2014-02-13 Thu
協会のfbより紹介です。
#jtba「人々が求めること~社会に与えるべきもの~」
日本の宗派仏教では、日蓮宗や浄土真宗が大きな組織かもしれませんが、一般人の間で外国人がまで知っているのは「禅」でしょう。「お寺」と言ったとたん「禅」を思い浮かべる人は多いと思います。
では、どうして「禅」なのでしょう。坐禅なんてつまらないし、座ってもいられないのに、なぜみんなが興味あるのかといったら、結局は「役に立っている」からなのです。
学校も、宗教に対しては特定のものを取り上げにくい事情がありますが、坐禅堂には生徒たちを連れて行ったりします。落ち着きのない年頃の子どもに、落ち 着きを身につけさせたりする「効き目」があるからです。実際的な効果があるから、「『南無妙法蓮華経』を唱えるよりも坐禅を組もうか」という話になりま す。
ニューヨークでは浄土真宗のお寺でも坐禅を組んでいる場合があるそうですが、日本仏教でも、禅宗の坐禅修行だけは、なんとなく宗派の枠を取り払えている感があります。ここに、日本仏教が立ち上がれるヒントがあります。
「学校の授業で教えられない何かを、日本仏教で教えられる」ということです。教育の場で宗教を実践する場合、問題になるのは「宗派」です。西洋でも宗教 と教育はできるだけ離したいと政治家は思っていますが、それはやはり宗派の問題があるからです。ある宗派の教えばかりを子どもたちに教えるのは問題です。 子どもたちには自由に考えて、何か信仰するなら自分で選択できるようにする必要があります。ある宗教が学校に割り込んで、自分たちの教えばかり教え込むの うは「侵害」です。
では、学校で何を教えるべきなのでしょうか。それは「どう生きるべきか」なのです。ポイントは、「人生は、パンだけでは、食べることだけでは、完璧に幸 福にならない」というところなのです。聖書でも「人はパンだけで生きるのではない」ということを言っていますね。「パン」にはいろいろな意味が含まれてい ます。俗世間のこと、お金があることや家があること、家族がいること、全部「パン」です。そして、「それだけでは成り立ちませんよ」という、「パン」以外 のところが本来は宗教の仕事なのです。つまり、「正しい生き方とは」と教えることです。
人は、パンだけでは心に喜びを得られません。お金だけが儲かっても虚しくなります。そして、「正しく生きる」ということは、宗教にしか教えられません。なぜなら、それは塾で教えても商売にならないからです。
とにかく「いくら儲かるのか」と考えるのが俗世間です。例えば、世間では人間の管理・マネジメントについては教えていますね。社長や上司が部下をいかに マネジメントするのか、工場で能率を上げるためにどうやって社員の精神状態をよい状態に保つのかなどを研究しています。それは実は、「いくら儲かるのか」 という話です。社員を大切に思う慈しみとは違います。
経営側は、本音では「工場の人々には、できればロボットのように黙々と働いてもらいたい。とにかくたくさん品物を作ってほしい」と思っています。しか し、そうはいきませんから、マネジメントが必要とされるのです。よく働いてもらえるように、「レクリエーションや娯楽を取り入れましょう」「年に一度は海 外へ社員旅行をしましょう」などというご機嫌とりの企画を立てます。生産効率を上げるために、さまざまな工夫をするということです。「いくら儲かるのか」 という話なのです。
俗世間で「いかに人間関係を持つべきか」と教えているのは、「どう生きるのか」を考えてのことではなくて、あくまで商売上の必要性からです。「いかに利益をあげるか」という目的でやっていますから、人を愛する、慈しむという世界からは遠いのです。
ですから、今の時代にあっても、人間に生きる道を教えるのは宗教の仕事です。日本仏教の役目は、儀式・儀礼ではなくて、「どう生きるべきか」を教えるこ と。また、宗教自らが基本的に人間を、生命を慈しみ、その精神を広めていくことです。儲かるためのものではありません。決して商売になり得ないのが宗教で す。
科学がいくら発達した現代でも、勉強してそれらの知識がいくらあっても、生きているのは人間です。人間と人間とのコミュニケーションによって仕事も成り 立ちますし、お金も儲かります。科学者は科学だけでは食べていけません。その科学者の科学が人の役に立つならば、そこで仕事として成り立ち、給料をもらう ことになります。ですから、「どう生きるべきか」「人間の生き方は何なのか」ということは、科学と一緒に学校で教えるべきなのです。
教えるべき「どう生きるべきか」は、信仰と関係がありません。逆に宗派を押しつけようとすると、みんな逃げていきます。実際に教育現場で、例えば浄土真宗のお坊さんが、あえて浄土真宗を教えようとしても、生徒はすぐに興味をなくすでしょう。
ですから、人間誰もが必要としている品物、「どう生きるべきか」「怒り・感情をどう管理するのか」「自分の能力をどうやって向上させるか」まとめれば 「人間はどう生きるべきか」ということですが、それこそが「売れる商品」なので、それを広めようとすればよいのです。これなら教えても侵害になりません。 法律違反でもありません。
