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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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#jtba「こころのセキュリティーは大丈夫ですか?その2」





協会のfbより紹介です。





#jtba「こころのセキュリティーは大丈夫ですか?その2」

●智慧の扉をひらく鍵「死随念」
「人は死ぬ。自分も死ぬ。他の生命だってみんな死ぬ。そんなことは当たり前ではないか、誰でも知っていることではないか、それがなぜ冥想になるのです か?」と文句を言う人もいるでしょう。問題は、 そういうことを真剣に考えているのかどうかという点です。言葉の上ではわかる、理屈としてそれはわかると思います。でも、自分や、自分の家族などの死に直 面すると、この当たり前だろうといっていた言葉はきれいに忘れてしまって、「ああ、不幸だ」「神様、なんとか助けてください」などと取り乱したりするのです。

 人は、なぜ死について語りたがらないのでしょう?人が死ぬと、なぜ不幸だと思うのでしょう?どうして、死を怯えるのですか? なぜ、夫や妻、親しい人の死を認めようとしないのでしょう?人間は心のどこかで、「死ということは、あってはならない」と思い込んでいるのです。死は不自 然な出来事であると考えているのです。嫌いな人や、イヤな人の死は喜んだり歓迎したりしますが、親しい人の死は悲しい辛い出来事だと思っているのです。

「人はみんな死ぬ、当たり前ではないか」と嘯いている人たちは、実はこういう、自分に関係のない人が死んだときにそんなふうに言っているのです。そういう 人は、一見世の中のことをわかっている智慧のある人のように見えますが、それはとんでもない嘘で、むしろ智慧がない人なのです。関係のない人に起きた不幸 は、いつかは自分の身の回りにも起こることですから、そういうことを見越さないでわかったようなことを言うのは智慧のない証拠です。しかも、そういう人に 限って自分の身内や自分自身が死に直面するときに怯えたり、慌てふためいてオロオロしたりするのです。

他人の死に対して「人はだれでも死ぬ」と智慧のありそうな態度をとるのは、逆に言えば「自分にはそういう不幸は起こるはずがない」というまったく非論理的で、無知な考えに支配されているのです。これは、傲慢の見本のようなものです。

●「死随念」冥想法の不思議
「人はだれでも死ぬ」と知ったようなことを言う人のことを無知であると非難しましたが、実は、人間はだいたいみんな同じように考えているのです。私たちの 人生、生活そのものは、「自分は死ぬはずがない」という前提のもとに成り立っているのです。一所懸命に勉強するのも、好きな人と結婚するのも、大して面白 くもない仕事に精を出して頑張るのも、みんな「私は死にません」という前提があるからです。人を蹴落としても自分の財産を殖やすことに腐心したり、ライバ ルを中傷したりして自分の地位にしがみつくのも、みんな「自分は死なない」という思いがあるからです。

 ところが、こういう思いを実現するだけでも私たちはものすごいエネルギーと能力を使わなくてはなりません。そのエネルギーの消費は、自分の幸福の計画実 践に使うときの量の何十倍も、何百倍もかかるのです。危険を避けるため、安全を確保するため、競争相手を抑えるため、敵を倒すため、死を避けるためにどれ だけのエネルギーを使わなくてはならなくなるのか。

「自分は死なない」という前提は、人個人だけのことではありません。会社同士、政治の世界、スポーツの世界、民族同士がみんなこの前提のもとに成り立っているのです。自国の利益を守るためといって国同士が戦争までするのも同じ理屈です。

 そんなに苦労して頑張っているのだから、さぞかし皆さんは幸福になっているのだろうと思って、「皆さん、幸福ですか?」と訊いてみると、それがあにはか らんや、「なんとか生きていることは生きているんですが」などと、なんとも頼りない返事が返ってくるのです。なぜ、そういう答えしか返ってこないのでしょ う。

 それは、「生命はみんな死ぬのに自分だけは死なないと頑張って死を認めない」「不死になる夢ばかり追って、不死の秘薬と言われると大金を払っても手に入 れようとする」「延命をはかるなら どんなことでも、犯罪でも人を殺してでも自分の生命を守ろうとする」「自分の命が愛しく、そのためなら相手がどうなろうとかまわない」といったふうに、自 然に逆らって生きようとするために無駄な労力、エネルギーを使わなくてはならなくなるのです。これが、人間社会の常識となっているのです。

仏教から見れば、なんとも非論理的で、非常識で、幸福をもたらすためには逆になる発想であり、すべての不幸、苦しみを生む大元であると言うのです。

●「死の観察」で心は180度変わる
 仏陀はいつでも「死」を観察しなさいと説かれています。事実から目を逸らすことはいけないと言われるのです。「自分にとってこの自分ほど愛しいものはな い、自分以上に可愛いものはこの世にはない」という概念はだれにもありますし、仏説にもなっています。その愛しい、可愛い自分がこの世からなくなる、死ぬ というのは、なんとしても避けたいことでしょう。認めたくないことでしょう。それは、わかります。

