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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(3)
 



ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(3)

     

日本テーラワーダ仏教協会(渋谷区 宗教法人)の編集局長として、仏教や瞑想に関する情報発信を長年続けてきた佐藤哲朗さんに、ヴィパッサナー瞑想法のあらましと、実践にあたって理解すべきポイント、また初心者が陥りやすい誤解などについて伺いました。4回にわたって連載します。

日本テーラワーダ仏教協会:アルボムッレ・スマナサーラ長老の指導のもと、お釈迦さまの教え(初期仏教)を社会に紹介し、人々が法を学び修行できる環境を整え、生きとし生けるものが幸福に達するためのお手伝いをする目的で活動している。


インタビューに答える、日本テーラワーダ協会編集局長・佐藤哲朗氏(撮影:一ノ瀬健太)

Q1 瞑想をして到るところは、具体的には、どんな境地なんでしょうか。

仏教の専門用語では「解脱」とか「涅槃」と言われる境地ですが、要するに「無執着」、一切の執着がない状態です。われわれのこの苦しみというもの、何かが不安とか、不満とか、なんか変だな、と思うような違和感とか、そういうものから完全に解放された、という世界ですね。

つまり、欲とか怒りとか無知に引きずり回されて生きているような状態から、完全に解放されてホッとしている境地と言えるのではないでしょうか。ホッとすると言っても、一時的にホッとするんじゃなくて、本当にとことん落ち着いていて、別段、それ以上何かしなければ、ということもない。やるべきことはやりおえた、という終了宣言。それが仏教の瞑想で達すべきところですね。

解脱・涅槃の同義語はいろいろあります。私が個人的に気に入っているのは「アナーラヤ(anālaya)」という言葉で、これも「無執着・無愛着」と訳されている。ほかには、恐れがない(無畏)、怒りがない(無瞋)、欲を離れた(離貪)、老いることがない(不老)、死ぬことがない(不死)、こころの汚れがない(無漏)、現象世界を離れている(無為)、真理、幸福、彼岸、未曾有、そういった言葉でも表現されていますね。そうやって、最終的な究極のゴールは様々な単語で語られています。

――老いることがない、死ぬことがない、というのは?

最終的な究極のゴールは様々な単語で語られているのですが、お釈迦さまはこれらを列挙した経典のなかで、単語はいろいろあっても意味するものは同じく、「貪瞋痴(欲・怒り・無知)の滅尽」なのだと明言されています。ですから、老いることがない、死ぬことがない、とは、「一切の煩悩がない」という意味なのです。

でも、不老・不死というのは、ちょっと挑戦的な表現ですよね。老いたり死んだりするっていうのは、自然法則じゃないですか。でも人間なにが問題かというと、老いたり死んだりすることにおびえたり、それを嫌悪して、なんとか遠ざけようとしたりすることです。そこで、また別な苦しみ、余計な苦しみが生まれることになるのです。それは、あえて作った精神的な苦です。しかし、この苦しみにもまた実体はない。

肉体が壊れていくこと自体は別に普通のことなので、それ自体は存在苦と言いますか、存在そのものとセットになっている苦なので、ある意味どうしょうもないことです。腕をつねったら痛いのは当たり前でしょう、くらいの話ですよね。しかし、その当たり前の真理としっかり向き合うことを生命はだれもが避けている。「不老」「不死」とは、その矛盾を突いた言葉なんです。

お釈迦さまは要するに、老いること、死ぬことをまったく恐れない、特別視して怯えない境地を「不老」「不死」という単語で表現しているのです。これは人間に限らず、ふつうに生きている生命体にはあり得ないことです。老いも、死も、恐怖とセットであって、恐怖を欠いた老いも死も存在しない。そういう意味で、仏道を完成して無執着に達したならば、もう老いることからも、死ぬことからも、解放されているのです。









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ひとり言 | 11:07:22 | トラックバック(0) | コメント(0)
【youtube動画】2018年10月21日(日)『関西月例冥想会』スマナサーラ長老法話
 









