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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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#‎jtba‬【ご紹介】巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」その③





協会のfbより紹介です。





‪#‎jtba‬【ご紹介】巻頭法話「生きているのに生きることを知らない」その③

◆正しい生き方の発見
 お釈迦様は、感情に支配・管理されて、感情のままに、感情の奴隷で生きることに対して、「正しい生き方」というべき新たな方法を見つけたのです。奴隷と して生きるのではなく、自由に生きられる方法・生きることを乗り越える方法を見つけたのです。その方法に、「仏道」と言うのです。

 苦しみを乗り越えるために、仏道を実践しなくてはいけないのです。仏道を実践することが人間にとって唯一の幸福の道であると理解するために、仏道を歩むべきだという意欲を作るために、生きることのカラクリを説明するのです。

 お釈迦様が推薦する正しい生き方とは何でしょうか? それは決して死を避ける目的の生き方ではないのです。世間は死を避ける目的のみで生きているので す。皆、失敗するのです。お釈迦様は、生死を乗り越える方法を推薦するのです。それなら、生存欲と怯えの感情に押されて五欲に依存する、自分の思考・妄想 に依存するだけの生き方をやめなくてはいけないのです。生きるための努力を最低限にするか、ほどほどにするかです。

 それから、生きるとは何かと客観的に観察するのです。感情の奴隷になって生きることをやめるのです。慣れてないことだから初めは難しい作業だと感じるか もしれませんが、やってみれば、奴隷になって生きている生き方よりとても楽な生き方であると発見します。普通の人は決してやらない「いまの自分を観察す る」という実践に、修行とも冥想とも言うのです。

 実践という言葉は正しいのですが、感情に支配されている認識の流れを変えるので、冥想修行であるとも言えるのです。しかし仏教の冥想は、他宗教で説かれている冥想と似ていないのです。似ているのは単語だけです。中身ではありません。

◆流されて生きること
 自分を観察しないでいることは何を意味しますか? 感情のまま、眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法に依存していることになります。流れるままに生きている ことになります。誰でもやっていることなので、何の努力も要りません。生きるために人間が努力しているように見えますが、それは本物の努力ではありませ ん。

 お腹が空いたら、誰だって必死になって食べ物を探すのです。褒めるに値する行為ではありません。国王・大統領・総理などのお偉い人々をはじめ、ホームレ スの方々まで、同じ生き方をしているのです。皆それなりに頑張っているつもりです。しかし生存欲と怯えに流されている生き方です。

 ですから、一般人の生き方はpamāda・放逸と言うのです。生きるとは何かと観察するならば、その行為はappamāda・不放逸と言うのです。お釈 迦様は「比丘たちよ、修行しなさい、放逸に陥ることをやめなさい(jhāya bhikkhu mā pamādo)」と説かれる。

◆自由を目指して精進する
 生きることを観察しようと始めても、簡単に進むわけではないのです。人間のこころに元々、自己観察する能力は無いのです。無始なる過去から、五欲に依存することで、思考・妄想・感情に依存することで生きてきたのです。依存する癖が強すぎなのです。

 そこで、覚悟して精進する必要があります。色声香味触の情報がこころのなかに入ると、こころは酔いつぶれたような感じで混乱するのです。五根に情報が触 れるたびに、こころは揺れ動く・混乱する・冷静さが無くなるのです。これは癖になっているのです。修行を始めた比丘は、「五欲によってこころが振り回され ないように、気をつけなくてはいけない(mā te kamāguṇe bhamassu cittaṃ)」と、お釈迦様が説かれます。

◆計画を立てて苦しむ必要はありません
 次にお釈迦様は、喩えを出して自分の戒めを理解しやすくしています。「不注意で真っ赤に燃えた鉄丸を呑み込んで、内臓が焼けてしまう時、『苦しい、苦し い』と泣くことになってはならない(mā lohagulam gilī pamatto mā kandi “dukkhamida”nti dayhamāno)」と説かれます。私が不注意と書いたのは、「放逸」のことです。生存欲と怯えに押されて、眼耳鼻舌身に色声香味触が触れたい放題触れ るようにすると、こころはどんどん悩み苦しみを感じて、堕落してゆくのです。それに加えて、激しい妄想も回転するので、苦しみが増える一方です。

 しかし、見たいものを見る、味わいたいものを味わう、考えたいことを考える、などは、自分で判断して行うことです。自分が好きでやっている行為なのに、 その結果は悩み苦しみばかりを作るのです。お釈迦様がイメージした喩えは、真っ赤に燃えている鉄の球を喜んで呑み込むことです。呑み込んだら、次の結果 (内蔵が焼けて死に至る苦しみを感じること)は決して避けられません。ということは、放逸で意のままに生きる人の道は、真っ赤に燃えている鉄丸を喜んで呑 み込むような生き方です。

◆修行を勧めるために脅しは要りません
 註釈書では、右のような解説はしていません。放逸で生きている人々は、罪を犯して死後、地獄に堕ちる。地獄では無理やり、溶岩の球を呑み込ませる。その時、地獄に堕ちた生命は「苦しい、苦しい」と泣き叫ぶ。これが註釈書の説明です。

 しかし、「真面目に修行しなかったら死後、地獄に堕ちて苦しむはめになりますよ」という言葉は、人々に修行する勇気を与えるのでしょうか? 一般人は地 獄のことを経験できないので、人の話を聴いて「信じなくてはいけない」のです。信仰をもとにして修行しても、正しく智慧が現れない可能性もあります。仏教 では、輪廻の話があるかもしれません。お釈迦様が説かれたから、輪廻の話は事実かもしれません。悪行為する人々は、地獄に堕ちるかもしれません。

 しかし、一般の方々に、それを確かめる知識能力はありません。地獄の概念を持ちだして修行を勧めることは、他宗教でも行っている「永遠の地獄」の脅しと似ているのです。お釈迦様のこの教えを理解するために、地獄に堕ちることを怯える必要は無いのです。

 いま私たちは、六根に依存して、色声香味触法という対象に振り回されて、奴隷のように生きているのです。生きているのではなく、生存欲と怯えに生かされ ているのです。極端に無知な生き方なのに、私たちはこの生き方を喜んで営んでいるのです。「これこそ、真っ赤に燃える鉄の球を自ら取って喜んで呑み込むこ とである」と理解すれば、修行する勇気が充分に起きてくるのです。無始なる過去からの悪い癖をなくすためには、強い意志が必要です。ですからお釈迦様は、 見事に鉄の球の喩えを出されたのです。<終わり>

●photo:Plutonium pellet by Fastfission~commonswiki〈wikipedia〉
▼参考テキスト
パティパダー巻頭法話
「生きているのに生きることを知らない」~生きるとは感覚依存症です~
http://www.j-theravada.net/howa/howa228.html

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

日本テーラワーダ仏教協会さんの写真









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