 でも、そこで思考をストップさせるのはいけません。その段階は、人間の欲の発想であり事実に則した見方ではないからです。その先にある事実を見なければ いけません。それは、「命あるものは一つの例外もなく死ぬ」ということです。その事実から目を逸らし「自分は死なない」と考えている人間は大変な愚かもの であり、またその発想で人生を生きている人は、最強の無知なる存在であると言わなければなりません。無知な人ほどいろいろと罪を犯します。無知な人がさま ざまな人々に迷惑をかけ、他人を不幸に陥れます。その結果、さらに自分を不幸にし、人生で失敗を繰り返してしまうのです。

ところで、「自分も他人もみんな結局死んでしまうのだ」と観察することは、人生を暗くするでしょうか。どうせ死ぬのだからという見方は、厭世的になり無気力な思考を生むことになるのでしょうか。それは、まったく違うのです。

人間はいとも簡単に死んでしまうということを理解したとき、その人はこの世を生きていくことはとても大変なことであり、一瞬一瞬を大切に生きていかなけれ ばならないということを納得するのです。自分も死に、他人も同じように死ぬということが、理屈でなく実感として理解できると、他人に迷惑をかけることや、 むやみやたらに暴力をふるったり、残酷な行為や残忍な思考を巡らしたり、他の生命を脅かすようなことをしなくなります。そういうことまでして、自分だけが 生き延びていくということに興味がなくなっていくのです。

 その代わり、みんなに優しくなってきます。名誉や財産、権力、容貌などに執着しなくなり、いざ死ぬときも落ちついて平安のなかで死を迎えることができる のです。物質的な向上を目指すのではなく、精神的な向上を生きる目的にするようになって、その生き方も明るく、気楽になっていきます。たとえ幸福になって も舞い上がることもなく、また不幸になっても落ち込むこともありません。いつも平安な心で、豊かな智慧が身につき、他人の役に立つ人間として生きていくの です。

▼参考テキスト
【施本】こころのセキュリティー(発行2002年)
http://www.j-theravada.net/dhamma/kokoro-security.pdf
♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪












