
お金があれば幸せ❓詐欺、骨肉の争い、殺人事件あるけど😅
楽しければ幸せ❓老化、病、死は避けられないのに😅
神様、占い、御守りに依存し、心を込めた祈りを捧げる❓それで人生助かるなら努力も道徳も不要😅
私達は心を育てないと😊幸せの鍵🔑は心にあるよ😊
理性と慈悲と不放逸と道徳を育てるのだ🎉
とはいえ、とにかく私達は生きていたい‼️
毎日の生活が苦しくて老いて病におかされ死を迎えるさだめでも‼️
それらはたしかに不安で、逃げたくて、避けたくて😱
神に祈り、財産を集め、美味しい物を食べ、遊びほうけて、アンチエイジングに励む😙
生きる=日々の不安・老化・病・死
この当たり前の法則に抗いたい気持ちこれが生存欲です‼️
しかし、一朝一夕にこの生存欲を無くすことは難しいのです😁
だからまずはお金に対する意識をみてみましょう😊‼️
生きていれば使う一方だから金の心配をしない人はいませんよね😁
たまに大富豪もいますがその人達もお金の管理運用は必死になっているのです🤣
昔も今も人類金・金🤣金に命をかけてる🤣
進歩しね~な🤣という感じでしょう🤣🤣🤣
お金は人生の目的じゃないよ😁‼️
ここは忘れないで🌷
生きる道具だ‼️
今ある金でなんとか生きられたら、それで人生OKよ😊👍
人間として立派であることが何よりも重要だよねっ😊💕これこそを人生の目的にしなくちゃ😊💖
家族が1カ月生きて行けるだけの収入があれば十分だわ😊という気持ちで仕事を頑張ってください⭐️
そうすれば
🌸武士は食わねど高楊枝🌸
という生き方が見えるはずです😁
端金欲しさに金持ちの傲慢なツイートをリツイートして自分のページを汚す必要がなくなります‼️
悪事・不正も不要になります😁‼️
他者に欲を煽られない人生は気持ちいいはずです😊💕
強く欲があること、欲を煽られることは、のどが渇く姿に似ています😱
もっと欲しい
当たったら嬉しい
あいつは当たった
なぜ当たらないんだ
次は当たるハズ
ね😅まだまだ飲み足りない💦
もっと、もっと☄️
このように人は欲望の奴隷になります😩
他人にすぐに端金で支配されたがるのです🤣🤣🤣情けないでしょうにね~😁🤣‼️
だから仏教は
少欲知足🐛
の実践を勧めるの😊
私達の心の安らぎの為にね🌷
お金は道具って言ったよね😊
さらに言うと仏教では
肉体も道具なんだ😊
最後は置いていくでしょう😊❓
肉体があなたの全てではない‼️
この肉体がある間に⋯
善行為ができれば
慈悲心を育てられたら
貪りが不要だと分かれば
世の中も自分自身も刻々と変化し続けていることが観察できれば
あなたは凄い発見をするのです😁‼️
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きんおヾ(🌸╹◡╹)ノ゙🌸(一応僧侶)
@happyzenyu
#jtba 【初期仏教Q&A 】ブッダの智慧で答えます(スマナサーラ長老)気楽に生きることと責任を果たすことの両立/義足でのヴィパッサナー瞑想
新着動画をアップしました!2019年3月22日に収録したQ&A動画です。視聴者の皆様から届いた質問をスマナサーラ長老にお尋ねしました。今回は長老が退院直後のため、ショートバージョンでお届けします。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
https://www.youtube.com/watch?v=Ex3lJdRpL1M&feature=share
