
社長ブログ(ほぼ毎週金曜日更新)
祇園精舎――ブッダの聖地2562(その7)
インドのカピラ城趾 ルンビニーを後にした僕らは、 ネパールからインドへと再び...
Author:zaike2号
東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。
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日本で次の世代にお釈迦さま本来の教え(初期仏教)を根づかせるために、出家比丘サンガの存在は欠かせません。(宗)日本テーラワーダ仏教協会では、日本で初期仏教を学ぶ人々のあいだで出家に対する理解を深め、将来的に出家比丘サンガが活動する環境を整えることを目的として、「一時出家修道会」を企画しております。
このたび第三回「一時出家修道会」を開催することが決まりましたので、ご案内いたします。個人的な修行に留まらず、日本に初期仏教を伝えるために貢献したいという志を持つ若い世代の積極的な参加を期待しています。
「一時出家修道会」の主役は出家者だけではありません。この修道会は、出家と在家が両方参加し、互いに協力し合って初めて成り立つ行事です。ある人々が出家者としての役割を担い、他の人々が在家者の役割を果たすのであって、両者は一体です。また、歴史的な経緯で出家の形を取れるのは男性(比丘)に限られますが、仏教に性的な役割分担はありません。男性の方々も、お世話役に積極的にご参加ください。(在家のお手伝いについては、関西メーリングリストの情報をご参照ください。)
今回「一時出家修道会」に出家役として参加する方々は、終了後に全員還俗することになります。還俗後は、出家修行で培った体験を活かし、より広く深い知見をもって日本の初期仏教を盛り立てて頂きたいと願っています。仏法が広まりますように。
以上。
『欲界からの脱出計画』
※スマナサーラ長老「ブッダの脱獄計画」参考
お釈迦さまは、欲界から脱獄するには、五つの束縛を解きなさいと説かれました。これを【五下分結】orambhāgiya-saṃyojanaと言います。
※「結」saṃyojana とは、人々を輪廻に縛り付けるという意味です。
①『有身見』sakkāya_ditthi
「私がいる」「ある」「生命に永遠の魂や真我がある」という誤見。
②『疑』 vicikicchā
「何もハッキリ分からない鈍さ」「YESかNOかハッキリしない状態」情報を詳しく検べようとせずに頭から否定することや、人からの伝聞を鵜呑みにして信じることも「疑」になります。
③『戒禁取』 sīlabbata_parāmāsa
生きることのカラクリを発見すると、儀式儀礼をおこなうだけ、戒を守るだけでは、解脱に達しないのだと発見する。解脱に達するためには、真理をありのままに知る智慧が必要です。
④『貪欲』kāma_rāga 色声香味触に対する愛着。何か欲しい。何かになりたがる。
⑤『瞋恚』patigha 色声香味触という対象に愛着できない場合に現れる「怒り」。
●以上の「五下分結」のすべてを解き放ったら、仏教用語で不還果に達したと言います。その人は、地獄・畜生・餓鬼・人間・欲天に生まれることがなくなるのです。輪廻転生しても、苦しみがほとんどない、安らぎに満たされている梵天に限られると説かれています。
★最後の関門。まだ解かれていない五つの束縛が残っいます。これを【五上分結】uddhambhāgiya saṃyojanaと言います。先日お話しました「慢」など、預流果になっても残る手ごわい煩悩です。
⑥『色貪』rūpa-rāga 色界に対する欲望・執着
⑦『無色貪』arūpa-rāga 無色界に対する欲望・執着
⑧『慢』mānaマーナ
⑨『掉挙』uddhacca 色界・無色界における心の浮動・浮つき
⑩『無明』avijjā 根本の無知・諸悪、輪廻の根源
以上の【五上分結】です。これも捨てなさいとお釈迦さまは説かれます。pañca jahe(五つの捨)
#jtba Youtubeチャンネル新着:【法話】無常観――悦びの心、安らぎの心を得る
「永遠なるもの、完全なるものを否定し、心の自由を得るためにいかに無常を捉えたらいいのか。」
1995年11月11日かやの木会館で収録されたアルボムッレ・スマナサーラ長老のご法話を公開します。
『欲界』 kāma-avacaraとは?
