2013-04-26 Fri
日本テーラワーダ仏教協会 の紹介です
#jtba「気をつけるべき行動」【5つの戒律「②不偸盗戒」について】
パーリ語『Adinnādānā veramaṇī sikhāpadaṃ samādiyāmi.』
読み:アディンナーダーナー ヴェーラマニー スィッカー パダン サマーディヤーミ。
意味:「与えられていないものを取らない」という戒めを、私は受けて守ります。
「偸盗」という漢訳仏教語はたいへん難関な印象があります。「盗むなかれ」という戒めです。私たちは「盗み」の罪といえば、銀行強盗のようにスケールが 大きい犯罪をイメージしてしまいます。もっと小さな盗みの場合でも、会社の横領事件とか、子供がいたずら気分で犯す万引きくらいのものでしょう。
そうすると、「自分とは関係ない話かな」という気分になりますね。そんなことは社会常識として当たり前なので、とりたてて仏教徒の戒めとする必要はあるのか、という疑問も生じるかもしれません。話はそう簡単には済まないのです。
パーリ語では、不偸盗の定義は「与えられていない(他人の)ものを取らない」になります。「盗む」というと、だれかほかの人がいないと成り立ちません。 それなら、人がいないところでいる限りは、その戒律を守っていることになります。そうなると、人がいないところでいればいるほど、徳を積むことにもなりま す。なにかおかしいでしょう?
ここで不偸盗の意味を理解するめに、「与えられていないものを取らない」という言葉を変えて、考えてみましょう。与えられたものを取る権利はあるのです。使用する権利もあるのです。「自分に使用する権利がないもの」と言えるのは、自分に与えられていないものなのです。
人は、すべて他からいただくもので生きています。この身体さえも、他者から与えられたものなのです。親が身体を与えて、食べ物まであげて、大きく成長さ せたのです。与えられた身体だから、自分にはこの身体を使用する権利がある。だから、人はだれでも「与えられたもの」で生きていかなくてはいけない。それ は基本的な法則です。与えられていないのに、奪うことは自分勝手なわがままな行為であるだけでなく、法則まで犯していることになるのです。
いっぱいいただいて、それなりに生きていられることに感謝するべきなのに、その正反対に奪うという行為は、あまりにも悪いのです。仏教でいう不偸盗とは、与えられていないものを取らない、奪わないことです。それはつまり、法則に従って生きることなのです。
私たちは自分たちの体を維持して生きるために、外部から様々なものを取り入れなくてはなりません。外部から物質的、感覚的、精神的な刺激を絶えず取り入 れることが、「生きること」です。生命は普遍的に「死を避けたい」という感覚をもっています。生命ならば、生きるために外部から様々なものを取り入れる権 利があるのです。
しかし、取り入れるものは「与えられたもの」でなければならないのです。つまり、自分が外部の世界にそれなりの貢献をした結果として、いただくものでなければならない、ということです。
ですから、会社に勤めている人であっても、仕事をさぼって給料だけいただこうとしたら、それは盗みです。労働者は労働法で保護されているんだから、だら だら仕事をしても同じ給料をもらう権利があるんだ、と言ってもそれは真理の世界とは関係ありません。同じように、雇い主が人に仕事を頼んでおいて適切な報 酬を払わないことも「盗み」です。
生きるために必要な「もの」はもたなければならないのです。それを得るために、必要ななにかを社会に貢献するのです。社会に貢献することで、社会から必要なものを得る。このような生き方ならば、不偸盗の戒を守っていることになります。
・生きるとは取り入れること
・一人分の適量を考える
・適量以上のものを要求しない
・たくさん得た分は、分けてあげるべき分
(書籍「テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え」より抜粋)
『ダンマパダ308』
戒を守らず 自制せず
天下の施食(せじき)受けんより
赤き炎に焼かれたる
熱鉄丸を喰(は)むがよし(和訳 江原通子)
▼参考テキスト
「テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え」
http://amzn.to/8YDWCB
「仕事とはどんなもの?~盗取受用の話~」
http://bit.ly/IrafSz
「香り盗人の話」(ジャータカ物語)
http://bit.ly/ZjOKzs