協会の記事ではありません。
木下全雄 さんの ブログより紹介です

何度失敗してもあきらめず
注意を受けても投げ出さず
生きていること自体が修行だから、とにかくあせらないで
できる限り丁寧に細かく
自我で追い求めることなく
冷静に希望的観測を入れず
現実と非現実とを区別して
変化を見逃さない
これは修行で大切な心構えですが、幸せに生きる上でも大切ですよね😊
さらに理性的な方なら
私達がお世話になっているのは神様ではなくて、人のつながりだ
全ての生命は殺されたくない
自然は慈しみを与えてくれる偉大な存在ではなくて、人が自然に合わせて生きているのが事実だ
拝むと幸せになるのではなく、自分の努力が必要だ
みんなのお陰で命が成り立っている
ご先祖様が見守ってくれるじゃなくて、自分で道徳守らないとね
神様仏様助けてじゃなくて、いつ見られても恥ずかしくない生き方しないと
私を幸せにして🙏では永遠に満足しないと気づかなくちゃ
みんなの幸せが自分の幸せに不可欠だと気づかないとね
あなたの存在が誰かを幸せにしていることにも気づいて欲しいな😊
誰かに迷惑をかけているかもしれないけれど、誰かを支えてもいる😊
たとえあなたがご病気でも医療関係者の方の生活を支えていることになるでしょう❓
お互い様だねぇ😁
神様ありがとう、などと空想世界で遊ぶ暇は本当は人生には無い
生きとし生けるものが幸せでありますように
確かに日本のお寺でも神社でも教会でも
祈りを捧げるべきだ
と説いて来ました😅
見返りに
願い事が叶う
と説いて来ました😅
しかしどうだろう
非科学的じゃないでしょう😁❓
願えばいつも叶った😁❓
私達は
理性でその信仰から脱却しよう‼️
あるいはそれが無理なら
祈りを卒業して
慈しみの心を育てる段階に進もう‼️
と決して欲しいな😊
こういうまともな話をすると
私は神様に救われています
私は仏様に守られています
なんで私の信仰の邪魔をするのか
ワラにもすがりたい人がいるんだ、口を出すな
と反論されますよ、必ず😁
ねぇ、人間って知的に生きた方がカッコよくない😊❓
創造という想像世界を信じて生きるって、半分寝ながら夢うつつで生きてるレベルよ😊
信仰心がどうであれ、
生きとし生けるものが幸せでありますように
とは思っています😊
だから今日も135回目の献血😊❤️
非難しているのではなくて
バカにしているのでもなくて
理性的に生きることが、私達の本当の幸せにつながることをお伝えしているのです😁‼️
協会の記事ではありません。
「刺激がないと死んでしまいますから」
関西ダンマサークル黄檗道場 平成31年3月16日 参加して
ここでも資料は、3月号のパティパダー「智慧の扉」の例の資料でした。
★刺激がないと死んでしまいますから、死なない程度に刺激を与えるのです。
この言葉はとんでもない内容だと私は思います。ふつう私たちは、「生きていて刺激を楽しんでいる」位に理解していますが、真相は「刺激がないと死んでしまう」というのです。
俗世間で生きるとは、刺激を受けて、自ら刺激をつくって、釣り針で対象を釣り上げることです。それでこそ生の実感があると言うのでしょう。美しい! 美味しい! 楽しい!
釣り針に対象を引っかけて、その刺激を楽しむことが人生なのです。
しかし、確かに死とは、身体からすべての感受(刺激)がなくなることです。肉体の死がやってきても、まだ何かしらの刺激が欲しいから輪廻して次の身体を得るということでしょうか?