#jtba【youtube動画】2018年10月21日(日)『関西月例冥想会』スマナサーラ長老法話 #仏教 #buddhism #スマナサーラ長老

2018年10月21日(日)『関西月例冥想会』(1時間47分)
http://mayadevi.hatenablog.com/

◆質疑応答と法話
・法話「タイトル(名称、名前)」に騙されない。
・怠けについて
・集中力と充実感について
・死というものについて
・煩悩をなくすためには冥想しかないのか

 次回、11月18日(日)が「関西月例冥想会」午前9時30分の予定です。初めての方へ瞑想指導もございます。どなたでも参加していただけます。ぜひお越しください。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~








協会 更新情報 | 09:14:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
心を育てる初期仏教法話



















協会 更新情報 | 14:28:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
冥想日記  『識』viññānaについて、 ―考えることが問題―
 










協会の記事
ではありません。
吉水 秀樹  安養寺住職 のfbより紹介です。



画像に含まれている可能性があるもの:植物、草、屋外、自然
画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外
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画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然
画像に含まれている可能性があるもの:空、木、草、植物、屋外、自然
吉水 秀樹


  冥想日記 
『識』viññānaについて、 ―考えることが問題―

 今朝歩く冥想をしていました。足元の黒いものを見て、「動物の糞」と思い一瞬立ち止まりました。よく見たらそれは「棒切れ」でした。よくある出来事です。

認識が起こるには、対象物(色)と目(眼)と意識(眼識)の三つが必要です。

《 認識が生まれる仕組み 》
色  声  香  味  触 法 (六境)
シキ  ソウ  コウ  ミ  ソク ホウ  ロッキョウ
↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓
眼  耳  鼻 舌  身  意 (六根)
ゲン  ニ  ビ ゼツ  シン  イ  ロッコン

「触れる」触(そく) 
 ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

眼識 耳識 鼻識 舌識 身識 意識 (六識)ロクシキ

 私は見間違えと気づいて、ホッとしました。次に「私がそのように見ている」と気づきを入れました。私は見間違いに気がつきましたが、対象をありのままに見ているわけではありません。普通、「糞」と見るのは見間違えで、「棒」と見たら正しく見ていると考えます。しかし、長老方の仰っている『人は自分の見たいように見ている』という意味は、「棒切れ」を「糞」と見ているという意味ではありません。「何だ、棒切れか!」というその認識自体に「自分の見たいように見ている」という問題が含まれています。

 「棒切れを棒切れと見たのだから、問題はないではないか。」と言う人も多いと思います。
しかし、ブッダの冥想実践者ならば、そこに「私がそのように見ている」という、気づき(サティ)が不可欠です。
 「私がそのように認識している」というのが真相なのですが、社会動物である人間には共通主観というものがあり、多くの人が「誰もがそう見ている」「そう見ることが正しい」「私は事実を見ている」「これは正しい見解である」と思い違いをしています。この壁を破るのは並大抵ではありませんが、ブッダの冥想実践者の登竜門です。

 仏教でいう、「正見・正しい見解・ありのままに見る」とは、見解を持たないこと、見解がないことです。スマナサーラ長老は、「見解はすべてゴミ。仏教はどんなゴミを捨てて、どんなゴミを拾うおうかという話には興味がないのです。」と仰っています。正しい見解はないが、存在欲によってつくられた無数の見解があるだけのようです。

 それなのに未熟な私たちは、四六時中見解をつくります。だからこそ、最低限の注意として、「私がそのように見ている」と気づき(サティ)を入れるべきなのです。ヴィパッサナー冥想はその日常の訓練修行です。音音音、感覚感覚感覚、考えている考えている、さ迷ってるさ迷っていると、「感受で止める」「思考妄想に気づく」のはその実践です。そうして、そのような認識回路とそれ自体を眺める回路をつくることが修行の中味です。
 このように話すと大変なことのようですが、対象を見て、認識が起こり、次の瞬間に気づきが入るので2.3秒の出来事です。この気づきで人生が、明るく軽く幸せに生きられる確信が生まれるので、もうこの道から外れることがありません。