教育現場で日本仏教がどう生かされるかは大きな問題ですし、私は影響力ある立場ではありませんが、初期仏教を教えている身から言うと、「ブッダの教えな ら、宗教と関係なく、どこででも教えられます」と言えます。「生きることはどういうことか」「貪瞋痴はどんな働きをしているのか」「平等って何なのか」 「仲良くするというのはどういうことか」「どうして仲良くする必要があるのか」「親と自分はどんな関係なのか」「先生と自分はどんな関係なのか」など、い くらでもありますから。これらは全部役に立つ教えでしょうし、生徒が知りたいことでもあるでしょう。売れる商品です。
つまりは「信仰は問わない、内容は普遍的である」ということなら良いのです。それは日本仏教にもできることです。教える先生がどの宗派に属していても、関係なく教えられます。
日本仏教はこれからどんどん社会に入っていく必要がありますから、お坊さんたち側にもそれなりの準備は必要です。一般人が「仏教とは何ですか?人生には どんなふうに役に立ちますか?」と聞いてきたときに、答える準備をしておかなくてはいけません。「生きるためにどうするか」という部分について、日蓮や弘 法大師の教えでは役に立つものが得られないのであれば、ブッダから学ぶしかないでしょう?
そもそも仏教は、日蓮の教えではなくて、弘法大師の教えでもなくて、もともと、ブッダの教えであったということを共通認識として再確認してほしいので す。別に宗派があるのはいいのですが、「すべての宗派を一つの傘でまとめるのは、釈迦牟尼仏陀以外にない」ということです。
ブッダは社会に普遍的な真理を語りましたし、人間に生きる道を教えました。その部分はブッダ本来の教えとしてまとめて、あとは各宗派でいろいろと異なる信仰を、ということであれば、うまく共存できると思います。
そして、実際の社会の場で、学校の授業でも、子どもたちにも分かるように、相手に合わせて「どう生きるべきか」という売れる商品を上手に売っていくので す。上手に売れる工夫をいろいろしていけば、日本仏教は大いに活性化するでしょう。一般の方に、「お寺も頑張っているな」と伝われば、それが社会に対して 模範にもなります。
●イラスト:髙橋優子
▼参考テキスト
真理のききめ
http://amzn.to/1m4sruc
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪
日本の宗派仏教では、日蓮宗や浄土真宗が大きな組織かもしれませんが、一般人の間で外国人がまで知っているのは「禅」でしょう。「お寺」と言ったとたん「禅」を思い浮かべる人は多いと思います。
では、どうして「禅」なのでしょう。坐禅なんてつまらないし、座ってもいられないのに、なぜみんなが興味あるのかといったら、結局は「役に立っている」からなのです。
学校も、宗教に対しては特定のものを取り上げにくい事情がありますが、坐禅堂には生徒たちを連れて行ったりします。落ち着きのない年頃の子どもに、落ち 着きを身につけさせたりする「効き目」があるからです。実際的な効果があるから、「『南無妙法蓮華経』を唱えるよりも坐禅を組もうか」という話になりま す。
ニューヨークでは浄土真宗のお寺でも坐禅を組んでいる場合があるそうですが、日本仏教でも、禅宗の坐禅修行だけは、なんとなく宗派の枠を取り払えている感があります。ここに、日本仏教が立ち上がれるヒントがあります。
「学校の授業で教えられない何かを、日本仏教で教えられる」ということです。教育の場で宗教を実践する場合、問題になるのは「宗派」です。西洋でも宗教 と教育はできるだけ離したいと政治家は思っていますが、それはやはり宗派の問題があるからです。ある宗派の教えばかりを子どもたちに教えるのは問題です。 子どもたちには自由に考えて、何か信仰するなら自分で選択できるようにする必要があります。ある宗教が学校に割り込んで、自分たちの教えばかり教え込むの うは「侵害」です。
では、学校で何を教えるべきなのでしょうか。それは「どう生きるべきか」なのです。ポイントは、「人生は、パンだけでは、食べることだけでは、完璧に幸 福にならない」というところなのです。聖書でも「人はパンだけで生きるのではない」ということを言っていますね。「パン」にはいろいろな意味が含まれてい ます。俗世間のこと、お金があることや家があること、家族がいること、全部「パン」です。そして、「それだけでは成り立ちませんよ」という、「パン」以外 のところが本来は宗教の仕事なのです。つまり、「正しい生き方とは」と教えることです。
人は、パンだけでは心に喜びを得られません。お金だけが儲かっても虚しくなります。そして、「正しく生きる」ということは、宗教にしか教えられません。なぜなら、それは塾で教えても商売にならないからです。