ヴィパッサナー冥想では、感受にとどまると言います。この意味は生きるに必要最小限の刺激にとどまることだと思います。そして、それは普通の人にとって楽しいことではありません。光や音、刺激に触れて、美しい、美味しい、楽しいと刺激を追うことが人生の醍醐味なのに、音でとどまる。味でとどまる。これが釣り針のない釣りで例えられる、冥想の道しるべです。それは俗世間ではつまらないことです。何とも居心地が悪いのです。だって、どんな対象に触れても、見たら見ただけ、聞いたら聞いただけ、考えたら考えただけですから。
海に釣りに出かけて、本当に釣り針をつけずに釣りをしている自分の姿を想像して見てください。何とも味気ないです。しかし、それこそが冥想の道しるべなのです。
冥想で感受から受ける「喜悦pîti」の質の異いが分かれ道なのでしょう。ですから、日常生活で楽しい刺激を探してる、冥想でも何かしらの境地を求めている、涅槃を対象化して、解脱寸前など言ってる間は、正精進の道から外れているということでしょうか。目標を対象化して「ある」としている間は、ただの釣り人です。外にも内にもなにもない、すべてを放っておくということなのでしょう。
「刺激がないと死んでしまう」は、事実だと思います。
今月の智慧の扉には、興味深い言葉が他にもあります。まさに智慧の扉です。
★貪欲は満たせないと知る人は、必要を理解するのです
★知足とは、喜び・満足という意味です

https://www.youtube.com/watch?v=FaFRZnSMYg8&feature=share
#jtba YouTube新着動画|【法話】脳がつくりだす欺瞞・幻覚・物語を乗り越え、こころの安らぎに達するブッダのプログラム(花まつり法話)
2013年4月7日(日)日本ガイシフォーラムで開かれた「名古屋初期仏教デー花まつり法要」より、アルボムッレ・スマナサーラ長老の記念法話を配信いたします。(撮影:東海ダンマサークル 船橋壯吉さん)
協会の記事ではありません。
『冥想日記』 ―バーヒヤ経の実話―
日曜日は法事が二件ありました。午前は寺から20㌔ほど離れた京田辺市の檀家宅でした。小雨の中を自家用車で移動しました。走り慣れない帰りの道、前方が混雑していました。迂回しようと考えて私は右折しました。すると「ピッ!」という笛の音が聞こえて警察官に止まるように指示されました。そこは見渡しのよい道でしたが、右折禁止の場所だったようです。「かんべんしてくれよ!」私はこころで叫びました。警察官は左に停止するように促しました。「しまった!」という後悔の感情が湧きあがりました。怒りの波動です。気分はよくありません。「4年以上は無事故無違反なのに…、来年の更新はやっとゴールド免許が受けられると思っていたのに…、私のどこが悪いの!」こころに不愉快な感情が次から次へと浮かびました。私はもう覚悟を決めるしかないとこころに思いましたが中々不愉快な感情は止みません。警官は若い女性でした。決して偉そうな態度ではありません。私は不愉快な感情があるので彼女を無視はしませんでしたが、表情など真正面からは見ませんでした。この状況が気に入らないのです。
警官が切符の準備をしている間に状況を冷静に見てみました。彼女は小雨の中、雨合羽を着て右折禁止の取り締まりをしていたようです。この場所はよく間違えて右折する人が居るからでしょう。私の行為は明らかに道路交通法の違反です。私は無謀な運転手ではありませんが、決して模範的な安全運転者でもありません。20㌔程度の速度超過は日常的に犯しています。一旦停止なども簡単に済まして、安全確認を怠ることもあります。今回捕まったのは、4年ぶりではありますが、当然の結果です。あなた気をつけなさいという警告と受け取れば、大きな問題でも、不幸な出来事でもありません。
罰金は7,000円でした。お金がないわけでもないので、罰金を支払えばそれで一応の問題は解決します。帰り道は、愉快ではありませんが、落ち着いて普通に帰りました。ふだん平穏に暮らしているので、このような出来事でもこころへの影響はけっこう大きいです。何度となく場面が自分の意志と関係なくフラシュバックして浮かんでしまいます。こういうのをトラウマというのでしょう。