ひとり言 | 16:05:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(2)
 







インタビュー

ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(2)

     

日本テーラワーダ仏教協会(渋谷区 宗教法人)の編集局長として、仏教や瞑想に関する情報発信を長年続けてきた佐藤哲朗さんに、ヴィパッサナー瞑想法のあらましと、実践にあたって理解すべきポイント、また初心者が陥りやすい誤解などについて伺いました。4回にわたって連載します。

日本テーラワーダ仏教協会:アルボムッレ・スマナサーラ長老の指導のもと、お釈迦さまの教え(初期仏教)を社会に紹介し、人々が法を学び修行できる環境を整え、生きとし生けるものが幸福に達するためのお手伝いをする目的で活動している。

佐藤哲朗氏(幡ヶ谷・ゴータミー精舎のブッダ像 前で)

Q1   瞑想したら、怒らなくなりますか。

残念なことですが、いくら瞑想してたって、怒るときは怒っちゃいますよ。怒りという煩悩(結)が消えるのは、第三の解脱(覚り)である「不還果」という段階です。ほとんど最終的な覚りに近いところです。そこまでいかない限り、まったく怒らなくなる、ということはあり得ません。われわれにできるのは、怒ったときには、「怒っているな、怒り始めているな」と気づいて炎上させないこと。欲や怒りに飲み込まれない、ということです。そうすれば、怒りに我を忘れて衝動的に人をぶん殴るというような危険は少なくなります。

基本的に、「わたし」「わたしの」「わたしのもの」という自我の錯覚が、他の煩悩を燃やす燃料になっているのです。たとえば、「わたしのもの(It’s mine)」という衝動は、対象を自分に引き寄せようとするエネルギーです。それが人間の執着心を燃え上がらせる燃料となります。

つまり、こういうことです。「わたし」「わたしの」といっても、それはただ単に瞬間瞬間に起きる現象だし、“わたし”という確固たるものがあるわけでもない。そう納得できれば、そんなに怒らなくても、人と喧嘩するほどのことでもないだろう、というところで落ち着くんです。「なにも、そこまで怒らなくても……」ということになるのです。

気づきの実践をつづけて、「わたし」という実体はないんだ、という真理に納得したならば、感情があったとしても、理性のほうが勝った人になっています。つねに自分(という現象)を客観視できるから、怒りに我を忘れるというようなことはなくなるのです。








ひとり言 | 15:41:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(1)
 








ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味(1)

     

日本テーラワーダ仏教協会(渋谷区 宗教法人)の編集局長として、仏教や瞑想に関する情報発信を長年続けてきた佐藤哲朗さんに、ヴィパッサナー瞑想法のあらましと、実践にあたって理解すべきポイント、また初心者が陥りやすい誤解などについて伺いました。4回にわたって連載します。

日本テーラワーダ仏教協会:アルボムッレ・スマナサーラ長老の指導のもと、お釈迦さまの教え(初期仏教)を社会に紹介し、人々が法を学び修行できる環境を整え、生きとし生けるものが幸福に達するためのお手伝いをする目的で活動している。

佐藤哲朗氏(幡ヶ谷・ゴータミー精舎のブッダ像 前で)

Q1   こちらの協会では、ヴィパッサナー瞑想を指導しているそうですが、なぜ、今、注目されているのですか。

ヴィパッサナー瞑想は、観察瞑想とも言われます。経典に使われるパーリ語から説明しますと、「ヴィ」というのは「よく・詳細に」、「パッサナー」は「観る」という意味になります。つまり、「よく観察すること」という意味になります。

現代的なヴィパッサナー瞑想は、ブッダの時代から連綿と実践されてきた、「四念処」、身・受・心・法の四つのアプローチで現象を観察する修行法に基づいてアレンジされています。四念処の「念」の原語は「サティ」で、現代日本語では「気づき」と訳されていますね。ですから、ヴィパッサナー瞑想を親しみやすく「気づきの瞑想法」と呼ぶこともあります。

