。私の記憶。」と言うとき、これは危険です。なぜなら私は悪くなく、悪いのは、「相手であり、思考・記憶だ。」と言うのです。そうして、自分を守って自我を強めてしまいます。私がゴミであり、私が愚かで、私がガンだと、認めないのです。
ご承知のように、過去と未来という二つが存在するわけではありません。実さいにあるのは、明確に分けられない不完全な意識と無意識という一つの状態だけがあります。私の過去も私が勝手に考える人の過去も、私の考えている現在も、すへてが不完全で(すべてのサンカーラ)それらの記憶の反応が意識てあり、意識とは過去のものです。
そうして、過去を掴んだ瞬間に、私たちは未来も手にしています。未来は修正された過去であり、そこに安らぎはありません。問題解決の糸口は新たな条件づけをつくらない、今ここの発見にあると思います。
協会の記事です
6.「三帰依文の由来」
~仏教は自己責任で帰依します~
<A・スマナサーラ長老>
2001年5月、関西地区 初期仏教宿泊実践会(丹後 宝泉寺会場)での説法。
仏弟子会、関西交流会のメンバーの方々でテープ起こしを分担し勉強してみましょうという作業の一部です。だいたい、ご説法のままの編集です。この前日や後にも関連の大変大事なお話がありますが、データが出来た分だけお読み戴きたく、インターネット瓦版です。やがては合わせ然るべく編集され、長老に加筆修正を戴いて、まとまったものに成ればと願っております。(文責、管理人)
ブッダム・サラナム・ガッチャーミ <私は仏陀に帰依いたします。>
ダッマム・サラナム・ガッチャーミ <私は法(真理)に帰依いたします。>
サンガム・サラナム・ガッチャーミ <私は僧(聖者の僧団)に帰依いたします。>
何気なく形ばかりに唱える言葉、そんな程度に思われがちなこの短い簡単な言葉が、説法を聞いてびっくり仰天、仏教徒とは、こういうものかと納得してしまいます。
●希望と欲望
昨日の話でナモータッサと言う、お釈迦様に挨拶をする行の挨拶文句の意味の話をさせていただきました。
今日も同じ話を、つまらないかも知れませんが、続けて言おうと思っています。
昨日は、話しのついでにいろいろな大事なポイントを申し上げましたけどね。
なぜ祈りをするのでしょうかとか、祈りの裏に人間には苦しみというものがあるんだと、希望というものがあるのだと、世の中で生きている場合には希望というものがあってもかなうわけではないし、苦しみというものがあっても消えるというわけではないし、ひとつのことが消えると何か新しいものが出てくる、希望というものがあればある程、なかなかうまくいかないということが出てきます。さらに悲しくなってしまうんです。
「そもそも希望というものが問題である」と、お釈迦様はおっしゃっているんです。
希望するということはありえないことを希望するんです。これは人間がやっている、ちょっと可笑しいことなんです。あり得ないことを希望してしまう。で、問題があり得ないことであればある程、希望が強くなってしまうんです。
まぁ例で言えばわかりやすいと思います。例えば、子供が生まれたとします。障害があるとします。とにかく障害があるんだから仕方がない。死ぬまで。
それでもなんとか方法はないか。なんとか直してもらう方法はないかと、もう希望が出てくるんです。
たとえば、子供が元気でいるんだけれど、ちょっと風邪をひいてしまった、とします。そんなに希望が生まれてこないんです。「子供はどうですか?」「あぁ、ちょっと風邪をひいて寝込んじゃっているんだよ」と。平気でいるんです。何故かというと、もぅその内に治るんですよ。ですから、そんなに希望しません。
で、もし風邪もひいて熱もでて、なかなか熱は下がらない。医者も、なんだか全然わからない。「これは大変危険だよ」と言ってしまう。もう病名もわからないんだ、心臓も弱くなっているんだと言ったとたん、とにかく藁にもすがる気持ちになってくるんです。なんとか方法はないかというふうに希望がわいてくるんです。ですから、希望のからくりというものは、だいたいあり得ないものについてなりたつのです。それでどんなにお祈りしたとしても、神社に来てお祈りしても、寺に来てお祈りしたとしても、あり得ないものはあり得ないんだから、叶わないんです。
それで、お釈迦様が出した答えは、「もう少し我々は具体的に世の中のこと、自分の周りのことを研究してみましょう、研究してみると希望がなくても良いのではないか」と。
例えば御飯を作ってから、「どうぞこの御飯を食べたら、私のお腹が満腹になりますように」とか、誰もあまり希望しませんね。あたりまえのことだから。食べたら美味しいし、満腹にもなるし。
でも、お金がなくて、毎日同じものばかり食べていると、あまり美味しくないし、つまらなくなってくる。そうすると、なにか美味しいものが食べられたらいいなぁ、と希望が出てくるんです。
もし美味しいものが食べられる能力があるんだったら、もうとっくに食べているんです。そういう能力がないのだったら、毎日同じお茶漬けだとか、お新香だとかで、御飯を食べているかもしれません。でも、毎日お茶漬け食べちゃうと、これはちょっとねぇ。もう食べたくなくなってしまうんですね。
でもおかずを一つ二つ買えるお金があるんだったら、必ず買って食べるんです。
それで、何か無いかな、なにかないかな、という希望が湧いてくるんです。「なにかお金が入る方法でもないかなぁ」とか。ですから、希望というものはそういうふうなもので、あり得ないものについて希望というものはなりたつのだよと。
それで、希望が出てくると、必ず先にあるのは、叶わないという、失望感ということなのです。失望感というものは凄いきついものなんです。人は様々なものだから、希望が出てきたら無茶頑張ってみる人もいます。その希望が叶うまでは、とにかくなんでもかんでも頑張ってみます。そこで必死になって頑張った結果、叶う場合もあるし、叶わない場合もあります。それは努力次第であり、条件次第なんです。
その時も希望が叶うために、物凄く苦労しなくちゃいけない。なぜならば、もともと自分にとって希望というのは無理な話なんです。この無理な話しなんですけど、めげずに頑張っているんだから、人生でかなり無理をやっているんです。勿論、必ずしも叶わないというわけではないんですよ。努力すると叶う場合もあります。しかし、百万の希望でひとつくらい叶っても、叶う為には凄く苦しい過程を経なくてはいけないんです。それで、生きることの柔軟性、楽ということが消えてしまうんです。気楽で気持ちよく、単純で、簡単で生きていられる、ということを失ってしまうんです。
