2019-06-24 Mon
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心のネットワークと業の法則 A・スマナサーラ長老
今・ここで生きている「自分」とは、生命のネットワークに繋がってエネルギーを供給されているひとつのユニットに過ぎません。ネットワークとは、異なるユニットの繋がりです。例えば皆さまの持っているスマホはネットワークで繋がったひとつのユニットです。スマホはネットワークに繋がっているからこそ意味があります。ネットワークに繋がっていなければ、情報をやりとりできないので何の役にも立ちません。できることと言えば、アラームをセットするくらいのことでしょう。
この現象は、生命の心の世界でも起きています。例えば家族が仲良くしているなら、家に帰ることが楽しいのです。ひとりで引きこもるのは気持ち悪くて、家族といると元気になる。皆様にも友達や仲間といることで楽しくなった経験があるはずです。それは心のネットワークが繋がっているということなのです。心のネットワークには、物理的な距離はありません。
心のネットワークのユニットたる「自分」は、単なる受信機ではありません。ネットワークに情報を送るデバイスでもあります。そこで、ユニット側から怒り・憎しみ・嫉妬・欲・わがままという自我の感情(エネルギー)を発信すると、ネットワークにウィルス(マルウェア)を仕込んだことと同じになります。あなたの自我の感情によって、ネットワーク全体が汚染されて、障害を起こして壊れるのです。個々の生命は、好き勝手に恐ろしい感情を発信して、いつでも心のネットワークを攻撃しているのです。心のネットワークは機能不全を起こして互いに安心・安全に生きることができなくなっています。結果としてネットワークの他のユニットから、自分に対して「不幸になれ」という信号が送られることになります。悪行為の結果は誰にも止められません。これは業の法則です。
では、反対のことをしてみましょう。心のネットワークに自分から慈・悲・喜・捨のエネルギーを送信してみるのです。すると見る見るうちに心のネットワークが正しく機能して、自分も幸福を感じられるようになります。関係するネットワークのユニットが、自分に向けて幸福に生きられるエネルギーを限りなく送り返してくれるのです。結果として、安心して寿命をまっとうして生きることができるようになるのです。これも業の法則です。
※二〇一九年 パティパダー七月号 智慧の扉
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2019-06-17 Mon
YouTube新着動画:瞑想と指導者の有無 #スマナサーラ長老 #ブッダの智慧で答えます #jtba #仏教
Q:ヴィパッサナー瞑想を進めていくためには瞑想指導者の指導を受けることは必ず必要でしょうか? 一人で修行し観察を続けても、指導を受け観察の仕方を変えない限り、一定のレベルから先へは進めないものでしょうか?
視聴者の皆様から届いた質問をスマナサーラ長老にお尋ねしました。2019年6月11日に収録したQ&A動画を数回に分けて配信します。その1です。
聞き手:佐藤哲朗(日本テーラワーダ仏教協会編集局長)
※生き方についての悩み、初期仏教への疑問など、長老にお聞きしたいことがある方はメール(info@j-theravada.net)または協会HPの質問BBSまでお寄せください。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
2019-06-12 Wed
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吉水 秀樹
集中と気づき
ブッダの気づき冥想を実践している人は、集中と気づきの違いや特質を理論ではなく身体で体得しなければならないと私は思います。何故なら、集中には危険な要素、排除するエネルギーがあるからです。集中力は大切ですが、ブッダの冥想は集中することが目的ではありません。気づきの冥想と呼ぶのはその意味かと思います。
多くの人は集中にエネルギーを使います。集中は楽しい面がありますが、基本的に気づきは楽しいものではないからだと私は思います。
そもそも、普通に使っている「楽しい」とは、「集中している」ことです。パチンコが楽しい人はパチンコに集中しています。釣りやガーデニングが楽しいという人は、それらに集中しています。セックスがこんなにも人間社会の中で多大な力を持っているのも、セックスがもたらす忘我 ―日常の苦しみのすべてを忘れさせてくれる集中性―が原因でしょう。
カエルでもヘビでも、智慧のない人でも集中から快楽や忘我が得られます。
「集中」は排除の過程です。境界があり制限があります。何か一点に集中しているときに、他の出来事をまったく見ていません。これが危険な要素です。ギャンブルや不倫やストーカー行為で人生を棒に振るのもこの作用です。背後に欲望が隠れています。
「気づき」には、境界も排除するものも選択もありません。気づきには限界がありません。知識も知識の蓄積も必要ありません。
「集中」によって冥想の目的を成就しようとするのは、知識を集めて真理を知ろうとするような愚かな行為です。
集中力は必要ですが、集中という努力によって気づきに至ることはできません。
集中は努力や訓練によって得られますが、気づきは訓練では得られません。
離れる、捨てる、すべて放っておく、無選択の気づき、なにもしない、釣り針のない釣り…、これらの言葉が私の道しるべです。
適度な集中力とたゆまぬ注意(気づき)が肝心かと思います。
2019-06-03 Mon

マインドフルな毎日
原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話
慈悲の心を育てる
アルボムッレ・スマナサーラ
昼も夜も害を与えない(慈しみの心)でいる比丘は、いつも覚醒してつねに冴えている。