これまでの日本社会で行われてきた「瞑想」というと、何か特定の対象をこころにイメージして精神集中するとか、ひたすらマントラ(真言)を唱え続けるとか、そういう宗教的・神秘的な「行」という印象が強かったと思います。あるいは「禅問答」という言葉にあらわれているように、何か不条理な世界に自分を追い込んでいくような感じもありましたよね。

それに対して、ヴィパッサナー瞑想では神秘的なシンボルや呪文、こころが作り出すイメージまでも一切排除して、科学的にものごとを観察というアプローチを取ります。客観的に自分(と呼ばれている現象)を観察するということで、これは宗教というよりは「心の科学」(スマナサーラ長老)なのだと、現代人にも受け入れやすかった、フィットしたということではないでしょうか。「観察=瞑想」という合理性が、宗教よりは科学を信頼する現代人のマインドにも合致したということですね。長い歴史を持つ仏教国である日本の人々にとっても、ヴィパッサナー瞑想は新鮮な驚きをもたらしたのです。

  • 四念処……「気づき(サティ)」を備えて、身(身体の要素や動き)・受(身心の感覚)・心(こころの状態)・法(解脱に資する諸々の概念)という四つのチャンネルを観察し、「一切のものごとは執着に値しない」と発見して解脱に達する修行法。絶えず生滅変化する「身・受・心・法」の状態・あり方に不断に気づき、注意し続ける「気づきの実践」を通して、現象へのとらわれ・執着を離れ出世間の智慧を開発する実践である。

――ブッダの瞑想もヴィパッサナー瞑想と考えてよろしいでしょうか。

ヴィパッサナーという単語自体は、パーリ経典の中にそんなに頻繁には出てこないのですが、サティパッターナ(念処)、いわゆる気づきの瞑想といわれる四念処の実践はいたるところで言及されていますし、中村元博士の翻訳で日本人に親しまれている『スッタニパータ』の中でも、“サティ”(気づき)という言葉はたくさん出てきます。いわゆる『スッタニパータ』の一番古層の部分にも、サティという言葉が出てきます。気づきを絶やさない、ということですね。

そのサティの実践が教学的に整理されていった時、ヴィパッサナーという単語で表されるようになったのです。まあ、細かいところでは異論も成り立つかと思いますけれど、一応、テーラワーダ仏教の伝統の中では、サティの実践・観察の実践が即ち、ブッダの瞑想法ということになります。

なぜ、そう言い切っちゃうかといえば、いわゆる精神集中的な瞑想ならば他のどんな宗教でも教えていますが、サティの実践・観察の実践ということは、お釈迦さま以外の誰も発見しなかったからです。サティの実践・観察の実践を発見したからこそ、お釈迦さまは覚りを開いてブッダになったのだと、仏教徒は確信しているわけです。

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ひとり言 | 10:01:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
「あなたの休日は?」~安心感という病~
 










#jtba「あなたの休日は?」~安心感という病~ #仏教 #Buddhism #スマナサーラ長老 #無常 #人生 #楽しみ #変化 #永遠

 人生は、休めません。なぜ人は、休もうとするのでしょう。なぜ安定と安心感を目指すのでしょうか。一定した収入、安定した生活を目指しても、一切が無常であることの存在の中では、あり得ない話です、“ウサギの角”を探すような無駄な努力になります。

 結婚したばかりの若夫婦は、相手に気に入られるように努力しますが、いつの間にか安心感の病にかかって努力を止めるのです。それですべて崩れていくのです。結婚に限らず、他のことにしても、人生に完了なんかはありません。勉強を完了した、能力向上を完了しました、金儲けを完了しました、などは成り立ちません。結婚を止めました、勉強を止めました、等々なら言えます。完了とは言えません。人生は休めません。この認識が不足しているから、人生は失敗するのです。