ですから、お釈迦様は「希望のからくりを勉強して下さい、明確に見て下さい。そうすると、希望を立てなくても、人間は生きていられるんだよ」と仰いました。
昔は私は、希望、希望という言葉を使って説法していました。ところが、かなり批判されました。かなりどころではなく批判されたということがあります。「希望がなければ、人は生きていられませんよ、そんなことをいわれては困りますよ」と。そういわれたところで、「私も困りますよ」と、独りで考えて、「あぁ、でもなんで希望がそんなに有り難いんでしょうか」と聞いてみても、喋るのはみんなぺちゃくちゃ喋るんですけど、日本語がわからないんですね。私は外人なんだから、日本語の意味くらいは教えて欲しいんですね。あぁ日本語はわからないなぁ、と思って、それで、後で考えて欲望という言葉に入れ替えようと。そうして、「欲望はよくないんだ」と。そうすると、「それならわかりますよ」と。でも結局は同じことを言っていますけどね。欲望と希望の間、そんなに差がないんです。
ただ、聞いている方々が日本語わからないだけで。欲望といえば悪いもので、希望といえばいいものだ、と。だからまぁ、「まぁ仕方がないなぁ」と、困ってこの言葉を使っていました。だから、皆様方でも、「欲望なしに生きてはいられない」と言ってしまうと、これは困るんですね。「欲望という言葉はいやですよ」と。でも、どちらでも機能としては同じことなのです。
一応、希望は無くても生きていられます。
希望ばっかしで生きている人は、生きていないのです。希望のために踏ん張っているだけなんです。希望を実現するために必死になって踏ん張っているんです。だから生きる時間が無駄になります。我々の生きる日にちは数えられたものです。無制限に生きられるわけではないのです。何日生きられるかということは、もう知られたものです。一日だけでも希望のために踏ん張ってしまうと、その一日は生きることは出来ないのです。後回しにするんですね。今日一日頑張って、明日希望がかなってから、楽しくなるんだぞとかいう。ですから日々楽しく生きるんです。日々気楽に生きるのです。日々何に出会っても、ああこういうことに出会ったんですか、こういう問題ですか。じゃあ、これはなんとかしましょう。そういうふうにそれぞれの日々、毎日毎日、いや日々といったって、毎日という意味ではなくて、毎分毎分ごとに問題が出てくるのですから、それをひとつひとつ解いていく過程をね、楽しんでいれば、凄く気楽に楽しく生きていられるんです。我々は問題に出会ったらお手上げだと、どうにもならないと、そう思う弱みが問題なのです。逃げるのではありません。なにかに出会うということは、必ず問題に出会うことなんですから。人生というのは、問題とぶつかることが生きることなのです。
●問題と解決
だから、仏陀の定義を聞いて理解したほうがいいんです。仏陀がまったく新しいことを教えているんです。世の中の本などを読んでみると、生きることは素晴らしいことです、と平気でいいます。根拠も証拠もなにも出しません。何故素晴らしいのですか。お釈迦様は凄く具体的です。生きるということは、よく研究してみると、毎日毎日問題がある。なんでも問題。それをひとつひとつ我々が解決していく。そして振り返ってみると歳を重ねて死にかかっている。それが生きるということなのです。
お腹がすいた。それは問題でしょう。お腹がすいたのだったら、ご飯を食べなくてはいけない。空からご飯は口の中にふってこないのだから。問題が起きるでしょう。お腹がすいたことも問題ですし、ご飯を食べなくてはならないと答えが出てくるんだけれども、それもまた問題なのです。作らなければいけない、とかね。作るにしても材料を買ってこなければならない。料理をしなくてはいけない。いろいろ問題が次から次へと出てくる。それをひとつひとつ解決するのでしょ、生きるということは。
部屋を掃除したり、洗濯したりということも同じことなんです。はい問題だ。部屋が汚くなってしまったんだ。それで掃除機をかける。そうすると時間がなくなってしまう。服が全部汚れている。洗濯しなくてはいけない。それで時間がまたなくなってしまう。それで一日が終わってしまうのです。それで人生が全て終わってしまうんです。
だから、毎日なにか、なにか、なにか、なにか問題があるんです。そのその問題をきちんと解決していくことで良いのではないでしょうか。ですから、どんな問題が起きても気楽になんとか解決して、なんとか解決して、置いておくんだ、と。明日に希望を作ったところで、明日も問題しかないのです。だったら、明後日に希望をしますといったところで、あさっても問題にぶつかるしかないんです。死ぬときまで。
ですから、希望をつくってしまうと、問題の上にさらなる余計な問題が成り立ってしまうんです。希望というものは前に説明しましたが、だいたいありえないことに希望が出てくるのです。ですからこれは大変なことなのです。日常生活でさえ苦しいのに、もの凄く余計な苦しみが入りこんでくるのです。そういうものは置いておいて、楽に生きる技をお釈迦様が凄く合理的に教えているのですね。
●不安定な状態と欲望
昨日の話の続きでしたけれど、人間というのは苦しみがあって、希望があります。それで祈ったり、宗教に走ったりと言うことが出てくるということは説明しました。で、お釈迦様がそういう問題になんとか解決方法はないかと思って、出家して修行して、さとりという心の開放した状態を発見するのですね。その悟りという開放した状態を発見したら、お釈迦様の問題は全部消えてしまったんです。それでなにも努力をしなくても凄く気楽に、ものすごく穏やかな気持ちでいられる。で、お釈迦様によるとお釈迦様のこころの安らぎというものは、なにが起きても壊すことはできない。なにが起きても、心はいつも穏やかで平安なのです。
どういうことかというと、希望をつくることは欲が希望を作るんだと。満足しない気持ちが希望をつくるんだと。ものに満足しない。人生に満足しない。いつでも満たされていないという気持ちでいる。これが心の問題だと。満足しないのは何故かといえば、満足することができないからです、この世の中で、生きるうえで。不安定な状態で、不満足な状態で心が出来てあって、ものごとは不安定な状態で出来ているんだと。