明くる日の朝、慈悲の冥想をして坐って静かにもう一度考えてみました。現に不注意だったので、安全運転に努めなさいという警告と理解したら決して悪い出来事ではありません。
何より、あの若い女性警官を人間として見ていない自分に気がつきました。彼女の態度はけっして失礼なものではありませんでした。思い返したら彼女の最初の言葉は、
「お仕事中なのですね。」「すみませんね。」「初めてこの道を通られたのですね?」でした。
彼女はただ忠実に仕事をしていたのでしょう。それに彼女の言葉からは、哀れみとか相手に対する配慮、年配の僧侶に対する敬意も、冷静に思い返したら感じられました。雨合羽を着て仕事をしている彼女の姿を思い出したら、「お互い様、ご苦労さん」といった感情が出てきました。まぁ、嬉しい出会いではありませんが、これも何かの縁です。
私はただ自分の小さく固まった姿が哀れに見えました。坐る冥想を修した後は、悪感情は消えました。冷静に見たら、「ピッ!」と笛を聞いた時点から、私が勝手なストーリィをつくったことが見えてきました。過去の経験(カンマ)から、見たこと聞いたことをありのままとはほど遠い悪い出来事、不愉快な出来事として創作した自作自演の不幸な物語、妄想です。
どこにもそのような「悪」「不愉快」にあたる事実はありません。
くだらない、オヤジの愚痴のような日記ですが、気づきの冥想の真価はこのような日常にこそあらわれると思います。物理的な記憶は残っても、心理的な記憶の痕跡を残さないこと。悪感情から一刻も速く脱出すること。
車の運転をされるF友の皆さま、どうぞ本当に不幸な事故が起きないように、安全運転にも気をつけて運転してください。
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『吉水さんよ。見るものは見ただけで、聞くものは聞いただけで、感じたものは感じただけ、考えたことは考えただけでとどまりなさい。そのときあなたは、外に対象をつくらない。内にも悪感情をつくらない。外にも、内にもいないあなたに悪感情(煩悩)の漏れはない(無漏=涅槃)。それは一切の苦しみの終焉である。』 小部経典バーヒヤ経より
生あるものに幸あらんことを!
#jtba STORES新着!中部22「蛇喩経」講義――蛇を頭でつかむ誤解の危機(MP3音声zip圧縮)
【概要】アルボムッレ・スマナサーラ長老によるパーリ中部22「蛇喩経(Alagaddūpamasuttaṃ)」講義を収録。私たちはお釈迦さまの教えの一部を切り取ったり、勝手な解釈をしたりして、「知ってるつもり」になりがちです。しかし、大蛇の尻尾を掴んだら痛い目に遭うように、仏教への誤解は時に命取りにもなりかねない危険なことなのです。仏道修行者が陥りがちな危険に警鐘を鳴らす重要経典を読み解きます。有名な「筏のたとえ」もこの経典に登場します。
※ダウンロードしたzipファイルを展開(解凍)すると、6つのファイルが表示されます。音声再生ソフト等でお聴きください。カセットテープを原盤にMP3音源入りCD-R(AM-9)として頒布された音源です。録音が古いため、お聞き苦しい箇所もあります。予めご了承ください。
※パーリ中部22「蛇喩経」の原文と日本語訳は光明寺経蔵( https://komyojikyozo.web.fc2.com/ )で公開されています。
「蛇喩経」(『中部』22)直リンク
https://komyojikyozo.web.fc2.com/…/mn03c04.fil…/sheet001.htm
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
協会の記事ではありません。
『仏教徒』
仏教徒・仏教者とは何でしょうか? 何をもってそう言えるのでしょうか。衣類や持物、外見で判断できるのでしょうか。組織に所属して信者になれば仏教徒なのでしょうか。自身を仏教徒だと思っている人は本当にいつでも仏教徒なのでしょうか。
私は仏教徒は、外見や行為によるものではなくて、現実の瞬間にその人がどのようなこころで生きているのか、その生きざまによるものだと思います。
★人間としての道徳を理解して、道徳を守ろうとする。人も他の生命も害することなく優しくある。そうなれないときでも、そのような努力を怠らない。人間らしく生きる道しるべとして、『戒』sîla =道徳があるのだと思います。