 前にも述べたように、世の中は「無常」です。変わり続けているのです。それなのに、人は楽しい瞬間だけ、変わらず安定することを期待するのです。

 おいしいご飯を前にして味わえる幸福感が、続いてほしいと思ったとしましょう。食べるご飯がなくなるから、楽しめなくなります。ご飯がなくなるから食べないことにすると、味わえる楽しみがなくなります。どうにもなりません。その瞬間だけ楽しむしかないのです。

 試しに後で楽しもうと、いま行うべきことを後回しにしてみましょう。あのおいしいご飯が、賞味期限が切れて食べられない状態になってしまうのです。人生の楽しみについても、後回しにする人は、人生の賞味期限が切れるまで待つことになるのです。

 楽しみは無常から生まれるのです。親と子の関係を考えてください。子供が小さいときは、早く大きくなることを期待する。子供のわずかな成長も、大喜びの種になる。何か喋っただけで、ハイハイしただけで、立ち上がっただけで、母の心は大祭りです。何のこともなく、ただ無常を楽しんでいるだけです。しかし、それは期待して訪れた無常なのです。

 ところが、思春期を迎えて反抗期に入ると、「あんた変わったね」と悲しむのです。この場合は、無常を悲しむのです。子供が成長することは避けられないと知っているのに、その成長(無常)は認めたくない。それで苦しみが始まるのです。

 生きていくことは、変わっていくことです。楽しみも変化するので、長く取っておけるはずがありません。楽しみとは、その瞬間・瞬間にあるものです。

 無常を楽しむ母親なら、赤ちゃんのときから起こる日々の成長を、その瞬間で楽しむのです。反抗期も、家出することも、結婚して親から離れることも、うるさいと親に逆らうことも、すべて成長の過程で起こることなので、楽しめるのです。孫が生まれたら「ああ嫌だ。私はこんなに若いのに、おばあちゃんになった」ではなく、楽しめるのです。

 はっきり言います。無常を認める人にとっては、衰えて死んでしまうことも楽しい出来事です。しかし、このような生き方は、人間にとっては嘘のように聴こえる。それにも理由があります。

 人には無常以外、楽しみは存在しないのです。しかし、潜在的に変化に逆らおうとするのです。永遠なものに憧れるのです。永遠とは、空に描いた絵のようなものです。無常を知らないことを「無明」と言います。無常に逆らうことを「無知」と言います。無常に逆らう行為は、愚か者の生き方です。愚者には、幸福な生き方は期待できません。

 すべてが無常であることを知り、楽しみながらその瞬間ごとのものであることが理解できれば、すべての変化を受け入れられるようになります。無常を知る人は、決してくじけません。

Photo by rawpixel on Unsplash
▼参考テキスト
Kindle版「くじけないこと」
https://goo.gl/kGq44G
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

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未分類 | 10:50:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
#jtba【お知らせ】2018年12/28(金)~2019年1/6(日)第二回「一時出家修道会」の開催
 




#jtba【お知らせ】2018年12/28(金)~2019年1/6(日)第二回「一時出家修道会」の開催




【お知らせ】年末年始にマーヤーデーヴィー精舎で第二回「一時出家修道会」を開催
日本で次の世代にお釈迦さま本来の教え(初期仏教)を根づかせるために、出家比丘サンガの存在は欠かせません。(宗)日本テーラワーダ仏教協会では、日本で初期仏教を学ぶ人々のあいだで出家に対する理解を深め、将来的に出家比丘サンガが活動する環境を整えることを目的として、「一時出家修道会」を企画しました。

ご存知のとおり、今年八月の第一回「一時出家修道会」は成功裡に終了しました。このたび第二回を開催することが決まりましたので、ご案内いたします。個人的な修行に留まらず、日本に初期仏教を伝えるために貢献したいという志を持つ若い世代の積極的な参加を期待しています。