地球は不安定だから自転をしているんです。それで日夜がなりたつんです。太陽は不安定だから燃えているんです。それで我々には光があるんです。太陽が落ち着いてしまったらどうなるのでしょうか。太陽というのは凄い爆弾でしょう。ものすごく恐ろしく原子核融合して、おそろしく爆発しながら燃えているんです。不安定だから燃えているのです。燃えてエネルギーを出すと、さらに不安定になって、次から次へと燃えて燃えて燃えていくのです。それでわれわれには光があるし、生きているし、滝も流れるし、川も流れるし、エネルギーもあるし、われわれが使うエネルギーがどんなエネルギーであれ、結局は太陽のエネルギーでしょう。不安定でないならば成り立ちません。地球の自転もなりたちません。全てのものは不安定だから、変化している。安定しよう安定しようとする。でも、安定というものはありえないのです。
どんな状態でも不安定な状態なのです。心は不安定なものを使っています。体も不安定な体、食べ物も不安定なもの、変化するのですから。なにからなにまで不安定なものに管理されているのが心なのですから、心も不満というものを感じているのです。納得いきませんと。ご飯を食べても100%美味しいということはありません。100%満足ということはない。何をしても100%満足ということは、心は得られない。それが心なんです。ですから、心には徹底的に不満という状態があります。物質と体には徹底的に不安定という状態があるのです。心は不満だから、不安定である物質に対しては激しく不満になってしまうんです。気にいらない。
高価な服でも買う。あまりにも高くて、勿体無いといって箪笥に入れておく。一年くらい経ったところで、大変大事な出来事があるので、あの服を来て出かけてみましょうといって、とってみたら、もしかしたら虫に食べられているかもしれません。あるいは、子供が、遊んでいる途中で箪笥に入れたりする。なにかに引っかかってしまって、ちょっと破れている可能性もあります。ボタンひとつが執れてしまって、ボタンがどこにあるか見つからない。服だから決まったボタンでないと駄目なのです。なんでも良いわけではないのです。それで着られなくなってしまう。ものが不安定だからそうなるんですよ。そうすると買った人はどんな気持ちになりますか。そんなことでは納得いかないでしょう。そういうことが人生には確実にあることです。どう頑張っても変えることはできない。でも、われわれはそれは理解しようとしない。理解しようとしないものだから、こころの中でずっと欲ということが出てしまうんです。「満足したいなぁ」と。「もっと綺麗になりたいなぁ」と。「もっと美味しいものを食べたいなぁ」と。「もっと綺麗な服を着たいなぁ」とかね。「もうちょっと何とかなってくれないかなぁ」と、そういう気持ちはずっとあるんです。家族についても、社会についても、誰についても。「もうちょっと何とかなってくれませんか」と。それを「欲望」と呼ぶのです。
だからお釈迦様は真理としてそういうものを語ったんです。それは科学的な真理で、これを違うと言える人はいません。違うと言う人がいるならば、実際いるんですけど、嘘を言っている。物事をはっきりみないで、はっきり計算しないで嘘を言っているだけ。
そういうことで、人間がどうすればいいかというと、こころが不安定なもの、不完全なものに対して不安を持たなければいいでしょう。ほっておけばいいでしょう。どうせ壊れるものだから。壊れて欲しくないと希望しなければいいでしょう。だからその心の訓練を受けてしまうと、心が安らぎということを感じるのです。心から不満という状態が消えてしまうんです。それで苦しみも一緒に消えてしまうんです。
まぁ、お釈迦様の基本的な教えはそれだけなんですけれど。
●悟り
それでお釈迦様が真理を発見して全宇宙、全生命に対する、すべての生命の苦しみのもとが見つかりました。いかなる生命でもなぜ苦しんでいるのでしょうか。私はもう見つかりました。それでなくす方法も見つかりました。もう私のこころは、するべきことは全部し尽くしてしまいました。ということで、悟りを開くんです。
悟りを開いたら、それ以後は喜びですから。別になにも不満もないし、あれをやらなくては、これをやらなくてはという強迫観念もないし、そのまま座ったままで一週間いたんだそうです。一週間、菩提樹の側で。
それからまた一週間は立っていたのだと。立ったまんまで一週間いたとしてもなんのこともない。
それから一週間立った場所と座っていた場所との間で歩いていたんです。
四週間目になって、菩提樹から少し離れて、少し離れた場所で座って、世の中の真理というのは何なのかとずっと観察したんです。そこでお釈迦様が説法するときの、あの巨大な哲学、言語になったのは、もしかしたらその一週間の観察だと思います。因果法則、特に因果法則ですね。人間に語らなくてはいけないんだから、人間の心の状態やら、存在の状態やら、物質の働きやら、何から何までこういうふうでこういう働きでこういうものだと。心はこういう働きがあって、体はこういう働きがあって、それを全部明確に観察したんですね。伝統的に言えば、アビダルマ論をそのとき初めてお釈迦様が考え出したんです。アビダルマと言ったとしても本当は後で出来たものなんですけれど、仏教の真理はその時一応整理したのだと思います。仏教の真理ではなくて、世の中の真理をね。
そのように七週間、お釈迦様が悟ってから、いろいろなさっていたのです。なさっていたのではなくて、七週間なにもご飯をお召し上がりにならなかった。49日間。断食したわけではないんです。別にそんな気持ちもないんです。満たされている気持ちがあるんだから。お釈迦様が凄くきつい断食をしたと思ったら、それは違います。でも何も召し上がっていない。それで痩せたわけでもないし、何のこともないし、まぁまぁいいやということでね、悟ったその反応というか、反動で七週間もなにもせずに冥想ばかりしていたのです。
●ブッダン、サラナム、ガッチャーミ。ダンマン、サラナム、ガッチャーミ。