「ダンマパダ」(300)
日常のなかで慈悲の心を育てるには、自分の気持ちを周りに広げてみて、相手の気持ちを理解してみようと努めることです。
たとえば満員電車に乗ったとき、「ああ混雑していやだなあ」と思うことがあるでしょう。そのときに「この電車に乗っている人も、自分と同じ気持ちなんだろうなあ」と、他人の気持ちを想像するのです。その瞬間に、それまでとは違う世界が生まれるはずです。
動物を見ても、植物を見ても、どんな生命を見ても、自分の心を広げてみるのです。すると、それぞれが等しく同じ生命で、大海のようにつながっているものだという感覚が生まれます。自分というものは、一滴の海水のようなものであって、特別な存在ではないということがわかってきます。その感情が生まれてきますと、「自分という我」が消えていきます。
自我中心的な人は、いとも簡単に「他人を嫌いだ」と思ってしまうものです。すると、相手も同じように「いやだ」という感情をいだきます。同じ質の感情が返ってくるのです。ですから、自分が他人にしてもらいたいのなら、まず自分が他人にたいしてしてあげることです。やさしくしてもらいたいのなら、まず自分が他人にやさしくするのです。心配してもらいたいなら、まず他人の心配をすることです。他人の幸せを願う行為は自分のためでもあります。
他人の幸せを願うことは、自分の心を喜ばせることになります。そして相手の心も喜びます。人の心が喜べば、同じ波動が自分に返ってくるのです。
人を祝福するとき、お互いがいい気分になります。祝福するほうも気持ちがいいし、されるほうも気持ちがいい。ともに喜び合えるのです。それが慈悲の働きなのです。
仏の教えを喜び、
慈しみに住する修行僧は、
一切の現象が鎮まることから生まれる
涅槃に到達するであろう。
「ダンマパダ」(368)
すべては心からでています。心があって、考え、話し、行動しています。すべては心のあらわれだから、心が汚れていればすべては汚れたものになります。心がささくれだって荒れていれば、争いが起きます。心が苦しめば、どこにいても苦しい世界です。天国に行けたとしても苦しいでしょう。
逆に、心が安らかであれば、どこにいても安らかな世界になります。やさしい慈しみの心があれば、すべては清らかになります。人間関係も円滑に進みます。平和な心があれば、平安な世界で暮らすことができます。
すべての発生源である心を清らかにすれば、自然に生きていけるようになります。だれかと会話をしていても、そのことばは相手にたいする憎しみや嫉妬、怒りのことばにはなりません。相手を傷つけることばではなく、自然と他の生命にたいしてやさしいことばになっています。
ところが、根源である心を清らかにしないで、「わたしはやさしいことばを使うぞ」と決意してみてもつらくなるばかりです。まずやさしい心を育てましょう。そうすれば、わたしたちの行動はやさしい行動に変わります。慈しみの心さえあれば、生き方そのものが、そのまま正しい生き方になってしまうのです。
お釈迦さまは「瞬間でも慈しみの心を育てなさい。それだけでも立派なことである」と説かれました。慈悲の心がなければ、もはや仏教ではないといってもいいと思います。慈悲は仏教の真髄なのです。しかし、慈悲の心はなにもせずに放っておいて生まれてくるものではありません。努力して育てていくものです。
お釈迦さまは、日常のなかで実践できるものとして、「慈悲の瞑想」を教えました。慈悲の心を育てるには、まず「自分自身が幸せでありたい」ということを、よく確認しなければなりません。そしてつぎに「自分だけが幸せでいられるはずはない」という当たり前の事実に気づくことです。自分の幸せは、周りの人びとの幸せがあってこそ成り立つのです。
慈悲の瞑想とは、どんなときにも心のなかで「すべての生命が幸福でありますように」と念じていくものです。まず「自分の幸せ」、つぎに「親しい人の幸せ」、そして「親しくない人の幸せ」「嫌いな人の幸せ」「自分を嫌っている人の幸せ」、最後に「生きとし生けるものすべての幸せ」を念じるのです。そして、できるだけ怒らないようにしていかなければなりません。ひとたび怒ったならば、慈悲の心はたちまち消えてしまいます。
「わたしを嫌っている人も幸せでありますように」「わたしが嫌いな人も幸せでありますように」と念ずるときには、やはり腹が立ったりするかもしれませんが、がまんして念じるのです。するとそのうちに、「あの人も、この人も幸せであってほしい」という気持ちになってきます。「みんなが幸せであってほしい。どうして、あの人たちは苦しんでいるのだろう」と、他人にたいする心の視野が広くなってくるのです。慈悲の瞑想が深まっていきますと、親しい人の幸せを念ずるときには、どんどん人数がふえていきます。
「生きとし生けるものが、幸せでありますように」と、朝から晩まで、寝ていても思いだせるほどに念じていくのです。
そうすると、自我中心の心が、徐々に、慈しみの心に変わっていきます。次第に人生の悩みや苦しみも消えていきます。こうして、慈悲の心が育つとやさしい心になっていくのです。人の幸せを喜べるような心になっていきます。それこそが、エゴを乗り越える道なのです。
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「ダンマパダ」とは、「真理のことば」という意味です。わたしは「お釈迦さまのことばにいちばん近い経典」と言われるパーリ語の「ダンマパダ」を日本語に直訳し、一人でも多くの人にお釈迦さまの教えを伝えたい、と願っています。
お釈迦さまの教えを「一日一話」というかたちでまとめ、それぞれにわたしの説法を添えました。大切なことは、お釈迦さまの教えを少しずつでも実践することです。そうすれば、人生の悩みや苦しみを乗り越えていくことができるでしょう。
アルボムッレ・スマナサーラ
バックナンバー「 原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話」