とにかく「いくら儲かるのか」と考えるのが俗世間です。例えば、世間では人間の管理・マネジメントについては教えていますね。社長や上司が部下をいかに マネジメントするのか、工場で能率を上げるためにどうやって社員の精神状態をよい状態に保つのかなどを研究しています。それは実は、「いくら儲かるのか」 という話です。社員を大切に思う慈しみとは違います。
経営側は、本音では「工場の人々には、できればロボットのように黙々と働いてもらいたい。とにかくたくさん品物を作ってほしい」と思っています。しか し、そうはいきませんから、マネジメントが必要とされるのです。よく働いてもらえるように、「レクリエーションや娯楽を取り入れましょう」「年に一度は海 外へ社員旅行をしましょう」などというご機嫌とりの企画を立てます。生産効率を上げるために、さまざまな工夫をするということです。「いくら儲かるのか」 という話なのです。
俗世間で「いかに人間関係を持つべきか」と教えているのは、「どう生きるのか」を考えてのことではなくて、あくまで商売上の必要性からです。「いかに利益をあげるか」という目的でやっていますから、人を愛する、慈しむという世界からは遠いのです。
ですから、今の時代にあっても、人間に生きる道を教えるのは宗教の仕事です。日本仏教の役目は、儀式・儀礼ではなくて、「どう生きるべきか」を教えるこ と。また、宗教自らが基本的に人間を、生命を慈しみ、その精神を広めていくことです。儲かるためのものではありません。決して商売になり得ないのが宗教で す。
科学がいくら発達した現代でも、勉強してそれらの知識がいくらあっても、生きているのは人間です。人間と人間とのコミュニケーションによって仕事も成り 立ちますし、お金も儲かります。科学者は科学だけでは食べていけません。その科学者の科学が人の役に立つならば、そこで仕事として成り立ち、給料をもらう ことになります。ですから、「どう生きるべきか」「人間の生き方は何なのか」ということは、科学と一緒に学校で教えるべきなのです。
教えるべき「どう生きるべきか」は、信仰と関係がありません。逆に宗派を押しつけようとすると、みんな逃げていきます。実際に教育現場で、例えば浄土真宗のお坊さんが、あえて浄土真宗を教えようとしても、生徒はすぐに興味をなくすでしょう。
ですから、人間誰もが必要としている品物、「どう生きるべきか」「怒り・感情をどう管理するのか」「自分の能力をどうやって向上させるか」まとめれば 「人間はどう生きるべきか」ということですが、それこそが「売れる商品」なので、それを広めようとすればよいのです。これなら教えても侵害になりません。 法律違反でもありません。
教育現場で日本仏教がどう生かされるかは大きな問題ですし、私は影響力ある立場ではありませんが、初期仏教を教えている身から言うと、「ブッダの教えな ら、宗教と関係なく、どこででも教えられます」と言えます。「生きることはどういうことか」「貪瞋痴はどんな働きをしているのか」「平等って何なのか」 「仲良くするというのはどういうことか」「どうして仲良くする必要があるのか」「親と自分はどんな関係なのか」「先生と自分はどんな関係なのか」など、い くらでもありますから。これらは全部役に立つ教えでしょうし、生徒が知りたいことでもあるでしょう。売れる商品です。
つまりは「信仰は問わない、内容は普遍的である」ということなら良いのです。それは日本仏教にもできることです。教える先生がどの宗派に属していても、関係なく教えられます。
日本仏教はこれからどんどん社会に入っていく必要がありますから、お坊さんたち側にもそれなりの準備は必要です。一般人が「仏教とは何ですか?人生には どんなふうに役に立ちますか?」と聞いてきたときに、答える準備をしておかなくてはいけません。「生きるためにどうするか」という部分について、日蓮や弘 法大師の教えでは役に立つものが得られないのであれば、ブッダから学ぶしかないでしょう?
そもそも仏教は、日蓮の教えではなくて、弘法大師の教えでもなくて、もともと、ブッダの教えであったということを共通認識として再確認してほしいので す。別に宗派があるのはいいのですが、「すべての宗派を一つの傘でまとめるのは、釈迦牟尼仏陀以外にない」ということです。
ブッダは社会に普遍的な真理を語りましたし、人間に生きる道を教えました。その部分はブッダ本来の教えとしてまとめて、あとは各宗派でいろいろと異なる信仰を、ということであれば、うまく共存できると思います。
そして、実際の社会の場で、学校の授業でも、子どもたちにも分かるように、相手に合わせて「どう生きるべきか」という売れる商品を上手に売っていくので す。上手に売れる工夫をいろいろしていけば、日本仏教は大いに活性化するでしょう。一般の方に、「お寺も頑張っているな」と伝われば、それが社会に対して 模範にもなります。
●イラスト:髙橋優子
▼参考テキスト
真理のききめ
http://amzn.to/1m4sruc
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