誰かから鉢をひとつもらいました。出家者だから。鉢といっても土で出来た鉢ですけれど。鉢をもらって、では何か食べてもいいかな、という気持ちになったでしょう。そのとき商人ふたりが、そのあたりに、どこかに商売にいく途中で、お釈迦様が木の下に座っているのをみて、なんか凄い姿でいるのをみて、出家者にお布施をしなくてはということで、食べ物をお布施したんですね。食べ物といっても、われわれの伝統では、米を煎るとポップコーンみたいに出来上がってしまうのですけれど、それはそのまま食べられるので、それに蜂蜜をかけて、お釈迦様に寄付したのです。別にお釈迦様であるとかないとか解っているわけではないんですけれど、あまりにも惹かれて。それがお釈迦様が仏陀になって最初にいただいた食事なんです。かなり日にちが経ってから。で、その食事は向うが勝手にお布施したのですが、なにかお返しをしなくてはいけないんですね。それでその二人にちょっとこそこそとお話をしたんです。
普段、インドの文化では出家者にいろいろお布施をするのですが、その見返りに出家者から凄い教えを教えてもらうようなことを期待はしないんです。出家したひとは出家して間もないのかもしれないし、まだ修行真っ最中かもしれないし、ときには修行を通して全く喋らない人もいるのです。だから出家というのは、いろいろ様々な人がいるのですから、いろいろな宗教があったのですから、自分の修行としてひとことも喋らないんだと決めている人であれば、こちらがいろいろお布施をしたとしても、ご飯を食べて帰るだけでひとことも喋りません。何か教えてちょうだいと頼むのは失礼なんです。お布施した側は、なにか説法してくれるかとか、なにか祝福してくれるかとか、それはあまり期待しないんです。ただ自分たちの幸せのために寄付をする。お布施をするんです。それだけなんです。お釈迦様はそういうことはなくて、話してあげたんです。それでその二人がもの凄く喜んだんです。ものすごく役に立つ話を教えてくれたんだと。これが真理だと。納得がいったんです、その二人が。納得いってその場で私二人が今日からあなたを先生として、あなたを頼ります。今日からあなたの教えを自分たちの生き方として、導く法として貴方の教えを受け取ります。というわけで初めて、ブッダン、サラナム、ガッチャーミ。ダンマン、サラナム、ガッチャーミ。という、仏陀に帰依します。この教えに帰依しますという、この二行が成り立ったのです。そこにある、ナモタッサの上にあるのはそれなのです。ブッダン、サラナム、ガッチャーミ。ダンマン、サラナム、ガッチャーミ。
●ミャンマー人、スリランカ人と仏教
その二人は、これから遠い国に帰らないといけない、ということを告げました。お釈迦様のことを毎日のように思い出して、教えて戴いた尊い教えを実践したいんだと。だからなにかお釈迦様のことを思い出すものを頂戴といいましたが、お釈迦様はなにも持っていないんです。で、頭をこうしてさわって、凄い苦行をしていたので、髪の毛が落ちるんですよ。頭を触って髪の毛をほんのちょっと取って、これを持って行きなさいと。で、髪の毛をそっと取ってあげたみたいです。彼らはその髪の毛をものすごく大事に戴いて、スワンナブーミという自分の国に帰っていきました。
スワンナというのは金という意味で、ブーミというのは国という意味です。それがどこかという事実ははっきりしませんが、ミャンマー人は自分の国だと思っているんです。
そう思っているのは、パーリ語経典で仏教伝来とか書いてある場所をみると、スワンナブーミという国があったんです、とにかく。嘘を記録はしませんから。スワンナブーミという国が出てきて、そこにはいろいろな謂われがあったと思います。
ミャンマー人が今もの凄く大事にしているパゴダがあります。シェーダゴンパゴダという。シェーダゴンパゴダという建物はもう何トンもの金の板をいっぱい貼ってあるんです。金と宝石に光が当ると、もうそこらあたり中が光ってしまうんです。凄く多くの人が寄付してできた財産なんです。金のネジを使って上の方に金をいっぱい取付けてあって、ゴールデンパゴダになっています。で、他のよく見える建物から、この建物を見てみると、太陽が当ったりすると、なんという宝石の塊りかと、驚くほどのものなのです。でその場所にお釈迦様から戴いた髪の毛を安置しているのです。で、みんな物凄い信仰をしている場所なんです。まぁそれは普通の伝説的な話で、それはそれでいいのです。
お釈迦様が二人の商人からお布施を受けて、そのお礼に髪の毛をあげたという話です。だから、ミャンマー人にとっては、それ以来、仏陀というのはもう自分のもののようなのです。
最初にお布施をしたのは、私たちではないかと。だからそういう親近感を持って、仏教を大変大事にしているんです。だから、ミャンマー人でもスリランカ人でも仏教というものを大事に命を懸けて護る、ということはあるのです。
スリランカ人が仏教になんでそんなに凝っているかというと、お釈迦様が亡くなるときに、帝釈天にこう言ったんだそうです。「私の教えが栄えるのは、タンバパンニという島ですよ、だからあなたはあの島をちゃんと護ってあげなさいよ」と、頼んだそうです。ですから、スリランカ人もお釈迦様に期待されているんだということを思って、仏教というものを大変よく護るようになっているんです。とにかくどちらも負けません。ミャンマー人もスリランカ人も。自分達がお釈迦様に一番近いと思っているんです。それは民族の感情で、それはそれで置いておいて。
●説法
次にお釈迦様が説法に出かけるのです。最初の説法に出かけて自分の元家来でしたけれど五人の比丘達に説法しました。かなり日にちが経っていましたけれどね。それでその五人も悟ったので、お釈迦様も楽しくなりました。子供の時からずっと一緒にいた、この五人も悟ったのですから。それで、夜寝ないで、外でなんのこともなく座っているんですね。だから、お釈迦様はずっと安らぎな生き方をしていたんです。寝なきゃいかんと、そういう気持ちもないんです。ご飯たべなきゃ大変だぞとかね、そういう、わずかなストレスも脅迫観念もない。あれば食べるんだけども、なければないで別に気にしない。ですからお釈迦様にお休みになるかならないかと聞いたって答えられないんです。聞いたら、まぁ疲れたら休みますよ、と。その程度の答えになるのです。
その日、ウルヴェーラという地方なんですけれど、そこの凄い金持ちのひとり息子が、家出をしてしまったんです。「なんの意味もないんだ、この刑務所のような生き方は」。物凄い贅沢。彼には凄く大きな家が三つあったんだそうです。お釈迦様と同じ。季節に合わせて、お城が三つ。一つのお城から次のお城に引越しをして、また、季節が変わったら次のお城に引越しして、夏用と冬用と雨季用に。そこで遊びながら生活する。全くもう飽きてしまうんです。