指導:アルボムッレ・スマナサーラ長老
会場:マーヤーデーヴィー精舎(兵庫県三田市)
日程:2018年12月28日(金)~2019年1月6日(日)9泊10日

※一時出家希望の方は〔日本テーラワーダ仏教協会 第二回「一時出家修道会」実施要項(申込案内,PDFファイル)〕をダウンロードして参加条件などを確認の上お申し込みください。在家として修道会のお手伝いを希望する方もぜひお読みください。







ひとり言 | 18:25:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
「瞑想は逃げなのか」~心に向き合う勇気~
 









#jtba「瞑想は逃げなのか」~心に向き合う勇気~ #仏教 #Buddhism #スマナサーラ長老 #瞑想 #逃げ #観察 #悩み

Q:悩みごとに苦しんで結果を出すことが成長ではないのですか?瞑想で忘れるのは逃げることになりませんか?

A:悩み苦しみから逃げようとしているのは、瞑想をしない人々です。瞑想で一切の悩みに答えが出ます。すべての悩みが消え、完全な心の安らぎを得られます。あれこれと自分勝手に悩んでも何も答えは出ません。ヴィパッサナー瞑想とは苦しみから逃れるものではなく、苦しみみ真っ向から対応することです。

 感覚を観察して、客観的に見るのです。肉体的な苦しみが生まれたら、「痛み」と観察する。精神的な苦しみは「悩み」です。悩みが起きたら、「悩みがある」と観察する。このように実践すると、悩み苦しみはどのように現れて、どのように消えるものかというプロセスが見えてきます。それで、悩み苦しみを乗り越えることができるのです。

 医者のやり方と同じです。医者は病気を治す職業ですが、病気から逃げることはしません。病気を発見するのです。病気に適した治療を行うのです。それで治るのです。病気を治したければ、「私は病気ではない」と逃げるのではなく、病気に真っ向から向き合わなくてはいけないのです。

Photo by Darius Bashar on Unsplash
▼参考テキスト
単行本「自分を変える気づきの瞑想法【第3版】」
https://goo.gl/rvu4TW
~生きとし生けるものが幸せでありますように~


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協会 更新情報 | 15:38:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
マインドフルウォーク 歩く冥想
 




協会の記事ではありません。
吉水 秀樹  安養寺住職 のfbより紹介です。




 マインドフルウォーク 歩く冥想

 今朝は少し肌寒く、長そでのTシャツを着て裏山を歩きました。澄んだ空気が心地よく、なめらかな湿り気を含んでいました。私の歩く道では人に出会うことはあまりありません。オートバイや車の危険を感じることもありません。動物に出会うことは希にありますが、危険な動物にあう心配はありません。里山に吹く風と、多くの鳥たちの囀り、小川のせせらぎに触れ、ときおりトンボや蝶々などの小動物を見かけます。自分のこころの動きを見守っていれば、ひと欠片の憂いもありません。ただ一つの憂いは蚊に刺されることですが、殺さないように気をつけて払うので、これも大きな問題ではありません。
 毎日同じコースを歩きますが、毎日ちがった発見がありその出会いが楽しいです。若い頃はこのような穏やかな感情のともなわない幸福を知りませんでした。何かを得ることや達成することにしか喜びを感じなかったのでしょうか。今思えば、幸福を求めること自体が不幸せです。

 歩く冥想では、目的を持つと空間がなくなります。集中があると空間が狭められます。集中とは排除の運動であり、抵抗を含んでいることに気づくべきです。それで、努力と分裂が生まれます。集中には方向性や、それゆえの思考も含まれていますが、気づきには方向性も思考もありません。
 
 マインドフルネスとは、このような運動から離れて、無選択に気づくことだと思います。集中力は大切ですが、「気づき」と「集中」は別ものです。ヴィパッサナー冥想の初心者には集中冥想と観察冥想の違いを理解していない方も多いと思います。日本仏教の宗派が教える、念仏や禅の修行は前者に傾倒していると私には見えます。
 また、「集中」と「集中力」とは別物です。当たり前のことですが、「マインドフルネス」=「こころ全開」と「集中」は相反するこころのあり方です。「集中」することばかりに気をとられると、仏教の目指す到達点とは違った方向に進みます。ただ気づいているということが肝心です。