写真: #jtba「こころのセキュリティーは大丈夫ですか?その2」<br><br>●智慧の扉をひらく鍵「死随念」<br> 「人は死ぬ。自分も死ぬ。他の生命だってみんな死ぬ。そんなことは当たり前ではないか、誰でも知っていることではないか、それがなぜ冥想になるのですか?」と文句を言う人もいるでしょう。問題は、 そういうことを真剣に考えているのかどうかという点です。言葉の上ではわかる、理屈としてそれはわかると思います。でも、自分や、自分の家族などの死に直面すると、この当たり前だろうといっていた言葉はきれいに忘れてしまって、「ああ、不幸だ」「神様、なんとか助けてください」などと取り乱したりするのです。 <br> <br> 人は、なぜ死について語りたがらないのでしょう?人が死ぬと、なぜ不幸だと思うのでしょう?どうして、死を怯えるのですか? なぜ、夫や妻、親しい人の死を認めようとしないのでしょう?人間は心のどこかで、「死ということは、あってはならない」と思い込んでいるのです。死は不自然な出来事であると考えているのです。嫌いな人や、イヤな人の死は喜んだり歓迎したりしますが、親しい人の死は悲しい辛い出来事だと思っているのです。<br><br> 「人はみんな死ぬ、当たり前ではないか」と嘯いている人たちは、実はこういう、自分に関係のない人が死んだときにそんなふうに言っているのです。そういう人は、一見世の中のことをわかっている智慧のある人のように見えますが、それはとんでもない嘘で、むしろ智慧がない人なのです。関係のない人に起きた不幸は、いつかは自分の身の回りにも起こることですから、そういうことを見越さないでわかったようなことを言うのは智慧のない証拠です。しかも、そういう人に限って自分の身内や自分自身が死に直面するときに怯えたり、慌てふためいてオロオロしたりするのです。 <br><br> 他人の死に対して「人はだれでも死ぬ」と智慧のありそうな態度をとるのは、逆に言えば「自分にはそういう不幸は起こるはずがない」というまったく非論理的で、無知な考えに支配されているのです。これは、傲慢の見本のようなものです。<br><br>●「死随念」冥想法の不思議<br>「人はだれでも死ぬ」と知ったようなことを言う人のことを無知であると非難しましたが、実は、人間はだいたいみんな同じように考えているのです。私たちの人生、生活そのものは、「自分は死ぬはずがない」という前提のもとに成り立っているのです。一所懸命に勉強するのも、好きな人と結婚するのも、大して面白くもない仕事に精を出して頑張るのも、みんな「私は死にません」という前提があるからです。人を蹴落としても自分の財産を殖やすことに腐心したり、ライバルを中傷したりして自分の地位にしがみつくのも、みんな「自分は死なない」という思いがあるからです。<br> <br> ところが、こういう思いを実現するだけでも私たちはものすごいエネルギーと能力を使わなくてはなりません。そのエネルギーの消費は、自分の幸福の計画実践に使うときの量の何十倍も、何百倍もかかるのです。危険を避けるため、安全を確保するため、競争相手を抑えるため、敵を倒すため、死を避けるためにどれだけのエネルギーを使わなくてはならなくなるのか。<br><br> 「自分は死なない」という前提は、人個人だけのことではありません。会社同士、政治の世界、スポーツの世界、民族同士がみんなこの前提のもとに成り立っているのです。自国の利益を守るためといって国同士が戦争までするのも同じ理屈です。 <br><br> そんなに苦労して頑張っているのだから、さぞかし皆さんは幸福になっているのだろうと思って、「皆さん、幸福ですか?」と訊いてみると、それがあにはからんや、「なんとか生きていることは生きているんですが」などと、なんとも頼りない返事が返ってくるのです。なぜ、そういう答えしか返ってこないのでしょう。<br><br> それは、「生命はみんな死ぬのに自分だけは死なないと頑張って死を認めない」「不死になる夢ばかり追って、不死の秘薬と言われると大金を払っても手に入れようとする」「延命をはかるなら どんなことでも、犯罪でも人を殺してでも自分の生命を守ろうとする」「自分の命が愛しく、そのためなら相手がどうなろうとかまわない」といったふうに、自然に逆らって生きようとするために無駄な労力、エネルギーを使わなくてはならなくなるのです。これが、人間社会の常識となっているのです。 <br><br>仏教から見れば、なんとも非論理的で、非常識で、幸福をもたらすためには逆になる発想であり、すべての不幸、苦しみを生む大元であると言うのです。<br><br>●「死の観察」で心は180度変わる<br> 仏陀はいつでも「死」を観察しなさいと説かれています。事実から目を逸らすことはいけないと言われるのです。「自分にとってこの自分ほど愛しいものはない、自分以上に可愛いものはこの世にはない」という概念はだれにもありますし、仏説にもなっています。その愛しい、可愛い自分がこの世からなくなる、死ぬというのは、なんとしても避けたいことでしょう。認めたくないことでしょう。それは、わかります。<br><br> でも、そこで思考をストップさせるのはいけません。その段階は、人間の欲の発想であり事実に則した見方ではないからです。その先にある事実を見なければいけません。それは、「命あるものは一つの例外もなく死ぬ」ということです。その事実から目を逸らし「自分は死なない」と考えている人間は大変な愚かものであり、またその発想で人生を生きている人は、最強の無知なる存在であると言わなければなりません。無知な人ほどいろいろと罪を犯します。無知な人がさまざまな人々に迷惑をかけ、他人を不幸に陥れます。その結果、さらに自分を不幸にし、人生で失敗を繰り返してしまうのです。<br> <br> ところで、「自分も他人もみんな結局死んでしまうのだ」と観察することは、人生を暗くするでしょうか。どうせ死ぬのだからという見方は、厭世的になり無気力な思考を生むことになるのでしょうか。それは、まったく違うのです。<br><br> 人間はいとも簡単に死んでしまうということを理解したとき、その人はこの世を生きていくことはとても大変なことであり、一瞬一瞬を大切に生きていかなければならないということを納得するのです。自分も死に、他人も同じように死ぬということが、理屈でなく実感として理解できると、他人に迷惑をかけることや、むやみやたらに暴力をふるったり、残酷な行為や残忍な思考を巡らしたり、他の生命を脅かすようなことをしなくなります。そういうことまでして、自分だけが生き延びていくということに興味がなくなっていくのです。<br><br> その代わり、みんなに優しくなってきます。名誉や財産、権力、容貌などに執着しなくなり、いざ死ぬときも落ちついて平安のなかで死を迎えることができるのです。物質的な向上を目指すのではなく、精神的な向上を生きる目的にするようになって、その生き方も明るく、気楽になっていきます。たとえ幸福になっても舞い上がることもなく、また不幸になっても落ち込むこともありません。いつも平安な心で、豊かな智慧が身につき、他人の役に立つ人間として生きていくのです。<br><br>▼参考テキスト<br>【施本】こころのセキュリティー(発行2002年)<br>http://www.j-theravada.net/dhamma/kokoro-security.pdf<br>♪生きとし生けるものが幸せでありますように♪








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