物質は不安定なものだから、いくら贅沢であっても飽きてしまいます。苦しんでいる人々がお金さえあれば幸せだという考えは違います、と昨日も言いました。その若者はもう飽きてしまったんです。こんな生き方は何の意味もないんだと。夜に皆が寝静まるまで待って、こそっと家を出たんです。そうでないと出られないんです。もし家を出たら、周りのお世話係が大騒ぎで行列で来るんだから。
父親が、朝起きて贅沢なご飯を食べて、豊かな家にいると、皆が息子がいないと大騒ぎです。そんなに小さな子供ではない、もう若者でしたけれども。お世話係の人々は「居ない、居ない、」と警備やらいろいろが大騒ぎです。大変なことで。お父さんは燃えてしまったんです。ひとり息子はどうなってしまったかと。自分も探してみるんです。息子の方は、家を出たのはいいですけど、草履をはいたまま出て行ったのです。草履の裏は金で何か特別に細工をしてあったようです。その草履の跡をみた途端、父親はこれは息子のものであるとすぐに分って。幸いにアスファルトがなかったものですから足跡が残ってしまうんです。朝になったら、見つかるんだと父親が後を付けて行くのです。
夜、家出した息子は、「あんな家などはもう火事だ、燃えている。自分の家は人間がいるような場所ではない。家ということ、家族ということは、もう山火事のように燃えている所で、もう逃げるしかないんだ」と言うのです。夜、そんなことを悶々と言いながら息子は歩いていたんですね。
そこでお釈迦様がこの人を迎えに座っていたんです。そこで子供の言葉で呼んでみたんです。
「君、こっちにいらっしゃいよ」と。「こちらに来たら安らぎがありますよ」。
その話を聞いてお釈迦様のところに行ったんです。行ったら、若者なので、「どういうことでしょうか」、と話を聞いて、それで真理を教えてあげたのです。で、彼はそれを聞いて第一番目の予流果の状態に悟るんです。真理が見つかったので、心の火事が消えてしまったんです。
●サンガン、サラナム、ガッチャーミ。
そこへ、心の火事が消えてない父親が、足跡を追ってこそこそと迎えにくるんです。そこでお釈迦様は息子を一寸どこかへと言って見えないようにしたんです。父親は燃えているんだから。父親は息子がいなくて燃えているんだけど、息子は別の意味で燃えていたんです。二人とも火事なのです。山火事状態。一人の山火事状態は消えましたけど。
父親が来ると、そこには息子ではなくてお釈迦様がいるのです。「ここら辺に、若い男の子、それは私の息子ですけれど、来たのでしょうか。」そう言ったら、「ああそう、ではその辺に座ってください。まぁそのうち会いますから座ってください。落ち着いて。」そう言ったら、ああ、お釈迦様が会わせてくれるんだと思って、安心して座ったんです。座ったら彼と話したでしょう。どういことか、なんということか、とね。息子の気持ちもお釈迦様は聞いて解っているんだからね。父親に説法したんです。おそらく父親が厳しかったか、あまりにも贅沢をさせて、あまりにも箱入りで育てたんだから、これが嫌だったのかも知れません。愛情というのも有り過ぎというのは地獄だから。だからそこらへんを教えただろうと思います。それを聞いたら、父親も生き方が解って、父親も悟ってしまうんです。予流果に悟るんですよ。
その話を父親に説法することを聞いて、息子が最終の悟りまで得られるのです。阿羅漢になってしまうんです。それでお釈迦様が息子を呼んで、こっちへいらっしゃい、お父さんが来ているんだと。そう言ったら、お父さんが来てみて、家に帰ろう、と言う。そのヤサという若者がお釈迦様の顔を見るんです。なんとか助けてください、ということで。
そうしたら、お釈迦様が、「あなたの息子はもう家に帰れないんだ」と、言うのです。「もう真理を完全に理解していて、ひとかけらももう煩悩がない。素晴らしい聖者ですよ」と。「あなた喜びなさいよ、もうこの子には在家生活は無理です」そう言ったら、父親も仏教によって悟っているのだから、「もう私の息子にはこれ以上の幸福はないんだ、はい解りました。私は帰ります」と。
そこで、「私は今日から、私の指導者として先生としてお釈迦様に帰依します」と。「今日からお釈迦様の教えに導かれて、生きてみます」と。「お釈迦様の弟子達も立派な聖者たちばかりだから、彼らからも指導を受けたりします。だから、サンガにも帰依します」と言いました。彼がはじめて、仏法僧に帰依したのです。それで、サンガン、サラナム、ガッチャーミという三番目が付いたのです。
初めてそういう言葉が現れたのはそういうことで、これは仏教の歴史上、古いといえば、あまりにも古いのです。お釈迦様がおっしゃったわけではないんです、とにかく。
●自分の意志で三帰依
話を聞いて納得して自分の意志で、この、ブッダン、サラガム、ガッチャーミ。 ダンマン、サラナム、ガッチャーミ。 サンガン、サラナム、ガッチャーミ。ということが成り立ったんです。そこら辺にも仏教の自由というものが見えるのです。命令がないのです。
たとえば、キリスト教と比べてみてください。そこでは神様が命令するんです。「私が唯一の神である。私のみで、他神を信じることなかれ」と。「他は認めません。こうしなさい。私を拝め。私を褒め称えなさい」。とても厳しいのです。それで、仏教も同じではないかと、もしかすると誰かが批判するかも知れません。「だってあなた方は仏法僧に帰依しているのでしょう」と。「仏陀は絶対だと思っているでしょう」と。「だから仏教でいう信仰も、他の宗教の信仰も結局は同じものではないか」と。
同じではないのです。全く違う。お釈迦様は私に帰依しなさいなんて、どこにも言っていないのです。私に帰依しなかったならばひどい目に遭いますよとかね。許さないとかね。「私は嫉妬の神である」と聖書にはあるのですけれど、私は嫉妬の仏陀であるとかは仏教にはないのです。お釈迦様にとっては、信じたければ信じればいいし、信じたくなければ信じなければいい、どうでもいいことなのです。そこで仏法僧に帰依するのは、人が自分で納得して、「これが人間の道だ」と、「この教えが真理だ」と、「この人々は真理を本当に体験しているのだ」と。そういうことを納得して、仏法僧に帰依するのです。