実は私は初期仏教に出会うまで、この世は幸福な世界であるあるべきで、基本この世こそが素晴らしい世界だと思っていました。他の世界の存在すら知らなかったのです。しかし、今はただこの世は「欲望の世界」だと思っています。
さて、みなさんはこの世の中をどのように見ておられますか? これはたいへん根本的な問題です。
学生時代から仏教用語としてのこの世の見方は知っていました。娑婆・忍土・穢土・五濁悪世・俗世間・此岸・迷いの世界…など、たしかにろくな表現はありません。浄土教は、厭離穢土と言ってこの世を厭う(嫌う)ことが根本にあります。
仏教では存在の世界を「欲界・色界・無色界」の三つに分けています。基本、欲界の生命は肉体(色)を持ち、その肉体の感覚器官の刺激によって生きています。つまり、私たちが生きているこの世界は、「欲界」なのです。
「欲界」は欲望のある生命が住む世界で、八大地獄から六欲天までの領域であり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道が欲界に含まれています。私もあなたもゴキブリさんも天女もこの欲界に生きている衆生です。この世界では生存の為の、せめぎ合い・争いが繰り広げられ絶えることはありません。
★欲界の「欲」kāmaカーマの意味は、感覚器官に触れる対象のことです。
眼耳鼻舌身
触 ↓↓↓↓↓ 触れる
色声香味触
眼に見える対象【色】・耳に聞こえる対象【声】…舌に入る対象【味】身体に触れる【触】 色声香味触が「欲」です。
★欲界の「界」avacaraの意味は、「その辺をグルグル回っている」とい意味です。六根に触れる六境を縄張りにしてグルグル回って動いているという意味です。
冥想によってこの辺りの動きをありのままに観察できるようになると、こころが落ち着いていきます。欲界はこの程度だと了知するのです。このようなこころの状態を基本「禅定」と呼んでいるのです。
テレビが画像を流していたとします。料理番組で美人タレントが美味しいと絶賛して何か食べています。「私もあれが食べたい!」とならずに、落ち着いています。トランプ大統領や阿部総理の言動が流れていても、韓国との領土問題や沖縄の基地問題が流れていても、欲界の生命は、食欲・性欲・所有欲・権力欲・自己顕示欲…生存の為の「欲」が原動力なので、直ぐに彼らの欲を取り除くことはできないなと、ストレスなく見ることができます。その上で彼らに「欲」のエネルギーをそれ以上与えない道が見えています。
◎この世の中、つまり「欲界」は、牢獄のようなものです。牢獄での境遇の改善を望んで、ソファーやテレビを集めて暮らすより、この牢獄からの脱出計画を練ることが肝心です。脱獄・脱出とは「解脱」のことです。牢獄からの脱出計画の最初にするべきことは、欲界に生きる生命(私)の姿をありのままに見ることです。
スッタニパータ 第1章の3 カッガウィサーナ・スッタ
Khaggavisāṇa-sutta 通称『犀角経』について
「犀の角のように独り歩む」、「犀のように独り歩む」と諸説あるようです。どうでもいいようなことなのですが、一応パーリ語を学んでいる者としてレポートしておきます。
一つの問題は、
Eko care khagga-visāṇa-kappo.
エーコー チャレー カッガウィサーナカッポー
khaggavisāṇaの訳し方です。
・Khagga ①剣 ②犀 男性名詞 剣と犀の二つの意味を持っている
・visāṇa 角・象牙
「犀の角」と訳すか「剣のような角」と訳すかの違いです。
パーリ語は単語の合成(compound)の仕方によって解釈が違ってきます。六合釈と言って、六つの合成の仕方があるとされています。
たとえば、学校に頭の禿げた先生がいたとしたら、その先生のことを「ハゲ」と読んだりします。本来「ハゲ」は頭髪の状態のことですが、その人自身を現す言葉に合成されています。
パーリ語では、象さんのことを「鼻が手」というような表現をすることが珍しくありません。なので「剣のような角」とは、「犀」のことでもあるようです。そう考えたら、この部分の訳し方は、「犀の角」ではなくて、単に「犀」になります。
確かに生き方は、「犀の角の生き方」ではなくて、「犀の生き方」と考えた方が理屈に合っています。
Eko は、eka 「一つ」の活用形
Careは、carati 「行く・歩く」の願望法optative
Kappoは、「~のように」
Eko care khaggavisāṇakappo.