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ひとり言 | 09:27:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
冥想日記 ―昨日学んだこと―《 最初で最後の一手 》
 




協会の記事
ではありません。
吉水 秀樹  安養寺住職 のfbより紹介です。




  冥想日記 ―昨日学んだこと―《 最初で最後の一手 》

 初めに、仏道を進む邪魔をするものは感情(煩悩)です。三毒煩悩は貪瞋痴、「欲」と「怒り」と「無智」です。冥想の邪魔をするのは他の人や外界ではなく私自身です。

 昨日の朝、もうすぐニャーナラトー師を迎えての冥想会があるので、当日の歩く冥想コースを歩きました。一周20分ほどの裏山と竹藪の小道です。九月の雨のせいで雑草が伸び、夜露で靴やズボンの裾が濡れました。その時、「草刈をしよう!」と思いました。草刈り機を使えば15分で作業は終わると午後の予定に入れました。お堂に戻っていつものように、慈悲の冥想をしてから坐る冥想に入りました。坐った途端に「草刈がしたい!」と、欲の衝動が生まれ、冥想の邪魔になりました。これは日常によくあることです。朝の冥想の後に予定していることへの意欲が衝動的に必ずと言っていいほどあらわれます。買い物・洗濯・仕事・勉強・人と会うこと…、何であれ予定にいれて「~しよう」と考えている欲・意欲・意志が冥想の邪魔をします。

 しかし、昨日はいつもと違った気づきをしました。確かにさっき「草刈をしたい!」と欲が生まれたのは覚えていますが、午前にはするべきことがあるので冷静に「午後に草刈をしよう!」と考えたはずです。それなのに、何故坐った途端に「草刈がしたい!」と冥想の邪魔をされるのかが納得いきませんでした。そのとき静かに、自分のこころの深奥を観察してみて、とても大切なことに気づきました。

 「草刈がしたい!」という欲と、「午後に草刈をしよう!」という思考は別物です。後者は理性で考えたことですがあと付けです。前者が最初の欲の衝動です。そして、欲には理性はまったくありません。欲は貪瞋痴100%であって、ひと欠片の理性もないのです。この一瞬の観察は私にとって、とても大切なものでした。今後の私の人生の苦しみを確実に減らしてくれます。

 今まで、私はみんなの為に「草刈をする」ということは善行為だし、冷静に冥想の後で午後にしょうと考えているので、どこにも問題は無いと考えていました。これは甘い観察です。

 最初の「草刈をしたい!」は欲であり、これがこころに記憶の痕跡を残しています。つまり、「草刈をしたい!」は善行為どころか、三毒煩悩の貪欲にちがいありません。そして、貪欲には理性はまったくないので、坐った途端に「草刈がしたい!」と言い出します。私は、この瞬間にこの衝動を否定することも肯定いることもなく、一部始終をありのままに観たので、この衝動は私に邪魔されずに、花が咲いて自然に枯れて消えました。

 子どもの頃に読んだ仏典童話では、ブッダが菩提樹下で冥想しているときに悪魔が誘惑にやって来ます。ブッダが明けの明星が輝くころに「悪魔よ立ち去れ!」と悪魔との戦いに打ち勝ったとあります。あれは間違いです。ブッダは悪魔とも悪魔の誘惑とも戦ったりしていないのです。ブッダは静かに坐って、何もせずに悪魔の誘惑をただじっと見ていただけなのです。一輪の花が咲いて、そして自然に枯れて終焉を迎えたのでしょう。
 私も「草刈をしたい!」という悪魔の囁きに、反対も賛成もせずにただ静かに眺めることができたので、その欲望は花が咲いて、そして自然法則で枯れて行きました。
 辛抱強く、ただ坐ってありのままを観ることが、最初で最後の一手です。