だから三帰依というのはあくまでも自己責任。言われたんだからと、三帰依しても三帰依になりません。脅迫して三帰依させても仏教徒にはなりません。
だから仏教というのは拡げ難いんです。何か脅迫でもなければ、ご利益でも売らないと。何か餌でも撒いてこないと。脳の無い人々を掴むことは出来ないんです。
ですから、お釈迦様はそのことを知っていて、仏教に来るのはみんなインテリやと。残念ですけれど、凄いインテリ的な思考がないと、仏教には共感が持てないでしょう。ものに頼るという凄く弱い、自分で考えようとしない人にとっては、ちょっと難しいかも知れません。感情だけに生かされている人々にとっては。仏教は大胆に拡がらないというのはそういうところがあるんです。でもそれが悪いという訳ではないんです。仏教を一旦勉強したら、如何に合理的で具体的で物凄い論理的で物凄くジリジリと真理を語っているかと解るんです。世の中のことは手に取ったような感じで分析しているでしょう。お釈迦様の心の分析というのは、いまだに誰にも出来ないでしょう。どれくらい心理学や科学やらが発展したといっても。仏陀がなさった分析とは全く違うのです。きちんと真理というものはあるし、入ってみたら結構立派な教えであって恥ずかしがるものは何もないのです。
兎に角、そういうことで、ブッダン、サラナム、ガッチャーミ。ダンマン、サラナム、ガッチャーミ。サンガン、サラナム、ガッチャーミ。という三帰依が成り立ってしまったんです。
それで、仏教の世界で仏陀の教えに納得する人々は誰でも自分の意志で三帰依をするのです。三帰依をお坊さんの方から与えるというのは、ずっと後から出来た習慣なんです。それは、お釈迦様は仏教をどんどん拡げようとは思っていなかったんです。最初は教えたくもなかったんだから。お釈迦様の分析能力があまりにも鋭いもので、聞く人、聞く人が仏教徒になってしまうのです。だから大変な勢いで広がってしまったんです。あの若者が出家して悟ってしまったという、その話でいきなり大勢の人が入ってしまったのです。だからお釈迦様は、組織も何も出来ていないし、戒律も出来ていないし、ただ説法しただけで60人の阿羅漢たちが現れてしまったんです。60人の中で歳を取っていたのはお釈迦様。
お釈迦様は歳とっていなかったんですけど。35歳でしたけれど。それから最初の5人の弟子達だけなんです、みんな30代でしょう。一人は凄い年上でしたけれど。
あの若者は若者だからその歳の人々が入ってしまったのです。だからいきなり仏教は、若者が創めたと言ってもその通りなんです。
お釈迦様も若かったし、35歳。で、5人比丘の中では一人が年上、一番初めの方はね、その人はお釈迦様が生まれた時に占いするためにも参加した人で、だから当然50か60とかになっていたと思います。
残りの4人は、その時参加した賢者たちの息子なんです。ですからほぼお釈迦様と同じ歳なのです。いきなり入り込んできたあのヤサという名前なんですが当然若者なんです。
その人の友達たちが55人入ったんですね、話聞いて。だから、61人の阿羅漢たちが現れたんだけど、一人以外60人も若者なんです。それでこの世の中で真理を体験している人は61人もいるんだよと。だから君たちは歩きなさい。拡げなさいと。皆に道を語りなさいよ。そういうふうに……
(後はまた次の機会、おたのしみに。)
協会の記事です。
出家儀式の後のご法話・他
~比丘出家儀式のあとのご法話~
ダンマラーマ比丘の話
お釈迦さまが涅槃に入られることを宣言された時、あらゆる比丘たち大阿羅漢たちが釈尊に最後の挨拶をするため伺いました。比丘たちばかりか、諸国の王様たちをはじめ、あらゆる人たちが集まってきたのです。ただダンマラーマという一人のお坊さんだけが、別れの挨拶に姿を見せず、どこかに隠れていました。「釈尊が亡くなると聞いて、悟りに至っていないお坊さんたちは皆泣き崩れている。在家の方々もみんな泣き崩れている。それなのに、なぜダンマラーマだけは頑固に姿を見せないのか」と、比丘たちの間で話題にもなっていました。
そのとき、釈尊のお体は随分と壊れてしまって、地面の上に横たわったままでした。比丘たちの話を聞いた釈尊は、「貴方がたはお互い何を話しているのか」と訊ねられました。比丘たちは「我々も在家の信者たちも、神々さえも、今ここに来てお釈迦さまにお供えをしたり最期の別れの挨拶をしたりしています。しかし、ダンマラーマ比丘だけは、世尊のことで泣くどころか顔も見せない。一体どういう人なのかと、疑問に思っているのです」と。
釈尊に最高のお供えをした人
そこで釈尊は「ダンマラーマ比丘を呼びなさい」と仰いました。比丘たちがダンマラーマの許に行って釈尊のお言葉を伝えたところ、彼はたちまち立ち上がって、お釈迦さまの臥処を訪うて礼をしたのです。釈尊は、「ダンマラーマよ、他の人々は私が亡くなると聞いて、別れをしたりお供え物をしたり泣き崩れたりしているのに、君だけ全く無関心で我がまま勝手にしているという話を聞いたよ。それは本当かね」とお聞きになりました。
ダンマラーマ比丘は、「世尊よ、それは違います。私は世尊が最後の息を引き取る前に、何とかしてすべての煩悩をなくして、完全たる解脱を体験したい、悟りたいと思って、必死になっていま修行中なのです」と答えました。するとお釈迦さまは三回、「サードゥ(善哉)、サードゥ、サードゥ」と彼を讃えたのです。
「もしこれから私の弟子たちが私を敬いたい、私を尊敬したいと思うならば、仏教徒として在俗信徒として真面目に勤めたいと思うならば、ダンマラーマのやっていることをすべきです。彼こそが、私を尊敬する者であり、私のことを真面目に考えている弟子なのです」と。
出家は釈尊の直弟子となること
仏教の世界では、お祭りやお供え儀式・儀礼をド派手にやっていますね。しかし、そういう儀式よりも、「修行する」というお供え(パティパッティプージャー)こそが、釈尊に対するほんとうの尊敬であり、ほんとうのお供えであると、お釈迦さまは説かれたのです。
お釈迦さまを祝賀し賛嘆するウェーサーカ祭の日である今日、たいへん信仰厚く、お釈迦さまに対する信頼・確信が厚い日本人のお二人が仏道に入られました。これこそウェーサーカ祭のメインイベントであり、お釈迦さまを大事にする、尊敬する行いなのです。今日は朝から出家儀式の準備で慌しくて、去年のように午前中から穏やかな雰囲気を作ることはできなかった。しかし仏道においては最大の素晴らしいことが行われたのです。このお二人を比丘としてサンガが認定いたしました。サーリプッタ尊者・目蓮尊者からずうっと伝わってきた三衣(袈裟)を正式に与えられて、在家の服を全部捨てられて、名前まで全部捨てられてしまって、お二人を仏弟子としたのです。