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
パーリ語『Adinnādānā veramaṇī sikhāpadaṃ samādiyāmi.』
読み:アディンナーダーナー ヴェーラマニー スィッカー パダン サマーディヤーミ。
意味:「与えられていないものを取らない」という戒めを、私は受けて守ります。
「偸盗」という漢訳仏教語はたいへん難関な印象があります。「盗むなかれ」という戒めです。私たちは「盗み」の罪といえば、銀行強盗のようにスケールが 大きい犯罪をイメージしてしまいます。もっと小さな盗みの場合でも、会社の横領事件とか、子供がいたずら気分で犯す万引きくらいのものでしょう。
そうすると、「自分とは関係ない話かな」という気分になりますね。そんなことは社会常識として当たり前なので、とりたてて仏教徒の戒めとする必要はあるのか、という疑問も生じるかもしれません。話はそう簡単には済まないのです。
パーリ語では、不偸盗の定義は「与えられていない(他人の)ものを取らない」になります。「盗む」というと、だれかほかの人がいないと成り立ちません。 それなら、人がいないところでいる限りは、その戒律を守っていることになります。そうなると、人がいないところでいればいるほど、徳を積むことにもなりま す。なにかおかしいでしょう?
ここで不偸盗の意味を理解するめに、「与えられていないものを取らない」という言葉を変えて、考えてみましょう。与えられたものを取る権利はあるのです。使用する権利もあるのです。「自分に使用する権利がないもの」と言えるのは、自分に与えられていないものなのです。
人は、すべて他からいただくもので生きています。この身体さえも、他者から与えられたものなのです。親が身体を与えて、食べ物まであげて、大きく成長さ せたのです。与えられた身体だから、自分にはこの身体を使用する権利がある。だから、人はだれでも「与えられたもの」で生きていかなくてはいけない。それ は基本的な法則です。与えられていないのに、奪うことは自分勝手なわがままな行為であるだけでなく、法則まで犯していることになるのです。
いっぱいいただいて、それなりに生きていられることに感謝するべきなのに、その正反対に奪うという行為は、あまりにも悪いのです。仏教でいう不偸盗とは、与えられていないものを取らない、奪わないことです。それはつまり、法則に従って生きることなのです。
私たちは自分たちの体を維持して生きるために、外部から様々なものを取り入れなくてはなりません。外部から物質的、感覚的、精神的な刺激を絶えず取り入 れることが、「生きること」です。生命は普遍的に「死を避けたい」という感覚をもっています。生命ならば、生きるために外部から様々なものを取り入れる権 利があるのです。
しかし、取り入れるものは「与えられたもの」でなければならないのです。つまり、自分が外部の世界にそれなりの貢献をした結果として、いただくものでなければならない、ということです。
ですから、会社に勤めている人であっても、仕事をさぼって給料だけいただこうとしたら、それは盗みです。労働者は労働法で保護されているんだから、だら だら仕事をしても同じ給料をもらう権利があるんだ、と言ってもそれは真理の世界とは関係ありません。同じように、雇い主が人に仕事を頼んでおいて適切な報 酬を払わないことも「盗み」です。
生きるために必要な「もの」はもたなければならないのです。それを得るために、必要ななにかを社会に貢献するのです。社会に貢献することで、社会から必要なものを得る。このような生き方ならば、不偸盗の戒を守っていることになります。
・生きるとは取り入れること
・一人分の適量を考える
・適量以上のものを要求しない
・たくさん得た分は、分けてあげるべき分
(書籍「テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え」より抜粋)
『ダンマパダ308』
戒を守らず 自制せず
天下の施食(せじき)受けんより
赤き炎に焼かれたる
熱鉄丸を喰(は)むがよし(和訳 江原通子)
▼参考テキスト
「テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え」
http://amzn.to/8YDWCB
「仕事とはどんなもの?~盗取受用の話~」
http://bit.ly/IrafSz
「香り盗人の話」(ジャータカ物語)
http://bit.ly/ZjOKzs
~生きとし生けるものが幸せでありますように~