ニャーナラトー師は "Doing nothing"と教えて下さいました。











ひとり言 | 09:36:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
 ヴィパッサナー冥想 ―風を観る―

   ヴィパッサナー冥想 ―風を観る―

 もし、あなたが日常生活で窓の外を見て「風か吹いている」と言っても誰もその言葉を疑うことはないと思います。しかし、あなたが冥想中に「風が吹いている」と考えたら、それは問題です。思考を捨てるのが冥想とか、「名称や命名」と「それそのもの」は異うということは、冥想者の誰もが一応認めていると思います。ヴィパッサナー冥想では、「音音音」など言葉は用いても、固有の名称を使わず対象そのものを思考なしで観察します。

 ところで、名称とそれそのものはどのくらい違うのでしょうか? よく、大きな違いを「月とスッポン」「天と地」などと表現しますが、名称とそのものは、月とスッポン以上に異います。かた方は存在しますが、かた方は存在すらしません。比べることもできないのです。名と色、ナーマnāmaとルーパrūpaの異いです。比べることもできないと了知することを、名色分離智慧とも言い、悟りの第一段階と言われています。

 この真理について、「風」とい名称と、「風そのもの」を題材にして考察してみます。
 先日、台風のあくる朝坐る冥想をしていました。こころが落ち着いたころ風を感じ、「風が吹いている」と五蘊が働いて認識しました。次の瞬間に、これは危ない、妄想だと思いました。風は名称であり、知識や記憶であって過去のものです。名称が働くと、ありのままからは遠く離れてしまいます。「風」という言葉はなんとつまらない単語でしょう。実際、そこにある風そのもの、風のクオリア(質感)はとんでもない、巨大なうねりをもった真実在です。風と呼んでいる対象を如実に観察してみました。

 まず、音に触れています。笹の葉や木の擦れ、落ち葉の舞う音が同時に何重にも重なっています。これらの音から、私が空間をつくります。2.3m.から、50m~1㎞ くらい、音から私の周りに圧倒的な時空が生まれます。また、耳では音だけでなく耳のまわりの空気が動いて気圧の変化を感じ、私を取り巻く空間じたいが生きものようにうねり動いています。耳識だけでも、音と上下左右の空間と気圧…など、とんでもないクオリア(世界)をつくっています。
 音の他に、耳や首筋に触れる空気が流れていて温度も変化しています。風が運ぶ空気には微細な湿り気や植物の香りが混じっています。これらが、刻々と変化しながら触れて、私がつくった時空の中で、音・気圧・温度・香り・光・重さ…などが変化する質感を「風」と呼んでいます。「地」や「水・火・風」のエネルギーを部分的に直観します。
 
 このように変化する感受から、認識が生まれてそれを「風」と呼んでいます。風という言葉を使わないと、このような刻々と変化する感受の世界が無限に広がります。毎日同じように、同じ場所で、坐る冥想をするので毎日同じという錯覚が起こります。しかし、同じ瞬間は二度とありません。風も常に新しく、同じ風は二度とありません。「風」も「私」も同じです。同じ風が二度とないように、同じ私は二度とありません。真実は私も今死んで、次の瞬間に生まれるということのようです。


  追記
 冥想で問題にするのは、生の全体性です。たとえば、「風」一つをとってみても、風は私の生の全体、世界から切り離せるものではありません。
私たちが何気なく言う「風が吹いている。」という言葉。「風」は分別であって、生の全体性から「風」だけを切り離して、あたかも「風」という実体があるかのように錯覚妄想して、そこから見解をつくり記憶化知識化します。なんとつまらない作業でしょうか、その繰り返しは何とつまらない人生でしょうか。風ですら、私の人生の一部であり、世界の一部です。風を観ることは、けっきょく自分を観ることです。世界を観ることになります。このとき気がつけば小さな自我は消えて、安らぎや美しさ、生の全体性があると思います。


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ひとり言 | 09:30:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
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