★こころの静寂をこのむ。こころは四六時中放っておけば刺激を求めて止むことを知りません。気づきを通じて、そのこころの静寂を愛する。これを冥想と言うのでしょうか。『定』という言葉は、こころの静寂、冥想を生活の中軸にして生きることだと思います。
★このような生き方を実践すると、世俗に流されている人々とは、次元の異なった生き方へと進むことができます。ものごとの見え方、聞き方、考えに変化が現れます。焦って答えを選ぶような生き方から離れて、沈黙する喜びがあらわれます。厭離をこのむこのようなこころの変容を『智慧』というのでしょうか。
若い頃は「仏道とは三つを学ぶことである。三つとは戒定慧のことである」と杓子定規に理解していましたが、今は自然にこのような生き方が楽だと思うようになりました。
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協会の記事ではありません。
『ダニヤ経』を読んでくださったある和尚さんから、有り難い手紙を頂きました。その手紙への返信のおよそを今日の日記とします。
聖号 梅の花がほころび待ちわびた春を感じる時候となりました。先日はお手紙を有り難うございました。ダニヤ経の真価を感じて頂けたことが何よりの喜びです。
さて、以前に書いた『ブッダとなる瞬間』という拙僧の出版物を同封しておきます。日本仏教のお坊さんに読んで欲しい一冊です。
21世紀の現代、世界に起こっている仏教関連の出来事を見るに、私の見方では、初期仏教のあらたな興隆の気配を感じずにはいられません。しかし、私たち日本仏教の僧侶は、宗祖の教えから仏教に入門しました。それ故にその世界の動きに出遅れしている感じがしてなりません。日本仏教を否定する気はないのですが、とりわけ念仏宗には元気がないように思えます。私は仏教の歴史にしたがって、お釈迦さまの教え、すなわち初期仏教を学びその上から日本の祖師たちの教えを理解するべきだと考えています。そこで初めて自分の仏教者としての立ち位置が見えてくると思うのです。それには一旦、宗祖の教えを捨てなければ最初の一歩を踏み出すことができません。何よりの頼りにしていた信条、「念仏を捨てる」ということは簡単なことではありません。それが、ブッダが初期仏教経典で説かれている「信仰を捨てよ」という言葉と一致してきます。「犀の如くただ独り歩む」も同じ意味かと私は思うのです。私たちの先達の一遍上人は次のような言葉を残しています。
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念仏の行者で一番心に留めておくべきことは、南無阿弥陀仏ととなえるほかに何もないのである。昔から今日まで立派な人たちが定められた仏法の要義も、しょせんはかりそめのもので、真の念仏の行者は、そんなものは皆捨ててしまえばいいのである。わたしの先達である空也上人も、ただひとこと、捨てることだ、と言われたとある。これはまったく黄金のような言葉である。念仏の行者は、知恵も愚痴も、善悪の境地も、貴賤高下の道理も、地獄を恐れたり、極楽を願うたりする心も、悟りも、すべて捨てて申す念仏というものが、阿弥陀仏の本願に一番かのうものである。この心を心として声高らかに称名すれば、この世が浄土である。宇宙すべてのものは仏と一体になり、念仏をとなえているのである。もしわたしの言うことに納得いかないなら、それもそのままにして念仏を申しなさい。肝心なことは、愚かな者の心になって申すことである。
『一遍上人語録 捨て果てて』坂村真民 より
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おそらく、このような私の考えが主流になることはありません。それを承知して残された現世を独り生きることが私の仏教かと想う今日この頃です。
ダニヤが与えてくれたご縁に感謝いたします。
吉水秀樹 拝
#jtba YouTube新着:【法話】昨日よりましな今日を生きる――こころの貧困を打ち破るブッダの道
2013年1月6日(日)日本ガイシフォーラムで開かれた「名古屋初期仏教デー」より、アルボムッレ・スマナサーラ長老の新年法話を配信いたします。(撮影:東海ダンマサークル 船橋壯吉さん)