これは全国にいるテーラワーダ仏教に興味を抱くみなさまのお陰です。お二人の方を比丘として、お釈迦さまの直弟子として認定したこの大功徳は、みんなに平等に還ってきます。我々は釈尊が生の声で言われたとおりの、釈尊に対する、釈尊にも認められるお布施をした。お釈迦さまから褒められるような善行為をした。想像もできないほど徳ある行為が、今日この日本で行われたという喜びをみなさまも感じてほしいのです。
出家をさせることは在家者の「特権」
出家として生活することは楽ではありません。今までやってきたことが何一つできなくなります。これからみなさま方が温かい心で、比丘たちが修行できるように協力してあげることは、「在家者の特権」なのです。それも忘れずに、身の回りのこと、何か問題があるときの手助けをしてあげて下さい。それは仏法僧に対するお供えになり、お布施になり、みなさまも大功徳を得られることになると思います。その反応として、この二人の方は大変真剣に修行することでしょう。
お二人がこれから比丘として学ばねばならないしきたりは数多くあります。師匠はその時々の間違いを見つけるたびに教えてあげるのです。いきなり全てを言ったら忘れてしまうし、大変な仕事ですからね。一つ一つ伝えていくと、五年はかかります。だから、五年間師匠から離れてはいけない。そこまで指導するのは師匠の責任なのです。
私だけでなく、先輩のお坊さんは誰でも、随時に指導しますから、いったん出家したら誰に何を言われるかわからないのです。二人の新比丘は、これから「あなたは何様なのか」という態度はとれません。サンガに入った時から、自分という存在は消えてしまったのです。どんなお坊さんからでも、何か見つけられたら、言われる可能性があります。時によって親切に諭される場合も、強い調子で叱られる場合もあります。それもちゃんと理解して、「自我がないのだ。己(おのれ)がないのだ。間違いがあってはいけないのだ。仏陀には迷惑をかけてはいけないのだ。偉大なる大阿羅漢たちに迷惑をかけてはいけないのだ」と考えて頑張ってください。
人間として、比丘として
お二人の修行によって、ご親族の方々もたいへん幸福になります。この出家儀式に参加したみなさまも幸福になるのです。自分の修行によってみんなが幸福になりますようにという気持ちで、お二人はこれから励んでください。お二人にはワンギーサとヤサという、お釈迦さまの八十大弟子の名前を選んであげました。その名前に適うような生き方をするのは無理だと思いますが、自分の名前の由来は覚えていたほうがいいのです。人間としては、それぞれ弱みや失敗はつきものですが、気にする必要はない。人間として誰でもそんな変わりはありません。みなさまも、ただの人間として、ただし比丘として、お二人に尊敬の気持ちで接して頂きたいと思います。
(了)
仏教はほんとうの奇蹟を起こす
~協会総会開会の挨拶~
釈尊の教えを日本人のものに
仏教を伝道するということは、お釈迦さまの本来の純粋な教え、限りない慈悲、真理の道、しっかりと生きられる道を伝えることなのです。みなさまは随分軽い気持ちで手を出したようですが、これはもう、とてつもない大変な仕事なのです。お世辞もおだても抜き、真剣に考えてもこの協会の活動は日本の歴史に残る仕事です。
私が日本に来てから特に考えたのは、ただ単に外国のお坊さんが伝道師として来日してグループを作り、その人が国に帰ったらそれで終わりという形ではなく、「日本のみんなの手に仏教を渡したい、仏教を日本人のものにしてあげたい」ということでした。仏陀の教えを自分の手に入れたなら、それこそが幸福と平和の道であり、曖昧で中途半端な人生を解決する答えを見つけたことなのです。
精神の支えを失った人々
いまの日本社会を見渡しても、精神的な支えがないのです。みなさまは本来道徳的な国民で、お母さん方から教えていただいた「悪いことはしないように、世間に迷惑を掛けないように」という教えを真剣に守って平和な国を築いている。しかし他人とは喧嘩しないだけであって、一人一人を見るとどう生きればいいのか分からない混乱状態なのです。悪い例えをすれば、尻に火をつけたような感じで走り回っている。だからこの平和というのは、とても不安定で、ちょっとしたことで大変な結果に陥ります。時々小学生の子供たちが人を殺してしまったりもするのです。また、これが国際的な問題になったら、民族的な感情も沸騰して、かなり危険な状態になるのは目に見えています。
「生き方の発見」が希望を拓く
みなさまには何があっても落着いていられるしっかりとした生き方、誰とも闘わない勝利者の生き方を身につけて頂きたい。そうやって、日本が世界のリーダーシップを取って欲しい。そういう能力はあるのです。私はみなさまによく「差別意識の塊ではないか」と批判しますが、それは仏教の真理の世界から言っていることです。日本の方々は俗世間では寛容的で偏見はそれほどないし、差別意識も薄いし、性格もよくて人に親切です。そういう人々が世界のリーダーシップを取らなくてはいけないのです。でも、リーダーシップをとるどころか、恐ろしい人間に操られてしまっている。日本の弱みは、自分たちがどう生きるのかということがはっきりしないことに起因しているのです。
みんなが幸せになれる「道」へ
こうやってキツイことを言うのは、あくまでも親心です。私は、「もうこの人はダメだ」と思った日から親切になります。死にかけている人には何も期待することはありませんから。
みなさまには、戦争と破壊の危機に曝されているこの世界に向かって、「人類が生きる道はこれだぞ」といえるような発展の道を歩んで欲しい。そんなこと可能かと気にする必要はありません。仏陀の道を歩むならば、ただほんのちょっと「やりましょう」と思うならば、確実に成し遂げられます。私たちはこの活動を通して、色々な宗教儀式などでは考えられない、真の奇跡を起こさせてみせているのです。ほんとうに人のこころを治し、みんなが幸せになれる「道」を教えているのです。
仏陀と共に歩むみなさまへ
~総会終了の際の挨拶~
仏教は社会の迷惑ですか?