独り 歩め 犀のように
エーコー チャレー カッガウィサーナカッポー
そのような訳で「犀のように独り歩む」の方が、私もいいかなと思います。
※あるサイトによると、
英語でも「Rhinoceros horn=犀の角」と訳しているものもあるようで、二通りあるようです。
Renouncing violence
for all living beings,
harming not even a one,
you would not wish for offspring,
so how a companion?
Wander alone
like a rhinoceros.
すべての生き物に対して
暴力を放棄し
何ひとつ傷つけることなく
貴方は 子孫を望まないはずだ
なのに、どうして道連れを望むことがあろうか?
独りで彷徨い歩め
一頭の犀のように
★このような細部はどうでもいいのですが、経典の大意に関しては、人任せにしないでそれぞれがしっかり学んで理解するべきだと思います。私は長老の仰っていることにも百%納得はいきません。
現時点で私はこの経の肝心な大意は、「仏教者はいつ如何なるときでも、組織・権威に対して注意深く、『独りあること』が大切」と理解しています。
※また、漢訳ではそもそも、「犀」でなくて「麒麟」と訳されています。
三月の言葉 2月19日(火)雨
「思考とは記憶の反応です。」と少し前に話しました。考えることは常に意識または無意識の反応です。考えることは言葉で表現することであり、それは記憶から生まれます。考えるには時間が介在します。そのような思考から、知識や観念、信念や信条が生まれます。ですから、知識・観念・信念・信条・信仰…、これらは思考によって条件づけされているのです。
あなたの行動が思考によって条件づけされていると、それは孤立したものにならざるを得ません。観念同士は必ず対立しあう仕組みになっています。 私とあなた、わが国と隣国、同じ原理です。
そこで、冥想とは思考によらない行動、観念の介在しない行為でなければなりません。儀式や儀礼は観念化されたものです。
ただ歩く、ただ見る、ただ聞く、独りある…と言っているのは思考や観念の介在しない行為のことです。ブッダの説かれた気づきの冥想を続けていると、人々が観念のせいでバラバラになっていることが見えるようになるはずです。
知識・信念・観念は元々、物事を分離させる性質がそなわっています。分別する、思考するとは、対象を分けることです。
『信念も信条も決して人々を結びつけません。それは常に人々を分離させます。』
行動が信念や信条、あるいは理想に基づいていると、その行動は当然ながら、孤立し断片化します。思考は時間のプロセスであり、打算や自己投影です。信条と否定、非難と正当化のプロセスです。国家も、宗教も、仏教ですら部派や宗派に分断されて断片化して、対立し合っている姿をありのままに見るべきです。
ブッダが「信仰を捨てよ」、「犀の角のようにただ独り歩め」と説かれたのもこのような真理に基づいていると私は思います。
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変貌するブッダガヤへの道――ブッダの聖地2562(その3)
4年ぶりにブッダガヤに来た。
前に来たときと様がわりしたのは、
セキュリティの厳重さだ。
ハラリは著書『サピエンス全史』の中で、
20世紀は戦争の時代と言われるが、
実際、戦争・テロリズムで亡くなった人の数は、
その前の世紀よりも少なくなっていると言った。
また、いまベストセラーの
ハンス・ロスリングの『FACTFULNESS』でも、
10万人あたりの戦死者数は、
1942年には201人だったのが、
2016年には1人になった、というデータが示されている。
この本の中で彼は、
「交通事故の死亡者数、5日連続ゼロ」というニュースは流れないが、
たとえば、「交通事故で家族5人全員死亡」というニュースは流れると言う。
つまり人は、ネガティブなニュースに飛びつくのだ。
まさにブッダガヤに入るまでの行程は
そのことをつくづく思いしらされる。
バスは途中までしか行けなくなってしまったし、