今日のウェーサーカ法要は、午前中からの聖なる仏教儀式と、日本の世間にあって我々が協会をどう管理すべきかを話し合うこの総会という、聖と俗に分かれました。聖も俗も必要であって片方ではいけません。
三、四年前の話ですが、仏教が欲の無い世界や貪瞋痴のない境地を語っていることを取り上げて、「あんた方は社会で役の立たない連中ではないか、社会では貪瞋痴がなくては活動できない。だから仏教は迷惑だ」と質問してきた人がいた。その人に対して、私は逆に「貪瞋痴のあるあんた方こそ迷惑だ」と反論しました。会社を興して、必死に頑張っているのに倒産させてしまう。社員は法律違反のサービス残業までしている。タダ働きで残業させるなんて、泥棒と同じです。無能な社長や経営者のために、人の時間を泥棒までして、挙句の果てに倒産する。それは彼らが仕事のやり方を知らないからです。仏教が教える不貪・不瞋・不痴とは「智恵の世界」です。しかし、「仏教徒になったから、もうご飯を食べなくても良い」ということではないのです。肉体を維持するために食べなければいけないし、家族・親戚の面倒を見て、家を守らなければいけない。俗世間の活動は決して無視できないし、無視すべきものではないのです。
釈尊は成功の秘訣を説く
お釈迦さまは社会生活の様々な課題を見事に解決できる方法をアドヴァイスされています。在家の人々がどの様に財産管理をするべきか、家庭を持っている人はどのように家族の面倒を見て管理するのかということを、明確に教えています。そんな長々とは書いてない。みんなチラッと経典を見て、「仏陀は出世間のことしか説かれなかった。出家のことしか語ってない」という。経済学者が書いた役に立たない本ならば無数にあるから、その感覚で見ているのです。釈尊が家庭や経済や社会生活の管理について述べたくだりは、二、三行で終っています。それで充分だからです。
だから、釈尊の教えを実践する人々には、他の方々よりも立派に会社を発展させて、家族も見事に幸福にして成功した人生を送って欲しい。たいして難しくありません。一つ秘密を教えるならば、「自分のサービスを必要なものにする」ことです。ちょっとした心構えで、自分の仕事が、会社組織にとって「この人は欠かせない人材だよ」いうことになります。それには、ただ「明るさ」があるだけでも充分です。流れ作業で同じことをする職場ならば、一人ぐらいクビになってもどうということもない。しかしその人が明るさを持っていて、みんなを巧くまとめる。これだけで首は切られないのです。
あなたの大切な「業」を活かす道
そうやってそれぞれの人がかならず、何か必要とされる資質を持っています。それが業です。相当な業があったから、人間に生まれたのです。「業」と聞くと、何か悪いことを話しているように思うでしょう。そうではないのです。善業がないと人間には生まれません。過去世で相当な善行為を各自でなさったからこそ、人間に生まれているのです。我々は死ぬまで何の問題もなく生きていられるような業を持って生まれてきている。これを蝕んでゆくのが、貪・瞋・痴なのです。いくら高価な服でも虫食いになったり、汚れが付いたりすると価値がなくなってしまいます。我々の大切な業は傷だらけで、虫が食って穴だらけなのです。
無執着こそが成功の鍵
仏教の世界では、結婚してはいけないとか、子供を捨てろとか無茶なことは言っていない。ただ「執着するな」と言っているだけ。執着するとバカになって、感情的になって、ろくに子供の面倒も見られなくなってしまいます。結婚相手に執着すると、極端に感情的になって自分のワガママしか見えなくなってしまう。それで家庭が壊れるのです。せっかく一緒になると決めたのなら、慈しみを持っていたわりあって、相手の気持ち考え方も理解しあって、一人の独立した人間として尊厳を守っていれば、これは執着ではないのです。それで巧くいきます。経済活動でも、家庭生活でも仏陀の智恵を導入してみれば、何一つ問題を起こすことなくスムーズにいくのです。それが仏陀の教えです。
今まで私がしゃべったことを仏教に関係ない、冥想に関係ない、悟りに関係ないという風に取らないでください。みなさまも社会の中でどう巧く生きるべきかという智慧を、仏陀の教えから学び取れるところは全部学びとって、使えるところは全部使って生きて欲しいのです。必ず人生は巧くいきます。
胸を張って真理の道を歩もう
もう一つ強調したいポイントは、お釈迦さまが真理を教えたということです。真理というのは科学的な事実とまるっきり同じで、胸を張って言えるものです。「私は心霊と交信している。ハンドパワーがある」云々といった与太話を、人前で言えないでしょう。堂々と発表できるしっかりした事実だからこそ、釈尊の教えは真理なのです。だから胸を張って、関係のある縁ある方々に、友達や親戚にも勧めて欲しい。だいたい結婚している人も、冥想会には一人で来るのです。相手も引っ張って、「こういうことだからやってみなさいよ。文句あるなら言ってみてよ」と、堂々と胸を張っていえるようになって欲しい。仏陀の教えは宗教でも信仰でもない。ただ、真理・事実・生き方なのです。こころを清らかにする方法であり、誰かを蹴落としたり損させたりすることなく成功と勝利のみを得る道です。我々はこれからもっと胸を張って、もっと明るく他の方々にも仏陀のメッセージを広げて、日本で仏教活動を広めていけるようにと期待をして、挨拶を終了させていただきます。