そのあとは、たぶん3回はセキュリティチェックをし、
アイフォーンや大きなカバンの持込は禁止。
セキュリティという名のものとで、
人の自由はどうなっていくのだろうか。
そういえば最近、自由という文字も、その言葉も、
めっきり聞かなくなってしまったような気がする。
〈ブッダの聖地〉ブッダガヤ・大塔
やっとたどり着いたブッダガヤは、それにしても素晴らしかった。
僕たちおおよそ100人は、
いつもはチベット人に占領されている
金剛宝座の前に大きなシートを広げ、
長老を先頭にして座り、
みんなで一緒にお経をあげた。
もし極楽というものが存在するとしたら、
こういう光景なんだろうと思わせてくれる経験だった。
その後、スマナサーラ長老は金剛宝座の横で、
一人ひとりの腕に聖糸を巻いてくれた。
そして長老は、ブッダが正覚した後に一週間ずつ禅定状態にいた7カ所を、1カ所1カ所まわり、僕たちに説明してくれた。
日本のことが少し気になっていた僕の心をよそに、
みんなの表情は徐々に晴れやかになっていった。
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スジャータ村、再び――ブッダの聖地2562(その2)
2月10日。今は、古代インドのマガダ国の首都・
王舎城の城内をバスで走っている。
美しくも広大なところだ。
それにしても一昨日8日の、
バラナシからブッダガヤへの道のりは長くて遠かった。
いちおう高速道路と言っているが、それは名ばかりで、
出口の見えない渋滞にはまってしまった。
高速を逆走する車もいたが、
インドでは当たり前のようで、
みんな驚いていた。
そして、バラナシを出てから12時間かかり、
夜になってやっとブッダガヤの街にたどり着いた。
ブッダガヤの街についた翌日の9日の朝は、
この季節のインドには珍しく、土砂降りの雨だった。
ブッダの聖地・大塔に向かう前に、
近くにあるスジャータ村に寄った。
僕たちはスジャータが住んでいた場所にある
大きなストゥーパの前で、長老の解説を聞いた。
そして、みんなでストゥーパを回り、お経をあげた。
朝まで降り続いた激しい雨のせいで、
スジャータ村の地面は泥状態だった。
そのあぜ道を歩いて行けば
スジャータ・テンプルのほこらがあるので、
そこまで行こうかどうしようか、という話になった。
何回かここに来ている僕にとっては、
そのほこらまで行くのには気が引けたが、みんな行くと言う。
このときも僕は、みんなのエネルギーに感心させられた。
そして、スジャータ村には、
物乞いの子供たちがたくさんいる。
“How to deal with MONOGOI.”は,
聖地巡礼には必須の心得である。
ガイドさんは「何もやらないでください」と言うが、
そう心に決めてしまうと頑なになってしまって、
心が引きこもり状態になってしまいそうだ。
かといって、オープンにしすぎると、
いくらお金があっても足りなくなってしまうだろう。
「相手の話に耳をかさない、相手の目を見ない」。
これが物乞いや売り子たちへの対応の基本編なのだが、
参加者の何人かがやっていたやり取りがある。
それは、売り子に自分が持っているものを売りつけようとすることだ。
すると、売り子達は黙り込んでしまっていた。
これはもしかすると、上級編かもしれない。
そうして到着した懐かしいスジャータ・テンプルは、僕たちを温かく迎えてくれた。
スジャータ・テンプルへの参拝を終え、
僕たちはこれからついに、
ブッダの聖地・ブッダガヤの大塔(マハーボーディ寺院)に向かう。
ところで話はそれるが、
ブッダガヤの街では、
仏像などを置いている店に立ち寄った。
僕は誕生仏が好きなので、
前もタイから誕生仏仕入れたことがあった。
木製のものと真鍮製のものがあったのだが、
スマナサーラ長老が
「甘茶をかけるときはこちらのほうがいいでしょう」
と言い、真鍮製を指さした。
真鍮製にも2種類の誕生仏があり、
その表情も微妙に違うので、
これも長老に選んでもらった。
それがこれだ。
今回は、インドツアー記念ということで、
ブッダガヤ現地から販売を開始することにした。
1尊しか買っていないので、欲しい人はお早めに。